講師を囲む会で大いに学び、考える

昨日は、市の研修会の講師の先生を囲む会に参加させていただきました。おいしい料理とお酒でしたが、メインは先生方とのお話。教育についての内容の濃い話が続きました。その中で印象に残った話題を少し紹介します。

一斉授業を標榜する先生も、実は協同学習をしている。
一斉授業であっても、子どもが受け身であってはいけません。活発に意見を言い合っているように見えても、多くの子どもは傍観者であることがよくあります。一人ひとりの子どもが主体的に出力する場面が必要です。そのためにはどうしても、ペアやグループでの活動は外せないというわけです。

「教科書で教える」というが何を教えるのか明確でない。
「教科書で教える」というが何を教えるのかと質問しても具体的にできない人が多い。何を教えるのか明確にできないのであれば、「教科書を教える」ことをきちんとする方がよいというわけです。教科書は大変よくできています。教科書のねらいがわからない人でも、そのまま教えることで十分に目的を達成できるようにつくられている。そういうことなのかもしれません。
「教科書を教える」「教科書で教える」にかかわらず、単元や教材の持つ意味、どういう力をつけたいのかを意識して授業をしてほしいというのが私の願いです。教科書のねらいや編集の意図を理解することなしに、「教科書を」「教科書で」という議論は「?」と思うのです。ねらいや意図を理解することが難しいから、「教科書を教える」なのですよという声が聞こえてきそうですが・・・。

子どもたちの姿を語り合うだけで学校が変わる。
子どもたちの姿を語り合うだけの授業研究で本当に学校がよくなるのか。その子どもの姿をつくった要因を考え、どうすればよいのか議論する必要があるのではという考えに対してのある先生の回答です。何人もの先生が子どもたちにかかわる中学校と違って、ほぼ一人の教師が子どもたちを教える小学校でも言える。その理由はよくわからないが、子どもたちの姿を語り合う授業研究を毎月繰り返しおこない続けると、教師の授業がちっともうまくなっていなくても、子どもたちの学ぶ姿勢がよくなっていくというのです。
その理由を明確にすることで、より効果的な授業研究ができるのではないか。ぜひお願いしますという私の要請に対して、理由よりもこのやり方で学校がよくなるという現実の方が大切と返されました。うまくいくための要素を抽出しようとすることで大切なものを落としてしまうかもしれない。こうすればできるという方法が見つかればそれでいいのだということです。あくまでも目的は学校がよくなること。なるほど、そういう考え方もあるのだと感心しました。

教師に力をつけるよりも子どもに力をつける方が早い。
子どもに力をつけるために教師に力をつけるというのは無理ではないか。教師に力をつけることを考えるのではなく、どういうことをすれば子どもに力がつくのかを考える方がてっとり早いというのです。教師に力をつけるのは手段であって、目的ではありません。先ほどの例もそうですが、教師に力がつかなくても子どもに力がつく取り組みがある。そういうやり方を探すという発想です。たとえば、1時間の授業中に1回はグループ活動を取り入れる。私の発想では、どういう課題に取り組ませるかといった教師の力を育てないとうまくいかないとなります。しかし、取りあえずグループ活動をすることで、子どもが勝手に力をつけていくという発想です。実際にはそんな単純ではないのですが、これも傾聴に値する考え方です。

名人の授業を追試しても力はつかない。
名人に憧れ、名人の授業を追試する方はたくさんいるが、それで授業がうまくなるわけではない。その単元、教材の授業はうまくできるようになるかもしれないが、他の場面ではうまくできない。名人の授業を追試することにあまり意味はないというのです。しかし、名人の授業を追試する過程で、授業技術を形だけまねするのではなく、なぜそこで使うのかといった意図を意識する。なぜこのような展開にしたのかを想像し、どうすれば自分でできるようになるかを考えるというように、追試を通じて力をつける方法はあるはずだし、実際にそうして力をつけた若手もいることを主張しました。それに対する回答は、それは一部の人のことであり、何十年の間、何百、何千人もの人が追試をしてきた結果、ほとんどの人は力がつかないというのが現実だ。だから、多くの人にとっては、名人の授業の追試は意味がないという結論になるということです。私の視点は、個人がどう力をつけるかというミクロのものですが、この先生の視点は、教師の力量向上の施策としてどうであるかというマクロなものなのです。立場の違いと言ってしまえばそうなのですが、こういう視点も大切にしなければならないと考えさせられました。表現は悪いですが、これをやれば理屈はどうあれうまくいくという仕掛けをつくることも大切ということです。

まず自分の学校をよくしようとすることが先決。
たくさん本を書かれたり、講演をしたりと活躍されている若手の先生が増えてきたという話になりました。その際、彼らは学校で浮いているのではないかということが話題になりました。年次休暇を取ってしょっちゅう講演にでかけている。子どもたちを置き去りにしているのではないか。学校で果たすべき役割を果たしていないのではないか。よそで講演する前に目の前の子どものこと、自分の学校のことをもっと考えるべきだというのです。そういう先生と面識はあるのですが、実際のところご自分の学校でのことはよくわかりません。ともあれ、どんな立場であろうと教師としては忘れてはならないことだと思います。

お酒を飲んで調子に乗っていたので、記憶から落ちていることもたくさんあるはずです。それでも、ここに書いたのは私の記憶に残っている話題のほんの一部です。どれだけ学びの多い時間だったか想像がつくと思います。ご一緒させていただいた先生方、そして私を誘ってくれたT先生、本当にありがとうございました。皆さんのおかげで本当に素敵な時間を過ごすことができました。

義務教育はただ!?

先日、お母さん方のこんな会話を小耳にはさみました。

「大学の授業料は高いわね」
「入学金も高いわよ」
「小中学校はただなのにね」

大学にお金がかかるというくだりはまだ納得できるのですが、「小中学校はただ」というのはちょっと感覚が違うのではないかと思いました。保護者の負担が原則ないという意味では「ただ」かもしれませんが、莫大な税金が投入されています。教師の給与、建物の減価償却、水道光熱費など諸々を考えると、1校当たり小規模校でも億単位、規模の大きい学校では10億を優に超えるお金がかかります。それだけのお金が義務教育には投入されているのです。
小中学校の保護者は若い世代が多いと思います。払っている税金の額よりも、お子さんに投入されている税金の方が多い方が、多数なのではないでしょうか。未来の社会を担う子どものためにそれだけの投資がされているのです。逆説的に言えば個人の費用で公教育と同程度の教育を受けることはとても難しいということです。私学や高等教育でも税金からの補助金がなければ経営は成り立たないことも知っていてほしいことです。
教育は個人的なものと思われがちですが、社会としての要素がとても大きいのです。そういう意味でも保護者は子どもに義務教育を受けさせる社会的な義務があるのです。

教育は社会的な投資であり、当然ながらお金がかかっている。子どもたちのために保護者に代わって社会が教育の費用を負担している。この当たり前のことをもっと学校はアッピールすべきではないでしょうか。
子どもがふざけて教室の窓ガラスを割っても、義務教育だから金を払う必要がないと主張される保護者もいます。学校が負担すればその分他にしわ寄せがいきます。教師が給食費の滞納家庭に連絡を取ることや、支払のお願いに家庭を訪問することに貴重な時間を費やする。そのためのコストはバカになりません。教師の本来の業務の時間を圧迫しているのです。もちろん家庭の事情もあるかもしれませんが、払えないとはどう見ても思えない方がほとんどです。「払わなくても、食べさせないようなことはしないから大丈夫」といった情報を流している方もいるようです。
もちろんこのような方は一部だとは思います。しかし、教育に大きなコストがかかるということを意識している方は少ないように感じます。

大きな額が投下されているといっても、学校の予算は決して潤沢ではありません。保護者に代わって社会が大きな負担をしていることを認識し、せめて最低限の負担には快く応じていただきたいと思います。お金のことはなかなか言いにくいことかもしれませんが、学校側もこのことをしっかりと伝えることが必要だと、お母さん方の会話を聞いて思いました。

