頼りになる先輩のような本

画像1 画像1
玉置崇先生の編著で中学校の学級づくりの本、「中学○年の学級づくり 365日の仕事術&アイデア事典」が出版されました。この本を手にした印象は、「頼りになる先輩のような本」です。

担任を持つと毎日学級の子どもたちの前で話をする機会があります。連絡事項だけで時間をつぶしてはもったいない時間です。しかし、「4月のこの時期一体何を話せばいいのだろうか?」「この行事に向けてどのようなことを語りかければいいのだろうか?」と悩む方も多いと思います。学級づくりを進めていくためには、いろいろな場面で担任の働きかけが大切になります。ターニングポイントに気づかず、後手に回ってしまうことがあります。そんな時、頼りになるのが先輩や同僚です。自らの経験をもとに、今学級づくりに何が必要かを教えてくれる人がいるかいないかで、大きく変わってきます。

私自身を振り返ってみると、初任者の時に副担任としてついた先輩の存在がとても大きなものでした。毎日の短学活に私を同行させて、この時期に何を話すべきか、どのような働きかけをするのか逐一具体的に見せてくれました。また、子どもたちや保護者との面接にも立ち会わせてくださいました。時には、発言の機会を与え、後からアドバイスもしていただきました。厳しく指導されたこともありましたが、そのおかげで今の私があると思っています。私のように素晴らしい先輩に出会えた方は幸せですが、現実は必ずしもそうとは限りません。若い先生で、自分の中学校時代の担任が何をしていたかを思い出しながら、手探りで学級経営をしている方にたくさん出会います。そんな方にとって、頼りになる先輩としてたくさんのアドバイスをしてくれる本です。
この本の素晴らしいところは、具体的なトークや取り組みの例、子どもたちに配る印刷物の写真など、すぐに使える物やアイデアが満載されていることです。しかし、人によってはマニュアルのように全く同じようにしゃべったり、そのまま使ったりして上手くいかないということもありえます。自分の学級の状況に応じて工夫する必要があるからです。その点、例えばトークであれば、なぜそのようなことを話すのか、話のポイントは何かを話に沿って解説しています。トークを公開してくれるだけでなくその裏側も伝えてくれる、頼りになる上にとても親切な先輩なのです。

今まで学級経営に関することを質問された時には、私なりの答を伝えるとともに、「先輩や同僚がどうしているか聞いたり、学級をのぞいて盗んでみたら」とアドバイスしていましが、これからは、「こんないい本があるよ」という言葉を付け加えたいと思います。

志水廣先生「退官記念講演」と志水塾のこと

先週末は、愛知教育大学の志水廣教授の退官記念講演に参加させていただきました。全国から300名もの方が駆けつけられ、「笑瀾万丈」と題する講演を楽しく聞かせていただきました。

人との出会い、縁を大切にすること心がけている志水先生です。他者に対する感謝の気持ちを持つこと、他者に対してありがとうと言ってもらえるような行動をとることの大切さを、ご自身の人生を例に笑いを交えてお話しされました。
志水先生を塾長として活動してきた志水塾では本当にたくさんの方と素晴らしい出会いがありました。

私と志水塾との関係は、立ち上げ時の代表を務めていた先生から、是非手伝ってほしいという声をかけていただいたことから始まります。当時、志水先生が引退したら自分のメソッドを全国に広げる活動をしたいとおっしゃっておられたそうですが、その先生は先に延ばすのではなく、すぐに実現しましょうとまわりの先生方に声をかけ、自ら代表としてゼロから立ち上げられたのです。本部主催の研修会以外にも、各地区の先生方が研修会を開催するようになり、志水塾の活動は愛知県から全国に広がっていきました。その中でも、年1回行う本部での研修会は、他の規範となるものとすべく、毎年新しい内容を盛り込むことを旨としました。運営や準備だけでも大変な中、研修の進め方や授業メソッドなどの中身についても代表を中心に、愛知県をはじめ全国の先生方が手弁当で力を合わせてつくり上げていきました。私もその一人として研修をつくる過程を皆さんと共有させていただきました。また、研修会当日は、自ら学びたいという意欲のある先生方の研修場面に立ち会い、アドバイスをさせていただく機会も持たせていただきました。こうして先生方と学びを共有することができたことが、私の現在の仕事の基盤となっています。どれだけ感謝しても感謝しきれません。
本部での研修会は10年間にわたって続きました。しかし、その10年間で愛知県の中心となった先生方が次第に自由に動くことができない立場になってきました。次世代を育てられればよかったのですが、教員の年齢構成などの問題もあり、新しいものをつくりだす力を維持できなくなったのです。愛知県での本部研修会の開催を断念するにあたって、代表から相談があった時のことを今でも覚えています。苦しい胸の内を語られました。ゼロから立ち上げてここまでにしたのに、断腸の思いだったでしょう。
あれから、もう何年も経ちました。愛知県での活動は小さくなってしまいましたが、幸いにも全国各地の仲間は元気に志水塾を開催してくれています。そんな仲間と久しぶりに出会えたとても楽しい講演会でした。

ただ一つの心残りは、代表を務めた先生が全体でお話しする機会がなかったことです。こうして全国から集まった仲間の間違いなく中心にいた方だからです。時の流れの無常さも感じました。

LINEでのいじめが減少する!?

川崎の中学生殺害事件でLINEが事件解明の手掛かりになったことが盛んに報道されました。こういった事件では、情報サービスの固有名詞は出されないことが多いのですが、今回ははっきりと示されました。深読みすると、LINEでのやりとりは、タイムラインを削除したり、端末を処分したりしても、サーバーにデータが残っているので消すことができず、運営会社が警察に協力すればすべて明らかになることを知らせようとしているように見えます。
LINEでのやり取りは、そのグループに属していない人には見えないので、いじめが起きやすいと言われています。実際に、小中学校で子どもたちのLINE上のトラブルをよく耳にします。そういったいじめに対して、何か起こればすぐに証拠として明らかになることを周知することで、抑制しようという意図を感じたのです。
今回の報道でこのことに気づいた子どもは、LINEでの書き込みに注意を払うようになると思いますが、多くの子どもはそのことにまだ気づいてないでしょう。この事件を抑止力とするためには、そのことを積極的に子どもに伝える必要がありますが、その判断は学校によって分かれると思います。LINE上でのいじめを抑制したからといって、いじめ問題の根本的な解決にはなりません。しかし、LINEという環境があるからいじめが起やすいという考えに立てば、LINEでいじめをすれば最後にはわかってしまうことを子どもたちに伝えることは意味のあることのようにも思えます。問題はその伝え方でしょう。ストレートに言えば、子どもたちがいじめをしていることを疑っているように伝わってしまいます。情報教育の中で機会を見て、メディアの特性として伝えることが妥当のように思います。

今回の事件をLINEの活用の側面からとらえた時、学校関係者はどのように考えられたでしょうか。実際にLINEでのやりとりを開示してもらうのは、今回のような刑事事件でなければ難しいと思いますが、その可能性が明らかになっただけでLINEでの問題への対応に新たな切り口が生まれてきたように思います。
実際に各学校がどんな対応をするのかはわかりませんが、ひょっとすると今回の事件がLINE上でのいじめの減少につながるのかもしれません。

おやじの会の皆さんに還暦を祝っていただく

昨日は、私が学校評議員をしている中学校のおやじの会の皆さんが、私の還暦を祝ってくれました。個人的には還暦になったことを素直に喜べないのですが、こうして縁のある方が祝ってくださることはとてもうれしいことです。

このおやじの会の皆さんと知り合って11年になります。当時の校長と一緒に懇親会に誘われるようになってからも、ずいぶん時間が経ちました。
学校と地域が協力する関係が大切だと言われます。しかし、その実態は、学校が地域の力を一方的に借りようとするものであったり、地域が学校に対して自分たちの要求を強く主張するものだったりすることが珍しくありません。協議会を作って一緒に学校を運営しているように見えても、形式的でだれが責任を持ってことにあたっているのだろうと疑問を持たざるを得ないような事例を目にすることもよくあります。学校と地域がどうすればよい形でかかわれるのか悩んでいました。そんな中で出会ったのがこのおやじの会です。
子どもたちを育てるために自分たちは何ができるだろうと、地域の住民の視点で真剣に考えています。学校と考えがぶつかる時もあります。そのことを恐れずに自分たちの考えをまっすぐに伝えます。子どもたちのためという点では、学校と一致していることがわかっているからです。学校と地域の協同のイベントに地域フェスティバルがあります。この変遷を10年以上にわたって間近で見ることができました。そこにあったのは、学校と地域が共に歩んでいくということは、単に仲良くやることでも対立することでもなく、互いに子どものために何ができるかを真剣に考え、相手に要求することより自分たちにできることを大切にすることだという姿勢です。その時々のフェスティバルには、形は違っても、その時点で子どもたちを育てるために何をしようとしているのかが伝わってくるものでした。学校と地域のかかわり方の答の一つをこの会の皆さんから教えてもらえたように思います。
また、この会の方々はこの中学校区のことだけではなく、市の児童館の運営など、市民として子どもたちの教育に積極的にかかわっておられます。地域が子どもたちを育てることにかかわるとはどういうことかを身を以て示していただいています。

