教え子から元気をもらう

先日すぐ近くに住む教え子に招待されました。卒業後(30年近く経っています)一度もあっていない友人がお盆で帰省するので、仲のよかった者同士4人で集まることになったそうです。そのうち3人が高校1年生の時に私が担任する学級にいたので、私にもお声がかかったという訳です。

40代も半ばを過ぎ、彼女たちもすっかり落ち着いて見えましたが、話をしていると当時の元気いっぱいな姿が思い出されます。彼女たちからパワーをもらって私も少し若返ったような気がしました。
今でこそ、偉そうに多くの先生方にお話をさせていただいていますが、当時の私を今見れば眉をひそめることばかりでしょう。未熟な私が担任であっても立派な社会人になった彼女たちを見ると、人が成長する力の素晴らしさを感じずにはおれません。
彼女たちと10歳違いの私です。教え子が今の自分と同じ歳になったときには自分を越えるような者がたくさんいるだろう。しかし、10年分自分も進歩して、彼らに負けないでいたい。当時はそんな風に思っていました。
あれから30年以上経った今、私はどれほどの進歩をしたでしょうか。教え子の中にはすでに学校の管理職になっている者もいます。もうすっかり追い越されているのかもしれません。しかし、そう思うことがちょっぴり嬉しくもあります。教師を辞めた今でも教え子の成長は何よりも励みになります。私がいつまで現役を続けられるのかわかりません。しかし、教え子たちのいきいきとした姿から、まだまだ私も進歩しなければと元気をもらいました。声かけてくれてありがとう。

コミュニケーション力を考える

コミュニケーション力ということがよく言われます。企業の採用でも一番重視されるのはコミュニケーション力だと聞きます。しかし、私が耳にするコミュニケーション力のとらえ方に違和感を感じることがあります。

一つは、プレゼン力という言葉で置き換えられることが多い、発信する力に偏っているということです。一方的に自分の考えを伝える。いかに、自分を認めさせる。そこにエネルギーを使っているように感じます。相手の事をわかろうとする。相手の言葉を理解しようとする。そういうことを軽視しているのではないでしょうか。
互いに発信するばかりでは、コミュニケーションは成り立ちません。受け止める姿勢が大切です。プレゼン力も、自分の考えが相手にどのようにとらえられているのか、相手の立場に立てばどのように聞こえるのか、感じるのか。そういう聞き手意識を大切にし、相手の表情、反応に合わせて変化できることが求められます。

もう一つは、受容のあり方です。相手を受容することがコミュニケーションでは大切です。しかし、「なるほど」「すばらしい」という受容の言葉を使うだけで、かかわり合いが表面的なもので終わっていることが多いのです。コミュニケーションには、相手の考えを理解し、それを深めていくことが求められますが、そこまでは踏み込まず、互いに表面的に認めあって終わってしまっているのです。互いに傷つくのを恐れているようにも感じます。コミュニケーション力は、ぶつからない力、仲良くやる力ではないのです。ぶつからない、仲よくするに越したことはありませんが、互いの考えを理解しわかり合う、そういう力だと思います。具体的に相手のどこに共感するのか、またどの部分が納得できないのか、それを明確にして伝え合うことが大切です。たとえそこで摩擦があってもきちんと伝え合うことで、解消できるはずです。そこまでできて、初めてコミュニケーション力があると言えるのだと思います。

また、集団で一つのことに取り組んでいるとき、自分から発信はしなくても、全体を見て欠けているところを補う、自分がやるべきことを言われなくてもできる。そういう人もいます。目立たないためなかなか評価されませんが、みんなの状況を理解し、自分の考えを行動で示しています。これも広い意味でのコミュニケーション力だと思います。

学校でもコミュニケーション力ということが言われるようになってきました。コミュニケーション力を考えるときに、発信ばかりにこだわらない。表面的な受容ではなく相手をきちんと理解する。集団の中で自分の役割を意識する。こういうことも意識してほしいと思います。

美術館で考える

先日久しぶりに美術館に絵を見に行きました。今回の目玉はフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」でした。これ以外にも、レンブラントやルーベンスなどの素晴らしい作品をたくさん目にすることができ、とても充実した時間を過ごすことができました。

人気の「真珠の耳飾りの少女」を最前列で見るためには並ばなければなりません。係の方が立ち止まらずに移動しながら見るように呼びかけています。ある男性が、「止まらずにどうやって見るんだ」とつぶやいていました。確かにそうですね。私は最前列で見ることはあきらめ、少し遠くなりますが並ばずに立ち止まって見ることを選びました。じっくり見ることで初めてわかることもあります。素晴らしい作品であるからこそ、落ち着いてじっくり見たいものです。

授業でもこれと似たことを感じることがあります。
進度の関係でここまで進まなければならない。とりあえずは説明だけしておく。こういう場面を目にすることがあります。悪い言い方をすれば、言い訳づくりの授業です。こうなる原因に、教師が教科書の内容を説明しなければならない、授業で扱わなければ学習したことにならないという考え方があります。子どもも、授業で教えてもらわなかった、扱わなかったことが試験に出れば不平を言ったりします。知識を教えてもらう、扱った問題しかできない。それでは力がついたことにはなりません。自ら知識を得ようとする。見たことがない問題でも解決できる。そんな子どもに育てることが大切です。
すべての教材、内容が同列でありません。その単元でじっくり取り組むべきものを選ぶ必要があります。時間をかけてその課題に取り組むことで、必要な知識を自分で得る、どのような考え方をすれば課題を解決できるかがわかる。そのような教材に時間をかけるのです。力がついてくれば、教師が説明しなくても、自分の力で考え理解することができるようになります。授業ですべての内容を詳しく扱わなくても、自分でその隙間を埋めていくことができるようになるのです。

私の高校時代は「学校は何を勉強すればよいかを教えてくれるところ。勉強は自分でするもの」というのが当り前の感覚でした。そういう感覚を持った子どもに育ててほしいのです。
美術館で名画を鑑賞しながら、ふとこんなことを考えてしまいました。

