教師のねらいに近い考えをどう深めるか

子どもが発表した考えが不完全ではあるが教師のねらいに近いものだったとき、どう対応しますか。気をつけてほしいのは、教師が足りないことをつけ足しながら自分で説明しないことです。たとえその子どもの考えをほめても、子どもはそれが教師の求める答に近いからほめられたのであって、発言は教師の求める答かどうかをチェックされる場だと感じてしまいます。自分の考えを発言することに価値を見出さなくなり、教師の求める答探しを始めるようになってしまいます。
大切なことは、子どもたちでその考えを深めさせていくことです。そうすることで、子どもたちの自己有用感が高まり、授業への参加意識も高まります。そのためには子どもの言葉で考えを発表させていくことが必要になります。では具体的にどのようにしていけばよいのでしょうか。

大きくは2つの方法があります。本人に返すか、他の子どもにつなぐかです。いずれにしても、まず子どもの発言をしっかりと受容する必要があります。その上で、発言をどう判断するかです。本人の言葉や考えがまだ明確になっていない、整理できていないと感じたときは、その点について「○○ってどういうことかな。もう少し聞かせてくれる」と問い返します。本人の言葉で考えが明確になれば、「なるほど。みんな今の考えどう思った。納得した」と全体につないでいきます。注意してほしいのが、考えが整理できなくて教師のねらう考えに近づかなくても執拗に問い返し続けないことです。子どもは教師の期待する答があるのだと感じ、自分の言葉がそれとずれていると気づきます。結果、教師の求める答えを探すようになり、自分の考えを言わなくなってしまいます。無理をしないことが大切です。

発表者の考えが明確になっている時や、これ以上問い返しても追いつめるだけだと判断した時は、他の子どもにつなぐことになります。最初の発言者の考えを深める方向の意見が出るように意識することが必要です。この時、「他の人はどう」というような聞き方は、注意が必要です。子どもたちが育っていなければ、違う考えを言わなければいけないと思うからです。もとの意見を深めるためには、「同じように考えた人いる」と近い考えの人に意見を求めるのが基本となります。ここで「○○さんはどう」と指名した時に、子どもが「同じです」と答えるときがあります。「同じです」という答えは原則として許さないことが大切で。「同じです」を許すと漠然と同じだなと思うだけで、自分の考えはどうであるか整理されないままになってしまいます。その時は、「もう一度言ってくれる」と自分の言葉で言い直すよう求めます。全く同じことを言うことはまずありません。少し違った表現や、言葉が足されることが起こります。そこをとらえて、「○○さんは、・・・と言ってくれたね」「・・・と付け加えてくれたね」と教師が評価したり、「○○さんは少し付け加えてくれたと思うんだけど、どう」と他の子どもに異なっているところや付け加えたことを発表させたりします。
ここで、発表者の考えを明確にさせるために、「同じです」に対して、「どこが同じか教えてくれる」と問い返してもよいでしょう。その上で「違うところはある」と違いを意識させるのです。こうすることで、たとえ同じようでも、自分の考えと友だちの考えをきちんと比較して整理するようになります。
こういった方法の問題は、「同じように考えた人」しか発言できないことです。近い考えを出させたいときは「今の考えなるほどと思った人」と問いかける。反対意見が出ることも視野に入れた上で「今の考えどう思ったか聞かせてくれる」と広く意見を求める。このような問いかけを使うことも必要になります。
また挙手だけに頼らず、子どもの表情や反応を見て指名することも大切です。うなずく子どもがいれば、「今うなずいていたよね。どういうことか教えてくれる」と問いかければ、間違いなく関連した何かを話してくれます。指名された子どもは教師が自分を見てくれていることを知り、安心して授業に参加するようにもなります。
意見をつなげていくことで、全体が考えを深めてきたと感じる時は、周りで意見を聞き合うことや、グループにすることも有効です。自分の考えが深まってくると発言したくなるものです。挙手や指名では一部の子どもしか発言できないので、どの子どもも発言できる機会をつくるのです。

いずれの方法にしても、子どもの発言のよい部分や足りないところを焦点化しながら、子どもたちの言葉で整理し深めていくことが必要になります。

教師のねらいに近い考えだからこそ、子どもたちに自身で深めさせたいものです。どの方法が正解というわけではありません。発言の内容や子どもの状況によって選択することが大切です。そのためには、教師が対応の方法をいくつか持っていることが求められます。日ごろから子どもの考えを深める方法を意識して授業にのぞんでいただきたいと思います。