ベテランが変わるきっかけを考える

ベテランは変わりにくいということがよく言われます。たしかになかなか変わろうとしない方もいらっしゃいます。しかし、驚くような変化を見せてくれるのもまたベテランなのです。いつも言っていることなのですが、ベースとなるものがしっかりあるだけに、きっかけがあれば大きく進歩できるのです。よい方向に変わっていく学校は、その過程で必ずと言っていいほどベテランの変化が見られます。ベテランが変わることが、学校がよくなる条件のようにも思えます。では、ベテランが変化するきっかけはどのようなことなのでしょうか。

一つは、若手からの刺激です。ベテランは自分のスタイルが確立されています。他者の授業を見て、「そういうやり方もある」と認めても積極的に取り入れようとはあまりしません。しかし、若手の授業での子どもの姿が自分の目指すものに近いと話が変わります。経験の浅い者が自分の域に近づいてくるとプレッシャーを感じます。よい意味でプライドの高い方ほどその傾向が強いようです。経験が少なくても若手が子どもを育てることができた理由をさぐり、その要素を自分の授業に取り入れようとします。もともと力のある方たちなので、すぐに授業は変わっていきます。子どもがよい方向へ変わりだす手ごたえを感じれば、継続的に授業改善に取り組むようになります。

一方、自分の授業に課題を感じているベテランもかなりいらっしゃいます。しかし、ベテランだからこそ、なかなか同僚には相談しづらいところがあります。また、自分の授業スタイルを大きく変えるには勇気がいるものです。課題を感じていてもなかなか変わることができないでいるのです。ところがこういう方も、授業改善につながるちょっとしたヒントや授業技術に出会うと、それをきっかけとして変わっていくことがあります。授業スタイルを大きく変える必要がないものであれば、気軽に試すことができます。たとえちょっとしたことでも、ベテランの経験と組み合わせることで思った以上の効果を見せることもあります。些細なことでも授業を変えてくれることを経験すると、今度は積極的に新しいことを吸収し、挑戦しようとし始めるのです。

いずれにしても、ベテランだからこそ挑戦さえすれば結果を出せるのです。問題はここで述べたようなきっかけをどうやってつくるかです。若手の授業づくりにベテランをアドバイザーとして参加させることやワークショップ形式の実践的な授業研修を学校全体でおこなうことなど、ベテランを巻き込むような取り組みが必要になります。ベテランが変わっていく学校は、こういったことを積極的におこなっています。ベテランは変わらないと決めつけて若手だけに注目するのではなく、ベテランの変化をうながすことも視野に入れた取り組みを考えてほしいと思います。

高校入試問題に挑戦して考える

本日は愛知県の公立高校入試Bグループの面接試験です。多くの受験生にとってはこれが最後の試験となることと思います。教師時代は共通一次試験(現センター試験)や愛知県の公立高校入試の問題は、全教科に目を通すようにしていました。それぞれの教科でどのような力が子どもたち求められるかを知ることは、教える側にとってもとても大切なことだと考えていたからです。
どなたも自分の専門教科はチェックされますが、他教科に関してはあまりしっかりとは見てないように感じます。ちょっと意地悪な言い方をすれば、高校入試は義務教育の範囲ですから、基本すべて解けるはずです。他教科を解くということは、教える側ではなく子どもの視点に立つことになります。また、子どもたちは全教科を受験するわけですから、同じように教師も全教科を解いてみることで、子どもの立場でどんな学習が必要かに気づくことができるのです。

今回、新聞に掲載された筆記試験問題にちょっと力を入れて挑戦してみました。
どの教科にも共通して感じるのは、細かい知識を要求していないことです。その代り、一つの知識があればすぐに解けるという問題は少なくなっています。基本的な知識を組み合わせて考えることで初めて正解にたどり着けるように工夫されています。出題者の意図がよく伝わります。

数学は私の専門教科なので、紙と鉛筆を一切使わずに頭の中だけで解くことにしています。紙と鉛筆がなければ解けない問題は、ちょっと複雑か計算が面倒なものということになります。今回は紙と鉛筆の出番はありませんでした。簡単だということではありません。面倒な計算に時間を割かせるのではなく、考えることを重視しているのです。
社会科の細かい知識はもうすっかり忘れています。しかし、資料を読み取る力、社会人としての基礎的な知識や大きな歴史の流れをつかんでいれば、確実に解くことができます。
理科も、基礎的な知識やモデルをもとに、推論するといった論理的な力が要求されます。
国語は感覚ではなく、本文に書かれていることを根拠にしなければ解けないように設問が工夫されています。文章自体は難しいわけではありませんが、解答するために何度も本文に戻りました。
英語は、難しい単語や構文を知らなければ解けない問題はありません。しかし、問題の文章で示されているsituationを理解できなければ解答できないように工夫されています。コミュニケーションを意識した問題と感じました。

全教科に共通することは、知識の総量よりも考える力を要求しているということです。私が興味を持ったのは、受験対策をしている塾ではどのようにして教えているのかということです。問題のパターンを分析して解き方を教えているのでしょうか。もしそうであれば、子どもたちはたくさんのパターンを覚えることになります。パターンが変われば対応できません。不毛な学習方法になります。思考力をつけるのであれば、自分で考え、考え方を発表したり、議論したりすることが必要になってくると思います。受け身では力がつきません。よほど基礎となる思考力がなければ、集団でのかかわり合いが不可欠です。個別学習では、問題の答を教えることができても、子ども自身で気づくための働きかけをよほど工夫しなければ思考力はつきません。そのようなノウハウがあるのならすごいことです。しかし、私の知る高校生の実態は、勉強は覚えることだと錯覚している子がほとんどです。
これは学校でも同じことです。思考力は教えることでは身につきません。子どもが自分の問題として考える経験をたくさん積まなければいけません。

受験対策を口にする先生の授業が、知識伝達型がほとんどというのも不思議な気がします。こいう方は入試問題を見て、「こういう問題を教えておかなければ」「このパターンを事前に教えておいてよかった」といった感想を持たれているのではないでしょうか。このことがいかに教育の本質から外れているかは、説明する必要はないでしょう。
一方子ども同士のかかわり合いを大切にしている先生方はどうなのでしょうか。こういう入試問題は歓迎すべきはずです。もし子どもたちがこういう問題で点が取れないなら、「活動している」が「考えていない」授業だということです。知識が足りなくて解けないのなら、基礎的な知識すら身についていないということです。

日ごろ私の授業アドバイスでは、試験の結果がどうであったかをあまり話題にしません。それ以前の段階の授業がまだまだ多いからです。しかし、先生方の授業力の向上にともない、こういうことも話題にしていく必要があるように思いました。
ちなみに、入試問題に挑戦した結果は、とりあえず義務教育卒業レベルは維持できていたようでした。(笑)

トータルコストを意識する

昨日参加した会議の合間に出た話題で、考えさせられることがありました。

営業の担当者が、顧客からの「こういう機能を付けてほしい」という要望を、文字通りそのまま開発の担当に伝えていることがよくあるのだそうです。開発の側からすれば、その機能が必要な理由やその機能をつけることで何を期待するのかがわからなければ、細かい仕様を決定することはできません。場合によっては、他の機能で代替するなど、別の実現方法を提案した方がよりよくなることもあります。しかし、情報がなければ何ともしようがないので、営業担当者に再度確認をお願いすることになります。きちんと情報を顧客から聞き取って伝えることはお願いしているはずですが、これがなかなかできないようなのです。
その原因の一つに、営業担当が忙しいことがありそうです。時間をかけて聞き取りをしていられない。要望を開発担当に伝えれば、取り敢えず前へ進む。その場はしのげる。そういう心理が働くのでしょう。