夏休みの研修をどう活かすか

8月に入って、夏休みの研修も本格化してきます。私もいくつかお声をかけていただいていますが、授業のないときの研修なので、講演や全体研修のような形式が多くなります。受講者が受け身にならないような工夫が必要になります。
一方、受講者の立場でいえば、よい話を聞けた、勉強になったと思っても、授業がないのですぐに試すことはできません。2学期になるころには感動も薄れて、結局何も変わらなかったりします。そのためか、夏休みの終わりに研修をおこなうところも多いようです。

夏休みの研修を活かすには、学んだことを自分の授業に当てはめ、できるだけ具体的にしておくととよいでしょう。教科書を開いて、2学期の最初の単元でどう活かすかを考えます。早く授業をやってみたい、そういう気持ちになるはずです。そこで、ポイントとなること、意識したいことを教科書に書きこんだり、付箋紙に書いて貼ったりします。こうすることで、2学期になって授業をしようと教科書を開いたときに、研修を受けた時の新鮮な感動を思い出せるはずです。

また、研修でメモしたことをそのまま記録としてしまっておかずに、読み直しながら要点を箇条書きにして、その一つひとつを付箋紙に書くという作業をしてみるのもよいと思います。そして、教科書を広げて活かせそうなところにこの付箋を貼っておくのです。自分で整理し直すことで学んだことが定着します。このような作業は時間に余裕のある夏休みだからこそできることでもあります。

夏休みだからこそ、余裕をもってじっくり研修を受けることができます。これに限らず、自分なりの研修を活かす工夫をいろいろとしてみてください。「いい話だった」「勉強になった」と感動しただけで終わらせないようにしてほしいと思います。

冷蔵庫の修理で、横並び意識を考える

先週、冷蔵庫の製氷機能がおかしくなって、氷ができなくなってしまいました。何とかならないかと色々手を尽くしましたが、何ともならず、週末に修理をお願いしました。夏場は環境が過酷なため修理依頼が多いようです。それでも、昨日サービスの方が来てくださいました。
あらかじめ詳しく情報を伝えてあったので、故障個所のあたりはついていたようです。2、3確認した後、自動製氷のユニットが怪しいということですぐに作業に入りました。手際良くユニットを引き出すと、ケースのモータを支えている部分が割れていました。貯氷庫の中で氷が偏っていたため満杯であることを検知できずに無理に製氷皿を回そうとしたのか、ドアがきちんとしまっていなくて霜がついてしまいモータの動きを妨げてしまったのが原因のようです。サービスマンの話では、愛知県は高温多湿のため、特に後者の原因での故障が多いようです。日に3〜4件はあるそうです。30分足らずでユニット交換して修理は終わりました。

ここで思いもかけないことがありました。このメーカーではこの故障に対応するために、ユニットの遊びを少し大きくして、できるだけ汎用的にしたそうです。こうしてコストを下げた上で、ユニット交換で済む場合は無償対応にしたのです。我が家の冷蔵庫は購入してもう7年になるものです。有償でも文句は言いません。買い替えなくて済むだけでも感謝です。それを、本来であれば1万円以上の費用がかかるところを企業努力で無償にしてくれたのです。このメーカーのファンになってしまいます。
ところが、この対応をいつまで続けられるかわからないというのです。コストの問題かと思ったらそうではないのです。他のメーカーから苦情がきているのからなのです。このメーカーは無償で修理しているのに、他のメーカーが有償なのはおかしいとクレームがくるため、このメーカーに他のメーカーが有償にするよう申し入れているのです。
お客さまに喜ばれるように企業努力をしているのに、その足を仲間が引っ張るのです。自分たちも負けずに企業努力をすればいいことなのですが。

これと似た話を学校現場でも目にします。
たとえば、学級通信を出そうとすると、同じ学年の人から出さないように圧力がかかるのです。隣の学級で出されるとなぜ出さないのかと保護者から言われるからです。信念があって出さないのなら、そのことを伝えればいいのです。それに代わることをしているのであればそれでいいのですが、なぜか同僚の足を引っ張るのです。
ICTの活用でも似たような話があります。若い教師が積極的に利用すると、子どもたちがなぜ自分の学級では使わないのかと担任に言ってきます。だから、使わないようにしてくれと言うのです。
同様に、学校独自の取り組みでも、まわりの学校から控えてほしいとプレッシャーがかかることもあります。校長会で問題にされたりすることもあるようです。
よくない取り組みだからやめろというのでなければ、プレッシャーをかけるということは、よいと認めているということです。素直にまねをしてもいいし、それに代わる工夫を自分の学校でしてもいいわけです。互いに切磋琢磨すればいいのですが、なかなかそうはいかないようです。

とかく学校はこの手のことでやり玉に挙げられるのですが、どうやら学校だけのことではなさそうです。横並び意識を全面的に否定する気はありません。低いレベルにそろえるのではなく、高いレベルにそろえればいいのです。冷蔵庫の修理をきっかけにこんなことを考えました

学校の授業を考える

ある学生の方から、学校の授業よりも予備校の授業の方が役に立ったし、教科のおもしろさがよくわかって、受験ということを差し引いてもよかったという話を聞きました。何人かに聞いてみても同じような意見です。私が高校生のころは、予備校は受験のためのテクニック的な話が多く、学校の授業はその教科のおもしろさを伝えようとしていたというように感じていたので、ずいぶん印象が違います。そのことを知り合いの先生に話したところ、予備校の先生は授業(講義?)のことだけに専念できるけれど、今の学校の先生は授業以外の仕事が多い。部活動や校務、生徒指導などで、授業をしている以外の時間のほとんどを使われる。条件が違いすぎる。なるほど、たしかにそうです。この理屈は、学習塾にも当てはまるのかもしれません。

ちょっと違った視点でみると、教科のことに専念したければ予備校の講師や塾の先生の方がよいということにもなります。では、学校の教師は? 私が思うに子どもの成長をトータルで支えることがその魅力なのだと思います。だからこそ、部活動や生徒指導にあれだけ頑張れるのです。しかし、だからといって授業の質が予備校や塾より劣ってもよいということにはなりません。子どもをトータルに見ているからこそできる授業があるはずです。話術やネタのおもしろさで引き付ける、これが試験に出るからと目先のことで引き付ける、それとは違った方向性があるはずです。そこにエネルギーを使わなければ、学校は部活動や友だちと話をする社交場で、勉強は予備校や塾でする。そんな歪んだ図式になってしまいます。では、学校の授業は予備校や塾とどう違うべきなのでしょうか?

