講師を囲む会で大いに学び、考える

昨日は、市の研修会の講師の先生を囲む会に参加させていただきました。おいしい料理とお酒でしたが、メインは先生方とのお話。教育についての内容の濃い話が続きました。その中で印象に残った話題を少し紹介します。

一斉授業を標榜する先生も、実は協同学習をしている。
一斉授業であっても、子どもが受け身であってはいけません。活発に意見を言い合っているように見えても、多くの子どもは傍観者であることがよくあります。一人ひとりの子どもが主体的に出力する場面が必要です。そのためにはどうしても、ペアやグループでの活動は外せないというわけです。

「教科書で教える」というが何を教えるのか明確でない。
「教科書で教える」というが何を教えるのかと質問しても具体的にできない人が多い。何を教えるのか明確にできないのであれば、「教科書を教える」ことをきちんとする方がよいというわけです。教科書は大変よくできています。教科書のねらいがわからない人でも、そのまま教えることで十分に目的を達成できるようにつくられている。そういうことなのかもしれません。
「教科書を教える」「教科書で教える」にかかわらず、単元や教材の持つ意味、どういう力をつけたいのかを意識して授業をしてほしいというのが私の願いです。教科書のねらいや編集の意図を理解することなしに、「教科書を」「教科書で」という議論は「?」と思うのです。ねらいや意図を理解することが難しいから、「教科書を教える」なのですよという声が聞こえてきそうですが・・・。

子どもたちの姿を語り合うだけで学校が変わる。
子どもたちの姿を語り合うだけの授業研究で本当に学校がよくなるのか。その子どもの姿をつくった要因を考え、どうすればよいのか議論する必要があるのではという考えに対してのある先生の回答です。何人もの先生が子どもたちにかかわる中学校と違って、ほぼ一人の教師が子どもたちを教える小学校でも言える。その理由はよくわからないが、子どもたちの姿を語り合う授業研究を毎月繰り返しおこない続けると、教師の授業がちっともうまくなっていなくても、子どもたちの学ぶ姿勢がよくなっていくというのです。
その理由を明確にすることで、より効果的な授業研究ができるのではないか。ぜひお願いしますという私の要請に対して、理由よりもこのやり方で学校がよくなるという現実の方が大切と返されました。うまくいくための要素を抽出しようとすることで大切なものを落としてしまうかもしれない。こうすればできるという方法が見つかればそれでいいのだということです。あくまでも目的は学校がよくなること。なるほど、そういう考え方もあるのだと感心しました。

教師に力をつけるよりも子どもに力をつける方が早い。
子どもに力をつけるために教師に力をつけるというのは無理ではないか。教師に力をつけることを考えるのではなく、どういうことをすれば子どもに力がつくのかを考える方がてっとり早いというのです。教師に力をつけるのは手段であって、目的ではありません。先ほどの例もそうですが、教師に力がつかなくても子どもに力がつく取り組みがある。そういうやり方を探すという発想です。たとえば、1時間の授業中に1回はグループ活動を取り入れる。私の発想では、どういう課題に取り組ませるかといった教師の力を育てないとうまくいかないとなります。しかし、取りあえずグループ活動をすることで、子どもが勝手に力をつけていくという発想です。実際にはそんな単純ではないのですが、これも傾聴に値する考え方です。

名人の授業を追試しても力はつかない。
名人に憧れ、名人の授業を追試する方はたくさんいるが、それで授業がうまくなるわけではない。その単元、教材の授業はうまくできるようになるかもしれないが、他の場面ではうまくできない。名人の授業を追試することにあまり意味はないというのです。しかし、名人の授業を追試する過程で、授業技術を形だけまねするのではなく、なぜそこで使うのかといった意図を意識する。なぜこのような展開にしたのかを想像し、どうすれば自分でできるようになるかを考えるというように、追試を通じて力をつける方法はあるはずだし、実際にそうして力をつけた若手もいることを主張しました。それに対する回答は、それは一部の人のことであり、何十年の間、何百、何千人もの人が追試をしてきた結果、ほとんどの人は力がつかないというのが現実だ。だから、多くの人にとっては、名人の授業の追試は意味がないという結論になるということです。私の視点は、個人がどう力をつけるかというミクロのものですが、この先生の視点は、教師の力量向上の施策としてどうであるかというマクロなものなのです。立場の違いと言ってしまえばそうなのですが、こういう視点も大切にしなければならないと考えさせられました。表現は悪いですが、これをやれば理屈はどうあれうまくいくという仕掛けをつくることも大切ということです。

