グループ活動の後の発表

グループでの活動は集中していたのに、全体での発表になると子どもたちの集中力が切れることがあります。最初はしっかり聞いていたのに、次第に集中力がなくなる。自分たちのグループの発表が終わると、集中力が途切れてしまう。こんな場面にもよく出会います。グループ活動の後の発表はどのようにすればよいのかを考えてみたいと思います。

多くの方が、グループの代表を事前に決め(させ)て順番に発表させているようです。このとき、発表の準備をグループ全体で手伝っているところはよいのですが、発表者が一人で準備していることがよくあります。次の発表予定のグループが準備に追われ、発表を聞いていないこともあります。また、次々発表させるだけで、発表に対する子どもたちの考えを聞くこともなく、最後に教師がまとめて終わっていることもよくあります。似たような発表が続き、聞く側の集中力がなくなってしまう場面に当り前のように出会います。

私は、グループ活動では、結論を無理にグループでまとめない方がよいと思っています。みんなの助けを借りて「自分の答」を見つけることが大切だからです。また、修学旅行のグループ行動を決めるといった場合であれば、自分が行きたくないからといって拒否できませんが、課題の答であれば自分の考えを曲げてみんなに従う必要はないからです。
たとえグループで考えをまとめる必要があっても、発表者をあらかじめ指定する必要はありません。「自分たちの考えをだれかに発表してもらうからね」と、誰もが発表者となる可能性を与えた方がよいのです。グループとして発表の準備が必要であれば、だれが指名されても困らないようにみんなですればいいのです。

基本的に発表は個人への指名でおこないます。結論やその課程を聞くことになりますが、発表が終わってすぐ次の発表に移るのではなく、学級全体でその考えを共有し、評価し深めることが必要です。

「同じような答になった人(グループ)はいる」
「いるね、じゃあ○○さんの(グループの)考え聞かせてくれる」
・・・
「今のみんなの考えを聞いて納得した人(考えが変わった人)いる?」
「いるね、どこでそう考えたか聞かせてくれる」
・・・
「じゃあ、自分(たち)はちょっと違うという人(グループ)はいるかな?」
・・・・

このように、同じ考え、違った考えをつなぎながら、それぞれの考えやグループでの話し合いを共有して考えを深めていくのです。
こうすれば、各グループを順番に発表させる必要はありません。他のグループの人の発表を聞いて、「あっ、自分たちと違う。自分たちの考えを言いたい」と思った子どもも、順番を待ってイライラしなくなります。また、順番に発表するうちに前の発表が記憶から薄れ、関連する意見が出てもつながらないといったこともおこりません。
意見がつながらなくなったら、まだ発表していないグループの子どもに、「あなたたちはどんなことを話した(考えた)のか聞かせて」とたずねればいいのです。そこからまたつなぎ始めます。こうして、全部のグループの考えを引き出すのです。

また、子どもが発表するたびにその意見を板書する方もいますが、子ども同士がつながっているうちは、できれば板書を我慢して聞くことに集中させてほしいと思います。子どもたちの発表がひと段落してから板書しても遅くありません。

あらかじめ発表者を決めておかないと、指名しても答えられないと心配をする方もいますが、そんなときは、「ちょっと、グループの人、助けてあげて」と仲間に助けさせればよいのです。また、なかなか自分の意見が持てない子どもには、「みんなでどんなことを話したか聞かせてくれる」と問いかけ、「じゃあ、その中で一番納得した(なるほどと思った)意見はどれ?」と聞くことで、自分の考えを持たせるのです。そして、「なるほど、・・・が○○さんの意見(考え)だね。ちゃんと(よく)考えたね」と評価するのです。

集中してグループ活動に取り組んだあとの子どもたちは、友だちの考えを聞くことに意欲的です。その意欲を活かすためにも、順番に発表することにこだわらず、発言をつなぎながら、全体で共有し、より深く考えさせるような工夫をしてほしいと思います。

グループ活動の人数

授業にグループ活動を取り入れる先生が増えています。そのときの人数や配置について質問されることもよくあります。これが絶対に正解というものはないと思いますが、私の考えを少し述べたいと思います。

適正な人数を考えるときに、グループ活動で何をねらっているのかが問題だと思います。早く正解を見つけさせるのであれば、各グループに優秀な子どもを分散してその子の意見を聞くのに適切な人数を考えればいいわけです。子どもたちがまわりの助けを借りながら自分の答えを見つけることをねらうのであれば、話はまた変わります。
私は後者の考え方です。そして、グループの子どもたち全員が互いにかかわり合うことを大切にしたいと思います。

「自分の答えを見つける」という視点であれば、発言する、教えることよりも聞くことが大切になります。相手を説得するのではなく、相手の意見を理解し自分の考えを深めることが主となります。説得しようとするとどうしても声が大きくなります。大きな声は全体のテンションを上げることにつながり、落ち着いて話を聞く雰囲気がなくなっていきます。聞くことを大切にするのであれば、子どもたちのテンションが上がらないように注意するべきです。そのためには子ども同士の距離は近い方がよいのです。距離があると、どうしても声が大きくなります。額を寄せ合って、落ち着いて聞き合うためには机が近い方がよいのです。また、困った時に「助けて」「教えて」と聞けることを大切にし、グループの全員がかかわり合えることを意識すると、一人ひとりが他のメンバーと接していることも重要になります。だれにでも、すぐに聞くことができるからです。人数はあまり多くない方がよいのです。
それだけではありません。人数が多くなるとどうしてもグループの中にまた小グループができます。こうなるとグループの全員がかかわり合うことがどんどん難しくなります。子ども同士の人間関係をつくる視点からも、グループ内の誰とでもかかわり合うことは大切にしなければなりません。特定の子どもとだけの関係になることは避けたいところです。小グループになるのなら、最初からそのグループで活動すればいいのです。
実際、6人のグループでの活動を見ると、端の2人と他の4人または両端の3人ずつに分かれて話している場面によく出会います。5人のグループでも端の1人が孤立していることがよくあります。7人以上であれば、3つの小グループに分かれることもあります。
これらのことを考えると人数は4人以下がよいということになります。4人以下であれば、互いの距離が近く、誰もが必ず他の子どもと接しているからです。

もちろん4人でも1人と3人、2人と2人に分かれることはよくあります。1人と3人に分かれている場合、自分1人で考えたいために他の3人とかかわろうとしていない子でも、すぐそばで話し合われているので、その内容は耳に入ってきます。必要があれば、かかわりやすい状態です。また、うまくかかわれなくて1人が孤立しているときでも、話し合っている子どもとの距離が近いので、教師が互いにかかわるように働きかけることがしやすいように思います。
では、2人と2人に分かれる場合はどうでしょう。2人のかかわり合いはつながりが強いので、これを崩して4人のかかわりにするのは難しいものがあります。そこで、あえて男子2人、女子2人で構成して、男子同士、女子同士に分かれやすくするという考えがあります。ここで、男女を市松模様にすると、斜めでつながるので、2人ずつの話が交差してかかわりやすくなります。また、男子同士、女子同士どちらかしかつながっていなくても、目の前を言葉がいきかうので、残りの2人もかかわりやすくなります。また、男女で話し合う機会が増えるので、男子と女子の関係がよくなるというメリットもあります。これは思春期を迎えた中学生や小学校の高学年ではとてもありがたいことです。
一方、3人のグループは1人と2人に分かれた場合、1人がかかわろうとするときに2人の間に割って入ることになります。2人のかかわりは強いものなので、うまくその中に入っていけないことが多いようです。その点4人のグループの場合は、他は3人なので、その中の1人が孤立している子どもとかかわり合い、残りの2人とつないでくれることがよくあります。

