ネタを活かすために必要なこと

授業にはいわゆるネタというものがあります。ベテランともなると、これはというネタをいくつも持っていることでしょう。子どもたちの予想を覆すような事象や興味・疑問を持たせ引き込むような課題が多いことと思います。インターネットを使えば簡単にネタを手に入れることもできます。俗にいう鉄板ネタであれば、子どもたちを惹きつける授業をつくることはそれほど難しくないと思います。
私も若手の授業づくりのお手伝いをするときに、ネタを提供することがあります。ところが実際の授業は、ネタを使うことで子どもたちの興味を引くものにはなるのですが、どんな力がついたかというと「???」ということが多いのです。何が足りないのでしょうか。

面白いネタを使った授業が考えるとき、どう見せれば子どもの興味を引けるか、どう与えれば子どもたちが活発に活動するかというところに目を奪われがちです。子どもたちに「うける」ことよりも、「何を考えさせたいのか」「何に気づかせたいのか」といったその授業のねらいが大切です。そこを明確にしておかないと、ただ「面白かった」で終わってしまうのです。

ちょっと難しいかもしれませんが、確率の有名なネタを例にして考えましょう。
「3つの箱の中に1つだけ当たりの箱があります。当たりだと思う箱を3つの中から1つ選んでください。選んだあとの残りの2つの内、はずれの箱をとり除きます。残った箱は2つです。当たりは、あなたの選んだ箱か残ったもう1つの箱のどちらかです。ここで、最初に選んだ箱ではなく、残ったもう1つの箱を選び直すチャンスを与えます。あなたは選び直しますか?」
子どもの多くは、当たりは2つの箱のどちらかだから、選び直しても直さなくても確率は1/2で同じだと予想します。しかし、実際にグループで実験をさせると予想と違って選びなおした方が当たりやすくなります。予想が外れるので、子どもが興味を持ってその理由を考えます。これがネタの力です。しかし、そこで終わってはいけません。この授業では、正しい確率(選び直すときは、最初にはずしていれば必ず当たり、逆に最初に当たりを選んでいれば必ずはずれます。選びなおして当たる確率は最初にはずれを選ぶ確率と等しくなるので2/3)を導くこと以外に、もう1つ大切なポイントがあります。それは、残った2つの箱のどちらに当たりがあるかは「同様に確からしい」が成り立っていないということです。だから、確率が1/2にならないのです。何が「同様に確からしい」かが、確率を考えるときに一番の基本となることです。確率の授業としては一番肝心なのはここなのです。ここを押さえなくては、なんとなく「面白いね」、「正解はなんとなくはわかるが、なぜ1/2にならないのかよくわからない」とモヤモヤした状態のままで終わってしまいます。
このこと意識すると授業づくりのポイントも見えてきます。子どもが1/2と予想した段階で根拠を問い、この「同様に確からしい」という言葉を引き出しておかなければいけません。結論が出たところで、「同様に確からしい」が成り立っていなかったことを確認することが必要になります。
教科、単元の本質的なところをきちんと考えておかなければ授業としては中途半端なものになってしまうのです。

このことは数学のネタに限りません。社会科であれば子どもが疑問を持ったことをどのような資料をもとに解決するのか、その過程で何を学ばせるのか。そういう視点が大切になります。理科の実験などでも、課題に興味を持ったあと、課題を解決するためにはどのような実験をすればよいのか考える、そういう場面が必要になります。
ネタの面白さも大切ですが、そのネタを使ってどんな力をつけるのか明確にすることがより重要なのです。教材研究の根本となる教科の本質や単元の持つ意味をしっかりと考え、身につけることがネタを活かすためにも必要になるのです。

数学(統計)で大切にしたい活動

新しい指導要領では、資料の活用の領域で統計に関することが増えています。大切にしてほしいのが、できるだけ具体的な例で、統計の持つ意味を考えるような活動です。

離散量のデータから度数分布を作る活動を考えてみましょう。階級の幅を変えるだけで見え方が変わります。意図的に幅を操作することで、資料から受ける印象を変えることができます。もちろん度数分布表やグラフにすることで気づくこともたくさんあります。表・グラフを作る作業や計算だけでなく、その結果から何を読み取るかという活動を大切にしてほしいと思います。

代表値では、一般的に平均が重要視されています。しかし、平均はデータの一面しか表しません。平均の近くにはデータが存在しなかったり、ほとんどのデータが平均以下だったりすることはよくあります。同じ値を平均に持つ資料でも、その分布の様子が驚くほど異なることも珍しくありません。最頻値(モード)や中央値(メディアン)といった他の代表値でも同様です。それぞれが持つ意味や特徴を理解するような活動が必要になります。いくつかの代表値から他の代表値(たとえば平均と中央値から最頻値)を予想する。代表値がどの度数分布のものか考える。度数分布をもとに代表値を予想する。代表値を使って資料の特徴を説明する。このような活動が求められます。