似たことにパソコンやケータイの設定の話があります。たとえば、メールの設定がわからないので教えてほしいと頼まれたときのことです。後々のことを考えて一つひとつの項目の意味を説明しながら進めると、何をすればよいかだけでいいと言われてしまうことがよくあります。結局、手順だけを教えることになりますが、別の機械に設定するときには、また一から説明をし直すことになります。たまのことなので、理解する手間をかける方が時間のムダと考えるのでしょう。

ここには、大きく2つの問題があるように感じられます。1つは自分の都合を優先して、相手のことを考えていないことです。1つ目の例では、もし開発担当が言われた通りのものを作っても、その目的がはっきりしていないため顧客が満足するものにならなかったり、使ってみたところ不都合が出てまたやり直しになったりというリスクもあります。顧客の言う通りのものをつくったのだから責任はないと言い訳できても、結局作り直すのであればだれにとってもいいことはありません。2つ目の例でいえば、その場は双方とも短い時間で済んで効率的に見えますが、次の機会にはまた1から同じことの繰り返しです。教える側はそれが嫌なので、次回は自力でできるようにと一つひとつ意味を説明しているのですが、聞く側はそのことを想像できないのです。
もう1つは、目先の結果だけを見て、先を見ていないということです。今は時間とエネルギーを節約できたように見えても、結局は何度も同じことの繰り返しになってちっとも先に進めないのです。このことは学校の現場でもよく見られます。答を教えて、手順を教えてという姿勢です。取り敢えず目先の試験で点を取れればよいという、その場しのぎの考え方です。そのような態度で勉強しても身につかないので、受験の前になって、もう一度はじめからやり直すという情けないことになってしまいます。本当に学力をつけるためには、基礎基本に時間をじっくりかけることが必要です。時間をかけて身につけたことはなかなか消えません。しっかりした土台ができると、ある時点から急速に伸びます。結果的により早く、より高いゴールに到着できるのです。
いずれにしてもトータルコストという考え方が欠落していると言えます。自分だけでなく、かかわる人すべての時間とエネルギーを考える。今だけでなく、将来も見通してトータルで費やす時間とエネルギーを考える。こういう視点がないのです。

このことは、個人の資質と言い切るわけにはいかないと思います。元来、教育の現場できちんとこのことを理解させ、そういう姿勢を身に着けさせているべきなのです。それができていないから話題になるのです。いかに効率的に答や手順を教えるかに力を注いでいる授業。試験に出るところを「大切」だと言って覚えさせる教師。いや、それ以前に校務処理のようすなどを見ていると、教師自身がトータルコストを意識できていないと思う場面にたくさん遭遇します。これでは、子どもたちにトータルコストを意識させることはできるはずがありません。
ちょっとした話題から、あらためて学校現場でトータルコストを意識することの必要性に思いを巡らせました。

卒業式で学校と地域の連携を考える

昨日は、中学校の卒業式に来賓として参加させていただきました。

学校評議員として、日頃から行事等での子どもたちの姿を見せていただいているので、彼らの晴れ姿には感慨深いものがあります。私たちの席からは男子しか見ることができませんでしたが、子どもたちがこの式にどのような思いを持って参加しているのかとてもよくわかりました。
特に合唱での体を揺り動かしながら自分たちの思いを振り絞るようにして歌う姿は、一人ひとりがこの3年間、この学校で素晴らしい時を過ごしてきたこと示していると思いました。

この学校では地域との連携をとても大切にし、色々な活動やイベントを子どもたちと地域が一緒になって企画・運営しています。子どもたちと共通の時間を過ごした地域の方がたくさんいらっしゃいます。ふとその中心となっている方に目を向けると、泣いておられました。卒業式の雰囲気に流されて泣かれたのではありません。子どもたちの成長を願うが故に、時には厳しい態度で接したこともあったはずです、ぶつかることもあったでしょう。そういう濃密な時間を共に過ごしたからこそ、彼らの成長した姿を、保護者や先生と同じように誇らしく思い、感動して涙したのです。

最近は学校と地域の連携がよく言われますが、廃品回収や校庭整備といった学校に対する物理的なサポートのお願いにとどまっているところが多いように感じます。地域の方が子どもたち一人ひとりと直接かかわらなければこのような素晴らしい涙は見ることはできないでしょう。来賓の多くが、子どもたちとのエピソードを持っている方々でした。来賓控室では、卒業生との思い出話も聞こえてきます。
子どもたちの成長した姿に感動するとともに、学校と地域の連携がもたらしてくれるものが何かを感じることができた、とても素晴らしい卒業式でした。

「授業から学ぶ」とは

今年度の授業アドバイスは先週で終了しました。おかげさまでたくさんの授業を見る機会をいただきました。授業を見せていただいて気づくことがたくさんあります。毎年延べ数百人の授業を見ていることになりますが、いまだにその学びは尽きることがありません。というか、年々増えているように思います。私が授業から学ぶために、どのようなことを意識しているか少し書かせていただきます。

授業中に教師ばかりを見ていると、授業技術にとらわれてしまいます。説明の仕方、指名の仕方、板書の仕方、机間指導の仕方、・・・。どうしても批評家的に見てしまいます。これではダメだ、こうした方がよい。こんな目で見てしまうのです。もちろん名人・達人級の方の授業では、これは素晴らしい、なるほどこういう対応もあるのかと感動することがたくさんあるのですが、それでも冷静に、ここはこういうことを意図して、こういう技術を使ったのだなと分析していたりしています。私の場合、教師を見ることで学べることは実はあまり多くはないのです。
いつも多くを気づかせてくれるのは子どもです。子どもたちは、興味を持てば、目が輝いてきます。集中した瞬間、学級の空気が変わります。わかった瞬間に、思わず声を出したり、わからなくて頭を抱えたりもします。悲しい、悔しい思いに、時には涙を流すことさえあるのです。そんな教室のドラマから、実にたくさんのことが学べるのです。

同じような授業展開や教師の対応でも、子どものようすや反応は全く違うことがあります。それまでに子どもたちがどのような経験をしていたのか、どれだけ育っていたのか、その背景を想像します。ほんのちょっとした教師の言葉の違いが子どもの動きを変えてしまったのかもしれません。時間を空けて同じ学級をみると、大きくそのようすが変わっていることもあります。きっと子どもを変える何かがあったはずです。それは、何かを探ります。
子どもの姿から、子どもの視点から授業をながめると授業の風景は大きく変わります。教師だけを見ていれば、同じような展開の授業を2度見てもそこで学べることは増えません。しかし、子どもを見れば、必ず違いがあるはずです。逆に違いがなければ、その課題なり、授業の展開なりが本来持っている力だということです。授業を見ただけ学びが増えるのです。

私の若いころは、同僚の授業を見る機会はあまりありませんでした。わずかながらも私が教師として成長できた理由を考えてみると、子どもが私にその姿で大切なことを教えてくれたのだと気づきます。授業中に突然立ち上がり「わからーん」と叫んだ子ども、私の不用意な一言に涙を流した子ども、「よくわかった」と言っていたのに試験はさんざんだった子ども、・・・。その背景、理由を考え、どうすればいいのかを悩んだから、こんな私でも少しは成長し続けることができたのです。

子どもから学ぶ姿勢を持てば、他者の授業を見る機会がなくても、毎日の授業が即、教師としての学びの場に変わります。自分の毎日の授業から学べるのです。ですから、私は若い先生への授業アドバイスを頼まれた時、その先生の授業を見るより先に、まず一緒に他の先生の授業を見に行くのです。教師を見ずに子どもだけを見ます。そこに見える子どもの姿は、教師が日ごろ教壇から見る世界です。その子どもの姿から何がわかるか、何を知らなければいけないのか、それを伝えるのです。

「授業から学ぶ」とは「子どもから学ぶ」と言い変えてもいいと思います。この視点を持つことができれば、どんな授業からも学ぶことができます。子どもの成長を手伝うのが教師の仕事です。その子どもの姿からの学びが多いというのは当たり前のことかもしれません。しかし、そのことに気づいていない先生が多いのもまた事実です。

