教師がしゃべりすぎないからこそ、必要な言葉やかかわり

教師がしゃべりすぎないことが大切ということが言われます。よく目にするのが、子どもから正解や正解につながる言葉が発表された後、その言葉を受けて教師が説明を続ける場面です。本人は子どもから出てきた言葉をもとに進めているつもりなのですが、一番大切な根拠や考え方は教師の言葉で進んでいます。子どもの発言に対して教師がその何倍もしゃべっていることがほとんどです。子どもの発言は単なるきっかけで、教師が自分の言葉で説明しているのです。結局、子どもが教師の説明を聞いて納得することを求められる受け身の授業になってしまいます。このようなことを避けるために、しゃべりすぎないようにと言われるわけです。

教師がしゃべりすぎないことを意識すると、子どもの発言を増やし、できるだけ子どもの発言だけで授業を進めようとすることになります。どんな発言に対しても「なるほど」と受容して、安心して発言できる雰囲気をつくる。「同じように考えた人いる?」と、たとえ同じ考え方でも、何人も指名して全員が納得できるまで発表させる。「自分の言葉でまとめてみよう」と、子どもたち自身でまとめさせる。こういう姿勢が求められます。子どもたちは、教師が余分な言葉をしゃべらず、説明をしないので友だちの発言をしっかり聞き、自分の言葉で説明できるようになっていくはずです。経験の浅い教師でも、しゃべりすぎないことを意識すると、子どもの発言量が確実に増え、子どもの言葉だけで進む授業になっていきます。しかし、それだけで、子どもたちに力がつくとは言えません。このような、教師があまりしゃべらない、説明しない授業では、子どもたちの発言が言葉不足で全体によく伝わらないことや同じことが次々に発表されるだけで考えが深まっていかないことがよくあるのです。実は、教師がしゃべりすぎないからこそ、必要な言葉やかかわりがあるのです。

例えば、子どもの発言がだらだら続いて整理できていなければ、一度発言が終わったあと「なるほど、どうみんな納得した?」と子どもたちに確認して、「まだ納得していない人がいるからもう一度、みんなに聞かせてくれる」と再度発言させます。途中で止めながら、「ここまで納得した」と子どもたちが発言を理解するための時間を取ります。言葉足らずであれば「今、・・・と言ってくれたけど、それってどういうこと?」とより詳しい説明を求める。「○○さんの考え説明できる人?」と他の子どもに考えを説明させる。
発言を重ねていくのであれば、「今、言葉を足してくれたね」「ちょっと違うところがあったね」「共通のことがあったね」と考えをつなぐことを意識した気づきを促す。「みんな△△に注目しているけど、それってどういうことかな?」「今、2つの意見が出てきたけれど、どっちが納得できる?」と焦点化し、時にはグループに戻してより深く考えさせる。
こういった教師の言葉やかかわりが必要になります。

教師がしゃべりすぎないことは、子どもの発言を引き出し、子どもの言葉で進む授業の第一歩です。説明しないからこそ、発言を整理し、子ども同士をつなぎ、考えや意見を焦点化するといった、子どもの考えを共有化し、より深めるための教師の言葉やかかわりが必要になります。しゃべりすぎないことにこだわるあまり、このことを忘れてしまってはいけません。説明する以上に大切な出番があるのです。しゃべりすぎないからこそ、何をしゃべるかが問われるのです。

何を訓練、努力させるか

教育には訓練の要素があります。実際に何度もやることで身につくことはたくさんあります。地道な努力が必要と言い変えてもいいでしょう。私たちは、努力は美徳で、努力していることを評価しようとします。しかし、何を努力するかについてはあまり問わないような気がします。このことについて少し考えてみたいと思います。

スポーツは訓練の要素がとてもわかりやすいものです。足を速くするのに、ただ走り続ければいいのでしょうか。シュートが上手くなるにはシュートを打ち続ければいいのでしょうか。そうではありません。フォームを意識して正しいやり方で訓練することが必要になります。そのために、コーチが必要になります。シュートが上手くなるためには、フォームだけではなく、筋力も必要です。そのためにはシュートを打つよりも筋力トレーニングをした方が効果的かもしれません。何をするかがとても大切になります。スポーツはこのコーチングの理論が非常に発達しています。授業の上手な先生が体育に多い理由の1つに思えます。

ところが、国語や算数などの授業ではこのことが明確にされていないように感じることが多いのです。「本読みをたくさんしなさい」で、本当に学力がつくのでしょうか。例えば、分かち書きの段階であれば、「空白で間を取る」「読点ではもう少し大きな間を取る」「句点では、もっと間を取る」、学年が進んでいけば、「登場人物の気持ちが伝わるように読む」「会話と地の文の違いがわかるように読む」といった、何を意識しなければいけないかを明確にしておかなければ、ただ読んだだけでは大して力がつかないのです。また、1つのところに留まり続けるのではなく、次のステップを意識することも大切です。九九を何秒で言えるかという訓練も必要ですが、ある程度の速さ(60秒くらい?)になればそれ以上を追求するのは無意味です。それよりも、フラッシュカードなどでランダムに出されたものを言えるようにするという次のステップに早く移行すべきです。ステップごとのゴールを明確にし、達成後のステップを示すことが大切です。子どもの学力をつけるために、何を訓練し努力させるべきか、その過程を含めて明確にすることが求められるのです。

もう1つ大切なのが、教師が訓練すべき内容、努力すべきことを指示するだけでなく、子どもたちに自分で工夫をするように仕向けることです。いつも指示された通りにするだけではより大きな成長はできません。指示されたこと以外に何をすればいいのか、時には他にもっとよい方法がないかと考える姿勢を育てる必要があります。小学校の高学年あたりからは、このことを特に意識してほしいと思います。「○○ができるようになるためには、どんなことをすればいいと思う」といった問いかけや、「○○ができるようになったけど、どうやったの」と、努力の内容を共有化する場面が必要になります。

子どもたちを訓練する場面、努力を求める場面はたくさんあります。単に「○○しなさい」「がんばりなさい」ではなく、何をどのように努力すればいいのかを明確に示してほしいと思います。

グループ活動が有効な場面

グループ活動を取り入れている授業によく出会いますが、どの場面でどのようなグループ活動を使えばいいのかという質問をよく受けます。また、課題はどのようなものであればいいのかといったこともよく聞かれます。グループ活動については何度も取り上げていますが、今回は、グループ活動の有効な場面、活動の質や内容、課題について簡単にまとめてみたいと思います。

まず前提として、グループ活動を行うためには子どもたちの人間関係がある程度できていることが必要です。そもそも互いに聞き合うことができない状態であれば、グループ活動は成り立ちません。

簡単ですが意外と行われていないのが、「個人作業のグループ化」です。算数や数学の問題を解くといった、個人で問題を解く、作業する場面での活用です。手の着かない子ども、わからない子どもは1人でじっと凍っています。そこが教師の出番だと個人指導をする傾向がありますが、そのような子どもが複数いれば1人にかかわっている間、他の子どもは凍ったままです。授業時間内での教師の個人指導には限界があるのです。そこで、「わからなかったり、困ったりしたら友だちに聞いてもよい」とすることで、止まっていた子どもの活動を促します。自分で考えさせなければいけないと考える方もいますが、教師が教えるのはよくて、子どもが教えるのはいけないということはありません。わからなくてじっとしているより、積極的に友だちに聞ける子どもに育てることが大切です。ここで注意をしてほしいのは、聞かれてないのに勝手に教えないというルールを守らせることです。自分で考えたい、聞きたくないのに勝手に教えられると嫌になってしまうからです。

解き方をできるだけたくさん見つけるといった課題で行う、「グループで補い合う」活動は自分とは違った視点や考えを受け入れるよい機会となります。子どもは1つ見つけるとそれで満足します。いくつ以上、できるだけたくさんとすることで、考え続けることが必要になります。できる子どもでも、いくつかの視点を持てないと行き詰ってしまいます。自分はできたからもういいと思っている子どもにも、友だちの考えを聞く必然性が生まれます。

