卒業式で学校と地域の連携を考える

昨日は、中学校の卒業式に来賓として参加させていただきました。

学校評議員として、日頃から行事等での子どもたちの姿を見せていただいているので、彼らの晴れ姿には感慨深いものがあります。私たちの席からは男子しか見ることができませんでしたが、子どもたちがこの式にどのような思いを持って参加しているのかとてもよくわかりました。
特に合唱での体を揺り動かしながら自分たちの思いを振り絞るようにして歌う姿は、一人ひとりがこの3年間、この学校で素晴らしい時を過ごしてきたこと示していると思いました。

この学校では地域との連携をとても大切にし、色々な活動やイベントを子どもたちと地域が一緒になって企画・運営しています。子どもたちと共通の時間を過ごした地域の方がたくさんいらっしゃいます。ふとその中心となっている方に目を向けると、泣いておられました。卒業式の雰囲気に流されて泣かれたのではありません。子どもたちの成長を願うが故に、時には厳しい態度で接したこともあったはずです、ぶつかることもあったでしょう。そういう濃密な時間を共に過ごしたからこそ、彼らの成長した姿を、保護者や先生と同じように誇らしく思い、感動して涙したのです。

最近は学校と地域の連携がよく言われますが、廃品回収や校庭整備といった学校に対する物理的なサポートのお願いにとどまっているところが多いように感じます。地域の方が子どもたち一人ひとりと直接かかわらなければこのような素晴らしい涙は見ることはできないでしょう。来賓の多くが、子どもたちとのエピソードを持っている方々でした。来賓控室では、卒業生との思い出話も聞こえてきます。
子どもたちの成長した姿に感動するとともに、学校と地域の連携がもたらしてくれるものが何かを感じることができた、とても素晴らしい卒業式でした。

「授業から学ぶ」とは

今年度の授業アドバイスは先週で終了しました。おかげさまでたくさんの授業を見る機会をいただきました。授業を見せていただいて気づくことがたくさんあります。毎年延べ数百人の授業を見ていることになりますが、いまだにその学びは尽きることがありません。というか、年々増えているように思います。私が授業から学ぶために、どのようなことを意識しているか少し書かせていただきます。

授業中に教師ばかりを見ていると、授業技術にとらわれてしまいます。説明の仕方、指名の仕方、板書の仕方、机間指導の仕方、・・・。どうしても批評家的に見てしまいます。これではダメだ、こうした方がよい。こんな目で見てしまうのです。もちろん名人・達人級の方の授業では、これは素晴らしい、なるほどこういう対応もあるのかと感動することがたくさんあるのですが、それでも冷静に、ここはこういうことを意図して、こういう技術を使ったのだなと分析していたりしています。私の場合、教師を見ることで学べることは実はあまり多くはないのです。
いつも多くを気づかせてくれるのは子どもです。子どもたちは、興味を持てば、目が輝いてきます。集中した瞬間、学級の空気が変わります。わかった瞬間に、思わず声を出したり、わからなくて頭を抱えたりもします。悲しい、悔しい思いに、時には涙を流すことさえあるのです。そんな教室のドラマから、実にたくさんのことが学べるのです。

同じような授業展開や教師の対応でも、子どものようすや反応は全く違うことがあります。それまでに子どもたちがどのような経験をしていたのか、どれだけ育っていたのか、その背景を想像します。ほんのちょっとした教師の言葉の違いが子どもの動きを変えてしまったのかもしれません。時間を空けて同じ学級をみると、大きくそのようすが変わっていることもあります。きっと子どもを変える何かがあったはずです。それは、何かを探ります。
子どもの姿から、子どもの視点から授業をながめると授業の風景は大きく変わります。教師だけを見ていれば、同じような展開の授業を2度見てもそこで学べることは増えません。しかし、子どもを見れば、必ず違いがあるはずです。逆に違いがなければ、その課題なり、授業の展開なりが本来持っている力だということです。授業を見ただけ学びが増えるのです。

私の若いころは、同僚の授業を見る機会はあまりありませんでした。わずかながらも私が教師として成長できた理由を考えてみると、子どもが私にその姿で大切なことを教えてくれたのだと気づきます。授業中に突然立ち上がり「わからーん」と叫んだ子ども、私の不用意な一言に涙を流した子ども、「よくわかった」と言っていたのに試験はさんざんだった子ども、・・・。その背景、理由を考え、どうすればいいのかを悩んだから、こんな私でも少しは成長し続けることができたのです。

子どもから学ぶ姿勢を持てば、他者の授業を見る機会がなくても、毎日の授業が即、教師としての学びの場に変わります。自分の毎日の授業から学べるのです。ですから、私は若い先生への授業アドバイスを頼まれた時、その先生の授業を見るより先に、まず一緒に他の先生の授業を見に行くのです。教師を見ずに子どもだけを見ます。そこに見える子どもの姿は、教師が日ごろ教壇から見る世界です。その子どもの姿から何がわかるか、何を知らなければいけないのか、それを伝えるのです。