有田先生の模擬授業で考える

本年度第7回の教師力アップセミナーは、社会科授業名人有田和正先生の模擬授業を中心とした講演でした。

有田先生の授業について誰しもが感じるのは、その圧倒的な知識量と教材研究の深さでしょう。今回特に強く感じたのが、教材研究の中でも授業構想力のすごさでした。
江戸時代の資料や事実を結びつけながら、「日本人の富士山への憧れ」というテーマに向かって進んでいきます。富嶽三十六景の1枚目「日本橋」を起点に、江戸城、富士山、高瀬舟、魚河岸、神田山、佃島、酒樽、伏見、伊丹、江戸の人口、都市づくりのインフラ、富士見櫓、富士見坂、振袖火事、江戸城天守閣喪失、富士山への江戸市民の憧れ、江戸市民への無税、家康の思惑、参勤交代、歌舞伎、富嶽三十六景「東海道程ヶ谷」、江戸時代の旅、富士登山、八百八講、伊勢参り、五百羅漢寺、女人禁制、荒幡富士、富士塚、タコマ富士とつながって、最後に服部半蔵、本能寺の変、佃村の漁師を付け加えました。途中で自己投資、学生の就職、京都のお寺、ベネチア、杭打ちへと脱線もしています。
前半は江戸の町づくり、後半は富士山への憧れ、脱線は教員の自己研鑽がそのベースにあります。
一つひとつの資料や事実については、私ごとき浅学のものでも多少は知っていることです。しかし、それらを結びつけて一つなぎの破綻のない授業にするというのは、なまなかなことではできません。今回の授業のきっかけはシアトルにある「タコマ富士」のような外国にある○○富士に興味を持たれたことにあると思います。そこから、これだけのものをつなげて一つなぎの授業にしてしまうというのは、単に知識があればできることではありません。一つひとつの知識が有田先生の中で有機的につながり、生きたものになっているからです。
知識をつなげばいい授業になるわけではありません。一つひとつの資料や事実はどれをとっても歴史を考える入口となるものばかりです。
富嶽三十六景から、江戸の文化、明治時代の浮世絵の海外流出、文明開化、印象派、・・・。
魚河岸から、水路、流通、市場、築地、・・・。
佃島から、三角州、埋め立て、漁業、のり、・・・。
家康の思惑から、武家諸法度、禁中並公家諸法度、身分制度、・・・。
参勤交代から、鎌倉時代の参勤、江戸の武家屋敷、経済効果、水戸藩の江戸定府、御三家御三卿、・・・。
私のつたない知識でも、歴史だけでなく、地理、経済、政治へとどんどん広がっていくことがわかります。
もちろん今回の授業では、これらのことを深く扱うことはされません。あくまでもテーマから大きく逸脱することは避けています。しかし、どの事柄もそれに興味を持った子どもに広い学びの世界へと誘ってくれるものばかりです。「追究の鬼」を育てるための種を蒔いているのです。

1時間の授業で教えられことはどれほどの名人でも限られています。しかし、それをきっかけとして子どもが学ぶ意欲を持てば、その学びは無限に広がっていきます。一見すると有田先生の授業は知識伝達型の授業に見えるかもしれませんが、素晴らしい学びへの扉を開くものです。とはいえ、この名人の授業を誰しもが簡単にまねできるわけではありません。中途半端にまねしても、単なる教え込みの授業になってしまいます。表面的な知識の披露ではなく、社会科としてどのようなことを考えるための知識、資料、事実なのかをしっかりと意識することが大切です。
たとえば、鎌倉幕府の成立がいつだったかを覚えることに大きな意味はありません(1192年以前であるという考えが主流となってきているようです)。同じ武士でも平氏ではなく、源氏の政権がクローズアップされることはどういうことなのか、それが世の中にどういう変化をもたらしたのか。それ以前と以後では何が大きく変わったのか。そういうことを考えるきっかけとして、鎌倉幕府の成立をとらえてほしいのです。

有田先生の素晴らしさは、その知識や教材研究の深さだけではありません。いつも笑顔を絶やさず、子どもの発言が期待したものでなくてもかならずポジティブに評価されます。子どもから考えを引き出さす技術はその知識量に負けない素晴らしいものです。
教師の基礎基本は対応の技術と読書である。基礎基本を磨き続けてほしいと訴えられます。教師が50歳を越えると、学級崩壊が起こる。学級崩壊が起きた担任の24%は50歳以上の人である。30年も先生をしていても、その間に基礎となる杭を打っていない。反省をしなければ勉強もしない。優れた授業も見ない。1年目にしたことを30回繰り返したに過ぎない。新規採用者と同じ。社会は変化したのに、自分が変わっていない。こういう人が学級崩壊を起こす。こう警鐘を鳴らされます。
80歳に近づこうとする今も、常に新しい授業づくりに挑戦されている有田先生の言葉だからこそ説得力が違います。

有田先生からはいつも多くの刺激と考えるきっかけをいただいています。今回の模擬授業の底に流れる、社会科の授業はどうあるべきかという主張から、多くのことを考えさせていただきました。また、講演の前後では授業づくりにかかわるいろいろな話を聞かせていただき、とても有意義で楽しい時間を過ごすことができました。
2日後に迫った「愛される学校づくりフォーラム2013 in東京」で有田先生がどのような模擬授業を見せてくださるのか、ますます楽しみになっています(パネリストとしては不安とプレッシャーに負けそうですが・・・)。
有田先生本当にありがとうございました。

体罰の問題をきっかけに校長の役割を考える

体罰の問題が学校を揺らしています。学校への調査もおこなわれていると思います。ここで体罰その是非を論じることはしません。体罰を知った時、校長はその教師へどう対応するのか、その苦しさと校長の役割を少し考えてみたいと思います。

体罰をしてしまうのは、指導に熱心な教師であることが多いでしょう。だからこそ、改めさせて、そのような間違いを再び犯さないように指導をするはずです。その上で考えるのが、ことを公にするかどうかです。体罰の事実があっても、それが大きなトラブルになっていなければ、処分の対象にならないように教育委員会へあえて報告しないことも十分に考えられます。その教師の将来のことを考えた温情のある校長と評価されるかもしれません。しかし、荒れている学校では力で押さえなければという教師の意識を変えることはとても難しいことがあります。「体罰もやむを得ない」という強い姿勢でなければ子どもたちを押さえることはできない。そう信じる教師は、繰り返し体罰をおこなってしまうこともあります。体罰を容認する雰囲気が学校にできてしまうことはとても危険なことです。校長として毅然とした態度で接するしかなくなります。「泣いて馬謖を斬る」のたとえもあるように、体罰の事実を報告して処分対象とせざるを得ないこともあるでしょう。当然職員の反発も出てきます。たとえ学校を支えている教師たちでも異動してもらわなければいけないかもしれません。校長として学校経営も苦しくなります。学校の再生もままならなくなります。そのことがわかっていても、決断しなければならないこともあります。

こと体罰の問題に限らず、状況をリセットして学校を再生するための最後の仕事が、それを進めた校長自身の異動である。学校が再生していく過程ではこのような皮肉なことが起こっていることがあります。引き継いで学校を再生させた方が評価されても、そのための地ならしをして去った方が評価されることはまずありません。報われないとわかっていても自分のとるべき行動を決断するのも校長の役割です。
体罰の問題をきっかけにこのような校長の姿を思い出しました。

教師のための「マネジメント」が届く

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先日、明治図書より、教師のための「マネジメント」が届きました。編著者の一人長瀬拓也先生からのプレゼントのようでした。ありがとうございます。
若い先生はもちろんのこと、ベテランの先生にも参考になると思い、少し紹介させていただきます。

「マネジメント」という言葉は教育の世界ではうまく広がっていません。訳語である「管理」「経営」という言葉のもつイメージがなじまないのかもしれません。この本では、教師にとってのマネジメントを、

