返しの難しさを感じた授業

昨日の日記の続きです。

1年生の国語は物語で登場人物の気持ちを読み取って音読を工夫する授業でした。
授業規律もしっかりできていて、子どもたち対する指示も的確です。興味関心を持たせる工夫など、学ぶべきことの多い授業でした。
音読で子どもたちに「強く」「弱く」という強弱や「早く」「ゆっくり」という緩急などを意識して読ませます。できれば、「表題」や「作者」という用語やそれと関連して音読する時の間なども教えておきたいところでした。
「いつの話」「だれが何をしているのか」といったことを意識して読むように指示をします。目標を持たせることはよいことです。子どもたちは一生懸命に読んでいるのですが、音読に意識が集中しているようにも見えました。音読と読み取りと明確に分けてもよかったかもしれません。読み取りについては、それがわかる所に線を引かせると、何となくではなく根拠を持つことができると思います。
発表者には本文のどこに書いてあったかをちゃんと確認します。とてもよいことです。「最初のところに書いてあった」という子どもの答に、そこをちゃんと読ませます。これもよい指示ですが、本人に読ませずに、他の子どもに読ませたり、確認したりするといったことをしてもよいでしょう。手を挙げなかった子ども、聞いているだけの子どもを動かすことも大切だからです。
登場人物の確認で、「いいです」「同じです」という反応が返ってきますが、全員がきちんと反応しているわけではありません。何となくで先に進むことがあると、次第に子どもたちは受け身になっていきます。何人も指名して、「同じ」ではなくもう一度言い直させるとよいでしょう。
「やぶれしょうじ」の意味を確認しますが、しょうじを「やぶって」という子どもの言葉でそのまま進めます。「やぶれている」「やぶれたまま修理していない」ということ押さえる必要があります。また、作者の表現に敏感になって、そこから情景を読み取る力をつけることが大切です。「どうして敗れたままにしているの?」と子どもたちに問い返すことで、「やぶれしょうじ」という言葉から貧しい生活の様子がうかがえることに気づかせたいところでした。
登場人物のおかみさんとたぬきの様子を子どもたちに前に出てやらせます。小道具の糸車とお面に子どもたちは大喜びです。ここで「先生のつくったたぬきのお面は、目は回らないけれど」と本文のたぬきの目が糸車に合わせてクルクル回る表現を意識させます。たぬきの様子が書かれている本文の記述を抜き出して、子どもたちに気づかせてもよかったもしれません。
子どもたちの音読に合わせて、指名された子どもが演技をします。糸車の回る音だけの場面でおかみさんの回す糸車は「キーカラカラ キーカラカラ」「キークルクル キークルクル」という擬音語で表現されています。2つの音ははずみ車の部分の音と糸を巻き取る部分の違いを表わしているのでしょう。小道具の糸車はそこまで細かくつくられていませんが、音が2つに分かれていることも読み取らせたいところでした。また「キー」という音がついていることにも注目させる必要があると思います。ただ、「カラカラ カラカラ」「クルクル クルクル」だけではどう違うのか、それを意識して演技させたいところです。「キー」というきしむ音が入ることで、糸車が古くて痛んでいること、そこからも暮らしが楽でないことを読み取らせたいのです。

用意したおかみさんとたぬきの絵の吹き出しに気持ちを書き込ませます。書けた子どもは手を挙げて先生が来るのを待っています。授業者は○をつけながら声かけをします。子どもたちはとてもうれしそうですが、挙手に頼っているので授業者はあちこちへと大忙しです。手がつかない子どもにも対応しているので、挙手をしている子どもに気づかなかったり、なかなか○つけに行けなかったりしています。ここは、挙手に頼らず列にそって全員に○つけをする「○つけ法」で行うとよいでしょう。手がついていない子どもには一言アドバイスをして、その子たちだけもう一度あとから○つけに回るのです。
子どもたちに、おかみさん、たぬきの気持ちを発表させますが、どこからそう思ったかは問い返しません。子どもなりに根拠があるはずですから、そのことを本文と関連づけて確認するとよかったでしょう。「かわいいなあ」という答に対して「ここに書いてある」と反応する子どもがいます。授業者はそれを取り上げませんでしたが、ちょっともったいないと思いました。
子どもは○ももらっているので発表したくてたまりません。テンションが上がっています。隣同士で聞き合うといったことをしてもよかったでしょう。

おかみさんの気持ちを意識して音読をさせます。子どもたちが考えた登場人物の気持ちと、強弱や緩急をつけるといった読み方の関連がはっきりしません。「どういう風に読むといい?」といった問いかけもするのですが、子どもからは気持ちの部分は出てきても具体的な読み方の説明には上手く結びつきません。ちょっと読ませてみて、子どもたちに「どんな工夫をしていた」とたずねたり、「強く読む時はどういう時?」「かわいいと思ったら、どういう風に読むといい?」と問いかけたりすることも必要だったと思います。

根拠を大切にしようとしていることはよくわかります。しかし、子どもはなかなか明確にすることができません。子どもの発言に対して、できるだけ具体的に問い返すことが必要です。子どもへの問いかけや返しの言葉を工夫するとよいでしょう。
また、この授業では登場人物の気持ちを読み取ることを主眼にしているので、情景の描写にはあまり触れませんでした。時間の関係もあるのでそう判断したのでしょう。情景描写の読み取りについてもどこかで時間が取れるとよいと思います。
力のある方なので、基本的なことは本当にしっかりとできています。だからこそちょっとした工夫で授業はより一層素晴らしいものになると思います。今後が楽しみです。

この続きは次回の日記で。

子どもたちの活動が主体の授業の難しさを感じる

遅くなりましたが、1月に訪問した小学校の話です。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日はベテランと中堅3人の授業アドバイスと学校全体に対してお話をさせていただきました。

6年生の国語の授業は漢字クイズをつくる場面でした。クイズの種類を「読み方山」「使い方山」「送り仮名山」と山に例えて、子どもたちが自分で問題をつくるのがこの日の課題です。
最初に前時にやったクイズについて復習します。指名された子どもは教科書やノートで確認をしようとするのですが、他の子どもは反応しません。他人事になっています。一問一答の形で授業が進むことが多いのかもしれません。
質問に対して積極的に反応する子どもが一部に偏っています。授業者がもっと積極的に指名すれば反応してくれる子どもたちに見えます。授業者がもっと多くを求めてもそれに応えてくれる子どもたちだと思います。

課題を提示後、「発展山」に挑戦してもよいことを伝えます。やる気のある子どもでしょう、「部首」「書き順」と発展問題のジャンルを話します。授業者はそれをすぐに板書しましたが、発言者と授業者だけで終わっています。板書する前に、他の子どもたちに「どんな問題か想像がつく?」と発言を共有したり、「この他にもどんな問題がつくれそう?」と広げたりしたいところでした。
グループで作業をするのですが、グループの形になる時に動きが遅いことが気になりました。課題は理解していますが、どのようにしてつくればいいのか見通しが立っていなかったからのように思いました。

ここで、「分担して、一人が1種類の問題をつくる」「一人2問つくる」「できたら班でやってみる」「掲示用の紙に問題を書き直す」といった一連の作業を説明します。口頭では追いきれません。こういった指示はグループになる前にディスプレイを使って説明するとよいでしょう。指示が終わった後もディスプレイに表示しておくことで、すぐに確認ができます。
子どもたちは、どこから手をつけてよいのかわからないために、エネルギーが低いように感じました。自信がないのでしょう、「先生これであっている?」と授業者に確認します。それに対して、授業者がていねいに対応していました。せっかくグループで活動しているので、グループの他の子どもにつなぐとよいのですが、一人ひとりが違う作業をしているのでかかわり合うことが難しくなっています。「グループで同じ種類の問題をつくる」、グループごとに全部の種類を用意したいのであれば、「ジグソーのように同じ種類で集まって問題をつくった後、元のグループに戻る」といった方法もあります。

気になったのが、この授業の流れからは、子どもたちにどのような力をつけたかったのかよくわからなかったことです。辞書や漢字練習帳をぺらぺらめくっている子どもが目立ちます。意図を持って活動できていません。「漢字に興味を持たせたかった」のか、「漢字の知識を増やしたかった」のか、「辞書の使い方を身につけさせたかった」のか、いずれにしてもそれが明確に伝わってきませんでした。
進捗状況も子どもによって大きく異なっていました。途中で、活動を止めて子どもたちに困っていることを言わせたり、何を使ってどのようなことを調べたかといったことを発表させたりする場面が必要だったでしょう。足場をそろえることで進捗のばらつきは緩和されます。また、「読み方がたくさんある漢字を探す」「同音異義語を探す」「訓読みを確認する」といったことを共有することで、授業のねらいもはっきりしてくるはずです。

子どもたちの活動は、この授業時間内では終わりませんでした。発表用に大きく書き直すことも時間がかかってしまった要因です。授業者は教室に貼ってみんなで見合うことをねらっていたので仕方がありませんが、全体で発表するだけなら実物投影機などを使うことで時間を大きく減らすことができます。こういった活動ではICT機器を活用することも視野に入れたいところです。

子どもたちの活動が主体の授業は、子どもたち任せておけばよいから楽だと思う方もいますが、教師主導の授業よりもはるかに難しいところがあります。課題の与え方一つで動きが変わってきます。また、子どもたちは授業者の予想通りに動くわけではありません。グループや個人によってその動きも異なってきます。子どもたちの様子を観察して、状況に応じた対応が求められます。高い授業力が求められるのです。
この授業を通じて改めてそのことを考えさせられました。この授業から、私も授業者も多くのことを学べたと思います。

この続きは明日の日記で。

学校の次の課題が見えてくる

昨日の日記の続きです。

授業研究は3年生の国語の授業です。「科学読み物を紹介しよう」という単元の第2時で、教科書の本文「ありの行列」の最初の時間でした。
この単元の最終目標である紹介文を書くことを確認してから授業は始まりました。ゴールを意識することはよいのですが、それとこの時間の関係がはっきりしません。内容がわかっていないと紹介できないので、「読み取り方」を学ぶことを明確にしておきたかったところです。
「どんな組立になっているか」を考えて読むことがめあてです。「つながりに気をつけて」という表現もします。「組立」「つながり」がどういうことなのかを確認しておきたいところでした。過去に学習したのであれば、その時の文章を提示して思い出させるといったことが必要だと思います。

授業者の範読を聞いて、初めて知ったことを後から発表してもらうと伝えます。目標を明確にすることはよいことです。この時鉛筆を手に持っている子どもと持っていない子どもがいることが気になりました。「初めて知ったところに線を引く」という課題にして、鉛筆を持つことまで指示した方がよかったかもしれません。
本文に「じょうはつ(蒸発)」という言葉がありました。子どもたちが「蒸発」という言葉を知っているのかちょっと心配でした。確認をしておきたいところです。
子どもから「お尻から液が出る」「餌が多いほど匂いが強くなる」といったことが出ます。この時、友だちの発言を聞いていない子どもが少し目につきます。ここはあまり時間をかけたくないところでしょうが、どこに書いてあったか確認することも必要でしょう。

文章を形式段落に分けさせます。上手く分けることができない子どももいます。形式段落の定義が全員に定着していないようでした。確認が必要だったようです。
段落数の確認で自信のない子どもはまわりの様子を見て手を引っ込めてしまいます。よくあることなのですが、間違えても恥ずかしくない雰囲気ができるとよいでしょう。

授業者がこういった文章には「問い」があると説明します。問いの文はどれかを探させます。「それなのに、なぜ、ありの行列ができるのでしょうか。」という文の「それなのに」を問いに含むかどうかで意見が分かれます。これは「問いの文」をどのように定義するかで違ってきます。「それなのに」の「それ」が、「ありは、ものがよく見えません。」を指していることを押さえて、「それなのに」を含めるのなら指しているものも一緒にしないとよくわからないことを確認するとよかったでしょう。両方を合わせて問いの文とする、1文にするのなら「それなのに」を外した方がよいといったところで納得させるとよかったでしょう。
ここは問いの文を厳密に定義することではなく、文章の構成を考えることがねらいのはずですから、あまりこだわりすぎない方がよかったと思います。
結局、問いの文は「それなのに」を除外することにしましたが、根拠は子どもたちには明確になっていませんでした。

構造を意識するのであれば、「疑問を持つ⇒調べる⇒答がわかる」という過程を意識して、この文章がこのような構造になっているのか考えさせるという方法もあります。
最初に問いがあることから、答はどこかにあるはずだと問いかけて、その部分とそれ以外に分かれていることに気づかせる方法もあります。
いずれにしても、その上で3つに分かれることを「はじめ」「中」「終わり」の用語とともに確認したいところでした。しかし、授業者はこれも天下りで「はじめ」「中」「終わり」の3つに分かれると教えました。何かに疑問を持って調べたり考えたりしたことを伝えようとすると、こういう構造になることに気づかせたいところでした。

3つに分かれることを説明した後で、答の文を確認させました。答の文を「このように、においをたどって、……」の「このように」を含めて線を引く子どもが何人もいました。「それなのに」を除外する根拠が明確でなかったので、混乱しているようでした。「それなのに」がダメだったから「このようにも」だめという意見が出ました。本質的な説明になっていませんが、授業者はそれでよしとしました。ここがこれほど子どもたちの争点になるとは思っていなかったのでしょう。恣意的に進んでしまいました。

結局、子どもたちとっては、文の構造を考えるのではなく、問いの文、答の文を見つけることが中心の活動になってしまいました。
「文の組立とはどういうことか?」「つながりとはどういうことか?」「『はじめ』『中』『おわり』の構成と『問い』と『答』の関係はどうなっているのか?」といったことをどのようにして考えさせ、教えるのかを整理しておく必要がありました。
一読した時に子どもから出た「不思議」という感想の言葉を活かして、「筆者も『不思議だ』と思ったんだね」とそこから「問い」「実験・観察」「答え」というこの文章の構造につなげても面白かったかもしれません。

授業検討会はグループに分かれて行われました。
学級の授業規律のよさや子どもたちが授業にしっかりと参加しているといったよい点がたくさん語られます。この学級だけでなく、学校全体としても授業規律や参加度はよくなっていると感じます。うれしいことです。
先生方の論議も「問いの文」をどう扱うべきだったか、文の構造とどう結びつけるかが中心となっていました。授業の深い部分について先生同士で話し合うことができていることをうれしく思いました。複数の学級がある学年では、授業のアドバイスを一緒に聞きに来てくれます。その一方で、1学級しかない学年もあります。相談相手に困ることもあるかもしれませんが、こういった機会を通じて気軽に話せる関係ができていくことを願っています。