色々な意見や考え方があると思いますが、私は以上のような理由で、グループは4人の市松模様での活動を基本とするのがよいと考えています。もちろん、これが絶対的な正解だと主張する気は毛頭ありません。グループ活動で何をねらうかを明確にし、子どもたちのようすをよく観察して、皆さんの学校、授業に最適な人数を見つけていただけたらと思います。

失敗から学ぶためには

失敗から学ぶということはよく言われます。しかし、子どもたちは失敗するとがっかりしてやる気をなくします。そのため教師は子どもたちが失敗しないように先手を取って指示や指導をする傾向にあります。極端な場合、いざとなったら先生が助けてくれる、誰かが何とかしてくれると考えるようになってしまいます。

子どもがやる気をなくすのは失敗して、ネガティブな気持ちになって終わるからです。たとえば総合的な学習の時間のように調べて発表するような長期の取り組みは、最後に発表して終わるか、または発表を受けての反省で終わることがほとんどです。失敗して反省してもその反省を活かす機会はなかなかやって来ません。失敗から学ぶためには、失敗を活かす機会が必要になるのです。
総合的な学習の例であれば、中間発表を設けるとよいでしょう。中間発表では、欠けているところ、不十分なところを少々厳しく指摘しても大丈夫です。それを受けてどうすればよいかを考え、修正する時間を与えるのです。本番の発表では、中間発表から進歩したところを大いにほめます。たとえ絶対的には評価できなくても、中間発表と比べれば評価できるはずです。できれば中間発表で指摘されたことから何を学んだか、どういうことに気をつけたかも合わせて発表するとよいでしょう。こうすることで、失敗から学ぶことを意識できますし、その結果をポジティブに評価されますので、達成感も味わえます。

ふだんの授業でも似たようなことはたくさんあります。失敗しても必ずチャンスを与え、ほめて終わるようにすることが大切です。

「○○さん、△△さんの言ったことをもう一度説明してくれるかな」
「聞いていませんでした」
「もったいないことしたね。とてもいい説明だったんだけどな。△△さん、もう一度聞かせてくれるかな」
「はい、・・・です」
「△△さんさん、ありがとう。○○さん、どう」
「・・・です」
「よく聞けたね。△△さんと○○さんの説明でなるほどと思った人」
・・・

聞いていなかったことをしかると、失敗したことで気持ちはネガティブになります。しかし、失敗してもそのあとしっかり聞いてうまく説明できると、成功したとポジティブになります。このような経験を積んでいけば、失敗を恐れるのではなく、失敗した後どうすればよいのかを考えるようになります。

失敗から学ぶと簡単に言いますが、失敗をきっかけに成功する経験を積まないと、失敗ばかり続くことになり、気持ちが折れてしまいます。子どもは長い時間を待つことはできませんし、時間がたてば反省したことも忘れてしまいます。失敗した後、できるだけ早いタイミングでリカバーする場面を設けてあげることで失敗から学べるようになります。失敗を避けるのではなく、失敗から学ぶ子どもに育ててほしいと思います。

友だちの方を向いて話を聞く

子どもが友だちの発言を聞くときに、体を発言者の方へ向ける学級とそうでない学級があります。同じ学級でも場面によって変わるときもあります。子どもが発言者を見ずに聞いていても気にしない教師も多いように思います。このことについて少し考えてみたいと思います。

子どもが友だちの発言を、友だちの方を向いてまで聞こうとしないのは、そこまでして聞きたいと思っていないからです。「友だちの考えはどうだろう」「自分と同じ考えなのだろうか」と思っていないのです。友だちの考えを知ることが自分に影響を与えないのです。友だちの発言が問いに対する単純な答であればその傾向は強くなります。たしかに「計算の答は10です」という発言にそこまでして聞く価値はないかもしれません。しかも、友だちの発言の後、教師が正解、不正解を判断して説明をはじめるのであれば、そちらの情報の方がはるかに価値があります。集中して授業に参加している子どもにとっても、教師の様子から情報を得る方が大切になります。

先日、「とてもよい発言があった」と評価された授業場面の写真を見ました。発言している子どもは堂々として、いかにもよい発言に見えます。しかし、その写真に写っている子どもは、だれも発言者を見ていませんでした。全員よい姿勢で前を向いています。よい発言だったかもしれませんが、他の子どもたちはその発言を本当に理解しようとしていたのでしょうか。そのあと、教師が発言を評価してはじめてよい発言だと思う、教師がその発言を受けて説明してその内容を理解する。そういう授業だったかもしれません。

いつも述べていることですが、子どもにとって友だちの発言を聞く価値がある授業にしていかなければなりません。「友だちの発言は、友だちを見て聞こう」というルールをつくり、形から入る方法もあります。しかし、話を聞いてよかったと子どもが思わなければそれは形で終わってしまいます。
発言の評価をいつも教師がする。発言を受けてすぐに教師が説明する。発言に対して教師主導で進んでいくのであれば、子どもたちは教師の反応をうかがいます。もっといえば、教師の求める発言(答)は何かを探る授業になっていきます。発言者も自然に教師を向いて話をします。
発言に対して、他の子どもの理解を確認する、評価を求める。それだけでも聞く姿勢は変わっていきます。そのためには、子どもに求める発言は、結果(答)だけでなく、その根拠や過程でなくてはなりません。
「言っていること伝わった」「説明に納得した人」と問いかけ、納得した人がいれば、そのこと自体が発言への評価になります。納得した人に、再度説明を求めるようにすれば、発言を聞く価値が増します。

先日、ある研修会で参加者に自分の考えを持っていただいた後、一人ひとりに発表をしてもらう場面がありました。発表者に、参加者を向いて発表するようにお願いしましたが、それだけでは、他の方の視線は私に向いたままでした。しかし、発表に対して、私が「なるほど、よいことに気づきましたね」と受容し、「納得した人」「参考になった人」、「これが正解というものがあるわけではない」と私が判断をしないことを伝えたところ、参加者の視線は自然に発表者に集中するようになりました。私の反応を知ることより発表者に集中することの方が、価値が高くなったのです。

こういった働きかけがなくても、自然に友だちの方へ体が向くこともよく目にします。ほとんどの場合、子どもたちが自分なりの考えを持ってはいるが、完全に解決できずに疑問や課題が残っているとき、自分はこう判断したがみんなはどうだろうと友だちの考えに興味を持っているときです。子どもの中に聞きたいという欲求がでてくるような課題ということです。子どもにとって自分の課題となっていて、かつ一人ではなかなか解決できない、結論が出ない、他者の考えや助けが必要となる。そういう条件を満たしている課題です。