1.組織をつくり、目的と使命を与える(プロデュースの視点)
2.組織を動かし、環境をつくる(システム・ルールの視点)
3.組織とその中を見て、促進する(ファシリテーションの視点)

と、3つの視点でとらえています。
この本のよいところは、この視点を踏まえて<学級経営>、<生徒(生活)指導>、<授業・学習活動>、<教師の自己成長戦略>について理論だけでなく具体的な場面ごとの実践が提案されていることです。
日々の学級経営や授業に悩んでいる若い先生は、具体的なアドバイスを求めています。今直面している状況を切り開くための、具体的なヒントがたくさんあります。ベテランの先生にとっては、こんなの当り前だ、知っていると思う実践例もたくさんあるかもしれません。大切なことは、それらの実践が点としてではなく、「マネジメント」の視点で戦略的におこなわれることです。日々の実践を見直すよいきっかけを得ることができると思います。

私は、この本で示される場面ごとに「自分ならどうするか」とまず考えてから読み進めました。「そうだよね」「そういうやり方もいいな」「ここは気づかなかった」とクイズを楽しむようでした。この本の著者は30代前半から40代前半の先生がほとんどだそうです。私から見れば若い先生方からたくさんのことを気づかせていただきました。そのエネルギー、意欲から元気をいただきました。この本から学ばせていただいたことをよい形で現場に還元したいと思います。一度手に取ってみることをお勧めします。

教師のための「マネジメント」 明治図書 定価1,860円+税
長瀬拓也・岡田広示・杉本直樹・山田将由 編著
西日本教育実践ネットワーク 著

研修を受けることで考える

先日、NPO法人の会計基準についての研修を受けてきました。法律が変わって会計処理の方法が変わったため、その内容と会計処理の方法を知るためです。日頃とは逆の立場で研修や授業について考えることができました。

講習内容に関するハンドブックが手元に配られていたので、まずは自分にとって必要なところ見つけ読んでいました。ハンドブックは読めばわかるようにつくられているものです。これで必要な情報はほとんど手に入ります。読んで確認したいと思ったところが明確になると、それ以外についてはあまり話を聞く気はしませんでした。研修を受ける目的がはっきりしているので、それが達成できればいいからです。

研修はハンドブックをそのままスクリーンに表示しながら、講師が席に座ったままで淡々と説明をしていくものでした。はっきりした声で聞きやすい話し方を意識されていましたが、聞き手をひきつけるような工夫はありません。しかし、これでも全く問題は感じませんでした。この研修を通じて考えることはほとんどありません。会計基準の変更について必要な情報を知ればいいだけです。しかも参加者は知りたい、知る必要がある方ばかりです。講師の話から必要な情報を手に入れればいいからです。
受け手が学びたいと思っていれば、内容さえちゃんとしたものであれば研修は成り立つということです。自腹の研修と強制的な研修とで雰囲気が大きく違うのも、学ぶ意欲の差です。学校などで研修の講師をおこなうときには、まずこの意欲をどう高めるかが問題です。参加者の問題意識を高めるための問いかけや参加者にとって意味を感じる課題を提示することが必要になります。これは授業にもつながることです。子どもたちの学ぶ意欲があれば、すぐに本題に入っていくことができます。そうでなければ、まず意欲を高めることが必要です。相手の状況で変わっていくのです。

今回の研修で私の目的は十分達成できました。知りたかったことはすべて知ることができました。しかし、研修の間私はずっと集中していたわけではありません。講師の話も必要なところしか聞いていません。これは、問題が解けた子どもと似た態度です。答を知ることが目的であれば、問題が解けた時点でほぼ目的は達成されています。自分の答が正しいことを確認できれば、それ以外は無駄な時間になります。残念ながら、答を知ることを目的としている子どもたちや授業に思いのほか多く出会います。一人ひとりが互いにかかわりながらそれぞれの成長をすることを学校では目指します。社会性は重要な要素です。自分が答えを知ることではなく、全員で答を見つける、答の見つけ方を考える、友だちにわかるように説明する。こういうことを目的としなければ、教室での授業は成立していきません。今回の研修と学校の授業とは目的の形が異なるのです。このことは意外と意識されていません。子どもたちの求めるものが、教師が求める答の授業ではいけないのです。このことを先生方がきちんと共有することが大切です。もちろんこのことは保護者とも共有する必要があります。ホームページや学校通信などで活用して、学校にかかわるすべての人で共有してほしいと思います。

研修を受けながら、このようなことを考えました。

人事と研修を考える

校長先生との会話の中に人事に関することが増えてきました。なぜか人事の話題はあまり明るい話になりません。来年度は初任者が○人になりそうで厳しい。○○先生が6年で抜ける穴が大きい(愛知県は、小中学校では原則初任から6年で異動となる)といった言葉がよく聞かれます。

初任者を育てるのに時間と労力がかかります。一方、苦労して育てて戦力となった先生が異動で抜けていくのですから、確かに痛手です。しかし、よくよく考えてみるとその戦力を受け入れる学校があるのですから、地域の学校全体で考えれば異動があってもトータルの教育力は変わりません。結局、退職されるベテランに対して補充される初任者の差が明確な差となるのです。仮に定年退職者1人と初任者1人が入れ替わるとすれば、40年近くのキャリアの差が戦力の差となります。これはとても大きなものです。単純に考えると年々それだけ学校の教育力が落ちていくことになります。しかしこれは、現役の先生方の教育力が変わらないという前提での話です。現役の先生方一人ひとりの力量が向上していけば、ベテランと初任者の大きな差を全体で埋めることができるのです。そういう視点に立てば、戦力的に見劣りする初任者の研修に力をいれるだけでなく、学校全体での研修に力を入れることが大切なことがよくわかります。
伸びしろの多い初任者、若手をまず育てることを優先するのか、全体の向上の中で引っ張っていくのか。それとも同時並行でいくのか。学校の規模、職員構成でも最適な戦略は異なります。悩ましい問題です。

ところで、戦力として育った若手を受け入れる側は、大きくプラスになるはずです。実際に、そのような声もよく聞くのですが、どうも戦力を放出して痛手だという声に対して少なすぎる気がするのです。この時期、わかっているのは異動で出ていく人ばかりですから、暗い話になりやすいのはわかります。しかし、新年度になって数か月してもポジティブな話はあまり聞けないのです。その理由を私なりに考えると、学校ごとに戦力として求められる内容が異なっていることが原因であるように思われます。
若手は、その学校で求められていることを一番に学んでいきます。荒れ気味の学校ではあれば生徒指導面や部活動面。学校独自の授業スタイルがあれば、当然そのスタイルを学ぶことが優先されます。ある面、その学校に特化していくのです。学校ごとに状況は違います。新しい学校では、以前の学校で身につけた力がそのまま生かせれるとは限らないのです。小学校から中学校、中学校から小学校への異動でその傾向が顕著です。即戦力を期待されているのに、新しい学校に適応するのに時間がかかってしまうのです。
しかし、このことは決して悪いことではありません。新しい学校で学んでいくことで幅が広がりますし、どんな学校でも共通する基本を意識することで地力がつきます。一段と成長できるのです。実際、異動当初は戸惑っていた方が、ぐんぐん力をつけていく姿をたくさん見ています。また、以前の学校ではあまり力を発揮できなかった方が、新しい環境で成長することもよくあることです。

新規採用が増えている現状で、一律に6年で異動といった原則に縛られることに少し疑問も感じています。その学校の環境ではうまく育てることが難しい先生も他の学校では成長できる可能性もあります。早目に異動して、そこでやり直すことも選択肢としてあってよいように思います。
異動は誰にとっても新たな成長のチャンスです。そのチャンスを活かすかどうかは本人だけの問題ではありません。特に若手にとっては、適切な研修や指導がまだまだ必要なのです。しかし、意外に転入者に対してのケアは薄いように感じます。