先ほどの、「グループで補い合う」という活動と似ていますが、「友だちの気づきの根拠や過程を共有する」活動があります。気づいたこと、見つけたことを互いに伝え合う活動ですが、「資料のどこで気づいたかを共有する」、観察で「見つけたことを聞き合って、もう一度各自で確認する」など、気づいた結果だけでなく、根拠や過程を共有するのです。根拠や過程を共有することで視点が増え、資料や対象物から読み取る力がついていきます。

一部の優秀な子どもがすぐに答だしてしまい、上から目線で他の子どもに教えるような活動は好ましいものではありません。それに対して、なかなか答えが出ない、よく言われるジャンプの課題で行う、「課題解決の過程を共有する」活動があります。思いつきや試した結果などの情報を共有しながら、課題解決の糸口を見つけ、その過程を共有するのです。解決の糸口を見つけるための活動の幅が広い課題が理想です。個々に試せるものが多いと共有する情報が増え、グループ活動の必然性が出てくるからです。

グループ活動の後など、全体で話し合った結果、焦点化された課題や意見が分かれた課題をもう一度グループに戻し、「深く追究する」活動があります。課題が焦点化されているのでより深く考えることになります。意見が分かれ対立していれば論点が明確になり、考える必然性もあります。全体の場では考えを整理しなければ発表できませんが、グループに戻すことで、ちょっとした思いつきであっても気軽に話すことができ、活発な活動が期待できます。

英語や体育などの技能教科ではバディと組み合わせた、「サポートし合う」活動があります。ペアでの英会話で、詰まったり間違えたりしたらそれぞれのバディが助け、よかったところを評価するといったものです。実技の場面で有効な活動です。

これですべてというわけではありませんが、このような視点でグループ活動をとらえると、実際の授業でグループ活動を導入しやすくなると思います。

算数・数学では、答がわかってからが大切

算数・数学の授業では答がわかることがゴールのように思っている子どもが多いように思います。そうではなく、答がわかってからが大切であることを教える必要があります。

自分の答が正解だった子どもは、自分はこの内容を理解できていると思います。しかし、本当に理解できているかどうかは、誰しもが納得できるような説明ができるかどうかでわかります。ですから、正解だった子どもたちに対しては、説明を求めることが重要になります。一方、不正解だった子ども、わからなかった子どもは解答を写して正解を得ることで、わかったような気になって満足します。そうではなく、自分が不正解だったところはどこか、わからなかったのは何がわかっていなかったかを意識させる必要があります。消しゴムは使わせずに、赤で間違えているところを直す、足りないところを書き加えるというように、間違いを残しておくことが大切です。教師が間違えたところをたずねたり、どこで困ったかを確認したりして、何が大切かを共有させることが求められます。正解そのものよりも、どうすれば正解か導けるか、どこに問題解決の糸口があったのかを考えることが大切なのです。再現性と言ってもいいかもしれません。似たような問題に出会った時に解ける力をつけることです。これは、正解だった子どもたちに対しても意識させる必要があります。たまたま解けた、解き方を知っていたから正解だったではダメなのです。
よく例に挙げるのが、図形の問題で補助線が必要になる場合です。解答は、補助線を引くところから始まります。しかし、一番大切なのは「補助線を引こうとすること」「どこに、補助線を引くか」です。解答を見ていくら納得しても問題を解けるようになりません。答がわかってからが大切なのです。

実はこのことは、自分で勉強できるようになるために特に必要な力です。問題集などを使って勉強する時、問題を解いたあと解答で確認をします。しかし、問題集の解答には先ほど説明した、問題解決の糸口は書かれていません。もちろん解説などが書いてあるものもありますが、自分で考えて自分なりのやり方を身につけていくことが大切です。解答を見て納得して終わりではなく、どうすればそのような解き方に気づけるのか、どこに注目すれば解決の糸口が見つかるのかを考えることが必要なのです。解答を見た時から解く力をつけることが始まるのです。このことを、日ごろの授業を通じて子どもたちにしっかりと意識させることが求められるのです。

全員参加の視点

子どもたちの発言を大切にしている授業では、子どもたちが活発に挙手する姿が見られます。この時気になるのが、全員が参加しているのかということです。全員参加という視点で、少し授業を考えてみたいと思います。

同時に発言するのは原則1人です。他の子どもたちがその発言を聞いて考えることをしなければ、その時間は参加していないということです。子どもが発言して、その発言を最終的に教師が説明したり、まとめたりするのであれば友だちの発言を聞く必要はありません。自分が発言することが目的化します。自分の考えを発言したい、教師に聞いてもらいたいだけになります。友だちの発表を聞くことができて、初めて全員が参加しているのだという意識を持つことが大切です(「子どもが友だちの発言を聞かない理由」「友だちの発言を聞く意欲を高める」参照)。

子どもの発言に対して、「同じ考えの人手を挙げて」「納得した人」「なるほどと思った人」とつなぐことで、発言しなかった子どもにも参加を促します。手を挙げることだけでも立派な参加です。ここで注意をしてほしいのは、手が挙がらなかった子どもです。「考えが異なる」から手を挙げなかったのでしょうか。それとも、参加する意欲がないから、指名されたくないから手を挙げなかったのでしょうか。いずれにしても、手を挙げなかった子どもも参加させる必要があります。「あなたの考えを聞かせて」「どこが納得できなかった」と挙手しない子どもも指名するのです(挙手しないのも意思の表れ参照)。

全員参加をさせるためには、全員に自分の立場をはっきり持たせることが有効です。野口芳宏先生の言うところの「選択的発問」です。「・・・が正しいと思う人は○、正しくないと思う人は×をノートに書きなさい」というものです。○か×かのどちらかですから、全員に自分の立場を持たせることができます。その上で、挙手をさせると必ず手を挙げることになります。自分の立場ができると、人の意見も聞こうとするようになります。全員参加の優れた方法です。

子どもの発言を大切にしようとした時、挙手した子どもだけを指名して進めると、一部の子どもだけで授業が進んでしまいます。全員が授業に参加しているか、どうすれば全員が参加できるのかということを意識して授業を組み立ててほしいと思います。

「公的」か「私的」か判断する

授業中に子どもがつぶやいたり、挙手せずに質問したりすることがあります。本当は挙手して発言してほしいのですが、「挙手して」というと黙ってしまうこともよくあります。あまり意味のない発言であっても、無視することはできないので無理して拾うこともあります。どのように考えればよいのでしょうか。

子どもの言葉が全体にかかわることか、授業で活かせる内容かを判断することが大切です。質問であれば、個人的なものなのか全員にかかわることなのかです。その上で、もし全体で取り上げるべきものであれば、「今いいこと言ってくれたね。みんなに聞かせてくれる。みんな、○○さんの話を聞こう」と全体に対して「公的」に発言し直させるのです。(つぶやきを拾う参照)子どもの発言をポジティブにとらえて、しっかりとほめておくことで、安心して発言することができます。こういう経験を積んで、自信をつけてくことが挙手にもつながっていきます。
ここで、注意をしてほしいのが、「今○○さんが・・・と言ってくれたんだけど・・・」と教師がその言葉をもとにすぐに説明を始めないようにすることです。教師が引き継げば、つぶやいた子どもの仕事はそれで終わりです。そこで終わるのではなく、「公的」な舞台に上げることが必要です。また、教師の説明は子どもの言葉を自分の言葉に置き換えてしまいがちです。本人からすれば自分の言った言葉ではないよう思うこともよくあります。自分の言葉は教師の説明のきっかけになっただけで、評価されたように思わないのです。