それは、子どもたちがかかわり合うということです。一方的に講義を受ける、これが試験に出るからと受け身で覚える。そういうものではなく、互いにかかわり合いながら、高めあう。それは、子どもたちが学校という共同体の中で互いにかかわりながら暮らしていて、彼らを教師がトータルに見ているからこそできることだと思います。部活動や生活指導に頑張っている先生を見ると本当に頭が下がります。しかし、子どもたちのトータルの成長には学習はとても大きな要素を持っています。それこそ、学校が死守しなければいけない最たるもののはずです。時間がないからといって、予備校や塾に明け渡してもいいのでしょうか。同じ土俵で戦う必要はないのです。子どもが自分で考え、伝え合い、学び合う授業を目指せばいいのです。

先日紹介した玉置崇先生の著書(「スペシャリスト直伝! 中学校数学科授業 成功の極意」が届く参照)の冒頭、第1章「玉置流授業づくりの大原則30」の「大原則1 玉置流授業の定義」にこう書かれています。

「講義」…その時間で一番大切なことを教師が言うのが講義
「授業」…その時間で一番大切なことを生徒が言うのが授業

そして、

授業とは、その時間で一番大切なことを、学ばなくてはいけないことを、
・生徒自ら気付き、発する
・生徒が教師の指導により気付かされ、発する
・生徒と仲間との学び合いにより気付き、発する

まさにここを目指してほしいのです。

夏休みは、部活動に専念できると頑張っておられる方も多いと思います。ちょっと、立ち止まって2学期以降の授業に思いを馳せてください。先ほどの定義にあったような授業はどのようにすればできるのだろう、どのような発問をすればいいのだろう、どのように受け応えればいいだろう。そんなことを考えてみてほしいと思います。イメージできなければ、本を読んだり、同僚と話し合ってみてください。多少は余裕のある夏休み(予備校や塾は稼ぎ時?)だからこそ、是非授業のことを考えてほしいと思います。

「スペシャリスト直伝! 中学校数学科授業 成功の極意」が届く

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昨日うれしい書籍が届きました。小牧市立小牧中学校長の玉置崇先生の新著「スペシャリスト直伝! 中学校数学科授業 成功の極意」(明治図書)です。玉置先生とは25年以上おつき合いさせていただいていますが、この本の中で玉置先生の授業を一番多く見たと紹介していただいています。玉置先生からは本当に多くのことを一緒に考え、学ばせていただいています。授業を見ていて、疑問を感じたり、どう考えればいいか迷ったりしたときに、頭の中で「この場面をどうとらえて、どう切り返すか。先生ならどうされますか」と尊敬する先生に問いかけることがあります。その先生の思考法、授業技術をもとに考えるのです。数学の授業だけでなく、すべての教科、場面で間違いなく一番多く問いかけている相手が玉置先生です。

第1章「玉置流授業づくりの大原則30」は、数学だけでなく多くの教科に共通する授業の原則がたくさん書かれています。つき合いの長い私の目には、その原則の背景も浮かんできます。そこには、自ら出会いを求め、学び続けてきた玉置先生の姿が、玉置先生が学んできた多くの先生の姿と重なって見えます。

第2章「学習指導要領のここを外すな!」は学習指導要領に書かれているが、実は見落とされやすいことをコンパクトにまとめています。試験の問題が解ければいいという発想の授業ではなく、数学を学ぶということはどういうことか、数学を通じてどのような子どもたちを育てる授業を目指すのか、学習指導要領を例にして玉置先生の思いが語られています。

第3章「これを使えば必ず盛り上がる! とっておきのテッパン授業ネタ」は、タイトルから見れば単なる How to に思えますが、そうではありません。授業を通じて、子どもたちに何を考えさせたいのか、考えさせるべきなのか。それは教材とどのようにかかわるのか、どう発問し、どのような活動をすることで可能となるのか。この章を読み解くことで見えてくると思います。もし見えなければ、下手にアレンジなどせずに素直にこのネタを実践してみるとよいと思います。きっと子どもたちがその姿で教えてくれると思います。

第4章「授業の腕を磨く! 数学教師修行」は、玉置先生がどのような姿勢で授業力を磨いてきたかよくわかります。ここに私も登場するのでこんなことを言うのは恥ずかしいのですが、玉置先生の人から学ぼうとする姿勢こそが本当に学ぶべきことです。ここには、数学に関係する出会いのことしか書かれていませんが、ICT活用や学校経営、趣味(副業?)の落語に関しても常にこの姿勢を崩されていません。教えてくれるのをただ待っていては、いつまでたっても成長できません。自ら求めることが大切であることを教えてくれています。

この本は若い数学教師すべてに読んでほしい本です。というよりは、手元に置いて、事あるごとに見直すバイブルとしてほしいと思います。また、ベテランもこの本を読むことで授業のあるべき姿を見直すよいきっかけになると思います。私にとっては、玉置先生と学び合ったことをあらためて思い出させてくれる、またその学びを再整理させてくれる、懐かしい「学びのアルバム」のような本です。素敵な本をありがとうございました。

うれしい報告

先日訪問した学校の校長と研修担当の先生から、うれしいメールをいただきました。

校長からのメールには、教室をまわって先生たちのようすが変わったと報告がありました。多くの先生が学級全体に目を配るようになったそうです。また、正門での朝の挨拶で、「おはようございます」と挨拶を返すだけでなく、「いい挨拶だなあ」「すばらしい」「元気ですね」「自分から挨拶してすごい」といった言葉をつけ加えるようにしたところ、子どもたちがみるみる嬉しそうな表情になったそうです。自身が担当される授業でも、子どもたちを意識して見ると、一人ひとりの子どものようすの違いがとてもよくわかることに気づかれたようです。子どもたちの反応を見るのが、おもしろくて仕方がないそうです。
校長自ら前向きに変わろうとしていること、先生方の変化・子どもの実態をしっかりとらえようとしていることがよく伝わります。