まず自分の学校をよくしようとすることが先決。
たくさん本を書かれたり、講演をしたりと活躍されている若手の先生が増えてきたという話になりました。その際、彼らは学校で浮いているのではないかということが話題になりました。年次休暇を取ってしょっちゅう講演にでかけている。子どもたちを置き去りにしているのではないか。学校で果たすべき役割を果たしていないのではないか。よそで講演する前に目の前の子どものこと、自分の学校のことをもっと考えるべきだというのです。そういう先生と面識はあるのですが、実際のところご自分の学校でのことはよくわかりません。ともあれ、どんな立場であろうと教師としては忘れてはならないことだと思います。

お酒を飲んで調子に乗っていたので、記憶から落ちていることもたくさんあるはずです。それでも、ここに書いたのは私の記憶に残っている話題のほんの一部です。どれだけ学びの多い時間だったか想像がつくと思います。ご一緒させていただいた先生方、そして私を誘ってくれたT先生、本当にありがとうございました。皆さんのおかげで本当に素敵な時間を過ごすことができました。

義務教育はただ!?

先日、お母さん方のこんな会話を小耳にはさみました。

「大学の授業料は高いわね」
「入学金も高いわよ」
「小中学校はただなのにね」

大学にお金がかかるというくだりはまだ納得できるのですが、「小中学校はただ」というのはちょっと感覚が違うのではないかと思いました。保護者の負担が原則ないという意味では「ただ」かもしれませんが、莫大な税金が投入されています。教師の給与、建物の減価償却、水道光熱費など諸々を考えると、1校当たり小規模校でも億単位、規模の大きい学校では10億を優に超えるお金がかかります。それだけのお金が義務教育には投入されているのです。
小中学校の保護者は若い世代が多いと思います。払っている税金の額よりも、お子さんに投入されている税金の方が多い方が、多数なのではないでしょうか。未来の社会を担う子どものためにそれだけの投資がされているのです。逆説的に言えば個人の費用で公教育と同程度の教育を受けることはとても難しいということです。私学や高等教育でも税金からの補助金がなければ経営は成り立たないことも知っていてほしいことです。
教育は個人的なものと思われがちですが、社会としての要素がとても大きいのです。そういう意味でも保護者は子どもに義務教育を受けさせる社会的な義務があるのです。

教育は社会的な投資であり、当然ながらお金がかかっている。子どもたちのために保護者に代わって社会が教育の費用を負担している。この当たり前のことをもっと学校はアッピールすべきではないでしょうか。
子どもがふざけて教室の窓ガラスを割っても、義務教育だから金を払う必要がないと主張される保護者もいます。学校が負担すればその分他にしわ寄せがいきます。教師が給食費の滞納家庭に連絡を取ることや、支払のお願いに家庭を訪問することに貴重な時間を費やする。そのためのコストはバカになりません。教師の本来の業務の時間を圧迫しているのです。もちろん家庭の事情もあるかもしれませんが、払えないとはどう見ても思えない方がほとんどです。「払わなくても、食べさせないようなことはしないから大丈夫」といった情報を流している方もいるようです。
もちろんこのような方は一部だとは思います。しかし、教育に大きなコストがかかるということを意識している方は少ないように感じます。

大きな額が投下されているといっても、学校の予算は決して潤沢ではありません。保護者に代わって社会が大きな負担をしていることを認識し、せめて最低限の負担には快く応じていただきたいと思います。お金のことはなかなか言いにくいことかもしれませんが、学校側もこのことをしっかりと伝えることが必要だと、お母さん方の会話を聞いて思いました。