では、全体の場面で取り上げるような内容ではない場合はどうすればいいのでしょうか。授業に全く関係のない話であれば、原則無視をするべきです。とはいえ、完全に無視をしてしまえば、うるさく声を出し続ける可能性もあります。そんな子どもに対しては、視線を合わせて手や仕草でそっとたしなめます。授業に関係のあることでも、取り上げられないことや個人的な質問で全体に関係のないことであれば、まずは笑顔でうなずいて、ちゃんと聞いたことを伝えます。その上で「あとでね」と先送りにします。個人作業の場面など、適当なところで「私的」に対応すればいいのです。
時々目にするのがその「私的」な内容を、全体の場で発言者と2人だけで会話をしている姿です。ちゃんと聞いていない子どもが、「○○をどうすればいいの?」と教師に聞いた時に、「・・・だよ」ともう一度その場で説明したりしているのです。ちゃんと聞いていたまわりの子どもは、聞く必要のないことで時間をつぶされます。当然集中力は切れてしまいます。みんなが知っているはずのことであれば、「あとで、まわりの人に聞いてね」と一言いえば済むのです。

「公的」な場である一斉指導の場面では、「私的」なものを持ち込まないことが大切です。子どものつぶやきや質問に対しては、「公的」に扱うべきことか「私的」に対応すべきことが、正しく判断してほしいと思います。

視線を送る

子どもが集中して教師の話を聞いている。集中して作業をしている。このような授業には共通の特徴があります。それは、教師が子どもたちをよく見ていることです。ところが、同じように教師が子どもを見ているようなのですが、集中力が途切れがちな授業にも出会います。子どもたちが違うからなのでしょうか。それとも、他に何か大切な要素があるのでしょうか。このことについて考えてみたいと思います

作業中に子どもの集中力が切れると、視線が手元から離れます。そのとき必ずと言っていいほどまわりを見ます。このことに教師が気づかないと、子どもはしばらく集中力が切れたままです。教師があとから気づいて注意をしても、なかなか集中力は戻らないものです。特に机間指導をしていて教師の視線が机から机へと移動しているようなときには、死角が増えて子どもの様子に気づけません。私は教室の斜め前から子どもたちを見るようにお願いしています。この位置であれば、全員の手元がよく見えるからです。子どもの集中が切れてもすぐに気づくことができます。
全体に説明している時も同様に子どもたち全員を見ることが大切です。視線だけを動かすことでも見ることができるのですが、子どもたちに「先生は君たちを見ているよ」と伝えるためには体を動かした方がよいようです。

ところが、最初に述べたように子どもたちをちゃんと見ているように見えても、集中力が続かない授業があります。そのような授業では教師は子どもを眺めているのです。漠然と見ていると言ってもよいかもしれません。子どもから見れば、教師の視線が自分の上を通り過ぎているだけです。「自分のことを見てくれている」とは思いません。
一方、集中力が続く授業では、教師は視線を子どもに送っています。視線が一定の速度で流れているのではなく、子どもたちのところで一瞬止まるのです。子どもから見れば、教師の視線と自分の視線が交わります。「自分のことを見てくれている」と感じます。
作業中に集中力を失くしている子どもであれば、視線を送って、笑顔でそっとうなずくのです。そうするだけで、子どもはすぐにまた作業に戻ります。教師がいつも自分を見てくれている、見守ってくれていると感じていれば、集中力は切れなくなります。結果的に教師と子どもの視線が交わることはなくなります。この状態ができあがると、教師が見ていることと、集中力が持続することの因果関係は見えなくなってしまいます。しかし、子どもたちの集中力が続くのは、確かに教師が子どもたちを見ているからなのです。

子どもたちを見ることはとても大切です。その上で「視線を送る」ことを合わせて意識してください。そうすることで子どもたちの集中力は確実に上がるのです。

見学者の指導を考える

体育の時間など、授業に参加できない見学者がいることがあります。夏のプール指導の時には、特に女子の見学が目立ちます。時にはちょっと気になる姿を見ることがあります。見学者に対してどのように指導すればよいのでしょうか。

見学者同士が授業に関係のない雑談をしていたり、一人でポツンと座ってぼんやりとみんなの活動を1時間眺めていたりする姿に出会うことがあります。見学者だからといって全く活動しないというのはおかしなものです。授業者も見学者がどのような状態か気にかけている様子はありません。見学者は学級の一員ではないような扱いです。また、みんなと離れて、体育器具庫の掃除などをしていることもあります。役割を与えることはいいのですが、授業内容と関係ない作業で友だちと切り離されています。授業者が作業の様子を気にしていても、サボらずにやっているかチェックしているように感じることもあります。見学者にとっては、懲罰的な作業と感じることもあり得ます。
これらに共通しているのは、今友だちの受けている授業内容と見学者が切り離されていることです。

そこで授業内容に関連した課題を個別に与えていることもあります。授業の観察記録や感想を書いて授業後に提出するといったものです。確かに、授業内容とはかかわりがあります。しかし、友だちの活動とは直接のかかわりがありません。このことを意識すると、見学者への指導が変わってくるはずです。

たとえば、インターバルのタイムを測ってみんなに笛を吹いて知らせる。友だちのタイムを測る。みんなの役に立つ仕事を割り振ります。アシスタント的な役割です。もっと、積極的に授業内容と関係する役割を与える方法もあります。個人やグループの活動を見ながら、声かけをしたり、フォームをチェックしてアドバイスをしたりするのです。直接体を動かさなくても友だちと一緒に活動できます。目で見て言葉で外化することで理解することもできます。友だちの役に立つだけでなく、学ぶこともできるはずです。見学者でも、授業に参加してみんなと共に学ぶことができます。参加意欲を持たせることができるのです。

たとえみんなと一緒に体を動かすことができなくても、授業に参加して仲間の輪に入れるような、「○○さんありがとう」と授業が終わったあと友だちに声をかけてもらえるような、そんな役割を見学者に与えてほしいと思います。また、役割を持たせることで、次に参加する時に友だちの中に入りやすい状態をつくることや、早くみんなと一緒に活動したいと思えるようにすることも意識してほしいと思います。

何度も説明することはプレッシャーになる

指名した子どもがよく理解できてない時や全体に問いかけた時の子どもの反応がよくなかった時、どのように対応すればよいでしょうか。このことについて少し考えてみたいと思います。

子どもが理解できていないと判断した時、よく目にするのが、もう一度初めから説明し直すというものです。説明をもう一度聞かせればわかってくれるはずだという気持ちはわかりますが、これは子どもに対してプレッシャーがかかることです。同じ説明をするということは、「説明は悪くない。わからない方が悪い」と言われているように感じたりします。したがって、同じ説明をするのであれば、子どもの精神的な負担を軽くすることを意識する必要があります。「どこで困っている」と聞き返し、ピンポイントでつまずいているところをもう一度説明するというように、子どもの困り感に寄り添ってあげることが大切です。とはいえ、どこで困っているか答えられないのもよくあることです。そういう時は、「なるほど、困っているね、いいよ。じゃあ確認するね。ここまでは、どうかな」というように、わからないことは悪くないことを伝え、スモールステップで進めるとよいでしょう。
先ほどの説明でわからなかったのだから、別の説明をしようという発想もあります。教材研究でいろいろな説明を考えていた時であれば、とっさに別の説明をすることもできます。これは、同じ説明をする時と比べれば子どもにプレッシャーはかかりません。しかし、まだ最初の説明を理解しようと考えている子どもは、次の説明にすぐには頭を切り替えることができません。混乱してしまうことになります。教師の説明が多いほど子どもが理解しなければいけないことが増えてしまうことに注意が必要です。

教師の説明は「わかりなさい」というプレッシャーがかかりやすいので、子どもに説明させるという方法があります。どこで困っているか聞いた後、「○○さんと同じところで困っている人いるかな」「何人かいるね、誰か助けてくれるかな」と子どもに説明させるのです。わからない子どもの数が多いようであれば、グループやまわりで相談させるという方法もあります。教師から同じ説明を聞くより、友だちの言葉で説明を聞くことでわかることがよくあるのです。どこで困っているかがわからないようであれば、「○○さんがどこで困っているか、わかる人」と聞いてみるのも手です。自分が困ったことを思い出して、答えてくれる子どもがいるものです。「ここまでどうかな」と教師が確認しながら進めてもいいですが、つまずきがわかれば子どもに助けてもらうようにします。

