★今回から寄稿させていただくことになりました新城市教育委員会教育長の和田守功と言います。「桜梅桃李(おうばいとうり)」とは、ありのままの個々「子供の姿」です。作為的なはたらきかけによってつくられた姿ではなく、無作(むさ)の、もともと一人ひとりの子供のもつオンリーワンの命の輝きが表出された姿です。そんな姿をこよなく愛し続けていきたいというのが私の思いです。そうした考えから、タイトルを「桜梅桃李を愛す」としました。私の教育に対する拙い思いの一端を皆様方にお伝えすることができればとの思いでペンをとらせていただきます。1年間、よろしくお願いします。
【 第21回 】「新しい物語」が生まれるか
西暦2015年が始まる。皇紀ならば2675年、平成27年である。世界にはさまざまな暦があるが、1年の始まりは、1月1日である。新しい年の十二支は「未」、日本では「羊」である。「羊」を含む漢字には、「善」「美」「義」や「祥」「翔」「鮮」といった良い意味を表す漢字が多い。人の善意が通じ、信義に基づいた政がなされ、美しい人間模様が展開される世の中になってほしいものとつくづく思う。しかし、現実社会では真逆の例も多く、家族・兄弟、あるいは近隣といった足下から「仲良くする」ことから始めていきたいものである。
第二次大戦後70年である。戦争を知らない世代が日本国民の大半を占めるようになり、戦争体験が風化してきている。勝者にとっても敗者にとっても、戦争ほど悲惨なものはない。ノーモア・広島、ノーモア・東京大空襲であり、ノーモア・パールハーバーである。日本だけでなく、中国・韓国をはじめとした世界各国でさまざまなメモリアルイベントが開催されることと思われる。その際、日本人の一人として、日本の視点と諸外国の視点の両方で、どう戦争を評価し、どう子供たちに伝えるかは、重要な課題である。少なくとも、近現代の歴史的事実について、大人がきちんと認識していることが大前提となる。日本の明治維新以降の歴史については、中学2年から3年にかけて社会科で学ぶことになっているが、子供たちにどのような事実を学ばせ何を考えさせるかについては、担当の社会科教師だけでなく全ての教師が現職研修等で研鑽する必要があると思われる。
新城市は市制10周年の節目である。どこの市町村でも10周年、50周年といった節目があり、盛大な記念行事などが計画される。わが町新城市も、旧新城市と鳳来町、作手村が対等合併して10年目を迎える。4月の「2015全国さくらシンポジウムin奥三河」、11月の「全国軽トラ市in新城」はじめ、多くの記念イベントが計画されている。こうした催しも大切だが、歴史も文化も異なる3市町村の人々の心の歩みも残すべき歴史の1ページである。教育現場においても同様であろう。学校の施設設備といった姿形として見えるものは当然のことながら、それぞれの学校で子供や地域の人々の魂を形作ってきた教育の流れこそが貴重な歴史と言える。学校の長い歴史を振り返ってみるとき、学校の勢い、教育の成果、地域との関係に、大きな波があることに気づく。そして、その波が、時の校長や教職員の資質力量によることも推察できる。
学校の教育の歴史を刻む作業は節目に必要な作業である。各小中学校においては、沿革史を作成したり、学校文集を編集したり、学校新聞を綴ったり、それなりの記録を残す作業が行われているが、組織的・体系的にまとめられてはいない。学校統合などにより閉校する学校においても閉校記念誌などが企画されるが、教育内容にまで及ぶことは少ない。そこで、10年、20年といった節目の年において、その歴史をまとめておかないと忘却のかなたに廃棄されてしまう恐れがある。とくに新城市においては、10小学校が3小学校に統合されるという激変の時期にある。また、教育委員会制度も変わり、教育再生実行会議の諮問を受けた国の教育方針も大きな方向転換の最中にある。新城教育の来し方・行く末を見すえて、教育の歴史を総括していくことが、次の時代の教育の展望を拓くものと考える。
年賀状にうかがえる「教育に求める声」に耳を傾けたい。ここ数年、年賀状の数を減らす努力をしているが、それでも400通から500通近くなる。そのなかで、今年散見されたのは、高齢や病気、転居などを機会に、来年から年始の賀状を控えたいというものである。正月の返信書きの労苦を思うと共感もする。ただ、出してくださった方々の面影が偲ばれる文章やその方らしい工夫が賀状に散りばめられた賀状を拝見すると、虚礼ではなく、年に一度の無事と成長を確かめ合う儀式のような気もする。そんななかから3通を紹介したい。
父親となった教え子から。「親の立場になってみると、学校教育の情報発信の乏しさを感じます。“こんな人間に育てるために、こんな教育をします。そのために家庭ではこれをよろしく”というふうにならないものですかね。」
同僚だった行政職員から。「教育で大切なものは、教師の人間力と指導力。そして、小学校での国語の基礎だと思います。」
そして、現職教師から。「一人一人の“生”を支える大黒柱は、あくまでも“家族”である。私たち教師は、子どもたちと向かい合いながら、そんな“家族”の思いにも常に耳をすましていきたい。そう痛感させられる。」
学校からの情報発信、家庭や地域からの情報受信を先のばしするな。情報の交信は信頼の絆づくりに欠かせない。しかし、先ほどの父親の賀状の言葉にもあるように、学校が何のためにどのような教育をするのか、そのために家庭に何を求めるのかといった「学校教育の一丁目一番地」のことすら明確に示していない学校がありはしないだろうか。肝心要が具体的に明示されないまま、漫然と時間を過ごしていたのでは、学校教育に成長はない。機会と時間に符号した情報こそが最も効果的である。「また後で」「またいつか」といった先のばしは厳禁である。先のばししないためには、「目標」に「期限」を設定することが必要である。
まずは、目標を文字にすることから自分の物語が始まる。新しい年を迎えても、単に昨年から今年への時間の延長というのでは何も生まれない。今年は今年なりの自分の目標のもとに行動に移さない限り、前進はない。成長する教師のもとで子供は育つ。先の見えない激動の時代だからこそ、手の届く目標を立てて期限を決め行動に移すことが肝心である。自分の人生のなかで今年しか描くことができない「新しい物語」のプロローグを生み出したいものである。
(2015年1月19日)