言葉にならないメッセージを受け止める

授業で子どもを見ることは大切です。子どもは言葉で「わかりません」「集中していません」と言ってくれません。子どもの様子からそのメッセージを読みとる必要があります(子どもの「何」を見る参照)。教師は子どもからの言葉にならないメッセージをどう受け止め、応えていけばよいのでしょうか。

わかりやすいのは、うなずく、首をかしげるでしょう。うなずいていれば、「わかっている」「納得している」、首をかしげていれば「わからない」「理解できない」という反応です。問題はその反応をどのようなメッセージと受け止め、どう対応するかです。うなずいていれば、安心して先に進めればよいのでしょうか。
多くの子どもが反応していないのに、数人の子どもがうなずいていれば、「先生、大丈夫。私たちはわかっているよ。助けてあげられるよ」というメッセージとも取れます。「○○さん、うなずいてくれたね。それってどういうこと」「納得した。どこで納得したか聞かせてくれる」と水を向け、その子どもの理解をみんなで共有するという対応もあります。
首をかしげるということは、「わからないとは声に出して言えない。でも、先生助けて」そういうメッセージとも取れます。「○○さん首をかしげてくれたね。いいよ、そうやって反応してくれるとうれしいな。何か困ったことがあるの? 聞かせてくれる」とその子どもの困り感に寄り添い、みんなで共有することで他のつまずいている子どもたちも巻き込んで解決していくこともできます。
このように子どもの反応をメッセージだと受け止めて取り上げていくと、次第に子どもは反応するようになっていきます。

教師が板書を始めるとすぐに鉛筆を取ってノートに写す。とてもよい姿にも見えますが、それまで真剣に話を聞いている様子がなければ、「ノートさえ取っておけば困らない」「先生の話はノートを取ることよりも価値がない」というメッセージとも取れます。
教師の話を聞くときに体が後ろに反っていれば、「先生の話はあまり聞きたくない」「とりあえず聞いているふりだけはしていよう」というメッセージかもしれません。

話は少しそれますが、教師が腕組んで、体を反らし気味に子どもの発言を聞いていれば、「私は君たちよりも偉い」「君の話を評価してやる」「間違いがどこか見つけよう」というメッセージと取られることもあります。体をかがめ、前向きな姿勢で聞けば、「どんななこと言ってくれるか、しっかり聞くよ」「どんな話か楽しみだ」、うなずけば、「なるほど」「いいね」というメッセージにもなります。教師も自分が発する言葉にならないメッセージに敏感になる必要があります。

また、グループ活動を取り入れている教室で、教師の説明が終わってグループ活動に移るとき、子どもが伸びをすることがあります。「やっと話が終わった」「退屈だった」というメッセージに思えます。

これらのメッセージに対してどう応えるのでしょうか? 話を短く切り上げるのも対応の一つです。教師の説明ではなく、できるだけ子どもの発言をつないで理解させようとすることもよいでしょう。
どのような対応をするにしても、教師がこのメッセージを受け止めることができなければ話になりません。話を聞かずに窓の外を見ている。「この子はやる気のない、反抗的な子どもだ」と思うのか、「授業がつまらない。わからない。そのことに先生気づいて」というメッセージと受け取るのかで大きく変わります。何も反応しない子どもがみんな、授業に集中して参加し、内容を理解しているわけでありません。一見ネガティブに見えても、反応をしてくれるということは教師に対してメッセージを送ってくれていることだと考え、そのメッセージを受け止めようとする姿勢が大切です。
子どもの言葉にならないメッセージを受け止められる教師を目指してほしいと思います。

板書を写すタイミングをコントロールする

教師が板書をしているときに、ある子どもはノートに写す、ある子どもはじっと板書を見ている。子どもたちの動きがばらばらで気になることがよくあります。板書を写すタイミングは教師がコントロールしないと、板書を使って説明しているのに写している子がいたり、「では、写して」と指示した時には写し終わっていてだれてしまう子どもが出たりします。以前にも書きましたがルール化しておくことが有効な方法の一つです(ルール化する参照)。

原則は「教師が指示しなければ板書は写さない」だと思います。そうしなければ、教師が板書を使って説明しているときに、まだノートを写していて聞けない子どもがでてきます。このルールを徹底するためには、教師は板書に専念してはいけません。ときどき子どもたちの様子を見なければ、どうしてもノートを開いてしまう子どもは出てきます。「ノートを写すのはいつだった」「先生が写してと言わないのに写してはダメだよ」とやさしく注意して徹底させることが大切です。そうならないためには、「静かに先生が書くことを読んでいてね」「教科書の○○ページを読んでいてね」というように教師が板書をしている間にするべきことを指示しておく必要もあります。「今から書くことで一番大事なことは何か見つけてね。後で聞くから」と課題を与えることも効果的です。

板書の量が多く、後で写す時間が取れないときには、「できるだけ速く写してね。鉛筆の先から煙が出るくらい(有名な指示ですね)」「先生と同じ速さで書こう」というように速く書くことを指示します。教師が書き終わった後、全員が書き終えていないのに待ち切れずに説明を始めることも避けられます。こういうときにICTはとても有効です。素早く見せることで無駄な時間をなくすことができます。また、子どもが写すことにあまり意味がないのであれば、あらかじめ印刷しておいて後から渡してもよいでしょう。

