★このコラムは、「小牧市教育委員だより」での副島孝先生(前小牧市教育長)の発信を楽しみにしておられた皆さんからの要望で実現しました。「これまでのように学校教育や現場への思いを語り続けてください」という願いをこめて「黙さず語らん」というタイトルにしました。
【 第51回 】ゴールデンウィークは原稿書き
環境の変化に右往左往していた4月が終わり、ゴールデンウィークでほっと一息というところですが、実はいろいろな仕事があり、いろんな人と会ったり、原稿書きに追われたりと、相変わらずあたふたと時間が過ぎ去りました。全国の社会科関係の先生方が10名ほど集まる会議もあって、久しぶりに社会科の教師時代に戻ったような経験もしました。
佳境?に入ってきたのが、協同的な学びに関する共同執筆本の編集作業です。今回は編集も自分たちでやりますから、お互いの原稿にダメ出しをして、実際には原稿の書き直しを求めるものです。それどころか、「協同的な学び」という言葉というか、概念自体がどう受け取られるだろうかという懸念まで出てきて、書名が決定されていない始末です。
基本的に私達のグループは、余り厳密に「学び合い」か「協同学習」か「協働学習」か「共同学習」かという議論には乗りたくないとの考えから、「協同的な学び」という言葉を使ってきたのですが、この言葉も当然のことながら無色透明の言葉ではないということです。とにかく幼児教育から大学教育までの実践の手引きとなり、加えて理論的な裏付けまでねらうという壮大な計画(といっても、読んでわかりやすく、やってみたいと思ってもらえる内容ですが)ですので、考慮しなければならないことばかりです。
49号にも少し書きましたが、「この書き方では読者には伝わらないよ」という言葉が、 いちばんこたえます。当然のように使っている言葉が仲間内でしか通用しない言葉だというのは、どの分野でもあり得る話だと思います。少なくとも、この本のメインターゲットである学校の先生方に伝わらない本なら、出版する意味がありません。
多くの現職教員を大学院生として指導する西川純氏が、「実践と学術の両方で評価される人は極端に少ない」(『「静かに!」を言わない授業』東洋館出版社)と指摘したように、「実践研究者からは別のタイプの教師を説得する努力をあまり感じることができない」傾向があることは事実のようです。だとすれば、いやしくも学術研究者の端くれならば、「確実に事実を伝える作法を心得ている」必要があります。しかし、それが容易でないことは、誰もが感じていることです。
伝えようとする努力、説得しようとする努力に欠けるということは、「わからない奴には、伝わらなくても仕方がない」ということになります。もっと言えば、それは、「わからない子がいても仕方がない」に通じることになります。すべての子どもたちに理解してほしいというのが、協同的な学びの基本的な考え方です。だからこそ、教師の一方的な説明では無理なので、グループなどを活用した学び合いを組み込むわけです。
つまり、事実を伝える作法というからには、すべての教師にこれだけは伝えたいという気持ちが根底にあるはずです。でも、それは容易なことではありません。だからこそ、お互いの指摘のし合いが必要になります。こんな表現に抵抗を感じるのか、仲間内では当たり前のように使っているこんな言葉が通じないのか、こんなふうに受け取られるか、と改めて指摘されると驚くことばかりです。これまではあまり意識せずに文章にしていたけれど、真意が伝わっていたのか心配になるほどです。
そう言えば、社会科関係の会議でも、社会科や社会科の授業に対する見解の違いが、それぞれの先生方の発言に表れていました。暗記教科であるかのように子どもたちに受け取られている、社会科の現状を憂えるという点では共通しています。ですが、では社会科という教科をどうとららえるかについては、立場は様々であるようでした。
ただ持論をぶつけ合うことが目的ならそれもよいかもしれませんが、実のある何かをまとめることが目的なら、それでは済みません。幸い?にして、その会議は「忌憚のないご意見をいただきたい」という趣旨であったようで、私も含めて皆さん勝手な意見を出し合う結果となりました。これらの意見から今後の方針を打ち出すのは大変だろうなと、心配になるほどでした。
それやこれやで結局は、ゴールデンウィークの大半の時間を原稿書きに費やす結果となりました。しかし、実際に書くとなると、できるだけ伝わるように書こうと言いながら、原稿ごとに読者のイメージをできるだけ具体的に想定して書くくらいのことしかできません。この原稿も含めて、どう受け取られるか心配が増す結果となりました。
(2012年5月7日)