また、算数などでは、言葉で説明する代わりに、説明の過程で行なった活動を再度させるという方法もあります。数図ブロックの操作などをやらせるのです。言葉の説明よりも、具体的な操作や活動を何度かすることで理解できることもよくあるのです。

子どもが理解できないとき、教師が頑張って何度も説明すると子どもにとっては「わからなければいけない」というプレッシャーになることがあります。それよりも子どもに説明させたり、活動させたりする方がうまくいくことがあります。このことを頭の片隅に留めておいてほしいと思います。

フラッシュカードの利用のポイント

教室への電子黒板やプロジェクターの普及もあり、デジタルのフラッシュカードの活用も増えてきました。デジタルとアナログの比較も合わせて、フラッシュカードの利用のポイントについて考えてみたいと思います。

フラッシュカードを利用する時に大切になるのがそのめくるタイミングです。子どもたちがすぐに答えられるような問題であれば、集中力を落とさないように速いテンポでめくって次々子どもに答えさせることが必要です。
一方、英単語を覚えるような場面であれば、最初は教師が読んでその後を子どもが繰り返すことになります。全員が覚える(理解する)ためには、1枚のカードを何度か読むことも必要です。この時はわからない子どもが理解する時間を確保するために、少し間を置くことが必要です。1回り終われば、次は少しテンポを上げます。子どもが覚えたと思えば、教師が言わずに子どもだけで答えさせます。教師は、全員がきちんと言えているかどうかを確認することが必要です。言えてなければ何度も繰り返します。友だちの声を聞くことで、繰り返せば必ず全員が言えるようになるはずです。
このように、タイミングをコントロールすることと同時に全員が言えているか確認することが大切になりますが、紙の場合はカードを持つ位置が重要になります。時々目の前にカードを持ってくる方がいますが、これでは子どもを見ることができません。声の大きさだけでは全員の口が開いているか確認できません。頭の上か、顔の横に持ってくるとよいでしょう。
デジタルのフラッシュカードを使う時にも、いくつか気をつける点があります。ワイヤレスマウスやタブレットPCでコントロールすれば、タイミングの調節がしやすくとても使いやすいのですが、有線でつながったPCで操作することになると、これがとても難しくなります。子どもを見る余裕もなくなります。かといって一定のタイミングで切りかえるように設定すると、子どもの実態とずれてしまうことになります。また、デジタルのフラッシュカードの場合、教師が次に何が出るか覚えていないと子どもと一緒に画面を見ることになります。よほど素早く見ないと子どもの実態を把握できないのです。この点タブレットPCは視線の移動も素早くできるので、フラッシュカードを使うのに適しています。紙であれば、手前からめくって前に出すことでカードの裏を見ることができるのでこのような問題は起きません。

全員が理解できているか確認するために、一人ずつ指名したり、列で順番に指名したりすることがあります。適度な緊張感を与えるのによい方法と思えるのですが、誰かが指名された時点で弛んだり、列指名であればその列以外の子どもは集中力を失くしたりします。このようなことを避けるために、誰を指名しても必ず続いて全員が答えるようにするという方法もあります。こうすると、友だちの答を確認しようとするので集中が切れません。また、もし指名した子どもが間違えても、全体の答を聞かせたあと再度指名すれば自分で修正できるので、教師が間違いを訂正しなくて済みます。リズムを崩さずに続けることができます。

アナログの持つよさに、使ったカードをそのまま黒板に貼って利用できるということがあります。カードを子どもたちと一緒に、規則動詞と不規則動詞に分けたり、使った性質やルールで分類したりしながら貼っていくのです。また、紙であれば、単語の変化(活用)したところに線を引くなど、直接書き込むこともできます。次に使う時にまた作り直す必要があるので、ちょっともったいない気もしますが、今、練習したばかりのカードを使うことでよりわかりやすくなると思います。デジタルのフラッシュカードでも、電子黒板やソフトによっては書きこむことができますが、分類して同時に表示したり、動かしたりしながらの作業は紙ほど簡単にはできません。

フラッシュカードは子どもたちの知識の定着や練習量の確保に有効な道具です。デジタルやアナログの特性も理解した上で、上手に使ってほしいと思います。

グループ活動では意見を1つにまとめない

グループ活動では、意見や考えを1つにまとめない方がよいと言われます。このことについて少し考えてみたいと思います。

グループで1つにまとめようとすると、意見や考えが分かれた時にどのようにするかが問題になります。互いの考えを聞き合って納得して結論が出ればいいのですが、まとまらない時もあります。こういう時、勉強のできる子どもや力の強い子ども対して他の子どもがなかなか反論できずに、そのまま収束することが多いように思います。納得していない子どもは無理やり自分の意見を変えさせられたように感じてしまいます。これでは子どもたちの人間関係も悪くなってしまします。
また、意見が分かれた時に多数決で決めてしまう場面をよく目にします。班活動などでの行動を決める時には多数決も致し方ありませんが、考えたことを多数決で決定するというのはかなり乱暴です。対立する意見を伝えあい、理解しようとすることで考えは深まっていきます。多数決はその時点で互いの考え理解し、深めていくことを放棄する行為です。無理に1つにまとめようとするとこういうことが起きるのです。
また、1つにまとめるとグループの中にあったよい意見が全体の舞台に載らずに消えてしまうことがあります。以前見た家庭科の授業で、冬に温かく生活する工夫についてグループで意見を出し合っている場面のことです。1つのグループ内で「エアコンを使う、使わない」で意見が分かれていました。また、別のグループでは「換気扇を回す、回さない」を議論していました。前者は電力不足が話題になっていたころなので意見が分かれたのでしょう。後者は安全のため部屋の空気を入れ替えるか、温かい空気を逃がさないようにするかがで分かれたのでしょう。いずれにしてもグループでまとめるという指示だったので、全体ではこの意見の違いは話題になりませんでした。全体の場で話し合えれば面白い展開が期待できたと思いますが、残念でした。

このようなことを避けるためには、たとえグループでまとめるとしても、意見が分かれたら併記する。「どのようなことを話し合った?」「どんな意見が出た?」と結論ではなく過程を問う。こういう工夫が必要になります。
また、グループでまとめるのではなく、友だちの考えを聞いて最終的に自分の考えを持つことをゴールにすれば、友だちの意見に納得しなくても無理に自分の意見を変える必要はありません。あくまでもグループは個人の考え広げ、深めるための手段と考えるのです。

グループで答を出すことを目的にすると、結論をグループでまとめることになってしまいます。そうではなく、グループ活動を通じて一人ひとりが考えを広げる、深める。子どもたちが考えた過程を学級全体で共有する。こういうことを大切にしてグループ活動を取り入れてほしいと思います。

「禁句」を意識する

講演などでは、授業中や子どもと接する時に大切にしたい言葉を必ず資料としてつけるようにしています。「なるほど」「ありがとう」「聞かせて」といった子どもを受容したり、称賛したり、外化をうながしたりする言葉です。その一方で、講演等であまり話しませんが、使ってほしくない言葉があります。「禁句」です。この「禁句」を意識することについて考えてみたいと思います。

いくつか例をあげてみます。
「正解」(「『正解』は思考停止のキーワード」参照)
子どもが問いに正解を答えた時に、「正解」と言えないと困りませんか。教師が正解を判断できないのですから、嫌でも子どもたちに判断させることになります。

「わかった人」(「『わかった』は禁句!?」参照)
質問をしたり、問題を解かせたりすれば「わかった人」「できた人」と聞くのがふつうです。しかし、こう問いかければ「わかった人」「できた人」しか発言できません。これを禁句にすれば、わからない子ども、できなかった子どもも発言できるような問いかけをせざるを得ません。

「考えて」(「『考えて』では考えられない」参照)
「考えて」「気づいたことない」といった問いかけは抽象的です。わからない子どもにとっては、何を答えていいかわかりません。これを禁句にすると、具体的な指示をすることにつながります。

