佐藤正寿先生から本当に多くを学ぶ(長文)

今年度最後の教師力アップセミナーは、岩手県奥州市立常盤小学校副校長の佐藤正寿先生の「わくわく社会科授業〜全員が『わかる』『できる』授業のつくり方〜」と題した講演と模擬授業でした。

3部構成の第1部は、「社会科授業改善の視点」です。
佐藤先生は、子どもたちが社会科を嫌う理由を授業改善へのヒントととらえます。その内容もそうですが、こういった姿勢はとても大切なことだと思います。若い先生方は子どもたちが授業に不満を示すと落ち込むことが多いのですが、それを授業改善のチャンスととらえる強さが必要です。子どもが不満を言うのは先生に期待しているからです。こういった声が聞けなくなることの方がこわいのです。
佐藤先生が挙げた子どもたちの声は、「覚えることが多い」「資料が難しい(特に4年生後半から)」「楽しくない、興味がわかない」「先生の教え方が……」というものです。そこを元に社会科授業改善の7つの視点を提示されました。

視点1「資料に応じた読み取り方を」
教科書に掲載される資料数を種類別に表にしたものを示されます。それまで写真や図が中心だった資料に、4年生後半からグラフや表が登場します。さきほどの子どもたちの声と合わせると、子どもたちにとってグラフや表の読み取りが難しいことがわかります。
先生方はすぐに「資料をみて気づいたことは?」と問いかけますが、これでは何を答えていいかわかりません。まずきちんと資料の内容を読み取ることから始める必要があります。例えばグラフであれば、最初に資料の「基本項目」を確認し、「全体」の傾向、続いて細かい「部分」に注目させ、そしてそれらを「解釈」し、「思ったこと」を発表させるという流れになります。最後の「解釈・思ったこと」で子どもたちから多様な意見を引き出すことで互いに学び合い、深い読み取りが可能になります。社会科に限らずこういうスモールステップを明確にしておくことで、授業の構成が明確になります。

視点2「教材にしかけをする」
ちょっとした工夫が子どもたちに興味を持たせ、積極的な活動を引き出します。例えば資料の一部を隠すというのは簡単ですが、効果のある方法です。「なんだろう?」と子どもたちが食いついてくれれば、それだけで十分価値があります。「どうすればわかる?」と問いかければ、子どもたちを動かすことができます。例えば、コンビニの写真の一部を隠して答を教えなければ自分で調べに行く子どももいるはずです。「なんだろう?」「知りたい?」、子どもに「?」を持てせることが大切です。

視点3「『ゆさぶる』場面を入れる」
あたりまえに答が見えていたり、新しい発見がなかったりすれば子どもたちは学習に興味を持とうとしません。有田和正先生の発問に「バスのタイヤの数はいくつですか?」というのがあります。「あれっ?どうだった?」と「あいまいなことを問う」ことで、子どもたちは引き込まれていきます。常識的な視点とは違う「新たな視点を示す」。特徴に気づかせるために、「他の例と比べる」。「○○なのに○○なのはなぜ?」と「矛盾・対立していることを示す」。こういったゆさぶりが、「子どもたちが社会的な事象を追求し続けるための前提」となる、「子どもたちの中に切実な学習課題への意識が成立すること」につながります。

視点4「定番ネタをもつ」
佐藤先生は、授業の導入にクイズをよく出されます。子どもたちのウォーミングアップに、フラッシュ型教材を使ってテンポよく短い時間で進めます。こういった定番があると、子どもたちも安心して授業に参加できます。「(都道府県名に)『川』が入っている都道府県は?」「数字?」「動物?」といった地図クイズを例として出されましたが、大人でも楽しそうに取り組んでいました。こういったクイズは、だらだらやらないことがポイントになります。

視点5「『知る』『わかる』『判断する』を区別した授業設計」
これは、とても大拙な視点です。「知識」を獲得し、「概念」を形成し、それをもとに「価値判断」する。これは、社会科だけに限りません。例えば総合的な学習の時間であれば、「○○について」とただ調べて発表するのではなく、その調べたことをもとに「○○は××か?それとも△△か?」と判断するような課題にするのです。
佐藤先生は、駐車場に障害者スペースがあることを知り、それが障碍者のための工夫であることをわかり、障害者にとって優しい街づくりであることだと判断するといった流れで説明されました。前の2つが、社会的な「ものの見方」、価値判断が「考え方」です。わかりやすい例でした。これをスモールステップとして、次のように整理されました。「見えるもの」を問う⇒推測する(気づかせ発問)⇒事象を概念として束ねる(概念化発問)「何と言えるか」「条件は何か」。佐藤先生の授業の構成は、まさにこのようになっています。

視点6「主催者として価値判断する場面を」
価値判断できる課題として、「農薬を使うことに賛成か、反対か」「日本は食糧の輸入を増やすべきか、減らすべきか」「あなたが農民の立場だったら、刀狩に賛成か、反対か」といった例を出されました。ポイントとして、「立場が明確」「知識が前提」「話し合いで変更可」「評価は考えが深まったか」を挙げられます。例えば、農薬であれば農家、消費者と立場を明確にすることで、考えやすく、議論が自然に起こります。ここで、判断するためには根拠となる知識が必要です。授業をつくる時には、判断するための前提となる知識を子どもが持っているのか、持っていなければどうやって獲得させるのかを考えておくことが大切です。また、子どもが友だちの考えに触れて、考えを深める場面が必要です。日ごろから、意見を変えることは、考えた証だとポジティブにとらえるようにしておくことが必要です。導き出した答そのものではなく、考えを深めた過程を評価することも大切になります。これは社会科に限りません。すべての教科で大切にしたいことです。
「何のために」といったことを考える、概念形成時に価値を問うという方法も示されました。「昔のくらしのよさは何か」「もし、ごみを出すきまりがなかったらどんな問題がおきるか」「参勤交代は当時の社会にどのようなプラスがあったのか」というわかりやすい例で説明されます。価値判断する場面をつくることは、アクティブラーニングにも通じることです。特に大切にしたいと思う視点です。

視点7「『旬』を生かす」
佐藤先生がいつも意識されていることの一つが、この「旬」を生かすということです。社会科は内容が時代で変わります。今目の前で起こっていること話題にすることで子どもは興味を示してくれます。「消費税アップは必要?」「選挙制度」といったその時、時代にあった課題も魅力的ですが、「伝統行事」「日本人が忘れていけない日」といったことに関してちょっとした話をすることもとても意味のあることです。

佐藤先生のお話は何度もうかがっていますが、今回は今まで以上に若い先生にもわかりやすく社会科の授業をつくる上でのポイントが具体例と共にまとめられていました。

そして極めつけは、第2部の模擬授業です。
第1部でのポイントを具体的な授業の形でわかりやすく示していただけました。
テーマは「東京オリンピック」です。まさに視点7「『旬』を生かす」です。最初にクイズで興味を引き出します。スポーツ選手の写真を見せてどんな人かを聞きます。視点4「定番のネタ」です。ここで、体操の内村航平選手、レスリングの吉田沙保里選手といった有名なロンドンオリンピックの金メダリストだけでなく、パラリンピックの金メダリスト、テニスの国枝慎吾選手の写真もあったことに感心しました。国枝選手を知っている子どもは少ないでしょう。「あれ?だれ?」と思うことでオリンピックだけでなく同時に開かれるパラリンピックにも子どもの意識を向けさせることができます。視点3「『ゆさぶる』場面を入れる」です。
この後、「オリンピック楽しみですか?」と聞いて、「楽しみ」という言葉を引き出しました。この後の問につながる伏線です。

オリンピックについて知っていることを3つ以上考えさせます。ただ「考えなさい」では一つ考えて時間を持てあます子どもが出てしまいます。ちょっと高めのハードルを設定するのがポイントです。いつものように、発表をすぐに板書はしません。友だちの考えをしっかり聞くことに集中させると同時に、玉石混交の意見が出るはずですのでまずは発表だけさせるのです。板書はその後必要なものだけに絞ります。「4年に一度」「世界中の人々が参加する」「五輪のマーク」「100年以上続いている」といったまとめの後、「どんな国で開かれているのか」と問いかけ、知っている国を挙げさせます。これは単なる知識です。その後、夏季オリンピックの開催国の上に開催年が書かれた地図を資料として提示します。国名は書かれていません。視点2「教材にしかけをする」です。国名がない資料なので地域に目がいきやすくなっていますし、子どもたちに国名を考えさせることにもつながります。
「アフリカがない」という発言に対して、「やっていない方に目がいった」と価値付けをします。開催国の傾向として、「西ヨーロッパ、北アメリカ」「アジアは3か国」「アフリカはなし」といったことが挙がります。視点5「『知る』『わかる』『判断する』を区別した授業設計」の資料から知識を得る、「知る」場面です。それを受けて、開催国に必要な条件を考えさせます。推測することで「わかる」場面です。ここは概念形成の場面なので、まわりと相談させることで、多様な考えに触れさせ考えを広げます。
「治安がいい」という発言に対しては、別の言葉で「安全」を出させます。実際の授業では、「治安」という言葉がわからない子どももいます。自然に優しい言葉に置き換えることができるのはさすが小学校の先生です。「経済力がある」「インフラ」と言った言葉は取り上げ板書しますが、「利権」や「プレゼンテーション」と言った発言は受容するだけで板書はしません。さり気なく情報を整理して、この日の課題に必要なものに絞ります。これが露骨だと、子どもたちは先生の求める答探しをし始めます。佐藤先生は、そのようなことにならないように、笑顔でしっかりと受容されています。最初に聞いた「楽しみ」につなげて、「人々(国民)の熱意」を自ら示しました。ここで、子どもから出させることにこだわって引っぱりすぎるとおかしなことになってしまいます。資料をもとに、根拠を持って考えることができるものではないからです。こういった判断もとても大切なことです。

続いて2つ目の課題です。日本が1964年の東京オリンピックのころにどのような発展をしたかを考えます。教科書にある新幹線開通や高速道路建設の写真、テレビの普及率の資料などを与えます。視点1「資料に応じた読み取り方を」の場面です。
考えるための前提となる視点を先ほどの課題で与えているので、「交通網の発達」や「経済力」についての意見が出やすくなります。交通網から「物流(物の移動)」「(個)人の移動」といった多様な視点を意識させます。「個人の移動」と「テレビの普及」を「消費力」の増加につなげます。資料の裏を読み取ることを意識しています。ここでも、視点5「『知る』『わかる』『判断する』を区別した授業設計」の「知る」から「わかる」へつなげています。そして、「この東京オリンピックは一言で言うとどういったオリンピックですか?」と「価値判断」する課題へと移ります。テレビ普及率の資料は1955年からのものですが、この1955年は「戦後」が終わって景気が急上昇する時です。1956年の経済白書では「もはや戦後は終わった」と書かれています。佐藤先生はこの1955年にさり気なく触れて、「戦後」という言葉を意識させます。判断するための前提となる知識を上手に与えていました。「戦後復興」を上手く引き出す布石です。「授業深掘りセミナー」で「電車道」と称されるわけです(第2回授業深掘りセミナー(その1)長文参照)。