標本調査で大切なことは、母集団の傾向を知るためには、母集団の数に対してそれほど多くの標本数が必要ないこと、無作為抽出であることです。前者の論理的な裏付けは中学では難しいので、疑似的に標本調査をすることで実感してもらうしかありません。そこで威力を発揮するのがコンピュータです。膨大な数のデータを扱うことができるので、標本数をいろいろ変えて疑似的に調査をすることができます。その結果から、標本数とその精度の関係に気づくことができるはずです。
無作為抽出に関していえば、無作為であることの大切さを実感させる必要があるでしょう。最近ではインターネットでの標本調査が増えています。その場合、インターネットを使った調査であることを明記するのが常識化しています。インターネットの利用は世代差が大きいからです。選挙や政治関する調査は電話を利用したものが多いのですが、これも「電話を利用した」無作為抽出であることをことわっています。調査の電話に出ることのできる人は、ある傾向を持っている可能性があるからです。身近なところでは、子どもの言う「みんな」です。「みんな○○している」といっても、「だれが」と聞けば自分に都合のいい友だちの名前しかあがりません。これなどは無作為でない典型ですね。標本調査では、その調査方法を必ず明確にする必要性があることを実感させてほしいと思います。

統計は数学の中でも特に身近に感じることできる領域です。できるだけ、現実感のある、実生活と結びつくような活動を意識してほしいと思います。

理科(モデル)で大切にしたい問いかけ

理科では目に見えないもの、実際に確かめにくいものを、モデルを使って説明します。たとえば原子は目で見ることはできません。分子と原子の違いも目で確認にすることはできません。そこでモデルを使って説明しようとするわけです。

ここで注意してほしいのは、モデルは実際に起こっていることを説明する仮説だということです。モデルが先にあるのではなく、実際の現象が先にあるのです。原子の例でいえば、水素と酸素から水をつくる(水を水素と酸素に分解する)と気体比では常に水素:酸素:水=2:1:2になります。この事実を原子モデルでうまく説明できるかどうかが問われるわけです。世の中に認められるモデルを正しいものとして子どもに理解させようとするのではなく、現実に起こっていることを、モデルを使って(考えて)説明しようとする姿勢を持たせてほしいのです。これが理科と数学の違いなのです。常に現実の現象から出発するのが理科なのです。

水素と酸素を混ぜれば気体の体積はそれぞれの和になります。なのに反応して水になると、水蒸気に変化させて測っても異なる体積になります。しかし、質量の合計は反応の前と後で変化しません。これをどう説明すればよいのか?
2種類の元素A、Bから異なる物質がつくられることがあります。原料となる元素の質量の比の値A/Bをそれぞれ求め、その値を比べてみると、簡単な整数比になります。これを、原子モデルで説明できるのか?
さきほどの、水素と水と酸素の比の関係は、同種の原子がくっつかないという原子モデルでは説明できるのか?
科学史をそのまま追体験させろと言いませんが、こういう問いかけを大切にしてほしいのです。そうでなければ、モデルを知識として理解し覚えることが理科になってしまいます。現象をどうとらえ説明するかという科学的なものの見方・考え方が身につかないのです。この見方・考え方は社会に出てからもとても大切になるものです。

天体の動きなども神の視点で描かれた図と動き(モデル)で考えますが、私たちはそれを直接見ることはできません。間接的にしか見られないのです。ですから、月の満ち欠けであれば、私たちが月に関して観察できる事実(30日周期で満ち欠けする、三日月は西の空に現れすぐに沈む、・・・)をまず押さえてほしいのです。その上で、これらのことが「このモデルで説明できるのか?」と問いかけるのです。
もう一歩踏み込んで、「このモデルで説明するならば月はどちら向きにまわっていなければならない?」と問いかけたり、「このモデルで考えれば南半球に住んでいる人は、月の見え方は北半球の人と何が同じで何が違う?」と問いかけたりしてもよいでしょう。実際にオーストリアでの月の見え方を映像で見せれば、モデルで考えることの意味を実感できるでしょう。

理科でモデルを扱うときは、モデルの説明から出発するのではなく、そのモデルが何を説明しようとしているのかをしっかり意識して、その妥当性を問うことを大切にしてほしいと思います。