研修担当の先生からのメールには、授業者一人ひとりと話(雑談)をする機会を持ったことが書かれていました。ほとんどの方が、協議会で指摘されたことを次の授業で試したそうです。授業を参観された先生も、学び合いの授業に挑戦してくれているそうです。また、子どもたちの集中が切れる場面を意識するようになったという声も聞こえてくるようです。
実際に子ども同士をつなごうとすると、指名してもなかなか答えられなかったり、一部のできる子どものみで進んでしまったりするようです。同じ意見を言ってもよいことを伝えること、まちがえても大丈夫という安心感を与えること、そして、教師の発問を工夫していくことが重要だと気づかれたようです。学び合いは教師と子どもたちで一歩一歩、一緒に作り上げていくということを再確認することができとのことでした。もちろん、この担当の先生自身も研修で気づいたことを早速実践しているとのことでした。
とても素直で、前向きな先生方ばかりだということがよくわかります。先生方が変わり始めていることがとてもよく伝わりました。

どの学校もこのようにすぐによい変化がみられるわけではありません。しかし、よい変化がみられる学校には共通の特徴があります。校長や研修担当者のように全体をけん引するリーダーの方が、まず自ら変わろうとする姿勢を見せること。そして、先生方とコミュニケーションをとり、教室の変化をしっかりとらえ、先生方や子どもたちの変化を前向きに評価することです。この学校はこの条件を満たしていたということです。研修はきっかけにしかすぎません。リーダーの日ごろの姿勢が今回のよい変化につながったのだと思います。もちろん、先生方が素直で前向きなことが一番ですが。

このような報告をいただけることは、私のような立場の者にとっては本当にうれしいことです。このような機会を得たことを本当に感謝します。次回の訪問を思うと、気持ちが高揚すると同時に前回以上の研修にしなければとプレッシャーもかかります。このプレッシャーを楽しみながら次回の準備をしたいと思います。

再び、ICTの活用について

ICTを活用した授業を論じるとき、その特性や利点ばかりが言われたり、逆に、授業の本質はここであって、ICTはそこには役立っていない、それよりももっと授業の中身を考えるべきだと言われたりします。また、ICTがなくてもできる、わざわざ使う必要はあるのかということも、よく言われます。この議論は、微妙にかみ合っていないように思います。トータルに見て、ICTがそのコスト(準備等の労力)に見合っただけの効果があったかどうかが問われるべきだと思います。
以前ICTの活用について書きましたが(ICTの活用について考える参照)、このことについてもう少し整理してみたいと思います。

たとえば、社会科で子どもたちに、「あれ?」「どうなっているの?」「知りたい!」と疑問や興味を持たせる場面を考えてみましょう。どのような資料を見せるか、どういう発問をするかを考えることが第一になります。どんな資料があるか、どんな資料があればよいか、そのような知識の有無が絶対的な授業の質に影響します。名人であれば素晴らしい資料と発問で子どもたちを見る見る引き込んでいきます。しかしだれもが名人というわけではありません。なかなかよい資料が見つからないかもしれません。それでも、少しでも子どもたちを目指す姿に近づけるための手段の一つとしてICTのような道具があるのだと思います。
同じ写真でも、モノクロで印刷して配るのと、カラーで大きく映して見せるのではその効果は変わります。友だちの気づきを手元の写真で確認しても、なかなかみつからないこともあります。経験の浅い教師だと「見つかった?」と聞くだけで全員が見つけたか確認せずに進むこともあります。参加できない、よくわからなければ、子どもたちは興味を失っていくかもしれません。ベテランであれば、「まわりの人とたしかめてごらん」と子ども同士で確認させることで、なんなくクリアしてしまうかもしれません。
一方、スクリーンに大きく映せば、全員の顔が上がります。友だちの気づきもスクリーン上で共有することで、全員に瞬時に伝わります。子どもたち同士がつながり、誰もが参加することで、疑問や興味も共有しやすくなります。
この例では、ICTは必須ではありません。しかし、授業者によってはICTを活用することによって、この場面での本質、子どもに疑問や興味を持たせることを実現するために大いに役に立っているのです。

では、子どもが黒板に解答を書く代わりに、実物投影機を使ってノートを映すことを考えてみましょう。子どもが黒板に解答を書く時間は、よほどの工夫がない限りあまり意味のある時間とはなりません。この時間がなくなるだけで、多くの時間が生まれます。この活用自体は先ほどの例と違って授業の本質とは直接関係がありません。しかし、これも立派なICT活用です。授業によっては、子どものかかわり合いのための貴重な時間を生み出してくれた、一番の功労者といえるかもしれません。

授業をよりよくするという視点でICTの活用を考えると、教師に求められることは大きく2つだと思います。ICTで何ができるか、どんな利点があるが、その具体例を知ること。もう一つはICTを使う以前に、その授業で何が大切なのか、その実現のために何が課題になっているかを明確に意識できていることです。後者の視点では、その課題がすでに解決されてしまっているとICTを活用する必然性はありません。名人がその典型です。しかし、多くの教師にとっては解決されていない課題があるはずです。そのすべてがICTで解決できるわけではありませんが、有力な道具となるはずです。時間がないといったある意味本質でない課題でも、それを解決することで本質的な問題の解決につながることもあります。また、ICTを使わなくて解決できている課題でも、ICTのよさを知ることで、それをより簡単に実現したり、よりよいものに変えたりできることがあります。

ICTという道具の出現で、前者がクローズアップされました。それに対抗するように後者の視点も授業の本質といった表現で強調されてきました。これらは相反するものではなく、互いがからみ合うことで、よりよい授業の実現につながっていくものだと思います。

鈴木明裕先生から学ぶ

本年度第2回目の教師力アップセミナーは、岐阜聖徳学園大学准教授の鈴木明裕先生の講演でした。算数・数学で教科書を理解できていない、うまく使いこなせていない若い先生が多いということで、「算数・数学での教科書の使い方と役割」というタイトルでお話いただきました。

・教科書に書かれた考え方以外に子どもはどんな考えを出すだろう。その考えが出てきたときどのように活かすことができるのだろうか。
・教科書では子どもがつまずきそうなこと、疑問に対する答(結論)が書かれている。子どもに聞かれたときにどのように対応すれば(過程を示せば)よいのだろうか。
・具体物を操作する。情報を整理して見やすくする。式で表現してみる。これらを行き来することで数学的な表現力は高まる。教科書の課題を解決するのに、どのようにアプローチすればよいのだろうか。