ここで東京オリンピックの最終聖火ランナーがどのような人かクイズを出します。オリンピックの強化選手でもあった有力ランナーの坂井義則選手ですが、1945年8月6日に広島県三次市で生まれたことが大きな理由です(本人は被爆者でないが、父親は被爆者健康手帳の保持者)。日本人にとって大切な日を考えさせ、この人選に込められた「平和への願い」に気づかせようというのです。時間の関係で、軽く流しましたが、佐藤先生が大切にしていることが何かがよくわかる場面でした。
そして、最後の課題として「あなたがアナウンサーなら、この最終聖火ランナーが競技場を走って聖火を点火する30秒間をどうアナウンスしますか?」を提示します。音声を抜いた映像に合わせてアナウンスさせるのです。ここは省略しましたが、まさに、視点6「主催者として価値判断する場面を」でした。
「あなたなら、今度の東京オリンピックの最終聖火ランナーに誰を選びますか?」という最後の問いかけは、2020年の東京オリンピックを深く考えさせるきっかけになるものでした。視点7「『旬』を生かす」だけでなく、視点3「『ゆさぶる』場面を入れる」で語られた、「子どもたちの中に切実な学習課題への意識が成立すること」が「子どもたちが社会的な事象を追求し続けるための前提」を具現化した発問でした。

佐藤先生の社会科授業の視点を見事に具現化した模擬授業でした。

第3部は、「社会科教師として力をつける」ために心がけることをまとめてくださいました。
まずは「教科書中心の教材研究+α」です。教科書を読みこなすことが基本です。そのための方法として、「教材研究用に自分の教科書を購入」「すきま時間を見つけて、教科書を何度も読む(持ち歩く)」「資料からわかることを読み取り、教科書に書き込む」「『なぜ?』『もっと知りたい』をメモ」といったことが挙げられました。これは社会科だけでなく、他の教科にも通じることです。その上で「+α」を大切にしてほしい。具体的には「学区を調べ、写真をとる」「市役所や消防署に取材」「全国各地に電話」「歴史に関するエピソードをインターネットで調べる」といったことです。リアリティのある、地域に根差した教材研究、子どもたちに興味を持たせるための材料集めです。例として、歌川広重の「伊勢神宮」の絵に描かれている「子どものひしゃく」「おかげ犬」(最近は「おかげ犬サブレ」が人気ですが)のエピソードから当時の旅や信仰、人々の生活を考えさせる授業が示されました。
また、社会科教師としての基礎体力をつけることも大切だと話されます。教師一個人として短歌をつくったり、合唱団に入ったりといった素養を身につけることが大切ですが、社会科教師にとって、それはどのようなものでしょうか?地図地理検定に挑戦したり、「スーパーマーケットとデパートの違い」といった疑問を調べたりすることが大切だと話されます。また、社会科の教師として、未来の社会を考える姿勢も忘れてはならないという言葉は、教科に関係なく、未来を担う子どもたちを教える立場の人間が心すべきことだと思います。

社会科の枠を超えて、本当にたくさんのことを学ばせていただきました。いつものことですが、たった2時間の短い時間の中に実に多くの学ぶべきことが詰まっていました。中身の濃い学びを本当にありがとうございました。

会を継続する難しさを感じる

昨年の話で恐縮ですが、学校評議員をしている中学校のおやじの会の忘年会に参加させていただきました。この日も楽しい時間を過ごさせていただきましたが、いろいろと考えさせられることがありました。

このおやじの会は、メンバーが現役だった10年ほど前から続いていますが、なかなか新しい方が入ってこられません。現役の保護者が上手く参加できない内に、OBと現役のつながりが弱くなったのかもしれません。また、現在のメンバーが学校と地域のパイプ役を担うなど積極的に学校にかかわり続けているので、敷居が高くなっているのかもしれません。
メンバーは現役世代の方に子どもたちや学校ともっとかかわってほしいと願っていますが、自分たちの存在がかえってそのじゃまとなっているのではないかとも悩んだようです。そこで現役の方中心のおやじの会をつくってもらおうと、おやじの会の名前を返上することに決めたそうです。自分たちの活動は変えずに名称だけを変えるようですが、こういった活動の継承の難しさを感じずにはいられませんでした。

おやじの会が設立されてとてもよい活動をしていたのに、その中心となるメンバーが現役を離れると、一気に停滞したという話もよく聞きます。また、活動が活発なためにとてもそこまではやれないと、参加をためらう方もいるようです。自分にできる範囲で気軽にかかわれるような会であるはずですし、またそれ以上のことを強制するようなことはまずないと思いますが、なかなかそうはいかないというのが現実なのでしょう。こういった会が継続的に活動し続けることの難しさを感じます。

こうすればうまくいくといったことは言えませんが、少なくとも「この会はこうあるべき」という「べき論」の活動ではなく、参加して楽しい、見ていて楽しそうだなと思えるものであることが大切だと思います。私は「役立ち感」が楽しさにつながるのではないかと思うのですが、楽しいと感じることが多様になっているのかもしれません。

とはいえ、この会の皆さんはこの事態を後ろ向きにとらえているわけではありません。今後、子どもたちや学校に積極的にかかわる保護者が増えることを楽しみにしておられます。この日もたくさんの元気をいただくことができました。ありがとうございました。

実践発表から教育におけるICT活用について考える

昨日の日記の続きです。

午後からのICT活用の実践発表は、使っているソフトや環境は変わっているのに、その中身は20年前とほとんど変わっていないという印象でした。
例えば、プレゼンテーションの学習は、ソフトの使い方ではなく、プレゼンテーションで何をどのように伝えるか、その視点やまとめ方が大切になるということが発表されますが、そのようなことは、プレゼンテーションを学ぶ基本中の基本です。そのことを再確認するのはよいのですが、プレゼンテーションの学習をどのように組み立てれば子どもにどんな力がつくのかをもっと現場の視点で知りたいと思いました。

驚いたのは、ある市の取り組みの発表で、校外学習で子どもがタブレットを使ってその場で写真を撮ってメモをしている姿を見せて素晴らしいと評価していることでした。タブレットを操作できていることが素晴らしいのだとすれば、それはソフトが簡単で使いやすくなったということです。その場で写真やメモを取るのは、別にタブレットを使わなくても取材であれば当然のことです。大人でもパソコンを操作するのが大変だった時代ならいざ知らず、正直何を素晴らしいと言っているのかわかりません。
プレゼンテーションで子どもが聞き手を見ている、聞き手が話し手を見ていることも、評価しますが、これも基本中の基本です。ICTを使おうが使うまいがそうできるように指導してあたりまえです。あたりまえのことができているのはよいことですが、それとICTの教育的な効果がよくわかりません。未だにこの程度のリテラシーなのかと思うと、永らくこの世界に身を置いていたものとしては悲しい限りです。
また、思考ツールとして、タブレットを使うという実践もありました。フィッシュボーン、ベン図、ピラミッド図といった枠組みを与えて、思考の整理をするというものです。こういった思考ツールは最近の流行りでそれなりに理解できるのですが、紙やホワイトボードではなくタブレットであることの意味が全く語られません。子どもたちがタブレット上のピラミッド図を使って説明している、ベン図で説明していると言われても、ICTのよさを感じることができませんでした。

遠隔地とのネットでのテレビ会議の実践はしっかりしたものだったのですが、そこで言われるポイントは、「事前の準備や相手との関係づくり」「活性化するための仕掛け」と、テレビ会議の教育での活用がはじまったころと同じです。その通りなのですが、何が進歩したのかがわかりません。ICT環境が安定し、活用できる範囲が広がったということだけなのでしょうか。

子どものノートを机間指導する代わりに、タブレットに書かれたものをネット越しに見てコメント、アドバイスを書き込む実践は目新しいように見えます。優れた授業者は素早く全員を机間指導できますが、経験の少ない教師には難しいものです。これなら座ったままで効率的にアドバイスできるように見えます。しかし、直接顔を合わせて指導せずに、しかもリアルタイムに文書や図でアドバイスをするので、高いコメント力が求められます。チラリと見せていただいたコメントは、???と思うものでした。これも昔から言われていることですが、ICTがある面をカバーしてくれるからこそ、より高い授業力が求められるのです。授業者の実力をよりはっきりと映し出します。

学校内での閉じたSNSを使った実践には、興味をひかれました。算数のまとめをSNSに書き込むことで、途中で友だちの考えを見ることができます。子どもたちのまとめが収束していくというのです。逆に社会の実践では、気づいたことを書き込むことで子どもの考えが多様に広がったと言います。ノートやワークシートに書くのと同じですが、作業中に他者の考えに触れることができるので、書き終った後に聞くのと違ってすぐに自分の作業に反映できるのです。かつて、掲示板にリアルタイムで意見を書き込む実践がありました。それと同じと言えば同じなのですが、そこで起こっていることの整理の視点は参考になりました。この実践でも、収束した後、多様に広がった後にどう授業を進めていくのかという授業力が問われるという点では同じです。

今回の実践発表を聞かせていただいて、学校のICT環境が充実し、使いやすいソフトが出てきたことはよくわかりました。しかし、それを活用して子どもにどんな力がつくのか、つけることができるのか、そのためのポイントは何かという視点では、新しい知見を得ることができませんでした。ICTの活用といっても、昔から言われるように教師の授業力がなければどうにもならないのでしょうか。ICTを活用することで、授業者にかかわらず子どもたちにある種の力が自然につくといったことは考えられないのでしょうか。ICTの活用で教師に求められる力の一部が不要になり、教師はより高度なことに専念するといった図は描けないのでしょうか。
教育におけるICT活用の将来像が混とんとしたものに感じてしまいました。

文部科学省の関係者のお話は、ICTに限らず、これからの学校教育の方向性についてのものでした。これからの人材には、人工知能には答えられない問題に解答を出させることが求められるというお話は、確かになるほどとうなずけます。しかし、そうはいってもすべての人がそうなれるわけではありません。ある意味それは国家戦略の視点になります。学校教育は社会の要請ですから、そのことを否定はしませんが、現実に目の前にいる子どもたち一人ひとりのことを考えると、どこまでのことを求めればいいのかちょっと悩んでしまいます。OECDの調査で日本の子どもたちの学ぶ意欲が低いことと合わせて、学校で子どもたちに基本的に身につけさせるべきものは何なのか、改めて考えさせられました。