美術で大切にしたい活動

言語活動が重視されてきた影響か、作品つくりが終わったあとに発表時間を持つことが増えているように思います。このとき、作品について本人が発表し、感想を他の子どもが伝える形式が多いようです。自分の作品のよさは本人には語りにくいものなので、工夫を発表する・させることが多くなります。感想は作品のよいところを伝えるのですが、本人が工夫を発表するので、どうしてもそれに関連したコメントになりがちです。視点が広がりにくく、盛り上がりに欠けたものになってしまいます。

そこで発想を変えて、友だちの作品に対するレポートを発表するという活動を取り入れてみてはどうでしょう。
たとえばグループのメンバーがそれぞれ別のグループの作品を取材に行きます。その取材結果をグループで発表し、そのレポートを聞いて興味を持った作品を各自が見に行くといった活動です。
作品のよさ(具体的にどこが)、参考になる工夫、ここがお勧めといったものをレポートすべき項目としてあらかじめ指定しておくと、作品を見る視点を与えることができます。あらかじめ作品に対して見る人にどのように思ってもらいたい、どのようなことを工夫したという制作ノート(メモ)をつくっておいて、それに対応する項目をレポートの項目にしてもよいでしょう。友だちのレポートと比較することで、自分の作品の意図や工夫がどのように伝わったかを知ることができます。
全体で、誰のどの作品に対するレポートがよかったかを共有することで、よい作品を作った子どもだけでなく、友だちの作品のよさを伝えることができた子どもも評価することができます。

また、言語活動をより重視するのであれば、ペアで互いの作品のレポートをつくるといった方法もあります。作品を間に挟んで、自分の感想を伝えながら、思いや、工夫を相手にインタビューするのです。子ども同士の関係がよくないと難しいところもありますが、コミュニケーションスキルを身につけるのにも有効だと思われます。
もちろん、ペアにこだわらずにグループでのレポートづくりや、他のグループへの取材にインタビューを取り入れてもよいと思います。

技能系の教科では、作品に語らせる、作品から感じとる・読みとるといった、作品を通じてのコミュニケーションを大切にしてほしいと思います。こうすることで、制作の得意な子どもだけでなく、鑑賞する力、伝える力のある子ども評価することができます。是非このことを意識してほしいと思います。

目的と手段の関係を明確にする

子どもたちが課題解決をするためには手段が必要です(課題解決の手段を考える参照)。このとき、つねに教師がその手段を与えていると、子どもは受け身で指示されたことをこなすことが学習だと思うようになってしまいます。また、一つひとつ作業をこなすだけでは、その作業の持つ意味が理解されません。これでは、自ら課題を解決する力は身につきません。

たとえば、課題を解決する手段として、解決にいたるステップを穴埋めにしたワークシートを準備したとしましょう。子どもたちは穴埋めをしていくと学習した気持ちになりますが、ワークシートの穴を埋める行為が何の意味があるかは深く考えません。

歴史を例にして考えてみましょう。ある人物が目指した政治を考えるときに、「どんなことをしたか?」、「その内容は?」、「それは何のため?」、「その結果は?」を調べ、最後にそこから「目指した政治はどのようなものか?」「それは結局成功したのか?」を導くのが作業の流れです。しかし、このような流れのワークシートで作業をさせても、何のための作業かが不明確なままなので、子どもにとってはミステリーツアーです。「目指した政治はどのようなものか?」を課題として明確にし、それを考えるための手段として個々の作業を意識させる必要があります。課題を解決するという目的のために、どのような手段が必要かを明確にするのです。
しかし、「目指した政治はどのようなものか?」を考えるために、「どんなことをしたか?」を調べましょうとその手段を教師が与えてしまえば、目的と手段の関係を明確にしても受け身であることには変わりありません。「目指した政治はどのようなものか?」を考えるために、どのようなことを調べるとよいかを考えさせることで、初めて、子どもたちが課題解決の手段を意識するのです。

国語であれば、指示語の内容を考えるときには、「文章を正しく読みとるためにはどんなことに注意すればよかった?」というように、登場人物の気持ちを考えるときには「文章のどんなところに注目する?」というように問いかけます。

算数・数学であれば、「○○を求める(証明する)」ことが目的であることを確認した後、「最初に何をやってみようと思う?」、「何がわかれば解けそう?」といったことを問いかけます。

課題解決を意識して作業をする。作業がどのような課題解決に役立ったかを振り返る。いきなりは無理かもしれませんが、このような経験を通じて、自分でその手段を見つけることができるようにすることが大切です。

課題解決のためには色々な手段があります。目的を達成するためにどのような手段を選ぶか。逆に一つひとつの手段がどのような課題解決に有効であるか。このことを意識し、目的と手段の関係を明確にすることで、子どもたちの課題解決能力を高めてほしいと思います。