鈴木先生の教科書の具体的な場面での説明から、教科書を活かすためには、このような視点で考えることが大切だとあらためて整理できました。教科書の問題の数値一つとっても、教師に指導してほしいことへの思いが込められています。教科書に直接書かれてはいませんが、そのことに気づくヒントはあちらこちらにちりばめられています。宝探しのようなつもりで教科書を読んで見ると、多くのことに気づけると思います。

私は小学生を指導した経験はほとんどありません。数学以外の教科を教えた経験もわずかです。しかし、たとえ経験のない教科の内容についてもアドバイスをさせていただいています。それができるのは、教科書のおかげです。算数に限らず、教科書を読み解くことで、指導すべき内容やその方法が浮かび上がってくるのです。
教科書を執筆される方たちは、「てにをは」にもこだわって書かれています。そのこだわりから指導に関する多くのことを学べるのです。
教科書を見ていて「なぜ?」と疑問に思うことがあります。その疑問を追究することから、書かれていない多くの大切なことに気づけるのです。
教科書をしっかり読みこみ、そこを出発点として授業を組み立てていってほしいと思います。

鈴木先生のお話をきっかけに、色々なことを整理することができました。ありがとうございました。

「効率的な学習方法」という質問から見えること

昨日仕事でおじゃました会社の方からおもしろい話を聞かせていただきました。今は新卒の採用時期で、適性検査の質問項目の中に「あなたにとっての効率的な学習方法」があるのだそうです。その回答がいくつかのグループに分かれるというのです。

A.「あなたにとって」のという文脈が正しく読みとれずに、ICT機器を活用した授業など、自分の体験とは関係のないもの
B.自宅では集中できないので図書館で勉強するなど、学習方法そのものというよりも、その前の段階である、集中するための条件整備
C.重要な事項にしぼって覚える、できなかった問題を何度も解くといった、訓練的な方法
D.友だちに教えさせてと頼み、わかりやすく教えようとすることで内容が理解できるといった、学習内容を関連づけて高いレベルで身につけるための工夫

これらの回答と適性検査の成績、面接での受け答えには相関関係が感じられるそうです。
なかなか興味深いものがあります。

Aのグループには、理解力、コミュニケーション能力の欠如が感じられます。
Bのグループには、意識しないと集中して学習に取り組めない、学習習慣や学習への姿勢の問題が感じられます。
Cのグループには、ある程度の成績はとるでしょうが、学習を覚えること、訓練すること考えているため、未知の問題に対する解決能力や問題を総合的にとらえる力が不足していることが感じられます。
Dのグループは、学習を前向きにとらえ、高いレベルを求める意欲と思考力の高さが感じられます。

教育にかかわるものとしては、傍観者としておもしろがっていられる話ではないと思います。それぞれのグループに対して、どのような働きかけがあったのか、なかったのかを想像してみてください。
皆さんの目の前の子どもは将来どのグループに属することになるのでしょうか。今の時期に、どのような課題を与え、どのようにかかわり、どのような指導をおこなう必要があるのか、具体的に考えてみてほしいと思います。

中学校と高等学校の情報交換を考える

小中連携が強く言われるようになり、小学校と中学校の情報交換も盛んになっています。また、中学校と高等学校でも連絡会議を持つことは珍しくなくなってきています。ところが、中学校と高等学校の情報交換にはまだまだ壁があるように思います。どういうことかというと、受験があるため、本人にとって不利になる情報はなかなか高等学校側に明らかにされないということです。

たとえば、対人関係に不安があったり、神経症などが原因で集団の中で学習ができない子どもがいます。通常の入学試験では、中学校からの情報がなければそのことには気づくことはできません。学力的に問題がなければまず合格するはずです。しかし、その情報が高等学校側に伝わらないため、進学してからの対応が後手に回ってしまうことがよくあるのです。問題が発生してからあらためて中学校に問い合わせ、はじめて中学校時代の情報が手に入ることが普通です。高等学校では、授業に出席できなければ単位を認められないことが一般的です。中学校とはかなり事情は違います。せっかく入学したのに、結局進路変更を余儀なくさせられることがよくあるのです。

入学試験に不利になる情報を伝えることは、本人の利益を損なうからできないということはよくわかります。また、環境が変わることによって、中学校ではうまく適応できなかった子どもが、問題なく過ごせることもよくあります。しかし、それと同じくらい高等学校でも不適応を起こすことがあります。そのリスクをきちんと本人・保護者と確認し、その上で進路を決定する必要があります。そして、合格したら、本人・保護者に納得してもらった上で、中学校での状況を高等学校に正しく伝えることが大切です。高等学校も引き受けた子どもを大切にすることは中学校と変わりません。互いに信頼し合い情報を交換することが子どものためにも必要なことなのです。

また、これは私の経験ですが、地元の中学校との連絡会で、気になる何人かの子どもの情報を中学校側にうかがったところ、「別に変わったところがない」の一言で終わったことがあります。残念ながら、その内の何人かは後に問題行動がありました。中学校時には本当に何もなかったのかもしれませんが、もう少し情報がもらえれば対処があったかと思わないでもありません。私たちが信頼していただいてなかったのかもしれませんが・・・。

子どもの個人情報の交換は微妙な問題がありますが、正しく伝えあうことが子どもにとってもよい結果をもたらすものだと思います。子どもを大切に思う気持ちに変わりはないはずです。この点で一致している限り信頼関係を築きあえると思います。子どものためにも、中学校と高等学校の壁を失くして、スムーズな情報交換ができるようになってほしいと思います。

授業者では見られない子どもの姿を見る

授業者の立場で子どもを見るときは、全体を見ることが大切になります、しかし、授業研究などで、第三者の立場で授業を見るときは、ふだんと違った見方ができます。それは、授業者では見られない子どもの姿を見ることです。