ベテランが変わるきっかけを考える

ベテランは変わりにくいということがよく言われます。たしかになかなか変わろうとしない方もいらっしゃいます。しかし、驚くような変化を見せてくれるのもまたベテランなのです。いつも言っていることなのですが、ベースとなるものがしっかりあるだけに、きっかけがあれば大きく進歩できるのです。よい方向に変わっていく学校は、その過程で必ずと言っていいほどベテランの変化が見られます。ベテランが変わることが、学校がよくなる条件のようにも思えます。では、ベテランが変化するきっかけはどのようなことなのでしょうか。

一つは、若手からの刺激です。ベテランは自分のスタイルが確立されています。他者の授業を見て、「そういうやり方もある」と認めても積極的に取り入れようとはあまりしません。しかし、若手の授業での子どもの姿が自分の目指すものに近いと話が変わります。経験の浅い者が自分の域に近づいてくるとプレッシャーを感じます。よい意味でプライドの高い方ほどその傾向が強いようです。経験が少なくても若手が子どもを育てることができた理由をさぐり、その要素を自分の授業に取り入れようとします。もともと力のある方たちなので、すぐに授業は変わっていきます。子どもがよい方向へ変わりだす手ごたえを感じれば、継続的に授業改善に取り組むようになります。

一方、自分の授業に課題を感じているベテランもかなりいらっしゃいます。しかし、ベテランだからこそ、なかなか同僚には相談しづらいところがあります。また、自分の授業スタイルを大きく変えるには勇気がいるものです。課題を感じていてもなかなか変わることができないでいるのです。ところがこういう方も、授業改善につながるちょっとしたヒントや授業技術に出会うと、それをきっかけとして変わっていくことがあります。授業スタイルを大きく変える必要がないものであれば、気軽に試すことができます。たとえちょっとしたことでも、ベテランの経験と組み合わせることで思った以上の効果を見せることもあります。些細なことでも授業を変えてくれることを経験すると、今度は積極的に新しいことを吸収し、挑戦しようとし始めるのです。

いずれにしても、ベテランだからこそ挑戦さえすれば結果を出せるのです。問題はここで述べたようなきっかけをどうやってつくるかです。若手の授業づくりにベテランをアドバイザーとして参加させることやワークショップ形式の実践的な授業研修を学校全体でおこなうことなど、ベテランを巻き込むような取り組みが必要になります。ベテランが変わっていく学校は、こういったことを積極的におこなっています。ベテランは変わらないと決めつけて若手だけに注目するのではなく、ベテランの変化をうながすことも視野に入れた取り組みを考えてほしいと思います。

高校入試問題に挑戦して考える

本日は愛知県の公立高校入試Bグループの面接試験です。多くの受験生にとってはこれが最後の試験となることと思います。教師時代は共通一次試験(現センター試験)や愛知県の公立高校入試の問題は、全教科に目を通すようにしていました。それぞれの教科でどのような力が子どもたち求められるかを知ることは、教える側にとってもとても大切なことだと考えていたからです。
どなたも自分の専門教科はチェックされますが、他教科に関してはあまりしっかりとは見てないように感じます。ちょっと意地悪な言い方をすれば、高校入試は義務教育の範囲ですから、基本すべて解けるはずです。他教科を解くということは、教える側ではなく子どもの視点に立つことになります。また、子どもたちは全教科を受験するわけですから、同じように教師も全教科を解いてみることで、子どもの立場でどんな学習が必要かに気づくことができるのです。

今回、新聞に掲載された筆記試験問題にちょっと力を入れて挑戦してみました。
どの教科にも共通して感じるのは、細かい知識を要求していないことです。その代り、一つの知識があればすぐに解けるという問題は少なくなっています。基本的な知識を組み合わせて考えることで初めて正解にたどり着けるように工夫されています。出題者の意図がよく伝わります。