「他には」
子どもが教師のねらいと違った言葉を言った時、つい使ってしまう言葉です。自分の発言をしっかり評価されず、活用もされないで「他には」と言われれば、「あっ、外した」と子どもは感じます。教師の求める言葉があり、自分の発言はそれとは違ったと思います。子どもたちは、自分の考えを言うのではなく、教師の求める答探しを始めてしまいます。「他には」を禁句にすると、自分のねらっている言葉に近づけるような切り返しが求められます。また、子どもの発言の中からねらいにつながるような言葉を見つけることを意識するようになるはずです(「教師のねらいに近い考えをどう深めるか」参照)。

「なぜ」(「切り返しの言葉」参照)
私たち大人でも、「なぜ」と聞かれると答えにくいものです。こちらは子どもなりの理由を聞きたいと思っていても、聞かれた子どもは明確な答を要求されているように感じます。授業だけでなく、個人面接などでも注意したい言葉です。子どもが話してくれたことに対して、「なぜ」と問い返すと詰問されているように感じます。「それってどういうことか聞かせてくれる」といった、広く受ける問い返しが求められます。「なぜ」を禁句にすることで、問い返しの言葉を工夫することになります。

「(あなたの)気持ちがわかる」「そんなことないよ」「頑張れ」
悩みごとの相談などで注意したい言葉です。苦しい気持ちを話してくれたときに、つい「気持ちがわかる」と言ってしまいますが、苦しんでいる人は自分の苦しみは他人にはわからないと思うものです。安易にこの言葉を使うと、調子のいいことを言っていると心を閉ざす可能性があります。
「自分はダメな人間だ」といった否定的な言葉に対して、フォローするつもりで「そんなことないよ」と言うと、自分の言葉を否定されたと感じます。たとえ、否定的な言葉でも、「なるほど、自分はダメな人間だと思っているんだね。それは苦しいね」とそのまま受け止めることが必要です。
また、「頑張れ」はとても励まされる言葉ですが、頑張ってきたと思っている人には、「これ以上頑張れというのか」と追いつめる言葉になることもあります。諸刃の剣なのです。
これらの言葉は、うっかり使うと人芸関係を決定的に損なう危険性のある言葉です。禁句にすることで、そのリスクを軽減することができます。(「悩み事の相談」、「保護者からの相談への対応」参照)

例に挙げたように「禁句」とすることで、自然に授業のあり方が変わる言葉があります。また、何気なく使う言葉の中には、ひとつ間違えると相手を傷つけてしまうものもあります。こういう言葉は「禁句」として強く意識しないと、うっかり使ってしまい思わぬ事態を招くこともあります。
ここで取り上げたもの以外にも、「禁句」にするとよいものがあると思います。もちろん、ここに挙げたものすべてを「禁句」にすべきだとも思いません。「禁句」をつくる意味を考えた上で、授業や子どもと接する場面で、どのような言葉を「禁句」にすべきか一度思いを巡らせてみてください。

友だちに「助けてもらう」とは?

授業中に指名された子どもが上手く説明できなかったり、途中で立ち往生したりすることがあります。先生が一生懸命ヒントを言ったりして何とか答えさせようとするのですが、うまく答えられないこともよくあります。これ以上は無理だなと判断して、「すわっていいよ。じゃあ、他の人」と次の子どもを指名すると、答えられなかった子どもは「ダメだった」「失敗した」というネガティブな気持ちになります。そこで、「誰か助けてくれる」と他の子どもに助けてもらうように働きかける場面に出合います。助けてもらって、失敗のピンチを乗り切らせようというわけです。子どもに挫折感を味あわせないためのよい方法に思えます。しかし、中には?と思うような場面を目にすることもあります。友だちに「助けてもらう」ことについて考えてみたいと思います。

よく目にするのが、挙手して指名された子どもが自分の考えを説明し、授業者が「そうだね」とそのまま先に続けてしまう場面です。これでは、「すわっていいよ。じゃあ、他の人」とした時と何も変わりません。答えられなかった子どもは何も助けられてはいません。自分をだしにして友だちが活躍しただけです。
また、「誰か助けてくれる」という言葉に、子どもたちが反応できない学級があります。「助ける」とは具体的にどうしていいかわからないからです。「助ける」ということは、困っている子どもが自分で答えられるようにすることです。そのことを意識すれば対応は見えてくるはずです。

「ヒントを言って助けてくれる」というようにすれば、そのヒントを聞いて「どうかな」と本人に答えさせることができます。誰かに代わりに説明させたのであれば、「どう納得した」と本人に確認します。納得できていれば、「じゃあ、もう一度説明してくれるかな。みんな、○○さんの説明を聞こう」と活躍の場面をつくるのです。「まわりの人、助けてあげて」という対応もあります。これならば、まわりの子どもたちが直接教えることもできます。教えてもらってから、発表させればいいのです。グループ活動の後の発表などに有効な方法です。
また、本人が途中まで説明できていたのなら、「○○さんの考えを代わりに説明してくれる人いる?」としてもよいでしょう。説明してくれた後、必ず「どう、△△さんの説明でよかった?」と確認することを忘れないようにします。自分の考えと同じかは本人にしか判断できないからです。それでよければ、「わかってもらってよかったね」と言って本人に再度説明させる。そのあと、「△△さんに、助けてもらってよかったね」「△△さん、助けてくれてありがとう」と「助けられた」「助けた」ことをポジティブに評価します。

友だちに「助けてもらう」場面は、本人が助けてもらってよかったと思うことが大切です。必ず本人が助けてもらって活躍する場面をつくること。そして、「助けられた」「助けた」ことをポジティブに評価して、子ども同士の関係をつくることを意識してほしいと思います。

子どもの発言の機会を確保する

子どもの発言を増やすこと、発言意欲を高めることについて何度か述べてきました(「子どもの発言を引き出すには」、「子どもの発言量を増やす」参照)。子どもの発言意欲が高まってくることはとてもよいことです。多くの教師が目指す子どもの姿だと思います。ところがここで困ったことが起こります。子どもに発言させるといっても時間に限りがあります。全員が発言したいと思っても全員に発言させる機会を与えることは難しいのです。どのように考えればいいのでしょうか。

一つは、教師の発言量を減らして、子どもが発言できる機会をできるだけたくさんつくることです(「子どもの発言量と教師の発言量」参照)。また、できるだけテンポよく次々指名することで、密度を高める方法もあります。1時間の中で全員が1回は発言できることが理想ですが、なかなか難しいのも現実です。小学校であれば1日に1回とすれば現実的には可能でしょうが、発言意欲が高まっているのに発言の機会がなければせっかくの意欲も下がってしまいます。一斉授業の形を取ると、子どもの発言したい気持ちが高まることが、かえって発言できないという不満を高めることにつながりやすいのです。そこで全員で同時に言わせる先生もいます。確かに、簡単な答の時などには有効な方法だと思います。しかし、特に低学年で目立つのですが、このような時に子どもはとても大きな声で答を言う傾向があります。発言したい気持ちを満足させているだけのように感じます。発表は必ず聞き手を意識して、伝えることが大切になります。簡単な答の時と限定した理由はここにあります。

そこで、もう一つの方法です。全体で発言することにこだわれば、同時に話せるのは常に1人です。そこで発想を変えて、ペアやグループで発表させるのです。理論上は、ペアであれば2人が発言する時間、4人グループであれば4人分の時間で全員が発言することが可能になります。子どもたちが自分の考えを持ち、発言したい意欲があれば、これが一番の解決策だと思います。ここで、注意しなければいけないのは、発言したい意欲が高いと互いに言いっぱなしで終わりやすいということです。これでは、先ほども述べたように発言したい欲求を解消しただけです。互いに聞き合い、聞いたことを評価し、考えを深めることが大切になります。日ごろから友だちの意見をしっかりと聞き合い、聞いたことをもとに話し合うことが学級全体に浸透していることが必要です。ペアやグループを活用するための基本的なことが子どもたちに身についていなければいけないということです。発言する意欲だけではなく、聞く姿勢も合わせて育てなければいけないのです。