このような方々と出会えた幸運に改めて感謝しています。そして、こんな皆さんに自身のことを祝っていただける幸せを心からかみしめた時間でした。本当にありがとうございました。

吉永幸司先生から学ぶ

今年度最後の教師力アップセミナーは元京都女子大学附属小学校長の吉永幸司先生の「国語力は人間力−言葉で考える子どもを育てる国語指導」というタイトルの講演でした。

国語の教科指導の話というよりは、国語指導を通じて子どもたちの人間関係をつくったお話しでした。吉永先生が校長に就任するまでは、「のびのび」をキーワードとしていたそうです。そのマイナス面として、まわりとの関係を考えずに好き勝手な態度をとるため、子どもたちの人間関係が悪かったようです。また、私立の小学校ということで、子どもたちは放課後住んでいる地域で他の子どもとの関係がありません。エネルギーの発散場所が学校に限定されていることが、子ども同士のトラブルを誘発しているようでした。吉永先生は、子どもたちが伝えるべきことをきちんと伝えることができていないことが、いろいろなトラブルの根底にあるとが感じられたようです。保護者とのトラブル一つとっても、子どもが保護者に状況を正しく伝えていないために行き違いが起こっているのです。そこで、子どもに「必要な時に必要なことを伝える力」をつけることに力を注がれました。
その第一歩は、日常の言葉をきちんとすることでした。まずは、教師が子どもをきちんと「さんづけ」で呼び、名前を呼ばれたら子どもが「はい」と返事をすることからです。「ていねい」をキーワードにすることで、まず先生の言葉づかいが変わりました。主語が「○○さん」に変わるとそれに伴って述語もていねいに変わっていきます。こうして、子どもにていねいな言葉で話をさせ、続いて正しく伝えることを徹底させました。保健室でも、きちんと伝えなければ利用させません。保健室をよく利用する子どもが、他の子どもに伝え方を教えるようになったそうです。子ども同士のけんかの聞き取りも、ていねいな言葉を使うように指導します。「○○が・・・」と言えば、「○○さんが・・・」と言い直させます。単文しか話さなければ、一つひとつ聞き返し、最後にそれをつなげて言い直させます。こうして、伝える力をつけていきました。
ノート指導も大切にされました。先生は子どものノートと同じように板書し、子どもがそれを同じように書くことを徹底しました。教師と同じということは、教師の指示を聞くことにつながります。ちゃんと聞けば上手くできる。そういう経験を積ませることで、達成感を持たせ、自己有用感につなげていったのです。
こうして子どもの伝える力をあげ、自己有用感を持たせることができるようになって、当然のことながらトラブルは減り、学校が変わっていったそうです。

吉永先生が最初にされたことは、コミュニケーションに関する基本的なことと、指示を聞かせるために具体的な活動と評価を意識することでした。こういった根っこの部分をまず徹底できでれば、その上に多くのものを見上げることができます。この後の京都女子大学附属小学校でのいろいろな取り組みは、まさにそのようなものであったと思います。
吉永先生の語り口は、「ていねい」をキーワードに学校の改革を進めたことがなるほど思えるものでした。この柔らかさで職員にも接したからこそ、学校を変えることができたのだと思います。吉永先生の姿から、学校を変えていくために大切なことをまた一つ教わったように思います。吉永先生ありがとうございました。

学び続けるエネルギーをもらう

先日友人たちと会食しました。参加した同級生たちは、この3月までに60歳になって一旦会社を退職し、引き続き同じ職に就くか関連会社で同様の仕事をするようです。活躍できる場を持っていることもあるのでしょう、みな元気でエネルギーに溢れていました。
一人の友人は、「これからは今まで蓄えてきたもので勝負する」と言っていました。その分野では著名なエンジニアで、教科書も執筆しています。第一線のエンジニアとして蓄えたノウハウに自信を持っていることが伝わってきます。また、別の友人はいつまで仕事を続けていけるかは、「時代にマッチアップできているかどうかで決まる」と言っていました。マスコミの仕事をしていて、雑誌などにも署名記事を書いています。依頼に対応できる発信力を保てるかが勝負というわけです。
私たちの年代になると今まで蓄えたものがベースになることは間違いありません。しかし、それだけではすぐに時代に取り残されてしまいます。その厳しさを知っているからこそ、エンジニアの友人は、今まで蓄えた最先端の技術、ノウハウで「勝負」するといったのでしょう。エンジニアの友人も、ジャーナリストの友人も、これからも学び続けていくことは間違いないでしょう。自分たちが時代に追いつかれるまでは走り続けるのだと思います。彼らが引退するまではまだ時間がありそうです。

教育の世界はどうでしょうか?社会の変化の影響は確実に学校にも押し寄せています。今までの授業のパラダイムは明らかに変わろうとしています。しかし、残念ながら今までの授業感に囚われて変わろうとしない方も目にします。その一方で、定年後再任用になってもセミナーなどで学び続けている方もたくさん目にします。ベースとなるものがしっかりとあるからこそ、新しいことに対応することができるのだと思います。学ぶ意欲(と体力・気力)があれば、ベテランの方がより高いところにいけるのかもしれません。
私はと振り返ってみると、教師として大した蓄積があるわけではありません。今も昔も多くの先生方や子どもたちから学び続けるしかありません。それはこれからも変わらないでしょう。学び続ける力を無くした時が引退する時だと思っています。

節目の年を迎えましたが、本当の節目はまだ少し先のようです。学び続けるエネルギーを友人たちからもらいました。

秋田喜代美先生から学ぶ

今年最初の教師力アップセミナーは東京大学大学院教育研究科教授の秋田喜代美先生の「子どもがつながる授業、質の高い学びのある授業をめざして」という講演でした。秋田先生のお話は、自分の考えや理論を強く主張するというよりも、自分の研究や学校現場で学ばれたことを私たちと共有し一緒に考えようというスタンスでした。とても納得性の高い、学びの多いものでした。

教育の質と関連して、子どもたちが大人になっときに必要な力を考えなければならないというお話をされました。全くその通りです。秋田先生が例に挙げられた、15年後に社会で必要とされる力を考えることはそれほどたやすいことではありません。教育に携わるものは、社会の流れや変化をしっかりと観察しその先を見通すことが必要ということです。ともすると、目先のことに追われてそのことを忘れてしまいます。心しなければと思いました。ここで、協調的な問題解決のテストが開発されたことが紹介されました。こういう力が求められてきているということでしょう。テスト対策をするのではなく、本質的にどうすれば私たちが願う力を子どもたちにつけるのかを考えることが求められると思います。
教育の質を2つの次元で説明されました。1つは「安心・居場所感でつながっている」、もう1つは「文化的価値ある対象に夢中になれる」です。前者は、私の授業アドバイスの基本となっていることです。しかし、後者については、そのためのアドバイスがなかなかできていないことが実態です。改めてこのことをきちんと伝えていかなければと思いました。
また、教師が選択肢をたくさん持つことが大切であるということも話されました。教師の理屈ではなく子どもの側の視点に立って授業を進めてほしいというメッセージだと受け止めました。子どもの状況に応じた対応をするためには、選択肢が必要となるからです。

授業の質を深める手立てとして3つのステップを示されました。

1 誰でも参加し良さを認め合う
子どもたちが考えたことが見えないとコミュニケーションが成り立ちません。子どもたちのつぶやきを拾い、広げていくことが大切になります。
2 学びを深め創り出す
内容が拡散して薄いと語ることが少なくなります。意見の違いを焦点化して、根拠や理由を考え深めることが大切になります。
3 思考や理解を吟味する
学びを確かなものにするためには、授業をやりっぱなしで終わるのではなく、子どもの言葉で学んだことや今後の見通しをまとめることが必要になります。

私としてはこの3つのことの大切さはよく理解しているつもりですが、こうしてお話を聞くと3つ目の「思考や理解を吟味する」ことをきちんとアドバイスの折に伝えきれていないように思いました。もっと意識しなければと改めて反省です。

授業では「待つ」と「聴く」が大切だということと合わせて、人と一緒に考え、自分たちの持っているものをベースに考えると、「自分たちの力でやり遂げた」という言葉が出てくるということが話されました。「私がやった」「自分でできた」という言葉を、私はずっと大切にしています。秋田先生から同じような言葉が紹介されたことをとてもうれしく思いました。
「教師の指示でする形式的な拍手ではなく、子どもたちから『自然』にでるものを大切にしたい」、「あらかじめ準備した明確に発せられる『プレゼンテーションの言葉』ではなく、その場で考えながら小さく、ゆっくりと発せられる言葉を聞き取ることを大切にしたい」という話には、大きくうなずきました。子どもたちがつながるために大切なことだと思います。

面白かったのは、ある公開授業のビデオを見て何人かの方に感想を聞いた場面でした。全く同じものを見ても、見る視点が全く違っていたのです。休息時間に知り合いの方の意見も聞きましたが、その方の授業観をよくわかるものでした。授業を見て感じることにその人の授業観が反映するのです。だからこそ、授業研究が大切だと改めて思いました。どの考えが正解か議論するのではなく、互いの授業観にふれあい学び合うことがよりよい授業をつくっていくためには必要なことだと思います。