数学は私の専門教科なので、紙と鉛筆を一切使わずに頭の中だけで解くことにしています。紙と鉛筆がなければ解けない問題は、ちょっと複雑か計算が面倒なものということになります。今回は紙と鉛筆の出番はありませんでした。簡単だということではありません。面倒な計算に時間を割かせるのではなく、考えることを重視しているのです。
社会科の細かい知識はもうすっかり忘れています。しかし、資料を読み取る力、社会人としての基礎的な知識や大きな歴史の流れをつかんでいれば、確実に解くことができます。
理科も、基礎的な知識やモデルをもとに、推論するといった論理的な力が要求されます。
国語は感覚ではなく、本文に書かれていることを根拠にしなければ解けないように設問が工夫されています。文章自体は難しいわけではありませんが、解答するために何度も本文に戻りました。
英語は、難しい単語や構文を知らなければ解けない問題はありません。しかし、問題の文章で示されているsituationを理解できなければ解答できないように工夫されています。コミュニケーションを意識した問題と感じました。

全教科に共通することは、知識の総量よりも考える力を要求しているということです。私が興味を持ったのは、受験対策をしている塾ではどのようにして教えているのかということです。問題のパターンを分析して解き方を教えているのでしょうか。もしそうであれば、子どもたちはたくさんのパターンを覚えることになります。パターンが変われば対応できません。不毛な学習方法になります。思考力をつけるのであれば、自分で考え、考え方を発表したり、議論したりすることが必要になってくると思います。受け身では力がつきません。よほど基礎となる思考力がなければ、集団でのかかわり合いが不可欠です。個別学習では、問題の答を教えることができても、子ども自身で気づくための働きかけをよほど工夫しなければ思考力はつきません。そのようなノウハウがあるのならすごいことです。しかし、私の知る高校生の実態は、勉強は覚えることだと錯覚している子がほとんどです。
これは学校でも同じことです。思考力は教えることでは身につきません。子どもが自分の問題として考える経験をたくさん積まなければいけません。

受験対策を口にする先生の授業が、知識伝達型がほとんどというのも不思議な気がします。こいう方は入試問題を見て、「こういう問題を教えておかなければ」「このパターンを事前に教えておいてよかった」といった感想を持たれているのではないでしょうか。このことがいかに教育の本質から外れているかは、説明する必要はないでしょう。
一方子ども同士のかかわり合いを大切にしている先生方はどうなのでしょうか。こういう入試問題は歓迎すべきはずです。もし子どもたちがこういう問題で点が取れないなら、「活動している」が「考えていない」授業だということです。知識が足りなくて解けないのなら、基礎的な知識すら身についていないということです。

日ごろ私の授業アドバイスでは、試験の結果がどうであったかをあまり話題にしません。それ以前の段階の授業がまだまだ多いからです。しかし、先生方の授業力の向上にともない、こういうことも話題にしていく必要があるように思いました。
ちなみに、入試問題に挑戦した結果は、とりあえず義務教育卒業レベルは維持できていたようでした。(笑)

トータルコストを意識する

昨日参加した会議の合間に出た話題で、考えさせられることがありました。

営業の担当者が、顧客からの「こういう機能を付けてほしい」という要望を、文字通りそのまま開発の担当に伝えていることがよくあるのだそうです。開発の側からすれば、その機能が必要な理由やその機能をつけることで何を期待するのかがわからなければ、細かい仕様を決定することはできません。場合によっては、他の機能で代替するなど、別の実現方法を提案した方がよりよくなることもあります。しかし、情報がなければ何ともしようがないので、営業担当者に再度確認をお願いすることになります。きちんと情報を顧客から聞き取って伝えることはお願いしているはずですが、これがなかなかできないようなのです。
その原因の一つに、営業担当が忙しいことがありそうです。時間をかけて聞き取りをしていられない。要望を開発担当に伝えれば、取り敢えず前へ進む。その場はしのげる。そういう心理が働くのでしょう。