子どもの姿勢には子どもの気持ちが表れます。子どもが友だちの話を聞きたいという気持ちは体の向きでわかります。子どもが自然に友だちの話を聞きたいと思うようになるには、授業者の働きかけと適切な課題が必要です。子どもの体の向きを意識し、子どもが友だちの話を聞きたいと思うような授業を心がけてほしいと思います。

言葉にならないメッセージを受け止める

授業で子どもを見ることは大切です。子どもは言葉で「わかりません」「集中していません」と言ってくれません。子どもの様子からそのメッセージを読みとる必要があります(子どもの「何」を見る参照)。教師は子どもからの言葉にならないメッセージをどう受け止め、応えていけばよいのでしょうか。

わかりやすいのは、うなずく、首をかしげるでしょう。うなずいていれば、「わかっている」「納得している」、首をかしげていれば「わからない」「理解できない」という反応です。問題はその反応をどのようなメッセージと受け止め、どう対応するかです。うなずいていれば、安心して先に進めればよいのでしょうか。
多くの子どもが反応していないのに、数人の子どもがうなずいていれば、「先生、大丈夫。私たちはわかっているよ。助けてあげられるよ」というメッセージとも取れます。「○○さん、うなずいてくれたね。それってどういうこと」「納得した。どこで納得したか聞かせてくれる」と水を向け、その子どもの理解をみんなで共有するという対応もあります。
首をかしげるということは、「わからないとは声に出して言えない。でも、先生助けて」そういうメッセージとも取れます。「○○さん首をかしげてくれたね。いいよ、そうやって反応してくれるとうれしいな。何か困ったことがあるの? 聞かせてくれる」とその子どもの困り感に寄り添い、みんなで共有することで他のつまずいている子どもたちも巻き込んで解決していくこともできます。
このように子どもの反応をメッセージだと受け止めて取り上げていくと、次第に子どもは反応するようになっていきます。

教師が板書を始めるとすぐに鉛筆を取ってノートに写す。とてもよい姿にも見えますが、それまで真剣に話を聞いている様子がなければ、「ノートさえ取っておけば困らない」「先生の話はノートを取ることよりも価値がない」というメッセージとも取れます。
教師の話を聞くときに体が後ろに反っていれば、「先生の話はあまり聞きたくない」「とりあえず聞いているふりだけはしていよう」というメッセージかもしれません。

話は少しそれますが、教師が腕組んで、体を反らし気味に子どもの発言を聞いていれば、「私は君たちよりも偉い」「君の話を評価してやる」「間違いがどこか見つけよう」というメッセージと取られることもあります。体をかがめ、前向きな姿勢で聞けば、「どんななこと言ってくれるか、しっかり聞くよ」「どんな話か楽しみだ」、うなずけば、「なるほど」「いいね」というメッセージにもなります。教師も自分が発する言葉にならないメッセージに敏感になる必要があります。

また、グループ活動を取り入れている教室で、教師の説明が終わってグループ活動に移るとき、子どもが伸びをすることがあります。「やっと話が終わった」「退屈だった」というメッセージに思えます。

これらのメッセージに対してどう応えるのでしょうか? 話を短く切り上げるのも対応の一つです。教師の説明ではなく、できるだけ子どもの発言をつないで理解させようとすることもよいでしょう。
どのような対応をするにしても、教師がこのメッセージを受け止めることができなければ話になりません。話を聞かずに窓の外を見ている。「この子はやる気のない、反抗的な子どもだ」と思うのか、「授業がつまらない。わからない。そのことに先生気づいて」というメッセージと受け取るのかで大きく変わります。何も反応しない子どもがみんな、授業に集中して参加し、内容を理解しているわけでありません。一見ネガティブに見えても、反応をしてくれるということは教師に対してメッセージを送ってくれていることだと考え、そのメッセージを受け止めようとする姿勢が大切です。
子どもの言葉にならないメッセージを受け止められる教師を目指してほしいと思います。

板書を写すタイミングをコントロールする

教師が板書をしているときに、ある子どもはノートに写す、ある子どもはじっと板書を見ている。子どもたちの動きがばらばらで気になることがよくあります。板書を写すタイミングは教師がコントロールしないと、板書を使って説明しているのに写している子がいたり、「では、写して」と指示した時には写し終わっていてだれてしまう子どもが出たりします。以前にも書きましたがルール化しておくことが有効な方法の一つです(ルール化する参照)。

原則は「教師が指示しなければ板書は写さない」だと思います。そうしなければ、教師が板書を使って説明しているときに、まだノートを写していて聞けない子どもがでてきます。このルールを徹底するためには、教師は板書に専念してはいけません。ときどき子どもたちの様子を見なければ、どうしてもノートを開いてしまう子どもは出てきます。「ノートを写すのはいつだった」「先生が写してと言わないのに写してはダメだよ」とやさしく注意して徹底させることが大切です。そうならないためには、「静かに先生が書くことを読んでいてね」「教科書の○○ページを読んでいてね」というように教師が板書をしている間にするべきことを指示しておく必要もあります。「今から書くことで一番大事なことは何か見つけてね。後で聞くから」と課題を与えることも効果的です。

板書の量が多く、後で写す時間が取れないときには、「できるだけ速く写してね。鉛筆の先から煙が出るくらい(有名な指示ですね)」「先生と同じ速さで書こう」というように速く書くことを指示します。教師が書き終わった後、全員が書き終えていないのに待ち切れずに説明を始めることも避けられます。こういうときにICTはとても有効です。素早く見せることで無駄な時間をなくすことができます。また、子どもが写すことにあまり意味がないのであれば、あらかじめ印刷しておいて後から渡してもよいでしょう。

また、内容によって素早くノートに写すことをルール化することもあります。「今日の課題はこれです」と言って教師が板書を始めると、すぐに全員が鉛筆を持って素早く写し始める学級があります。これは、「今日の課題」はすぐに写すということがきちんとルール化されている例です。何を素早く写すのか教師が明確にしておいてルール化するのも有効な方法です。

板書を写すタイミングを教師がコントロールするということは、自分が板書をしているときに子どもたちにどのような行動をとってほしいか明確になっているということです。どんな時に写してほしいのか、写してほしくないのかがはっきりしていればルール化も簡単です。また、指示も板書を始める前にきちんとできます。教師が板書を始めてから子どもたちの様子に気づいて、「写して」「写してはダメ」と指示をしているようではいけないのです。子どもたちが板書を写すタイミングを意識して、きちんとコントロールすることを心掛けてください。

授業に「まくら」は必要か?

