愛される学校づくり研究会

★新教育コラム「出会いこそが教師をつくる」開始にあたって

 だれしも、教師人生に変化をもたらした、心に残る出会い(人、物、出来事など)があるといいます。このコラムでは、その出会いについてリレー方式で語っていただきます。

【第2回】私たちの末娘は、勉強ができない
〜一宮市立大和南中学校 伊藤彰敏〜

私たちの末娘は、勉強ができない。
 先天性の心臓病で、義務教育の9年間、登校は昼少し前。授業には半分ほどの参加である。階段の昇り降りでは、担任の先生に負ぶってもらった。行事では車椅子に乗った。
 生まれてから今まで、思いっきり走ったことはない。

小学校3年生の時のことだ。一緒に風呂に入っていて、気がついた。左腕に何箇所か青い痣がある。「どうしたの」と問いかけても、何も答えない。「何か学校であったんだ。ちょっとだけ教えてよ」と何度も尋ねてやっと、「友達にもちされた(つねられた)」と小さな声で答えた。
 かなりのいじめにあっていることが分かった。靴をごみ箱に捨てられたり、机にチョークで「死ね!」と書かれたりした。無視されたりもした。陰でつねられたのは、「あんただけ、どうして先生に負んぶしてもらうの」というひがみが起因しているとのことだった。
 それでも決して学校を休もうとしない娘に聞いてみた。「いじめられても、どうして学校に行くの?」。娘はこう答えた。
 「友達がいるから」。

これも、小学校3年生の時のことだ。国語のテストを珍しく見せにきた。毎回一桁の点数が多く、自分から見せにくることはなかった。37点だった。夏休みの日誌と同じ問題で、これは何人もが100点を取るだろう。「もっと勉強しなくちゃ!」と言いかけた愚かな父親に娘はこう言った。
 「お父さん、見て。こんなに頑張ったよ」。

小学校6年生の時のことだ。養護学校を見学に行き、「この学校にしようか」と尋ねたところ、「この学校は病気の人が多いから、嫌だ」と答えた。地元の中学校の特別支援学級では友達が少なくなってしまうことを心配していたけれども、入学して1か月後には、「この学級が最高。小学校のときから、この学級にしておけば良かった」と笑顔で言った。
 中学校卒業後は、養護学校に進学した。入学して1か月後には、満面の笑みで、こう言った。
 「もう最高。はじめからこの学校にしておけば良かった」。

なんともならない教員である私を、多少なりとも変えてくれたのは、まぎれもなくこの末娘である。何かを伝えるためにこの世に生を受け、私たち家族の元に来てくれた。いつまで預からせてもらえるかは分からないが、この娘との出会いが自分たちの人生を豊かなものにしてくれていることは間違いない。この上ない出会いである。

(2012年2月27日)

出会いこそが教師をつくる

●伊藤 彰敏
(いとう・あきとし)

一宮市立大和南中学校教頭。中学校国語科教員として30年目。「論」のある国語科の授業をめざし、日々実戦(実践)あるのみ。野口芳宏先生ではないが、右手には常に国語科教育をしっかりと握り締めていたい。