「授業から学ぶ」とは「子どもから学ぶ」と言い変えてもいいと思います。この視点を持つことができれば、どんな授業からも学ぶことができます。子どもの成長を手伝うのが教師の仕事です。その子どもの姿からの学びが多いというのは当たり前のことかもしれません。しかし、そのことに気づいていない先生が多いのもまた事実です。

有田先生の模擬授業で考える

本年度第7回の教師力アップセミナーは、社会科授業名人有田和正先生の模擬授業を中心とした講演でした。

有田先生の授業について誰しもが感じるのは、その圧倒的な知識量と教材研究の深さでしょう。今回特に強く感じたのが、教材研究の中でも授業構想力のすごさでした。
江戸時代の資料や事実を結びつけながら、「日本人の富士山への憧れ」というテーマに向かって進んでいきます。富嶽三十六景の1枚目「日本橋」を起点に、江戸城、富士山、高瀬舟、魚河岸、神田山、佃島、酒樽、伏見、伊丹、江戸の人口、都市づくりのインフラ、富士見櫓、富士見坂、振袖火事、江戸城天守閣喪失、富士山への江戸市民の憧れ、江戸市民への無税、家康の思惑、参勤交代、歌舞伎、富嶽三十六景「東海道程ヶ谷」、江戸時代の旅、富士登山、八百八講、伊勢参り、五百羅漢寺、女人禁制、荒幡富士、富士塚、タコマ富士とつながって、最後に服部半蔵、本能寺の変、佃村の漁師を付け加えました。途中で自己投資、学生の就職、京都のお寺、ベネチア、杭打ちへと脱線もしています。
前半は江戸の町づくり、後半は富士山への憧れ、脱線は教員の自己研鑽がそのベースにあります。
一つひとつの資料や事実については、私ごとき浅学のものでも多少は知っていることです。しかし、それらを結びつけて一つなぎの破綻のない授業にするというのは、なまなかなことではできません。今回の授業のきっかけはシアトルにある「タコマ富士」のような外国にある○○富士に興味を持たれたことにあると思います。そこから、これだけのものをつなげて一つなぎの授業にしてしまうというのは、単に知識があればできることではありません。一つひとつの知識が有田先生の中で有機的につながり、生きたものになっているからです。
知識をつなげばいい授業になるわけではありません。一つひとつの資料や事実はどれをとっても歴史を考える入口となるものばかりです。
富嶽三十六景から、江戸の文化、明治時代の浮世絵の海外流出、文明開化、印象派、・・・。
魚河岸から、水路、流通、市場、築地、・・・。
佃島から、三角州、埋め立て、漁業、のり、・・・。
家康の思惑から、武家諸法度、禁中並公家諸法度、身分制度、・・・。
参勤交代から、鎌倉時代の参勤、江戸の武家屋敷、経済効果、水戸藩の江戸定府、御三家御三卿、・・・。
私のつたない知識でも、歴史だけでなく、地理、経済、政治へとどんどん広がっていくことがわかります。
もちろん今回の授業では、これらのことを深く扱うことはされません。あくまでもテーマから大きく逸脱することは避けています。しかし、どの事柄もそれに興味を持った子どもに広い学びの世界へと誘ってくれるものばかりです。「追究の鬼」を育てるための種を蒔いているのです。

1時間の授業で教えられことはどれほどの名人でも限られています。しかし、それをきっかけとして子どもが学ぶ意欲を持てば、その学びは無限に広がっていきます。一見すると有田先生の授業は知識伝達型の授業に見えるかもしれませんが、素晴らしい学びへの扉を開くものです。とはいえ、この名人の授業を誰しもが簡単にまねできるわけではありません。中途半端にまねしても、単なる教え込みの授業になってしまいます。表面的な知識の披露ではなく、社会科としてどのようなことを考えるための知識、資料、事実なのかをしっかりと意識することが大切です。
たとえば、鎌倉幕府の成立がいつだったかを覚えることに大きな意味はありません(1192年以前であるという考えが主流となってきているようです)。同じ武士でも平氏ではなく、源氏の政権がクローズアップされることはどういうことなのか、それが世の中にどういう変化をもたらしたのか。それ以前と以後では何が大きく変わったのか。そういうことを考えるきっかけとして、鎌倉幕府の成立をとらえてほしいのです。

有田先生の素晴らしさは、その知識や教材研究の深さだけではありません。いつも笑顔を絶やさず、子どもの発言が期待したものでなくてもかならずポジティブに評価されます。子どもから考えを引き出さす技術はその知識量に負けない素晴らしいものです。
教師の基礎基本は対応の技術と読書である。基礎基本を磨き続けてほしいと訴えられます。教師が50歳を越えると、学級崩壊が起こる。学級崩壊が起きた担任の24%は50歳以上の人である。30年も先生をしていても、その間に基礎となる杭を打っていない。反省をしなければ勉強もしない。優れた授業も見ない。1年目にしたことを30回繰り返したに過ぎない。新規採用者と同じ。社会は変化したのに、自分が変わっていない。こういう人が学級崩壊を起こす。こう警鐘を鳴らされます。
80歳に近づこうとする今も、常に新しい授業づくりに挑戦されている有田先生の言葉だからこそ説得力が違います。