寝ている子どもへの対応を考える

授業中に子どもが机にふせって寝ていることがあります。中学校では時々目にする光景です。その時の教師の対応はまちまちです。みんなの前で注意して起こす。その時、「朝ですよ〜」などと笑いを取って、あまり気まずい思いをさせないように気を使う方もいます。机間指導の時にそっと肩をたたいて起こす。その時、「体調が悪いの?」と優しく聞く方もいます。中には、何も声をかけずに無視をする方もいます。
起こされた子どもは、ほとんどの場合そのまま授業に参加し続けます。しかし、中にはまたすぐに寝てしまう子どももいます。そのような場合、単に眠たくて寝ていたのではないでしょう。授業がわからない、やる気がないといった別の要因があるはずです。起こせばよいわけではありません。教師が声をかけないのは、その子には声をかけても無駄だと思っているのかもしれません。どうするのがよいのでしょうか。

教師ではなくまわりの子どもに声をかけてもらうのが一つの方法です。「起こしてあげて」と優しく頼み、子どもが起きれば「顔上げてくれて、ありがとう」「起こしてもらえてよかったね」と笑顔で声をかけ、起こしてくれた子どもにも「ありがとう」と一声かけておきます。叱ることなく、子ども同士の関係をつくることにもつながりますので、どの子どもに対しても有効な方法です。友だちがかかわることで、やる気のない子どもも参加しようという気持ちになってくれます。とはいえ、またすぐに寝てしまうこともよくあります。そういう子どもの場合、その時間だけで解決することはできません。時間をかけて、他の子どもとかかわりながらわかる経験を積むことや、自分の居場所があることに気づかせることが大切です。
子ども同士のかかわりをつくるのにはグループ活動が有効です。グループの形をつくるためには机の移動が必要です。机の移動は参加につながります。友だちから、「○○さんはどう思う」と聞かれることで、たとえわからなくても友だちとのかかわりが生まれます。誰でも意見が言えるような課題であれば、答えてくれるかもしれません。「○○さんはそう考えたんだ」と受け止めてもらえれば、自分の居場所ができたように感じます。聞き合うといった、どの子どもにも声がかけられるような活動が子どもの関係をつくり、発言を認めてもらうことが居場所をつくることにつながります。

ある学校では、「授業中に寝ている子どもをなくす」を目標にしていました。レベルの低い目標ですが」と謙遜されていましたが、決してそうではありません。先生方はただ起こすだけではダメなことをよく知っていました。子どもたちの関係をつくり、居場所をつくることに学校全体で取り組まれました。もちろん今では、そんなことがあったことに誰も気づかないような学校になっています。
寝ている子どもへの対応とその反応から、教師と子どもの関係、子ども同士の関係といった学校の現実が見えてきます。子どもたちが「寝てるなんてもったいない」と思うような教室であってほしいと思います。

作業中に集中力を切らさないために

学級によって、子どもたちに作業をさせているときの集中力の違いがあります。課題の内容や学級の特性だけでなく、教師がその時どのようにしているかが大きく影響しています。

子どもが課題に取り組めていることを確認した後、教師が教卓で次の準備をしていたりするとどうでしょう。子どもの集中力が一時的に切れることはよくあります。顔を上げてまわりを見たときに、教師が他のことをしていて自分を見ていないことに気づくと、この状況を追認されたように感じ、しばらく集中力は戻りません。次に集中力を切らした子どもは、他の子どもも集中力を失くしていることに気づき、安心して息を抜きます。集中力を切らす子どもが次第に増え、学級全体の集中力が落ちてくるのです。

では、机間指導をしている場合はどうでしょうか。子どもたちのそばにて、よい意味でプレッシャーをかけているのですから集中力は持続されるように思います。しかし、机間指導のやり方が問題です。子どもたちの手元を見ながら漫然と移動しているのでは(俗にいう「机間散歩」)、先ほどの例と状況はあまり変わりません。教師のいる位置から離れている子どもには、プレッシャーはかかりません。集中力が切れたとき、子どもが顔を上げても教師の姿は目に入りませんし、その子どもに教師も気づきません。
集中力が切れている子ども、困っている子どもに対してその場で指導すればよいのでしょうか。教師が1か所に留まってミニ授業を始めてしまえば、どうしてもその子どもに集中してしまいます。他の子どもは目に入りません。また、わからなくて集中力を失くしている子どもは、教師が他の子どもを教えているのを見ると、自分も教えてもらうことを期待して自分のところに来るのを待ってしまいます。すぐに教師が気づいてくれればいいのですが、そうでないとおとなしく待っていることができなくなり、ごそごそしてしまいます。
机間指導は教師の死角を増やします。意識しないと全体の様子を把握することはできません。