子どもたちの発言意欲を高めることは、発言の機会を確保することと一体で考える必要があることを意識してほしいと思います。

教師のねらいに近い考えをどう深めるか

子どもが発表した考えが不完全ではあるが教師のねらいに近いものだったとき、どう対応しますか。気をつけてほしいのは、教師が足りないことをつけ足しながら自分で説明しないことです。たとえその子どもの考えをほめても、子どもはそれが教師の求める答に近いからほめられたのであって、発言は教師の求める答かどうかをチェックされる場だと感じてしまいます。自分の考えを発言することに価値を見出さなくなり、教師の求める答探しを始めるようになってしまいます。
大切なことは、子どもたちでその考えを深めさせていくことです。そうすることで、子どもたちの自己有用感が高まり、授業への参加意識も高まります。そのためには子どもの言葉で考えを発表させていくことが必要になります。では具体的にどのようにしていけばよいのでしょうか。

大きくは2つの方法があります。本人に返すか、他の子どもにつなぐかです。いずれにしても、まず子どもの発言をしっかりと受容する必要があります。その上で、発言をどう判断するかです。本人の言葉や考えがまだ明確になっていない、整理できていないと感じたときは、その点について「○○ってどういうことかな。もう少し聞かせてくれる」と問い返します。本人の言葉で考えが明確になれば、「なるほど。みんな今の考えどう思った。納得した」と全体につないでいきます。注意してほしいのが、考えが整理できなくて教師のねらう考えに近づかなくても執拗に問い返し続けないことです。子どもは教師の期待する答があるのだと感じ、自分の言葉がそれとずれていると気づきます。結果、教師の求める答えを探すようになり、自分の考えを言わなくなってしまいます。無理をしないことが大切です。

発表者の考えが明確になっている時や、これ以上問い返しても追いつめるだけだと判断した時は、他の子どもにつなぐことになります。最初の発言者の考えを深める方向の意見が出るように意識することが必要です。この時、「他の人はどう」というような聞き方は、注意が必要です。子どもたちが育っていなければ、違う考えを言わなければいけないと思うからです。もとの意見を深めるためには、「同じように考えた人いる」と近い考えの人に意見を求めるのが基本となります。ここで「○○さんはどう」と指名した時に、子どもが「同じです」と答えるときがあります。「同じです」という答えは原則として許さないことが大切で。「同じです」を許すと漠然と同じだなと思うだけで、自分の考えはどうであるか整理されないままになってしまいます。その時は、「もう一度言ってくれる」と自分の言葉で言い直すよう求めます。全く同じことを言うことはまずありません。少し違った表現や、言葉が足されることが起こります。そこをとらえて、「○○さんは、・・・と言ってくれたね」「・・・と付け加えてくれたね」と教師が評価したり、「○○さんは少し付け加えてくれたと思うんだけど、どう」と他の子どもに異なっているところや付け加えたことを発表させたりします。
ここで、発表者の考えを明確にさせるために、「同じです」に対して、「どこが同じか教えてくれる」と問い返してもよいでしょう。その上で「違うところはある」と違いを意識させるのです。こうすることで、たとえ同じようでも、自分の考えと友だちの考えをきちんと比較して整理するようになります。
こういった方法の問題は、「同じように考えた人」しか発言できないことです。近い考えを出させたいときは「今の考えなるほどと思った人」と問いかける。反対意見が出ることも視野に入れた上で「今の考えどう思ったか聞かせてくれる」と広く意見を求める。このような問いかけを使うことも必要になります。
また挙手だけに頼らず、子どもの表情や反応を見て指名することも大切です。うなずく子どもがいれば、「今うなずいていたよね。どういうことか教えてくれる」と問いかければ、間違いなく関連した何かを話してくれます。指名された子どもは教師が自分を見てくれていることを知り、安心して授業に参加するようにもなります。
意見をつなげていくことで、全体が考えを深めてきたと感じる時は、周りで意見を聞き合うことや、グループにすることも有効です。自分の考えが深まってくると発言したくなるものです。挙手や指名では一部の子どもしか発言できないので、どの子どもも発言できる機会をつくるのです。

いずれの方法にしても、子どもの発言のよい部分や足りないところを焦点化しながら、子どもたちの言葉で整理し深めていくことが必要になります。

教師のねらいに近い考えだからこそ、子どもたちに自身で深めさせたいものです。どの方法が正解というわけではありません。発言の内容や子どもの状況によって選択することが大切です。そのためには、教師が対応の方法をいくつか持っていることが求められます。日ごろから子どもの考えを深める方法を意識して授業にのぞんでいただきたいと思います。

寝ている子どもへの対応を考える

授業中に子どもが机にふせって寝ていることがあります。中学校では時々目にする光景です。その時の教師の対応はまちまちです。みんなの前で注意して起こす。その時、「朝ですよ〜」などと笑いを取って、あまり気まずい思いをさせないように気を使う方もいます。机間指導の時にそっと肩をたたいて起こす。その時、「体調が悪いの?」と優しく聞く方もいます。中には、何も声をかけずに無視をする方もいます。
起こされた子どもは、ほとんどの場合そのまま授業に参加し続けます。しかし、中にはまたすぐに寝てしまう子どももいます。そのような場合、単に眠たくて寝ていたのではないでしょう。授業がわからない、やる気がないといった別の要因があるはずです。起こせばよいわけではありません。教師が声をかけないのは、その子には声をかけても無駄だと思っているのかもしれません。どうするのがよいのでしょうか。

教師ではなくまわりの子どもに声をかけてもらうのが一つの方法です。「起こしてあげて」と優しく頼み、子どもが起きれば「顔上げてくれて、ありがとう」「起こしてもらえてよかったね」と笑顔で声をかけ、起こしてくれた子どもにも「ありがとう」と一声かけておきます。叱ることなく、子ども同士の関係をつくることにもつながりますので、どの子どもに対しても有効な方法です。友だちがかかわることで、やる気のない子どもも参加しようという気持ちになってくれます。とはいえ、またすぐに寝てしまうこともよくあります。そういう子どもの場合、その時間だけで解決することはできません。時間をかけて、他の子どもとかかわりながらわかる経験を積むことや、自分の居場所があることに気づかせることが大切です。
子ども同士のかかわりをつくるのにはグループ活動が有効です。グループの形をつくるためには机の移動が必要です。机の移動は参加につながります。友だちから、「○○さんはどう思う」と聞かれることで、たとえわからなくても友だちとのかかわりが生まれます。誰でも意見が言えるような課題であれば、答えてくれるかもしれません。「○○さんはそう考えたんだ」と受け止めてもらえれば、自分の居場所ができたように感じます。聞き合うといった、どの子どもにも声がかけられるような活動が子どもの関係をつくり、発言を認めてもらうことが居場所をつくることにつながります。

ある学校では、「授業中に寝ている子どもをなくす」を目標にしていました。レベルの低い目標ですが」と謙遜されていましたが、決してそうではありません。先生方はただ起こすだけではダメなことをよく知っていました。子どもたちの関係をつくり、居場所をつくることに学校全体で取り組まれました。もちろん今では、そんなことがあったことに誰も気づかないような学校になっています。
寝ている子どもへの対応とその反応から、教師と子どもの関係、子ども同士の関係といった学校の現実が見えてきます。子どもたちが「寝てるなんてもったいない」と思うような教室であってほしいと思います。

作業中に集中力を切らさないために

学級によって、子どもたちに作業をさせているときの集中力の違いがあります。課題の内容や学級の特性だけでなく、教師がその時どのようにしているかが大きく影響しています。

子どもが課題に取り組めていることを確認した後、教師が教卓で次の準備をしていたりするとどうでしょう。子どもの集中力が一時的に切れることはよくあります。顔を上げてまわりを見たときに、教師が他のことをしていて自分を見ていないことに気づくと、この状況を追認されたように感じ、しばらく集中力は戻りません。次に集中力を切らした子どもは、他の子どもも集中力を失くしていることに気づき、安心して息を抜きます。集中力を切らす子どもが次第に増え、学級全体の集中力が落ちてくるのです。