子どもの視点での疑問を大切にする

先日の日記「数学の教師は数学の勉強をしない?」を読まれた先生から、「どのように勉強したらよいでしょうか」というメールをいただきました。熱心に授業に取り組み、研修にも積極的に参加されている方です。私の書き方が悪かったせいもあるのでしょうが、勉強というと体系的に学ぶイメージが強く、どんな本を読めばいいのか、どんな分野から手をつけたらいいのかと悩まれたようです。そういう勉強も大切ですが、私がお願いしたかったのは、子どもの視点で疑問を持ち、その疑問を解決するために必要なことを調べたり、考えたりするということです。

たとえば、教科書に書かれている情報は無駄なものがないといっていいほど、よく練られています。子どもの視点で読んでみると、いろいろな「?」が浮かんできます。その「?」を追究していくことが教材研究につながります。教師がすぐに解決できないような疑問でも、これは追究に値する課題だと思えれば、子どもと一緒に考えることをしてもよいと思います。

先ほどの日記で書いた数学の例でいえば、「凹多角形(教科書にはこの言葉はありませんが)を考えない」と書いてあれば、「どうして」と思う子どももいるでしょう。中には、内角の和をいろいろと測って見て、凹多角形でもn角形の内角の和は(n−2)×180°と気づく子もいるかもしれません。そうなれば、きっとその理由が気になりだすはずです。こういう子どもがいるかもしれないと考えることが大切です。教師が教科書に凹多角形は扱わなくていいと書いてあるから、考えないという姿勢が問題なのです。
子どもがもし質問してきたらどのように対処するのでしょうか。「教科書に扱わないと書いてあるから考えなくてよい」と答えるのでしょうか、それとも「実は、・・・」と扱わない理由を説明するのでしょうか。教材研究の段階できちんとこういうことを想像し考えていれば、対応に困ることはありません。教師が証明も含めてしっかり理解していれば、「どうなるかな、調べてごらんよ」と余裕を持って子どもに追究をうながすこともできます。子どもがつまずいたり、新たな疑問が生まれたりしても問題なく対応できます。

こういうことは、何も数学だけに限ったことではありません。どの教科でも子どもが疑問を持つことはたくさんあります。

たとえば、ある小学6年生の社会科の教科書は、武家諸法度(部分要約)の資料の中に、徳川家光がつけ加えたこととして次のような一文を載せています。

・大名は、毎年4月に参勤交代すること。近ごろは、参勤交代の人数が多すぎるので、少なくすること。

本文には、

3代将軍となった徳川家光は、武家諸法度を改め、参勤交代を制度として定めました。

と書いてあります。

これを読んだ子どもは「???」となると思いませんか?
武家諸法度で参勤交代を定めたのなら、なぜ「近ごろは・・・」という文があるのでしょうか?
この「近ごろは・・・」の記述が資料にはない教科書もあります。ということは、「近ごろは・・・」を載せた教科書は子どもにこういう疑問を持ってほしいと考えたということでしょう。

インターネットなどで調べてみるとわかりますが、参勤というのは鎌倉時代からある言葉で、制度しては定められていなかったが秀吉のころにも諸大名は京都に屋敷を与えられ参勤していたようです。江戸時代になっても、家康の機嫌を取るために江戸に参勤していた大名もいたようで、家康も秀吉にならって屋敷を与えていたようです。この参勤を参勤交代制度として諸大名全部(水戸藩主は常に江戸詰め)に課したのが家光だったということのようです(だから、本文の記述は「制度として定めました」となっているようです)。
調べたから教えなければならないということではありません(教えたくなりますが・・・)。こういう疑問を持ち、解決しようという教師の姿勢が大切なのです。

大人だから持っている知識や常識にとらわれて読み飛ばすのではなく、子どもはどう読み取るだろうか、どう考えるだろうかという視点で教材研究をすれば、多くの「?」が見つかります。この「?」を追究していくことが教材研究となり、自然に勉強ができるのです。

メールをいただいた先生とのやり取りの中で、こういう素敵な言葉がありました。

なるほど、疑問を持てばそれを解決する為に調べる。学問の基本中の基本です。疑問に思わないと始まらないのですね。いつも「どうして?」としっかり考え、その1つ1つの問題を解決していきたいと思います。
生徒に「考える力をつけたい」と策を講じるより、このように教師がいつも疑問を持って生徒に対峙していれば、自然と一緒になって考えるようになるってことですね。