大切なのは、机間指導をする、しないにかかわらず、全員をしっかりと見守ることです。集中力を切らした子どもがいれば、目で問いかけます。教師が見守ってくれることがわかれば、また課題に取り組みます。もし困っているようであれば、その子どもに対して友だちに聞くように指導したりします。この時、指導にあまり時間をかけないようにします。常に子どもたち全員を見守ることを意識します。このことを意識している教師は、机間指導で子どもの手元を見ていても、次の子どもへ移動する際に必ず死角をつくらないように全体を見回しています。個別に指導していても時々顔を上げて全体を見ています。

子どもたちは、自分が教師に見守られていることを感じることで安心して過ごすことができます。このことが子どもたちの集中力を持続させるのに大切です。子どもが作業に集中しているように見えても、気を許さず、全員を見守ることを意識してほしいと思います。

「いいです」は慎重に使う!?

授業中に聞いていて、違和感がある言葉あります。「いいです」という言葉です。子どもの答が正解の時に教師が発する「いいです」。子どもの答に対する教師の「どうですか?」という問いかけに対して子どもたちが発する「いいです」。共に、誰かが答えを知っていて、発言が正解かどうかを上から目線で判定している。そのように聞こえるからです。皆さんはどうでしょうか。

発言者の立場で考えれば、誰かに判定されるために発言している。教師の求める正解を要求されている。そう感じるのではないでしょうか。たとえ子どもたちに「どうですか?」と聞いていても、ある程度の数「いいです」と言う子どもがいれば、教師が「いいですね」と追認して先に進むことがほとんどです。そこでは教師の求める答であるかどうかが問われているのです。公開で試験を受けて、その場で判定されているように感じるのではないでしょうか。子どもが積極的に発言しなくなっていくと思います。

すべての場面での「いいです」を否定しているわけではありませんが、あまり使ってほしくない言葉です。同じ目線の高さで、判定するのではなく共感する視点で言葉を選び、授業を進めていってほしいと思います(子どもの発言を引き出すには参照)。子どもがその言葉をどう感じるかにこだわってほしいのです。「いいです」に限らず、「正解」「惜しい」といった子どもに対して上から目線の言葉や、教師の求める答かどうかを判定するような言葉を使うことに少し慎重になっていただけたらと思います。

グループ活動を活かすために

グループ活動を取り入れる授業が増えてきています。グループ活動を活かす場面やポイントについて考えてみたいと思います。

まず、どのような課題に取り組むのかが大きく影響します。
課題は何を求めているのかゴールがはっきりしている必要があります。授業者自身がゴールを明確に意識できていないまま、「○○についてグループで考えて」と指示する場面によく出合います。それまでの活動で、「考える」に対してどのようにアプローチして、何を出力すればよいかを子どもたちがわかっていればいいのですが、そうでなければ、ただ「思いついたこと」をおしゃべりするだけの活動になってしまいます。解決すべきものが何かがはっきりしていなければなりません。「○○についてどう思う。自分の考えを発表し合って」といった問いかけも同様です。「私はこう思う。あなたはどう?」と、ただ、発表するだけで考えが深まる活動にはなりません。根拠を求める課題、根拠を聞きあう必然性のある課題でなければなりません。子どもが育つまでは、「友だちの考えを聞いて、なるほどと思った意見をメモして」「自分の考えにつけ加えて」「一番納得した意見に印をつけて」「納得した理由を聞かせて」といった指示や、働きかけも必要になります。