では、机間指導をしている場合はどうでしょうか。子どもたちのそばにて、よい意味でプレッシャーをかけているのですから集中力は持続されるように思います。しかし、机間指導のやり方が問題です。子どもたちの手元を見ながら漫然と移動しているのでは(俗にいう「机間散歩」)、先ほどの例と状況はあまり変わりません。教師のいる位置から離れている子どもには、プレッシャーはかかりません。集中力が切れたとき、子どもが顔を上げても教師の姿は目に入りませんし、その子どもに教師も気づきません。
集中力が切れている子ども、困っている子どもに対してその場で指導すればよいのでしょうか。教師が1か所に留まってミニ授業を始めてしまえば、どうしてもその子どもに集中してしまいます。他の子どもは目に入りません。また、わからなくて集中力を失くしている子どもは、教師が他の子どもを教えているのを見ると、自分も教えてもらうことを期待して自分のところに来るのを待ってしまいます。すぐに教師が気づいてくれればいいのですが、そうでないとおとなしく待っていることができなくなり、ごそごそしてしまいます。
机間指導は教師の死角を増やします。意識しないと全体の様子を把握することはできません。

大切なのは、机間指導をする、しないにかかわらず、全員をしっかりと見守ることです。集中力を切らした子どもがいれば、目で問いかけます。教師が見守ってくれることがわかれば、また課題に取り組みます。もし困っているようであれば、その子どもに対して友だちに聞くように指導したりします。この時、指導にあまり時間をかけないようにします。常に子どもたち全員を見守ることを意識します。このことを意識している教師は、机間指導で子どもの手元を見ていても、次の子どもへ移動する際に必ず死角をつくらないように全体を見回しています。個別に指導していても時々顔を上げて全体を見ています。

子どもたちは、自分が教師に見守られていることを感じることで安心して過ごすことができます。このことが子どもたちの集中力を持続させるのに大切です。子どもが作業に集中しているように見えても、気を許さず、全員を見守ることを意識してほしいと思います。

「いいです」は慎重に使う!?

授業中に聞いていて、違和感がある言葉あります。「いいです」という言葉です。子どもの答が正解の時に教師が発する「いいです」。子どもの答に対する教師の「どうですか?」という問いかけに対して子どもたちが発する「いいです」。共に、誰かが答えを知っていて、発言が正解かどうかを上から目線で判定している。そのように聞こえるからです。皆さんはどうでしょうか。

発言者の立場で考えれば、誰かに判定されるために発言している。教師の求める正解を要求されている。そう感じるのではないでしょうか。たとえ子どもたちに「どうですか?」と聞いていても、ある程度の数「いいです」と言う子どもがいれば、教師が「いいですね」と追認して先に進むことがほとんどです。そこでは教師の求める答であるかどうかが問われているのです。公開で試験を受けて、その場で判定されているように感じるのではないでしょうか。子どもが積極的に発言しなくなっていくと思います。

すべての場面での「いいです」を否定しているわけではありませんが、あまり使ってほしくない言葉です。同じ目線の高さで、判定するのではなく共感する視点で言葉を選び、授業を進めていってほしいと思います(子どもの発言を引き出すには参照)。子どもがその言葉をどう感じるかにこだわってほしいのです。「いいです」に限らず、「正解」「惜しい」といった子どもに対して上から目線の言葉や、教師の求める答かどうかを判定するような言葉を使うことに少し慎重になっていただけたらと思います。

グループ活動を活かすために

グループ活動を取り入れる授業が増えてきています。グループ活動を活かす場面やポイントについて考えてみたいと思います。

まず、どのような課題に取り組むのかが大きく影響します。
課題は何を求めているのかゴールがはっきりしている必要があります。授業者自身がゴールを明確に意識できていないまま、「○○についてグループで考えて」と指示する場面によく出合います。それまでの活動で、「考える」に対してどのようにアプローチして、何を出力すればよいかを子どもたちがわかっていればいいのですが、そうでなければ、ただ「思いついたこと」をおしゃべりするだけの活動になってしまいます。解決すべきものが何かがはっきりしていなければなりません。「○○についてどう思う。自分の考えを発表し合って」といった問いかけも同様です。「私はこう思う。あなたはどう?」と、ただ、発表するだけで考えが深まる活動にはなりません。根拠を求める課題、根拠を聞きあう必然性のある課題でなければなりません。子どもが育つまでは、「友だちの考えを聞いて、なるほどと思った意見をメモして」「自分の考えにつけ加えて」「一番納得した意見に印をつけて」「納得した理由を聞かせて」といった指示や、働きかけも必要になります。

数学などで「問題を解く」ことはゴールが明確で取り組みやすいものです。個人で問題を解くとき、グループにして「わからなかったら友だちに聞いてもいいよ」とすることで、かかわりあいながら取り組むこともできます。個人作業の共同化です。それに対して、グループで1つの問題を解くときには注意が必要です。比較的易しい問題だと、すぐに答がわかる子どもができます。額を寄せて考え合うことなく、わかった子どもがミニ教師となって教え始めます。聞く側が説明を聞いて、自分の言葉で説明できることを目指せばよいのですが、友だちの答を写して満足してしまうこともよくあります。全員が悩むような、ジャンプの課題を用意できればよいのですが、毎回それも難しいことです。答を出すことではなく、説明できることをゴールとする必要があります。グループ活動のあとは、答そのものではなく、どう考えたかといった過程や解き方の説明を発表させるようにすることが大切です。そうすることで、説明に対して、「それってどういうこと?」「よくわからない。助けて」と聞き返す場面が生まれてくるのです。

「○○って何?」と知識を問う場面で、グループ活動をおこなうこともよくあります。知識ですから考えても仕方がありません。調べることが活動になります。ゴールがはっきりしているので、取り組みやすい活動です。これも、個人で調べて見つからなければ友だちに聞くという個人作業の共同化とグループで1つのことを調べる場合があります。前者は、友だちの調べた結果を写すのではなく、どうやって見つけたか、どこでわかったのかということを大切にする必要があります。学び合うためには、単に結果を問うのではなく、そこに至る過程を共有することを意識させなければなりません。一方後者は、それぞれが調べたことを持ち寄って、それをもとにまとめるようなものである必要があります。資料や事典などで調べればその説明が載っていて、それを写せば終わるようなものではいけません。いくつかの知識をもとに、自分たちの言葉で説明するようなものである必要があります。
また、効率的に調べさせるためにグループを活用することもあります。考えるためには根拠となる知識が必要です。素早く必要とする知識を集めて全体で共有化し、今度はそれをもとに考える課題にグループで取り組むのです。

グループ活動に入る前の子どもの状態も大切な要素です。
課題を提示して、全体で子どもに問いかけても反応がない場合があります。意見が出なくて授業を進められなくて「じゃあグループで考えて」とすぐにグループ活動に移ることがあります。子どもたちがグループ活動になれていると、それらしく話し始めたりします。しかし、こういう場面では、子どもがどういう状態なのかをしっかり把握したうえでグループ活動に入るべきかどうか判断する必要があります。
子どもが反応しないのは、課題をきちんと把握できていないことが原因であることが多いようです。何をすればいいのか、何を答えればいいのかよくわからないので、反応できないのです。このような状態でグループ活動に入っても、何をしていいのかわからないのですからうまくいきません。それでも子どもたちが育っている学校では、何をすればよいのかを自分たちで考えることから活動を始めます。子どもたちに救われている授業です。子どもは立派ですが、授業としては「???」です。
また、課題が自分たちのものになっていないときも、子どもたちの反応は薄くなります。なぜこの課題に取り組むのかわからない、子どもたちとって必然性のない課題であれば、課題に対して意欲的にならないのです。この状態でグループ活動に入ると、課題自体は把握できているので活動は進みますが、何らかの答がでるとそれ以上追究しようとはしません。教師が一方的に課題を提示するのではなく、子どもとのやり取りの中から課題が生まれてくるように働きかける必要があります。
逆に、子どもが課題を自分のものとして真剣に考えているときにも、反応が現れないことがあります。すぐに答が出ないような課題に対して深く考えていれば、すぐに反応できないのです。こういう状態であれば、できるだけ早くグループ活動に入るべきです。すぐに口を開かないかもしれませんが、次第に額を寄せ合って相談し始めます。
子どものようすから課題に対する状態を把握することが大切です。見てわからなければ、確認するための方法を用意する必要があります。「わかった?」と聞いてもあまり意味はありません。もし聞くのなら「困ったことない?」と答えやすい言葉を選びます。「何を求めればいいのか」とゴールを確認する。「どうすればうまくいきそう」と見通しを全体で共有するといったことが必要です。