若い先生の授業を見ると、導入の場面で子どもの興味を引くためにおもしろい話をして教室のテンションを上げていることがよくあります。しかも、その話が学習内容と直接関係ないことも多いのです。根拠を求めないクイズなどもよく見かけます。落語でいうところの「まくら」のようなものです。授業に「まくら」は必要なのでしょうか? なぜ授業で「まくら」が必要だと思うのでしょうか。

一つは彼らの経験上、授業で印象に残っているのがそういう学習内容には直接関係ないがおもしろい話だったからではないでしょうか。先日かつての教え子と私の授業の話になったとき、彼女たちが一番覚えていたのは教科と関係ない無駄話のことでした。ひどい授業をしていたのだと思い知らされました。恥ずかしいことです。
楽しい授業にしたいと思った時に思い出すのがそのような場面のために、どうしてもそこに引っ張られてしまうのでしょう。学習内容で楽しいと思わせる授業を経験させていない私たちにも責任があるようです。

もう一つは、彼らが受け手になる、学ぶ立場になる講演や公開授業、飛び込み授業などでは必ずと言っていいほど「まくら」があることです。そのため、「まくら」は授業に必要なものだと思ってしまうのです。
講演などで「まくら」が必要なのはまず互いに初対面だからです。当然どうしても緊張関係にありますから、それをほぐすために笑いが必要になってくるのです。また、場を温めると同時にその反応から、失礼な言い方ですが聞き手のレベルを探ります。飛び込み授業であれば、子どもたちがどのくらい鍛えられているかをチェックします。ちょっとしたクイズで緊張をほぐし、その時の反応、挙手・発言の様子や内容などから日ごろどのように授業を受けているかを知り、必要に応じて自分の授業のルールを伝えたりもします。たとえ自分の学級であっても、大勢の参観者がいるときは子どもたちが緊張しますので、こういった「まくら」が必要になるのです。

新しい環境への導入、たとえば学級開きや4月の初めての教科の授業、こういう場面では「まくら」はとても大切です。最初の人間関係をつくるには、笑いなどで緊張をほぐし、互いを知ることはとても効果的です。しかし人間関係ができれば、授業の導入で無駄にテンションを上げる必要はありません(授業の導入を考える参照)。もちろん授業の内容につながることに興味関心を持たせる話や笑いを否定しているわけではありませんが・・・。

個別指導が最良の方法ではない

少人数授業を見たり、先生方とお話したりして感じるのは、できない子どもに対しては個別指導が一番の解決方法のように考えられていることです。教師ができない子どもを直接教えればできるようになる。時間的に余裕があれば、個別に指導できるのに残念だ。そう考えられているようなのです。巷でも個別指導塾が流行っているようです。家庭教師も相変わらず需要があるようです。個別指導が最良の方法なのでしょうか。

教師は基本的に正解を知っている、正しいことを言う。学習場面で絶対者です。多くの子どもは教師の言うことを疑うことができません。教師の言う通りにすればできる。教師の指示に従わなければならない。教師の説明を理解しなければいけない。たとえわからないところを自らたずねたとしても、教師が説明し始めれば、基本受け身になってしまうのです。
しかし、学習は自分で考えることが大切です。この考えでいいのか、他にはないのか。自分の考えの方向性が正しいかどうか、自分で判断することも重要です。また、他者の考えを無批判に受け入れるばかりではいけません。その考えを理解し、それが正しいかどうか判断することが必要です。

私は、教師ではなく友だちにたずねることを大切にするように言っています。授業中に教師がわからない子ども全員に個別対応することは不可能だからです。しかし、理由はそれだけではありません。友だちは基本自分と同じ立場です。「あれ、そうなのか?」と疑問をはさむこともできます。教師のように理路整然とはしていないので、相手の言っていることがすぐに理解できないこともあります。咀嚼する過程で、自分で気づけることもあります。教師が個別に教えるよりも、子どもにとってはより学びが多いのです。

個別指導は一つ間違えれば、学習形態の中でも究極の受け身を強いるものになります。個別指導の塾などで学習してきた子どもの中には、自分では何をどう勉強すればよいのかすらわからず、常に教師を頼るようになってしまっている者もいます。個別指導に頼るだけでなく、子ども同士に任せることも積極的に選択肢の中に入れてほしいと思います。

一人ひとりの活躍を意識する

子どもたちには能力差があります。興味を持っていること、得意な事も違います。一人ひとりの特性を活かして、できるだけ多くの子どもに活躍してほしいものです。そのためにはどのようなことを意識すればよいのでしょうか。

大切なのは子どもに応じた役割を与えることです。
たとえば、意外と活躍していないのはできる子どもです。
できる子どもはよくわかっているので、友だちの説明もあまり集中して聞きません。自分は解けるので、聞く必要性がないのです。一方、教師は彼らを指名すれば答えが出てしまうのですぐに指名はしません。それよりももっと低位の子どもに力を割かなければと思っています。彼らもそのことをよく知っているので、わかっていても挙手せずに自分で好きに時間を使っていることもあります。
ちょっと視点を変えて、できる子どもをうまく活かすことを考えてみましょう。その方法は、できる子どもには答を言うことではなく、みんなを納得させることを役割として与えることです。特に自分の考えではなく、友だちの考えを理解してみんなに説明することを求めます。あらかじめ、「あなたの役割は答を言うのではなく、考え方を説明してみんなに納得してもらうという、もっとレベルの高いことだよ。出番が来るまでちゃんと待ってね」と伝えておけばいいのです。教師ではなく、子ども同士が説明し合えるようになっていくと、低位の子どもをそれに伴って次第に理解できるようになっていきます。

説明などは苦手でも、計算の速い子どももいます。「式が立ったね、後は計算すればいいね。計算は○○さんの出番だね。お願いしようかな。いくつになる?」と○○さんに計算するという役割を与え、活躍させます。
漢字の得意な子どもがいれば、友だちが漢字の読みを間違えたら、「○○さん助けてあげて」とお助け係にします。
こうすることで、自分の出番がいつ来るかと集中して授業に参加します。

また、子どもを助手にするのも一つの方法です。
パソコンが得意な子どもには、セッティングを手伝ってもらったり、操作を手伝ったりしてもらう。
理科の好きな子どもは、実験の準備を手伝ってもらう。
・・・

子どもたちの興味や能力に応じて活躍させる場面はきっとたくさんあるはずです。教師がちょっと下がって、子どもたちの出番を増やすことを意識します。そのとき、「○○さんはこれが得意だから、お願いする」ということを学級全体に納得させることが大切です。学級全体がその子のことを認めているという雰囲気をつくるのです。もう一つ大切なのが、必ず「ありがとう」の言葉を活躍した子どもにかけることです。こういったことが子どもに自己有用感を与えます。

余裕のあるときに、一人ひとりの名前と顔を頭に浮かべながら、この子はどんなことが得意だったか、どんなことに興味があったかを思い出し、どんな場面で活躍させられるだろう、どんな役割を与えられるだろうと考えてみてください。この場面であれば○○さんが活躍できる、役割を与えられるというところが必ずあるはずです。少しでも多くの子どもが活躍できることを目指してほしいと思います。

説得と納得

子どもに理解させる場面で、教師はわからせたいと強く思うと、どうしてもくどく説明をしてしまいます。この説明が、子どもからすると「説得」されているように感じることがあります。「わかって」「わかりなさい」と外圧をかけられているのです。そうではなく、自分自身で「なるほどそうだったのか」と「納得」する必要があります。子どもが納得するにはどのようなことを意識すればいいのでしょうか。