余計な思い込みを排し、子どもと同じように素直な気持ちで教材と接し、生まれた疑問を大切にする姿勢で教材研究に取り組んでほしいと思います。

体育で大切にしたい活動

体育は体を動かすことが大切になります。活動量を確保することがとても大切な教科です。しかし全員が一度に活動できる場面は意外と少ないものです。鉄棒や跳び箱のように順番待ちがあるもの。施設の関係で、同時に全員が活動できない競技もあります。体を動かせない時間が思った以上に多いのです。また、活動量が大切だからといって、ただ動いていても上達しません。ポイントを意識して活動する必要があります。
こういった問題を解決するためには、体を動かす以外の活動を大切にすることが必要です。

それぞれの競技や種目、練習ごとにポイントがあります。そのポイントを意識して友だちの活動を「見る」こと。そのよかったこと、改善すべきことなどの気づきを「伝える」こと。こういった活動を取り入れるのです。

個人種目であれば、ペアで互いの演技やフォームなどを観察し気づきを伝え合う。
集団種目であれば、チーム内で互いの動き等について振り返る。チーム内で交代があるのなら、ペアを組んで観察し合う。他チームの試合を観察して、気づきを自チームで共有する、他チームに伝える。
全体での発表で、気づきを全員で共有する。

こういったことは体を動かしませんが立派な活動です。このような活動を取り入れることで、子どもたちが漫然と時間をつぶしている無駄な時間が減ります。また、意識して友だちを見ることで、自分自身もポイントを意識して活動するようになります。
体育の時間では、体を動かす以外の活動も大切にしてほしいと思います。

算数で大切にしたい活動

算数では、数の概念や足し算・引き算などの演算の概念、長さなどの単位の概念などを形成することがとても大切になります。このとき、意識してほしいことは、問題を解けるようにすることをあせるあまり、言葉から直接式をつくる訓練に終始しないことです。

演算で考えてみましょう。算数の問題は、言葉で書かれたものを、式を立てて解くことが求められます。しかし、言葉と式を直接結びつけることはとても危険です。なぜこの問題は足し算なのか、なぜ引き算なのかを言葉で説明することはとても難しいことだからです。「違い」を聞かれているから「引き算」というのは、本当は説明にはなっていません。そもそも「引き算」という概念は言葉で形成されたものではないからです。

「残り」「違い」と聞かれたら「引き算」と教えることはHow to としては、多くの問題で有効かもしれません。しかし、その言葉の表しているものを無視して「引き算」と直接結びつけて解かせても、「引き算」を理解したことにはなりません。
「残り」と「違い」は「引き算」で求められますが、同じことを表しているわけではありません。教科書では、「残り」が「引き算」の定義、概念の出発点となっています。引き去った「残り」を求めることが「引き算」であると定義をしているのです。では、「違い」も「引き算」になることはどのように理解していくのでしょうか。たとえば、赤組8人、白組5人の「違い」を考えてみましょう。赤組、白組を整列させ、求めるものは図のどこの部分が表す数かを考えさせる。はみ出た3であれば、それはどのような操作で求められるか考える。それは、白組の5人と対応する5人を白組から引き去った「残り」だから、引き算で表される。このような過程を経ます。「違い」を「残り」に帰着させて引き算となること理解させるのです。「残り」を考えることで引き算の概念を形成し、それをもとに「違い」に拡張しているのです。

教科書では、子どもたちがばらばらにいる図、整列した図、ブロックで対応させた図、5つのブロックを対応させ、分解した図と丁寧にこの段階を踏んでいます。授業では、ブロックを使った操作をすることが必須となります。ブロックの操作が、今までやった「残り」と同じ操作だと気づくことで、これが引き算だと子どもは理解するのです。
子どもが納得できるまで、この操作を経験させることが大切です。ここをさぼって、だから「違い」は引き算だねと教え込むことは危険なのです。

また、ブロックのよさは操作できることだけではありません。人間のままでは、どうしても赤組の子ども、女の子といった属性が残ります。一旦ブロックに置き換えることでその属性は消えます。この置き換えは、数の本質的な概念形成に役立ちます。数は対応関係に注目した概念で、属性を消し去ることがその本質だからです。

問題文という言葉と式という言葉。この2つの言葉だけを行き来することを重視するのではなく、図による視覚化、ブロックのような具体物による操作、この3つを自在に行き来する活動がとても大切です。特に演算の概念形成は、どのような操作がその演算となるのかをしっかりと理解させ、練習では問題文を直接式にするのではなく、その表す状況を絵や図で表し、どのような操作で求められるのかを意識して式を立てるようにさせてほしいと思います。

算数・数学におけるジャンプの課題を考える

子どもたちの学び合いでは、課題が大切だとよく言われます。特に子どもたちが大きくジャンプするような課題が求められますが、このような課題を考えることはなかなか難しいと感じています。いつも学ばせていただいている先生から、数学におけるジャンプの課題について、考えていることをメールで教えていただきました。その一部を引用します(順序等も変えていることをお許しください)。