これとは逆に、グループ活動に入る前に子どものテンションが上がっていることがあります。子どもが課題に対して意欲的になっているのですから、グループ活動に早く移ればよいように思いますが、往々にして危険な状態であることがよくあります。子どもたちのテンションが上がるのは、根拠を求められない無責任な状態であることが多いからです。英語の授業で寸劇をグループでおこなう、つくるといった活動などでよく見られます。課題の提示で教師が見本を面白く見せます。活動が見えやすいので子どもたちは興味を持ってくれます。見本と同じ寸劇をやらせるのであれば、ただやればいいだけです。そこに、考えたり工夫したりする余地はありません。寸劇をつくる場合はどうでしょうか。この場合はその内容を考えるのですから、学び合いが成立するように思います。しかし、寸劇の内容を決める段階では、「面白そう」「こんなのはどう」と根拠なく思いつきで意見を言うことができます。内容を決めて英語に訳する段階では落ち着きますが、それまではテンションが上がるだけの、教科としてはあまり意味のない活動になっているのです。
先ほどの課題の話とも重なりますが、ただ活動するのではなく、発音やイントネーションの目標を設定することや、寸劇の流れはこちらで決めておいて英語に訳するところから始め、教科の内容と直接関係ない活動は省くといった工夫が必要になります。
テンションが高いことは、意欲的でよいことではありません。根拠を必要としないグループ活動は子どもを無責任な状態にしてテンションを上げるだけです。根拠がなければ足が地についた議論をすることもできません。そこでは学び合いは起こらないことを強く意識しておく必要があります。

全体での追究場面で、意見が分かれることがあります。子どもから出た意見が焦点化され、新たな課題が生まれてくる場面です。こういうときの子どもたちのようすは様々です。議論が白熱してきて活発に意見が飛び交うこともあります。自分の考えは持っていたのだが、話を聞いているうちに「わからなくなっちゃった」と混乱してしまう子どもも出てきます。子どもたちが考え込んで意見が出なくなることもあります。意見が飛び交っていればいいように思うかもしれませんが、議論についていけない子どももできます。次第に一部の子どもだけで議論が進んでしまいがちです。混乱しているということは、考えているということです。しかし、整理できていないわけですから挙手して発言することはできません。こういう場面は全体での話し合いをいったん止めてグループに戻すことが有効です。自分たちから出てきた考えや意見から課題が生まれているのですから必然性もあります。グループにすることで気軽に考えを聞きあえ、考えを深めていくことができます。
また、グループや個人の活動の後の発表で、考えてもいない視点や事柄に基づいた意見が出たときもグループ活動に移るとよい場面です。今までそのような視点で考えていなかったのですから、考える時間が必要です。その視点や事柄をもとにドンドン進まれても、ついていけません。「同じところに線を引いたグループはいる? いないね。すごいね。もう一度グループになってこの図で考えてみて」とその視点をもとに考える場をつくるのです。

発表の仕方もグループ活動のあり方に影響します。答をグループで一つにまとめる形をとると、どうしても力の強い子の意見が通ってしまいます。納得できない子どもに無理やり従わせることは意味がありません。意見の対立があってもそれが学級全体に広がることもありません。また、発表者を事前に決めると他の子どもが傍観者になってしまうこともよくあります。結論は極力各個人に任せるようにしてほしいと思います。グループの考えを聞くのであれば、あらかじめ発表者を決めるのではなく、その場で指名するようにするとよいでしょう(グループ活動の後の発表参照)。小型のホワイトボードなどを使って発表させるのであれば、ペンを何本も用意することで、みんなで書き込むようにすると共同の作業となります。発表もみんなでつくるような工夫が必要です。

グループ活動は、子どもたちが中心となっておこなうので、教師のコントロールはおよばないように思うかもしれません。しかし、課題の設定や発問の「てにをは」一つでも子どものたちの動きは変わっていきます。子どもたちの学び合いが生まれるようにするためには、細かな指示や直接教えること以外に、本当に多くの仕掛けや働きかけが必要なのです。ここに書いたことはグループ活動を活かすためのほんの一部分です。この他にも大切なことはたくさんあります。グループ活動を活かすために必要なことは何かを常に意識し、工夫し続けてほしいと思います。

子どもの発言、意見をすぐに板書しない

子どもの考えや意見、答などを発表させたあと、すぐにその内容をまとめて板書をする場面を目にします。中には、発言の途中で板書を始める方もいます。長い発言なので忘れてしまわないようにということなのでしょう。しかし、教師が板書することで、子どもは友だちの考えを聞いて理解しようとするのをやめ、板書されたことで理解しようとするようになります。教師がまとめてしまえば、不完全な発言を子どもの言葉で修正するという活動もなくなってしまいます。友だちの方を見て話を聞いていたのに、教師が板書を始めると黒板の方を向いて目で追う、ノートに写し出すといったこともよくあります。また、板書したりしなかったりすると、子どもは板書される考えがよいと判断します。ますます板書を写そうとするようになります。どのようにするとよいのでしょうか。

まず原則として、子どもが発言している途中では板書をしません。もし、発言が長いようであれば言い終わってから、「なるほど、しっかり話してくれたね。どう、みんな○○さんの考えわかった」と確認します。何人かが理解できているようであればその子どもに、ほとんどなければ本人に、もう一度説明させます。まずは子どもが友だちの発言を理解すること、理解してもらおうとすることを大切にするのです。その上で、もう一度説明させることで、じっくりと理解する機会をつくるのです。今度は、一度聞いた後ですから、途中で止めながら、「ここまで、どう? 納得した」と確認してもよいのです。
どうしても板書したいことがあれば(「何を板書するか」参照)、「ちょっと待って」と発言を止めておこないます。時間をかけずに、メモでよいのでポイントを絞り、できるだけ子どもの言葉をそのまま書くようにします。時間をかけると子どもの聞く意欲も、発言意欲も低下します。また、子どもの言葉を修正したり、まとめたりすると、子どもは自分の発言がまずかったのかと考えたり、教師の言葉を使って言い直そうとしたりして、子どもが混乱するからです。
いずれにしても、板書を見る、写すといった作業と友だちの発言を聞く場面ははっきりと分けることが大切です。

発言が終わったあとすぐには板書せずに、まずその考えを他の子どもにつなぐこと意識します。先ほども述べたように、教師が板書をすると子どもの思考は途切れます。「なるほど、今の○○さんの考えどう。なるほどと思った?」と学級全体に広げ、つないでいくのです。子ども同士でその意見をもとに発言を続けることで、板書に頼らず自分たちで理解し、納得することを目指すのです。こうなれば、あえてまとめを板書する必要はありません。もし、まとめが必要だと思えば、ノートに自分でまとめさせればよいのです。子どもが育っていないので、不安だというのであれば、まとめを子どもに発言させる方法もあります。何人かに発表させて確認するのです。「みんなの意見でいいと思ったところはどこ」と発言のよかったところやポントンに絞って確認するのもよいでしょう。板書をするのなら、できるだけ子どもの言葉のまま、もし修正するのなら「今言ってくれたことは、△△ということでいいかな」と子どもに確認をしながら書くようにします。

子どもの発言をすぐに板書することは、子どもの考えや発言を教師の言葉に置き換えることにつながります。自分たちで理解し考えを深めることを大切にするならば、子どもの発言や意見をすぐに板書しないとう判断もあるのです。
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