盛りだくさんなイベントで、いろいろなことについて考えることができました。よい時間を過ごすことができました。

ICT教育のイベントでプログラミング教育について考える

先月末に開かれた、業界団体主催のICT教育に関するイベントに参加しました。

午前中は、今回のイベントの中心となる企業による、これからの時代に求められる人材像とそれに対応する教育の話でした。生きる力に関連してICTを利活用した教育が必要とされているということは、その通りだと思います。続いて、「ICTの発達によってこれから求められる人材は理数系となってくる。その中でも情報技術者が大量に必要とされる。だから、これからは情報教育やプログラミング教育が重視される。初中等教育からプログラミング教育を導入することも視野に入れる必要がある」ということが言われましたが、これについては少々疑問を感じました。テクノロジーを進化させる人材が必要なのはわかりますが、それはマスでの情報教育の中から生まれてくるものだとは思えないのです。大量の技術者といっても、一昔前の工場労働者と同じ位置づけになるのではないでしょうか。たしかに短期的には必要なのかもしれませんが、それがいつまで続くのかは少々疑問です。人工知能が発達して、そういう仕事が一気に無くなることも十分考えられると思います。
現代の家庭電気製品は高度な技術によってつくられていますが、それを活用するのに必要な知識は私が子どもの頃よりはるかに少なくなっているように思います。同じように、日常の仕事でコンピュータを活用するために必要な知識や技術は、この40年ではるかに少なくなっています。もちろん、これからの社会で生活する上で情報教育は欠かせないことは間違いありませんが、それほど高度で、専門的なものが必要かどうかは疑問です。特に、小中学校や高等学校でプログラミング教育をしたからといって、それが活きるのはどういう場面なのかがよくわかりません。多くの子どもにとってコンピュータが動く仕組みの一部としてプログラミングを学ぶ程度で十分だと思います。
プログラミングで論理を学べるということを言われますが、これについても疑問です。そういう面も確かにあるとは思うのですが、プログラミングで身につく論理的な思考力はごく一部のように思うのです。私自身、かつて多くのプログラミング言語に触れ、実際にコーディングもしていましたが、それほど大した論理力が必要だと感じたことはありません。それまでの学習で身についた論理的な思考力で軽々と対処できるものです。論理的な思考力は、多くの教科や分野(国語や社会科の文型と言われる分野も含めて)で培うべきものだと思います。基礎的な論理力があれば、プログラミングはほんの短期間で身につくはずです。
社会の状況や仕事に求められるものが変わっても対処できる、より基礎的で汎用的な力をつけることが、これからの初中等教育では求められるべきだと思います。専門的なことは、高等教育以降に個人の意思で選択して学習すればよいのではないでしょうか。

現実に、情報技術者が不足している。その状況に対処しなければいけないということもよくわかりますが、それに特化したような教育を初中等教育に組み込むというのは今一つ納得がいきませんでした。子どもたちの選択肢の一つとして、高等教育以降に組み込むべきだと思います。子どもたちが選択しようとした時に必要となる基礎的な力を初中等教育できちんと身につけさせることが大切だと思います。

午後の部は、実践発表でした。ここでもいろいろなことを考えさせられました。これについては、明日の日記で。

教師力アップセミナーで小笠原先生のファンになる

本年度第6回の教師力アップセミナーは中部大学准教授の小笠原豊先生の「子どもが夢中になる理科の授業」と題した講演でした。

スタートから小笠原ワールド全開です。現役小学校校長時代のエピソードに、思わず跳びあがってしまいました。小学校の修学旅行で神主に化けて子どもたちを出迎えたり、また別の年は舞子さんに扮して子どもたちを驚かせたりと、その時の子どもたちの驚きの表情が目に浮かびます。子どもたちと撮った記念写真をフレームに入れて、修学旅行から帰った時に全員に配ったそうです。子どもたちは、家族にその写真を見せながら、修学旅行の思い出を一生懸命に話したことでしょう。単なるパフォーマンスではなく、子どもたちに一生残る思い出をつくってあげたいという、小笠原先生の強い思いを感じます。
実は小笠原先生とは、先生が中学校の校長時代に一度お会いしています。その時は、まさかこんなパフォーマンスをする方だとは知りませんでしたが、ちょっと型破りで、とても懐の深い方だと印象に残っていました。今回の再会で、一気に先生のファンになってしまいました。

小笠原流「子どもが夢中になる授業」を実演しながら解説されます。その一番のポイントは、子どもに「あっ」「えっ」「わっ」と声を出させ、「何で?」「どうして?」と疑問や問題意識を持たせて、「やりたい!」と達成欲求を持たせることです。そのために、同じものを見せるにしても演出や仕掛けが大切です。特に小笠原先生は、「演出」(先生の言うところの「小芝居」)が素晴らしいので、大人でも引き込まれてしまいます。しかし、いくらパフォーマンスが素晴らしくても、理科として大切なところに子どもたちの興味を引き付ける仕掛けがなければ話になりません。単なるおもしろ実験をしただけでは、子どもたちにこれからの社会を生き抜くための資質・能力が身につくわけでもありません。その点、小笠原先生は、子どもたちが身につけるべき力を意識した単元構成をしっかりされています。

理科の探求学習の「ある科学的な知識を獲得するための探求(概念獲得型)」「ある科学的な概念を獲得するための探求(概念活用型)」という2つの分類を元に、小学校と中学校での探求学習の視点を整理されます。小学校では獲得する概念が少なく、活用するほどの知識・技能が乏しいので「概念獲得型」が、中学校では学習塾などで既習の子どももいることや、知識・技能が増えて深い追究が可能になっていることから、学びの有用性が時間できるような「概念活用型」が適しているということです。こういう視点を持つことで、理科の授業の構成がしやすくなると思いました。
この視点からすれば、小学校では単元の導入で子どもたちに強い問題意識や達成意欲を持たせる「仕掛け」が、中学校では、子どもたちにとって「リアリティのある課題」が大切になります。小笠原先生が実演・紹介された事例は、どれもその点でなるほどと納得させられるものでした。
具体的な例は先生の著書「mini 探求学習 RECIPES」を参考にしていただけたらと思います。

講演終了後も小笠原先生からたくさんの興味深いお話を聞かせていただきました。セミナーの運営にかかわっているものの特権です。その中に、こんなお話がありました。
あるところで講演の際、先ほどの「mini 探求学習 RECIPES」を販売したそうです。興味を持たれた先生が手に取ってパラパラめくっていたのですが、「これでは使えない。トークは書いていないんですか?」と聞かれたそうです。この本には、単なるネタではなく、学習のねらいやポイント、展開例もついています。授業をするために必要な情報は詰まっています。トークの部分は、それぞれ先生の個性で考えるべきものです。小笠原先生と同じトークをしても、キャラクターが違いますから上手くいくとは限りません。そこすら自分で考えられないのかと思うと、ちょっと驚いてしまいました。
かつて、若手も交えた勉強会で理科の実験の授業ビデオを見た時のことを思いだしました。小笠原先生と同じく、「しゃべり」が上手く、「小芝居」で子どもを引き付ける方の授業です。どこで心が動いたかを聞いたところ、ベテランは子どもの発言に対する受けや返し、つなぎの部分に集中したのですが、若手はその「しゃべり」や「小芝居」のところにひかれました。授業の本質よりも、話し方や演出といったパフォーマンスに目が行くようです。
授業で大切なことを伝える難しさを改めて感じさせられる話でした。

小笠原先生からとても多くのことを学ばせていただきました。素晴らしい先生と出会えたことに感謝です。

野口芳宏先生から心地よい刺激を受ける

今年度第5回の教師力アップセミナーは野口芳宏先生の講演と道徳の授業の実践発表でした。

午前の部は、宮沢賢治の「やまなし」の模擬授業をもとにして、野口流の国語授業のつくり方をたっぷりと教えていただきました。
「間違いは正さなければいけない。間違いをした子どもを落ち込ませるのではなく、間違いを知って正すことで成長したことを喜べばいい」「判断は誰でもできるが根拠が大切」といった素晴らしい言葉が次々と野口先生の口から語られます。
「一人ひとりの子どもが相手にされることが大切」という言葉に、野口先生の授業の底に流れる全員参加の考え方が現れています。「やまなし」であれば、舞台となっているのは「朝か昼か夜か」といったことを子どもたちに発問し、全員の考えを確認しなければ情景をきちんとイメージできているかどうかわからないということです。実際に参加した先生方でも答が違っていたことが印象的でした。

さて、今回取り上げた「やまなし」は40年以上にわたって光村図書の小学校6年生の教科書に掲載されていますが、難解な教材として定評があります。難解ですがこれだけ長い期間にわたって採用されているということは、それだけの魅力のある教材だということでしょう。「理屈の世界ではわけがわからない」と野口先生はおっしゃいます。この教材は、宮沢賢治の素晴らしい表現からイメージを描かせること中心にあつかいたいという提案です。
文学作品は、「内容と形式の調和」であり、その本質は美の追究であるとおっしゃいます。「内容美」は「理(知的価値)」「相(イメージ、様子……)」「情(感情理解)」、形式美は「体(構成、構造)」「律(リズム)」「語」からなるという整理の視点はなるほど納得するものがあります。心にとめておきたいことです。

「否定は大切」ということも野口先生の一貫した主張です。世の中の流れが否定ではなく、肯定、ほめることを大切にする方向に流れても、安易にそれに迎合しない野口先生の姿は凛としています。私自身、否定をしない、肯定的な表現をすることが大切だと考えています。しかし、野口先生の言う「否定することで次に進める。新たなものを得ることができる」という「否定の生産性」を間違いだとは思いません。その通りだと思います。私が大切にしたいのは、他者に否定されるのではなく、自分自身で間違いに気づけることです。だからこそ、野口先生と同じように根拠を明確にして、子どもが考える授業を大切にしたいのです。客観性のある議論をすることで、結論を一方的に受け入れるのではなく、自身で修正して正しい結論にたどり着いてほしいのです。
子どもは「不備」「不足」「不十分」の「三不」というのも、いかにも野口先生らしい言葉ですが、この子どもの中に潜在している「三不」をレントゲンのように浮き上がらせるのが「発問」だというのも、すばらしい「発問」のとらえ方です。

授業づくりについて話されます。「まずは『素材研究』。一人の大人として作品と向き合う。その上で一人の教師として『教材研究』。その先に授業者として『指導法』を考える」というのもいかにも野口先生です。特に「素材研究」を一番にするべきだというのは、まったくその通りだと思います。これは数学でも同様です。例えば関数の学習をするのに、「関数とは何であるのか?」「一次関数とは?」といった数学としての根本がわかっていなければ、本質を外した授業になってしまいます。その上で、教科書は何を、どこをねらっているのか「教材研究」していくのです。

全体の様子を描写する「括叙」(抽象的)に対して、個々の様子を描写する「細叙」(具体的)により、イメージ化ができる。最近は教えることが流行っているが、こういったことを教えることが大切であるというのも野口先生らしいのですが、何を教えて、何を考えさせるのかという選別が大切だと思います。基本知識は教えるか調べるかありません。そういったことまで子どもたち気づかせようとしている授業を野口先生は見たのでしょうか。今言われている授業のあり方は、野口先生のものと大きく乖離しているようには思えないのですが、どうでしょうか?

