★新教育コラム「出会いこそが教師をつくる」開始にあたって
だれしも、教師人生に変化をもたらした、心に残る出会い(人、物、出来事など)があるといいます。このコラムでは、その出会いについてリレー方式で語っていただきます。
【第9回】瀬戸の懐に抱かれて
〜一宮市立大和中学校 山田貞二〜
私の教員としての原点は、「せともの」で有名な「瀬戸」にあります。豊かな自然と人情味に満ち溢れた瀬戸の街で様々なことを学ばせていただきました。特に教員としての芯柱を作ってくださった二人の先生を忘れることができません。
私の教員人生のスタートは、瀬戸市立陶原小学校。岐阜県出身の私にとって瀬戸は、まさに未知の世界でした。この小学校には、運動場が2つあり、裏山も校地になっており、アスレチックやランニングコースが手作りで設置してありました。花壇も各学級に一つずつ割り当てがあり、堆肥や苗作り等、全て手作りで行われていました。この手作りの緑化活動の先頭に立ってみえたのが、柴田健三校長先生(当時)です。
「花づくりは、子どもたちを育てるのと同じで、親身に毎日、手をかけ、目かけ、声をかけ、そして肥料をかけてあげなくちゃいかん。かけすぎてもダメだし、放っておくのもダメ。相手の気持ちを考えながら、愛情をかけてやることだよ。」
「花壇づくりは、学級づくり。花壇の世話ができない人間に学級づくりはできない。花(子ども)が育つ環境をどれだけ担任が準備してやれるか。土づくりや水やり、草むしりなど、花(子ども)が伸び伸びと育つ環境をつくるのが、教師の仕事だ。」
新任初日に先生からいただいた、この2つの言葉が、今でも心に残っています。校地内をトラックで走り、枕木を山に運び、枯れ木を伐採し、花壇の土を入れ替え、毎日のように子どもたちと土にまみれて生活していました。そんな生活の中で、「常に子どもたちの心に寄り添う」という教員としての基本姿勢を先生から学びました。
当時、子どもたちと一緒に緑化作業をしたり、陶原の山林を散策したり、運動したり、焼き芋大会をやったりする中で、子どもたちに、そこから感じたことを詩にさせ、詩集を作ったことも、柴田校長先生の影響があったと思います。詩の学習に、子どもたちも私も夢中になっていました。詩の中に、子どもたちの心が見え、子どもたちと生活するのが楽しくて仕方がなかったことを思い出します。
もう一人、私の授業に対する考え方を変えてくださったのが、同じく、当時、陶原小学校に勤務していらっしゃった矢野桂子先生です。笑顔がとても素敵で、子どもたちとの接し方が大変温かい先生でした。
初任者としての校内の第1回目の研究授業に臨んだときのことです。2年生の国語「たんぽぽのちえ」の読み取りの学習でした。一斉授業の形態で、子どもたちの発言を引き出すこともほとんどなく、理科のような授業を行いました。今思えば、恥ずかしい限りですが、当時は自信満々で研究授業に臨んでいました。
「先生は、この教材を何回読まれましたか。」
研究協議での矢野先生の質問に対して、私は「3回です。」と堂々と答えました。
「それは、教材研究とはいえない。授業を受ける子どもたちがかわいそうです。最低でも10回、教科書が真っ黒になるまで教材研究をして、それから授業に臨まなくては、教師としては失格です。」「子どもたちの顔を思い浮かべながら、指導案はつくらなくてはいけませんね。」
優しい表情の中にも、厳しい一言でした。授業を教師中心で考えていた自分の行動が恥ずかしく、授業に臨む教師としての基本中の基本すら分からない自分の愚かさに気づかされた大切な一言でした。
子どもたちに接する基本姿勢と授業に臨む基本姿勢、2人の先生の言葉は、今も心のよりどころです。瀬戸は、私の第二の故郷です。苦しいことがあると瀬戸の5年間を思い出します。温かい瀬戸の人たちとの思い出は、いつも私の心の支えとなっています。
(2013年1月14日)