授業規律や先生と子どもたちとの関係ができている学校です。次の課題は一つひとつの授業でどのような力をつけるのかを意識した教材研究です。授業技術を活かすにも、教材研究がその基本です。しかし、これはそれほど簡単ではありません。小学校のように受け持つ教科が多いと、教科書の内容をしっかり理解するための時間を確保するのも大変です。毎日の教材研究を一人で行うのは大きな負担です。互いに気軽に相談できることがとても大切になります。学校のチーム力が求められます。来年度、先生方がどのようにこの課題に取り組んでいくのか楽しみです。私も先生方の取り組みがより前に進めるようお手伝いしたいと思います。

子どもの実態を把握することが大切

昨日の日記の続きです。

4年生の算数の授業は、子どもたちがとてもよい表情で授業を受けていました。
子どもの発表に拍手が起こります。しかし、全員が拍手をしているわけではありません。拍手が形式的になっているように思いました。もし発表が間違っていたら、子どもたちはどう反応するのでしょうか?おそらく拍手は起こらないでしょう。発表した子どもは落ち込むかもしれません。形式的な拍手ではなく、意味のある拍手にすることを意識するとよいでしょう。具体的には、拍手した子どもにその理由を問うのです。形式的な拍手はしなくなります。本当に納得した時、すごいと思った時にされるものであれば、拍手が起きないのが普通になります。その代り、授業者が受容したり、他の子どもたちに同意を求めたりして認め合えるようにすればいいのです。
確認の場面で全員の手が挙がらなかった時に、すぐに指名せずに隣と確認させました。全員参加が意識できている証拠です。
この日は、真分数と仮分数という用語と分数の大きさの関係についての学習でした。用語は知識ですから教える必要があります。これを子どもたちに聞くと塾や通信教育で学習している子どもしか答えられません。また、はっきりしない説明でかえって混乱することもあります。授業者が子どもたちに未習の知識を問いかける場面がありましたが、授業者が説明すべきだったと思います。
真分数、仮分数の定義は、分子が分母より小さい、分子が分母と同じか等しいとなります。分子と分母が等しい時はどちらか?「以上」「未満」といった言葉の定義の再確認などが必要になります。また、分子<分母なら1より小さいということを結論として整理しますが、その理由をあまりきちんと押さえませんでした。「絶対に1より小さい?」「分数が1より小さかったら分子は分母より小さい?本当?」と子どもたちを揺さぶり、自分の言葉できちんと説明できるようにさせたいところでした。結論だけでなく、その根拠をきちんと意識し言語化させることも大切にしてほしいと思います。
練習で、数直線上を示してその値が真分数か仮分数かを問う場面がありました。子どもたちに結果を言わせますが、その根拠を確認しません。小学校では定義と性質を混乱する傾向があります。ここでは「1より小さい」「1以上」といった理由を言わせるだけでなく、「どうして1より小さいと真分数になったの?」と定義に戻って確認するといったこともしたいところでした。
この授業で一番大切なことは何かをしっかりと教材研究していないと、どうしても押さえるべきことが曖昧になります。授業規律や子どもとの関係がよいだけにこのことを意識してほしいと思います。

もう一つの4年生の授業は算数の資料の扱いの授業でした。度数分布表を「正」の字を使って素早くつくる練習をする場面でした。
「正」の字を使って資料の度数を調べるやり方は知識として教えるべきことです。きちんと教えて全員が素早くできるようにすることが大切です。
子どもたちが練習問題に取り組んでいますが、時間がかかっていることが気になります。その理由はすぐにわかりました。子どもたちは、ケガをした場所の数を調べるのに運動場なら運動場だけを探して1つ見つかるごとに「正」の字を1画ずつ書いているのです。これでは、普通に運動場はいくつか数えることと変わりありません。合計を数えるのにも「正」の字を使っている子どももいます。「正」の字を使う意味がありません。授業者はこのことに全く気付いていませんでした。子どもたちの手元を見ればすぐにわかることです。答の確認の場面でも、項目ごとに「正」の字がどうなっているかを示します。これでは子どもたちの間違いを強化してしまいます。
やり方の説明場面を見ていなかったので何とも言えませんが、1つ該当のものがあると1画書き足すことだけが強調されていたのではないかと思います。実際に全体でやって見せ、今までのやり方と比較して、そのよさを子どもたちに言わせるといったことが必要でしょう。その上で、目的によってどのような表をつくればよいのかを考えさせることも大切です。表を与えて穴を埋めるのではなく、何のための表かを意識して取り組ませるのです。また、表に合計の欄があることの意味も考えさせたいところです。間違いを修正するために、合計をどう利用するのかも教えるべきことです。
子どもたちのつまずきを意識して教材研究をし、常に子どもたちの実態を把握することを忘れないでいてほしいと思います。

5年生の道徳の授業は命をいただくことを考えるものでした。
授業者は子どもたちに配る資料を工夫していました。先を読まないように場面ごとに区切って、次の場面は紙を折らないと見られないようになっています。区切りごとに主人公の行動の選択肢が書かれていました。読みながら、どの選択肢を選ぶのか想像させるのです。子どもたちを資料に引き付けるにはとても面白い工夫です。
資料は、家で食用の山羊の面倒を見ることになった主人公が次第に愛情を持つようになったが、自分の寝ているうちに山羊は食べるために殺されたという話です。子どもたちは、主人公はどうするだろうと想像しながら話に引き込まれていきます。最後の方では、選択する場面で「主人公だったら?自分だったら?どっち?」と質問する子どもも出てきました。自分に引き付けて考えていることがわかります。授業者は子どもの選択に対して言葉を足しすぎているように思いました。興味をひかせたいという気持ちはわかるのですが、雑談になっている場面も目に付きました。
「山羊を殺されてどうする?」という問いかけにグループで話し合います。自分の課題となっていたのでしょう。子どもたちが素早くグループの隊形になったことが印象的でした。
時間の関係でここまでしか見られませんでしたが、授業の流れとしては、少し細かく資料を区切りすぎ、行動の選択に時間をかけすぎたように思います。「山羊に愛情を感じるようになったこと」「山羊が食べられることへの葛藤」を押さえて、早く「山羊が殺されてどうする?」という課題に向かわせたいところでした。この後主人公のおじさんの「命をもらわなければ生きていけない」という言葉をもとに、もう一度考えさせる展開だったでしょうが、おそらく時間が足りなかったのではないかと思います。子どもたちに興味をひかせ、考えさせる構成はよかったと思いますが、どこに時間をかけるかをもう少し意識できるとよかったでしょう。一般的に道徳の授業は資料の内容把握に時間をかけすぎる傾向が強いように思います。できるだけ早く子どもたちに考えさせ、そこに時間をかけたいところです。
授業者は毎回先輩と相談しながら、工夫をした授業を見せてくれます。この挑戦する姿勢を忘れずに毎日の授業に臨んでほしいと思います。次回の訪問も楽しみです。

授業研究については明日の日記で。

先生方個々の課題が見えてくる

小学校で、授業研究の指導と授業参観を行ってきました。

学校全体としては、子どもたちは落ち着いて授業に参加していました。

若手の先生の1年生の算数の授業では、子どもたちがまだ集中していないのに授業が進みました。教科書を広げさせますが、すぐには使いません。ワークシートを配ってから説明するので、子どもがごそごそしています。ちょっと心配な状態です。ところが、子どもたちへの指示はきちんと通っています。子どもたちはこの状態でもきちんと聞けていたのです。
この日のめあてを板書したあと、授業者は子どもたちが写している様子をしっかりと見て待つことができていました。これから後は、落ち着いて子どもたちを見ながらきちんと指示等もでき、教室は落ち着いた状態になりました。これが普段の状態なのでしょう。子どもたちはきちんと育っていたので、指示もちゃんと聞けていたのです。最初は私たちが参観するので、緊張して授業者も余裕がなく、それが子どもたちも影響していたのでしょう。
この日のめあては、1から100までの数を順番に書くことです。表に数を書くのにどの方向に書いていけばいいのか子どもたちは混乱します。「右に数が増えていく」「端まで行ったら左に戻って書く」といったことはあたりまえのように思いますが、子どもたちとってはそうとも限りません。1行書いたあと次の行に移るところまでは、全体で確認する必要があります。授業者は行が変わるところは説明をしませんでした。経験が少ないので、仕方がないのかもしれません。子どもたちがどこでつまずきそうか考えたり、先輩に聞いたりすることを心がけてほしいと思いました。

2年生の算数の授業は、九九の表の秘密を考える場面でした。
友だちの発言に「あーすごい」という言葉が出てきました。とてもよい場面なのですが、あっさりと進みました。反応した子どもにもう一度説明させたりすることで、全体で共有したいところでした。
授業者はとても上手に子どもをコントロールします。よい意見だが今取り上げることが適切でないと判断すれば、優しくうなずいて受容しながら「後でね」と流します。先走って発言しようとする子どもには「まだ言っていないよ」と制止します。
子どもたちが個人追究している場面では、個別にていねいに対応しています。しかし、ていねいに対応しているために全体を見ることが少し弱くなっていることが気になりました。全体を見て、困っている子どもに対して対応することも大切です。
気づいた性質を発表させ、そのことを他の子どもたちに確認させます。なんとなく「そうなっている」とはわかるのですが、「なるほど」とそれがどういうことか納得するまではできていません。もう少し子ども同士で相談したりして考えさせたいところでした。出てきた考えは授業者がまとめるので、子どもはそれを写してしまいます。時間の問題もありますが、友だちの考えを聞いて子ども自身でノートにまとめさせたいところでした。
授業をいつでもコントロールできる方なので、思い切って子どもたちに委ねる場面を増やすことにも挑戦してもらいたいと思います。そうすることで、子どもたち自身で課題を解決する力がついてくると思います。

2年生のもう一つの学級の授業は国語でした。数を表わす言葉使って、問題をつくる場面です。
子どもがお店で買い物したり、お母さんたちが立ち話をしたりしている街の絵を提示して、問題をつくる活動をします。絵には値段などの数字が書き込まれています。その絵の場面をもとに問題をつくるのですが、何をすればよいのか子どもたちはよく理解できていません。書けていない子どもが目立ちます。授業者は時間を延長しました。できた子どもに対しては、2つ目の問題をつくるように指示しますが、ほとんどつくろうとしません。問題をつくって一旦集中が切れてしまったので、なかなか戻らないのです。1つできたら、2つ目をつくるといった指示は活動に入る前にしておくことが必要です。多くの子どもたちが問題をつくるのに手間取っていたのは、課題がきちんと理解できていなかったことが原因のように思います。個人作業に入る前の例示の段階をもっとていねいにする必要があったようです。
子どもたちは「算数」的なことに意識が行っていました。答がいくつになるのか、式はといったことを考えている子どもも目につきます。この授業のねらいは「本」「匹」「枚」「人」「個」といった数を表わす言葉を使う練習ですから、もっとそこに意識を向けさせる必要があります。絵を見ながら、「大根が○○“本”あるね」「子どもが○○“人”」いるね。「犬は○○……?」といったやり取りをしっかりして、問題文をつくるには数を表わす言葉に注意が必要なことを押さえておく必要がありました。絵は何もないところで考えるのが難しいのできっかけとして用意されています。無理してそれにこだわる必要もありません。「数を表わす言葉をたくさん使う」ことを目標にして、「どんな問題がつくれるかな?」とした方が、やりやすい子どももいたかもしれません。
いずれにしても、この授業のねらいをしっかりと意識して、そのためにどう授業を展開すればいいのかを考える必要があったように思います。教材研究の大切さを感じました。

この続きは明日の日記で。

提案性のある授業から学ぶ

ずいぶん間が空いてしまいましたが、前回の日記の続きです。

社会科の若手の授業研究は1年生の歴史、鎌倉時代でした。授業者は、以前は最初に雑談などをすることが多かったのですが、すぐに本題に入っていきます。
最初に鎌倉時代の武士の住まいの絵を見せて、読み取れることを3つ以上見つけるように指示します。漠然とした「気づいたこと」よりも「読み取れる」という言葉の方が、社会科として資料を見る視点が明確になると思います。3つ以上としたこともすぐに見つけた子どもが遊ばないための大切な指示です。ちょっとしたことですが、基本ができています。
「読み取れる」という言葉に対して「違い?」と授業者に聞き返す子どもがいました。比較して資料を見ることを日ごろからしているのでしょう。
子どもたちは武士の住まいの絵から、いろいろなことを見つけます。「前見たのと違って……」と平安時代の貴族の屋敷との違いという視点で話す子どももいます。この時、授業者はこの視点のよさを評価しませんでしたが、ちょっと残念でした。見張りのやぐらがあることなどが出てきたところで、「なぜ柵で囲っているの?」と問いかけます。子どもの考えを聞いたのち、「注目してほしいのは……」と授業者が焦点化していきます。ここは授業者が主体で進めすぎるように見えます。この日はこのあとやる「定期市」の学習に時間をかけたかったので、このような進め方になったようです。そうであれば、個々で読み取る時間を取らずに最初から全体で進めたほうが効率的だったかもしれません。その日の授業で何を重点的に扱うかで、進め方は変わってきます。いずれにしても、授業者の意図が授業から伝わってくるということは、よく考えて授業に臨んでいる証拠です。しっかりと授業研究をしていることがよくわかります。

「定期市」の様子がかかれた絵が提示されます。この絵から読み取ったことを発表させます。「武士でなくいろいろな人がいる」「何か売っている」といった言葉が続きますが、授業者はそれがどこにかかれているのかを確認しませんでした。ていねいに進めているのですが、資料をもとに確認してあげると、よくわかっていない子どもも参加しやすくなったと思います。「全体的に商売している人がいる」といった発言がありました。これに対しても、「商売しているのはどこでわかるの?」と聞き返したいところでした。こういった問いかけをすることで、「売り手」と「買い手」といった商売の基本的な要素に子どもたち自身で気づけると思います。
授業者はここで「定期市」という言葉を提示します。「四日市」といった地名から鎌倉時代に各地で月に3回市が開かれていたことを平安時代の「東の市」「西の市」との比較で説明します。平安時代との比較をしたことは歴史の変化を考えるためにとてもよい視点だと思います。
鎌倉時代に定期市が開かれるようになった理由をグループでまとめさせます。発表をすることを考えると、どうしてもまとめさせたくなりますが、これにこだわると多様な意見やよい意見が埋もれてしまう可能性もあります。順番にグループで発表するのではなく、「一人の子どもにグループでどんな意見が出たかをたずね、それをもとに同じような意見や考えをつなぎ、一通り出たところで次の意見を聞く」といったやり方も進め方の一つとして考慮するとよいでしょう。