読み取りを進めるのに、「川の深さは何mだろうか?」「カニの大きさは何cmくらい?」と「数値」を問うのも、野口先生がよく使われる方法です。漠然と浅い深いといったことではなく、数値で答えようとすると根拠となるものを本文からしっかり探さなければいけません。子どもたちに深い読みをさせるための有効な方法です。
また、「ねむらない」と「ねむれない」の違いや、「遠めがねのような両方の目をあらんかぎりのばして」とあるその行動の裏にある感情を問うといったことも、非常に参考になる発問のあり方でした。

細部を読み進んだ後、題名が「やまなし」なのはなぜかを問います。「かわせみ」でも「かに」でもない。その理由を考えることが、この作品が何を言いたいのかを考え読み解くことになるという考えです。この授業の構成にはなるほどと思いました。「題名」の理由を考えるというのはよくあるやり方なのですが、私の中では、一読した後に問いかけ、作品全体を大掴みさせてから細部に入るという流れしかありませんでした。このように最後に作品全体をとらえるための発問にしたことは、とても新鮮に感じられました。
「やまなし」という難解な教材のあつかい方を通じて、国語授業のつくり方について、多くのことに気づき、学ぶことができました。

午後は、運営委員の学校の若手教員の道徳授業(道徳の授業撮影参照)のビデオをもとに、道徳の授業の視点を深める時間を取り、それを受けた形で、野口先生から道徳の教科化に伴う指導要領の改訂に関連してお話しいただきました。「考える道徳」「議論する道徳」に対してのお話も伺えました。第1回授業深掘りセミナーでも話題になったところ(第1回授業深掘りセミナー(その1)参照)ですが、まだまだ試行錯誤が続いていくのだろうと思いました。
それよりも道徳に関連して印象に残っているのは、懇親会で野口先生に質問させていただいたことに対するお答でした。「道徳でこういった行為はよくないというような話をする時、子どもの親がそういった行為をしていることもある。子どもが親を否定することにつながらないかと二の足を踏むことがあるがどう考えればよいか?」という質問でした。野口先生は、「元徳」という言葉を出されました。「徳の中で最も根本となるもの」という意味ですが、その「元徳」の一つは「親を敬う・大切にする」ことだというのです。だから、何があっても「親を敬う・大切にする」ことは忘れてはいけない。そう教えるというのです。今の時代、この考え方にすべての人が賛成するとは思えません。しかし、その言葉に野口先生のぶれない強さを感じました。おいくつになられても心地よい刺激を与えてくださる野口先生です。今年もとても素晴らしい、幸せな時間を共にすることができました。感謝です。
12月に第2回「教育と笑いの会」でお会いできるのが今からとても楽しみです。

ゼミでの学生の姿から考える

授業深掘りセミナーの後の会場で、玉置ゼミが開かれました。せっかくですので、少しゼミの様子を見学させていただきました。授業と学び研究所の小西克哉所長からの就活と最近の大学生気質についての話、フェローの神戸和敏先生の模擬授業でした。

小西所長の話は、学びの本質に迫るものでした。学びは一生涯続くもので、学び続けることができる人を企業は求めている。学ぶことを楽しめることが大切である。「学力」は「楽力」に通ずる。また就職は、自分がその企業で仕事をすることを通じてどのようになりたいかを思い描けなければうまくいかない。こういった主旨の話でした。
教員志望がほとんどで、一般的な就職活動には縁のない学生たちなので、どのような反応をするのか興味がありましたが、だれもが真摯な態度で話を聞いていました。素直に学ぼうという姿勢は好感が持てました。

神戸先生の1時間の模擬授業は2部構成でした。後半は次回の授業深掘りセミナーで行う模擬授業を試しに行うものです。前半は、なんと落語をアニメ化したものを見せました。「時そば」です。最初はなぜ落語を見せるのかその意図がわかりませんでした。アマチュアの域を超える落語家の玉置先生のゼミの学生にしては意外なことに、あまり「時そば」を知らないようでした。
神戸先生は「時そば」を見せ終わった後に、そばがいくらだったかを問いかけました。「16文にきまってらあ」という言葉の意味がわかっているかの確認です。「二八そば」から「16文」ということに気づいている学生は少なかったようです。どうやら神戸先生は、日常に潜む数や数学的な視点に気づく感性を持ってもらいたいことを伝えるのに、「時そば」を選んだようです。
落ちの「今何刻でぇ」「四つでさぁ」というところも、よくわかっていなかったようです。江戸時代の時刻が0時を「九つ」として、半日を2時間ごとに(正確には日の出を暁六つ、日の入りを暮れ六つとして計算)、「八つ」「七つ」「六つ」「五つ」「四つ」としていたことを知らないと、「九つ」より少し早かったために「四つ」で大失敗したということがわかりません。こういったお話を楽しむためにも、数の感覚が大切です。教師として、幅広い視点を持つこと、算数・数学を教えるためには日常に潜んでいる算数・数学的なものを見つける、見つけようとする姿勢が大切なことを伝えられました。「時そば」を当たり前のように楽しんでいた私には、このような教材として利用することは思いもつきませんでした。神戸先生の教材を見つける感覚に脱帽です。

後半の模擬授業については、次回の授業深掘りセミナーでのお楽しみにして、その時の学生たちの姿から感じたことを少し述べたいと思います。
非情に素直に課題に取り組みます。しかし、ある事柄の持つ特性や属性を分析したり、そのことをもとに推論したりするといった力が今一つです。日ごろから、身の回りのことを「なぜそうなっているのだろうか?」「他にはないのだろうか?」と原因や必然性を論理的に解釈しようとすることをしていないようです。答を出せた学生も、どうやって考えたのか、論理的に筋道立てて説明することが上手くできません。たまたまであったにせよ、そこにある必然性を見つけようとする姿勢が大切なのですが、そういう習慣はついていないようです。先ほどの「時そば」で感じたことと一致します。
このことは彼らのだけの問題ではありません。多くの小学校の先生の算数の授業で感じるのがこれなのです。解き方を知っていてそれを教えるだけの授業が多いのです。「なぜそうやると解けるのか?」「他にやり方はないのか?」「その必然性は?」といった視点が授業に欠落しているのです。解き方を教えるのは塾に任せて(塾に失礼ですね)、解き方を見つける力を子どもたちにつけてほしいのです。それが、算数・数学で目指したい力です。
そのためには、先生方がきちんとその問題の本質を理解して、論理的に解き方を説明できることが必要です。その上で、直接教えるのではなく、子どもたち自身で気づけるような授業構成をすることが求められるのです。
この日の神戸先生の模擬授業からは学生たちにそのことを気づかせたいという思いがあふれていました。これは、神戸先生の算数・数学の授業に共通する思いでもあります。
ゼミ生のみなさんには、これから教壇に立つまで、立ってからもこのことをいつも自身に問い続けてほしいと思います。

人数は減っても、エネルギーは変わらない体育大会

学校評議員をしている中学校の体育大会を観戦してきました。この学校も10年ほど前と比べるとずいぶん子どもたちの数が減ってきました。各学年3学級で、目の前の子どもたちの観客席がずいぶんこぢんまりとしていました。以前は視野に入りきらないほど広がっていたことを思うと隔世の感があります。
子どもたちの数が少なくても、運動場にあふれる熱気は以前とは変わりません。いや密度は増していると言ってもいいでしょう。その理由の一つは子どもたちの観戦の態度にあります。自分たちの仲間が出場していなくても、一生懸命声援や拍手をしています。自分には関係ないとまわりとむだ話をしている子どもがいません。どの学年もとても素晴らしい姿でした。
子どもたちの数が減ったこともあるでしょうが、プログラムを順調に消化し、かなり早く午前の部が終わりました。しかし、午後一番には保護者の方も楽しみにしているクラスマス(ゲーム)がありますので、休憩時間を長くとって開始は予定通りということでした。あたりまえのことかもしれませんが、大切な視点です。午後の部までは見ることができませんでしたが、子どもたちはきっとすばらしい姿を見せてくれたことでしょう。

校舎の様子を見に行くと、2階へと続く階段の壁に大きな模造紙が何枚も貼ってありました。学年主任の手作りの個性のある学年の子どもたちへのメッセージです。月ごとに子どもたちの成長をほめ、そのことを喜び、次への期待を綴った、想いのあふれるものです。厳しい指導をされることもありますが、子どもたちにとても慕われている先生です。この先生が主任を務めると、やんちゃな学年も入学時に幼かった学年も必ず立派に育って卒業していきます。その秘密の一つがわかったような気がしました。この学年の子どもたちもきっと大きく成長して、卒業式にはこの先生を大泣きさせてくれることでしょう。その姿を見るまではこの学校にかかわっていたいと思わせてくれる掲示でした。

横山浩之先生から多くを学ぶ

今年度第4回の教師力アップセミナーは、山形大学医学部看護学科教授の横山浩之先生による「不適切な子育てと行動異常」についての講演でした。愛着形成が上手くできなかった子どもの特徴や学校としての対処の方向性についてのお話しです。私自身、学校を訪問していて愛着障害を疑う子どもに出会う機会が増えていたので、とても興味深く聞かせていただきました。

子どもの心理発達上の課題は、年齢ごとに、
・0歳児の課題・・・愛着形成
・1歳児の課題・・・しつけの基本
・3歳児の課題・・・自我の目覚め
・5歳児の課題・・・簡単な論理の取得(一次反抗期)
・8歳児の課題・・・群れでの行動
・10歳児の課題・・心の黒板
・思春期の課題・・・精神的な自律(二次反抗期)
のようになっています。不適切な子育ての影響を受けてこのどこかでつまずくと、それ以降の課題を誤習得してしまいます。心理的な発達は、一定の順序に従い、連続であるが等速ではありません。時期によって、急に変化したり、ゆっくり変化したりします。この発達には決定的な危機があります。人への信頼関係の発達にとっては生後1年がそれにあたります。この時期に不適切な子育てによって愛着形成に失敗すると、ほとんどの課題の習得に失敗してしまうことになります。

例えば、虐待を受けている子どもの場合、幼児期には反応性愛着障害が引き起こされます。反応性愛着障害の特徴の一部としては、
・幼児は視線をそらしながら近づいたり、抱かれている間にとんでもない方向をじっと見ていたりする。
・対人関係の欠如、床にうずくまるなどの引きこもり反応がみられる。自分自身や他人の悩みに対して、攻撃的な反応を示すこともある。
・はげましても効果がない。過度の警戒(しばしば「凍りついた用心深さ」といわれる)が生じる場合もある。
・大部分の例で仲間たちとの相互交流に興味をもつが、(周囲を恐れているため)一緒に遊ぶことは少ない。
などが挙げられます。
これらは、自閉症などの発達障害の行動異常と非常に似ています。
また、学童期に入ると反抗挑戦性障害や行為障害(=非行)といった行動障害への進展、気分障害(うつ病、躁うつ病)、不安障害(神経症)などの精神障害への進展、人格障害、解離性障害など、さらに重症な精神障害への進展が見られます。
反抗挑戦性障害は、「〜しなさい」といった指示に従わなかったり、本当はそうしてほしいのに強く反対したりする行動異常ですが、これも発達障害がある子どもによく見られるものです。そのため、こういった不適切な子育てに起因する行動異常が発達障害と診断されて間違った対応を取られることもあるようです。逆に、発達障害がある子どもは、そのために不適切な子育てをされる危険性が高くなります。また、不適切な子育てによる行動異常をきたしやすい傾向もあります。発達障害のある子どもと不適切な子育てによる行動異常は区別がつかないこともあり得ます。同じような行動をとるので、チェックリストによる判別は不可能なのです。横山先生によれば、その区別は発達障害の子どもは「微細運動障害」があることでできるそうです。具体的には、鉛筆を動かす時に指が上手く動かないといったことがあります。こういったこともとても参考になります。