学び合いを支える道具立てについても面白い話を聞くことができました。「個々の学びや立場を可視化するツール」「つなぐためのツール」「吟味のためのツール」と分類した上で、ホワイトボードや付箋紙を使った例を紹介されました。互いの考えを吟味して深めるためには、ただ話し合うだけではうまくいきません。道具の使い方もこのように分類して視点をはっきりするとより有効に活用できると思います。

秋田先生は教師の創意工夫が必要であることをいろいろな場面で強調されます。最近の教育関係の講演では、こうすればうまくいく、こうすればよいというノウハウ的な話が多くなっているように思います。教師に創意工夫を求める秋田先生の姿勢は、先生方の力を信じていることの裏返しだと思います。秋田先生の学校現場を見る目の温かさを感じました。

今回のセミナーの司会進行を務めた若手の教師は、事前に秋田先生の著書を読んで勉強したそうです。しかし、一度読んだだけでは難しくてよく理解できなかったようです。しかし、今回のお話しはとてもよくわかったそうです。もう一度読めばきっとよく理解できそうだとうれしそうに話していました。本から学ぶことも大切ですが、直接お話を聞くことでより一層理解が進むこともあります。教師力アップセミナーのねらっているところの一つです。
スタッフも含め、参加者にとって学びの多い講演でした。秋田先生本当にありがとうございました。

新年早々、よい出会いがある

昨日、ある先生とお会いし相談を受けました。その方が大学院生時代に研究会で何度かお会いした方です。学校が地域や民間の力をもっと活かすことができるのではないかと考えられていて、情報を求められてのことでした。この仕事を続けていると、学生時代のことを知っている先生とたまたま出会うことがあります。成長した姿を見せていただけることは本当にうれしいことです。今回は、わざわざ連絡を取って会いに来て下さったのですが、さすがにこのようなことは稀です。ちょっと驚きました。

市町で状況は違うのですが、その方の勤務先の学校ではなかなか外部の力を学校に活かすことが難しいようでした。部活動の指導を外部に委託するといったことを提案しても、事故があった時の責任が取れないといったマイナス面ばかりが指摘されるようです。こういったことは学校独自で判断することはなかなか難しいと思います。行政がある程度方向性を示すか、校長会から提案するといった方法を取らないとなかなか実現できません。まだ立場的にも若手の域を出ていない教員の力で動かすことは難しいことです。だから私に相談してくれたのだと思います。残念ながら私は直接の答は持ち合わせていません。他の市町でどのような取り組みがあるのかをお教えするくらいしかできませんでした。

多くの場合、学校と外部のあり方について考えるのは管理職やミドルリーダーです。今回のように若い先生がそのことに関心を持つことは滅多にありません。ちょっと驚きました。話をいろいろと聞いていると、子どもたちだけでなく、企業や一般の方に対する教育にも興味があるようで、そのための勉強もしているそうです。視点が違っていたのは、そういったことが影響しているのでしょう。この先どのようにキャリアアップしていくかということを考えているので、教師を辞めて別の世界に入っていった私の経験も聞きたかったようです。これからどのような教師に成長していくのか、それとも別の世界に飛び込むのかはわかりませんが、前向きに自分の世界を切り開こうとしていることはよくわかりました。
自分のキャリアの着地点をそろそろ考えなければいけない年齢になった私ですが、この方に刺激を受けて、まだもう少しいろいろなことにチャレンジしてみたいと思ってしまいました。新年早々よい出会いがあったことに感謝です。

小学校の外国語活動の今後を考える

小学校の外国語活動は、「音声を中心に外国語に慣れ親しませる活動を通じて、言語や文化について体験的に理解を深めるとともに、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成し、コミュニケーション能力の素地を養うことを目標として様々な活動を行う」ことになっています。「慣れ親しむ」「言語や文化の体験的理解」「コミュニケーション」がキーワードです。英語の力をつけることが目標とはなっていません。英語が専門でない小学校の先生方が教えることを考えれば妥当なことだとは思います。その一方で、実践的な英語力を子どもたちにつけるということが盛んに言われています。外国語活動の時間を下の学年でも必修化することや、教科化も打ち出されています(文部科学省「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」参照)。
現在行われている外国語活動の授業の多くは、とにかく子どもたちが英語を使ってゲームやアクティビティをすればよいというものです。英語力をつけるという視点で見れば、あまり効果があると思えないものがほとんどです。英語を使うというだけで、子どもたちの精神年齢からすればあまりに幼稚なゲームを行うために、外国語活動の時間をばかばかしく感じる子どもも出てきます。中学校に入った時点で英語嫌いになっている子どもも結構いると聞きます。

これまでの外国語活動の時間は、とりあえず小学校で英語を扱うという既成事実作りだったように思えます。「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」を見ると、小学校高学年では、そのねらうところが、将来的に英語力をつけるための基礎を身につけることに変わってきています。授業の担当者も含めて、その内容も大きく変わることになるのでしょう。多くの自治体で、「慣れ親しむ」「言語や文化の体験的理解」「コミュニケーション」を意識した英語活動のカリキュラムを多くのエネルギーをつぎ込んで、独自に作成しました。現場の先生からすると、せっかく外国語活動の授業に慣れたのに、また新しい流れに対応することが求められます。そろそろ、中途半端に現場に任せるのではなく、小中高を通じて一貫した英語教育のカリキュラムを明確に提示することが必要だと思います。
現場の先生方に大きな負担なく、子どもたちに英語力がつくようなカリキュラムが組まれることを願っています。

楽しい忘年会

先日、学校評議員をしている中学校のおやじの会の忘年会に参加させていただきました。

この日もいつものように楽しいお酒でした。自分たちの子育ては終わっても、地域の児童館の運営にかかわったりしている方々です。自然に最近の子どもたちや施設の運営、イベントの話に花が咲きます。口先だけの批評家ではなく、子どもたちと実際に触れ合っている方が感じることですから、説得力が違います。私は地域の視点で子どもたちを見ることがほとんどありません。そんな私では気づけないことをたくさん教えていただけます。
お酒も入っているので、議論になったりもします。それがまた楽しいのです。意見がぶつかっても、お互いに子どもたちのことを第一に考えていますので、その一点で必ず認め合えます。何の利害関係もなく、地域の大人として子どもたちに何ができるか、その思いでつながっているのです。認め合えている方々だから、忌憚のないことが言い合えるのです。とても素敵なことです。

私にとって、たくさんのことが学べる場です。しかし、それよりも何よりも、皆さんと一緒にお酒を飲み、お話しできることが楽しいのです。このような会に毎回お誘いいただけることをとてもうれしく思っています。楽しい時間ありがとうございました。また、誘ってくださいね。

佐藤正寿先生からたくさんの刺激と視点をいただく

先日行われた、三重県教育工学研究会の冬季セミナーの第1部「学力向上に活かすICT活用」に参加してきました。奥州市立常盤小学校副校長の佐藤正寿先生による「学力向上に活かすICT活用模擬授業」と「ICT活用のヒントをさぐる」という講演でした。

「学力向上に活かすICT活用模擬授業」の前半は、まずは拡大して見せることのよさを全員に対しての模擬授業で伝えます。「百聞は一見に如かず」というように、言葉での説明ではわかりにくいこともスクリーンに映して見せればすぐに伝わります。
資料を見て「気づいたこと」という発問がよくありますが、これで答えられる子どもはよくできる子どもだけだと佐藤先生はおっしゃいます。私も同感です。「気づいたこと」では何を答えていいかよくわかりません。こういう時に佐藤先生は「何が見えますか」と答えやすい発問をします。目に入っても意識して見ていないものに目を向けさせる発問です。また、必要に応じて、「どのくらいある?」「どちら側にある?」といった切り返しを行います。ちょっとしたことに思えますが、この切り返しで子どもたちの考えを深めます。何をどのように切り返すかは、授業者がその資料で何をねらっているのかと直結する部分です。授業者の教材研究が見えてくるところです。
社会科では資料で気づいた事実をもとに、解釈することが大切になります。しかし、「解釈しなさい」では、それこそ「気づいたこと」以上に子どもたちとって答えにくい発問になります。「○○がある(のは)、」「○○だから」といった話型を使うことで「事実」を「解釈」することがどういうことかを伝えます。抽象的な用語を教える時に大切な発想です。ICTの活用を例にして、大切なことをさりげなく伝えてくださいます。
佐藤先生はフラッシュ型教材を使ったクイズも上手に利用されます。私はクイズを行うことをあまり勧めません。多くの場合、知らない知識を問うことになるので、考えても答えが出ません。単にテンションが上がるだけになるからです。佐藤先生の場合は、利用シーンが非常に明快です。一つは知識を定着させる復習の場面、もう一つは解釈を考えさせる場面です。前者はその有効性がすぐに理解できると思います。後者は事実に対していくつかの解釈を選択肢として与えるものです。解釈と言ってもなかなか考えることができません。子どもから出てきた解釈は的外れなこともあります。「それって本当?」とゆさぶり、いくつかの選択肢と共にクイズにすることで、手がかりが全くつかめない子どもにも、それなりに根拠を考え(想像)させることができます。また、答を選ぶことで立場が明確になります。正解したかどうかにかかわらず、真剣に聞くことになり知識として印象にも残り、定着します。このようなクイズを行う時に佐藤先生は考える時間をあまり与えません。子どもたちの手持ちの知識から論理的に正解が出るようなものであれば時間をかける意味もありますが、そうでなければ時間のムダです。このあたりは実に明快です。この他にも、簡単なクイズを授業の課題につなげるといった使い方もされますが、いずれにしてもシンプルで時間をかけないことが大切です。その点でICTはとても有効な道具となります。
今回面白いと思った発問に、数を想像する問の答をペアで聞きあわせたあとで「同じくらい?」「違う?」と聞くものがありました。根拠を持って考えることができるものでないので、話し合っても意味がありません。しかし、このように問いかけることで他者とかかわることをより意識するようになります。「同じ」ということで子ども同士がつながったり、「違う」ということでどちらが正しいのかより興味を持って説明を聞こうとしたりするでしょう。単純なクイズでも、ちょっとした工夫でいろいろな効果が期待できます。私なりにクイズの活用方法を整理することができたのは大きな収穫でした。
資料の見せ方で、「隠す」ことも佐藤先生はよくされます。故有田和正先生がよく使われていた手法です。資料の一部隠すことは、ICTでは簡単にできます。忙しい先生方にとってありがたいことです。隠すから知りたくなります。ここで、隠したものを実はこうだったと見せることもできますが、答をその場で教えないという方法もあります。答を知りたいと思った子どもは、自分で調べようとします。身の回りのことであれば、実際に足を運んで調べることでしょう。ただ調べなさいでは意欲はわきませんが、隠すことで子どもたちの意欲を引き出し活動につなげることができます。いつものことですが、佐藤先生のお話はICTをテーマにしても常に授業の本質的な部分を外しません。