授業ではともすると、解答とそれが正しい理由が扱われて進んでいくのですが、その解答を導き出すための思考過程を言語化させていることが少ない、これこそジャンプの課題となるのではないかと考えたのです。

例えば、なぜそこに補助線を引くことになったのか、
引けばよいのか、
引かざるをえなくなったのかを考えさせることです。

なるほど、これは大切なことです。私なりに勝手に解釈すれば、問題を解く、解決するメタな考えを問うことです。
図形の問題であれば、知っていること(平行線に関する知識、三角形や平行四辺形に関する知識、合同や相似)、わかっていること(仮定、仮定からすぐにいえること)、いえればいいこと(結論、結論つながりそうなこと、結論の一つ手前、中間の結論)を整理する。その上で、もし手掛かりが見つからなければ、補助線を引くことで知っていることが使えないか、知っている図形をつくることができないか考える。
こういうことを子どもたちに問題を通じて具体化させることだと思います。
しかし、これは数学の授業であれば本来、常に問い続けなければいけない課題のようにも思います。とはいえ、若い教師では、教師自身がこうやって解くものだと信じ、なぜここに補助線を引くのだと聞いても、こうやると解けるとしか答えられないこともよくあります。こうなると、教師にとってもジャンプの課題になってしまいますね。

このメールをきっかけに、私なりのジャンプの課題の考え方について少し書いてみたいと思います。まだきちんと整理できていないので、うまく切り分けられていないことをあらかじめお詫びします。

・多様なアプローチがあり、そのアプローチに汎用性があるもの
たとえば、中学受験などでよく見る、階段のあがり方の場合の数。階段を1度に1段か2段あがるとき、n段あがる場合の数を求める(もちろんn段でなく、10段などとしてもよいのですが)。
答はよく知られているようにフィボナッチ数列(前の2つの場合を足した合計になる)です。アプローチとしては、表を使って性質を見つける。しかし、これでは絶対的に正しいとは言えません。そうなる理由を考えなければいけません。数学における帰納的な考え方(漸化式)、具体的にはn段にたどり着くには、その前はどうなっているのか(先ほどの図形の例における結論の一つ手前と重複しますが)という汎用的な考え方を使うことになります(n段にたどり着くには、その一つ手前はn−1段かn−2段)。

・知識を現実の問題に応用するもの
現実の問題ですから、絶対的な答えがないものもあります。それも含め、現実的な答を考えることで、学ぶ意味を知るというのは大切なことと思っています。
たとえば、過去のイベントの来場者数のデータから景品の数をいくつ準備するか考え、その根拠を数学的な用語を使って説明する。
平均でよいのか。平均より多かったら足りなくなる。最大値でよいのか。超えるかもしれない。大量に余るかもしれない。平均値にどのくらい足そうか。最頻値を基準に考えた方がよいのではないか。正解はありませんが、平均・最頻値などの統計指標や統計そのものの意味などを考えることにつながります。

・いつでも成り立つか、逆は成り立つかを問うもの
小中学校では(高等学校でもよくありますが)、具体例で確かめただけできちんといつも成り立つか確認していないものや、逆は成り立つのかを考えていないことがよくあります。
たとえば、比例や1次関数の性質には、変化率が一定であることや1増えれば同じ数だけ増えるということがあります。これは、本当にいつもいえるのか。逆に、変化率が一定である、1増えれば同じ数だけ増える関数は比例になるのか、1次関数になるのか。ならなければどういう条件があればいいのか。
いつも成り立つのかは、文字をうまく使うなどしなければきちんといえません。逆の問題であれば、変化率が一定のときでも、原点を通るといった条件がなければ、比例にはなりません。また、1増えれば同じ数だけ増えるという条件では、(定義域を)整数に限定するなどしなければ1次関数にはなりません。教科書の問題でほとんどの場合、1次関数でと条件に1次関数であることを入れている理由の一つです。

・定義の理由を考える
こう決めるということには、何らかの合理性があります。その意味を考えることで本質に気づくことができます。
たとえば、君たちなら、角度をどう定義するか。
定義そのものでもよいですが、1周を何度にするかでもよいかもしれません。360°にした意味を考えるだけでも色々なことに気づけると思います(理科の問題かもしれませんが・・・)。このことを考えることで、扇形の周や面積の問題は、定義から自明となります。