まず大切なのは、自分で確かめることです。

・図を描いてみる。図を切り取って動かすといった操作活動をおこなう。
・類似の問題を解いてみる。
・資料を調べさせて、その資料をもとに考える。
・・・

とはいえ、それだけでなかなか納得できないこともあります。そこで大切になるのが子ども同士のかかわり合いです。

・まわりの子どもと確認する。
・グループで相談する。
・全体の場で友だちの考えを聞く。
・友だちの考えをもとに自分の言葉でもう一度説明する。

教師にとっては残念なことかもしれませんが、教師の理路整然とした説明よりも、互いのたどたどしい言葉を積み重ねる方が子どもにとっては納得できることが多いのです。教師が説明していて納得できていない子どもが多いようであれば、繰り返し説明するのではなく、一度子どもに返して、子ども自身で確かめさせる、子ども同士をかかわらせるとよいでしょう。教師の代わりに子どもに説明させるのも効果的です。

子どもに理解させる場面では、教師の説明が「説得」にならないように意識し、子ども自身がなるほどと「納得」できる活動を入れるようにしてほしいと思います。

進歩を実感させる

学力をつける一番簡単な方法は、子どもたちにやる気を持って学習に取り組ませることです。そのやる気を引き出すためのキーワードが「進歩」「進化」です。人は努力の結果が報われないとやる気をなくしてしまいます。絶対的な結果を求めれば達成できないこともあります。「努力は無駄にならない」と言ってもそのことが実感できなければ、次第にやる気をなくしてしまいます。しかし、努力をすれば必ず進歩します。その進歩を目に見えるようにして実感させれば、やる気は持続するのです。そのための具体的な方策を考えてみたいと思います。

進歩を目に見えるようにする一つの方法は客観的な指標を導入することです。時間、数などがその典型です。九九を何秒で言えるか、一定時間に何問解けるか、どれだけ書けるか、どこまで進んだといったことを指標にして定期的に取り組み、進歩を見えるようにします。表に数値を書き込む、グラフ化するなど、見える化を意識すると効果的です。

Before Afterを比較するのも、進歩を実感させるよい方法です。学習の初めと終わりで同じ課題を提示し、その答の違いを見るのです。
たとえば国語の読み取りであれば、最初一読したあとに感想や読み取りを書かせ、学習の最後にもう一度書かせます。そして、それを比べてみるのです。
歴史であれば、たとえば「○○時代ってどんな時代」「○○ってどんな人物」などと学習の最初にたずねます。子どもたちの知っている知識をもとに答えてもよいし、根拠のない無責任な答でもよいのです。ただしあまり時間はかけません。根拠となる知識が乏しい中で話し合っても深まらないからです。そして、単元の最後にもう一度同じことを聞くのです。
音楽・体育なども記録にとって最初と最後のもの比較します。
このようにすることで、授業で学ぶことを通じて自分たちが進歩していることを実感させることができます。単元を通じて自分が学んだこと、進歩したことを書かせておくと、成長の記録とすることができます。1年間を振り返ってみると自分がいかに進歩したかを実感できるでしょう。入学時からこういった記録をとっておくと、より進歩がはっきりと見えることと思います。

もう一つ、これはいつも心掛けてほしいのですが、教師が折りに触れて子どもの進歩を認める、ほめることです。このとき、「みんな進歩したね」と全体をほめるのではなく「○○さん、□□ができるようになったね」「○○君、□□するようになったね。すごいね、進歩したね」と固有名詞で具体的にほめるのです。教師は子どもたちをいちばん身近で見ている存在ですから、ちょっとした進歩も見つけることができるはずです。つねに自分の進歩を認められる学級は子どもたちのやる気があふれています。

授業の中に子どもたちの進歩が目に見えるような仕組みをつくる。進歩を実感できる場面をつくる。ちょっとした工夫が子どもたちのやる気を引き出してくれます。夏休みは時間的、精神的に余裕があります。2学期に向けて、子どもたちのやる気を引き出すためにどんな工夫をするか少し考えてみてください。

授業の無駄な時間を考える

授業を見ていると、この時間は無駄だと感じる場面があります。その多くは子どもが考えていない時間です。授業中の無駄な時間について考えてみたいと思います。

無駄な時間と感じる場面で多いのは、答え合わせの時間です。
問題演習の答え合わせで、子どもが順番に答を言って、他の子どもが「いいです」「ちがいます」と判定する場面が典型です。自分の答と同じであるかどうかの確認をして、間違えた子どもは正解を赤で書き込むだけで、どこで間違えたかを考える間もなく、次へといってしまいます。これでは、間違えたという事実だけが残り、どこで間違えたのかを考えることもできません。
英語のヒアリングの結果の確認などでも、正解を発表して、「あっていた人」と聞くだけでは全く意味がありません。間違えた子どもは、正しく聞き取れなかったのか、それとも意味を理解できなかったのか、そんなことすらよくわからないまま時間が過ぎていきます。正解だった子どもも、どこまできちんと理解できていたかはよくわかりません。

計算問題の答のように単純なもの、ほとんどが正解となるものなら、実物投影機などを使って答を映すというのも手です。すばやく確認をして次に進めばいいのです。問題演習をノートに解く代わりに、フラッシュカードで全体練習にするという方法もあります。
隣同士で確認し合うという方法もあります。このとき、互いの答が違っていれば、もう一度それぞれやり直して再度確認したり、互いに説明しあったりするといったルールをつくっておくといいでしょう。子ども同士だけでは不安なら、後で教師が素早く答を言って確認してもいいでしょう。全員がほとんど正しい答になっているので、時間をかけなくても大丈夫なはずです。確認をした後、隣との確認で間違いを直せた子どもを数人指名して、どこで間違えたかたずねたり、直せたことを評価したりするとよいでしょう。
ヒアリングの例であれば、子どもに聞きとった文を復唱させたり、その内容を言わせたりする。教師が正解を言った後、もう1度聞かせて、できなかった子どもに聞き取れたか、聞き取れたら内容が理解できたか確認するなど、できた子どもには根拠を求め、できなかった子どもにはできるようになるための活動をすることが必要になります。

また、意外に思うかもしれませんが、子どもに意見を言わせる時間が無駄だと感じることもよくあります。大きく2つの場合があります。
1つは、子どもに根拠を求めていない場合です。ただ思いつきで無責任に発言しているだけですから、学級のテンションは上がっていきます。このあと、落ち着いて考える状態をつくるのに苦労するだけで、子どもたちの学びにはつながっていきません。発言に根拠を求める姿勢が大切になります。
もう1つは、子どもの発言を他の子どもたちが聞いていない場合です。教師は一生懸命に聞いているのですが、他の子どもは聞くことを無駄と判断しているのです。多くの場合、このあと教師が発表者の発言を判断して、よい発言と判断した場合はもう1度教師の言葉で丁寧に説明する、そうでなければ次の子どもに発言を求めます。教師の説明を待っていれば、必要な情報は手に入るのですから、友だちの発言を聞くことは無駄なのです。
この場合、友だちの発言を聞くことが無駄でないようにする必要があります。発表の後、教師がすぐに説明するのではなく「○○さんの意見、もう1度言ってくれる」と友だちの発言を聞いていることを評価する、「同じ考えの人いる」「今の意見、なるほどと思った人いる」「○○さんの考えを、説明してくれる」とつなぐ、こういったことが必要になります。

授業をちょっと振り返ってみてください。なんとなく惰性で進めている活動がないでしょうか。この時間に子どもたちが何をしている、何を考えているのだろうか。それは、本当に意味のあることなのか、無駄ではないのか。そんなことを考えてみてほしいのです。無駄な時間と思えるものがあれば、その時間が無駄でなくなるような工夫を考えてみてください。きっと授業がよい方向へ変わっていくと思います。

動画(ビデオ)を見た後、その内容を説明する?