続いて、12人の子ども役を相手に壇上で1単位時間の模擬授業です。5年生の社会科「災害の起こりやすい国土」でした。
佐藤先生のいつもの進め方ですが、最初にICTを活用してテンポよく復習し、短時間でウォーミングアップを行います。
津波の写真をもとに、何が見えるかを問いかけて興味づけを行います。子ども役の発言のよさをきちんと評価します。発言の内容だけでなく、発表の仕方もほめています。授業規律が意識されています。
「日本ではどのような自然災害が起きているのか」という課題と、この日のゴール「ノートにまとめること」を最初に提示します。最近よく言われるユニバーサルデザインの視点でも、活動のゴール(目標)を提示することは大切なことです。見通しを持って活動することができます。目標を明確にすることは、評価の基準を明確にすることにもつながります。活動と評価は常にペアで考えることが必要です。
子ども役に自然災害の種類を書き出させ、情報交換させます。ペアやグループの活動では、かかわり合うことがよかったと思えるようなものにすることが大切です。佐藤先生は「数が増えます」とかかわり合うことのよさを言葉にして伝えます。子どもたちによさを明確に意識させることで、積極的にかかわれる姿勢を育てようとしているのでしょう。
子ども役の発表を一つひとつ聞き終ってから板書をします。子どもの発言をしっかりと受け止めることが意識されています。災害に対して子どもの知っている例やその被害を聞き返して、単なる用語からより現実感のある生きた言葉に変えていきます。こういった切り返しも大切です。
全員の考え引き出すために、まだ発表されていないものを書いてある人を起立させて順番に聞いていきます。自分と同じ考えが発表されて座った人をすかさずほめます。授業規律のつくり方の基本も外しません。
災害種類を左右に分けて板書していました。日ごろからこのような板書を心がけていると、子どもたちがどこに書くかを意識して見るようになります。「どっちに書くと思う?」「どっちに書けばいい?」と聞きながら書いてもいいでしょう。「地殻変動」と「気象」に分けていたのですが、この「分類」は社会科では大切な視点です。佐藤先生の授業では、こういった社会科を貫くメタな視点が大切にされています。
続いて、「どこで」「どんな」災害が起きているかを問います。資料の必然性がある問いです。可能であれば子どもたちに地図帳などを使って探させることも大切な活動です。資料は「探す」「読み取る」「(もとにして)考える」という3つのステップが大切ですが、「読み取る」活動しかない授業も多く見ます。佐藤先生は子ども役に探させることをしました。あらかじめ配られていた資料があったというか、それしかないので、あまり意味がある活動ではないのですが、子どもに資料を探させることを参加者にあえて意識させたかったのでしょう。
続いて4人グループで「3つの資料から言えることは何か?」を考えます。何を答えていいかわかりにくい課題です。ここでも、発表の形式を指定することで、思考の方向を明確にしています。「例えば○○、だから○○」という話型使います。そして、発表には白地図を使うように指示します。白地図を使うことで自然に地理的な条件を意識させることができます。視覚化は重要な表現方法であり、広い意味で言語活動の一つだと私は考えています。教科を超えた子どもたちに身につけさせたいスキルです。
グループの発表を必ずポジティブに評価します。発表の内容そのものをほめるのでなく、「指定したキーワードが入っている」「習ったことを使っている」「理科の知識を使った」といったメタな視点で評価していました。この課題だけでなく他の課題でも活用できる再現性のあるものです。こういう評価をすることで、見方・考え方が身についていくと思います。
結論は、「日本はすべての自然災害が起こりやすい。だから防災が大切」というものなのですが、それで終わりません。災害をもたらす日本の国土のプラス面を聞くのです。「火山があるから温泉がある」「雪によって米も育つ」というように別の視点で見ることで子どもたちの視野を広げることができます。佐藤先生が子どもたちにつけたい学力が非常に明確に伝わる模擬授業でした。ICT活用を超えて、多くの学びがありました。

「ICT活用のヒントをさぐる」という講演は、「定義」と「分類」をすることでデータが意味あるものになるというドラッカーの話をベースに、分類という視点でICT活用や授業技術をとらえるものでした。
特に社会科の資料の型を「解説型」「追究型」「視覚型」「整理型」と分類し、それぞれの活用方法の違いを整理した話は大変参考になりました。資料だけでなく、授業のいろいろな予想を私なりの視点で分類してみようという気持ちになりました。とてもよい刺激を受けました。

私にとって実に刺激と学びの多いでセミナーでした。このようなセミナーを参加費無料で行うというのはとても大変なことです。多くのスタッフが手弁当できびきびと働かれていることに感激します。佐藤先生の素晴らしい模擬授業と講演、そしてセミナーを企画しスタッフとして支えられた三重県教育工学研究会の皆さんに心から感謝します。本当にありがとうございました。

北原延晃先生から学ぶ

先日、英語の授業実践で定評のある東京都港区立赤坂中学校の北原延晃先生の研修会に出かけました。3回シリーズの第3回目でやっと時間を取って参加することができました。

今回は、今までの研修をもとに若手が行った実践発表とそれを受けての北原先生の指導と講演でした。
3名の方の授業実践を見て感じたのが、北原先生の授業を参考にしたかどうかは置いておいて、子どもを見ていない、活動の目標が明確でないというように、授業の基本に関してできていないことが多かったことです。また、”situation”で理解させるのではなく、英語を日本語に対応させて教えていることも気になりました。子どもが英文をオウム返しで覚える活動が中心では、英語を使えるようにはなりません。自分の伝えたい”situation”を英語にすることが大切です。
北原先生は私が感じたことと近い視点で指導され、私にとってとても納得できるものでした。ということは、北原先生は活動の目標を明確にして、”situation”で理解させようとしているということです。前2回の研修で彼らは北原先生からそういったことを学べていなかったのです。話を聞いたり、実践を見たりしても、そこから何を学ぶかは人によって違います。表面的な技術ではなく、本質をつかみ取ることはそう簡単ではないようです。このことは私も授業アドバイスをする上で、心しておかなければいけないことです。

講演では、文法の導入と練習の授業をどうつくるかということを具体的に教えていただきました。
北原先生の授業では、子どもたちは英文を読みながらジェスチャをします。基本的に英単語とジェスチャは1対1です。こうすることで英語の構造が身につきます。田尻悟郎先生の単語と絵を対応させた英作文練習やGDMのライブに通じるものがあります。
また、次にどのような文の練習をするか予想させます。過去の学習内容から予想させるというのは、「次に先生は何て言うと思う?」といった子どもたちを能動的にするためによく使われる発問と似た発想です。教科を越えて使えるやり方がたくさんあることを実感します。また、復習している内容をどこで学習したかを意識させることもしています。これも、大切な発想です。答を聞くだけでは、「ああそうだった」と一瞬思い出すだけですぐに記憶から消えていきます。どこで学習したかを意識させそこに戻ることで、その文という点ではなく、そこで学習した一連のことを思いださせることができます。これも教科を越えてよく使われるやり方です。
“I ○ dinner every Sunday.”という文の○にあてはまる単語を考えさせます。”have”では日曜日にしか夕食を取らないことになりますから、ちょっと変です。”situation”を考えると、”cook”が答だとわかります。食事当番の表を与えて、文を作らせます。単に覚えさせる英語ではなく、”situation”と連動させています。基本的に優れた英語の授業に共通する考え方です。
考えてもわからないと時には、”Hint please.”と子どもに言わせ、わからなければ聞くという姿勢を身につけさせようとしています。これも、教科を越えて子どもたちに教えたいことです。また、できる子どもを活かしながら、最後の一人ができるまで待つという、全員参加の姿勢も素晴らしいと思います。