・教育課程の範囲を超えている、一般的な理論があることを、限定された条件や具体例で考えさせる。
これは、今までの例をほとんどカバーしていることかもしれません。誰も思いつかないような素晴らしい課題をそう簡単に思いつくわけがありません。先ほどまでの視点で、小学校であれば中学校の、中学校であれば高等学校の内容と、この先学習することから課題のネタを拾ってくるのです。フィボナッチ数列の例は言わずもがな、統計の例は、現実には分布がどのようなものになるか、標準偏差や危険率などの問題から考えることを、できる範囲で考えさせているわけですし、比例や1次関数の例は、関数の連続性や微分、関数方程式やカントール集合の問題などにもつながっています。角度の問題だって、孤度法にもつながります。(数学の先生でない方はこのあたりは読み飛ばしてくださいね)
たとえば、2の平方根は、循環小数にはなりそうもないと確かめていますが、有理数(分数)で表せないことは、きちんと平方根の意味を教えていれば、中学生にもチャレンジできる問題となります(背理法といった難しい言葉を使はなくてもいいのですから)。

ここであげた例が、現実にすぐに子どもがチャレンジできる課題かどうかはわかりません。それまで子どもたちがどのような課題に取り組んでいたかにもよるでしょう。最初にちょっと揶揄した書き方をしましたが、子どもにとってジャンプの課題は、教師にとってもジャンプの課題です。教師が積極的にチャレンジしていかなければ、子どものジャンプは期待できないと思います。皆さんがチャレンジしておもしろかったジャンプの課題があれば、ぜひ教えてください。また機会があれば、他の教科のジャンプの教材についても紹介したいと思います。

授業の導入を考える

授業の導入で大切なことは何でしょうか。前時の復習でしょうか。落語のまくらのように子どもたちのテンションをあげることでしょうか。子どもたちが興味・関心を持つようなものを見せることでしょうか。

国語で目の錯覚について書かれた教材を扱う授業でのことでした。教科書には有名なルビンの壺(壺にも、2人の人の顔にも見える絵)が載せられていました。授業者は子どもに興味を持たそうとネットから見つけてきた、いろいろなトリックアートを子どもたちに見せていました。子どもたちもよく反応しています。授業者が準備したものを見せ終わったのは授業が始まって10分以上過ぎたときでした。その後、教科書の文章を読むのですが、子どもたちは集中して取り組んだでしょうか。実はすぐには集中しませんでした。トリックアートに夢中になっても、教科書の文章を読みたい、理解したいとはならなかったのです。また、トリックアートに興味をもつことはこの文章を理解することとにはほとんど役立ちません。10分以上もかける価値はあまりなかったのです。

導入で大切なことは、できるだけ早くその時間の中心となる課題につなげることです。授業時間は内容に対して決して多くはありません。子どもが集中できる時間は限られています。導入はその目的を達成できるなら、できるだけ短い方がよいのです。復習であれば、その時間で使うもの、必要なものに絞ることが大切です。興味・関心を持たせるのなら、できるだけインパクトの強いものを与えて、すぐに本題に入るべきなのです。先ほどのトリックアートであれば、子どもたちが「えっ!」と思う、これぞというものを見せて、すぐに本文に入るべきだったのです。

導入を考えるときは、その時間の中心となる課題、活動をまずしっかりと組み立て、そのために必要なことは何かを明確にしなければなりません。子どもたちにとって必然性のない課題であれば、必然性を持たせる。前提となる知識が必要であれば、その知識を復習する。求められるものによって導入の形も異なるのです。中心となる課題、活動に限られた時間、エネルギーを集中させるためにも、導入は効率よく、できるだけ短くするのがポイントです。漫談のような授業の内容と関係のない話をするのは論外です。このようなことを意識してほしいと思います。

用語の説明を考える

新しい用語を説明する時に注意してほしいのが、ゆるぎない定義と感覚的な理解です。用語は概念や事象を互いに共有するための大切な言葉です。人によってその意味するところがずれてしまっては困ってしまいます。ずれた時のよりどころになる、ゆるぎない定義が求められます。一方、ゆるぎない定義は、論理的ではありますが、感覚的にはわかりにくいことがあります。定義をまる覚えしても、その用語を理解したわけでも使いこなせるようになったわけでもありません。感覚的に理解できることが大切なのです。
したがって、用語を扱う時には、まず教師がその用語の正しい定義を理解しておく必要があります。その上で、子どもたちの成長に応じた定義や感覚的に理解するための説明や活動を考えることになります。

たとえば、社会科の緯度・緯線、経度・経線を考えてみましょう。正しい定義はどのようなものでしょう。

ある地点の緯度とは、その地点における天頂と赤道面のなす角の大きさで表され、赤道面より北を北緯、南を南緯という。
ある地点の経度とは、その地点と北極・南極を通る円(大円となる)(この線を経線と定義してもいい)と基準となるグリニッジ天文台と北極・南極を通る円のなす角(それぞれの円を含む平面同士のなす角)の大きさ(180°以内)で表され、基準より東を東経、西を西経という。
同じ緯度の点をつないだものを緯線、同じ経度の点をつないだものを経線という。