不適切な子育ての具体例として、「食の問題」「しつけの問題」「メディアの問題」が挙げられました。中でも、「メディアの問題」は考えさせられることが多くありました。
メディアとのつきあい方として、
・2歳までのテレビ・ビデオ視聴は害悪
・授乳中、食事中のテレビ・ビデオ視聴は禁止(食事を大切にしない家庭は崩壊まっしぐら)
・すべてのメディアへ接触する総時間を制限(ゲームは1日30分まで)
・子ども部屋には、テレビ、ビデオ、パーソナルコンピューターを置かない
ことを挙げられました。特に「自然に親しむ・土に触れる遊びを親子で楽しみましょう」というメッセージを横山先生は伝えられましたが、これから子育てをする人にとって貴重なアドバイスだと思います。
保育園で、「おかあさんといっしょ」といった教育番組を見せるところもあるようですが、ビデオ・テレビは保育園や幼稚園では不要だということです。保育士・幼稚園教諭との遊びの方が大切なのです。英語教育のソフトでさえ害悪のようです。
メディアに接する時間が多いといろいろな問題が生じます。例えば、絵空事は少なくとも小学校中学年以降そんなことはないと理解されるのですが、そのことが相応の年齢になっても理解されないといったことが起きます。「たまごっち」が流行ったころ、小学校高学年でも人は死んでも生き返ると思う子どもが大量にいたというデータもあるそうです。こういったメディアの害悪から子どもたちを遠ざけるためには、メディアに接する総時間を制限することが最も重要になります。メディアに接する時間が1日2時間を超えると行動異常が明確に増加し、1日4時間を超えると100%出現するそうです。こういったメディア中毒は小学校高学年以降では治療困難となるようです。
メディア中毒の子どもの特徴は、
・自己の利害関係にのみ忠実に行動する
・自己の利害関係にかなうときだけ、努力する
・おもてうらのある性格・理由のない自信
・言うことと行動とが矛盾する
・保護者の前でだけ立派であったりする
・次第に、怠学傾向があらわれたり、非行傾向があらわれたりする
といったことが挙げられるようです。なるほどと思い当たることがたくさんありました。

私自身が一番知りたかったのが、学校として愛着形成が上手くいかなかった子どもたちにどのように対処すればいいのかということでしたが、そのことについてもよいヒントをいただくことができました。

「行動異常はめだたない」「トラブルがあると、行動異常が出現する」といった軽度の場合は、担任による対応が可能ということです。
こういった子どもたちの行動原理は「自分の利益」ですから、よい行動はよい結果をもたらすことをきちんと教えることが大切です。ペアレントトレーニングの発想できちんと学級のルールを子どもたちに浸透させる学級経営をすることが一番の対応です。また、保護者対策も重要になります。「小学校に入るまでにできてほしいこと」を配布する(できれば、学年単位で)。「学級のルール」の詳細も伝え、「ほめる形」でチェックした結果についても確実に伝えるといったことが望まれます。
不適切な子育てがなされている子どもは、週明け・長期休み明けに行動が乱れます。この点で、ゴールデンウィーク明けは、子どもたちの生活習慣の乱れを知る一番の好期だということです。これは、先生方の経験則とも一致します。ゴールデンウィークに、家庭内でのお手伝い内容を作文の宿題にすることで家庭の様子を知る方法も紹介されました。炊飯のお手伝いをさせて、その様子を作文にする。家庭ならではの料理レシピを作文に書いてもらうなど、なるほどと納得させられます。

「指導者への反抗がみられる」「週数回程度の授業妨害がある」「トラブルを自ら作り出す」といった行動異常が中程度の場合は、担任以外の対応が必要になってきます。「指導者への反抗、授業妨害が毎日ある」「悪意のある他害行動が毎日のようにみられる」というように行動異常が高度になっている場合は、全校体制での対応が必要になります。
不適切な子育てによる行動異常は発達障害と区別がつきにくいのですが、十分に情報収集をすれば、家庭環境の問題の存在はわかってくるはずです。また、不適切な子育てによる行動異常がある子どもでは、年齢があがるにつれて悪化しているはずです。子どもの状況をきちんと申し送っていれば気づけるということです。
こういった行動異常に対してしつけようとしても上手くいきません。その一つ前の愛着形成で失敗しているので、そこから始める必要があります。ここで注意をしなければいけないのは、保護者に多くを求めてしまうことです。そもそも愛着形成に失敗しているのでしつけや心理的対応を望むと「虐待」を助長してしまうことにもなりかねません。学習指導をお願いしてもそれはずっと先の課題ですからムダです。「早寝・早起き・朝ご飯」「衣食住の確保」、可能であれば「メディアの問題」といった最低限のことをお願いするにとどめる必要があります。
では学校では何をすればいいのでしょうか。愛着形成に失敗しているのが問題なのですから、愛着形成の再獲得が求められます。母親役(愛着形成を教える)が、何をすると人に好かれるのかをしてみせ、愛情をかけられる経験をさせることが必要になります。ここで担任は母親役にはなれません。担任が母親役になると学級を統率することに影響が出てしまうからです。担任は父親役として、学級全体にルールを伝え、該当の子どもにとってよい見本をたくさん作る役割を果たすのです。したがって、担任以外で母親役をつくる必要があります。こういった対処をするためには、どうしても組織としての対応が必要になります。具体的には、母親役が複数必要となります。せっかく子どもと関係をつくれても、翌年異動してしまうと元の木阿弥です。また、母親役は子どもがどんな行動をとっても笑顔を絶やせないという精神的な負担も多いので、一人ではその負荷に耐えきれないということもあります。養護教諭、教頭、教務主任(主幹教諭)などが母親役となりますが、対象の子どもが多い場合や小規模校では、学級担任も、他の学級の子どもに対しては母親役として行動することも必要になります。体制を作り、父親役と母親役の調整、確認等を行うといったチームリーダとしての校長の果たすべき役割が大きいことがわかります。

2時間ほどの講演でしたが、愛着形成が上手くいかなかった子どもの行動異常やその発見の仕方、対応について、本当にたくさんのことを学ぶことができました。横山先生は単なる理論ではなく、どうすればよいのかを必ず具体的に示していただけます。現場に近い視点でのお話は私のような立場の者にとってはとても参考になります。本当にありがとうございました。

自分の授業をより高めたい数学教師に読んでほしい本

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静岡の武藤寿彰先生の「ペア、スタンドアップ方式、4人班でつくる! 中学校数学科 学び合い授業スタートブック」の紹介です。

武藤先生は「学び合い」を目的として授業をしてきた方ではありません。一部の子どもが活躍するのではなく子どもたち全員が参加し、わかるできるようになる授業を目指してきた方です。その過程の中で、いろいろな授業に挑戦されてきました。ごく普通の公立学校の教師として、積み重ねた実践がまとめられたものです。ここで紹介されている授業の形態は、「ペア」や「4人班」であったり、「音声計算トレーニング」であったりと一般的に行われているものやどなたかが提唱しているものだったりします。知っている、やっているという方もたくさんいらっしゃるでしょう。しかし、注目すべきは、単なるやり方の紹介ではなく、武藤先生がそれを自分の理想とする授業を実現するための方法として、どの場面でどの形態を使うのか、どのようなことを意識してきたのかといったことが記されていることです。何を目指してどう活用したかのポイントが書かれているので、読者自身が目指す授業の実現に活かしやすいのです。例えば「音声計算トレーニング」であれば、どの問題をどのような順番でやらせるとよいのかといった、武藤先生のオリジナルの考えや工夫がそこにはあります。

また、スタンドアップ方式は武藤先生のオリジナルな部分が多い方法です。子どもが自分で相手を探して説明に行ったり、教えに行ったりする方法です。4人班では人間関係が上手くいかない学級では、これに似た方法を使うことがよくあります。授業以外の生活場面での人間関係を使う方法でもあります。そのため、私はこういったやり方に否定的な立場をとっています。特定の子ども同士ばかり関係ができたり、誰ともかかわれない子どもが出てきたりする危険性があるからです。しかし、武藤先生のスタンドアップ方式では、「全員がゴールできるように、クラス全員が持てる力を出す」「やり方や答を教えるのではなく、ヒントを与えて相手に理解させ、納得させることを心がける」「1人でできそうなら、そばに立っているだけでもよい。間違えていたり、つまずいて止まっていたりしたら、積極的にかかわる」・・・というように、決してそのようなことが起こらないようなルールが決められています。このルールこそが、武藤先生の授業観、子どもたちへの思いを現していると思います。このルールを知ることだけでもこの本を読む価値があると思います。

授業事例もたくさん載っています。読者の教師としてのこれまでの経験によってそこから得られるものは異なってくると思います。多くの経験を積んだ教師ほど、より多くのことを学べると思います。自分の授業を振り返り、より高いところへ到達したいと思う方にとっては、とても役立つ事例だと思います。

この本を読むと、「学び合い」はこうでなければいけないというルールややり方ではなく、子どもたちの実態に合わせて工夫することが大切だと気づけます。それと同時に、子どもたちを信じ、子どもたち全員が互いにかかわり合い高め合う力を身につけることを願って授業を続けている武藤先生の熱い思いに触れ、明日から頑張るエネルギーをもらえることと思います。
手っ取り早く「学び合い」のノウハウを手に入れたい方ではなく、理想とする数学の授業に到達するために「学び合い」をどう取り入れようか考えている方にとって、そのためのヒントや指針が手に入る本だと思います。

スタッフの思いの強さを感じた研修会

先週末は、授業力アップの研修会にオブザーバーとして参加させていただきました。今年で13年目になりました。中心となるスタッフの方はほとんど変わっていません。通常であればマンネリになるところなのですが、毎年手を加えてよりよいものにしようとしています。
今年はいつもと違って、最初に「子どもを動かすスキル」という講座が加えられていました。授業の形を取りながら、その中に子どもを動かすためによく使われるスキルが埋め込まれていました。最初に受講者が体を動かしたり、声を出したりすることで会場をあたためることを意識していたようです。これが功を奏したのでしょう、この後の講演での反応や講座での表情は例年に比べてとてもよかったように思います。こういった細かな工夫が積み重なって今があることがよくわかります。

このスキルの講座で残念だったのが、ねらいが微妙にずれる場面があったことです。何をねらっているのかが受講者にわかりづらいために今何を感じ取ればいいのかが不明確になってしまったのです。野口芳宏先生の○か×かを全員に決めさせるスキルを使う最初の場面は、ティッシュペーパーの箱の模様を使って、向かう合う面に同じ模様があることを気づかせる一連の活動の後でした。この活動を使って授業ができそうかどうかを○か×かで聞きました。受講者の立場で言えば、これを活かした授業を考えるのかと思ってしまいます。続いて、この活動を導入に使った授業の例を2つ示します。そこでも、子どもを動かすスキルを使って授業を行なうのですが、先ほどの問いかけの影響が残り、どうしても視点が授業の流れや中身に目がいきます。スキルを伝えることが目的だからでしょう、通常の授業であれば省略しない、答をどのようにして見つけたかを共有することや正解であることを実際に確かめるといった場面はありませんでした。人によってはそのことが引っかかったかもしれません。また、会場の雰囲気を柔らかくするために、ゆるキャラを使って子ども役の興味を引くこともします。ご当地ゆるキャラやコンテストの投票の話をしますが、どこまでが授業のシミュレーションなのか、スキルを実感する場面なのかはっきりしませんでした。
最後に、子どもを動かすスキルを「全員参加させるため」として。「野口式○×法」「指でさして答える」「全員起立して順番に答える」とまとめました。具体的な例もよいのですが、「誰でもできること」をまずさせるという基本となる発想を伝えるべきだと思います。「わかった人?」「困っている人?」といったことを聞けば、該当しない人は手を挙げません。そこで、まず全員立たせたり挙手させたりしてから、座らせたり、手をおろさせたりすれば、全員を動かすことができるわけです。この発想があれば、全員参加のスキルはいろいろと考えられるはずです。
具体例と合わせて「子どもの反応をよく見る」「切り返しの発問、意図的指名」を提示しますが、これは授業の場面のどこでどうであったかは解説されません。この言葉だけでは、少経験者は実際にやれるようにはなりません。もちろん、ここまでをねらっているわけではないのでよいと言えばよいのですが、中途半端な気がしました。
そして、子どもを動かすためには、スキルだけではなく、「?」や「!」をつくることが重要で、「身近なものや具体物」「手作りの掲示物」が有効であることを伝えます。確かにそうなのですが、これもやはり例でしかありません。「?」や「!」をつくるために工夫をしなさいということを伝えたいのでしょうが、小手先のような気がします。
30分という短い時間なので、何をメインにするかはっきりさせて、そこを第一に講座を構成するとよかったと思います。雰囲気づくりが第一であれば成功なのでしょうが、タイトルが「子どもを動かすスキル」となっているので、受講者としては消化不良だったのではないでしょうか。