北原先生の授業は英語という教科面の工夫に目を奪われそうになりますが、教科を超えた基本的な姿勢にその本質があるように思いました。英語の授業としてだけでなく、子どもが全員参加し、考える授業はどうやってつくるのかという点でも大いに学ぶことができました。よい学びの機会を持てたことを感謝します。

和田裕枝先生から、多くのことを学ぶ

先週末は、今年度第5回の教師力アップセミナーでした。豊田市立小清水小学校長の和田裕枝先生の「45分の授業モデルを作ろう」という講演です。和田先生は私の算数の授業の師匠のような方です。

今回はどのようにして算数の授業を組み立てるかというお話が中心でした。
和田先生は、授業の時間配分と流れを、導入は7分で子どもたちにこの日の自力解決の見通しを持たせ、5分程度で自力解決、集団解決を20分〜23分程度で行い、最後に10分間の振り返りの時間を持つといった構成で考えられています。
導入では、本時の課題解決に必要な基礎・基本を確認し、そことつなげることで、自力解決の見通しを持たせます。和田先生のすごいところは、5分程度の自力解決の場面で個別指導を行ってしまうところです。課題に対する子どもの実態把握をしながら、つまずきを見つけ、短い言葉で支援の言葉をかけます。これを全員に行うのです。私はあまり個人指導にエネルギーをかけないように先生方にアドバイスをしています。それは、多くの場合1人の子どもに時間をかけすぎて、全体を見ることができなくなるからです。和田先生は、必ず全員に声をかけます。そのためには、子どものつまずきを予想し、それに対して短い言葉でどのような声かけをするのかを考えておくことが必要になります。こういった教材研究と子どもたちの実態を素早く把握してどの言葉をかけるかを即時に判断する力があってはじめて授業時間中に個人指導が可能になるのです。
集団解決では、「学び合い」を強く意識されています。最近よく行われているグループやペア活動を活かした学び合いではありません。形や仕掛けに頼らず、子どもの言葉を拾い、つなげ、深めていくことで確かな学び合いを実現されています。ここで大切になるのは教師の方針です。どの考えを活かして授業を進めるのか?どの考えとどの考えを比較するのか?どの考えを次回に回すのか?また、受容だけして扱わないのか?こういった方向性を予め持っていないと、即時に子どもの発言を評価して、切り返したりつなげたりすることはできないのです。すぐに和田先生のような即時判断ができるようにはなりませんが、このことを意識して毎日の授業に臨むことが大切だと思います。
振り返りの時間が足りなくなる授業によく出会いますが、この日の学習内容を定着させるためにも、適用問題の演習や課題に対するまとめの時間を確保することが大切になります。数学的な思考を身につけさせるために、本時の課題に対してのまとめを「書く」ことを習慣づけることが大切です。課題からわかったことを整理、補充し、その前提となる条件や一般化などの数学的な思考をすることを求めます。具体的な数値や図を入れて「算数のノートだとわかるように書く」ことを求めるのです。高学力の子どもには、そういった数値などを使わず、より抽象化された、メタなものを書くこと求めていきます。和田先生は、全員に同じ高さを求めません。一人ひとりが成長することを求めます。低位の子どもには低位の子どもに応じたものを求めるのです。学び合いを意識される方に共通の発想のように思います。

子どもたちの実態に応じた対応することが、和田先生が授業の流れをつくる基本的な発想になっています。具体的には、その日の課題に出会った時に子どもたちがどのように考え、反応するかを予想することから始まります。その反応が授業を進めるうえで障害になるようなものであればそういったことを起こさないですむような導入を考える。本時で活かしたい考え、見通しにつながるものであれば、それをより引き出しやすいような活動を導入で行う。こういう考え方です。自力解決に取り組んだ時にどの子どもも鉛筆が動くような導入を心がけておられます。
集団解決の方向性は、子どもに言わせたい言葉は何かを意識することで決めていきます。振り返りで子どもに書かせたいことと言ってもいいでしょう。そのために、何を共有し、どこに時間をかけるかを考えるのです。解き方そのものではなく、どのような考え方をすれば解くことができるかということを子どもに身につけさせるのです。「授業でやっていないからできません」と言わせない授業、見たことにない問題を解ける力をつけることを目指すのです。

こういった話に続いて、5年「整数」の単元の最小公倍数の応用の問題をもとに具体的な授業のつくり方を考えました。教科書の課題をもとに、参加者に子どもの実態を予想してもらったうえで、和田先生の考える授業を模擬授業で教えていただきました。
今回改めて学ばせていただいたのは、子どもの学力差に応じた対応の仕方です。和田先生は全員参加を大切にされますが、それは全員が同じことをすることではありません。例えば、子どもの発言への対応であれば、言葉が足りない、上手く説明できないのが低位の子どもの場合には、質問を返したりはしません。他の子どもに言葉を足させます。中高位の子どもであれば、発言に責任を持たせます。他の子どもを納得させることを求めるのです。補助線の説明であればその説明をもう一度言わせて、それに合わせて他の子ども(低位の子どもを活躍させる)に書かせたりします。自分が考えた線を他の子どもでも書くことができるような説明を求めることで、説明する力をつけるのです。低位の子どもには、説明を理解することを求めます。高位の子どもには考え方の説明や他の子どもを助けることを求めます。それぞれに応じた役割を与えるのです。
また、和田先生の授業では常に子どもに反応を求めます。その反応を拾い、共有し、価値づけをします。「大切なことは子どもに言わせたい」のなら、子どもが反応することが必要だからです。首をかしげるといった些細な反応でも、それを拾い「どういうこと?」「何か困った?」と問いかけることで、子どもの言葉を引き出せます。その言葉をつないでいくことで、目指す考えに近づけていくのです。

今回、課題の与え方についてもよい視点をいただきました。教科書では、長方形のタイルを並べて、「できるだけ小さい」正方形をつくることが課題となっています。「できるだけ小さい」という条件は、「最小」公倍数を考えるためのものですが、この条件を空欄にした課題にまず取り組むことで、いろいろな大きさの正方形を考えさせることができます。1辺の長さが「公倍数」であればいいことに気づかせることができます。正方形をつくることは縦と横の公倍数(縦と横の長さが整数の場合)を1辺とすればいいことが基本であって、そこに「できるだけ小さい」という条件をあたえることで、「最小」公倍数の必然性が生まれてくるのです。2段階の課題とすることで、公倍数は最小公倍数の倍数になっていることも実感させることができます。条件を順番に与えることで思考を広げることができるのです。

お話を聞くたびに新たな視点が加わっていることや説明の言葉がより明解になっていることを感じます。管理職として日々先生方を育てることを通じて、ご自身のこれまでの授業を客観的に見つめて整理されていることがよくわかります。和田先生と出会ってからもう10数年になります。未だお会いするたびに新たな学びがあります。この日も、いつも以上に多くのことを学ばせていただきました。本当にありがとうございました。

野口芳宏先生から、いつも以上に多くを学ぶ

3連休の最終日は、今年度第4回の教師力アップセミナーでした。国語の授業名人野口芳宏先生の講演です。台風19号が近づいている中、多くの皆さんが参加してくださいました。それだけ、皆さん野口先生のお話に期待されているのでしょう。私もその一人です。教師力アップセミナー開始以来、毎年一度も欠かさず講師としてご登壇いただいています。そのぶれないお話にはいつも元気をいただいています。

午前中は、「海の命」をもとに野口先生が考える物語授業の進め方を具体的に教えていただけました。野口先生は学習用語を教えることを大切にされています。国語の学力には教材内容と教科内容があります。教科内容の大切な要素として、学習用語を挙げられます。作品の最初の1行からも、「題名」「作者」「作家」「筆名」と教えるべき学習用語がたくさんある。「会話文」と「地の文」、「段落」などもきちんと定義をして教えるべきだと語られます。
音読も、題名は大きく、作者名は小さく、題名と本文の間の空白行はびっくりするほどとって静かに読み始めるというように、教えるべきことをきちんと教えるようにと主張されます。

野口先生の全員参加の考え方が、この日はいつも以上に詳しく語られました。挙手に頼ると全員参加できない。「○か×」と全員に判断を求める。短い言葉で「書かせる」。「主人公の性格を2字熟語で書きなさい」というように、時には2字熟語で表現させるといったやり方も示されます。作品にそって発問されるので、とてもよく理解できます。しかし、こういった技術を活かすためには、作品のどの部分を取り上げるべきかの判断が大切です。教材研究が大切なのです。

子どもの読み取りを助けるのに言葉を足しながら読む方法があります。道徳でよく使われる手法です。この言葉を足すことを「着後」、こうやって授業する方法を「着語法」と言うのだそうです。この言葉を今まで私は知りませんでした。どこかで目にしていたはずなのでしょうが、記憶にありません。お恥ずかしい限りです。
この方法を活用するのであれば、授業でどの表現を扱うがはっきりしていなければ、どこで言葉を足すべきか判断できません。こういった手法を活かすにも、やはり教材研究が大切です。この日、野口先生が模擬授業で伝えられたことの裏には、常に深い教材の読み取りがありました。表面的に野口先生の授業をまねようとしてもそれほど簡単ではない理由はそこにあります。

