明確な視点を持って指示をする

先日知り合いのデザイナーから、こんな話を聞きました。
ある町の古い櫓を取り壊すことになったそうです。そこで、取り壊される前に櫓を見学して絵を描こうということになりました。しっかり観察するように指示しても、教室に戻っていざ描こうとなるとなかなか再現できません。ところが、「櫓のてっぺんの形」「櫓の色」「櫓の高さ」の3つだけ見てくるように指示したところ、どの子も櫓全体をしっかり把握し、驚くほど上手に描けたそうです。3つだけ意識することで、全体像をつかむことができるというのは、とてもおもしろい話です。「形」「色」「高さ」と異なる視点であることが全体を把握するのによかったのかもしれません。

「ていねに」「しっかり」「よく」「がんばる」・・・。教育の現場ではこういう言葉が飛び交いますが、具体的ではありません。

「ていねい」に色を塗るとはどういうことか。境界線をはみ出さないようにまわりを塗ってから、中を塗る。
「しっかり」観察するとはどういうことか。葉の形、縁、色、表面の状態、葉脈がどうなっているかを観察する。

具体的な指示をしなければ、きちんとできるようにはなりません。教師側がねらいを持って明確な視点で指示しなければ、子どもたちは「なんとなく」自分の考える「ていねい」「しっかり」で行動するのです。

ちなみに、櫓の絵の取り組みは評判になり、町の他の学校にも広がった結果、櫓は取り壊されずに別の場所に移転することになったそうです。

2番手、3番手を評価する

子どもたちを指名するとき、1人を指名して終わりにしないよういつもお願いしています。以前にも何度かここでとりあげましたが(子どもの発言を引き出すには子どもの発言つなぐことを考える参照)、少し違った視点でこのことについて考えてみたいと思います。

答がわかっていても自信のない子どもは挙手しません。最初に手の挙がった子どもが指名されて評価されることが続けば、最初でなければ評価されないと子どもは考えるようになります。1人の子どもが評価される一方で、多くの子どもが評価される機会を逃しています。数人しか手が挙がらなかったのに、発表後、「同じ考えの人」と聞くとほとんどの子どもの手が挙がることがあります。最初からわかっていたのに手が挙がっていなかった子どもがかなりいたはずです。おかしなことだと思わなければいけません。子どもたちが積極的に参加しているとは言い難い状況です。もちろん、本当に数人しかわからない場合もあるでしょう。その場合でも、指名して正解がでれば教師が説明を始めてしまうのであれば、他の子どもの出番はなくなります。やはり最初であることが価値のあることだと思うようになります。

大切なことは、友だちの考えを聞いてわかることであり、説明を聞いて理解することです。最初であることは重要なことではないのです。ですから、2番手、3番手を評価することを意識しなければいけません。

「今の○○さんの意見を聞いてなるほどと思った人? ○○さんの意見になるほどと思って人がたくさんいるね。いいね」
「△△さん、あなたの言葉でもう一度言ってくれる?」
「・・・」
「なるほど、△△さんもしっかり説明してくれたね。○○さんと△△さんの説明になるほどと思った人? 増えたね。じゃあもう1人聞こうか」
・・・

最初はわからなくても、友だちの意見を聞いてわかったら評価されることを知れば、一生懸命聞いて理解しようと思います。わかっていたのに最初に挙手できなかった人も、友だちの意見を聞いてから再度挙手を求めれば、自信を持って答えます。積極的に参加するようになります。
最初だけでなく、2番手、3番手の子どもを大切にする、評価することを常に意識して授業に臨んでほしいと思います。

子ども同士の関係がよいことで満足しない

以前に「子どもとの関係がよいことで満足しない」と書きましたが、では「子ども同士の関係」がよくなればそれでよいのでしょうか。子ども同士の関係がよくなってくると、学習への参加意識は高くなり、互いに聞き合いながら学ぶようになります。では、それに比例して子どもたちの学力は高くなるのでしょうか?
一般的には、下位の子どもたちが授業に参加できるようになるので、彼らの学力は確実に高まります。上位の子どもたちも、友だちに教えることでより深く理解できるようになります。当然全体で学力は向上していきます。子ども同士の関係がよくなり、互いに聞き合う関係ができるようになれば平均的な学力は向上するはずです。私の知る限り、学力テストなどでも検証できているように思います。しかし、ある程度の効果がでたあとは、そう簡単には伸びてはいきません。壁にぶつかるのです。

子ども同士の関係がよくなってきたからといって、それだけで学力がつくわけではありません。「わからないから教えて」と聞けるという関係は大切です。しかし、誰かが必ず答を持っているわけではありません。解決のための方法を知らなければ解決できない問題はたくさんあります。子どもたちが問題解決の方法を学んでいくことが必要です。
たとえば、歴史を学ぶことを考えましょう。教科書や資料集を調べて、書かれていることを抜き出せば学力がつくわけではありません。書かれていることを覚えれば知識はつくかもしれませんが、それだけで学力がついたとはいえません。調べたことをもとに、原因や結果などの関係を整理したり、それぞれの立場で考えたりといったことが必要です。こういう学び方をして初めて本当に学力がついてきます。教師が意図的に、問題解決の方法や学び方を身につけるような働きかけをする必要があるのです。

課題を解決する過程で子どもたちが気づいた方法を共有化する方法もあります。課題をスモールステップで解決することで、解決の手段を意図的に経験させ、次第にステップを大きくする方法もあります。もちろん、解決方法そのものを教師が整理して教える方法もあります。
いずれの方法をとるにしても、子どもたちが自分で解決する経験を積むことが大切になります。そのためには、子どもたちが孤立していては一部の子どもしかその過程は経験できません。多くの子どもは誰かが解決した後、その結論を受け身で聞かされるだけになります。そうではなく、たがいに過程を共有化しながら学び合うことで、どの子どもも自分の経験として身につけることができるようになるのです。これは、子ども同士の関係がよく、学び合いが成立していないと難しいことです。

もう一つ大切なのは、課題そのものの質です。子どもたちに学び合う土台ができていれば、どんな課題でも子どもたちは互いに相談しながら集中して課題に取り組みます。教師はその姿を見てよく学んでいると満足します。しかしその課題に取り組んだ結果、最終的に子どもたちに何の力がついたのかわからない。残念ながら、そのような授業に少なからず出会います。子どもたちに学力をつけるためには、目指す力がつくような質の高い課題を提示する必要があります。

教師と子どもとの関係がよくなり、子ども同士の関係がよくなることはよい授業をつくるためのインフラです。そこからが本当の勝負になります。子どもが自分たちで学べるようになるためにはどのような力(メタな力)が必要なのか、学力をつけるためにはどのような課題であるべきなのか。学びの本質を問い、教材研究をすることが必要です。教師自身の学ぶ力が求められるのです。
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