数学などで「問題を解く」ことはゴールが明確で取り組みやすいものです。個人で問題を解くとき、グループにして「わからなかったら友だちに聞いてもいいよ」とすることで、かかわりあいながら取り組むこともできます。個人作業の共同化です。それに対して、グループで1つの問題を解くときには注意が必要です。比較的易しい問題だと、すぐに答がわかる子どもができます。額を寄せて考え合うことなく、わかった子どもがミニ教師となって教え始めます。聞く側が説明を聞いて、自分の言葉で説明できることを目指せばよいのですが、友だちの答を写して満足してしまうこともよくあります。全員が悩むような、ジャンプの課題を用意できればよいのですが、毎回それも難しいことです。答を出すことではなく、説明できることをゴールとする必要があります。グループ活動のあとは、答そのものではなく、どう考えたかといった過程や解き方の説明を発表させるようにすることが大切です。そうすることで、説明に対して、「それってどういうこと?」「よくわからない。助けて」と聞き返す場面が生まれてくるのです。

「○○って何?」と知識を問う場面で、グループ活動をおこなうこともよくあります。知識ですから考えても仕方がありません。調べることが活動になります。ゴールがはっきりしているので、取り組みやすい活動です。これも、個人で調べて見つからなければ友だちに聞くという個人作業の共同化とグループで1つのことを調べる場合があります。前者は、友だちの調べた結果を写すのではなく、どうやって見つけたか、どこでわかったのかということを大切にする必要があります。学び合うためには、単に結果を問うのではなく、そこに至る過程を共有することを意識させなければなりません。一方後者は、それぞれが調べたことを持ち寄って、それをもとにまとめるようなものである必要があります。資料や事典などで調べればその説明が載っていて、それを写せば終わるようなものではいけません。いくつかの知識をもとに、自分たちの言葉で説明するようなものである必要があります。
また、効率的に調べさせるためにグループを活用することもあります。考えるためには根拠となる知識が必要です。素早く必要とする知識を集めて全体で共有化し、今度はそれをもとに考える課題にグループで取り組むのです。

グループ活動に入る前の子どもの状態も大切な要素です。
課題を提示して、全体で子どもに問いかけても反応がない場合があります。意見が出なくて授業を進められなくて「じゃあグループで考えて」とすぐにグループ活動に移ることがあります。子どもたちがグループ活動になれていると、それらしく話し始めたりします。しかし、こういう場面では、子どもがどういう状態なのかをしっかり把握したうえでグループ活動に入るべきかどうか判断する必要があります。
子どもが反応しないのは、課題をきちんと把握できていないことが原因であることが多いようです。何をすればいいのか、何を答えればいいのかよくわからないので、反応できないのです。このような状態でグループ活動に入っても、何をしていいのかわからないのですからうまくいきません。それでも子どもたちが育っている学校では、何をすればよいのかを自分たちで考えることから活動を始めます。子どもたちに救われている授業です。子どもは立派ですが、授業としては「???」です。
また、課題が自分たちのものになっていないときも、子どもたちの反応は薄くなります。なぜこの課題に取り組むのかわからない、子どもたちとって必然性のない課題であれば、課題に対して意欲的にならないのです。この状態でグループ活動に入ると、課題自体は把握できているので活動は進みますが、何らかの答がでるとそれ以上追究しようとはしません。教師が一方的に課題を提示するのではなく、子どもとのやり取りの中から課題が生まれてくるように働きかける必要があります。
逆に、子どもが課題を自分のものとして真剣に考えているときにも、反応が現れないことがあります。すぐに答が出ないような課題に対して深く考えていれば、すぐに反応できないのです。こういう状態であれば、できるだけ早くグループ活動に入るべきです。すぐに口を開かないかもしれませんが、次第に額を寄せ合って相談し始めます。
子どものようすから課題に対する状態を把握することが大切です。見てわからなければ、確認するための方法を用意する必要があります。「わかった?」と聞いてもあまり意味はありません。もし聞くのなら「困ったことない?」と答えやすい言葉を選びます。「何を求めればいいのか」とゴールを確認する。「どうすればうまくいきそう」と見通しを全体で共有するといったことが必要です。