このようなものになるでしょう。小学生には、このような定義では理解できません。そこである教科書では、地球儀の横の線を経線、縦の線を緯線として感覚的に定義しています。その上で、経線は北極と南極を結ぶ線と説明をつけ加えています。これが、本来の定義に近いものですが感覚的なものを優先しています。角度も180°ずつに分ける、90°に分けるといった感覚的な説明です。
しかし、これだけではまだまだ理解できるわけではないので、都市の緯度や経度調べたり、その逆に緯度や経度から都市を見つけたりする活動が必要になります。方位と東経西経の違いを理解するために、テープで日本の東や西にある場所を見つけるような活動も必要でしょう。

これが中学生になると定義はより正確になってきます。縦の線、横の線といった表現は感覚的に理解するためには使ってもよいでしょうが、北極と南極を結ぶ線、南北の線といった表現、赤道面と平行な平面で切った線といったより正しい表現を使うようにすることが必要です。
緯度や経度の大きさがどこをはかっているのかも明確にします。
こうすることで、ゆるぎない定義に近づけていきます。
その一方で、緯度や経度を使って位置を示すようにしたのかを考えるような活動をすればより論理的な思考ができるようになります。
地球における絶対的な基準が地軸であること、なぜ、距離ではなく角度を使うのかといったことにも気づけると思います。

教材研究では、まず用語の正しい定義をしっかり調べて理解した上で、教科書の定義や説明と比べることをします。あえて教科書が感覚的している部分があればその意味を考える、感覚的に理解するためには、どのような言葉に置き換えたらよいのだろうか。どのような活動が必要だろうかを考えます。そのとき正しい定義に含まれている内容を教師がしっかり理解していれば、どこをポイントとすればよいかすぐにわかると思います。
教科書に出てくる用語については、教科書の定義を鵜呑みにして授業を組み立てるのではなく、必ず一度は自分で調べてきちんと理解してから、どう理解させるか考えてほしいと思います。

道徳で大切にしたい問いかけ

新学習指導要領でも道徳の充実が言われています。今まで特別活動の時間などに奪われがちだった道徳の時間が重視されてくることと思います。
道徳の授業で大切にしたいことの一つに自分に引き付けて考えるということがあります。資料の登場人物の行動について、どうしてと理由を聞いたり、その是非をたずねたりする授業に出会うことがあります。しかし、登場人物について離れた立場から考えても、それはあくまでも他人事です。自分と違う考えに出会っても、「そういう風にも考えられる」となってしまいます。そこで、「あなたならどうする」と、自分に置き換えて考えさせることが大切になります。互いに「私」が考える行動を聞き合うことで、違った考えは「私」に対する問いかけになります。同じような考えは「私」に対する承認になります。こうしてより広い視野で、より深く考えるようになります。こうしたことの積み重ねで心が育っていくのです。

そのためには、自分の問題として考える前に、資料の状況等をきちんと理解しておくことが必要になります。国語の授業と違って、教師が資料を読みながら「○○したら・・・、××したら・・・、どうしたらいいか困ってしまったんだね」といった解説を入れるなどして、できるだけ早く正確に状況を理解させるようにします。その上で、「あなたならどうする」と問いかけるのです。

道徳の授業では、正解求めたり、こうしろと強要したりしても意味はありません。極端な例ですが、万引きをする人は、万引きは犯罪であることは知っています。万引きは悪いことだ、万引きをしてはいけないと言ったところで意味はあまりありません。自分がしてはいけない思うことが大切なのです。それは、外部からではなく、自分の内側からしか変われないことです。
ですから、子どもの考えに対して、よい悪いといった視点でのコメントは必要ありません。それぞれの考えに接して、自分の考えをもう一度問い直せばいいのです。

「○○さん、・・・すると言ったけど、それってどういうことかもう少し詳しく聞かせてくれる」
・・・
「なるほど、同じようにするという人いる。じゃあ△△さん」
・・・
「私は違うようにするという人いる。××さん」
・・・
「色々な考えが出てきたね。最後にもう一度、自分の考えを書いてみてくれるかな。最初と変わってもいいよ」
・・・

こうすべきだ、こちらが正しいといった議論ではなく、人の考えを聞き、自分の考えと比べ、もう一度考え直す。このことを繰り返すことで、次第に深く考えて行動できるようになっていきます。子どもたちが色々なことを「私」の問題として考える時間の一つとして道徳を活かしてほしいと思います。
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