また、内容によって素早くノートに写すことをルール化することもあります。「今日の課題はこれです」と言って教師が板書を始めると、すぐに全員が鉛筆を持って素早く写し始める学級があります。これは、「今日の課題」はすぐに写すということがきちんとルール化されている例です。何を素早く写すのか教師が明確にしておいてルール化するのも有効な方法です。

板書を写すタイミングを教師がコントロールするということは、自分が板書をしているときに子どもたちにどのような行動をとってほしいか明確になっているということです。どんな時に写してほしいのか、写してほしくないのかがはっきりしていればルール化も簡単です。また、指示も板書を始める前にきちんとできます。教師が板書を始めてから子どもたちの様子に気づいて、「写して」「写してはダメ」と指示をしているようではいけないのです。子どもたちが板書を写すタイミングを意識して、きちんとコントロールすることを心掛けてください。

授業に「まくら」は必要か?

若い先生の授業を見ると、導入の場面で子どもの興味を引くためにおもしろい話をして教室のテンションを上げていることがよくあります。しかも、その話が学習内容と直接関係ないことも多いのです。根拠を求めないクイズなどもよく見かけます。落語でいうところの「まくら」のようなものです。授業に「まくら」は必要なのでしょうか? なぜ授業で「まくら」が必要だと思うのでしょうか。

一つは彼らの経験上、授業で印象に残っているのがそういう学習内容には直接関係ないがおもしろい話だったからではないでしょうか。先日かつての教え子と私の授業の話になったとき、彼女たちが一番覚えていたのは教科と関係ない無駄話のことでした。ひどい授業をしていたのだと思い知らされました。恥ずかしいことです。
楽しい授業にしたいと思った時に思い出すのがそのような場面のために、どうしてもそこに引っ張られてしまうのでしょう。学習内容で楽しいと思わせる授業を経験させていない私たちにも責任があるようです。

もう一つは、彼らが受け手になる、学ぶ立場になる講演や公開授業、飛び込み授業などでは必ずと言っていいほど「まくら」があることです。そのため、「まくら」は授業に必要なものだと思ってしまうのです。
講演などで「まくら」が必要なのはまず互いに初対面だからです。当然どうしても緊張関係にありますから、それをほぐすために笑いが必要になってくるのです。また、場を温めると同時にその反応から、失礼な言い方ですが聞き手のレベルを探ります。飛び込み授業であれば、子どもたちがどのくらい鍛えられているかをチェックします。ちょっとしたクイズで緊張をほぐし、その時の反応、挙手・発言の様子や内容などから日ごろどのように授業を受けているかを知り、必要に応じて自分の授業のルールを伝えたりもします。たとえ自分の学級であっても、大勢の参観者がいるときは子どもたちが緊張しますので、こういった「まくら」が必要になるのです。

新しい環境への導入、たとえば学級開きや4月の初めての教科の授業、こういう場面では「まくら」はとても大切です。最初の人間関係をつくるには、笑いなどで緊張をほぐし、互いを知ることはとても効果的です。しかし人間関係ができれば、授業の導入で無駄にテンションを上げる必要はありません(授業の導入を考える参照)。もちろん授業の内容につながることに興味関心を持たせる話や笑いを否定しているわけではありませんが・・・。

個別指導が最良の方法ではない

少人数授業を見たり、先生方とお話したりして感じるのは、できない子どもに対しては個別指導が一番の解決方法のように考えられていることです。教師ができない子どもを直接教えればできるようになる。時間的に余裕があれば、個別に指導できるのに残念だ。そう考えられているようなのです。巷でも個別指導塾が流行っているようです。家庭教師も相変わらず需要があるようです。個別指導が最良の方法なのでしょうか。

教師は基本的に正解を知っている、正しいことを言う。学習場面で絶対者です。多くの子どもは教師の言うことを疑うことができません。教師の言う通りにすればできる。教師の指示に従わなければならない。教師の説明を理解しなければいけない。たとえわからないところを自らたずねたとしても、教師が説明し始めれば、基本受け身になってしまうのです。
しかし、学習は自分で考えることが大切です。この考えでいいのか、他にはないのか。自分の考えの方向性が正しいかどうか、自分で判断することも重要です。また、他者の考えを無批判に受け入れるばかりではいけません。その考えを理解し、それが正しいかどうか判断することが必要です。

私は、教師ではなく友だちにたずねることを大切にするように言っています。授業中に教師がわからない子ども全員に個別対応することは不可能だからです。しかし、理由はそれだけではありません。友だちは基本自分と同じ立場です。「あれ、そうなのか?」と疑問をはさむこともできます。教師のように理路整然とはしていないので、相手の言っていることがすぐに理解できないこともあります。咀嚼する過程で、自分で気づけることもあります。教師が個別に教えるよりも、子どもにとってはより学びが多いのです。

個別指導は一つ間違えれば、学習形態の中でも究極の受け身を強いるものになります。個別指導の塾などで学習してきた子どもの中には、自分では何をどう勉強すればよいのかすらわからず、常に教師を頼るようになってしまっている者もいます。個別指導に頼るだけでなく、子ども同士に任せることも積極的に選択肢の中に入れてほしいと思います。
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