子どもたちは資料集や教科書の記述から答探しをしていました。教科書の記述をそのまま発表するグループも目立ちます。答が教科書に書いてあるような課題ではこうなってしまうのは仕方がないことです。市が開かれるためには何が必要かをまず子どもたちに考えさせることから始めるとよかったでしょう。「商品が必要」「買う人が必要」といったことを引き出し、「鎌倉時代に定期市ができたのは、平安時代と何が違ったから?」と問いかけて、資料集や教科書を調べさせると面白かったと思います。また、平安時代との比較をしてまとめさせると、より深く理解することができたと思います。
「農作物の収穫が増えた」ことから余剰作物が商品となったことに触れられますが、定期市の絵では農作物以外の商品もたくさんかかれています。「農作物の収穫が増えた」だけで、なぜ他の商品も流通するようになったのかを問いかけたいところでした。購買力が増えることで経済が発展する構造に気づける場面だったと思います。
農作物の収穫が増えた理由として「土地の開墾」が出てきます。ここでも「土地が広がったら耕す人も必要になるけど、人はあまっていたの?」といった投げかけをしたいところです。効率化といった他の要素もかかわっていることから、いくつかの条件がそろわなければ変化が起こらないことに気づかせることができます。
資料集や教科書の記述の内容の確認までを早くして、そこからもう一歩深く考えさせる発問をしたいところでした。

授業者はこのあと、流通に貨幣が必要なこと、日本の貨幣の質の低下と中国からの貨幣の輸入についてかなりの時間をつかって説明しました。経済の発展にともなって貨幣の必要性が高まることについては既に学習していたのかもしれませんが、ここで子どもたちに問いかけて確認しておきたいところでした。悪貨が良貨を駆逐することについての説明もかなり詳しく行ったのですが、ここで扱った方がよかったのかどうかはよくわかりませんでした。江戸時代の改鋳の話の布石にはなるのですが、そこで扱ってもよかったかもしれません。

最後は、授業者が自分の言葉で簡単に全体をまとめて終わりました。時間がなかったのかもしれませんが、市(流通経済)が盛んになるための要素をまとめ、鎌倉時代に起こった理由と対にして子どもたちに自分の言葉で整理させたかったところでした。

授業後、社会科の先生方を中心に検討会を行いました。
うれしかったのが、授業者が自分の授業を振り返って課題を把握し、きちんと整理できていたことでした。この先生が力をつけてきた理由がよくわかります。また、この日は定期市に関連した流通面についてはあまり触れませんでしたが、それも意図的だということがわかりました。子どもたちに考えさせる内容を絞りたかったので、資料から荷物を運んでいる様子がかかれている部分を意図的にカットしたのです。教科書と違う資料を探した上で、こういった工夫をしていたことに感心しました。提案性のある授業をもとに教科の仲間で検討し合うことで、この学校の社会科の先生方は確実に力をつけてきています。互いが成長する構造ができているのです。

研修担当の先生はこういった研修の様子を発信してくれています。こういったよいかかわりが広がっていくことと期待しています。

先生方の進歩とこれからの課題

中学校で授業アドバイスを行ってきました。学校全体の授業参観と社会科の授業研究でした。

さすがにこの時期になると3年生はよく集中しています。1年生も集中している姿をよく見ることができました。2年生は、一見するとよい状態なのですが以前と比べて集中が落ちる場面を多く目にしました。時期的な問題もあるのかもしれませんが惰性のようなものを感じました。3年生に向かって学習・生活の両面で自覚を促すことが必要かもしれません。
学校全体として授業者が以前と比べてしゃべりすぎる傾向がありました。子どもたちは基本的に教師との関係がよく、話をよく聞いてくれます。聞いてくれるのでついついしゃべりすぎてしまうのです。先生が解説してくれるので、子どもが積極的に発言しなくなる可能性があります。

2年生の数学で、子どもに問いかけても反応が返ってこない場面がありました。反応がないので授業者が説明をしてしまうのですが、子ども同士に相談させるといったことをして、言葉を出させる場面をつくることが必要です。穴埋め形式で証明を完成させる場面では、説明と正解の提示が一体化しています。見通しを共有したところで、ちょっと時間を取って自分で埋めさせ、まわりと確認するといった時間を取ることも必要でしょう。今まで学習した図形に関する性質を黒板に貼ってありました。こういう工夫ができているので、あとは子どもたち全員が自分で正確にたどり着けることを意識してほしいと思います。

別の2年生の数学で、板書に課題を感じる場面がありました。
黒板には証明の解答だけが書かれていましたが、どうやってこの三角形に注目したのか、これに関して知っている知識は何か、何が言えれば証明はできるかといった、問題解決のアプローチや戦略がどこにも残っていないのです。子どもたちとのやり取りで取り上げたのであったとしても、証明のどこにそれが活かされているのかわかるようにする必要があります。板書しなくても、写した証明に対して子どもにかきこませるといったことをさせたいところです。

2年生の国語の授業でのことです。子どもたちは授業者の話を静かに聞いていました。まわりと相談する場面になると急にテンションが上がります。受け身の状態で子どもたちは積極的に参加できずに、我慢していたようです。また、その活動のゴールや目標が明確でなければ、相談するといっても互いの考えを評価したり、深めたりすることはできません。相手の言葉を真剣に聞く必要がいなく、言いっぱなしになってしまいます。どうしてもテンションが上がりやすくなってしまうのです。

2年生の社会科で、地理の穴埋め問題の解答をしている場面がありました。一つひとつ授業者が子どもに解答を聞きながら正解を示すのですが、地図帳等を使えばできるはずの問題です。子ども同士で、根拠となるものを示しあって確認させるだけでいいと思います。全体では、意見が分かれた問題があるかどうかを確認して、その問題だけみんなで取り組めばいいのです。穴埋め問題を否定はしませんが、答がわかればそれで満足する子どもが多くなります。どうやって答を見つけるかという過程を大切にしてほしいと思いました。

2年生の英語の”reading”の場面です。授業者は早く読むことを評価として活動させます。そのため、発音はどうしても雑になります。早口言葉を覚えているようなものです。言葉として発しているわけではありません。文の一部を変えただけで、対応できなくなります。この学校以外でも、その活動が「話す」「聞く」読む」「書く」の4技能のどこをねらっているのかわからない英語の授業をよく目にします。自分が中高等学校時代に受けた授業を深く考えずに再現しているようにも見えます。子どもたちが英語の4技能を身につけるために、どのような活動が必要かをもっと考える必要があると思います。

3年生のベテランの英語では、”listening”でまわりと相談する時間をとっていました。聞き取れたことを確認し合ってからもう一度聞くことで、だんだん聞き取れるようになっていきます。子どもたちは集中して楽しそうに参加していました。
この日は“stop 〜ing”と”stop to 〜”の違いの学習でしたが、まだ言葉による説明が中心でした。”I am walking.” ”I see a garbage.” “I stop walking.”といった”situation”で”stop 〜ing”を押さえ、”I stopped to pick up the garbage.”と説明するといった方法もあります。毎回、授業に工夫をされている先生です。こういった”situation”の工夫もして見てほしいと思いました。

1年生の英語で若手の先生が、”picture card”を使った授業に挑戦背していました。主語や動詞、目的語にあたる”picture card”をそれぞれ複数ペアに与えて、一方が自分の選んだ”picture card”を英語の語順に並べて相手に示します。その”picture card”を見ながら、英語にするのです。子どもたちは楽しそうに取り組んでいるのですが、うまく”picture card”を並べられなくて活動が上手く進んでいかないペアもあります。困った時に助けになるものが必要です。「黒板にどこにどのようなものが入るかがわかるような例を提示しておく」「”picture card”を並べた例をプリントにして配る。ペアそれぞれにバディをつくり、困った時はバディがそのプリントを元に助ける」といった工夫が必要だったように思います。授業者はこの授業の課題に自ら気づいていました。こういった新しい方法に果敢にチャレンジし子どもたちの姿から修正しようとする姿勢は立派です。
子どもの席をグループ隊形から元に戻したときに、すぐにはテンションが下がりませんでした。しかし、子どもとの関係がしっかりとできているので、笑顔ですばやく子どもを集中させることができます。
この授業でも、”reading”の評価が速さになっていました。べつの指標を考えたいところでした。

1年生の別の若手の英語では、目的をはっきりさせたフラッシュカードの使い方をしていました。読む練習なので、最初に授業者が発音して読みを確認した後は、子どもだけで読ませます。子どもは詰まりますが、読もうとしているので当然のことです。繰り返すうちにちゃんと読めるようになっていきます。子どもに適度なストレスを与えることが大切です。
ちょっとしたことですが、こういった細かなことを意識して授業を改善し続けています。4月と比べると、ずいぶん進歩しているように思いました。

1年生の若手の国語では、子どもたちが落ち着いて文法の課題に取り組んでいました。文の主語を見つける課題です。ペンを置かせてから、子どもとやり取りしながら解説をします。ここで、子どもたちに文節に分けることを指示して答えさせました。その後に、主語は「誰が」「何が」にあたる文節と用語の定義を再確認して、主語を答えさせます。これでは、子どもは主語の見つけ方を教わっているだけです。考え方の順序が逆です。用語の定義からどうすれば主語を見つけられるか、まず課題に取り組む前に考えさせるべきでしょう。課題を解くことを通じて考えさせたいのであれば、答を聞いたり、作業を指示したりするのではなく、どうやって見つけたかを発表させて共有させるべきでしょう。
答えの出し方を授業者が教える授業になっていました。

1年生の別の国語では、子どもたちに興味を持ってもらおうと三大美人の話をしていました。しかし、これはこの日の授業に直接関係のあることはありません。子どもたちのテンションが上がるだけで、本題に入ると集中力は落ちてしまいます。少なくとも国語のどのような力と関係するのかを考える必要があります。三大美人と国語の作品との関係や引用などの例から、美人について考えさせえるといった活動が必要になるでしょう。
説明文の「原動力とは何か?」について考えさせる場面で、子どもは何を答えていいかよくわかっていないようでした。先ほどの場面と違って、子どもが重く感じられます。ここで考えなくても、このあと授業者が説明をしてくれることを知っているので、自分で考えることに価値を見いだしていないのです。

1年生の理科は、圧力の実験の考察場面でした。スポンジの向きを変えてどれだけへこむかを測定したのですが、沈むことが何を意味しているのかが押さえられていません。強く押すとたくさんへこむ。重たいものを載せるとたくさんへこむといった沈むことが何を意味するのかを事前にきちんと実験するなどして押さえる必要があります。
同じ重さのものを載せれば同じだけ沈むことを押さえておくことで、設置面積の違いで沈み方が違うことが明確になってくるのです。向きを変えても、スポンジの重さ自体は変わらないことを意識させておくことが必要です。しかし、そういった場面があったようには思えませんでした。
一部の班のデータがおかしかったようですが、そのことその班に聞いても答えようがありません。再現して検討するすべがないのです。授業者はうまくいかなったとそのデータを排除しましたが、それでは子どもたちにとって何も学びはありません。実験のデータがおかしいと感じた時にどうすべきかというのも大切なことです。ちょっとやり直す余裕がほしいものです。やり直してみれば、単なるミスなのか何か原因があるのかがわかります。そういったことも実験を通じて経験させたいことなのです。教師が、このデータを排除してしまったことで、実験から考えるのではなく先生の求める答探しの授業になってしまったのです。

1年生の理科で、子ども同士がかかわる場面がほしい授業がありました。子どもを一人発言させてすぐに評価し、授業者が説明してしまっているのです。フックの法則を「ばねの伸びは……」と言葉で説明して、教科書のその用語に線を引くように指示します。言葉でわかるのであれば、教科書を読めばすみます。「ばねの伸び」もきちんとどこのことを示しているのか、ばねの長さとの違いも含めてきちんと理解させる必要があります。実物を見ながら実感させたいところでした。教師が言葉で説明するだけの授業にならないようにしたいものです。

社会科の授業研究はとても学びの多いものでした。これについては次回の日記で。

子どもたちの学習意欲を感じるエピソードを聞く

私立の中高等学校で授業アドバイスを行ってきました。この日も先生方と一緒に子どもたちの様子を参加しました。どの先生も真剣に子どもたちの様子から学ぼうとしていただけました。また、自身の課題について質問をしてくださる方もあります。先生方の中によりよい授業をしたいという思いが高まっているのを感じます。とてもうれしいことです。

子どもたちが落ち着いて授業に集中している姿をいたるところで見ることができます。例年と比べてもとてもよい状態で、どの先生も子どもたちのよさを実感されています。いつも言っていることですが、この子どもたちのよい姿を引き出したのは、先生方の力が大きいのです。子どもたちを受容し授業を工夫する先生方が増えています。先生方一人ひとりの意識が変わることで子どもたちの姿も変わっていくのです。

今まで予習をしてくる子どもはほとんどいなかったが、教科書を読んできたとうれしそうに報告する子どもが増えてきたというお話も聞きました。今まで教師が説明していたのを子どもたち自身で教科書を元に考えさせるようにしたところ、子どもたちの意欲が変わってきたというのです。その先生自身も今まで以上に授業が楽しくなったとおっしゃっています。子どもたちと先生が互いによい影響をおよぼし合っているのです。

