★今回から寄稿させていただくことになりました新城市教育委員会教育長の和田守功と言います。「桜梅桃李(おうばいとうり)」とは、ありのままの個々「子供の姿」です。作為的なはたらきかけによってつくられた姿ではなく、無作(むさ)の、もともと一人ひとりの子供のもつオンリーワンの命の輝きが表出された姿です。そんな姿をこよなく愛し続けていきたいというのが私の思いです。そうした考えから、タイトルを「桜梅桃李を愛す」としました。私の教育に対する拙い思いの一端を皆様方にお伝えすることができればとの思いでペンをとらせていただきます。1年間、よろしくお願いします。
【 第9回 】未来を創る「後かたづけ」
年の瀬を迎えると、自分をふくめ社会全体が、何かと気ぜわしくなります。やりかけて中途半端になっていること、やりたくてもやれなかったことなど、心にひっかかっているさまざまなことが思い起こされます。加えて、何とか年内にかたづけたいという気持ちがプレッシャーとなります。
だれもが似たようなものだろうと思って職場を見回すと、なかには立派な方がみえます。成績処理はいつまで、通知表はいつまで、子供への渡すものはいつ、さらに、年賀状、大掃除といった私的なことまで、きちんと計画的に進めてみえ、心底、感心します。私には、とても真似できません。ただ、「環境を整える」ことについては、多少、人にも言える程度できるかなと思います。
親や教師の「子供への愛情」と「教育にかける情熱」は、子供の育つ環境である「家」や「教室」に、姿・形として顕れます。家庭環境や教室環境を見れば、親や担任教師の、子供にかける愛情の深さがわかります。環境は、子供の精神的発達に大きな影響を及ぼします。美醜の感性、だんどりの能力、効率や価値の追究能力など、時間の過ごし方、仕事の進め方、人生の楽しみ方など、生涯にわたる「生き方」に深くかかわります。「後かたづけ」「整理整頓」能力が、子供の人生を変えるとしたら、「場を清める、整理整頓・後かたづけ」の力を、いかに育成するかを考えなくてはなりません。生活の「場」の環境は、そこで暮らす「人」の生き方と切り離して考えられません。
教育現場においては、「教室」が「教場(きょうじょう)」にふさわしいたたずまいと雰囲気になっていることです。ちりやごみがなく、机・椅子が整然と並び、本棚やロッカー、下駄箱の履物もきちんとそろえられ、雑巾やごみ箱、掃除道具の周辺もきれいで、黒板もふき清められチョークも並べて立てられ、生花が有り水槽には小魚が泳ぐ、そんな教室環境です。
掲示物も、単に、壁に掲示がされているだけでなく、学級通信などの情報も新しく時宜に張り替えられ、図画や習字の作品も仕上がった内容で教師の温かい評が記され、授業記録にも子供の学びの足跡が見える。教師と子供の学習や生活の息づかいが感じられる掲示です。
教師の「場を清める」気配りが、当り前のこととしてできている「教場」が、「学びの場」のスタートです。そこから、「整理整頓、後かたづけ」のしなやかな感性がはぐくまれ、生き方の基礎が子供に形づくられていきます。教師にも、担任している子供の理解が深まり、教職のやりがい、生きがいが増していきます。
青年教師の時代に、この「教場の感性」を身につけないと、子供にとってかけがえのない「学ぶ環境」を構築できない教師になってしまいます。「場を清める」とは、常に新しく「整理整とん」を心がけ、そこで生活する人々の心が、すみずみまで行き渡るよう配慮できることです。
そして、そのポイントは、「後かたづけ」です。「生きる力」の要素として、先を見通して「だんどりをつける力」があります。この力と「後かたづけの力」は、かなり共通しています。例えば、料理を作るとします。料理の達人は、先の先にする料理まで考えて、食材や調理器具や器を次々と準備しながら、用のすんだものは次々とかたづけつつ、かたづけながら調理を進めます。この効率のよい同時並行的作業を後でまとめてやるとなると、鍋やフライパン、ボールや食器が山となり、たがいの油や調味料で汚れて、かなり余分な時間と労力がかかります。
料理に限らず、トイレ掃除や理科の実験など、生活や学習、仕事や研究のすべてにおいて、かたづけながら先を見通す習慣は、快活に生きる力を、さらにたくましくします。「後かたづけ」は、「終了のけじめ」であると同時に、「次の行動の起点」であることを心に留めおきたいものです。「後かたづけ」は、未来を創ります。さあ、年末の「後かたづけ」にとりかかろう。
(2013年12月17日)