実際には見ることが難しい天体の動きや過去の映像などを見せるのに、動画(ビデオ)は威力を発揮します。よい教材が増え理科や社会では活躍する機会も増えていると思います。しかし、子どもは集中して見ているようですが、意外にその内容は理解していないことがあります。子どもたちの気づきを共有化して、その場面を確認しようとしても、動画ゆえに難しいところもあります(動画の活用の注意点参照)。そこで、つい教師が確認の意味でその内容をもう一度説明することがあります。これでは、動画を見せただけ時間が余分にかかり、子どもたちの活動の時間がなくなってしまいます。どんなことに注意をすればいいのでしょうか。

「○○についてのビデオを見よう」では、子どもたちは漫然と画面を眺めてしまいます。まず、子どもたちに疑問を持たせる必要があります。この動画を見ることで、どんな疑問を解決しようとしているのかを明確にしておくのです。目的・目標を持たせると言い換えてもよいでしょう。子どもたちに仮説を持たせ、その答を動画から見つけるのもよい方法です。目に見える形で黒板やノートに残すようにすると明確になります。また、見た後の活動も伝えておく必要があります。「あとで、○○の理由を聞くからね」「○○についてみんなの考えを聞くからね」と指示しておくと意識も変わってきます。

小学校の高学年以上であればメモ取るように指示することも大切です。何が大切かを意識して見るようになります。教師は子どもと一緒に画面を見ているようではいけません。内容を事前に知っているのですから、子どものようすを見ることに専念できるはずです。子どもはどこに反応しているか、どこでメモを取っているか。この情報がその後の展開に生きてきます。
「○○さん、△△の場面でうなずいていたけど、どういうこと」「□□の場面でメモを取っていたけど、どんなことを書いたか聞かせてくれる」と内容の確認や気づきの共有化のきっかけになります。

動画を見せても理解できていないと感じたなら、教師が再度説明するのではなく、子どもたちに内容を問いかけて答えさせればよいのです。もし、答えられないようであれば、意識して見てはいなかったということです。1度は、もう1回見せてもよいかもしれません。次回からは意識が変わるはずです。また、動画を見た後その内容について話し合うことが常態化していれば、自然に意識して見るようになります。

どんなに優れた動画でも、見る必然性を持たせないと子どもは受け身の時間を過ごすことになります。教師が積極的にかかわり、動画の内容をもとに考えさせる場面をつくることで初めて動画は生きてくるのです。動画を見る前後にどのような働きかけをし、どのような活動をさせるか、再生中には何に注目するか。このことを明確にした上で活用してほしいと思います。

「わからない」にどう対応する

説明のあと、子どもが「わからない」と言ったときどのように対応しますか。もう一度、同じ説明を繰り返しますか。それとも、どこがわからないか聞きますか。子どもの「わからない」にどう対応すればよいか、考えてみたいと思います。

子どもにとって、同じ説明を繰り返されると、「わかりなさい」「この説明がわからないの」とプレッシャーをかけられることになります。そこで、教師は違った説明をするのですが、今度はさっきと異なる説明なので、余計に混乱させてしまうこともあります。いくつかの説明を準備しておくことは大切ですが、子どもに応じてどのように説明するかは難しいものです。

一方「どこがわからない」と聞くことは悪い対応ではありません。しかし、どこがわからないか自分で言えることはかなり高いレベルです。答えられないことも多いはずです。そこで、算数や数学などでは「ここまではわかる?」とステップごとにどこがわからないか、どこまでわかったか確認していくことになります。一つひとつ確認していって最後まで「わかった」はずなのに、「わかったね」と聞くと、「わからない」と返ってくることもよくあります。
こういう場合、子どもは「なぜこんなことを考えるのか」と課題そのものの必然性がわからないためにつまずいてしまっていることが多いようです。子どものわからないと、教師の説明がずれてしまったわけです。子どもが何につまずいているのか見つけることは、経験ある教師にとっても難しいことです。

色々な説明を試みる、子どもがどこでつまずいているか見つけて説明することは有効な手段の一つですが、発想を変えて子ども同士に任せるという方法もあります。
「わからない人は他にもいるかな」とたずね、「どこがわからないか教えて」と聞きます。どこがわからないか答えられない子どもがいても、他の子どもから引き出すことができます。
「助けてくれる人いる」と子どもに説明させると教師の説明よりもすんなり理解してくれることもあります。説明を聞いているようすを客観的に見ることができるので、どこにつまずきがあったのかもよくわかります。
説明できる人がいない、わからない子がたくさんいるのであれば、グループやまわりの子どもで相談させることも有効です。友だちと相談してわかった子どもに全体で発表させ、何人かに補足させると、つまずいていた子どももよくわかるようです。

わからない子どもをわかるようにするのは教師の務めです。そのため、教師はわからせなければならないと説明しすぎる傾向があります。教師が一生懸命に説明すればするほど子どもにプレッシャーがかかり、子どもが引いてしまうこともよくあります。ちょっと肩の力を抜いて、思い切って子ども同士に任せることも大切です。教師が思う以上に子どもたち同士でわかりあえるものです。

子どもたちの成績がよいからと安易に妥協しない

子どもたちの成績がよく、通塾率も高い、いわゆる文教地区の学校を訪問してよく感じるのはが、授業における子どもと教師の関係の希薄さです。教師は淡々と説明をしている、子どもはとりあえず大人しく聞いている姿勢をとる。教師の質問に対して、わかっていても挙手しない。教師も質問しても反応がないので、ますます一人でしゃべっている。このような状態でも、子どもたちの成績はよいので、問題と思わなくなる。成績がよいことで、安易に妥協してしまっているのです。
ちょっと荒れた地区であれば、あっという間に学級が崩壊するような状況です。子どもたちのどこに原因があり、教師は何を変えていけばよいのでしょうか。

子どもたちがこのような状態になるのは、学習に対する価値観が試験の成績に偏っていることが大きな原因だと思います。こうなると、効率的に試験の点が取れるように子どもたちは行動します。試験に出題されることには敏感ですが、それ以外のことには興味をなかなか示しません。教師が、板書したことから出題するのであれば、板書だけは必ずきちんと写します。教師が話していても、写すことを優先します。こうなると教師も子どもの関心を引くために、「試験に出す」といった利益誘導の言葉を使うようなり、悪循環に陥ってしまいます。彼らは、勉強はおもしろいものだとは思いません。試験に出ることを覚える、点を取れるように訓練する作業に近いものなのです。また、教師も勉強とはそういうものだと思っていれば、この状態はまず変わることはありません。