似たことにパソコンやケータイの設定の話があります。たとえば、メールの設定がわからないので教えてほしいと頼まれたときのことです。後々のことを考えて一つひとつの項目の意味を説明しながら進めると、何をすればよいかだけでいいと言われてしまうことがよくあります。結局、手順だけを教えることになりますが、別の機械に設定するときには、また一から説明をし直すことになります。たまのことなので、理解する手間をかける方が時間のムダと考えるのでしょう。

ここには、大きく2つの問題があるように感じられます。1つは自分の都合を優先して、相手のことを考えていないことです。1つ目の例では、もし開発担当が言われた通りのものを作っても、その目的がはっきりしていないため顧客が満足するものにならなかったり、使ってみたところ不都合が出てまたやり直しになったりというリスクもあります。顧客の言う通りのものをつくったのだから責任はないと言い訳できても、結局作り直すのであればだれにとってもいいことはありません。2つ目の例でいえば、その場は双方とも短い時間で済んで効率的に見えますが、次の機会にはまた1から同じことの繰り返しです。教える側はそれが嫌なので、次回は自力でできるようにと一つひとつ意味を説明しているのですが、聞く側はそのことを想像できないのです。
もう1つは、目先の結果だけを見て、先を見ていないということです。今は時間とエネルギーを節約できたように見えても、結局は何度も同じことの繰り返しになってちっとも先に進めないのです。このことは学校の現場でもよく見られます。答を教えて、手順を教えてという姿勢です。取り敢えず目先の試験で点を取れればよいという、その場しのぎの考え方です。そのような態度で勉強しても身につかないので、受験の前になって、もう一度はじめからやり直すという情けないことになってしまいます。本当に学力をつけるためには、基礎基本に時間をじっくりかけることが必要です。時間をかけて身につけたことはなかなか消えません。しっかりした土台ができると、ある時点から急速に伸びます。結果的により早く、より高いゴールに到着できるのです。
いずれにしてもトータルコストという考え方が欠落していると言えます。自分だけでなく、かかわる人すべての時間とエネルギーを考える。今だけでなく、将来も見通してトータルで費やす時間とエネルギーを考える。こういう視点がないのです。

このことは、個人の資質と言い切るわけにはいかないと思います。元来、教育の現場できちんとこのことを理解させ、そういう姿勢を身に着けさせているべきなのです。それができていないから話題になるのです。いかに効率的に答や手順を教えるかに力を注いでいる授業。試験に出るところを「大切」だと言って覚えさせる教師。いや、それ以前に校務処理のようすなどを見ていると、教師自身がトータルコストを意識できていないと思う場面にたくさん遭遇します。これでは、子どもたちにトータルコストを意識させることはできるはずがありません。
ちょっとした話題から、あらためて学校現場でトータルコストを意識することの必要性に思いを巡らせました。

卒業式で学校と地域の連携を考える

昨日は、中学校の卒業式に来賓として参加させていただきました。

学校評議員として、日頃から行事等での子どもたちの姿を見せていただいているので、彼らの晴れ姿には感慨深いものがあります。私たちの席からは男子しか見ることができませんでしたが、子どもたちがこの式にどのような思いを持って参加しているのかとてもよくわかりました。
特に合唱での体を揺り動かしながら自分たちの思いを振り絞るようにして歌う姿は、一人ひとりがこの3年間、この学校で素晴らしい時を過ごしてきたこと示していると思いました。

この学校では地域との連携をとても大切にし、色々な活動やイベントを子どもたちと地域が一緒になって企画・運営しています。子どもたちと共通の時間を過ごした地域の方がたくさんいらっしゃいます。ふとその中心となっている方に目を向けると、泣いておられました。卒業式の雰囲気に流されて泣かれたのではありません。子どもたちの成長を願うが故に、時には厳しい態度で接したこともあったはずです、ぶつかることもあったでしょう。そういう濃密な時間を共に過ごしたからこそ、彼らの成長した姿を、保護者や先生と同じように誇らしく思い、感動して涙したのです。