たとえば、特定の子どもの変化を追い続けることは授業者には難しいことです。そこで、授業に集中していない子どもを見つけるとその子どものようすをしばらく追い続けます。1時間中集中できない子どもはまれです。たいていはどこかの場面で授業に参加します。そのきっかけが何かを見るのです。多くの場合は、教師の説明から子どもの活動に移るときなど、場面が変わるときです。同じ状況が続くと集中力が切れやすくなり、状況を変えると集中力が戻るということに気づかされます。集中できない子どもを見つけたら注意するのではなく、場面に変化をつければよいことを学べるのです。教師の話は集中しなくても、友だちとの相談は積極的にする。問題を解いているときは、途中で投げ出していても解説になると聞く、解答だけは一生懸命写す。こういう集中がもどるときを見ることで、子どもについて多くのことが学べます。

また、授業中は次々指名していったり、発言を受けて説明したりするため、発言した子どものその後の状態を見続けることはなかなかできません。これを見ることからも、多くのことを学べます。たとえば、私がよく目にする発言後のようすには、大体次のようなパターンがあります。

発言後、次の発言者の話を真剣に聞いている。
これは、子どもの発言を「○○さんの考えと・・・」と教師がつないでいるときによく見ます。

うれしそうな表情、満足そうな表情をしている。
これは、教師が発言をポジティブに評価した時によく見られます。また、多くの挙手があったときに指名してもらえたときも満足した表情になります。しかし、このあと挙手、指名が続くときに、自分の出番は終わったと興味を失くしていることもよくあります。

発言後、あまり変化がない。
これは、比較的だれでも答えられるような質問に対して正解した場合によくあります。挙手ではなく順番に次々に指名しているときや、教師が「正解」としか評価せずにそのまますぐ説明を始めるときにこの傾向が強いようです。

発言後、顔が上がらない、意欲を失くしてしまう。
これは、不正解だったり、教師に評価してもらえなかったり、ネガティブな評価をされたりしたときによく見られます。多くの場合、次の場面に移るまでこの状態が続きます。ひどい時には、その後ずっとこの状態が続くこともあります。

このようなことから、教師が子どもの発言をポジティブに評価する、つなぐといったことの大切さに気づけます。

授業を見学するチャンスがあったときは、漫然と教室全体を眺めるのではなく、授業者では見ない、見られない子どもを意識して見てほしいと思います。そうすることで、より多くのことを学べるはずです。次に授業を見る機会には、ぜひこのことを意識してください。

「協働」という言葉を考える

「協働学習」や「地域との協働」のように、「協働」という言葉がよく使われるようになりました。しかし、ただ共同で何かをしているだけ、一方的にお願いをする、されているだけのようにしか見えないことがよくあります。「協働」という言葉に出会うたびに、どのような思いを込めて使わるているのか考えずにはいられません。

学習の場面で使われるのであれば、かかわり合うことにより一人ではできないことができる。一人では気づけないことに気づく。一人で学べなかったことが学べる。このような視点があるのかどうかです。課題や活動が一人ひとりに何をもたらすかを意識して「協働」という言葉が使われているかが気になるのです。このことを明確に意識せずに、ただグループ活動をさせている。まわりと相談させている。このような、ただ一緒に何かをしているだけのことを「協働」という言葉でくくってほしくないのです。

地域との「協働」のように、立場が違うものが一つのことを協力して成し遂げようとするのであれば、互いに対等の立場で話ができる関係である。互いに目的・目標を共有している。互いに知恵を持ちより、自分ができること、自分にしかできないことをやろうとしている。このようなものになっているかどうかです。「協働」とは名ばかりで、こちらが助けてほしいことを一方的にお願いするだけ、ひどいときは、「子どものため」という一言でその目的や趣旨を詳しく説明もせずに、協力しないのは子どものことを考えていないことだと脅迫しているようにしか見えないこともあります。お願いされる方からすれば、ただで使える労働力としか見られてないのかと言いたくなります。「協働」という言葉を使うのであれば、少なくとも何をするか具体的に計画する段階から一緒に考えるべきです。

とりあえず「協働」という耳当たりのよい言葉を使っておけばいいという発想ではなく、「協働」という言葉にどのような思いを込めるのか、意識をして使ってほしいと思います。

昔の同僚と会う

先日、高校教員時代の同僚と食事をする機会がありました。今は管理職となっていますが、当時と変わらず授業のことを楽しそうに話す姿に、彼の教師としての原点を感じました。

管理職ですので、保護者からの苦情やトラブル対応も結構大変なようです。その話しぶりからすると、どちらかというと保護者より教師の方に苦労しているようでした。教師が保護者とコミュニケーションをうまく取れないことが原因のようですが、管理職が注意をすれば改善されるというわけでもないので、ストレスがたまるようです。本人が自分でそのことに気づくことが一番よいのですが、これはなかなか難しいことです。自分と保護者とのやり取りを第三者の視点で観察するのが近道ですが、ビデオに撮っておくというわけにもなかなかいきません。ロールプレーイングによる研修が増えてきているのもうなづけます。

自分の授業を生徒に評価させるなど、授業をよくすることにこだわりを持っている教師ですから、他の教師の授業のことも気なるようです。しかし、根本的に授業感が違うとなかなか話もかみ合わないということです。高校ではよくあることなのですが、学校が目指す子どもの姿が不明確で共有されていないことがその原因の一つのようです。進学率を上げるといった表面的なものを価値基準の中心に置くことが多い、高校の問題点だと思います。

初任を対象の研修会の授業検討会で、初任者たちが抽象的にほめ合うばかりで、授業者の解釈間違いや正しい解釈につながる子どもの発言をとりあげなかったことがとても気になったようです。水を向けても食いついてこず、日ごろは温厚な彼もさすがに厳しい言葉になったようです。互いにほめ合うだけで、深く議論しないのは最近の若者の特徴だと感じているようでした。たしかに、私もそのように感じる場面があります。これは、日ごろの授業検討会でも言えることのように思います。互いによいところを指摘し合うのはいいのですが、それで終わっては深まりません。たとえば、「子どもが活発に発言してよかったと思います」に対して、「それは具体的にどのような場面ですか」「他の先生はその場面をどのように感じましたか」「子どもが活発に発言した理由は何でしょう」・・・と、切り返していくことが大切です。授業と同じですね。

3時間あまり楽しく話をさせていただきましたが、高校の管理職の抱えている課題も色々と見えました。一番感じたのは、このような話を気軽する相手が管理職にはいないということです。彼のストレスが私と話したことで少しでも軽くなってくれればよいのですが。

