★日々行われている授業には、私たち教師に「元気」や「気づき」を与えてくれるすばらしい風景がたくさんあります。そんな風景を体全体で感じる時、そこには必ず素敵なほほえましい子どもの姿があります。大成功を収めた授業、大失敗に終わった授業、意外な展開に胸が高鳴った授業など、それぞれの教師が伝えたい心に残る授業の一コマや、授業があることで輝く学校現場の風景などを紹介します。
【 第13回 】我以外皆我師
〜江南市立古知野北小学校長 水谷 政名〜
「先生の授業は楽しかったです」「いつもおもしろい授業をありがとうございました」。 年度末になり、卒業する学年の学級が用意してくれた色紙に寄せられた言葉である。
20代の頃、「教師として何が楽しいか」と言われたら、「部活動」と「学級経営」、そして、当時何年か担当させてもらった校務分掌の「生徒会」と答えていただろう。そうである。ここに「授業」というものがない。優先順位をつけると、その次に登場するくらいだった。
私が担当する「技術科」の授業は、「ものづくり」をメインとして、それらにまつわる基礎知識を学習する。制作時間を確保したいために、いわゆる「座学」は、要点を中心とした教え込みで進めて行く。ただ座学を「盛り上げる」ために、様々な雑学を交え、驚きや笑いをとりながら進めていた。確かに笑顔が多かった。余談ではあるが、生徒には「どうして部活動や学級担任のときと、そんなに性格が変わるのですか」と言われたほどである。年度末になると色紙に書かれた「楽しい」「おもしろい」は、そんなところであり、授業の本質を評価したものではなかったと思う。
現在、教師の「人口ピラミッド」は、「ワイングラス型」と言われる、いびつな形をしている。ちょうど、30代後半から40代の教員の数が少なく、その世代は、ワイングラスの「ネック」に当たる。私はその世代で、後輩ができることがなく、初任者からの6年間が過ぎ、2校目の学校に異動となった。
2校目の学校は、その地域で学校規模が最も大きい学校であり、生徒は約900人。職員数もかなりの数である。そこで、同じ年に着任した職員の中に、自分より年下がいた。初めて後輩ができたのである。後輩は、前任校で授業に力を入れた実践を重ねているのがすぐに分かった。日頃から教材研究を黙々と行う姿があり、その準備を基に授業が行われている教室前を通ると、子ども達の表情が引き締まっているのだ。授業は、明らかに、自分より「先輩」だった。
そこから猛省し、考え方が変わった。自分なりに授業準備に力を入れるようになった。時代はちょうどWindows98が登場し、インターネットが身近なものになった。幸い、多少なりとも、情報機器を扱えることができたため、分厚いノートパソコンと、ジュラルミンケースに入っているような大きなプロジェクターを用いて、プレゼンテーションソフトを活用しながら授業を進めるようになった。すると、子ども達の表情や反応が変わっていくのが分かった。
その数年後、夏期休業中に参加した中央研修で、堀田龍也先生の講義を受ける機会があった。そこでは、「『書画カメラ』を活用すると良い」という趣旨の講義だった。「目から鱗」の講義だった。今から、十数年前のことである。
この講義を受けて、さらに自分の授業スタイルが変わった。今では当たり前のように使われ、使い勝手の良い書画カメラだが、当時は、大きく仰々しい機器だった。しかし、普通教室で授業を行わないという教科の特性を生かし、特別教室で行う私の授業は、「パソコン、書画カメラ、プロジェクター、マグネットスクリーン」の「4つの神器」を常設し、授業を行った。
やがて「教材を生かすために、機器をどう活用するか」という視点で授業準備も行えるようになり、教材の本質を掘り下げられるようになった。結果、思考を深めさせる授業ができるようになり、本当の意味での「盛り上げる」ことができるようになった。
「先生の授業は分かりやすくておもしろかったです」「先生の授業でエンジニアになることを決めました」。ようやく、そんな言葉が色紙に書かれるようになったのは、新任から10年以上が経ってからである。うれしさより「遅かったな」と、後悔と申し訳なさがこみ上げる自分だった。
ちょうどそのころ、自分が常に意識するようになったのは、作家吉川英治氏が綴った「我以外皆我師」という言葉だった。
「出会う全ての人・物・事から学ぶことがある」という意味のこの言葉は、より貪欲に学ぼうとする自分に変えてくれた。思えば、後輩や堀田先生との出会いがあったからこそ、授業に対する考え方が変わったように思う。そして、生徒の言葉から、教師の授業に対する姿勢を学んだ。どれも、私の師であったのだ。
「我以外」から何を学び、授業に生かすか。授業をする機会は減ってしまったが、そんな姿勢を大切にしながら、今後も研鑽を積んでいきたい。
(2015年11月16日)