これとは逆に、グループ活動に入る前に子どものテンションが上がっていることがあります。子どもが課題に対して意欲的になっているのですから、グループ活動に早く移ればよいように思いますが、往々にして危険な状態であることがよくあります。子どもたちのテンションが上がるのは、根拠を求められない無責任な状態であることが多いからです。英語の授業で寸劇をグループでおこなう、つくるといった活動などでよく見られます。課題の提示で教師が見本を面白く見せます。活動が見えやすいので子どもたちは興味を持ってくれます。見本と同じ寸劇をやらせるのであれば、ただやればいいだけです。そこに、考えたり工夫したりする余地はありません。寸劇をつくる場合はどうでしょうか。この場合はその内容を考えるのですから、学び合いが成立するように思います。しかし、寸劇の内容を決める段階では、「面白そう」「こんなのはどう」と根拠なく思いつきで意見を言うことができます。内容を決めて英語に訳する段階では落ち着きますが、それまではテンションが上がるだけの、教科としてはあまり意味のない活動になっているのです。
先ほどの課題の話とも重なりますが、ただ活動するのではなく、発音やイントネーションの目標を設定することや、寸劇の流れはこちらで決めておいて英語に訳するところから始め、教科の内容と直接関係ない活動は省くといった工夫が必要になります。
テンションが高いことは、意欲的でよいことではありません。根拠を必要としないグループ活動は子どもを無責任な状態にしてテンションを上げるだけです。根拠がなければ足が地についた議論をすることもできません。そこでは学び合いは起こらないことを強く意識しておく必要があります。

全体での追究場面で、意見が分かれることがあります。子どもから出た意見が焦点化され、新たな課題が生まれてくる場面です。こういうときの子どもたちのようすは様々です。議論が白熱してきて活発に意見が飛び交うこともあります。自分の考えは持っていたのだが、話を聞いているうちに「わからなくなっちゃった」と混乱してしまう子どもも出てきます。子どもたちが考え込んで意見が出なくなることもあります。意見が飛び交っていればいいように思うかもしれませんが、議論についていけない子どももできます。次第に一部の子どもだけで議論が進んでしまいがちです。混乱しているということは、考えているということです。しかし、整理できていないわけですから挙手して発言することはできません。こういう場面は全体での話し合いをいったん止めてグループに戻すことが有効です。自分たちから出てきた考えや意見から課題が生まれているのですから必然性もあります。グループにすることで気軽に考えを聞きあえ、考えを深めていくことができます。
また、グループや個人の活動の後の発表で、考えてもいない視点や事柄に基づいた意見が出たときもグループ活動に移るとよい場面です。今までそのような視点で考えていなかったのですから、考える時間が必要です。その視点や事柄をもとにドンドン進まれても、ついていけません。「同じところに線を引いたグループはいる? いないね。すごいね。もう一度グループになってこの図で考えてみて」とその視点をもとに考える場をつくるのです。

発表の仕方もグループ活動のあり方に影響します。答をグループで一つにまとめる形をとると、どうしても力の強い子の意見が通ってしまいます。納得できない子どもに無理やり従わせることは意味がありません。意見の対立があってもそれが学級全体に広がることもありません。また、発表者を事前に決めると他の子どもが傍観者になってしまうこともよくあります。結論は極力各個人に任せるようにしてほしいと思います。グループの考えを聞くのであれば、あらかじめ発表者を決めるのではなく、その場で指名するようにするとよいでしょう(グループ活動の後の発表参照)。小型のホワイトボードなどを使って発表させるのであれば、ペンを何本も用意することで、みんなで書き込むようにすると共同の作業となります。発表もみんなでつくるような工夫が必要です。

グループ活動は、子どもたちが中心となっておこなうので、教師のコントロールはおよばないように思うかもしれません。しかし、課題の設定や発問の「てにをは」一つでも子どものたちの動きは変わっていきます。子どもたちの学び合いが生まれるようにするためには、細かな指示や直接教えること以外に、本当に多くの仕掛けや働きかけが必要なのです。ここに書いたことはグループ活動を活かすためのほんの一部分です。この他にも大切なことはたくさんあります。グループ活動を活かすために必要なことは何かを常に意識し、工夫し続けてほしいと思います。

子どもの発言、意見をすぐに板書しない

子どもの考えや意見、答などを発表させたあと、すぐにその内容をまとめて板書をする場面を目にします。中には、発言の途中で板書を始める方もいます。長い発言なので忘れてしまわないようにということなのでしょう。しかし、教師が板書することで、子どもは友だちの考えを聞いて理解しようとするのをやめ、板書されたことで理解しようとするようになります。教師がまとめてしまえば、不完全な発言を子どもの言葉で修正するという活動もなくなってしまいます。友だちの方を見て話を聞いていたのに、教師が板書を始めると黒板の方を向いて目で追う、ノートに写し出すといったこともよくあります。また、板書したりしなかったりすると、子どもは板書される考えがよいと判断します。ますます板書を写そうとするようになります。どのようにするとよいのでしょうか。