愛知教育大学名誉教授の志水廣先生の講演は、いつものように子どもたちの気持ちに寄り添った授業観で具体的なお話しでした。会場の反応がよかったせいか、いつも以上にのりのよい講演でした。受講者にとって学びの多いものだったと思います。

実習では、受講者の笑顔を多かったことが印象的でした。先生役をやる時は、たいていは緊張してなかなか笑顔が出ないものですが、この日の受講生はとてもよい表情で先生役に挑戦します。大ホールで小グループに分かれて行っているので、互いによい影響を与え合っているようですが、裏を返せば雰囲気が悪いと全体が落ち込んでいきます。そうなっていないのは、スタッフの力によるところが大きいと思います。スタッフの笑顔が素晴らしいのです。先生役と子ども役の双方をしっかりとポジティブに評価しています。先生役と子ども役は互いに影響し合います。このことをしっかりと理解しています。最初の講座から始まり、最後までスタッフが雰囲気づくりを大切にしていることはとても素晴らしいと思いました。こうした講座を企画すると、どうしてもプログラムやその内容にばかりに意識がいきますが、雰囲気づくりも大切にできることは、長年の積み重ねの結果だと思います。

これだけ長く続いている研修会ですが、スタッフもそれだけ歳を取って来ています。中心メンバーの一人に、後継者の問題を含めてこれからのことをたずねました。「無理やり後継者をつくってもうまくはいかない。自分たちは思いがあってここまで続けてこられた。そういった思いがなければこのような研修会は続けることはできない。次の世代が、自分たちの思いで新しいものをつくればよい」。この答を聞いて感心しました。自分たちでつくったものを何とか継続させたいと思うのが常です。形ではなく、その思いを大切にしているからこそ、次世代が自身の思いで新たなものをつくってほしいと願っているのです。逆に、この研修会のスタッフの思いの強さもよくわかります。
毎年、私自身多くのことを学ばせていただいている研修会です。少しでも長く続くことを心から願っています。

「アクティブ・ラーニング」とはどのようなものか?

「アクティブ・ラーニング」という言葉が小中学校の現場でも聞かれるようになってきました。免許更新講習のテーマにもよく取り上げられているようです。ある高等学校では、昨年まで授業研究でグループ活動は入れないように(教師の動きが少ないので手抜きと見られる?)というお達しがあったのが、今年は積極的に取り入れるようにと手のひらを返したというような話も聞きます。小中学校では考えられない話ですね。「アクティブ・ラーニング」はどのようなもので、何をすればよいのか当惑している方もたくさんいると思います。

昨年の中教審への「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について」の諮問の中で、
・・・
そのために必要な力を子供たちに育むためには、「何を教えるか」という知識の質や量の改善はもちろんのこと、「どのように学ぶか」という、学びの質や深まりを重視することが必要であり、課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習(いわゆる「アクティブ・ラーニング」)や、そのための指導の方法等を充実させていく必要があります。こうした学習・指導方法は、知識・技能を定着させる上でも、また、子供たちの学習意欲を高める上でも効果的であることが、これまでの実践の成果から指摘されています。
・・・
と取り上げられたことが、小中高等学校で「アクティブ・ラーニング」という言葉が話題になるようになったきっかけだと思われますが、この「アクティブ・ラーニング」という言葉は、もともと大学教育の改革の中で言われるようになったものです。平成24年度の「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて〜生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ〜」の答申の用語集では、

【アクティブ・ラーニング】
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。

となっています。こちらの定義では、およそ学生が能動的(アクティブ)に活動すればすべて「アクティブ・ラーニング」と言えるようなものになっています。何か作業をさせるだけでも「アクティブ・ラーニング」と言えそうです。大学ではそれほど教員による一方的な講義が行われていたということなのでしょう。
小中学校では、以前から一方的に先生が教えるような授業は改めるべきだということは言われていて、上手くいっているかどうかは別にして、多くの先生が、子どもが友だちとかかわりながら互いに学び合うような、子ども主体の授業を目指しているように思います。小中学校の先生は「アクティブ・ラーニング」とは何だろう、どうすればいいのだろうと悩む必要はあまりないように思います。今まで通り、自分たちの考えるよい授業(≒アクティブ・ラーニング)を実現しようと工夫し続ければいいだけだと思います。

私には、「アクティブ・ラーニング」は、共通一次試験の導入以来、目先の大学受験だけを意識して、とにかく知識を教え、覚えようとさせていた高等学校の先生方への黒船のように思えてなりません。小中学校で取り組んでいることに対して、高等学校の先生は冷ややかな態度をとります。確かに小中学校の先生よりも専門的な知識のある方が多いかもしれませんが、授業技術という面では相対的にかなり低いということを自覚していません。高等学校の先生は小中学校よりも上位の存在であるかのように錯覚しているようにも見えます。妙な権威主義があるので、小中学校で行われつつある、「学び合い」や「協同的な学習」といった言葉でなく、大学教育で使われている「アクティブ・ラーニング」という言葉を持ち出したというのは、穿った見方でしょうか?

これから、「アクティブ・ラーニング」の具体的な姿が少しずつ明らかになっていくと思いますが、小中学校の多くの先生にとっては、「何だそんなことか」「今までやっていることと変わらない」と思うようなものだと想像しています。

授業技術のパラダイムが変わっていく?

昨日あった、授業と学び研究所のミーティングでネット授業のことが話題になりました。
知識を伝えるのであれば、質の高いビデオの方が普通の授業よりもよくわかることもあるのではないかということです。ビデオで見ることを前提として構成を工夫すれば、知識はかなり効率的に教えられはずです。実際にネット授業で学習している方は世界中にたくさんいらっしゃいます。では、今後すべての授業がネット授業に置き換わるかといえば、そんなことはないでしょう。理由の一つは、子どもたちの主体性の問題です。ネット授業を積極的に利用する人のかなりが、実際に学校で学びたくてもそれがかなわない人です。学校に行けなくても「学びたい」という意欲がある方にとってとても有効な手段です。しかし、学ぶ意欲がなければ、見なさいと言っても見ないでしょう。すべての子どもに学ばせるという公教育では、そこが一つの壁になります。逆に言えば、学ぶ意欲を持たせることができるのなら大きな武器になるはずです。もう一つは、これからの時代にとても重要な、人とかかわりながら学ぶことがネット授業では難しい面があることです。ネット上で議論したりすることはできますが、実際に顔を合わせて話し合うことが大切です。また、その話し合いを支援したり、評価したりする指導者も必要になります。
ネット授業だけで完結することを考えず、それを上手く学校の授業に組み込めば、より質の高い学びが可能になるようにも思えます。反転授業などはその一例に思えます。実際にはまだ見たことがないのですが(秋に視察に行く予定です)、授業者の役割は教えることそのものではなく、子ども同士をかかわらせながら、活用したり、より深く理解させたりすることが重要になります。私の経験上、これができる先生の多くは、教えることもとても上手いように思います。子どもに意欲を持たせることと合わせて、このようなビデオがなくてもよい授業ができる方たちです。あえて、反転授業に挑戦する理由が見えないような気もします。
では、ネット授業のようなビデオ授業は学校では普及しないのでしょうか?これについてはいくつかの条件があるでしょうが、質の高いビデオが今後増えてくれば、当然普及するはずです。そうなってくると、授業における教師の役割が変わってくるように思います。どのビデオを使うか、ビデオを見る以外にどのような活動をさせるのか、プロデューサー、コーディネーター的な力が今まで以上に求められるようになります。これまで私は、この力をつけることは難しいように思っていました。しかし、教える部分をビデオに任せることができるのなら、プロデュース、コーディネートに特化した力をつければいいのですから、そのハードルは低くなるように思えます。授業技術のパラダイムが変わってしまうかもしれません。
そんな時代が本当に来るのか、いつ来るのかはわかりませんが、例えそのような時代が来ても、子どもたちがかかわりながら、学びを深めるような授業をつくる力は必要とされ続けると思います。こればかりは、ビデオやICT技術だけではまだまだ解決できないように思います。

自然に背筋が伸びる本

野口芳宏先生の著書「授業で鍛える」が復刻されました。今から30年近く前に出版された書籍にもかかわらず、少しも色あせていないどころか、ますます輝いて見えました。
「鍛える」という言葉には子どもに無理やりやらせるというイメージがあるため、拒否反応をする方がいるかもしれません。しかし、野口先生の「鍛える」は子どもの自己有用感を大切にし、向上意欲を持たせることがベースになっています。子どもにおもねはしませんが、子どもたちに寄り添うことは決して忘れません。どの子どもも授業に積極的に参加し、活躍でき、その結果向上的変容を遂げ自己の進歩を実感できる、厳しいが愛情にあふれた授業を目指すものです。下手な「協同学習」や「学び合い」より、今言われているアクティブラーニングをより高いレベルで実現していると思います。そして、子どもたちを「鍛える」授業をつくるためには、教師が自らを「鍛える」ことが大切なのだと気づかされます。単なる授業技術のノウハウではなく、授業のあるべき姿、教師のあるべき姿を明確に示しておられます。

毎年、野口先生とお話をする機会をいただいていますが、初めてお会いした時に「教師が授業の主役」だと主張されました。私は「子どもが主役」の授業を目指してほしいと常々思っています。考え方が違うのかとも思いました。しかし、野口先生のお話を聞けば、一方的に教師が教え込む授業ではなく、子どもたちに考えさせ、活動させ、活躍させることを目指していることがわかります。子どもたちに全員参加を求め、活躍させ鍛えるのが教師の仕事だというそのお考えに納得したのを覚えています。この本を読んで、今学校現場で私が話していることの多くが、野口先生との出会いに影響されていることを再認識させられました。野口先生の実践やお話から私が鍛えられたことがよくわかります。

時代の変化や流行に揺るがない先生の主張に、読んでいるうちに自然に背筋が伸びてきます。若い先生方が生まれる前に書かれた本です。だからこそ、若い先生にはこの機会にぜひ読んでほしいと思います。授業のあり方を通じて教師とはどうあるべき存在かを学ぶことができると思います。

福山憲市先生から学ぶ

本年度第3回教師力アップセミナーは、山口県の福山憲市先生の「20代からの教師修業 出会いと挑戦」と題した講演でした。福山先生は「ふくの会」という勉強会を30年以上続けられていることでも有名ですが、130名の学年で算数の平均点が90点以上といった授業力や学級経営に定評のある方です。