冬休み明けの英語科の課題実力テストについて、面白い話を聞くことができました。課題の長文を元に質問に答える問題で、解答は日本語でも英語でもよいとしたそうです。わざわざ英語で答える子どもはほとんどいないだろうと思っていたが、かなりの子どもが英語での解答に挑戦していたそうです。設問は課題そのままではなかったのですが、先生が思っていた以上に解答できていたようです。試験が終わってから気づいたそうですが、課題の解説・解答を配るのを忘れたいたそうです。しかし、子どもたちはそのことにだれも疑問をはさまなかったようです。いい課題に真剣に取り組んでなかったのかとも思えますが、決してそうでないことは試験の結果を見ればわかります。先生の示す正解を求めるのではなく、自分で学習して答を見つけることが当然になっているようです。自分で考え理解することがこの学校の英語学習の基本となっているのです。英語の学習に対する意欲も非常に高くなったようです。英語検定の受験者数が例年の数倍になっているそうです。
この他にも、子どもたちと英語にまつわる面白いエピソードをいくつか聞くことができました。ある先生が子どもを呼び出したのですが、たまたま2人とも同姓だったそうです。一人しか来ないので、「もう一人は?」とたずねたところ、「The other ○○君は……」と答えたそうです。日本人にはなかなか正しく使えない”the other”をちゃんと使えています。試験に出る知識としてではなく、言葉として理解できています。
こんな子どももいるそうです。「先生、今から俺ら10分間英語だけでしゃべるから、先生もなんか英語でしゃべってよ」と言うのです。先生が英語でしゃべると、うんうんうなりながら英語でしゃべろうとします。その子どもは決して英語が得意というわけではありません。でも、自分たちは英語がしゃべるようになっている、しゃべりたいという気持ちがいっぱいなのです。こんな意欲的な子どもが育っているのはとてもうれしいことです。
先生からでてきた言葉は、「うちの子どもたちはすごい!」です。先生方は優秀な学生だった方ばかりです。中堅の高等学校では、自分の高校時代と比べて子どもたちが劣って見えて見下してしまうことがよくあります。しかし、子どもたちの潜在能力・可能性は決して低くはないのです。その潜在能力を顕在化させることが教師のつとめと言っていいかもしれません。そのことに先生が気づいている言葉です。
この子どもたちの英語への意欲向上に大きな役割を果たしているのが、GDMという英語教授法です。これまで、中学校の学習内容を再構成して基礎固めをしていましたが、高等学校の内容を教科書も使いながらGDMの手法で学習するという新しいフェーズに入ってきました。これまでは、既存のGDMのカリキュラムをベースにできたのですが、これからは未知の世界です。先生方にとってはこれまで以上に教材研究に多くのエネルギーが必要です。学校英語でのGDMの第一人者が先生方の熱意にほだされ、手弁当でカリキュラムの作成や指導・アドバイスをしてくれています。この日も、朝から授業を見てその場ですぐにアドバイスをしてくださったそうです。そのアドバイスを受けて修正することで、次の授業では大きく改善されたようです。
英語の先生方は授業研究に多くの時間を費やしています。その時間をつくるのにとても苦労しています。ここまでやってこられたのは、チームで一緒に考え作業を分担しているからです。こういったチームワークが他の教科でも見られるようになることを期待したいと思います。

さて、一つ気になるのが、非常勤講師の先生です。子どもたちの姿が他の授業と比較しても、今一つよくない傾向があります。時間の制約があり先生方と情報交換したり、研修に参加したりできない方が多いのです。そのため、この学校で今起こりつつある変化について共有できていないのです。子どもたちにとって先生側の事情は関係ありません。一方的な講義や、板書を写すだけの授業は、自分たちが活躍できる授業と比べればつまらないものに見えます。ある授業では、両手を前に大きく伸ばしてうつぶせに寝ている子どもが何人もいました。普通子どもは、見つからないように気を使って眠ります。露骨な態度をとっているのは、「寝たくならない授業をして」という先生へのメッセージなのです。このメッセージを受け取ってほしいのですが、なかなか難しいところがあります。今後の課題の一つです。

この日で、ほとんどの先生方と一度は一緒に校内を回ることができました。先生方が授業の改善に挑戦するようになって、教科や個別の授業ごとに課題も見えてきているように思います。次回からは、いくつかの授業をじっくり見て先生方と一緒に授業について考える時間を取りたいと思います。いよいよ次のステップに進む時が来たようです。これから学校全体にどのような変化が起こってくるかとても楽しみです。

完成度の高い授業だからこそ授業観の違いが明らかになる

先日、愛される学校づくり研究会の例会が開かれました。2月6日(土)開催の「愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」前の最後の会です。

この日は午前の部、午後の部それぞれの進行イメージの確認を行いました。
午前の部は「愛される学校づくり“公開”研究会」となっています。テーマごとに4人の会員が提案を行い、指定された登壇者と話し合いを行うというものです。
この日は提案者が簡単な提案を行い、それをもとにこの日の参加者から選ばれた登壇者と議論しました。このまま本番にしてもよいくらい面白い話し合いになりましたが、当日は提案も進行もこの日とは異なるものになると思われます。予定調和には絶対ならないというのがこのフォーラムの面白いところです。私は、「『授業の見方』を高めるには」というテーマで提案しますが、この日の議論を受けて、当日の話し合いをより面白くするようなものにしようと考えています。きっと登壇者の皆さんが盛り上げてくれると思います。登壇者もワクワクするようなライブ感を楽しみたいと思います。

午後の部は「楽しく、手軽に授業改善しよう」で、2つの模擬授業をそれぞれ異なった視点で検討しようというものです。この日は、当日とは異なる授業者による模擬授業をもとに、2種類のツールを活用して検討を行いました。
模擬授業は初任者指導員をされている会員が授業者です。単に初任者の授業を見て指導するだけでなく、自身が実際に師範授業をして見せている方です。まだまだ現役の方です。
模擬授業は小学校低学年の詩の授業です。学習用語を中心に、詩の読み取りのための視点を意識したものです。題材は高木あきこさんの「ぞうの かくれんぼ」です。この日のめあてを「詩を深く読むための○○○○を手に入れよう」と提示します。穴をあけることで、「何だろう?」と子ども役に興味を持たせます。上手なやり方だと思います。実際の子どもではないのでよくわかりませんが、「深く読む」とはどういうことか子どもたちが理解できるのかが少し気になります。最初に読んだ時と、授業を終わった時で詩がどのように違って感じるかを子どもたちに確認することで、「深く読めたね」と評価して、深く読むこととはどういうことかを教えるというやり方もあると思います。

空欄に入るのは「ものさし」です。この言葉もちょっと気になりました。「ものさし」とは何か基準があってそれの量を測るものです。比較するために使われるものです。低学年ですから上手い言葉が思いつきませんが、「どうぐ」の方がよいようにも思いました。
「この詩にまとまりがある」と簡単に説明して、「連」という学習用語を示します。1行空きでまとまりをとらえさせます。この詩が何連あるかと問いかけます。子ども役は1行空きを頼りに8連と答えますが、「よく見ると8連じゃない」と返します。さて、「よく見ると」と言われても「連」の定義が曖昧です。まとまりとは何かわかりません。「7連と考えると自然」という言葉が出てきますが、「自然」とはどういう意味でしょうか?相手が大人だからこういう言葉を使ったのかもしれませんが、子どもにとってはとても曖昧な表現です。「ヒント」という言葉も使います。これは授業者の求める答探しにつながる言葉です。「句読点に注目して連に気をつけろ」と言われても、授業者が言わせたいことはこれだなと予想するだけで、本質的に「連」とは何かはわかりません。3番目のまとまりの最後は読点で終わっています。だから次のまとまりとつながるので、一つの連とした方が自然だというのが授業者の説明です。そう言われて納得する子どもは素直かもしれませんが、思考しているわけではありません。授業者の答を受け入れているだけです。少なくとも、「連」を再定義しなければ、「連」とは何かは混乱してしまいます。では、なぜ作者はわざわざ1行あけたのでしょうか?そのことに疑問を持たない子どもでは困るのです。授業者は、そのことについて後で触れます。しかし、ここで疑問として明確にしておかなければ、常に授業者から説明されることを受け入れるだけの子どもになってしまいます。

子ども役に会話の部分を見つけさせる作業をさせて、できたら前に持って来るように指示をする場面がありました。できた子どもを評価することは悪いことではありませんが、前に持って来させることはあまり勧めません。並んで待っている間、子どもたちがだれたり、友だちの邪魔をして集中を乱したりします。よほどの実力者でなければ、その間に学級全体の様子を見ることはできなくなってしまいます。今回は時間がなかったせいもありますが、途中で終わり、全員できたかを確認できませんでした。これでは常に作業の速い子ども、できる子どものみが評価されることになってしまいます。○をつけるなら、何とか全員に○をつけることを考えたいところです。

「会話文」と「地の文」についての説明場面です。ここで子ども役に会話でない文を何というか問いかけます。「地の文」と答えた子ども役がほめられます。過去に学習したことであれば知識を問うことは復習ですので悪いことではありません。しかし、まだ学習していないことであれば、知識のある子どもだけがほめられます。こういった点も私には気になりました。

何度も出てきている表現を問いかけます。「ぞうさん」という発言に対して、「でてくるね」と授業者が評価し、それから子どもたちに同意の挙手を求めます。ちょっとしたことですが、先に授業者が評価してしまうと子どもの判断にバイアスがかかってしまいます。意図的に誘導したいのでなければ、子どもたちの判断を先にするとよいでしょう。
授業者は1連の「ぞうさんと ぞうさんと」と6連の「ぞうさんとぞうさんの」を取り上げましょうと言います。ここを取り上げることは大切なのですが、常に授業者が指示します。せっかく学習用語を元に読み取りを深めたいのですから、「対比」を先に定義してから、「対比」を探させたいところです。いろいろな対比が使われていますから、それぞれについて、どんな効果があるか子どもたちの言葉で言わせたいところです。
授業者は「対比」の説明を「比べること」としていました。それでは「比較」です。対比は、比べることで違いを強調する、明確にすることです。読み取りのための用語としては、「強調」されること、することという言葉が必要でしょう。「ぞう」「ぞうさん」の違いを対比として授業者は説明しますが、「対比」の説明を「比べること」としたのですから、そこから「違い」を見つけることとつなげておく必要があったと思います。その上で、その「違い」がどのような効果をもたらすかといったことを考えたかったところです。

授業者は繰り返しているところを取り上げて「反復」と用語を説明し、強調していると解説します。強調は子どもから出させたいところです。「うろ うろ うろ」を隠れているところを探していることの強調と説明し、「はなが じゃま」「みみが じゃま」「おしりが じゃま」の反復を、指名した子ども役に動作化させます。指名された方の動作に対して、授業者が補足して助けます。詩にそった動作化なのですから、子どもたちに確認したいところです。

「・・・も、・・・も、・・・も、」と「も」が3つあるのは、何を強調しているのかを隣と相談させます。まだ発言していない人で答えてほしいと言うのですが、なかなか手が挙がりません。授業者が常に正解かどうかを判断するので、子ども役は無意識に間違えたくないと思っているように見えました。大人だからこそ手が挙がらないのでしょう。
「隠れるところがないことを強調している、だから行を空けている」と、「連」を考える時の一つのまとまりなのに行を空けていることの説明をここでしました。時間がなかったからだと思いますが、こういった場合は、行を空けたもの、行を空けてないもの、2つを見比べることで子どもの気づきを引き出すとよかったでしょう。

授業後、子ども役から、詩の奥深さを学んだという声を聞くことができました。とても楽しかった、勉強になったということです。たしかに、この詩の深い読み取りはできたように思います。しかし、それは授業者によって気づかされたのであって、子ども自身が授業者の言うところの「ものさし」を使って見つけたわけではありません。読み取れたと思っていますが、読み取った結果を与えられているように感じました。とはいえ、これが授業者のねらいだったようにも思います。小学校の低学年が自分たちでそれほど深く読み取れることは期待できない。授業者が誘導しても、詩の面白さ、読み取りの奥深さを感じ、興味を持ってもらうことがまず先だ。そのための道具として、学習用語を意識させたい。使えるのはこれからだ。そのような主張に思えます。
ここで私が述べたことは、低学年の子どもでも自分で考えることができる、考えさせたいと思った時、授業をどうすればいいのかと考えたことです。授業者の、まず教えて面白さを体験させることが先と考える授業観との違いが現れているのです。

検討会では、学習用語を使いながら明快に詩を読み取っていることや、子どもとのやり取り、さり気ないICT機器の使い方など、この授業の素晴らしいところがたくさん指摘されます。授業者の目指すところを達成するという意味では、完成度が高い授業だったということです。だからこそ、授業観の違いがはっきりとし、この授業で多くのことを考え学べたように思います。どこを目指すかによって、授業のありようは大きく変わります。授業者と私の最終ゴールが大きく違うとは思いません。そこへの道筋、ステップが違うのです。しっかりと考えられた授業であるからこそ、その違いが明確に見えてくるのです。
フォーラム当日は、同じようにレベルの高い授業が2つ提案されます。そこでどのようなことを学べるのか、今からとても楽しみです。参加予定の皆さんにも大いに期待していただきたいと思います。

企業内検定の企画

学校関係の企業での研修の一環として、検定制度を企画しています。学校や教育関係の基礎知識や業務上必要な知識の簡単なテキストをつくり、検定はそこから選択問題で出題するというものです。落とすための検定ではなく、学んでもらうきっかけとしての検定です。
学校関係のものは私がその企業向けに連載している学校情報のコラムからテキストをつくります。コラムそのものは長いので、それを担当の方に要約していただくのですが、書いた本人ではないのでなかなか難しいものがあります。特に難しいのは、コラムを単に要約するのではなく、その企業の社員にとってどのような情報が大切なのかの判断です。実際の現場を知っているわけではなく、また私がポイントをうまく伝えられなかったため、苦労されていると思います。
今後いろいろな方のご意見をうかがいながら、完成に近づけていきますが、こういった企画にかかわることで、改めて先生の仕事のたいへんさ、複雑さを実感します。

先生方の研修はOJTが中心となりますが、充実しているとは言い難い状況のように思います。もちろん市販の書籍等で個人的に勉強されている方もありますが、日常の仕事に追われ、なかなかその時間が取れない方が多いというのが実際でしょう。検定制度という訳ではありませんが、先生方が手軽に学べるようなアイテムや機会が必要だと思います。インターネットでは、学校教育に関する情報もたくさんありますので、定期的にそういったものを閲覧することもお勧めします。

第2回 教育と笑いの会

昨年末に開催された「第2回 教育と笑いの会」は、前回に引き続き大盛況となりました。今回私は「故・有田和正先生の授業におけるユーモアを学ぶ」というコーナーの司会という大役でした。