最近は学校と地域の連携がよく言われますが、廃品回収や校庭整備といった学校に対する物理的なサポートのお願いにとどまっているところが多いように感じます。地域の方が子どもたち一人ひとりと直接かかわらなければこのような素晴らしい涙は見ることはできないでしょう。来賓の多くが、子どもたちとのエピソードを持っている方々でした。来賓控室では、卒業生との思い出話も聞こえてきます。
子どもたちの成長した姿に感動するとともに、学校と地域の連携がもたらしてくれるものが何かを感じることができた、とても素晴らしい卒業式でした。

「授業から学ぶ」とは

今年度の授業アドバイスは先週で終了しました。おかげさまでたくさんの授業を見る機会をいただきました。授業を見せていただいて気づくことがたくさんあります。毎年延べ数百人の授業を見ていることになりますが、いまだにその学びは尽きることがありません。というか、年々増えているように思います。私が授業から学ぶために、どのようなことを意識しているか少し書かせていただきます。

授業中に教師ばかりを見ていると、授業技術にとらわれてしまいます。説明の仕方、指名の仕方、板書の仕方、机間指導の仕方、・・・。どうしても批評家的に見てしまいます。これではダメだ、こうした方がよい。こんな目で見てしまうのです。もちろん名人・達人級の方の授業では、これは素晴らしい、なるほどこういう対応もあるのかと感動することがたくさんあるのですが、それでも冷静に、ここはこういうことを意図して、こういう技術を使ったのだなと分析していたりしています。私の場合、教師を見ることで学べることは実はあまり多くはないのです。
いつも多くを気づかせてくれるのは子どもです。子どもたちは、興味を持てば、目が輝いてきます。集中した瞬間、学級の空気が変わります。わかった瞬間に、思わず声を出したり、わからなくて頭を抱えたりもします。悲しい、悔しい思いに、時には涙を流すことさえあるのです。そんな教室のドラマから、実にたくさんのことが学べるのです。

同じような授業展開や教師の対応でも、子どものようすや反応は全く違うことがあります。それまでに子どもたちがどのような経験をしていたのか、どれだけ育っていたのか、その背景を想像します。ほんのちょっとした教師の言葉の違いが子どもの動きを変えてしまったのかもしれません。時間を空けて同じ学級をみると、大きくそのようすが変わっていることもあります。きっと子どもを変える何かがあったはずです。それは、何かを探ります。
子どもの姿から、子どもの視点から授業をながめると授業の風景は大きく変わります。教師だけを見ていれば、同じような展開の授業を2度見てもそこで学べることは増えません。しかし、子どもを見れば、必ず違いがあるはずです。逆に違いがなければ、その課題なり、授業の展開なりが本来持っている力だということです。授業を見ただけ学びが増えるのです。

私の若いころは、同僚の授業を見る機会はあまりありませんでした。わずかながらも私が教師として成長できた理由を考えてみると、子どもが私にその姿で大切なことを教えてくれたのだと気づきます。授業中に突然立ち上がり「わからーん」と叫んだ子ども、私の不用意な一言に涙を流した子ども、「よくわかった」と言っていたのに試験はさんざんだった子ども、・・・。その背景、理由を考え、どうすればいいのかを悩んだから、こんな私でも少しは成長し続けることができたのです。

子どもから学ぶ姿勢を持てば、他者の授業を見る機会がなくても、毎日の授業が即、教師としての学びの場に変わります。自分の毎日の授業から学べるのです。ですから、私は若い先生への授業アドバイスを頼まれた時、その先生の授業を見るより先に、まず一緒に他の先生の授業を見に行くのです。教師を見ずに子どもだけを見ます。そこに見える子どもの姿は、教師が日ごろ教壇から見る世界です。その子どもの姿から何がわかるか、何を知らなければいけないのか、それを伝えるのです。

「授業から学ぶ」とは「子どもから学ぶ」と言い変えてもいいと思います。この視点を持つことができれば、どんな授業からも学ぶことができます。子どもの成長を手伝うのが教師の仕事です。その子どもの姿からの学びが多いというのは当たり前のことかもしれません。しかし、そのことに気づいていない先生が多いのもまた事実です。
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