★このコラムは、「小牧市教育委員だより」での副島孝先生(前小牧市教育長)の発信を楽しみにしておられた皆さんからの要望で実現しました。「これまでのように学校教育や現場への思いを語り続けてください」という願いをこめて「黙さず語らん」というタイトルにしました。
【 第52回 】日帰りで四国の研修会に
ときどき思いもよらないところから依頼を受けることがあります。先週は四国の某県の総合教育センターからの依頼で、日帰りで高等学校や特別支援学校の校長先生や教頭先生方を相手に、つまり管理職研修という形で、特別支援教育と協同的な学びについて、話をする機会がありました。私は特別支援教育の専門家ではありませんし、また当初の予定日は都合の悪い日だったので一旦はお断りしました。ところがその後、「それなら日を変える、協同的な学びが特別支援教育にも有効だという内容を期待している」との再度の依頼があったため、出かけることになりました。
私のような者を呼んでいただいたという、センターの指導主事の先生方の問題意識に応えたいという思いがわいてきたからです。何回かのメールのやり取りで感じた、本当に特別支援教育や高等学校の現状にとって必要なことを管理職の先生方に伝えたいという強い願いです。私自身も長年、形だけでない意味のある研修をしたいと思って試行錯誤してきた者ですので、その思いは人一倍伝わって来ました。まして管理職研修は、日頃生徒に接している先生方に対してとは異なる困難さがあることを痛感していましたから。
実際に会場に入ってみると、見事に後ろから席が埋まっていました。参加者の気持ちが如実に現れています。希望参加の研修、特に有料の研究会との違いです。しかし、それは私にとっては織り込み済みの反応です。それならば、たとえ少数でも真剣に考えていただける方を作ろうと、意欲が増しました。
とは言うものの、管理職の先生方を相手に話をするのは慣れているとはいえ高等学校の先生方だけなので、どこまで協同的な学びを理解していただけるか、それよりもまず授業や、授業に困り感を感じている生徒のことに関心を持っていただけるか心配でした。日本中どの地域でも、高等学校には授業研究の習慣がないという共通項があります。それがいけないというより、そういう学校文化があるということです。もちろん高等学校の先生方が、平均すると小中学校の先生方よりも教科内容や教材に対して詳しい知識を持っていることは感じています。しかし問題は、それが生徒への指導には余り生かされていないことです。
私の話は当然ながら、依頼された特別支援教育と協同的な学び(つまり授業)についてです。だから、高等学校の先生、特に管理職の先生方には伝わりにくいと予想していました。そのため、できるだけ内容には工夫したつもりですが、それでも授業研究が一般的でないところで育った先生方が、現状では一般化しているとはいえない協同的な学びを理解することは至難の業です。
ですから話をしながら、先生方の反応を見ることを心がけました。話の節々での反応は、当然ながらさまざまでした。高等学校教育に関する一般的な指摘に反応する先生もみえますし、個別具体的な話に反応する先生もみえます。しかし、協同的な学びの具体的な事例には半信半疑といったところでしょうか。最後に感想を近くの方同士で話し合っていただきました。その後、「こういう自分の感想さえも話す機会のない授業を、1日に6時間も受ける生徒は大変ですね」という話だけは、結構受けました。
これは受けるかもしれないと思った堀裕嗣先生の本から使った、葬式と結婚式の披露宴の比較は、期待したほど受けませんでした。祭壇に向かって黙って座り意味不明なお経を聞くこと(つまり葬式)と、丸テーブルで自由に話しトイレに立つことも自由(つまり披露宴)という授業の「どちらが皆さんの学校の授業でしょうか」というたとえです。ちょっと強烈すぎたのかもしれません。文字で読むのと直接言われることとでは、反応は違うのかもしれません。
とにかく、私にとっては良い機会となりました。また翌日、偶然同じような内容の話をする依頼がありました。お話をする方の対象が異なりますから、当然展開は工夫しなければなりませんが、それでも今回の経験が生かされる場になるはずです。
四国は遠いことは事実でしたが、四国といっても意外に早く行ける方法があり、日帰りも十分可能でした。とはいっても、当初予定されていた金曜日なら、ついでに足を延ばしたいところ、例えば大塚国際美術館などもあったのですが、またの機会ということで今回はあわただしい日程での出張となりました。
(2012年5月21日)