では、試験でよい成績をとることの価値を否定すればよいのでしょうか。この価値を否定すれば、試験そのものの意味が大きく揺らいできます。ふだんの試験はまだしも、入学試験がある現実を考えればナンセンスです。
大切なのは、結果を覚えることではなく、その過程、学ぶことに価値を見出させることです。知識そのものではなく、知識を組み合わせて問題を解決することを大切にするのです。一人ではすぐに答が出せないことを、みんなでかかわりながら考え解決することの楽しさを経験させるのです。そして、試験でも単に知識を覚えれば解ける問題ではなく、授業で経験したような考える問題を出すのです。

たとえば歴史で、「ペリーが日本に来て開国を迫り、日米和親条約が結ばれ鎖国が終わった」。これは大切で試験にもよく出ます。しかし、ペリーが来たのは、なぜこの時期だったのか。日米和親条約の結果、世の中の何が変わることになるのかなどを問うのです。事実をもとに考え、それに関する他の事実を調べ、点の知識を線でつないでいく。このような課題を子どもたちに課すのです。正解は一つとは限りません。一問一答で知識を確認するのではなく、教師が言葉をつなぎながら、友だちのいろいろな考えを聞くことで自分の答えを見つけていく。そして、この課程で子どもたちの活動をポジティブに評価するのです。正解が評価されるのではなく、たとえ不正解やずれた発言でもその価値を認めるのです。

試験でよい点を取るのと同じかそれ以上の価値を、授業に参加することに見出す。そして、そのことを価値づけてくれるのが教師や友だちであれば、授業の雰囲気は間違いなく変わっていきます。
教師が子どもと同じように、試験の結果だけを評価するのではなく、より高いものを子どもに求めるのです。その価値を子どもと共有することで、子どもと教師、子ども同士がかかわりあう関係が育っていくのです。子どもに安易に妥協するのではなく、高いものを子どもに求めてほしいと思います。

子どもの「何」を見る

「子どもを見る」ということは教師の基本です。若手に対するアドバイスで最も多いのは「子どもを見なさい」かもしれません。私も子どもを見ることを大切にしていますが、ただ「子どもを見なさい」では、アドバイスにはならないと思っています。「子どもを見る」とは子どもの「何」を見ることかを明確にしなければならないのです。

先生方と一緒に授業を参観すると、同じ教室を見ていても入ってくる情報が人によって違います。たとえば、友だちの発言を集中して聞いていない子どもがいても、そのことに気づかない方がいます。教師と発言している子どものやり取りに注意がいって、他の子どもが目に入らないのです。また、子どもが顔を上げて聞いてはいるが、理解できていないなと感じる状態でも、「子どもたちは理解していると思いますか」と聞いてあげないと、そのことに気づかない方も多いようです。
当り前のことですが、見ようと意識しないものは視野に入っていても見えないのです。リラックスして見ることができる他の人の授業でこれですから、自分の授業ではなおさらでしょう。

授業中に友だちの発言を聞かない子どもが多いときは、友だちの発言を聞いているかどうかを教師が意識していないことが一つの原因です。子どもが理解していないのに先に進んでしまうのは、子どもが理解しているかどうか見ようとしていないため、その事実に気がついていないからです。
子どものどんな姿が見たいか意識していなければ、その姿を見ることはできません。見ていても気づかないのです。ですから、先生方と一緒に授業を参観して、具体的に「何」を見る、子どものようすから「何」が見えるかをお伝えするのです。

また、見ようとしているがよくわからないというのであれば、見えるようにすればいいのです。聞いているかどうかわからなければ、「○○さんの言ったこと、もう一度聞かせてくれるかな」とたずねればいいのです。理解できているかどうかわからなければ、「今言ったこと、もう一度説明してくれるかな」と確認すればいいのです。

反対に見たくないものからは目をそむけます。話すときに教科書やノートに視線を落として、子どもを見ない方にたまに出会います。こういう方に「子どもを見ましょう」と言ってもなかなか改善されません。多くの場合、授業中に子どもを見ると見たくないもの見てしまうからです。聞いていない子ども、音読していない子ども・・・。教室を見ると、きっとそういう子どもがいるはずです。教師が見ないからそうなったのか、そのような子どもがいるから見なくなったのかはわかりませんが、その状況に対応する方法を明確にしなければ、子どもを見ることができるようにはなりません。ですから、この場合は「子どもを見ましょう」ではなく、「このような子どもにはどう対応しましょう」と考えることが大切になります。

目指す子どもの姿を具体的に意識して、その姿を見よう、見たいと思わなければ決してその姿は見えません、見えるようにはなりません。子どもの「何」を見たいか、一度リストアップしてみることをお勧めします。

何が大切か判断する力をつける

授業中、「ここが大切」だと教師が強調することがよくあります。子どもたちに意識させて、しっかり身につけてほしいからです。「大切だから試験に出します」といった表現もよく耳にします。しかし、いつも教師がここが重要だ、大切だと子どもに示していると、自ら判断する力がいつまでたっても身につきません。

自分で学習することを考えれば、何が大切か、どこがポイントかを自分で判断する力が重要なのは間違いありません。いつも受け身で教師の指示に従い、板書を写し、教師が示す重要なところに線を引き、それを覚える。確かにその教師がつくる試験にはこれで十分対応ができますが、これが勉強だと勘違いしてしまっていては困るのです。自ら学べる子どもにするためには、判断する場面をたくさん経験することが大切です。たとえ判断を間違えても、その経験を積み重ねることで正しい判断ができるようになります。

最近はあまり聞かなくなりましたが、私が学生の頃は試験に「山を掛ける」ということをよくやっていました。あまりほめられてことではありませんが、試験の範囲をすべてやる代わりに、出題されそうなところを集中して勉強することです。山が当たる当たらないで、結果は大きく違います。しかし、試験には重要なことが出題されるわけで、何が重要かを判断するという意味では、あながち間違っているとはいえない学習方法なのかもしれません。

要は何が重要かを判断するというメタな力をつけることを意識してほしいのです。子どもは楽をしてよい点数を取りたい。教師は大切なことを身につけてほしい。両者の思惑が一致して、「ここが大切」と教師が伝える授業をつくっているのです。しかし、ここで止まってしまっては、結局誰かに教えてもらわなければ、極論すれば「ここが試験に出る」と言ってもらわなければ、勉強できない子どもになってしまうのです。目先のことにとらわれすぎてはいけないのです。

「今日の授業で何が大切だったか」
「何がわかれば、よかったか」
「他の場面でも利用できそうなものは何か」
「いつでも言えることは何か」
「共通していたことは何か」
「何が今までと異なったか」
・・・

教師が常にこのような問いかけをし続けることで、自ら問いかけるようになっていきます。その結果、何が大切か、重要かが明確になり、自ら判断できるようになるのです。

人は一生勉強を続けなければいけません。子どもたちにその基本となる「学ぶ力」をつける必要があります。その一つが、「何が大切かを判断する力」です。こういう目に見えにくい力をつけることも意識してほしいと思います。