開始5分ほど前から玉置崇先生が会場を温めます。さすが落語会を数十年にわたって運営してきた方です。開会する時には、すっかり観客の皆さんが話を聞く雰囲気になっていました。
まずは、「野口芳宏・玉置崇の教育漫才」です。
玉置先生が事前にネタの打ち合わせを野口先生にお願いしたところ、その必要はないとの返事だったそうです。しかし、さすがに台本なしではと思い、玉置先生はどのように進めようかと前日の晩はろく眠れなかったそうです。当日は、さすがに野口先生も不安になったのか、「ちょっと打ち合わせをしておこうか」と言われたそうです。いかにも野口先生らしい、とぼけたお話しです。
玉置先生が野口先生にあこがれていた時の出会いや、昨今の教育事情のネタは教師の枠を超えて笑えるものでした。ぶっつけ本番とは思えないほどのできでした。

続いては、志水廣先生の教育漫談です。
さすがは関西出身者、「綾小路きみまろ」ならぬ「綾小路しみまろ」として、服装から髪型まで、ここまでやるかという演出。前の方に陣取った志水先生ファンならずともしっかりと笑わせていただけました。

池田修先生の「『こんな時どう言い返す』ユーモア返答術講座」は、ワークショップ形式で、こんな時どう言い返すか、参加者の方にも考えていただきました。皆さん隣の方と楽しそうに言いあっていらっしゃいます。しかし何といっても面白かったのは、池田先生が関西の先生方から聞かれた切り返しの例です。言葉ではうまく説明できませんが、いかにも笑いの本場関西と言えるものです。また、それを見事に再現する池田先生。関西出身でないとは信じられないほどです。
まじめな子どもにこんな言葉で言い返したら、怒ってしまいそうな例もありますが、先生と子どもとの人間関係によってその効果は変わってくるのだろうと思います。ユーモアは相手との関係に大きく影響されるものであることを改めて意識させられるワークシップでした。

ここからは、落語が2席続きます。協賛してくださっているEDUCOMのスッタフの皆さんが準備してくれた見事な高座で、本格的な落語を楽しみます。
1席目は、「校長もできる落語家月の輪熊八」こと小林幹政先生の「黄金の大黒」。
いやあ、びっくりしました。どこから見てもプロの落語家。声といい間といい、ほれぼれします。この後、プロの桂雀太師匠はやりにくいのではないかと思うほどです。すっかり先生の落語のファンになりました。

2席目は、昨年もお願いした桂雀太師匠の、「代書屋」です。
さすが、プロ。エネルギッシュでそれでいて細やかな、「これが雀太です。個性とはこういうものです」と主張しているような一席でした。一気に師匠の世界に引き込まれました。次の自分の出番も忘れて、噺を楽しんでしまいました。

最後は、「故・有田和正先生の授業におけるユーモアを学ぶ」と題した、野口先生、志水先生、桂雀太師匠、玉置先生に、有田先生から多くを学び、これからの社会科教育をけん引する一人である佐藤正寿先生を加えて、ユーモアとその効用に関して語り合うコーナーです。
最初に、「愛される学校づくりフォーラム2013 in東京」での有田先生の模擬授業を20分ほどに編集したビデオを皆さんに見ていただきました。有田先生の絶妙のユーモアと素晴らしい授業内容に皆さんが引き込まれているのがよくわかります。
ビデオを見終わってから、いよいよ本番です。登壇者にお話を聞く前に、この日有田先生の体調はとても悪く、フォーラム終了後すぐに入院することになったにも関わらず、模擬授業では終始笑顔を絶やされなかったことを紹介させていただきました。ビデオの音声に注意すると、有田先生が舞台を移動する時に苦しい息遣いをしているのが聞こえてきます。胸に迫るものがありました。
話の口火は、佐藤先生にお願いしました。「1時間の授業の中に笑いがない教師は警察に逮捕させろ」という名言がある有田先生から、教材研究や授業技術だけでなく、ユーモアの大切さも学ばれました。佐藤先生の授業は常に笑顔を絶やしません。有田先生のユーモア精神は、次の世代の多くの先生に引き継がれているように思います。
志水先生からは、筑波大学附属小学校時代の同僚としてのエピソードを披露していただきました。授業だけでなく学年主任として保護者に対してお話しする時もそのユーモアで場の雰囲気を和ませていたそうです。
玉置先生に助けていただきながら、「緊張と弛緩」という視点が明確になっていきました。質問の答や課題を考え緊張している時、笑いで場が弛む、ほっとして教室の雰囲気が和む、これがユーモアの効用であり、意識すべきことです。
笑いのプロである雀太師匠からは、有田先生の笑いを「いやらしい」という言葉で評されました。その真意は、自分の笑いやその間をよくわかっていて、確実に笑いを起こすことができるので、ちょっと「いやらしい」ということでした。また、笑わせようとしてはダメだという言葉に、プロとしての笑わせることの難しさと奥深さを感じました。
笑いは子どもとの関係性が大切になるということに関連して、野口先生からは、「笑いは残酷なものである」という話がされました。「失敗するからおかしい。失敗して笑われる者はつらい」、だから笑いは残酷なのです。みんなが笑えるということは、笑われる立場の者も含めて笑える関係になっていなければなりません。笑いのある教室をつくるということはそういう人間関係をつくることと同じなのです。「失敗しても笑われない学級づくり」の一歩先にある「失敗を笑い飛ばせる学級づくり」です。
拙い司会でしたが、すばらしい登壇者のおかげで、有田先生を偲びながらユーモアについていろいろと考え学ぶことができました。

裏方を引き受けてくださったEDUCOMのスタッフのみなさんの協力のおかげで、プログラムは滞りなく修了しました。参加された方々の満足そうな表情に一安心でした。
「来年も開催しましょう」という野口先生の一言で、第3回の開催も決定しました。詳細が決まり次第、この日記でお伝えしたいと思います。

学校におけるICT活用のあるべき姿について研究会で考える

昨年のことで恐縮ですが、愛される学校づくり研究会で、会員の岐阜聖徳大学の芳賀高洋先生の「考え続けるICTの『迷い』と『希望』」という講演を元に、会員で話し合いを持ちました。

芳賀先生は、インターネットの黎明期から今日までの学校におけるICT活用について眺めた上で、社会的なインフラとなっているICTが学校では未だに教具としてとらえられ、その枠の中での活用しか議論されていないことへの苛立ちを露わにされます。既に社会は、ICTやネット環境があることが前提となって動いています。簡単な例で言えば、学校で行われている原稿用紙に鉛筆での文章作成は、現実社会では一部の作家だけでのものでしょう。私自身、原稿用紙を前にして作文しろと言われても、数行書くにも四苦八苦しそうです。ワープロを使わずに文章を書くことはもう考えられない状態です。また、学校では子どもたちはごく一部の時間でしかインターネットを活用しませんが、家庭ではスマホでネット検索は当たり前の状態です。

芳賀先生の主張される、ICTは道具でありそれがいつでも使えることを前提とした教育を考えるべきだという考えは、その通りだと思います。しかし、他の会員との話し合いではなかなか議論がかみ合いません。現実に学習指導要領の枠の中で子どもたちに一定の学力を保障することが命題として与えられている先生方にとって、じゃあどうすればいいのかという具体的な対応が見えてこないのです。学力をつけることが目標である授業の中で、教具として有効な部分はどんどん使えばいい。このことはだれしもすっきりと腑に落ちます。しかし、道具として自由に使わせることを考えた時に、今ある授業の構造とは全く異なる学習形態が求められます。子どもたちにつける学力は何かということから違ってきてしまうように思います。
OECDの調査でも日本の子どもたちの学力は非常に高いものがあります。それを維持しつつ新しいパラダイムに移行する道筋は、まだだれも明らかにしてくれていません。ここに大きな断絶があると思います。この溝を埋めていくことが、大切でないかと思います。
「教具論」と「道具論」が対立してそれぞれの立場に固執するのではなく、互いがつながっていくための道筋を模索していくことが必要だと思います。

研究会では今後もこの問題は継続して検討していく予定です。また、2月6日(土)に開催される「愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」の午前の部「愛される学校づくり“公開”研究会」の「テーマ4:授業における『真のICT活用』とは」でもこの問題が議論される予定です。まだ申込みは間に合いますので、興味のある方はぜひご検討ください。

短期間で大きく成長された先生

2学期末に中学校で体育の授業のアドバイスを行ってきました。授業者は2か月前に授業アドバイスをした方です(子どもたちにどうあってほしいかを意識することの大切さを感じた授業参照)。どのように変化しているのかが楽しみでした。

3年生の担任であるのに、この時期に研究授業をやろうという意気込みに感心しました。授業力向上を真摯に望んでいることがよくわかります。
この日は創作ダンスの授業で、前回と同じく3年生の2つの授業を見せていただきました。
どちらも前回と同じ子どもたちなのかと思うくらい様子が変化していました。視線がしっかりと授業者に向いて、表情もとても明るく感じられます。集合してまわりと話していた子どもも、授業者が口を開くとすぐに口を閉じて集中します。自然で柔らかい雰囲気なのですが、行動もとても速くなっています。準備運動のランニングも列が短くなっています。体育において大切な授業規律が格段によくなっていました。
この状況をつくっているのは、明らかに授業者です。顔が上がるまで、笑顔で子どもたちを待てます。顔が上がれば視線を合わせて笑顔でうなずいています。ランニング中も子どもたちから視線を外しません。柔軟運動をしている時の動きもなかなかでした。補助をする時もできるだけ全体を見られる位置を意識し、顔がよく動いています。支援が必要な子どもに素早く気づけています。常に学級全体がどのような状態であるかをしっかりと把握できていました。子どもたちをよく見ること以外にもいろいろと意識していたはずです。何秒で集合したとホワイトボードにメモしたりして目標を持たせることもしていたそうです。すでに素早い行動が定着したのでそういったことも必要なくなったようです。2ヶ月の間にそこまでになっていたのです。
前回、この学校の子どもは緩いという評価をしましたが、私の見誤りでした。授業者が求めれば、規律のあるしまった行動をとれる子どもたちです。

授業の課題は「とぶ」をテーマに2分ほどのダンスをグループで創作することです。最初に「とぶ」から湧くイメージをワークシートに書かせます。「とぶ」と漢字にしないことでイメージを広げようとしたのでしょう。何人かの子どもたちに発表させてから、手順を説明します。テーマとイメージを線でつなげ、今度はそこから連想されるものをつないで樹形図をつくっていくのです。このイメージを広げる作業を全体でやって見せます。子どもたちの発言をしっかりと受容し、言葉が出てこない子どもに対しても笑顔で待つことができています。子どもたちもとても集中しています。
迷うところではありますが、最初のイメージを書かせる前に「とぶ」という言葉をもう少し耕しておいてもよかったかもしれません。例えば「『とぶ』には、どんなとぶがある?」と問いかけることで、「飛」「跳」と漢字を出させ、「飛翔」「飛躍」「跳躍」といった言葉につなげておくのです。こうすることで、具体的なダンスにつなげやすいイメージが出やすくなるように思います。
イメージの樹形図を元に、「はじめ→なか→おわり」のストーリーをつくることを指示します。クライマックスを工夫するようにと伝えますが、具体的にどのようにすればよいのかを考えるための方法がはっきりしません。「明るい⇔暗い」「高い⇔低い」「動⇔静」「強い⇔弱い」「速い⇔遅い」「平面⇔空間」「直線⇔曲線」「集まる⇔散る」といった変化のキーワードを意識させたいところです。時間があれば、途中でどのようなことを考えているかを発表させてキーワードを共有させるという方法もありますが、今回のように発表までを1時間で終わるのであれば、活動の前にどのような変化があるのかを子どもたちに考えさせる時間をとるとよかったでしょう。

「やることをわかった人?」と確認をして手を挙げさせます。ただ確認するのではなく外化させているのも指示を徹底するために必要なことです。子どもたちは、グループに分かれた後、素早く活動を開始します。口頭の指示だけでなく実際に全体でやって見たことで何をすればいいのかよく理解できていたようです。

振り付けを考えている時に一部の子どもがグループから離れていました。授業者はそのことに気づいて素早くその子どもたちに声をかけました。声をかけられた子どもたちは、すぐに輪の中に入っていきました。よく子どもたちの状況を見ていました。
子どもたちはよくかかわりながら活動していましたが、残り時間がそろそろ気になってきます。全体に対して残り時間を伝えることで、せっかく集中して活動している子どもたちの動きをとめたくなったのでしょう。直接グループのところへ行き、タイミングを見計らって残り時間を伝えます。なかなかの対応だと思います。

発表の順番をじゃんけんで決めますが、意外と時間がとられます。こちらで指示したり、あらかじめ一定の規則を決めておいたりする方がよいかもしれません。
発表にあたってタイトルとどのようなストーリーなのかを伝えさせます。時間がないので難しいのですが、そのストーリーがどのような課程で決まったのかを共有することができると今後の創作の参考になったと思います。
授業者は、発表者と見ている子どもたちの両方を見られる位置に立っています。しかし、実際には両方を同時にはなかなか見られません。どちらを見ればよいのか困っているようでした。口頭での発表であれば、聞いている子どもを見ていても話の内容を聞くことができますが、動きを見る発表ではそうはいきません。基本的に発表者を見ることが中心になります。見ている子どもたちの様子はチラチラと素早く集中しているかを確認することでよいと思います。気になる子どもがいるのであれば、その子どもを意識的に見るようにします。

子どもたちは、「空飛ぶ絨毯」「コンサート」「カエルに返る」……とユニークで面白いストーリーをつくっていました。中には体操服を脱いで印象を変えたり、光のあるところで演技をしたりと演出に工夫をするグループもあります。しかし、ストーリーをつくることや演出にばかり意識が行ってしまい、創作ダンスの表現としては中途半端なものになっていたように思います。ストーリーとダンスの動きをつなげるための手立てがはっきりしていなかったことがその要因として挙げられます。先ほど述べたような変化のキーワードを意識させておくことが必要だったように思います。
授業者はワークシートに「体全体(表情・指先)で伝えよう!」と書いておいたのですが、あまり意識されているように見えません。授業者がこの活動を通じてどんな力をつけたいのかが明確になっていないために、子どもたちも意識できていないのです。「構成力」なのか「表現力」なのかどちらだったのでしょうか。「構成力」であるならば、「はじめ」「なか」「おわり」それぞれがどのような「ストーリー」なのか、「クライマックス」はどこかを明確にさせる必要があります。「表現力」であれば、それをどのような動きで表現するのかです。もちろん両方でもよいのですが、それをキチンと意識させ、評価することを授業に組み込む必要がありました。「はじめ」「なか」「おわり」「クライマックス」に分けてストーリーをつくり、それぞれに「速い」「回転」「上下」といったダンスの動きにつながる「キーワード」を決めさせといったことをするとよかったかもしれません。こうすることで、単なる感想ではなく、「構成」や「表現」がどうだったのか、具体的に評価することもできたと思います。