学業にかかる費用を考えさせる

子どもにはお金のことを話さない家庭が多いのではないでしょうか。学校の集金もほとんどが振込で、子どもが自分の学業にかかる費用を意識することはあまりないように感じます。せいぜい学用品を自分の小遣いで買う時ぐらいなのではないでしょうか。少なくとも高校進学までには、自分の学業にかかる費用を考えさせる必要があると思います。義務教育が終われば、自らの意志と負担で学生生活を送るという自覚を持つべきなのです。高校授業料の無償化で、このあたりのことがますます曖昧になっているように思います。

学校運営にかかわる費用を児童生徒の人数で割ってみると、驚くほど高額であることに気づきます。教師の給与だけを考えても、その額の大きさがわかることと思います。1人当たりの年間の費用はほとんどの場合、保護者が払っている年間の税金を上回っているはずです。それだけ公費が教育に投下されているのです。
一方、それだけ社会が費用を負担しているにもかかわらず、保護者の負担もかなりのものになるはずです。学用品や、体操服、修学旅行の積立金などばかになりません。
こういった金額を子どもたちに示して、自分たちが学ぶ意味を考えてさせてほしいのです。子どもは保護者や社会の庇護を受けています。それを当たり前のことのように考えすぎているように思います。感謝しろと言っているのではありません、自覚してほしいのです。
「勉強しなくて困るのは自分だ」ということは間違いではないのですが、個人の問題だけではないのです。家庭や社会の問題でもあるのです。
奨学金の手続きのとき、「誰がお金を借りるのか」と確認すると、驚くことに「親」と応える子どもがたくさんいます。こういう子たちは自分が学ぶために、自分が借金するのだという自覚がないのです。

学校や家庭で学業にかかる費用を話題にしてみてください。学業にかかる費用を考えることを、自分たちが学ぶ理由や意味を問い直すきっかけにしてほしいと思います。

PTAのHPに注目

学校HP(ホームページ)が変化してきている話(学校HPの変化参照)を以前しましたが、最近注目しているのがある中学校PTAのページです。

「PTAの部屋」という学校HPから見ることができるブログ形式のものですが、今までは教頭が随時更新をしていたそうです。ところが、今年度学校HPがリニューアルされ、学校の思いが明確な形で発信されるようになったことに刺激されてか、PTAで更新をしたいと要望があったそうです。それを受けて更新・内容をすべてお任せすることになったようです。学校HPの中に入っているようにみえますが、まったくの独立サイトのようです。
とはいえ、学校HPと連動しているサイトの運営をPTAに完全に任せることには、勇気がいります。単なる連絡掲示板のようになってしまうのか、それとも学校とうまく連携がとれたものになるのか、どのようなものになるか注目していました。

ふたを開けてみれば、学校の発信と連動して、保護者の視点でそれどう受け止めているか、どうあろうとしているかが発信されています。学校の発信をただ受けて理解しているだけではなく、それを我が事として考え、深め、こうありたいと発信しているのです。

これも1歩進んだ学校HPのあり方だと思います。学校の発信に対して保護者がどう感じ、どう応えようとしているかが伝えられることで、学校の思いが多くの方により深く理解され、また学校側もそれに応えようとより一層の努力をすることでしょう。学校の発信とPTAの発信がうまく共鳴し合い、学校にかかわる人たちを色々な方向から包み込むようにして、学校の教育活動に巻き込んでいくように思えます。

PTAにサイトの運営を任せればうまくいくというものではないでしょう。サイトを運営する役員の方の個人的な力量の問題もあるでしょう。しかし、学校側が伝えたいこと、伝えるべきことを明確に発信してれば、どの学校でも起こりえることでもあります。
学校の発信の質の変化が学校にかかわる人たちにも変化を促していくように思います。この学校で起こっているようなことが、他の学校でも起こってくると思います。新しい学校とPTAのかかわり方の形として、しばらくこのサイトから目が離せません。

長瀬拓也先生から学ぶ

本年度第1回目の教師力アップセミナーは、中津川市立蛭川中学校の長瀬拓也先生の講演でした。会場を大口町立大口中学校へ移しての初めてのセミナーということで、運営上のいろいろな課題もありましたが、多くの方の協力で無事に終えることができました。

長瀬先生は教職9年目という、まだ若手と言ってもよい方です。今回の講演は「教師の成長」にスポットをあてたものでした。若い先生とお話をしていると、すぐに使える How to を求められることが多く、またそれに応えようとしていたのですが、成長するための方法、アプローチを一緒に考えることが必要だと気づかせていただきました。
失礼な言い方かもしれませんが、お話を聞きながら長瀬先生は「発展途上人」だと思いました。自分を見つめ、自分が成長するために必要な行動をとり、日々前へ向かって進んでいる。その勢いを感じました。この先5年、10年とどのように変貌していくかとても楽しみな方でした。

年齢の近い方から「共感を持って聞くことができた」「自分の教師としてのこれからの生き方の参考になった」という感想を聞くことができました。私のように年齢を重ねたものにとっても、自分の原点はどこにあるか見直すよい機会でした。
私の成長のキーワードを振り返ってみると「見る」ということでしょうか。自分の目で見た授業やできごとからいかに多くのことを「学ぶ」か、そしてそれを自分の言葉でどのように整理し「語る」かが私の成長の原点であると再認識できました。
話は少しそれますが、かつて私はよい授業を見ることが成長への近道だと考え、よい授業を見ることにこだわっていました。しかし、よい授業にこだわるのではなく、目の前の授業から何を学べるかが大切だと思うようになりました。たとえ未熟な新任の授業でも、子どもの事実と、その原因、授業者の思いとの関係などを見つけようとすることではまた違ったものが得られるからです。このことに気づいてからは授業を見ることからの学びが豊かになったように思います。私が学校から講演をお願いされるとき、たとえ廊下からでもよいから授業を見せていただくことを条件にしている理由がここにあります。

若手の先生方に、目先の問題解決ばかりでなく、いかにして教師として成長していくかを一緒に考えることをもっと意識しなければいけない。このことに気づけた、私にとってとても有意義なお話でした。また、自分の成長のキーワードが「見る」であることを意識できたことで、今後、若手の先生に「見る」ということと教師の「成長」とを結びつけて伝えることができるようにも思います。充実した時間を過ごせたことを長瀬先生に感謝します。

解いた問題量と成績は比例する!?