作品に書かれた「現象」「会話」「事実」から「合理的に推論」することが鑑賞力と定義されます。国語の授業で、私がいつも「本文を根拠として答えることを求めてください」と先生方にお話しすることは、この野口先生のお考えの影響です。
この解釈を助ける方法の一つが比較です。この言葉がなければどうだろう、この表現を他の表現に変えるとどう違うと問いかけることで、作者の意図や表現したいことがよくわかります。このことを具体的な例でわかりやすく伝えられます。
解釈で大切なことは、表の意味「表層義」ではなく裏の意味「深層義」であると話されます。私たちはこのことを明確に意識することなく問いかけ、答えさせることが多いように思います。子どもから「表層義」しか出てこなかった時にどう対応するかが教師に問われますが、この「表層義」「深層義」という言葉を象徴的使うことで、問い返しやすくなると思いました。

この日の模擬授業で、野口先生は参加者に何度も短く端的に答えるように迫りました。考えが明確になっていないと、言葉がどんどん足され言っていることが揺れていきます。聞いている方は何を言いたいのかよくわかりません。短く端的に伝える訓練をする必要があるという主張はその通りだと思います。
ともすると、子どもがたくさんしゃべったことを評価する傾向があります。そのこと自体を否定する気はありませんが、教師が問い返すことで、その内容を明確にさせていくことが大切だと思います。

この日、野口先生は「問われて気づく」ということを何度も強調されました。教師が問わなければそのまま気づかずに済んでしまうことがたくさんあるということです。子どもに「問いかける」のは教師の大切な役割です。では、何を問いかけるのか。やはり教師に求められるのは教材研究ということになります。どこまで行っても、そのことから逃れられません。だから、野口先生のお話をうかがうと、いつも「お前はきちんと教材に向き合っているか」「教師たる者、学び続けているか」と迫られている気持ちになるのでしょう。

午後の第一弾は、若手の授業ビデオをもとに野口先生が講評をするというものです。野口先生が批判される「学び合い」に取り組んでいる学校です。司会はその学校の校長です。授業自体は学び合い以前に国語の授業として課題の多いものでしたが、司会者は批判ではなくどうすれば授業がよくなるかという視点で野口先生の言葉を上手く引き出します。
このやり取りの中で、野口先生が話し合いそのものを批判しているのではなく、子どもたちが何を話し合うのか、その内容を問題にしていることがよくわかりました。いつか、野口先生にこういう学び合いならいいという授業をお見せしたいという司会者の言葉で終わりました(自校でと言わないところがずるい(笑))。

最後は、道徳の教科化とそれに伴う評価のお話しでした。教えるべきことは教えるべきだという野口先生の主張はその通りだと思います。教科化で何を教えるべきかが明確になるのならそれはとてもよいことだと思います。社会の誰もが納得する当然のこと(ルールは守る、人を傷つけてはいけない等)を学校で教えるのかということには、何か釈然としないものがあります。本来家庭で教えるべきことを学校で教えなければならなくなってきたということでしょう。では、価値観が分かれそうなことはどうでしょうか。それに対して教師は自分の考えを強く言うことに臆病になっています。保護者から批判も来るかもしれません。教科化でそのことも明確になるのなら少しは精神的に楽になるのかもしれません。しかし、野口先生は教科とは関係なく、教師が堂々と伝えるべきだと考えられていることが言葉の端々から伝わってきます。制度では教育の質を変えられない、それを変えることができるのは教師の質である。野口先生の言葉はいつも教師であることの意味を私たちに問いかけます。

東京大学名誉教授の東洋先生の「評価は有限である」という言葉を例に出し、評価することを恐れるなと話されます。所詮評価は有限である。野口の評価は野口個人の評価であって絶対ではない。別のものが評価すればまた変わる。そういうものだと。
そこには、批判を受けても堂々と答えるという強い意志が隠されています。私が胸を張ってこう言えるようにまでには、まだまだ自分を高める必要があると痛感させられます。

最後に野口先生の道徳の視点を少し話されました。見方・考え方・受け止め方である「観」をもとに考えるというものです。同じ事実に対して「非」観するのか「楽」観するのかでその後の行動は変わってきます。どうとらえるのかで生き方は変わってくるということです。次回は、具体的な道徳の授業を見せてくださるということです。とても楽しみです。

この日も、いつも以上に多くのことを考え学ぶことのできた1日です。いつ聞いても、何度聞いてもぶれない野口先生の姿に元気をいただくと同時に、わが身の至らなさを思い知らされます。まだまだ修行中の身であることを痛感します。

小学校で学校全体の授業がよくなるには

授業アドバイスをし始めたころ、学校全体の授業がよい方向へ変わるのは小学校の方が早いだろうと思っていました。小学校は学級担任が子どもに接する時間が長いので、先生がその気になれば、すぐに子どもたちが変わっていくからです。ところが、どうも中学校の方が、変化が早いのです。その理由が最初はわかりませんでした。素直に変わろうとする先生の数が中学校の方が多いわけではありません。むしろ小学校の方が多いくらいです。中学生が小学生以上に先生の影響を受けやすいとも思えません。しかし、ある程度の割合で先生が変わると、子どもたちの様子が大きく変わってくるのです。
その秘密は教科担任制にありました。1人の先生がいくつもの学級で授業をするので、多くの学級に影響力を持つのです。全員の授業が変わらなくても、一定の先生が変われば子どもがよい方向に変わりだします。子どもがよい方向へ変わりだせば、他の先生にとっても授業がやりやすくなり、結果的に授業がよくなっていきます。また、子どもの変化に気づくと、自分もまねをして見ようかと思うこともあります。よい取り組みが広がりだします。どうやら、こういうメカニズムのようです。

小学校は、1人の先生の変化の影響は1学級だけです。その学級のことを他の先生は見る機会がほとんどないので、子どもの変化に気づきません。広がっていかないのです。小学校を変えるのは難しい。そのように思うようになりました。
ところが、最近いくつもの小学校が、大きく変わることを経験しました。しかし、今度はその理由はすぐにわかりました。管理職や教務主任が積極的に先生方に働きかけているのです。授業の改善点や新しく取り組むことが学校全体に共有されるように強いメッセージを送っています。また、授業をよく見て、先生一人ひとりにきめ細かくアドバイスやフォローをしています。時には、「このようにやりましょう」と強制力を発揮していることもあります。小学校は学級担任が一日中子どもと接しますから、先生が変化すればすぐに子どもにも変化が出ます。アドバイスを1つでも実行してよい結果が出れば、また次のアドバイスを実行しようと思います。よいサイクルが回りだします。このよい取り組みを上手に学校に広げているのです。

この視点に立てば、小学校では先生方に対して個別にアドバイスすることも必要ですが、管理職や教務主任にその気になっていただくことがより重要だということです。中学校、高等学校では、何人かの先生に対して重点的にアドバイスをして、よい実践例を学校内につくってもらうこと優先してきましたが、小学校ではちょっと違うアプローチをした方がよさそうだと気づきました。学校経営の奥深さを改めて知らされました。

小学校の先生方の教材研究を考える

指導用教科書(赤刷り)を使って授業をしている先生が多いことに気がつきます。中学校ではそれほどでもないのですが、小学校ではかなりの割合のように感じます(ひょっとして先生方に児童・生徒用の教科書が支給されていないのかもしれないのですが・・・)。これ自体は決して悪いことではないのですが、どうもこの指導用教科書や指導書の使い方に問題があるのではないかと思うようになってきました。

小学校の先生は、1人で何教科も受け持ちます。中学校のように教科担任制であれば、1時間のための授業研究をすればそれが何回も活かせますが、1回授業をすればすぐに次の準備です。しかも、中学校であれば3学年しかありませんが、小学校は6学年あります。同じ学年を担当して以前の経験を活かせる確率は少なくなります。久しぶりに経験のある学年を担当したと思ったら、指導要領が改訂になっていてまたやり直しということもよくある話です。同じ学年の先生同士で教え合うことができればまだいいのですが、そんな時間もなかなか取ることができません。小規模校では1学年1人のこともよくあります。
小学校の先生の負担が大きいことはとてもよくわかります。だからこそ、効率的に教材研究をしようとするのは当然のことです。そしてその実態が、事前に指導書と指導用教科書を読んで、当日は指導用教科書を見ながら授業をするというものではないかと想像するのです。効率的に思えますが、そこには大きな問題があるように思います。最初から解説付きで見るために、教科書の内容に対して、どう扱えばいいのか、なぜこのような記述になっているのか疑問を持たなくなるのです。例えて言うならば、数学の問題を自分で解く前に解答を見ているようなものです。答はわかった気になりますが、自分で問題を解く力はつきません。
まずは、解説なしで教科書を読んでほしいのです。そして、子どもの視点で疑問を持ってほしいのです。疑問を解決するために長い時間をかける必要はありません。解決するのには指導書や指導用教科書を利用すればよいのです。自分で考えるというほんのちょっとしたことをするかどうかで、授業で押さえるべきポイントが見えてくるはずです。

このところ算数の授業を見るたびに、先生方が教科書を理解していないと感じさせられます。その原因は先生方の力量以前に、このような教材研究のやり方をしているせいなのではないかと思うようになりました。私の想像が正しいかどうか、先生方がどのようにして教材研究をしているのか聞いてみたいと思います。