子どもたちはとても集中して互いの発表を見ていました。真剣に自分たちが取り組んだからこそ他のグループの演技も気になるのでしょう。
一方の学級でおもしろい出来事がありました。一人だけ顔が上がらない子どもがいたのです。後で聞いたところ、なかなか教室に入れない子どもだそうです。しかし、グループの活動の時は、積極的でないにしろ友だちとかかわりながら参加していました。とはいえ、発表の場面ではやはり他のグループの発表を見ていません。ところが、自分たちの発表が終わった後、顔が上がり他のグループの発表を笑顔で見ていたのです。きっとグループの一員として発表できたことがうれしかったのでしょう。とてもよいものを見ることができました。
また、授業終了後授業者が何も言わないのに使った黒板をきれいに消している子どもがいました。さすが3年生といったところです。

体育の教師にとって特に大切な授業規律や指示の徹底はかなりできていました。前回と比べて大きく進化しています。短い期間にこれだけの変化があったということは、素直に自分の授業を見なおして改善したということです。また、基礎となる力がしっかりとあったということでもあります。私のアドバイスという、ちょっとしたきっかけで大きく進歩するということは、逆に言えばそのような機会がこれまでなかったということです。
次の課題は、「できる」ようになるためにどのような「活動」が必要なのかを明確にすることです。「できる」ようになるための「手立て」を授業者がはっきりとわかっていなければいけません。当然、何をできるようにするのかという「ゴール」がシャープになっている必要もあります。これが教材研究です。授業規律や指示の徹底と違ってそう簡単なことではありません。体育の教師としての力量が問われるところです。しかし、意識して毎日の授業に臨み、子どもたちの事実から学んでいけば必ず力はついていきます。素直で、前向きな方なので、きっと着実に進化していかれることと思います。

授業者からは、教室での保健の授業をどうすればよいのか困っているということを相談されました。どうしても知識を一方的に教え、板書を写させることになってしまうようです。知識と考えさせたいことをきちんと分けて授業を構成する必要があります。機会があれば、またアドバイスさせていただきたいと思います。

若い先生の成長を間近で見ることができ、とてもうれしく思いました。この仕事をやっていてよかったと思えた時間でした。ありがとうございました。

相手との関係を意識したコミュニケーション

昨年末に行なった介護関連の研修の話です。今回は、当初の予定を変更して、相手との関係を意識したコミュニケーションについて考えていただきました。

きっかけとなったのが、中学生の新聞の投書でした。バスで高齢者に席を譲ろうとしたら「ふざけるな」と怒鳴られてしまったという内容で、「モンスター老人」の話題としてその後に大きな反響があったものです。こちらの言ったことや思いを相手に上手く伝えることの難しさについて考えてもらいたいと思い、話題がホットなうちに取り上げさせていただきました。

この話に関連して私が親しい同僚として尊敬していた先輩との話をさせていただきました。彼は当時流行っていた芸人と下の名前が同じだったので、親しみを込めてその芸人が呼ばれていたように「○○ちゃん」とちゃん付けで呼んでいました。決してバカにしているつもりも、下に見ているつもりもなかったのですが、ある日「私は君の先輩だよ。ちゃん付けは失礼じゃないのか」と厳しい表情で諫められました。彼には私が尊敬している気持ちは通じているものだと思っていたので、大きな衝撃を受けました。私は親しい「同僚」と思っていたのですが、彼は親しい「後輩」と思っていたのです。
また、知り合いの学校出入りの図書教材を扱う会社の社長の話もお話しました。当時学校に行くと先生方から、「おい、○○」と呼び捨てにされていたそうです。笑顔で「はい」と答えていたが、悔しくて悔しくてしょうがなかったそうです。自分がサービスを受ける側であれば、相手が例え年上であってもぞんざいな口調なってしまうことがあります。言われた方は相手より立場は下なので我慢していますが、自分の方が年上なのにと腹の中では悔しく思っているのかもしれません。
このように互いに相手の関係をどのように思っているかを意識しないと表面上は問題ないように見えても、その裏で軋轢が起こっていることもあるのです。それが別の場面で噴出することもあります。このことを理解してコミュニケーションを取ることが必要になります。

このような例も踏まえた上で、参加者の皆さんには、プライベートを含めて自分とかかわる人たちを具体的に書きだしていただきました。自分は相手をどのように見ているか、上か下か、それとも対等かを書き足してもらい、その上でその相手は自分をどう見ているかを想像してもらいました。この後、グループで感じたことを聞きあっていただきました。普段何気なく接している方との関係をこうやって見直してみると、相手が必ずしも自分が思っているのと同じような関係だと見ているわけではないと気づかれたようです。
参加者は、素直に自分の感じたことを話していただけます。こうして研修を含め自分の思っていることを気軽に話し合える関係は素晴らしいのですが、だからこそ、他の方々との関係も同じように思って接してしまうと思わぬトラブルになることもあります。コミュニケーションのあり方を見直すきっかけになっていただけたのではないかと思います。

先生方の思いを感じる

私立の中高等学校で授業アドバイスを行ってきました。今回も先生方と一緒に授業参観をさせていただきました。

この日は、公共交通機関でおじゃましたのでこの学校の生徒さんたちの登校の様子を見ることができました。てっきりスマホを見ながら歩いている生徒が多いと思っていたのですが、まったくと言っていいほどそのような姿を見ることはありませんでした。交通ルールもしっかりと守れていて、とても感心しました。先生方が通学の様子をチェックしているわけでもないのに、このような姿であることは、子どもたちが自制できるということです。この子どもたちであれば、授業でもっと高いことを求めても十分に答えてくれると思いました。先生方が彼らの可能性をもっともっと信じてあげることを願います。

校内を回って感じるのが、先生方の授業の幅が広がってきていることです。子どもたち自身による活動が中心の授業もあれば、授業者が黒板に向かってしゃべり続けている授業もあります。講義型の授業でも、子どもたちを上手く引き付けて集中させている授業もあります。もちろん同じ子どもたちでも、その姿は授業によって変わってきます。この日は冬休みまであと1週間ほどの時期だったので、気の緩みもでるころだと思っていましたが、その要素よりも授業のありようの差の方が子どもたちの姿に大きく影響しているように感じました。
子どもたちは柔軟かつ功利的です。ノートを取っておくだけでよいと思えば、それ以外のことにはエネルギーを割きません。やりたいと意欲的になれば、自分たちで考え続けることもできます。子どもたちは、自分たちでかかわりながら学習することをいくつかの授業で経験し、そういった授業のよさやかかわり方を学んできています。そのため、授業者がそのような授業を目指せば、子どもたちはすぐに対応できるようになっています。子どもたちの授業を受けるための基盤はかなりできているのです。授業においても多様性は大切ですが、大きな方向性は学校の中で共有できるとよいと思います。今の子どもたちの状態であれば、よい方向に一気に変わっていくと思います。

また、グループ活動といった子どもたちがかかわり合う授業では、次の課題に先生方気づき始めているように思います。子どもたちはグループで相談するように指示すれば、きちんとかかわれます。しかし、その課題が曖昧なものであったり、結論を出すための客観的な指標がなかったりすれば、でてくる結論は発散してしまいます。そういうことに気づいている先生が増えてきています。ただ、子どもたちが話し合うことに満足するのではなく、その結果、問題解決ができたのか、ねらいを達成することができたのかということを求めるようになってきているのです。今後、確実に授業力が上がっていくことが期待できると思います。

この日一緒に回った先生方には、子どもたちをしっかりと見ていただくことができたと思います。特に子どもたちとまっすぐに向き合う熱心な先生からは多くの質問もいただき、私にとってもとても充実した時間となりました。この先生は、過去の経験からでしょうか、子どもたちはあまり能力が高くないので、教えてやらなければ、きちんと指導なければ力がつかないと思っているようでした。しかし、子どもたちが非常に集中して課題に取り組む姿を見て、素直に子どもたちのポテンシャルを感じ取ってくれたように思います。ただ、子どもたちに考えさせる時間を多くとろうとすると、どうしても進度が遅れるのではと心配になるようです。高等学校は特に学習内容が多いために進度が気になるのはよくわかります。大切なことは、すべての問題や内容を網羅することではなく、何を重点的にやればよいか選択することです。ポイントとなることをきちんと学習すれば、後は子どもたち自身で学習することができるはずです。その選択をして子どもたちの課題とすることが、これからの教師に求められる力だと思います。子どもたちをとても大切にしている先生です。目指すべきところは理解していただけたと思います。きっと子どもたちを信じて授業を工夫してくださると思います。今後がとても楽しみです。

国際バカロレア(IB)に関する研修を受けた方が、その目指すものにとても関心を持たれたようでした。今すぐこの学校をIB認定校にするという選択肢はないかもしれませんが、そのカリキュラムの一部でも取り入れることができないかと話されました。私自身もIBについては勉強しようと思っていますので、認定校でなくてもそのよさを活かすことを先生方と一緒に考えたいと思います。よい刺激をいただけました。

発達障害の子どもたちの対応についても担当者とお話させていただきました。この方の働きかけもあり、発達障害についての理解は深まっているようですが、具体的にどう対応すればよいのか先生方に戸惑いがあるようです。マニュアルのようなものがあれば動きやすいと考える方もいらっしゃると思いますが、個人差があるので一律に対応することは難しいと思います。発達障害の基本を共通で理解した上で、実際の子どもの様子をもとに情報交換、相談して対応を探っていくことが基本です。手間がかかるように思えますが、チームで対応を考えて経験していくことで、個人の対応力も上がってくるはずです。このことを先生方に理解していただくことが大切でしょう。こういった方面でもアドバイスをさせていただくことを考えたいと思います。

今年度は、先生方と個別に話をする機会が増え、この学校の先生方の子どもたちに対する前向きな思いにたくさん接することができました。こういった思いを具体的な子どもたちの姿で表現し共有することで学校がよい方向に大きく変わると感じています。来年度に向けて、この点を考えていきたいと思います。

子どもの考えを共有し、つなげ、深めることが課題

昨日の日記の続きです。

3年生の図画工作の授業はアートカードを使った鑑賞の授業でした。授業者は中堅の先生で、話術が上手く、子どもを引き付ける魅力のある方です。
最初にサンプルのカードを見せてイメージを表現させます。子どもの発言を「あーあ、なるほど」としっかりと受け止めます。子どもの言葉を受けてイメージを膨らませるような話をするのですが、ちょっとしゃべりすぎのようにも思いました。子どもの発言意欲が高いので、とりあえずどんどん指名して発言させてもよかったのではないでしょうか。
ユニバーサルデザインを意識されているのでしょう。黒板の左にはこの授業の流れがわかりやすく示されています。
この日の中心となる活動はグループに配られたアートカードを「明るい」「暗い」「軽い」「重い」のキーワードで分類するものです。活動の説明をしながら、反応した子どもには「うなずいてくれたね」、伏せっている子どもには「見ててくれる」と声をかけます。子どもたちをとてもよく見ています。
説明の中で、話を聞く時に相手を見てうなずいたり、「なるほど」といった受容の言葉をかけたりといったソーシャルスキルについても、きちんと指導しています。ワークシートの説明も配る前にするなど、基本がしっかりとしています。5人グループで一人だけ机が離れている子どもがいると、「お誕生日席にしてあげて」と声をかけ、「OKです。ありがとう」と指示が徹底できているかの確認と「ありがとう」と子どもを認めることもできています。よい雰囲気の学級である理由がよくわかります。

4つの分類の視点は、「明るい」「暗い」と「軽い」「重い」では軸が異なります。おなじ絵に対して「明るい」と「暗い」では大きく意見が分かれることはないでしょうが、「明るい」と「軽い」で分かれる可能性はあります。意図的に分かれやすいようにしたのかもしれません。そう感じた理由を具体的に言うように指示していることと合わせて、子どもたちの視点が広がることが期待できそうです。ただ、ワークシートには分類の結論しか書くところがありません。理由を何らかの形で残すとよかったと思います。「色」「形」といった選んだ理由の視点を書き留めるというのも一つの方法だと思います。
子どもたちは一通り分類が終わるとテンションが上がってきます。分類が終わった後の指示もしておくとよかったでしょう。

全体で、グループごとにカードの分類を発表させます。横にカードの番号、縦に分類を書いた表を黒板に貼って、授業者が該当するところにシールを貼っていきます。カードの番号ではどのような絵だったかはすぐにわからないので、発表を聞いてもあまり意味はありません。子どもたちの集中力が落ちてきます。ここに時間をかけたのはちょっともったいないと思います。
実物投影機でいくつかカードを映して、授業者が同じ絵でも意見が分かれることを話しますが、ここは意見の分かれるカードを焦点化して話し合わせたいところでした。実物投影機を使って具体的にこの絵のどこでそう思ったかを全体で共有して、考えが変わったかどうかを聞き合うと面白かったと思います。

続いて、自分が気に入ったものを「今日の1枚」として選んで、紹介文を書くという作業の指示をします。この時子どもたちの視線が先生に集中していなかったことが気になりました。ディスプレイに絵が映されたままだったことも影響しているようです。
紹介文を聞き合ったあと、全体で何人かに発表してもらいます。絵をディスプレイに映して発表するのですが、子どもたちの視線は最初ディスプレイに向きますが、説明が始まると発表者に向いたままです。発表者を見ることはとてもよいのですが、説明と絵を関連づけては見ていないということです。指示棒を使うなどして、絵のどの部分について言っているのかを示しながら発表させるとよかったでしょう。発表が終わるとすぐに拍手で終わりますが、形式的な拍手ではなく、具体的にどこがよかったのかを価値付けする場面がほしいところでした。

子どもたちはよく活動していましたが、共有し、深めることが不十分だったように思います。どこに注目して分類したのかを整理し、同じ視点で分類した子どもをつないで、同じように感じたのか、それとも違うように感じたのかを発表させたり、自分が気づかなかった視点でもう一度見直させ、感じ方が変わったかを発表させたりしたいところでした。