そろそろ来年度に向けての準備が始まる時期です。思い通りにならないのが人事です。それよりも、学校としてどのように先生方の教育力をあげていくのか、その戦略を立てることが大切です。先生方の成長を個人の問題としてとらえないようにしてほしいと思います。そもそも学校というところは、組織的に子どもを成長させるところです。先生方に対してもそうあるべきではないのでしょうか。
こんなことを校長先生方との会話の中で考えました。

ある校長の退職に思う

昨日はお世話になっている校長先生とお話をする機会がありました。今年度で定年退職されるのですが、勤務校やこの町の教育への思いをいろいろと聞かせていただきました。

町として新しいことに挑戦した学校でした。新しいことは最初からうまくいくわけではありません。理想と現実の間で、手探りでの試行が続きました。取り組みの成果が見えず、混乱した状態が批判を受けることになり、学校のことが選挙の争点となるなど、政治が絡んできました。そういった批判に対して、学校の考えを理解いただき、職員が自分たちの信じる教育をおこなえるように多くの力を割いてこられたことと思います。学校の中のことに力を注ぐべき時に、余計なことに力を割かれ悔しい思いもされたことでしょう。言いたいこともたくさんあると思います。その努力が正しく評価され報われたのかはわかりません。
地元の方なのでいろいろなしがらみもあったようです。次の校長にはそういったしがらみのない方がなって、学校運営に専念してほしいとおっしゃっていました。退職後は学校現場からは完全に離れられるようです。その方がこの学校にとっても良いことだと考えられてのことでしょう。一方、町としてすべての小中学校で最低限の授業規律や授業の進め方の共通化を図るよう取り組むべきだと、その実現に向けて働きかけてもおられます。学校への強い思いを感じました。
退職後はどのような形で学校教育とかかわられるのかお聞きすることを楽しみにしていたのですが、とても残念です。長い間お疲れさまでした。

今、学校現場への政治の介入が話題となっています。安易に是非を語ることはできませんが、そのために現場の教師が教育と関係ないところに力を割かなくてはいけない、よりよい学校をつくろうとする意欲がそがれる、少なくともそんなことだけは無いようにしてほしいと思います。政治には子どもたちのために先生方がその力を存分にふるえる環境をつくることを期待します。

教師を映し出す鏡を見る

この日記でもいつも書いていますが、先生の笑顔が子どもたちの笑顔を引き出します。明るい学級は間違いなく先生も明るいのです。教室の子どもたちは教師を映し出す鏡です。3学期ともなると子どもたちの所作も担任と似てきます。考え方までも似てくるのです。

私は明るい性格でないから無理だなどと思う必要はありません。教師がいつも笑顔で子どもたちに接すればいいのです。笑顔は訓練でつくることができます(笑顔は訓練でつくる参照)。最初はぎこちなくても、続けていれば自然なものになっていきます。教師が笑顔で接してくれれば子どもたちも安心して学級で暮らすことができます。子どもたちは教師の笑顔が大好きなのです。
子どもたちの心を育てることはとても難しいことです。しかし、印刷物を配る、宿題を集めてもらう、子どもに何かしてもらうたびに教師が「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えていれば、子どもたちは自然に「ありがとう」を口にするようになります。教室に「ありがとう」があふれるようになってきます。道徳の時間に感謝を取り上げるよりもよほど効果があります。

多くの先生が明るい学級、楽しい授業ということを口にします。子どもの心を育てたい。誰しもがそう思います。それを実現するのは、日頃の教師の子どもへの接し方だと思っています。今年度も残りわずかです。今一度、子どもという教師を映し出す鏡をじっくりと見てください。そこにはどんな姿が写っていますか。年度末には素敵な姿が映っているようにしたいものです。

白石範孝先生から学ぶ

本年度第6回の教師力アップセミナーは筑波大学附属小学校の白石範孝先生の「『この時の主人公の気持ちは?』これでいいのか、国語の授業〜論理的思考ができる子どもを育てる〜」と題した講演でした。

多くの国語の授業は思いついたことを子どもが発表するだけで、子どもが真に考えるものになっていないという白石先生の問題提起はとても賛同できるものでした。国語も算数も論理的な教科であるという言葉はまさに我が意を得たりでした。

論理的に考えるためには、

たとえば「要点」(形式段落レベルのまとめ)「要約」(文全体のまとめ)「要旨」(筆者の主張)といった国語の「用語」の違いを明確にして習得し、活用すること。
たとえば形式段落に分ける「方法」を習得しその方法を活用すること。
たとえば、漢字の書き順を上から下、左から右の順に書くといった「原理原則」を習得することで、1字1字覚えずに例外だけを覚えるようにすること。

といった、「用語」「方法」「原理原則」を習得しそれを活用することが必要と主張されました。
これらは、メタな知識、他の場面でも活用できる再現性のある技術と言い換えてもいいかもしれません。これはどの教科でも大切にしてほしい観点です。得た知識や技術は他の場面で活用できてこそ意味があります。このことを意識せずに学習を続けた結果、勉強とは単に記憶することと思っている子どもがいることはとても残念なことです。

詩、文学作品、説明文それぞれについて授業の作り方を具体的に教えていただけました。

詩では、リズムを大切にしたい。リズムは音数(字数ではない)できまる。したがって、音数、字数という用語を押さえておくことが必要であること。また、五七調は重い、暗い、七五調は軽い、明るいといった原理原則を押さえておくこと。使われる技法を見つけて終わるのではなく、その技法はどんな効果があるのか、その効果をどう活かしているのかといったことを問うことが必要である。

文学作品や説明文では、全体をとらえて考えることを大切にする。そのためには、題名をそのまま使って問いをつくることが有効である。題名は、文学作品であれば「中心事物・登場人物」「山場」「主題」、説明文であれば「題材・話題」「事例」「主張・要旨」であることが多い。たとえば「タンポポの秘密」であれば、「タンポポの秘密」はどんなもの、いくつある、・・・。こうすることで、文の構成を意識でき、読む視点も明確になる。

文学作品は、中心人物の変容をとらえることが中心となる。中心人物が事件・出来事によってどう変容するか。事件・出来事と変容の因果関係を問うことを大切にする。低学年の内に、登場人物(人に限らず、意思を持って動いたり話をしたりするもの)、中心人物(物語を通じて変容していくもの)といった用語もしっかり押さえておく。

説明文は、問いと答えに注目し、用語を積み上げていくことで指導していくとよい。

低学年では、形式段落、主語、文といった用語をまず押さえておく。問いの文は「・・・でしょうか」、答えの文は「・・・です」と文末に注目することを指導する。問いの文はどの段落にあるか、段落は何文あるか、どの文が問いの文か、何について聞いているかと問うことで、文意識や主語意識を持たせることが大切である。

中学年では、意味段落、要点、要約といった用語指導し、これらを使って文章構成図をつくっていく。
問いと答えの間にある事例・実験・調査・観察に焦点を当て、何が・いくつ・何のため・結果はといったことを問い、筆者の言いたいことにつなげていく。

高学年では、中学年にプラスして要旨を問う。具体を読み取り抽象化することが要旨をまとめることになる。
また、文の構成の基本パターンを指導しておくことも大切になる。
結論が先頭にくる頭括型、結論が最後にくる尾括型、結論が最初と最後にある双括型があるが、双括型は、途中で最初の結論をまとめて、それに自分の本当に言いたいことを+αして結論とすることが多い。
この基本パターンは文全体だけでなく、形式段落の構成など部分にも当てはまる。文章を書く時にも応用ができる。

要点は、文章構成、意味段落、要約、要旨を理解するための手段である。要点は、いくつの文からなるかという文意識と大切な一文を抜き出し短くまとめることが必要となる。このとき、何についてという主語を意識することが大切となる。主語を文末にした体言止めの形で要点を書くことが、主語意識を持たせるのに有効である。同じ主語のグループをまとめれば意味段落になっていく。