お会いしてまず感じたのが、笑顔でした。この日ずっと笑顔が消えることがありませんでした。これは意識し続けなければできないことです。この一点だけでも、すばらしい先生であることは間違いないと確信できます。

「出会い」を大切にされています。言葉でそのことを説明するのではなく、実際の活動を通じて上手に伝えられます。会場の参加者同士で挨拶をさせますが、握手をしたかどうかを確認します。握手をして触れ合うことの大切さを伝えて、今度は移動してより多くの人と握手をするように指示します。その後、握手した人の名前を憶えているかをたずねます。憶えていない人が普通ですが、それでは出会いを大切にしていないとお話しされます。この一連の活動から、福山先生の姿勢や授業スタイルが見えてきます。伝えたいことをスモールステップに分割し、実際に活動をすることを通じて気づかせるというスタイルは授業でもとても有効だと感じました。また、福山先生は、指示が具体的でとても明確です。わかりやすくゴールも設定します。何より、よくほめます。授業力に定評のある方は、こういう基本的なことを絶対に外しません。

自身が先輩から学んだことをその時の話を交えて伝えていただきます。自信の至らなさをもとに伝えるところに、若い先生に成長してほしいという思いを感じます。よき先輩との出会いと、よき先輩になろうとすることの大切さを改めて感じました。

子どものちょっとした疑問も大切にされています。そういうものだと私たちがあたりまえのこととして疑問を感じないことも、子どもたちの目には不思議に映ります。子どもたちの「童心」と「同心」になり、いい質問をしてくれてありがとうの言葉をかけ、知らないから調べて学ぶことで「動心」し、子どもたちに「憧心」を持ってもらう。「童心→同心→動心→憧心」こんなお話に、子どもたちの側に寄り添う福山先生の姿勢を感じます。

障害児学級での経験で、子どもたちのやる気を引き出すための基本的な考えを教えてくださいます。その時間の一連の活動を事前に伝え見通しを持たせる。一つひとつの活動時間を短く区切り、名残惜しい気持ちにさせる。そして、何より子どもをほめることです。どんな些細なことでもいいので、ほめることは子どものやる気につながります。この考えには私も大きく共感します。

福山先生の講演は参加者にたくさん質問をされます。参加された方がいっぱい考えて頭がつかれたと言っていたのが印象的でした。よい授業を聞いた時の子どもの感想と同じです。福山先生の授業の本質を表わした感想なのかもしれません。子どもたちの平均点が高かったとことの秘密はそんなところにもあるのかもしれません。

以前からお会いしたかった福山先生にお会いでき、とても多くのことを学ぶことができました。このような出会いに感謝です。

志水廣先生、大羽沢子先生から学ぶ

今年度第2回の教師力アップセミナーに参加してきました。「算数授業のユニバーサルデザイン−模擬授業を通して学ぶ−」と題した、愛知教育大学名誉教授の志水廣先生と鳥取大学医学部エコチル調査鳥取ユニットセンターの大羽沢子先生の講演でした。お二人が執筆された「算数授業のユニバーサルデザイン 5つのルール・50のアイデア」は算数のみならず、どの教科の授業でも参考になると評判です。

冒頭で「授業のユニバーサルデザイン」とは「学力の優劣や発達障害の有無にかかわらず、全員の子どもが楽しく『わかる・できる』ように工夫・配慮された通常学級における授業デザイン」(授業のユニバーサルデザイン研究会)と定義されました。このことがすべてを物語っていると思います。ユニバーサルデザインだからといって特別なことではないのです。私たちが日ごろから目指すべき授業そのものです。
配られたユニバーサルデザインのチェックシートの項目を見ることで、授業で注意するべき視点が浮かび上がってきます。

1.机の配置、机の上の整理など子どもが集中しやすい環境ですか。
2.具体的なねらいが設定されていますか。
3.子どもは最後に何ができればよいか明確ですか。
4.ねらいを達成するのにふさわしい教材・教具ですか。
5.学習活動は、何をすればよいか分かりやすいものですか。
6.指示は短く具体的でしたか。
7.自力解決や適用問題の時に机間指導していますか。
8.机間指導での助言は、できるだけ端的にしていますか。
9.間違えているときの助言の仕方を考えていますか。
10.訂正ができたら即座にほめましたか。
11.子どもの発言を最後まで注意深く聞いていますか。
12.「どこがむずかしかったかな?」や、「何を見てそう考えたの?」など困っている子どもにたずねてみましたか。
13.分かりやすくはっきりとほめましたか。
14.キーワード(ねらいに迫る言葉)を子どもに言わせたり、板書したりしていますか。
15.初めて学ぶ算数用語などは、全員で繰り返し言ったり、確認したりしていますか。
16.不適切な行動に対して、どのように対応するかあらかじめ決めていますか。(子どもの考えは一旦受け止めてから次の指示をする、適切な方法を考えさせる、モデルを示す、ほめるタイミングなど)

どうでしょうか。ユニバーサルデザインということを意識していない方でも、授業中に気をつけていることばかりではないでしょうか。
7、8、9、10は机間指導に関することですが、私が見る限り、このことができていない方が多いように感じます。なんとなく子どもたちを眺めている机間散歩が目立ちます。最近は若い方に対して、まず全体をしっかり見て支援が必要な子どもを素早く見つけるように指導しています。その子どもに素早く対応をして、また全体を見るのです。本当はきちんとした机間指導ができることが理想ですが、力がないと机間指導をしている間に子どもの集中力が切れてしまうことが多いからです。全体の様子を見る力をつけてから、個別に机間指導をするようにお願いしています。
授業づくりのポイントとして、子どもに達成感・自己肯定感を持たせることを指摘されます。そのために、ほめる、認めることが必要です。何ができればいいかを明確にし、ちょっとでもできたら励ます、一緒に喜ぶ。こういったことちょっとしたコツを大切にしてほしいというメッセージは全くその通りだと思います。

この日は、志水先生が師範の模擬授業を行い、その解説を大羽先生が行いました。
場面ごとに、大羽先生が参加者とやりとりしながら解説をされるので(特に若い先生には)、具体的にどのようなことが大切なのかよくわかったと思います。
志水先生の授業は何度も見せていただいているのですが、今回その幅が広がっていると感じる場面がいくつかありました。
志水先生は「意味付け復唱法」が有名です。子どもの言葉を教師が復唱することで、子どもを受容し、子どものたちの発言をねらいに近づけていく方法です(詳しくは志水先生のご著書で)。この日はすぐに教師が復唱せずに他の子どもに復唱させてから、教師がもう一復唱するといったやり方も見せていただきました。子ども同士のつなぎをより意識したやり方です。バリエーションが増えています。
子どもの実態把握や答の確認については「○付け法」を提唱されていますが、この日はあえて隣同士で確認させる方法も使われました。志水先生ならばあっという間に○つけで実態把握ができるはずですが、こういったやり方もあることを(特に素早く確実な○つけができない方のために)教えてくださいました。自分流にこだわる方が多いのですが、相手のレベルに応じてそれ以外のやり方も紹介される姿勢に感心させられました。
この模擬授業のめあては「180°より大きい角を調べよう」でした。「調べよう」では、子どもにとっては具体性がないので、「測り方を考えよう」、もっと具体的に「測れるようになろう」の方がよかったのではないかと思いました。そのことを志水先生にお話ししたところ、「そうだなあ」と受け止めていただけました。言い訳もせずに素直に認められる姿勢は、さすがだと思いました。その姿勢が、進化し続ける原動力なのでしょう。講演の内容以上のものを教えられた気持ちになりました。

この日も岐阜聖徳学園の玉置ゼミの学生をはじめ、若い方がたくさん手伝ってくれました。ゼミの学生の中にはこの日の学びをより確かなものにするために、事前に「算数授業のユニバーサルデザイン 5つのルール・50のアイデア」を読んでいる方もいました。現役の教師でもなかなかできないことです。とてもうれしく思いました。積極的に学ぼうとする姿勢をこれからも大切にしてほしいと思います。

タブレットを使った公開授業から学ぶ

ICTを活用した公開授業の中継を見に行きました。小学校6年生の国語と、小学校4年生の算数の授業でした。

国語の授業は、デジタル教科書に子どもがマーカー機能で書きこんだ線や手書きのメモを全員で共有し、一人の意見や考えを受けて授業者が次の質問を発し、再び個人で考えて発表するという繰り返しでした。一人ひとりの発言を全員が共有できているかどうかは映像からはわかりません。次々と質問が変わっていきますが、それらが子どもたちの疑問や課題になっていないように思いました。子どもたちは自分たちのやっている活動がどこに向かっているものか、わかっているのか疑問です(少なくとも私には全くわかりませんでした)。子どもへの問いかけや確認が所々に入るのですが、子どもたちは全員挙手するわけではありせん。数人しか反応しないこともよくありますが、授業者がすぐに自分の言葉でまとめて次に進めていきます。挙手しない子どもの考えを聞いてみたいのですが、気にならないのでしょうか。子どもたちが教師に鼻面を引き回されているようにしか見えません。
子どもたちは電子黒板で自分のタブレットの画面を表示して説明します。たくさんの書き込みがあるのでかえって情報過多でよくわかりません。必要な情報だけを提示する必要があると思います。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と感じました。また、発表者は電子黒板の前で操作しながら話すので、友だちの顔をほとんど見ていません。たまたま会場の環境が悪かったせいかもしれませんが、相手を見て話すことはあまり意識されていないようでした。せめて指示棒のようなものを使えば、電子黒板から離れることができ、友だちの顔を見ることができたのではないかと思いました。
国語の授業でデジタル教科書のよさを感じるのは、テキストをスクロールできることです。離れた場所の文章を比較したりするときにはとても便利だと思いました。逆にそれ以上の魅力は今回の授業からは感じませんでした。
今回の授業は一言で言えば、「デジタル機器を使って子どもの考えを把握した教師が、その場で脚本を書いて子どもたち演じることを強要している」というものでした。子どもたちがつくるのではなく、教師がつくる即興劇のように感じました。