つまずきを明確にする

算数や数学のように積み重ねが大切な教科は、単元を進める前提となる部分ですでにつまずいてしまっていると授業についていくのが難しくなります。とはいえ、授業でもう一度やり直してから新しい単元に入るのも時間的に難しくなります。どのようにすればよいのでしょうか。

まず教師が、新しい学習内容を理解するために必要となる知識や考え方をきちんと整理しておく必要があります。たとえば、連立方程式の学習であれば、1元1次方程式を解くことができなければ、文字を消去できても正解にはいたりません。1元1次方程式であれば、正負の数の四則演算や文字式の計算がきちんとできていなければ、式の変形はできても正解にはいたりません。これから学習する内容を支えるものはどんなものか、細かく意識しておくのです。
その上で、事前にその内容の確認のテストをおこなったり、授業の最初の数分間に復習をするなどしたり、子どもにその内容を意識させます。大切なのはこの内容が身についていないと新しい単元で困ることを子どもが理解し、身につけようと思うことです。身についていないと気づいた子どもに対して、具体的に何を勉強すればいいか指示を出す、復習のための説明の書かれたプリントを用意して課題とする、放課後に個別に指導するといった対応が求められます。負担だとは思いますが、必要なことなのです。ポイントは多くを求めるのではなく、新しい単元に必要な最低限のことに絞ることです。こうすることで、教師の負担も子どもの負担も減ることになります。

授業中も、新しく学習したことと既習事項とを明確に区別しながら進めます。連立方程式であれば、文字の消去が終われば、ここからは1元1次方程式の問題であることを伝えます。ここまでできて、その先で間違えたのであれば、1元1次方程式の復習が必要であることを意識させるのです。問題演習も○か×かではなく、文字の消去まで、消去した後と分けてチェックします。教師が正解を解説するのであれば、文字の消去ができたかどうかで一旦確認することが大切です。ここまでできた人は2年生の内容を理解できていると評価するのです。その上でここからは1年生の内容だねと明確に既習事項と分けます。教師が○つけするときも、消去までできていればまず、そこに○をつけることが必要です。答が違っていても文字の消去ができていれば、「ちゃんとわかっているね」とほめて、「なんだあとはここができればいいだけじゃない」と1年生のことができるようになればOKだと前向きに捉えて励まします。こうすることで、子どもに前に戻って勉強をやり直す気持ちにさせるのです。

積み重ねが必要なものは、つまずいたところまで戻ることが必要です。そのためには、どこでつまずいているかを子どもがはっきりと理解し、ここができるようになれば自分できるようになるのだと、前向きにとらえることが大切です。
チェックのためにテストをステップに分けてきめ細かにつくる。授業中の机間指導でここを勉強すればいいと具体的なアドバイスをする(既習事項を授業時間内でできるようにしようと無理をしない)。本当につまずいているところ見つけ、そこまで戻ってやり直そうと前向きな気持ちにして、何をすればよいか具体的に示す。教師の負担も大きいですが、つまずいている子どもに寄り添って、やり直そうという気持ちを支えてほしいと思います。

「わからないところ」から始める

問題演習では、解いた後、子どもや教師が正解を説明するという進め方が多いように思います。問題を解いた後、いつもすぐに正解が説明されると、解けなかった子どもはどのように考えるでしょうか。正解の説明から自分がつまずいていたところが理解できれば、ここに気づけばよかった、ここが大切だと学べます。しかし、問題が複雑になってくると、正解の説明を聞くだけではつまずきの原因をなかなか見つけることはできません。結局正解を写して、やり方を覚えようとします。このようなことが続くと、だんだん自分で考えようとしなくなり、早く正解を示してほしいと考えるようになります。これでは力はつきません。どのようにすればいいのでしょうか。

以前にも書きましたが(「わかった」は禁句!?参照)、「わかった」から出発すると、わからなかった子どもは参加できなくなります。子どものつまずきから出発する必要があります。
解答をするときに、「わかった人」ではなく、まず「困った人」と聞きます。

「問題を解いていて困ったことなかった。○○さん」
「・・・がよくわかりません」
「なるほど、・・・がよくわからなかったんだ。同じところがわからなかった人いる」
「いるね。○○さんが言ってくれてよかったね。じゃあ、みんなでわかるようにしよう」

子どもがつまずいているところが明らかになれば、みんなでわかるように助ければいいのです。ヒントをいう、何をしたか、何を考えたか発表し合う。このような活動をすることで、つまずいた子どもも何をすればよかったかを気づくことができます。こういう経験を積むことで、自分の力で解けるようになっていきます。このようにすることで、正解を発表する時も、答そのものではなくどう考えたか課程を言えるようになっていきます。

また、問題を解いているとき、子どもの手が止まっている、見通しが持てていない状態であることに気づけば、一旦作業を止めて、困っていることを聞くようにするとよいでしょう。

いつも正解からではなく、わからないところから始めることを意識してほしいと思います。

練習を意味のあるものに

学習には訓練的な要素があります。できるようになるためには練習も必要です。漢字の練習、計算練習などは学習として必要なものだと思います。練習で気になるのはできるようになるという本来の目的に対して、やったかどうかを問う傾向にあることです。たとえば、宿題であればやってきたどうかをチェックしますが、なかなかその質を問うことはしません。なかには適当に穴を埋めて終わってしまう子もいます。
よくおこなわれるのが、小テストと組み合わせることです。練習したことが評価につながるので、一生懸命にやる可能性があります。しかし、よい結果がでれば練習したことが報われますが、しっかりやったのに結果が出なければ自分はダメだとやる気を失うことにもつながります。結果が出ない努力は次第に苦行と化していきます。やってもダメなら手を抜くようにもなります。報われない努力はどうしても続きません。練習を意味のあるものにするにはどうすればいいのでしょうか。

練習の評価をやったかどうかだけでなく質や量も評価し、その積み重ねを評価することが大切になります。
漢字の練習であれば、字の丁寧さ、何回練習したか。計算練習であれば、正解率、何問解いたか。こういうことを評価します。授業中の練習であれば、教師がその場できれいに書けている字や正解に○をつけてあげるとよいでしょう。宿題であれば、チェックを教師がすべてするのではなく、子ども自身にどれだけやったか、正答率はどうであったかと表やグラフにさせるとよいでしょう。努力の結果を見えるようにすることでテストとは違った達成感を持たせることができます。教師は、子どもが自分で評価できないことをチェックするようにします。もちろん、評価はできるだけポジティブにします。小テストなどで結果がすぐに出なくても、練習そのものがほめられる、評価されることにつながれば、楽しいものに変わりやる気も出ます。

もちろん小テストなど練習の成果を評価することでやる気を出させることも大切です。本来練習は結果を出すためのものなのですから。このとき、1回ずつできたできなかったかだけでなく、前回と比べてどうだったかという進歩も評価することが必要です。前回と比べて正答率が上がったか、週単位、月単位ではどうか。子どもたちの進歩を見える形にする方法はいくらでもあります。自分が進歩している実感を持てれば、練習をすることは苦になりません。毎回違った子どもがほめられるような小テストでありたいものです。

練習はただやればいいものではありません。意欲的に取り組むかどうかでその効果は大きく違ってきます。練習することがポジティブな評価につながるような工夫してほしいと思います。
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