★このコラムは、「小牧市教育委員だより」での副島孝先生(前小牧市教育長)の発信を楽しみにしておられた皆さんからの要望で実現しました。「これまでのように学校教育や現場への思いを語り続けてください」という願いをこめて「黙さず語らん」というタイトルにしました。
【 第8回 】失敗した授業から学ぶ
学校に出かけるのは、ほとんど授業研究の時だけです。「良い授業、上手な授業を見せていただく必要はありません。授業後の研究協議会の話し合いの材料を提供していただくだけですから」とはいうものの、授業者にとってかなりのプレッシャーがかかるのはいたしかたないことのようです。
研究協議会での先生方の学びという観点から見ると、成功した授業よりも失敗した授業の方が、議論が深まり、参考になることが多いように感じています。大雑把な言い方をすれば、教材と教師の指導と子どもの学びで授業は成り立っています。参観者が感心するような授業は、参観者にとっては「あの先生のようになりたい」という憧れの対象を持つには役立っても、具体的にここを自分でも試してみようという契機にはなりにくいようです。
3つの要素が複雑に絡まって成り立つのが授業です。うまく行った授業は、それらが全てうまく機能していたのでしょう。だからこそ、どうしても議論が深まりにくいのです。どこにうまく行った原因があったかを話し合うのですが、どうしても「あの先生だから」という気持ちがぬぐいきれないようです。
その点、うまく行かなかった授業は議論が活気づきます。どこに問題があったのか、参観者はそれぞれの立場で考えられます。議論の中で納得できる説明があると、なるほどと感じます。また、そういう観点で分析できていなかった自分の甘さや、思考の幅の狭さを反省する機会ともなります。
ある協議会の例をあげましょう。授業を記録したビデオの中で、子どもたちは意見を活発に発表していましたが、提示された教材の枠の中での議論でしかなく、実生活での体験に結び付いた発言はありませんでした。ここで問題になったことは、授業者自身は子どもたちの体験に基づく話し合いを想定していたかどうかです。
授業者は必ずしもそのような議論を想定していなかったようです。そのことが分かると、何人かの教師が反省を込めて自分の授業での体験を語り始めます。その上で、具体的に個の場面でこういう問いかけをしたら可能だったかもしれないと指摘します。他の教師も同様の、しかも別の自己の経験を基にした提案を行います。
私はすっかり感心してしまいました。授業者が泣くまで厳しく追及するのが研究協議会だ、と言われた時代がかつてありました。しかし、その結果、誰もが授業研究を辛い思い出として、それをできれば二度と経験したくない思い出として語る結果に終わりました。それに対して、決してそのような感情を抱かせることなく、しかも問題点はきっちりと指摘する発言が出されていました。
これらの発言によって目を開かされたのは、授業者だけではありません。現在ではどの学校でも同じ状況ですが、この協議会には新任教師や教師経験の少ない教師あるいは講師や非常勤講師も数多く参加していました。それらの教師にとって、またとない授業の可能性を学ぶ機会ともなっていたのです。
技術的な議論に終始する研究協議会があります。確かに経験の少ない教師にとっては、備えておきたい指導技術があります。それが十分には備わっていない現実もあります。しかし、ここでの議論は、もっと重要な指摘があったと私は感じていました。
子どもたちがうまく学べていない授業があります。教師はここまで到達してほしいと願って教材を準備したのですが、それが子どもには通じなかったのです。ひょっとしたら、教師主導ならある程度可能だったかもしれません。しかし、それで子どものものになったかどうかは疑問です。つまり、教師の説明(論理)によって、そう思いこまされただけかもしれません。
教師の進め方の面と教材の構造の両面から、展開に無理はなかったか? 子どもたちに学ぶ力が育っているか? 考えることは多いのです。そのヒントを教えてくれるのが、うまく行かなかった授業なのです。失敗した授業から学ぶことが多いことを知れば、研究授業で目指さねばならない授業の姿が見えて来るのではないでしょうか。無難な授業より、チャレンジのある授業、むしろどこに問題があり、どこに留意しなければならないかを確認し合える授業です。そんな授業を参観し、話し合えればと願っています。
(2010年7月19日)