私がすぐに思い出せることでも、これだけのことがあります。非常に論理的かつ具体的で、参加された誰もが納得させられるお話でした。まさに国語の授業の原理原則を教えていただけたと思います。とはいえ、これで教材を目の前にしてすぐに授業が作れるかと言えばそういうわけにはいきません。白石先生からいただいた視点を参考に何度も文章を読み、教材研究することが必要です。私も白石先生から学んだことを、時間をかけて消化していきたいと思います。とてもよい学びをできたことを感謝します。

給食での死亡事故に思う

先日小学5年生の女児が給食のチヂミをおかわりして、アナフィラキシーショックで亡くなるという痛ましい事件が起きました。たまたま私の知り合いにその学校の保護者がいて、学校から保護者への説明の内容をかいつまんで教えていただけました。感じたことを少し述べたいと思います。

報道では3時間後に死亡となっていますが、実際はお子さんが不調を訴えたのが13時24分、校長がエピペン(アナフィラキシーに対する緊急補助治療に使用される医薬品で、使用者は患者本人か患者が未成年の場合は説明済みの保護者であるが、必要に応じて救命士、保育士、教師も使用可能)を注射したのが13時35分、13時40分の救急車到着後すぐに心肺停止が確認されているので、あっという間のことだったようです。

マスコミの論調は担任がチェックを怠ったことが原因ということでしたが、実際には不幸な偶然が重なったようです。

「これおかわりして大丈夫な食べ物か?」と担任は女児に聞き、女児といっしょに「親の作った献立表」でアレルギー物質の含まれている食事か確認したそうです(このとき、栄養士の作った献立表の確認はしなかった)。
女児は「お母さんの作ったリストに、マーカーが引いてないから大丈夫」と言ったそうです。急変後に担任はエピペンを打とうとしたのに、女児自身が「違う、打たないで」と言ったとも。

だから母親の責任だというつもりはありません。そんなことを言われなくても、母親は自分を責め続けるでしょう。担任もあのとき栄養士の作った献立表を再度確認しておけば、女児の訴えを聞かずにエピペンを打っておればと悔やんでいるはずです。除去食の受け渡しの担当者は、チヂミにはチーズが入っていて、除去食はチーズを抜いてあることを説明しておけばと・・・。多くの関係者がそれぞれに苦しんでいることでしょう。そして、目の前で友だちが死んでいくのを見ることになった子どもたちの心の傷はどれほどでしょうか。誰が悪いとかいう問題ではなく、事故は多くの人を不幸にします。

たまたまが重なって事故は起こるものです。ミスを起こさないようにすることも大切ですが、ミスは起こるものだという前提で最悪の事態を回避できるような体制をつくることが大切です。ミスは起きない「だろう」ではなく、起きる「かもしれない」と考えなければなりません。
事故が起きるたびに責任の所在が追及されます。誰かを悪者にしなければ悲しみや怒りの行き場がなくなることもわかります。法的な問題もあるでしょう。しかし、責任ではなく原因を追究することにより多くのエネルギーを割いてほしいと思います。そして、このような悲しい事故が2度と起きないような対策を取ることを最優先することを願います。もちろん子どもたちの心のケアはそれ以上に大切ですが。

女児の冥福と、保護者、子どもたち、担任をはじめ関係者の方々の心の傷が一刻も早く癒えることを心からお祈りします。

試験後の学習を考える

冬休みが明けて課題試験を実施している中学校も多いと思います。子どもたちが休み期間中に学習をするための動機づけとしているように思います。しかし、試験が終わってその結果を見て、よくできた、ダメだった次は頑張ろうといった思いを持つだけで、その結果が学習に反映されていないように感じます。私は、試験が終わったあとこそ学習をすべき時だと思っています。

試験は評価のためにおこなうものでもあります。評価ですから、何が目標に到達できていないかがわかるはずです。目標が達成できていなければ、達成させなければならないはずです。ところがせいぜい試験の直しをさせるくらいで、本当に目標を達成させるまでは学習をさせることはなかなかできていません。授業は先に進んでいかなければいけないので授業中にやり直しをしている時間はありません。結局、子どもたちは試験が終わって結果に一喜一憂して終わってしまうのです。

試験の結果をもとに子どもたちが学習をし直すための仕掛けをつくる必要があると思います。
私は、絶対的な目標を設定して試験をおこないました。その目標に達しなければ再度類題で試験をおこないます。担任にも協力いただき全員が合格できるまで週に一度くらいの頻度で授業後に試験をおこない続けました。子どもたちには負担だったと思います。時には次の試験までに全員が合格しないこともありました。しかし、特に積み重ねの必要な教科では、基本となることが定着していなければいくらその次に頑張ろうとしてもできるようにはなりません。連続性のある単元であれば、この試験に合格しようと学習を続けたことが、今授業で学習していることの理解を助けてくれることもあります。先に進むことよりも立ち止まって定着させることのほうが大切なこともあるのです。同じことを単元でこれだけは絶対定着させなければいけない基本事項に絞って小テストでもおこなってきました。
全教科で同じことをすれば子どもたちの負担は大きくなりすぎますし、教科特性もありますからどの教科でも有効だとは思いません。しかし、学校全体で目標達成を意識して試験後に子どもたちにどう学習させるかを考えることは必要だと思います。

学校での試験は、入学試験のような子どもたちを選別するものではないはずです。試験をして単元の学習が完結するのではなく、試験から再度学習が始まるという発想も大切にしてほしいと思います。

今年のアドバイスの方針

管理職の方から年賀状でいただいたメッセージに、若手の育成に関するコメントが多く見られました。現場に共通する課題です。私にとっても大きな課題ですが、即効性のあるうまい方法がないというのが実情です。今年は再度原点に立ち返って、次のようなことをていねいにおこなっていきたいと考えています。

・目指す子どもの姿を共有する
研究指定校などでは、管理職や研究のリーダとは子どもの姿について共有をするように努めています。そこで共有できると、学校全体と共有できたような気がして、個々の先生としっかり確認しないままアドバイスをしてしまうことがあります。一人ひとりの見たい子どもの姿をできるだけ具体的かつ詳細に聞き、しっかりと共有することから始めることを徹底したいと思います。

・人間関係をつくることを意識してもらう
授業が成立する基本は内容以前に子どもとの人間関係です。子どもの言葉をうなずきながらしっかり聞く、子どもをポジティブに評価する、こういう姿勢の大切さや子どもの言葉を活かすことをしっかりと伝えたいと思います。教師がしゃべりすぎないように気をつけ、子どもの言葉をつなぐことで、友だちの話をしっかり聞く姿勢をつくることが、子ども同士の人間関係をつくることにつながっていきます。ここまで意識してもらうことを目指したいと思います。

・子どもを見ることを具体化する
子どもを見るということはどの先生も大切にしていますが、何を見るか・見ているかは実は一人ひとり大きく異なっています。一緒に授業を見ながら子どもの姿から何がわかるかを伝える。授業の具体的な場面での子どもの姿がどうであったかを伝えて、それはどういうことか一緒に考える。このような機会をたくさん設けて、子どもを見る視点を増やし、自分の授業での子どもの姿をより意識して見るようになってもらえるようにしたいと思います。

・教科書の内容・意図を読み取ることを意識してもらう
経験が少ない先生へのアドバイスは、教科内容以前の授業技術や子どもとのかかわり方で終わってしまうことが多くなります。しかし、もう一つの軸となる教科内容を後回しにしていると、子どもはとてもよい状態で授業を受けているのに学力がつかないということになってしまいます。教科書は授業で押さえるべきこと、子どもたちに考えさせたいことを意識してつくられています。表面的に理解するのではなく、なぜこのような例や素材を用いているのか、なぜこのような課題になっているのか、なぜあえてこのような表現をしているのかといった、教科書の記述や内容にこだわることが大切です。教科書の内容・意図を読み取ることを常に意識することで、自然に授業のポイントが押さえられるようになります。教科内容についてのアドバイスは、授業の具体的な場面で教科書の記述をもとに一緒に考えることで、教科書の内容・意図を読み取ることを意識してもらえるようにしたいと思います。

