『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』
【第5回】いじめについて思う
「身近にあって大切なものであった『心の教育』が、家庭教育の大きな忘れものとなって久しいのではないでしょうか。」
幼稚園から「よい学校」、「よい成績」というように、社会全体が高学歴志向になり、学習成績一辺倒になった頃から、少年の問題が多く発生するようになったと考えるのは、多くの人の一致するところだと思います。昔は、家庭の決まりとしてことわざがあり、日常生活の折々に一緒に行いながら教える、一番効果のある教育、すなわち即実践であったと思います。
例えば、
○食べてすぐ寝ると牛になる
○早起きは三文の徳
○ご飯粒を粗末にすると罰が当たる
○人の話は黙って聞くものだ
○人のふり見てわがふり直せ
○立つ鳥あとをにごさず
○実力のある人は自慢しない
○親の意見と茄子の花は 千に一つの無駄がない
○丸い卵も切りようで四角 ものも言いようで角が立つ
○家の習いが外の習い(八重山のことわざ)
など、人間性のもとになる生活習慣(しつけ)を大切にしましたが、今は成績万能、学歴優先になり、心を育てることが、家庭教育からも学校教育からも忘れられたところから、今日のような少年非行を生み、さらには、いじめからの自殺を生むという悲しいような世相となってしまったのではないでしょうか。
「いじめ」とは、何らかの行為を受けた生徒が、身体的・精神的苦痛を感じたときに成立するものです。したがって、いじめる側に、いじめようという意図があるかどうかとか、いじめる方がいかにも外部からわかるような形のものであるかどうかは、重要な要素ではありません。あくまでも、いじめられる側が感じる苦痛が中心的要素なのです。この点をあいまいにすると、単なるふざけであっていじめではないとか、あの程度のことならいじめにならないなどと勝手に判断してしまい、苦痛を受けているという事実を見落とすことになりがちです。しかも、あくまでいじめられる側の気持ちに立つというこの基本姿勢は、人権を尊重するという立場にも連なるものなのです。
『赤毛のアン』シリーズを翻訳されている作家の松本侑子さんがイギリスの家庭教育に感動ということで、次のような文を書いておられます。
また、アメリカでは、Don't be a sheep . (羊にはなるな!)と言って、自分の頭で考え、自分の信じる通りに行動するということが求められるそうです。羊のように盲目的に指導者の言うことを信じ、おとなしくついて行ってはいけないということだと思います。日本はまだ「出る杭は打たれる」(The nail that sticks out must be pounded .)状況が続いているのではないでしょうか。
イソップ寓話の中に現代社会の過ちに気づかせるお話があります。
業突く張りの王様は願い事を言いなさいと言われて「触れるものは何でも金になるようにして下さい」と頼みます。その願いが聞きいれられ、触れるものは何でも金になりましたが、その願いは大変な事であったのです。王様は娘に触ったとたん娘は金に変わってしまいました。
食べ物を食べようとすると食べ物も金に変わってしまい、せめて水でもと思いましたが、喉に入ってから水は金に変わり窒息してしまうと思い、触るものが何でも金になる願いを取り消して欲しいと嘆願するお話です。
このお話はミダス王のお話なのですが、ミダス王は太陽神アポロンが「太陽を牽いているしか能がなく、黄金の光を振り撒く浪費家だ」と悪口を言ったのが事の始まりでした。その悪口を聞いたアポロンは「では何でも望む事を言いなさい。そうなるようにしてあげよう」と言うのですね。ミダス王に自分の力はそれだけでは無いという事と、神を侮辱するとどうなるか思い知らせるために「望みをかなえるふり」をしたわけです。
日本人もお金があれば、と思って戦後社会を築いてきましたが、お金で幸福は買えなかったのではないでしょうか。だからといってミダス王のように、元に戻してしまうことはできないのです。
今の子どもたちは、情報があふれているのに大切なことが何かわからず、物質的に豊かなのに満たされず、いい子も多いのにそうではない子もいっぱいいるという状況にあるのではないでしょうか。
94年11月、同情しても同情しきれない悲惨な自殺を遂げた、大河内君の遺書を教訓に、生徒も両親も、そして教師も、今後、どのように生きていくかを考えていく必要があるのではないでしょうか。
(2007年3月5日)