★このコラムは、「小牧市教育委員だより」での副島孝先生(前小牧市教育長)の発信を楽しみにしておられた皆さんからの要望で実現しました。「これまでのように学校教育や現場への思いを語り続けてください」という願いをこめて「黙さず語らん」というタイトルにしました。
【 第69回 】教師の仕事は「個業」か「協業」か
1月下旬から2月上旬にかけては、公開授業研究会が続きます。公開授業やその後の研究協議会に参加すると、さまざまなことを感じます。特に感じるのは、「教師の成長」と「学校づくり」ということです。この2つがつながっていると、私は考えているからです。従来の授業研究では、授業者(個人)の成長という観点が強かったように思います。それぞれの教師が成長すれば、結果として良い学校づくりができるという考え方が基本にありました。
しかし、評判の良い先生を集めた学校が、必ずしもそのまま良い学校にはならなかった例は少なくありません。それなのに、どうして個人としての教師の成長を求めてきた(いる)のでしょうか。大学の附属学校とか有名私立学校などは、それに近いことをしています。そういう学校でもさまざまな問題が起こっていることを、今や多くの人が知っています。ひょっとすると、良い先生を集めて学校をつくるなどということが無理なので、憧れのように語られてきただけなのかもしれません。
崩壊気味の学級が、担任が代わってよみがえったなどという経験はあるでしょうが、それでは前の担任は力のない教師だったのでしょうか。これも多くの方がご存知のように、いろいろな事情が絡んでいて、必ずしもそうとは限りません。誰かを悪者して、それ以外のさまざまな要因を考えないようでは、また別のクラスで起こる可能性は高いでしょう。
この問題に関して、別の件の資料のつもりで読んだ今津孝次郎(2012年)『教師が育つ条件』岩波新書に、参考になる概念が示されていました。この本では、多くの者が分担し合って組織的に働く「協業」に対して、一人だけで働く形態を「個業」と名付けて、「教職は一般に『個業』というイメージで受け止められがちである」としています。確かに両面があるとは言うものの、基本的には個業のイメージが強いのは確かでしょう。個人として頑張る先生の話が、研究会などでは目立ちます。
しかし、本当に効果を発揮するのは、職場つまり学校での共同的な取り組み、つまり協業です。学校として取り組むというと、全職員が一枚岩となって同じ対応という感じを受けるかもしれませんが、協業というのはそれぞれが持ち味を出しながら全体として効果を発揮するというものです。生徒指導で大変だった時期を経験している先生方は、本当に指導の効果をあげた学校はこういう学校だったと思い出していただけることでしょう。
しかし、ことは何も生徒指導に限りません。学習指導でも同じだと思います。校内での授業研究や現職教育でも、個人としての力量向上に目が向かっている学校があります。熱心な学校と自他共に任じている学校も少なくありません。当然そのような学校では、子どもの学びよりも教師の指導に焦点が当てられます。一方で、教員個人に対する評価の強化が学校を良くする、と考える社会風潮も強まっています。そこには共通して、個業の集積としての学校教育という思想が、共通して背後にあるのです。協業としての学校教育という考え方なら、別の発想が導かれるはずです。
先日から、私自身がライフヒストリーのインタビューを受けるという経験をしています。ライフヒストリー研究は教師研究の重要な分野で、私自身も興味をもってきました。まさか、私自身が聞き取りをされる対象となるとは思ってもいませんでしたが。教員生活を1年ごとに振り返るという経験は、私にとっても発見をもたらしました。自分では当然と思ってやっていたことを、「どんな考えから、どんな状況からそうしようと思ったのか」と質問されると、その意味を思い出したり、考えてみたりすることになります。
個業と協業という概念から整理してみると、自分自身も教員生活では、個業という意識が強かったと考えていました。しかし、実際にやってきたことを整理されると、意外にも協業に含まれることを継続してやっていたのだと気づかされました。管理職になってからは協業を意識していましたが、それまでは一匹狼を気取っていたつもりだったのです。本人の思い込みほど当てにならないものはないと思い知らされます。
自分の経験には、自分が実践した経験に加えて、それ以後に学んだ(でいる)経験も含まれます。自説に固執することなく、かと言って流行に流されず、正当な批判には耳を傾けながらも事実を見極めながら学び続けたい、と考えているのですが……(そんなことを言って、「本当は面白いと感じているからだろう」って言われそうですけれど)。
(2013年2月4日)