教師が育つためにはたくさんのことが必要です。今年もたくさんの方へアドバイスする機会をいただけそうですが、まずはこの4つのことを大切にしたいと思っています。

授業力をどうやって高めようとしたのか思い出す

学期末から冬休みに入り、学校で授業を観ることのない日が続いています。先生方も少し息をついているところだと思います。しかし、このような時期だからこそいろいろなグループや団体の研修もおこなわれていることと思います。自主的に学んでいる先生方には頭が下がります。

自分の教員時代を振り返ると、長期休業中は部活動ばかりでこういった研修にもあまり参加した記憶がありません。もっとも、当時は今ほど機会がなかったようにも思います。ただ私が不勉強で知らなかっただけかもしれませんが・・・。では、私自身どのようにして授業の力を高めようとしていたのでしょうか。先輩の授業をこっそりのぞいたり、授業を終わって職員室に戻るときに先輩の板書を盗みしたり、印刷室や教室で先輩のプリントを拾ったりと、基本は盗むという発想でした。その一方で先輩に負けたくないというライバル心も旺盛でした。恥ずかしい話ですが、自分が担当している学級の平均点を競うようなこともしていました。子どもたちの成績を上げるためにはどうすればよいのか、とにかく思いつくことは何でも挑戦してみました。そのやり方がよいかどうかは、試験の結果が教えてくれます。とても単純な考え方ですから、一定の法則が生まれてきます。簡単なことです、教師が頑張った量ではなく、子どもが頑張った量で成績は決まるのです。ここに、大きな落とし穴があるのにも気づかずに、演習量(課題や宿題も含む)をいかに増やすかにエネルギーを注いだ時期がありました。自分が担当している学級の成績がよいと自分の手柄のように思い満足していました。担当している学級で私の教科の成績が他の教科と比べて相対的によいと、他の教科の先生の教え方が悪いのではないかとさえ思うようになっていました。当たり前のことに気づくまでは。そうです、私が子どもたちの演習量を増やしたために、他の教科にまで手が回らなくなっていたのです。子どもの時間を奪い合っていただけなのです。

このことに気づいてから、演習量を確保するのなら、他の教科の時間を奪わない方法を考えようとしました。その答えの一つは、子どもがやる気を出せばトータルの学習時間が増えるということです。やらされているという気持ちでは、時間の奪い合いになります。もっと勉強したいという気持ちにさせることが大切なのです。とはいってもそれは簡単なことではありません。自分が頑張ってわかった、できるようになったという自己有用感を持たせることが大切です。そのためには、日頃の授業も課題もすべてに工夫が求められます。同じように授業をしているのにこの学級の子どもは出来が悪いと子どものせいにして終わってしまっていてはどうにもなりません。そこから出発して、どうすれば彼らがやる気をだし、力を伸ばす授業になるのかを考えることが本当に必要なことです。学級ごとに、もっと言えば一人ひとりの子どもにどう対応して授業をつくっていくのかが問われているのです。課題を全員添削して、どこでつまずくのか、何がわかっていないのかを把握する。担当している子どもたちの学級や部活動でのようすを担任や顧問に聞く。他の教科の成績も教えてもらう。そういう情報を参考にしながら授業を組み立てようとしました。授業がうまくいっているかどうかは、子どもたちが教えてくれます。子どもたちの表情、集中の度合い、家庭での学習量、試験の結果、・・・。謙虚に子どもたちの発信を受け止めることで、課題は見えてきます。昨年うまくいったから、昨日うまくいったからと安易に同じように進めるのではなく、子どもたちが発するものを精一杯受け止め、毎日子どもたちと新しい授業をつくっていく。そういう気持ちで臨みました。
とはいっても、研修にもろくに参加しないような私です。知らない授業技術もたくさんありました。そんな簡単によい授業ができるわけはありません。今振り返ってみれば、とても人様に誇れるような授業ではありませんでした。ただ、子どもたちが教えてくれる課題を解決しようと考えることで、多少なりとも授業を改善することはできたように思います。

授業力をつけるのに、研修はとても有効なものだと思います。しかし、課題を持たずに研修に参加しても、自分は勉強した、前向きなよい教師だという自己満足で終わってしまう危険性があります。目の前の子どもの課題に気づき、その課題を解決しようと考える。その延長上にあってこそ、研修は大いに意味を持つのではないか。昔の自分の姿を思い出しながら、こんなことを考えました。

地域の方と教師のかかわり方を考える

先日、私が学校評議員を務めている中学校のおやじの会の忘年会に呼んでいただけました。校長、元校長と同じように声をかけていただけることを大変うれしく思います。

おやじの会の方々と出会ってもう9年になります。皆さんの活動から地域と学校がどうかかわっていけばよいのかを日々学ばせていただいています。子どもたちのために多くの時間を割いている方々です。地域の子どもたちの成長を願っているからこそ、学校に対して温かい目と厳しい目を持っておられます。同じ子どもたちの姿を見ても教師とは異なったことを感じられます。その感じたことをまっすぐに伝えてくれる方々です。自分の子どもが学校にお世話になっている保護者は、なかなか本音のところを表に出すことができません。また、子どもが卒業してしまえば学校とはかかわりを持たなくなる方がほとんどです。自分の子どもが卒業しても地域として学校とかかわり続けることは、なかなかできることではありません。だからこそ、先生方には厳しい意見でもまずは受け止めてほしいのです。お二人の校長はその大切さをわかっておられるからこそ、こうして参加されるのです。

しかし、一般の先生方が地域の方の視点を受け入れることはそれほど簡単ではないようです。教師は教室では自分のやり方で動けます。自分の考え方と違うものを受け入れる風土があまりないのです。自分たちの価値観とずれることに対して、なかなか素直に受け止めることができません。そのため、子どもの引率の手伝いなど、自分たちがイニシアティブをとれる活動に地域が協力する形であればそれほど抵抗感がないのですが、同等の立場で協働するとなると抵抗感が増すのです。特に子どもと直接かかわることに対しては、自分たちがプロであるというプライドが邪魔をして、地域の方の子どもへのかかわり方を批判的に見てしまうのです。

教師は全員ができることを強く意識します。地域との行事で積極的に参加しない子ども、まじめに取り組まない子どもがいると、そのことがとても気になります。一部の子どもしか活躍しないものに対して否定的です。一方地域の方は、自分たちとかかわりあう子どもたちの成長に大きな喜びを感じます。たとえ数が少なくても、子どもの成長に役立てたということはとても素晴らしいことなのです。
同じ行事での子どもの姿を見ても、一方は子どもたちがきちんと参加できていないと否定的にとらえ、他方は子どもたちが頑張ったと肯定的にとらえることになります。そのため、互いの意見を受け入れがたく感じるのです。

地域の人とかかわることでしかできない子どもたちの成長があるはずです。たとえ全員でなくても、教師だけでは生み出せない新たな学び・成長をする子どもがいることを、教師が素直に認めることが必要だと思います。その上で、その数を増やすためにどうかかわるかが、教育のプロとして問われるのです。地域の方も、子どもたちがどのような成長をしてくれたのかを自分の言葉で伝え、成長の輪をどのようにして広げればよいのかを教師とともに考える姿勢を見せてほしいと思います。
互いの視点の違いを否定的とらえるのではなく、謙虚にその視点も取り入れることでよりよいものにしていく姿勢が大切なのです。

子どもたちの成長を心から喜び、その輪をどのように広げようか熱く語ってくれるおやじの会の方々です。この日も楽しくお話ししながら、地域と学校・教師のかかわり方についてたくさんのことを学ばせていただきました。このような方々と出会え、楽しい時間を過ごせる機会を得ている幸せを感じた日でした。
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