★このコラムは、「小牧市教育委員だより」での副島孝先生(前小牧市教育長)の発信を楽しみにしておられた皆さんからの要望で実現しました。「これまでのように学校教育や現場への思いを語り続けてください」という願いをこめて「黙さず語らん」というタイトルにしました。
【 第2回 】研究者と実践者
私は現場にいた頃、研究者(特に教育学者)の悪口をよく口にしていました。長年教育学を研究しながら、聞く者に伝わっているかどうかも意識できない講演しかできないのか、現場にとって役に立たないような指導しかできないのか、なんて。もちろん、全ての研究者がそうだとは言いません。しかし、決して少なくなかったと感じています。
もちろん現場の役に立つ研究だけが、教育学の研究ではありません。また一方で、講師として「大学の先生を誰か呼ぶ」などと平気で言う学校や組織も少なくありません。固有名詞を挙げられないのか、どんな人でも研究者なら似たようなものだと思っているのでしょう。
実は、若い頃に斎藤喜博氏の周囲にいた教育学者のスタンスに失望する、私的な場面に出会ったことがありました。そういう目で見ると、現場の実践を見ても多くの研究者が、斎藤氏がそれをどう評価するかを窺いながら、それに合わせているように思えてなりませんでした。もちろん個人的な感想です。しかし、この経験は各研究団体に対するその後の(加入する、時折参加はするが加入はしない、敬遠するなど)接し方に、大きな影響を与えました。
そんな私が大学院受験を考えたのは、直接には小牧市Web教育研究所の指導をお願いしていた准教授の柴田好章先生のお勧めです。しかし、それだけではありません。私の認識を変えてくれる、現場にも役立つ(現場向けの研究をするという意味ではありません。よい研究は門外漢にも評価できるものです)優れた研究者と何人も知り合うことができたことにもよります。
一方で、優れた実践者からも学ぶことは、当然のように続けていました。そのうちに、自分の中で両者が共存しにくくなってきていることに気がつきました。名人、カリスマと呼ばれる実践者から学ぶことと、優れた研究者から学ぶこととは矛盾する面もあるということです。
どちらかが間違っているわけではありません。実践者の話は分かりやすのです。同じ内容なら真似もできます。しかし、他の場面でも同じことが自分でできるようになることは稀でした(だから、名人、カリスマと呼ばれるのですが)。研究者の方は(何度も断りますが、誰でもではありません。一部のです)、あまり実際的ではありません。しかし、本気になって学ぶと応用が利くのです。他の面にも影響が出るのです。研究のまねごとを始めた今では、その理由が少しは分かります。研究と称するならば、レポートや心情吐露とは異なり、一般性と妥当性を備えていなければなりません。そのためには、それを裏付ける先行研究やデータ分析が必要です。もちろんその上で、オリジナリティも必要です。つまり、研究者には発言の裏付けが要るのです。
それに対して、乱暴な言い方ですが、実践者の声は個別です。個別だからこそ、具体的で、人を引き付けます。別の言葉で言えば、一般性には欠けるということです。自己の経験は(誰でもそうですが)、そんなに広いものではありません。やる気があったら、誰にも当てはまるというわけにはいきません。だからこそ、いっそう魅力的なのです。
現在指導を受けている教授の的場正美先生や柴田先生は、授業研究が専門ですから当然ながら現場での実践を大切にする研究者です。だからこそ、実践者と研究者の間でもっと議論が必要だという立場の方です。そのためには、実践者と研究者の立場をひとりで体現する存在が必要だと言われます(実際には「両方の立場で悩め」と言われています)。そんなこともあって、学部からの進学者の他に、現場経験のある院生が多いのも特徴です。
つまり個人的には、現場に役立つ、しかも研究としての条件を踏まえた研究を見極める、そのような研究者を見分けるためにも、大学院で学ぶ必要があったということになります。そのためには、まず自分自身がきちんとした研究をし、現場に出かけるときには実際的でかつ一般性のあるお話をしなければと考えています。
では具体的な実例をあげて、というのは次回に。
(2010年4月19日)