まず原則として、子どもが発言している途中では板書をしません。もし、発言が長いようであれば言い終わってから、「なるほど、しっかり話してくれたね。どう、みんな○○さんの考えわかった」と確認します。何人かが理解できているようであればその子どもに、ほとんどなければ本人に、もう一度説明させます。まずは子どもが友だちの発言を理解すること、理解してもらおうとすることを大切にするのです。その上で、もう一度説明させることで、じっくりと理解する機会をつくるのです。今度は、一度聞いた後ですから、途中で止めながら、「ここまで、どう? 納得した」と確認してもよいのです。
どうしても板書したいことがあれば(「何を板書するか」参照)、「ちょっと待って」と発言を止めておこないます。時間をかけずに、メモでよいのでポイントを絞り、できるだけ子どもの言葉をそのまま書くようにします。時間をかけると子どもの聞く意欲も、発言意欲も低下します。また、子どもの言葉を修正したり、まとめたりすると、子どもは自分の発言がまずかったのかと考えたり、教師の言葉を使って言い直そうとしたりして、子どもが混乱するからです。
いずれにしても、板書を見る、写すといった作業と友だちの発言を聞く場面ははっきりと分けることが大切です。

発言が終わったあとすぐには板書せずに、まずその考えを他の子どもにつなぐこと意識します。先ほども述べたように、教師が板書をすると子どもの思考は途切れます。「なるほど、今の○○さんの考えどう。なるほどと思った?」と学級全体に広げ、つないでいくのです。子ども同士でその意見をもとに発言を続けることで、板書に頼らず自分たちで理解し、納得することを目指すのです。こうなれば、あえてまとめを板書する必要はありません。もし、まとめが必要だと思えば、ノートに自分でまとめさせればよいのです。子どもが育っていないので、不安だというのであれば、まとめを子どもに発言させる方法もあります。何人かに発表させて確認するのです。「みんなの意見でいいと思ったところはどこ」と発言のよかったところやポントンに絞って確認するのもよいでしょう。板書をするのなら、できるだけ子どもの言葉のまま、もし修正するのなら「今言ってくれたことは、△△ということでいいかな」と子どもに確認をしながら書くようにします。

子どもの発言をすぐに板書することは、子どもの考えや発言を教師の言葉に置き換えることにつながります。自分たちで理解し考えを深めることを大切にするならば、子どもの発言や意見をすぐに板書しないとう判断もあるのです。

実物投影機でノートを映す(その2)

実物投影機でノートを映すときは、作業が終わったあとが多いと思いますが(「実物投影機でノートを映す(その1)」参照)、途中で使う方法もあります。子どもたちの多くが見通しを持てていないときや、作業の途中で手が止まっているときにヒントとなりそうなノートを見せるのです。このとき、ノートの内容の説明をする必要はありません。作業をやめさせてノートを見せるだけでいいのです。見せるノートはまだ途中でもかまいません。また、全体を見せる必要もありません。「ちょっと作業をやめて。○○さんのノートを映すよ」とポイントなる部分だけをズームアップして見せればいいのです。何人かのノートを見せたあと、「自分のやり方でもいいし、みんなのノートを参考にしてもいいからね」と作業を続けさせます。余計な説明を加えないことで、自分の力で情報を読み取ろうとするようになります。もちろん「よくわからなければ、友だちに聞いてもいいよ」とすることで、かかわりあうきっかけとすることもできます。

子どもたちが自分で読み取る力がまだ育っていないならば、「こんな図を描いているよ。このあと、○○さんはどうするのかな?」「最初に、こんな式を書いているね。これは何を計算しているのかな?」「これは、どの資料を見たのかな?」と、読み取る視点だけを示してもよいかもしれません。
本人に説明させるのも悪くはないのですが、どうしても時間がかかります。映されたノートを見て見通しを持てた子どもは早く作業に戻りたいと思います。ここは、テンポよく進めたいところです。

「わからなければ、友だちに聞いてもいい」といっても、なかなか聞けない子どももいます。まずは、友だちのノートを覗き込むことができるだけでもOKです。映されたノートを見ることで、友だちのノートを見るよさを知ればそのきっかけとなります。説明せずにただ見せることには、こういうねらいもあるのです。

意図的に使うことで、実物投影機でただノートを映すことも、とても効果的な手法となります。ICT機器は、こういう手間がかからず、効果的な場面で利用することを心がけたいものです。
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