新たな伝統がつくられつつあるのを感じた体育大会

先週末は学校評議員を務めている中学校の体育大会でした。

入学式や1学期の学校公開時に見た1年生の様子が気になったので、どのように変化しているか注目していました。開会式は校長や来賓の挨拶はじめ、子どもたちが受け身で立たされている時間が長く、集中が続かない子どもが目立つものです。ましてや、落ち着きのない子どもが多かった1年生ですから、どうなるかとドキドキしていたのですが、驚くほど集中できていました。時々頭が動く子がいるくらいで、どの子どもも顔を上げて話を聞けていました。半年足らずで子どもたちがずいぶん成長していました。もちろん2年生、3年生もしっかり集中できています。この後どんな姿を見せてくれるのか、期待できます。

競技ではどの子どもも全力を出していますが、それよりも気になるのは観戦風景です。その姿に日ごろの学級経営が表れると思うからです。1年生は1学級が競技に集中していないようでした。まわりの友だちとしゃべったり、体があらぬ方向を向いていたりする子どもが目立ちます。しかし、他の2学級はしっかりと競技を見て応援できていました。特筆すべきは2年生でしょう。昨年以上に集中して、学年を越えて応援できていました。2年生と3年生の差が無くなっていました。集中していないように思えた学級もふと気づくと、他の学級と同じように集中して観戦するようになっていました。よく見ると先生が子どもたちのそばにいます。これは想像ですが、先生が指導したのか先生が来たので子どもたちが意識して集中したのでしょう。子どもたちが成長途中であることと教師が意識して子どもたちを育てようとしていることがわかる場面だと思いました。

これもいつも気にして見ているのですが、トラックの審判をやっている子どもたちの姿はとても素晴らしいものでした。責任を持って自分の仕事をしていることがよくわかります。旗をさっと上げる手が気持ちよく上まで伸びています。だらだらしている子どもはいません。昨年同様見ていて気持ちがよくなる姿でした。審判以外の補助の子どもたちもきびきびと仕事をしています。子どもたちを指示している先生の姿が目立たないことが、子どもたちの力を表わしています。

大会の目玉はクラスマス(ゲーム)です。体育大会は個人競技が基本ですが、クラスマスは集団の力が求められます。学級としての力を問われる、担任の先生方が力を入れるところです。
ここでも1年生の成長を感じました。中学生、特に1年生では動きを覚えたりそろえたりすることに精一杯で、指先まで意識して手を伸ばしたり、角度や高さをそろえるところまではとてもできません。ところが、1年生の演技を見て驚きました。指先までしっかり伸ばしていたり、足を上げる高さをしっかりとそろえたりできているのです。これまで見たどの1年生の演技よりも素晴らしいものでした。子どもだけでここまでの演技を仕上げることはまず無理でしょう。担任が相当指導したに違いない、そう思いました。ところが、話を聞いてみると、担任はそれほど前面には出ていないというのです。子どもたちが、先輩の話を聞いたり、練習の様子を見たりして自分たちで工夫したというのです。先生方が子どもたちとの距離を上手く調整することで子どもたちのやる気と力を引き出したのです。子どもたち自身で考えて行動することで、先生が指導する以上のものになったのです。引っぱるタイプの主任の学年ですが、主任をはじめとする担任の先生方の成長も感じられました。
これでは2年生は1年生と比べて見劣りがするのではないかと思いましたが、いやいや、これも1年生以上に素晴らしいものでした。昨年の演技と比べてその成長は素晴らしいものでした。子どもたちとっての1年間がどれほど大きなものか、あらためて実感しました。
都合で午後の3年生の演技を見ることができませんでしたが、2年生を上回る素晴らしい演技を見せてくれたに違いありません。

もう10年ほどこの学校の体育大会を見続けています。入学してくる子どもたちは年によっていろいろです。それでも、3年間できちんと素晴らしい姿を見せてくれます。最近では、先生方の表立った動きが目につかなくなっています。先生方が体育大会を子どもたち自身でつくり上げることを目指し、子どもたちもそれに応えているのがわかります。子どもたちでつくり上げることがこの学校の新たな伝統なりつつあるのを感じます。今年で創立25周年だそうです。先生方と子どもたちが日々向上を目指していく中で伝統がつくられてきていることを実感した1日でした。

今年もDr.横山から大いに学ぶ

先週末は、今年度第3回の教師力アップセミナーでした。今回は山形大学医学部看護学科教授横山浩之先生の「行動異常がある子どもにも対応した授業を探る〜発達障害や愛着障害がある子どもは何がわからないのか」と題した講演です。

Dr.横山の登壇は4回目です、今回は2年連続となり昨年の内容(Dr.横山から学ぶ参照)を前提としたお話でした。
教育目標の分類について最初に解説されました。認知領域(=知識)、情意領域(=態度・習慣)、精神運動領域(=技能)に分け、それぞれの領域を容易なレベルから熟練したレベルに分けてとらえます。そして、子どもの発達段階に応じて求めるべきレベルが異なることを、具体例をもとに説明されました。
一般目標(=めあて)と行動目標(=てだて)を分けて考える必要があること。教育目標を記載する時に留意すべきことなどをわかりやすく解説された上で、立ち歩く子どもが何人もいるような学級でDr.横山が実践された授業ビデオを見せていただきました。小学校1年生算数の「20までの数」でした。

Dr.横山は、授業案を作成する時に次のようなことを心がけておられるそうです。

・子どもが情報を得るところから始める(スタートラインをそろえる)
・最初はだれでもできる発問から始める(情意面への配慮)
・子どもの作業をできるだけ多くする(技能領域への配慮と退屈させないための工夫)
・できるだけ説明しない(作業をたくさんさせて子どもに自分で気づかせる)
・評価は、教育目標を達成できたかどうかによる(特別支援の必要な子どもは教育目標が違ってもよい)
・子どもの反応は予測できないことを、あらかじめ織り込んでおく(同じ目的を果たせる発問を複数用意)
・クライマックスとなる発問はひとつに絞る(主発問に相当する発問を連発すると、できる子どもも混乱)
・できない子対策を考えると同時に、できる子対策を考えておく(できる子が課題を終わって退屈する時間があるとざわつく原因)

これらのことは、特別支援の必要な子どもが学級にいるかいないかにかかわらず、授業の基本です。Dr.横山の授業を見せていただくと「あたりまえのことをあたりまえに行っている」と感じる理由がよくわかります。今回の授業も、けれんみのない、基本を外さない、まさに教科書にしたいような授業でした。
ペアで指を折って数を数える場面では、やろうとしない子どもがいます。やろうとしていない子どもに声をかけるのではなく、やっている子ども、かかわろうとしている子どもをほめます。ペアレントトレーニングの発想です。
普段立ち歩きする子どもを前に出して、指を折って数を唱えさせます。ほめてやる気を出させるためには、ほめる場面が必要です。この子どもを大いにほめることで、この後しっかり授業に参加してくれました。
絵のライオンを数えます。10まで印をつけて数えた後、10匹目に10と書き込みます。数字を書くのは10だけです。序数と基数の違いをきちんと意識しています。10の「固まり」で考えるための布石になっています。
「わからない」という子どもには、うすく印をつけてなぞればいいようにして対応します。「わからない」とっているのは認知面ではなく、できないからです。できるようにしてあげれば、説明は必要ないのです。
できた子どもにはシールを貼っていきます。全員に貼ります。これはできた子どもへのごほうびであり、全員ができたという教師の確認でもあります。○つけの原則と一致しています。
子どもに活動をさせる時に、常に全員参加しているかの確認をしています。
前に出した子ども2人で、ライオンの数13を、指で10と3に分けてつくらせます。13を表わすように、2つの枠にそれぞれに数を書かせますが、10をつくった子どもは10と書きます。103ではおかしいことを子どもたちが指摘をします。「助けてあげて」と他の子どもを指名します。0を消してくれました。「なぜ0を消すの?」「たくさんになるから」「0をつけたら何になるの?」「103」とやりとりをしたうえで、もう一度間違えた子どもにやり直させました。本人に修正させることが大切です。最後に10をやっている人が1人だからここに1を書くと説明しました。
できた子どもに先生役をさせて、活躍の場面をつくっています。授業中に集中力を失くしている多くが、課題ができてしまってすることのない子どもです。できる子どものやる気をどう出させるかはとても大切なことです。
どのことも、特別支援の必要な子どもがいなくても大切なことです。特別支援の必要な子どもいるからとかまえるのではなく、基本どおりに授業をこなすことが大切です。問題は、子どもにどこまでを求めるかです。一人ひとりが成長することが大切だと考えれば、全員が同じ目標である必要はないと私は思います。

今回は虐待が子どもに与える影響についてもお話しいただきました。
虐待と言ってもいろいろありますが、ご飯を食べさせない、着ている服が汚いといったことも立派なネグレクトです。言葉の暴力や無視することによる心理的な虐待もあります。また、性的な虐待は母親によるものが多いそうです。子どもの裸の写真を撮って売ったり、子どもの前で性行為を見せたりすることも性的虐待ですが、子どもはその意味が分かりません。思春期になってその意味が分かっても、恥ずかしくて相談ができません。性的虐待は50人に1人くらいの割合でいるという説もあるそうです。
虐待を受けている子どもは愛着形成ができていないため人を信用しません。こういう子どもが、友だちをいじめるといった問題行動を起こしやすいのです。しかし、「・・・してはだめ」「・・・しなさい」と言っても、人を信用していないのだから意味はありません。いかに信用させるようにするかがポイントです。最近は発達障害ということで外来に来る子どもの多くがこのパターンだそうです。
愛着形成を取り戻すためには、ペアレントトレーニングが有効だということです(参考図書「マンガでわかる 魔法のほめ方 PT」)。認める、ほめることの大切さを改めて認識しました。