この日は4つの授業を見ましたが、どの先生も子どもとの関係がきちんとできていて、よい学級経営ができていることに感心しました。少経験者も含めて学級間でぶれが少ないということは、学校全体がよい雰囲気で授業ができていることの証だと思います。
共通の課題として感じたのは、子どもの考えを共有し、つなげ、深めることがまだあまりできていないことです。授業者が子どもの発言をすべて受けて説明するのではなく、子どもたちの言葉をつないでいくような授業に変えていくことが必要です。学校全体でこの課題を共有できれば、きっと大きく進歩すると思います。この学校のこれからが楽しみです。

本質を見極めることが大切

昨日の日記の続きです。

4年生の算数の授業は少し年配の初任者によるもので、小数倍を考える場面でした。一生懸命さが伝わる授業です。
導入で両親と子どもが餃子を食べる場面を想定します。ていねいに紙でつくった餃子を使って問題を示します。1皿6個で、3皿分を家族で分け、お父さんはお母さんの「いくつ分?」、子どもは……と問いかけます。整数でいくつ分を考えることで導入としようとしたのでしょうか?それとも、いくつ分の計算が割り算になることを確認したかったのでしょうか?
続いて、4色の長さの異なるテープを示し「気づいたことは何ですか?」と問いかけます。あまりに関連がなさ過ぎます。そもそも離散量の餃子でいくつ分かを考えた後に、連続量のテープで何倍かを考えるのは子どもたちを混乱させるだけです。この授業は「何倍」を考えることが課題で、「いくつ分」では上手くつながりません。導入の意図がよくわかりません。凝った餃子をつくったエネルギーは買いますが、この導入はムダとしか思えませんでした。
また、基本的に「気づいたこと」という問いかけは避けるべきです。よほど子どもたちが育ってなければ、何を答えてよいのかよくわからないからです。子どもたちに相互指名をさせますが、形式的に行っているだけで、なぜそうする必要があるのかよくわかりません。相互指名のねらいをこの場面からは感じることができませんでした。

授業者は「○○が一番長い」といった子どもたちの発言を受容しますが、ねらった言葉はうまく出てきません。結局授業者が「テープの長さを比べましょう」と言葉を足しますが、「比べる」という言葉をきちんと押さえません。差を考えても、一番長いものを見つけても「比べる」ことになります。子どもたちは、なかなか授業者の期待する言葉を発してはくれません。ここはきちんと「何の何倍か」を提示する必要がありました。
授業者は自分に都合のよい言葉が出てくるとそれを受けてすぐに説明します。よくわからず反応できない子どもに対して、「○○さんはわからないかなあ」「どこらへんがわからないかなあ」と否定的な言葉「わからない」を重ねます。子どもの表情が悪くなります。「困ったこと」といった否定的なニュアンスが少ない言葉を使うようにする必要があります。
結局授業者の期待することを上手く察することのできる一部の子どもとだけで進んでいきます。発言をきちんと共有することもしないので、他の子どもはついていけず、発言者の方を見ようともしません。授業者も発言者ばかり見て、他の子どもたちの様子を見ることはできていませんでした。
赤(20cm)は白(10cm)の何倍かを考えさせ、ワークシートの穴を埋めさせます。答が2倍になる理由が、20÷10だからと説明されます。形式的に教えています。答を出すための手順が理由に置き換わっています。これでは、算数は答の出し方を覚える教科になってしまいます。何倍はかけ算です。白の何倍だから「白×○(倍)が赤になる」ことが本筋です。この日は小数倍を考える授業なのですから、ここを導入で押さえておくことが必要でした。

子どもたちに「わかりましたか?」と問いかけますが反応がありません。混乱が始まっています。こうするとよいと「比べる数÷元になる数」と書いた紙を貼りますが、理由はわからないまま解き方を教えることになります。自分なりの理由を考えていた子どももいましたが、結局はワークシートには先生の答を書きこむことになります。先生の求める答を探しなっていきます。
ここまでにかなりの時間を使っていましたが、単なる復習です。ムダな時間を使いすぎています。

続いて、青(16cm)は白(10cm)の何倍かを問います。元になる数を確認しますが、子どもたちは混乱しています。「少ない方だから白」「小さいほうが元になる数」「割り切れないから青にしました」とずれた答が続きます。「倍にならないから」という言葉も出てきます。整数倍にならないのはおかしいと考えたのですが、まさにこの部分を修正して小数倍を考えるのがこの授業のねらいです。16÷10という式が出たとしても、その答は1余り6でもよいわけで、小数で答える必然性がわかりません。授業者にとっては16÷10は1.6に決まっているのかもしれませんが、子どもにとっては決してそうではないのです。導入の餃子で「いくつ分」を考えたことも、小数の答ではおかしいように感じている子どもが多くなった原因となっています。結局、白×○(倍)という何倍の意味をきちんと押さえていないことがこのような状態をつくってしまいました。
授業者は子どもの言葉で進めることをあきらめて自分で説明を始めました。ここで、元になる数の説明に「いくつ分」を使ってしまいました。結局元になる数は「白になる」という結論だけを強調することになりました。

ここでグループにして何倍になるかを求めさせます。この場面でグループにする意味がよくわかりません。「比べる数÷元になる数」と元になる数が白であることを与えているのですから、16÷10の式はほぼ問題なくつくれます(本当にその意味がわかっているかどうかは別にして)。子どもたちは相談する必然性があまりないのです。とはいえ、16÷10の答はそれこそばらばらです。概数で答える子どもが続出です。小数倍なのか整数倍にするのかを焦点化してから、グループで相談させることでこの授業のねらいに近づけたのではないかと思います。

授業者はグループの中に入って個別に説明を始めます。それではグループにする意味がありません。解き方だけを教えても意味がないことがよくわかる授業でした。
特に割り算は同じ式になっても、何を解決するのかで答のありようは変わります。果物を同じ数の分ける問題では割り算の式ができますが、必要な皿の枚数と何人に分けられるかでは余りの処理は異なります。図書館の本の貸し出し数の平均を考える時は、本であるにもかかわらず割り算の答は○.○冊と小数で考えます。平均の意味をしっかりと考えなければその理由はわかりません。今回の単元であれば、小数倍を考えやすいように教科書はテープの長さという連続量を題材にしたのです。

授業者の意欲は伝わる授業でしたが、導入で餃子を使う、何倍の意味を押さえなかったなど教材について本質を外していることが問題でした。また、指名の仕方やグループの活用などが形式的だったことも気になります。授業技術の本質を見極めて活用してほしいと思います。子どもを安易に引き付けようとすることより、教材研究にエネルギーを使う。個々の授業技術はどのような意味があるのかをきちんと理解する。ここから始めてほしいと思います。意欲のある方なので、方向性さえ間違わなければ確実に進歩すると思います。

この続きは明日の日記で。

子どもが安心して意見を言えるからこそ、教師の対応が大切

昨日の日記の続きです。

5年生の理科は再結晶の実験でした。
前時までにミョウバン、食塩を水に溶かす実験をしています。物質や温度によって溶け方が違うことを穴埋めで復習しました。ほぼ全員の手が挙がりますが、挙手しない数名の子どもが気になります。今回の授業では教科書やノートは使わないようなので、確認する手段がありません。ほとんどの子どもの手が挙がっているからこそ、手の挙がらない子どもを参加させることを考える必要があります。まわりの子どもとちょっと確認・相談する時間を与えるだけで子どもの動きは違ってくると思います。

前時で使った溶解度曲線のグラフを黒板に映して、ミョウバンは冷すと取り出せるかと問いかけます。「取り出せる」という言葉がいきなり出てくることに違和感を覚えます。なぜ「取り出せる」かどうかが課題となるのかが子どもたちにはよくわかりません。「温めると溶けたけれど冷えたらどうなる?」と素朴に疑問をぶつけるような問いかけもあります。

ワークシートを配り、ミョウバンと食塩について「取り出せる」「取り出せない」を考えさせます。ここで問題になるのは、前提を明確にしていないことです。飽和水溶液(または、冷したら過飽和になるもの)を使わなければ、再結晶はしません。どのくらい溶かしたものかを伝えずに考えさせているのです。これで授業を進めると子どもたちは、温度で溶解度が大きく変わるものは無条件に冷やすと再結晶すると覚えてしまう可能性があります。小学校では特に定性面を重視するので、その危険性が高まります。ミョウバンが溶け残っている水溶液を温めて完全に溶かすのを見せてから、問いかけると言ったことが必要です。また、このことを逆手に取る方法もあります。ミョウバンの濃度が異なるものを用意してグループによって実験結果が異なるようにし、「どういうこと?」と考えさせるのです。

授業者はよい姿勢の子どもをほめたりして、子どものよい行動を増やす形で授業規律をつくっています。グループで意見を聞き合うように指示をすると、素早く動くことができます。
「疑問があれば質問する」「同じ考えには下線を引く」「いいなと思ったらメモをする」といったルールが明確になっています。意見を聞く視点が意識できるのでよいと思います。しかし、子どもたちが自分のワークシートに書いたことを読んでいるのが気になります。聞いている子どもたちの顔も上がりません。「ワークシートを見ずに話す」「話し手の顔を見て聞く」「聞き終ってから質問をする」「最後にメモを取る」といった流れを指示してもよいかもしれません。また、班長がいることもちょっと気になります。少人数のグループなので、自然にかかわり合いながら進めることができるのではないかと思います。

全体で考えを聞きます。ここは、グループで相談して意見が変わった子どもの考えを聞いてみたいところですが、授業者は特にそういった条件なしに指名します。子どもたちの考えは思った以上に分かれます。
「溶けてもなくなっていないから取り出せる」という意見が出ます。また、「塩は海水に溶けていて、取り出せる」と海水から食塩がつくられているという知識から答を出している子どももいます。こういった意見が出てくる背景には、ワークシートが「取り出せる」かどうかだけを答える形になっていることが挙げられます。前提となる「冷して」がきちんと押さえられていないので、「なくなっていないのだから取り出せるはずだ」という考えにつながったのです。「なくなっていないから、取り出せそうだね。冷せば取り出せそう?」と「冷やす」を強調して、再度考える時間を取ってもよかったかもしれません。「逆のことをすると取り出せる」という言葉も出てきます。可逆性を考えるとてもよい発言ですが、授業者はその言葉を取り上げることはしませんでした。「それってどういうこと?」「逆のことってどういうこと?」と聞き返すとよかったと思います。
「食塩は水に溶けやすいから」といった言葉も出てきます。溶解度曲線のグラフの高温のところを指さして「ミョウバンはもっと溶けやすいよ」と揺さぶるといったことをすると、子どもから言葉が足されるでしょう。

グラフを使って説明する子どもがいました。飽和水溶液という前提がはっきりしない中、グラフの溶解度の差で説明します。溶解度は溶ける量の最大ですが、このことが押さえられないまま説明が進みます。これでは中学校で再度溶解度について学習する時に混乱する恐れがあります。授業者はこの子どもの説明だけは、時間をかけて全員に理解させようとしています。この説明が正解だと暗に教えることになっていました。
理科は、どんな説得力のある説明でも実験結果がそれを裏付けなければ意味がありません。子どもたちの考えを一通り聞いてから、「いろいろな意見や説明があったね。実験するとどうなるかな?」とまず実験を行い、その結果を元にもう一度理由を検討した方がよかったと思います。

いよいよ実験ですが、実験の方法を授業者は言葉で説明します。理解できずに間違えてしまった子どもが何人かいました。実験方法は具体的に見せることも大切です。
子どもたちの実験に対する意欲はあまり高くはありませんでした。先ほどの説明で結果が想像ついたからでしょうか。驚きや感嘆の声が上がりませんでした。時間がないため、結果の考察は次時に持ち越されました。

子どもたちからは、多様な意見が発表されました。これは、どんな意見でもバカにされない安心な学級づくりができている証拠です。だからこそ、その意見をどうつなぎ、深めていくのかが問われますが、子どもたちの意見のうち都合のよいものを取り上げて、最終的には授業者が説明してしまいました。一人ひとりの考えの共通点や相違点を明確にして焦点化し、相違点を意識して実験に取り組ませることが大切です。その結果を受けて子どもたち自身で納得するような授業であってほしいと思います。
理科の授業では、「根拠をきちんと説明し全体で共有すること」「その考え(モデル)が正しいかどうかはどのような実験をすればいいのかを考えること」「その考え(モデル)を使って他の事象を説明したり、別の実験の結果を予想したりすること」が大切です。こういった授業の構造をきちんと意識できていなかったことも残念でした。また、「この課題を通じて理科としてどのような力をつけたいのか」、そして「それをより一般的な力にどうつなげていくのか」、このことを事前にしっかりと考えておくことも必要です。このことが子どもの考えを評価・価値付けすることにつながっていきます。
これらのことは一朝一夕でできることではありません。焦らずに、こういったことを意識することを少しずつ心がけていただきたいと思います。

この続きは明日の日記で。

多様な意見を活かす難しさを感じた授業

2学期末に小学校を訪問しました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は少経験者を中心に4人の授業アドバイスを行いました。

初任から2年目の2年生の担任の授業は算数の九九の授業でした。
子どもたちと授業者の関係は良好です。子どもたちはよく集中して参加していました。この日の授業は九九の表からきまりを見つけることが課題です。九九の表にはかける数、かけられる数とかかれています。授業者は表を見せて、かける数、かけられる数の確認をします。ここで、指名した子どもが間違えてしまいました。授業者は否定せずに、上手に受け止めます。授業者は本人に修正させようとしますが、なかなかうまくいきません。これは知識ですので考えて修正できるものではありません。「2に3をかけると2×3」と説明し、「だから、かけているのは?」と日本語で考えさせるという方法もあります。また、九九の表の意味の確認を兼ねて、表の段と数字を指さして「にさんがろく」と読ませるといった活動を事前にすることで整理させておくという方法もあります。いずれにしても、ここは子どもが混乱しないように知識としてきちんと押さえることが必要です。

