★このコラムは、「小牧市教育委員だより」での副島孝先生(前小牧市教育長)の発信を楽しみにしておられた皆さんからの要望で実現しました。「これまでのように学校教育や現場への思いを語り続けてください」という願いをこめて「黙さず語らん」というタイトルにしました。
【 第39回 】『選挙の経済学』を読んで考えた
時に刺激的な本に出会うことがあります。ここでいう刺激的とは、これまでの概念が覆されるようなという意味です。活字中毒気味の人間ですので人並み以上に本は読みますが、概念が覆されるような本に出会うことは稀です。長い間いろんな本を読んでいるので、新しいものといっても著者の独りよがり的な本(最近は明らかに原発事故の便乗本が増えています)に引っかかる可能性は少ないと、(自分では)考えています。
今回取り上げる本は、『選挙の経済学−投票者はなぜ愚策を選ぶのか』ブライアン・カプラン著、長峯純一・奥井克美監訳、日経BP社です。経済(学)関係では、いろんな説を唱える人がいます。特に経済政策に関しては、常に論争が行われている状況です。だから経済学には学問として一致した見解はないのだ、という印象を一般の人は受けます。しかし本書によれば、基本的なことに関しては経済学者の間では共通の認識ができており、相違があるのはその運用面にすぎないらしいのです。
それよりも、経済学者と一般人(この中には政治家や著名な言論人などマスコミ関係者も含まれます)との間には、経済への見方に大きな違いが見られ、その結果、選挙で自分の望みとは違う政策の候補者が選ばれて(選んで)しまうのだ、と指摘しているのです。
一般人に共通するものは、反市場バイアス(市場メカニズムがもたらす経済的便益を過小評価する傾向)、反外国バイアス(外国との取引による経済的便益を過小評価する傾向)、雇用創出バイアス(労働を節約することの経済的便益を過小評価する傾向)、悲観的バイアス(世界が悪い状態からさらに悪い状態へと移行している考える一般大衆の傾向)だというのが、本書の主張です。それを実証的に示している(もちろんアメリカが事例ですが、基本的には日本でも変わらないと考えられます)ために、私にとって刺激的だったのです。
長年社会科の教師をやってきた身としては、ひょっとして、これまでそのような誤解を拡大するような指導をしてきたのではないかと心配になって来ました。現在のTPPをめぐる報道に接していると、賛否はともかく、これらのバイアスから自由なのかは、かなり疑問に思えます。
経済学は現実の経済政策の運営と絡むので、信用できないと批判を受けることが多く、結果として経済学の常識を踏み外した(つまり、実際の経済に悪い影響を及ぼす)政策が支持を集め、実行に移されるというわけです。読みながら、私は教育学のことを考えていました。教育学も現実に行われている教育の営みに活用されるどころか、「あんなものは役に立たない」と見向きもせず、(それだけなら、まだましですが)得られた知見とは逆方向のことが学校で行われたり、政策として実施されたりすることが少なくありません。
それらは何年か経つと結果が明らかになり、誰にも語られなくなったり、徒労だったという思いと共に、ひっそりと姿を消します。しかし、しばらくすると、また化粧替えして支持を集め、同じことが繰り返されます。関係者がいい加減ならまだ救われるかもしれませんが、真剣に真面目に行われているからこそ深刻です。
よく「そんなに言うなら、自分でやってみろ」と教育学者に言う(言わなくても心の中で思う)教師がいます(私も思っていた時期があります)。少し考えれば変だと気づくはずなのですが、コロリとまいる人もいるようです。自分でできなければダメなら、ほとんどの指導者やコーチは落第ということになります。
もちろん教育学(者)の責任も大きいものがあります。問題意識が見えない研究も少なくありません(多分「それが分からないお前が悪い」と言われるでしょうが)。「現実的な問題を取り上げろ」と言っているのではありません。良い研究は、たとえ理論的なものでも、訴えるものがあります。
さて、教育学者と一般人の違いはなんでしょう。悲観的バイアスは確実にあります。昔の教育は良かったと言う人はほとんど、昔の良き思い出の一面と現在の悪しき一面を比べているに過ぎません。あとはなんでしょう。共通していることの一つは、教育にもっと予算を(日本の教育予算は先進国中最下位)ということでしょうか。しかし一方で、習熟度別授業のように、広範囲に何度も実践され、それでも成果の出たためしのない指導法を繰り返しているようでは、説得力がないと言わざるを得ません。
(2011年11月7日)