Dr.横山は医師の視点から教育について話をされるのですが、現場の人間にとって全く違和感のない納得できるものばかりです。理屈だけでなく、実際に授業までもするという実践を伴っているからでしょう。また、「算数の学習内容やそのポイントも本当によく理解されていることに感心した」とお伝えしたところ、「LDの子どもたちと20年つき合っていれば、そのぐらいはわかりますよ」と笑って答えられました。子どもたちと真剣に向き合い勉強されているからこそ、そのような力がつくのでしょう。20年教壇に立っていても、そこまで理解していない教師に出会うことの多い私には、笑ってすまないことでした。
この日も、Dr.横山から多くのことを学びましたが、その理論や実践だけでなくその姿勢も心に残るものでした。ありがとうございました。

インターンシップの学生から授業について考える

インターンシップで学生を観察して気なったのが、何をメモするかということと物事を見る視点です(インターンシップで貴重な経験をするインターンシップで視点の切り替えの難しさを感じる参照)。

メモは自分にとって大切だと思うことをするものですが、その判断の基準が問題です。学生にとって重要なのは試験で点を取ることなのでしょう。これは重要だから試験に出ると自分で判断するのなら問題ありません。重要かどうかを自分で考えるのは良いことです。しかし、スライドの文字が強調されている、講師が何度も話したことをメモするというのは、判断の基準が講師の大切だと思っていることになっています。これも立派な生きる知恵なのですが、内容について思考しているわけではありません。いわんや、板書は条件反射で書くにいたっては、思考がどこにもありません。このことが気になります。
学校の授業で言えば、「ここは大切だから試験に出るよ」「試験に出すから覚えておいてね」と教師が言うこととつながります。せめて「大切な理由は何だと思う」と子どもたちに問いかけることで、どんなことが大切なのかを考えさせてほしいと思います。「ここを出す」から「どこを試験に出すと思う」に変えてほしいのです。「大切だから線を引きなさい」ではなく「大切だと思うところに線を引きなさい」「そこに線を引いた理由は?」にする。教師のまとめを書かせるのではなく、「今日の授業で大切なことを○つノートに書きなさい」「何を書いたか聞かせて」に変える。このようなことを意識することが大切です。

視点についていえば、自分の視点からしかものを見ないことが気になりました。相手はどう考えて行動したのだろう、相手は何を期待してこのようなことをしているのだろうということをなかなか意識できないようです。これも、訓練が必要なのでしょう。SGE(構成的グループエンカウンター)などで、相手の考えを聞くことや理解することを学ぶことが大切になっていることがよくわかります。
授業でも意図的に視点を変える必要があります。歴史などでは、政策を決めた側の視点、その影響受ける者の視点で見ることが大切になります。影響を受ける者もいろいろな立場の者がいます。江戸時代であれば、武士、商人、農民、・・・などその立場で違って見えるはずです。道徳などでも同様です。
また、もう一歩進んで、いくつかの視点から見たものを比較し、総合的に判断することが大局的な視点につながります。私、あなた、そして第三者から見た私とあなたこういう視点です。例えば、歴史を評価するということは、この大局的な視点で見るということのように思えます。
人間相互の視点だけでなく、物理的な視点や考え方の視点を変えることも大切です。
理科で言えば、月から見た地球はどのようになるだろうかと視点や系を乗り換える。数学などでの考え方の視点であれば、もし答があるとすればどうなるはずだろうと演繹的な視点から帰納的な視点に切り換える。視点を変える場面はいくらでもあります。
しかし、そういうことを授業で意図的に行い、それを視点として整理して、メタな知識として定着させていないのです。

インターンシップ出会った学生の行動のパターンから、彼らの受けたであろう教育を想像し、授業で大切な視点にあらためて気づくことができました。
若者の姿は私たちが行ってきた教育の具現した姿でもあります。とかく批判的に見てしまうのですが、その批判はとりもなおさず自分たちが行ってきた教育への批判でもあるのです。そのことを肝に銘じておきたいと思います。

12年続いている研修会を見学

先週末は、授業力アップの研修会にオブザーバーとして参加させていただきました。今年でなんと12年目です。息長く続けられていることに、敬意を表します。
研修の構成はさすがに年数を重ねているだけあってよく練られたものです。スタッフ用のマニュアルもよくできています。

午前は授業づくりの実習を全体で行い、続いて講演です。
授業づくりの実習は、教科書の題材をもとに具体的に授業の進め方、発問や子どもの発言の予想などをグループで検討します。若手の参加者が多いこともあってか、各グループに1名ずつスタッフがつき、進行の手助けをします。しかし、スタッフがいるためにミニ授業の様相を呈しています。参加者は互いの意見を交換するというより、スタッフに対して考えを話し、自分の考えでよいか、答を確認しているように見えます。グループ活動の後の全体でのまとめは、何人かに発表させますが、その後にスライドで結論が表示され説明されます。参加者の顔はあまり上がりません。テキストの確認やメモすることに意識がむかっています。参加者の考えで結論にたどり着くのではなく、講師の考える解答を与えます。そうであれば、あまり時間をかけずに示した方が効率的に思えます。本当に考えてもらいたい課題に絞って時間をかけ、互いの考えを練り上げたいところです。
私ともう一人のオブザーバーはこのテキストの教材をもとに、いろいろと意見の交換をすることができました。以前と教科書の記述が変わっているところについてどう扱えばよいのかを考えたりとよい学びができました。このような課題をグループで考えることで、授業づくりに大切なことが何かに気づけると思います。テキストの内容がよいだけに、進め方にもう一工夫ほしいところでした。

講演の講師は大学の先生です。実習の内容を見て話の内容をその場で変更されました。先ほどの実習は、授業づくりは何をすればよいかを伝えるものでしたが、その内容を補完する形で、なぜそのようなことが必要になるのかを話題にしました。
先ほどの参加者の様子が気になったのでしょうか、スライドは後で自身のホームページにアップするので写さなくていい、それよりもメモを減らして、顔を上げて話を聞くようにと最初に話します。受け身にならないように参加者に発言を求めますが、思ったより意見が出てきません。そこで、隣同士で相談させました。こういった対応はさすがです。一気に場が和み、意見が出やすくなりました。
先ほどの教材で、教えるところはどこか、考えさせるところはどこかと質問します。指名された方が、どちらかと言うと考えさせたいところを教えると答えました。せっかく出てきた答えですから、否定したくはありません。どう対応するか見ている私も思わず緊張します。まず、「分かれそうだな」と受けて、全体に対してどちらだと思うかを聞きました。かなりの数が「教える」です。そこで、考えさせて答えが出ればそれでいいが、学級によっては必ずしも出てくるとは限らない。それをいつまでも待っているのはムダだ。そういう時は教えればいいとまとめました。それぞれの考えを否定しない、なるほどと思う進め方でした。肯定、受容の精神を大切にしていることがよくわかります。こういう場面に、講師の姿勢が表れます。

午後は、3つの実習から2つ選んで参加する形式です。50分という短い時間でどのように進めるか、なかなか難しいところがあります。しかし、ここで今までの蓄積が活きています。無理に詰め込むことをせずに、基本的なことに内容を絞り、体験することに時間をかけます。明日からやってみようと思ってもらえるように、達成感を大切にしています。スタッフの参加者への評価も否定的にならないように、意識されています。もちろんこれだけですぐに上手く使えるようにはなりません。しかし、無理に多くのことを求めると消化不良になって、結局やってみようとはしなくなります。このことを長年の経験でわかっているのでしょう。そこで、足りないところを補うために、フォローアップの研修を2学期に設けています。実際の授業でやってみると、困ったことが出てくるはずです。必要性を感じたところで次のことを伝えようというわけです。よく考えられていると思います。

最後は、再び大学の先生の講演です。午後の講演は、午前中と違ってやや厳しめの言葉が増えてきます。教師の仕事がいかに大切で責任のあるものかを訴えます。誇りを持って教壇に立っていた方だからこそ、その言葉は私たちに迫ります。参加者によい教師になってほしいからこその言葉だと思いました。
自身の師範授業のビデオを見せながら、授業の具体的な場面をもとに解説をされます。リアルタイムで、子どもたちがどこでつまずいているのか、どこで困っているのかを把握し、対応をしていきます。実際に授業をして見なければ気づかないような、予想もしないところで子どもたちがつまずくこともあります。まさに授業は子どもたちと教師でつくるライブであることを伝えるものでした。

12年間も続いている研修会です。中心となるスタッフもそれだけ歳を重ねています。若いスタッフも増えてはいますが、中心となって企画できる中堅層が不足しているように感じます。現在の教員の年齢構成からすれば仕方がないと言えばそれまでですが、心配なことです。この研修会が15年、20年と続くことを願っています。私も微力ですがお手伝いできることがあれば、積極的にかかわらせていただこうと思っています。
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31