この日の課題は「2つの表から九九のひみつを見つけよう」というものです。
九九の表と式表示の表が書かれた2枚のワークシートを子どもたちに配ってから、活動について指示をします。この時子どもたちはどうしても手元のワークシートを見てしまいますので、配る前に指示をすることを心がけてほしいと思います。気になるのが、「ひみつ」という言葉です。ワークシートには「きまり」という言葉もタイトルに使われています。「ひみつ」という言葉は意欲的にさせる言葉ではあるのですが、何を答えたらいいのかわからなくなることもあります。授業者は「何でもいいからね」と言いますが、これではよくわかりません。こういった時には、過去の経験を思い出させて視点を与えたり、全体で一つ「ひみつ」を見つけて、どんなものを見つければいいのかを具体化したりするとよいと思います。
個人でひみつを見つける活動に取り組みますが、手が止まっている子どもが目立ちます。ここは、予定した時間にとらわれずに早目に作業を止めて、他の子どもとかかわらせたり、全体でいくつか発表させたりするとよいでしょう。

授業者は活動を止めてペア活動に移る指示を出します。子どもたちに指示内容を復唱させて確認をするといったこともできます。しかし、指示が「もっとないかペアで相談しましょう」と言った後に、「自分の考えを互いに言いましょう」と順番が逆になってしまいました。授業者はすぐに気づいて修正しましたが、子どもたちは混乱してしいるようです。また、ワークシートには「友だちが見つけたひみつ」を書く欄があるのですが、このことについても指示がありませんでした。ワークシートの作業についてもよくわかっていないようでした。ちょっとしたことですが、指示の順番や確認はとても大切なことがよくわかります。
子どもたちはこういった相談に慣れているようで、よくかかわれていました。「ほんとだ」と言った声が聞こえてきます。個人作業と違って、子どもたちの手がよく動いています。
授業者は「表を指さして説明している子、わかりやすいね」とよい行動を広げようとしています。こういった評価はとても大切です。この活動では、表のどこを見たのかを明確にすることを指示しておくとよかったでしょう。表を指さすことを含めて、根拠となるものを意識させることで説明の力がつきます。
互いにかかわり合うことで、子どもたちの気づきは想像以上に多様なものになっています。とてもよいことなのですが、全体での発表ではどう整理して、焦点化し、価値付けしていくのか授業者の力が問われます。

全体追求の場面は、子どもたち全員が鉛筆を置くのをきちんと確認してから始まりました。こういった授業規律もしっかりとできていました。
子どもたちから出てくる意見は、授業者の想像を少し超えていたようです。「全部2個ずつあった」という発言がありあます。これは交換法則につながる発言です。しかし、授業者は2個ずつあるということを確認して次にいってしまいます。とっさにどう対応すればいいのかわからなかったようです。「全部?」「必ず?」「じゃあ、これと同じのは?」と表を指して問いかけていくことで、交換法則に気づくことができます。
表の右上と左下に同じ9があるのに、左上と右下は1と81で違うことをいう子どもがいます。面白い気づきです。しかし、授業者はその事実を確認して次の子どもを指名します。つないだり、深めたりすることができません。「本当だね。同じようなことに気づいた人はいない?」とつないだり、「左下の9の式は?右上は?」と返したりすると、交換法則や表の対称性につなげていくことができたはずです。
「1×1、2×2は答が一つ」という意見を発表する子どもがいますが、どういうことか上手く説明できません。子どもからは「ああー」という声も出てきますが、授業者が自分の言葉で説明してしまいました。本人はその説明に今一つ納得できていないようです。ここは、「ああー」と言った子どもに説明させて、本人に確認させていきたいところでした。この「答が一つ」というのは交換法則で同じ答のものがあるが、2乗しているものは同じだからないということを言っています。左上から右下を結ぶ線に対して九九の表は対称になっていることにつなげることもできます。
「かける数とかけられる数を反対にしてもいっしょ」ということが出てきます。「ああ、なるほど」と受けて、このことを子どもたちに確認します。こういった予定している発言に対しては、子どもたちに返すといったことができていますが、多くの子どもの発言が点のままでつながっていないのが残念です。
表のかける数のところを見て、「1つずつとばすと2の段ができる」という意見もでてきます。子どもたちの発想は実に豊かで面白いものです。「2つとばしだと?」と聞いても面白いですし、「1つとばすといくつ増える?」と聞き返してもいいでしょう。かけ算と足し算の関係に気づくことができます。これを受容だけで終わらしたのはもったいないと思いました。
最後に出てきた発見がとても面白いものでした。「9の段を縦に見ると18を反対にした81があって、27を反対にした72があって、……」というのです。その説明を聞いて子どもたちから「おー」「すげー」という声が上がります。授業はすごいということで終わったのですが、せめて「他の段でも成り立ちそう?」と返して、「9の段だけだね。9の段にはすごいひみつがあったね」と9の段に固有の性質であることを押さえておくと、学年が進んで9の倍数の性質についての問題を考える時に役立つかもしれません。また、「9の反対はないの?」と返して81の次は「90」になることに気づかせても面白かったかもしれません。

最後に「わかったこと」を書かせて終わりましたが、この授業では「こうやって表を見たんだ?」「こういうことを調べたんだ?」と視点や考えの過程を評価したり価値付けしたりする場面がありませんでした。確かに子どもたちは色々なことに気づきましたが、意見を発表し聞き合うことでもう一つ上のものに昇華することができませんでした。
子どもたちはよく育っていて、互いにかかわり合い多様な意見が出てきます。そこで終わらずに、それを価値付けして再現性のある力に変えていくことが大切です。その日の課題を通じてどのような力をつけたいのかを意識し、子どもたちの発言に対してその場で対応することが必要です。事前に子どもたちの発言を予想していても、思わぬものも出てきます。それに対応することは、ベテランでもそう簡単なことではありません。毎回の授業で、子どもたちの発言にたいしてどう対応すればよかったのかを振り返りながら経験を積むことが必要です。まだ2年目の授業者にそれを求めるのは酷ですが、逆に言えばこのことを意識しなければいけないレベルに力をつけてきているということです。これは素晴らしいと思います。これからどのように成長していくのかとても楽しみです。

この続きは、明日の日記で。

幾何ツールの研究会で授業の奥深さを実感する(その2)

前回の日記の続きです。

2回目の授業は、導入から全く異なったものになっていました。どうやら授業者は当初の指導案を完全に捨てたようです。証明のための戦略を考える授業に変えたようです。
まずは、子どもたちに九点円に興味を持たせることから始めました。ユーモアを交えて子どもたちとやりとりしながら進めていきます。授業者の個性が活きています。三角形の形を変えても、いつも9つの点が同じ円周上にありそうだと気づかせます。
続いて、同じ円周上にあることを言うためにはどんなことが言えればいいのかを聞いていきます。「何とかして円周角を……」といった言葉が出てきます。子どもの言葉を受けて授業者がすぐに言葉を足して説明します。時間がないということもあったのでしょうが、どうも物わかりがよすぎます。子どもたちが優秀なのか、かなり不十分な説明でも疑問を持たずに過ぎていきます。数学としては押さえるところはきちんと押さえておきたいところでした。「内接四角形を探す」「対角(の和)が180°のものを見つける」といった言葉が続き、「どんなのでもいい?」という問いかけに「長方形」「正方形」といった言葉が返ってきます。ここで「4つは見つかる」とまとめます。「(9つはいきなり無理でも)4つ(の点が同じ円周上にあるの)は見つかる」ということなのでしょうが、ちょっと言葉が雑です。もう少していねいに押さえておきたいところでした。

「どうしたらいい?」と子どもたちに問いかけると、「9つの(点)を3つずつ重ねる」という意見が出ます。授業者はうまく処理できませんでしたが、「それってどういうこと」ともう少しこの考えも聞いてみたいところでした。おそらく、「3つの点であれば外接円をかけるから、それが一致することを言えばいい」と考えたのだと思います。上手くいくかどうかは別にしてこれも立派な方向性ですから評価したいところでした。
「4つ適当にとる」という意見も出ます。「適当」に反応して「ある程度適当にとる」という言葉も出てきます。「仲間の点(垂線の足、垂心と頂点を結ぶ線分の中点、各辺の中点)を3つ結んで三角形を3つつくる」といったアイデアもあります。子どもたちからいろいろ意見が出たのですが、「どういう風にしたら内接四角形ができる?」と授業者が方向性を決めてしまったのが残念でした。子どもたちで方向性を決めさせたいところでした。

ここでiPadの登場です。今回は、だれもiPadを立てません。下に置いて額を寄せ合って見ています。先ほどの授業とは全く様子が違います。子どもたちの課題となっていたのです。幾何ツールをまだ使い慣れていないのか上手く線分をひけません。悪戦苦闘をしながらいろいろな図をかいています。とてもよい姿です。ここで、長方形を見つけたグループのiPadをスクリーンに映します。長方形になっていたのですが、結ぶ点が違っていたため三角形を変形すると崩れます。するとあるグループが声を上げます。言いたくてしょうがないという様子です。このグループの図は崩れないのです。授業者が取り上げ、この図の三角形を変形して見せ、いつでも長方形になっていることを示しながら「すごくなーい」と子どもたち問いかけます。幾何ツールのよさが実感できます。検討会で確認したところ、きちんとできているグループがあることを知っていて、あえて上手くいかないグループを先に発表させたようです。なかなかインパクトのある演出でした。

子どもたちから、もう一つの長方形に気づく声が出てきます。対角線が「重なっている」「同じ」といった説明に、「なんでー?」といった声が返ってきます。重なっている対角線を示して出てきた「直径」という言葉に、今度は「すごいじゃん」と反応します。子どもたちが真剣に授業に参加し、心が動いていることがよくわかります。6点が同一円周上にあることが言えることがわかり、「残り3点はどうなのか?」を次の課題として投げかけました。ここで残り15分です。かなり時間的に苦しいと思ったのですが、ここからの子どもたちの頑張りは目を見張るものがありました。それぞれがワークシートの図を見ながら考えているのですが、残り3点ではなく、その前にきちんと長方形になる証明をしなければとこだわっている子どももいます。どの子どもも真剣です。友だちに語りかけるともなく「○○じゃない?」というつぶやきが聞こえてきます。それに対して、自分のことに集中していると見えた子どもが反応します。個別に活動しているように見えるのですが、見事にかかわり合っていました。

残り3点について、全体の場でわかった子どもが説明します。説明を聞きながら「あー本当だ」「言えてる」といった声が上がります。子どもたちが素早く理解できているのは、幾何ツールを使っていろいろ試した時間が効いているように思いました。しかし、全員がすぐに理解できてはいないので、ここで少し止めて、まわりと相談、確認をさせたいところでした。子どもたちから、つぶやきが出てくることはとてもよいのですが、まだまわりとはすぐに相談しません。自然に相談できるようにしたいところです。
九点円の証明の流れをほぼ子どもたちが理解できたところで、時間となりました。ここで、「長方形になることを言わないといけない。説明したい」という子どもが出てきました。どうしたものかと授業者が思案しましたが、他の子どもたちも聞きたいという姿勢を見せます。授業者は延長する覚悟を決めました。説明を聞く子どもたちの姿は真剣そのものです。視線が発表者に突き刺さるようです。一つの三角形で説明し終わったあと、「もう片方も同じでいける“はず”」と言葉をつなげました。素晴らしい発言だと思います。“はず”という言葉には、必ず言えるという確信があるということです。この言葉を評価して、数学的な価値を伝えたいところでした。
最後に授業者が「これで9点全部について証明できたことになったのかな?」と問いかけ、子どももたちから「はい」という返事が返ってきました。「ここまでできると思っていなかった。すごい」と子どもたちをほめると自然に拍手が出て終わりました。
子どもたちは九点円の証明が理解できてスッキリしたように見えました。しかし、授業後一部の子どもが黒板の前で話しています。説明がまだ理解できていなかった子どもたちが、相談していたのです。何となくではなく、きちんと最後まで理解したいという気持があるからこそ、こういった姿が見られるのです。子どもたちの課題になっていたということです。とても素晴らしいと思いました。

この授業だけを見ていたら、おそらく「子どもたちが素晴らしい」といった感想を持って終わったでしょう。しかし、先ほどの授業を見ているから、子どもの質ではなく授業のあり方で子どもの姿が変わることにはっきりと気づくことができました。この研究会にはずいぶんと長い間かかわってきましたが、これほど大きく指導の内容を変え、これほど大きく子どもたちが変わったことは初めての経験でした(子どもたちの様子が劇的に変わった例はありますが、指導の内容は大きくは変わっていませんでした)。

2回目の検討会では、子どもたちの様子が劇的に変わったことを中心として、何がよかったのかについて多くの時間が割かれました。
授業者はある意味居直って、どこまでいけるかわからないが子どもたちに任せる気持ちになったようです。最後まで証明ができるとは少しも思っていなかったようです。子どもたちに任せようとした結果、授業者の個性が活かされ、うまく子どもたちの言葉を引き出すことができました。子どもたちが集中して授業に参加した大きな要因だと思いました。
参加者からは、「図を動かしてみせたりして、子どもたちに『あれ?』と疑問を持たせたことが、子どもたちの課題となった大きな要因だ」「子どもたちが額を寄せ合ってiPadを操作していてことから、子どもたちの課題となっていたことがわかった」「幾何ツールを操作することで、課題が深まり思考を促した」「子どもたちの課題となっていたから、自然にかかわり合うことができていた」といった意見がたくさん出ました。この2つの授業から多くのことを学んでいただけたと思います。

最後に各グループの活動のビデオ撮影などで参加してくれた学生さんたちにも感想と意見を聞かせてもらいました。授業者の「指導案を捨てる」という言葉が印象に残ったようで、指導案を捨てることが時に大切だということを学んだという発言がたくさん出てきました。「指導案を捨てて、子どもたちに柔軟に対応すること」はとても大切です。しかし、今回の授業はそういったものではありません。予定していた指導案は捨てましたが、代わりの指導案は書かないまでもある程度頭にはあったはずです。というか、それまでいくつも指導案を考えてきたからこういった対応も可能になったのです。「指導案を捨てた」と一言で言えることではないのです。学生さんたちがもしこれをやってしまえば、十中八九授業は迷走すると思います。このことに気づいてほしかったのですが、時間の関係もあり指摘する意見を拾うことはできませんでした。申し訳ないことをしました。

同じ題材やツールを使っても、授業の構成によって子どもたちの姿は大きく異なってしまいます。課題の見せ方、与え方で子どもたちのツールの使い方も大きく異なります。教師が素材や道具をどのように活かして組み立てるかで、授業は全く別のものに変わります。授業の奥深さを改めて実感しました。
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31