「解いた問題量と成績は比例する」ということを言う教師がいます。私はこのようなことは絶対に言いません。逆にこのことを強く主張する教師を信用するなとも言っています。

解いた問題量が0に近い子どもが問題に挑戦すればまず間違いなく成績は上がると思います。しかし、あるところで頭打ちになってきます。理由はいくつかありますが、やみくもに問題を解いて身につく力は限られていること、学習時間に限界があるため1日あたりの解く量には限界があることが主なものです。

問題を解いて、知識や解き方のパターンを「覚える」という学習では、結局記憶量を増やすということです。覚えても忘れることは当然ありますが、単純にたくさん覚えればそれだけたくさん忘れるわけで、効率は漸減していきます。知識を有機的につなげ、より上位の概念で統合するといったことをしていかないと効率は上がりませんし、活用することもできません。ただ解けばいいというものではないのです。運動を例にすればわかると思いますが、練習量は大切な要素ですが、その内容も問われます。工夫はとても大切なことです。また、1日当たりに可能な練習量にも限界があります。そのため効率的な練習が求められるのです。

とはいえ、問題をたくさん解くことを否定しているわけではありません。ただそれだけでは到達できる場所は限られているのです。小中学校では求められる知識や力はそれほど高いものではありません。問題量だけでもクリアできることが多いのも事実です。しかし、高校ぐらいの内容になってくるとそうはいきません。高校になって勉強がやりきれない、時間が足りないと学習面の悩みを訴える子どもの多くは、覚える、問題を解くことのくり返しで学習していることが多いのです。
逆に中学校では求められる知識は相対的に少ないので、単に問題を解く、解ければよいという学習から、自分で知識を整理し、メタな考え方を身につけるような学習へと質を変えていくだけの余裕があるはずです。早い時期に質の転換をはかるべきなのです。
また効率的に問題を解くという視点では、すべての問題を解くのではなく、どの問題を解けばいいか考えることも大切です。数学などでは、たくさん解くのではなく、深く解くという考え方もあります。1つの問題を徹底して考えることで、何十問、何百問を解くこと以上に力がつくこともあります。

「たくさん問題を解きなさい」というのは教師にとって安直な指導です。教師は問題を準備するなどの環境面さえ整えれば、あとは勉強ができないのは、問題を解かなかった子どもが悪いという言い訳をしているようなものです。授業を通じて、どのように学習すればよいのか、また問題とどのように向かい、そのことをどうやって活かすかをきちんと指導しなければなりません。もちろん学習には個人の能力や特性によって適した学習方法は異なります。だからこそ、自分で見つけろではなく、それを見つけるための方法論やアプローチを示してほしいのです。

私は高校教師として中学時代トップクラスの学力だったはずの子どもたちが伸び悩む姿をたくさん見てきました。その多くが、解いた問題(勉強)量と成績が比例すると信じ、学習の質を変えることに気づけなかったことが原因のように思います。彼らの学習の質を変えることができなかったことが今でも悔やまれます。なまじ中学校で成功体験を積んでいたことが災いしたのかもしれません。

「解いた問題量と成績は比例する」というのは一面では正しいことです。しかし、安直にこのことだけを子どもに強いないようにしてほしいのです。「解いた問題量で成績を上げる」という成功体験から早く子どもを解放してほしいのです。

私が、「解いた問題量と成績は比例する」と決して言わないのはこういう理由からなのです。

保護者の授業を見る目

学校公開日などで保護者へのアンケートをどのように実施するかということは、学校ごとに工夫がされています。先日の研究会でも話題になったのですが、特に授業についてのアンケートをどう考えるかは悩ましい問題です。

・そもそも保護者は自分の子どもしか見ていない、信頼に足る意見が得られるのか。
・アンケート(評価)項目を工夫することで、有意義な情報となる。
・アンケート(評価)項目を保護者と一緒につくることで、保護者の視点がわかるし、学校側の視点も伝えることができる。
・保護者のアンケート結果と、ふだん校長が授業を見て感じているものとのずれは少ない。保護者に授業を見る目はある。
・自由記述欄に書かれたことが、保護者の言いたいことだ。それをきちんと受け止め対応していくことで保護者の信頼や理解が得られる。
・・・

いろいろな考えがありますが、学校の一番の根っこである授業に関して、保護者とのコミュニケーションを否定的にとらえることは、マイナスのように思います。
確かに、保護者の興味は自分の子どもが中心でしょうが、少し意識を変えていただければ授業を見る目は十分に信頼できるものになると思います。

昨年度PTAで講演したときに世話役だった方から先日届いたメールに、授業参観の話がありました。
今までは授業参観は自分の子どもの授業態度ばかり見ていたが、今回は「どんな授業の進め方をしているのか?」「子どもたちはどんな反応をしているのか?」と自分の子ども以外の態度まで気にして、まるで先生を審査するように見たそうです。先生によって本当にいろいろで、ベテランだから授業の進め方が上手というわけでもないと思ったそうです。
実際にこの方の感想が的を射たものであるかどうかははっきりとは言えませんが、授業の進め方、他の子どもの態度に注目したという時点で、かなり信頼に足る、聞く価値のあるものだと思います。
この方は、私の講演後ときどきこの日記を見て、子育ての参考にしていただいているそうで、とてもうれしく思っています。この日記を通じて、授業を見る視点を意識されたことが授業参観の仕方を変えるきっかけになったのだと思います。

授業で何が大切なのか、何を大切にしているのか。どこを見るべきなのか、どこを見てほしいのか。このことがきちんと保護者に伝わっていれば、授業のアンケートはとても有効なものになると思います。学校が目指す授業をポジティブに評価していただけ、先生方が元気になるはずです。学校HP(ホームページ)で、授業のよい場面やその解説を毎日のように発信している学校があります。こういう学校は間違いなく保護者の授業評価を意識しているはずです。保護者の授業を見る目を肥やした上での授業アンケート(評価)がどのようになるのかとても楽しみです。
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