算数の授業は、折れ線グラフの導入場面でした。2時間完了の1時間目ということでしたが、この1時間の授業のねらいが折れ線グラフのよさを知ることなのか、書き方を知ることなのかがよくわかりませんでした。
授業者は子どもの言葉を活かすことを意識しています。子どもの言葉を上手く拾うことができます。一つひとつの場面を点で見ると上手な授業なのですが、構成がよくわかりません。新潟と那覇の気温を調べる自由研究をした子どもを題材に導入するのですが、算数に関係のないことにとても多くの時間を費やします。本題のグラフに入るまでに優に15分以上を費やしていました。結果授業はかなり延長してしまいましたが、その意図が全くわかりませんでした。
項目名も書いていない、多い順に並べられた棒グラフを見せます。子どもの「おかしい」という言葉を拾って、どこがおかしいのかを相談させます。「気温だからおかしいと思う」という子どもの言葉をとりあげました。問題は「なぜ気温だとおかしいのか?」です。棒グラフは多い(大きい)、高い順に見ると説明しますが、そうなのでしょうか?社会科の雨温図では雨量は棒グラフです。本質は降順で表わすことではありません。棒グラフは、もともと積み上げグラフです。本を1冊2冊と積み上げるといったことが原点です。量を見るのに使うものだったのです。しかし、授業者はおそらく意図的にそこを無視したのでしょう。なぜなら変化を見ることに注目させたいからです。とすれば、この導入は無理があるのではないでしょうか。あえて「気温を調べる」とそこから何を知りたい、何がわかったと、何を伝えるといったグラフ化する目的を見せていないのですが、それではグラフを評価できないと思います。
今度は子どもたちにこのグラフを月の順に並べ替えたらどうなるかを、電子黒板に手書きさせます。指名された子どもは、連続な線で描きました。描かれたものを見て気づいたことを言わせますが、線で描いていることだけを拾います。その理由を問いますが、「楽だから」の一声です。そりゃあそうですよね。結局理由は明確にしないまま折れ線グラフの授業になっていきました。
授業者は新潟と那覇の気温の表を見せ、そこからグラフ化することのよさを考えさせようとしています。この表の表題には、「変わり方」「違い」といった言葉があります。突然「変化や違いついて調べよう」目的が出てくるのですが、子どもたちにはその必然性がわからないと思います。あえて気温を「調べる」と「変化」「違い」という言葉を封印していたのに、なぜでしょう?疑問に思いました。
ここでデジタルペンを使って折れ線グラフを描かせます。授業者はここぞという時に絞ってICT機器を使う主義のようですが、そのここぞがデジタルペンでの作業でした。グラフの値を途中からずらしてしまった子どもがいます。その子どものグラフを見せて、どこがおかしいか指摘させます。失敗した原因を探るためにデジタルペンの機能を使って、描いているところを再生させます。1月ごとに順番に線でつなぎながら描いていました。きちんと描けた子どもが点を先にとってから結んでいく様子も再生して、比較させます。違いがわかったところで、点を先に描いて結ぶ方がいいと授業者が結論づけます。なら、最初から教えればいいでしょう。折れ線グラフの描き方の手順を考えることが算数、数学の目的にあっているとは思えませんが、せめて子どもたちにどちらがいいかその根拠と共に考えさせ、全員が納得する必要があるでしょう。結局教師が教える授業になってしまいました。
タブレットを使った授業を考える以前に、算数の授業として何を考える授業だったのかがよくわかりませんでした。

もやもやしたまま、午後の振り返りのセッションの中継を見ました。パネラーの一人が非常に明確に2つの授業についてコメントをします。一つひとつの指摘に思わず心の中で拍手をしました。まさに授業中に私が思っていたことそのものです。もやもやがすっきりしていくのを感じました。この午後のセッションと合わせることで、この日の学びが確かなものになったと思います。どんなテクノロジーも、授業の基本をおろそかにしては活かせない。逆に言えば、力のない者でも上手く授業ができるようなテクノロジーはまだまだ難しい。あらためてそう感じました。よい学びをさせていただきました。

とてもうれしいメール

昨日、突然30年ほど前の教え子からメールが届きました。たまたまインターネットで私の動向を知り、連絡をくれたのです。彼は、大学卒業後就職したものの、大学院の夢があきらめきれずその会社を退職し、大学院に入学したそうです。修士課程を終了後別の会社に就職し、6年前にベルギー工場の駐在エンジニアとなり、1年前より、フランスの共同開発ベンチャーで医療機器の開発で活躍しているようです。

うれしかったのは、当時私がよく口にしていた、「俺は君たちの20年後と勝負している」という言葉を覚えていてくれたことです。その頃私は、過去に学んだ知識に頼るだけで今現在学ぼうとしない教師や、子どもたちに対して上から目線の教師に対して強い不満を持っていました。子どもたちは、今は未熟ですが、「後世畏るべし」という言葉もあるように、何年か後に素晴らしい大人に成長する可能性を持っています。自分と同じ歳になった時の彼らに、今の自分が負けていないように学び続けよう。子どもたちを未熟で指導しなければいけない対象ではなく、自分と対等な、いや自分よりも立派な人間となる可能性のある一人の人間として尊重しよう。ともすると、他の教師のように自分に甘く、尊大になりそうになる自身への戒めでした。今から思うと気負い過ぎで恥ずかしいところもありますが、教師として彼らに自分を越えてもらいたいという願いも込めて、そう語っていた記憶があります。

また、当時の数学の授業を「本当に楽しい授業でした」と言ってもらえ、これほどうれしいことはありません。20年後ではありませんでしたが、こうして教え子が活躍していることを知り、そのほんの一部分にでも自分が役に立てたのではないかと思えることは、教師冥利に尽きます。子どもたちの卒業後も「先生面をしたくない」という思いと、関わればきっとしてしまうだろうという思いから、教え子とは距離を置き続けてきましたが、こうした連絡をもらえると、そんなことは忘れてしまいます。
こうした教え子が一人でもいれば、「自分のような者が教師であってよかったのだ」と思えます。とてもうれしいメールでした。

リーダー以外にも読んでほしい、リーダーのための本

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玉置崇先生の著書「主任から校長まで 学校を元気にするチームリーダーの仕事術」の紹介です。

学校は鍋蓋組織とよく言われます。一般企業と違って中間管理職のポジションもはっきりとしません。あなたは主任だからチームのリーダーだよと言われても、いったいリーダーとして何をすればいいのか、具体的に教えてもらった経験がないという方も多いのではないでしょうか。リーダーのあり方が組織を変えるとはよく言われますが、部下の立場でリーダーへの不満を感じていても、いざ自分がリーダーとなった時に何をすればいいのかよくわからないことが多いように思います。日々学校におじゃましていますが、組織としてリーダーを育てる仕組みがきちんと備わっていないとよく感じます。

この本は、「仕事術」とありますが、こうやると仕事がはかどるといった類のことが書いてあるわけではありません。チームのメンバーがやる気を持って仕事をするために、リーダーは何を意識し、どのような姿勢で仕事に向き合えばいいのかが、具体的に語られています。学校の場合、リーダーといっても授業や部活動の指導など、他の先生と変わらない仕事を持っている方がほとんどです。負担感ばかりを感じるかもしれません。そんな中、ちょっと視点を変えるだけで、組織が円滑に動き出してチーム力がアップし、負担感も軽減されます。それこそ、学校が元気になっていくのです。

この本はチームリーダーを対象に書かれていますが、まだその立場にない方にもお勧めしたいと思います。ここに書かれているチームリーダーがなすべきことの中には、チームの一員として知っておくべきこと、意識すべきことがたくさんあるからです。また、学級を一つのチームと考えれば、学級担任はチームリーダーです。ちょっと視点を変えれば学級経営のヒントになることもたくさんあります。3章で書かれている、「職員の悩みを解決する話の聞き方」「職員のやる気を引き出す声のかけ方」「注意を促す時の声のかけ方」などは、小学校中高学年や中学校における、学級の子どもとの接し方に通ずるものがあります。

元気な学校をつくってきた玉置先生だから書ける、実践に裏付けられた、すぐに実行可能な具体的なノウハウやヒントが満載です。リーダーだけでなく、もうすぐリーダーになる方、そしていつかリーダーになる、すべての先生にお勧めしたい本です。

菊池省三先生と若い先生、学生から刺激を受ける

今年度第1回の教師力アップセミナーは、菊池道場主宰の菊池省三先生の「豊かなコミュニケーションによりお互いを認め合う学級づくり」と題した講演でした。

講演は菊池学級で育った子どもの姿をまず動画でたくさん見せていただきました。子どもたちが堂々と自己開示できていることが印象的でした。子どもが何を話しても安心、安全な学級がつくられていることがよくわかります。また、子どもの口から「価値語」と言われる言葉がたくさん語られていました。「価値語」とは「自分を見くびらない」「いい意味でバカになれ」「白熱する教室」・・・といった子どもたちに大切してほしい価値観や行動を言葉にしたものです。これが子どもたちに浸透しているのです。「価値語」は、子どもから自然発生的に出てくるものではありません。また、いくら「価値語」を教えても、それが具体的にどうすることなのかわからなければ絵に描いた餅です。菊池先生は子どもをポジティブに評価し「ほめ言葉のシャワー」を浴びせ続けます。教師が自らの行動で具体的に示すことや、子どもたちのよい行動を引き出し即時に価値づけすることが必要です。子どものよい行動を引き出すために、菊池先生は通常の係活動とは異なった係をつくっておられました。例えば、「ダンス係」は子ども同士がダンスバトルをする会を企画運営します。こういった活動が、「価値語」の意味を体感する場と実践する場になっています。
また、気なる子どもへの接し方についてもとても納得のいくお話が聞けました。たとえ一瞬でもよい行動をとった時にほめることや、子ども同士で気になる子どもをよい方向に変えるように働きかけるといったことは、本当にその通りだと思います。

子どもたちの具体的な姿を動画で見せながら語られるので、説得力はとても高く、多くの先生方に指示される理由がよくわかります。具体的にどのようにしているのか、細かいところについてもっと詳しく聞きたかったのですが、時間の関係もあってできなかったことが残念です。多くの著書があるので、それを読みなさいということですね。

たまたまかもしれませんが、動画に登場する子どもたちは、明るく自信にあふれていますがややテンションが高い傾向がありました。相手を「説得」するタイプに感じられます。学級として互いに認め合えるように育っているので問題にはならないのですが、進級や進学で他の学級の子どもと混じった時に、まわりの子どもとどのような関係になるのかちょっと気になりました。相手のことを思いやれる子どもたちなので上手くなじむのかもしれませんが、反発されるかもしれません。こういう学級経営が個人の取り組みではなく、学校全体のものとなってほしいと思います。

教師力アップセミナーの運営のお手伝いに、新たに若手の先生、学生が参加してくれました。特に岐阜聖徳学園の玉置ゼミからは、地元ではない方もたくさん参加してくれました。大学以外の場でも学ぼうという意欲が素晴らしいと思います。玉置ゼミの学生に共通して素晴らしいと感じたのは、人に接する姿勢です。受付では参加者に資料をきちんと両手で笑顔をと共にて渡していました。簡単なことのようですが、なかなかできないことです。研究発表などに出かけても、受付で笑顔に出会えないこともよくあります。また、玉置教授から学生に紹介された時、みな素敵な笑顔で応えてくれました。笑顔の内に素直さを感じます。よい指導者の下、きっと素晴らしい先生として教壇に立つ日がくることでしょう。何年か先に彼らと学校で出会う日がくることを楽しみにしています。

運営の反省会でのセミナーの感想の中に、菊池先生の話術の素晴らしさがありました。若い方は、上手な話術にあこがれる傾向があります。確かに教師として大切なことの一つなのですが、過度にそこを意識しないでほしいと思うのです。ある意味、話術は芸です。子どもたちにうける話をできることは悪いことではありませんが、あくまでも大切なのは何を伝えるか、どんな活動をするかという授業の中身です。話術は数ある授業技術の一つに過ぎないのです。この日の菊池先生のお話しであれば、具体的に子どものどんな行動をどのようにほめればいいのか、子ども同士が認め合うためにはどのような働きかけをすればよいのかです。もちろんこのことも意識してくれているとは思いますが。
玉置ゼミのサイトでは、学生が読書などの日々の学びを発信しています。学生らしい素直な視点に好感が持てます。今回のセミナーでどのようなことを学んだのか、発信が楽しみです。
菊池先生の講演と、若い先生、学生に大いに刺激を受けた一日でした。
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