有田先生からはいつも多くの刺激と考えるきっかけをいただいています。今回の模擬授業の底に流れる、社会科の授業はどうあるべきかという主張から、多くのことを考えさせていただきました。また、講演の前後では授業づくりにかかわるいろいろな話を聞かせていただき、とても有意義で楽しい時間を過ごすことができました。
2日後に迫った「愛される学校づくりフォーラム2013 in東京」で有田先生がどのような模擬授業を見せてくださるのか、ますます楽しみになっています(パネリストとしては不安とプレッシャーに負けそうですが・・・)。
有田先生本当にありがとうございました。

体罰の問題をきっかけに校長の役割を考える

体罰の問題が学校を揺らしています。学校への調査もおこなわれていると思います。ここで体罰その是非を論じることはしません。体罰を知った時、校長はその教師へどう対応するのか、その苦しさと校長の役割を少し考えてみたいと思います。

体罰をしてしまうのは、指導に熱心な教師であることが多いでしょう。だからこそ、改めさせて、そのような間違いを再び犯さないように指導をするはずです。その上で考えるのが、ことを公にするかどうかです。体罰の事実があっても、それが大きなトラブルになっていなければ、処分の対象にならないように教育委員会へあえて報告しないことも十分に考えられます。その教師の将来のことを考えた温情のある校長と評価されるかもしれません。しかし、荒れている学校では力で押さえなければという教師の意識を変えることはとても難しいことがあります。「体罰もやむを得ない」という強い姿勢でなければ子どもたちを押さえることはできない。そう信じる教師は、繰り返し体罰をおこなってしまうこともあります。体罰を容認する雰囲気が学校にできてしまうことはとても危険なことです。校長として毅然とした態度で接するしかなくなります。「泣いて馬謖を斬る」のたとえもあるように、体罰の事実を報告して処分対象とせざるを得ないこともあるでしょう。当然職員の反発も出てきます。たとえ学校を支えている教師たちでも異動してもらわなければいけないかもしれません。校長として学校経営も苦しくなります。学校の再生もままならなくなります。そのことがわかっていても、決断しなければならないこともあります。

こと体罰の問題に限らず、状況をリセットして学校を再生するための最後の仕事が、それを進めた校長自身の異動である。学校が再生していく過程ではこのような皮肉なことが起こっていることがあります。引き継いで学校を再生させた方が評価されても、そのための地ならしをして去った方が評価されることはまずありません。報われないとわかっていても自分のとるべき行動を決断するのも校長の役割です。
体罰の問題をきっかけにこのような校長の姿を思い出しました。

教師のための「マネジメント」が届く

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先日、明治図書より、教師のための「マネジメント」が届きました。編著者の一人長瀬拓也先生からのプレゼントのようでした。ありがとうございます。
若い先生はもちろんのこと、ベテランの先生にも参考になると思い、少し紹介させていただきます。

「マネジメント」という言葉は教育の世界ではうまく広がっていません。訳語である「管理」「経営」という言葉のもつイメージがなじまないのかもしれません。この本では、教師にとってのマネジメントを、

1.組織をつくり、目的と使命を与える(プロデュースの視点)
2.組織を動かし、環境をつくる(システム・ルールの視点)
3.組織とその中を見て、促進する(ファシリテーションの視点)

と、3つの視点でとらえています。
この本のよいところは、この視点を踏まえて<学級経営>、<生徒(生活)指導>、<授業・学習活動>、<教師の自己成長戦略>について理論だけでなく具体的な場面ごとの実践が提案されていることです。
日々の学級経営や授業に悩んでいる若い先生は、具体的なアドバイスを求めています。今直面している状況を切り開くための、具体的なヒントがたくさんあります。ベテランの先生にとっては、こんなの当り前だ、知っていると思う実践例もたくさんあるかもしれません。大切なことは、それらの実践が点としてではなく、「マネジメント」の視点で戦略的におこなわれることです。日々の実践を見直すよいきっかけを得ることができると思います。

私は、この本で示される場面ごとに「自分ならどうするか」とまず考えてから読み進めました。「そうだよね」「そういうやり方もいいな」「ここは気づかなかった」とクイズを楽しむようでした。この本の著者は30代前半から40代前半の先生がほとんどだそうです。私から見れば若い先生方からたくさんのことを気づかせていただきました。そのエネルギー、意欲から元気をいただきました。この本から学ばせていただいたことをよい形で現場に還元したいと思います。一度手に取ってみることをお勧めします。

教師のための「マネジメント」 明治図書 定価1,860円+税
長瀬拓也・岡田広示・杉本直樹・山田将由 編著
西日本教育実践ネットワーク 著

研修を受けることで考える

先日、NPO法人の会計基準についての研修を受けてきました。法律が変わって会計処理の方法が変わったため、その内容と会計処理の方法を知るためです。日頃とは逆の立場で研修や授業について考えることができました。

講習内容に関するハンドブックが手元に配られていたので、まずは自分にとって必要なところ見つけ読んでいました。ハンドブックは読めばわかるようにつくられているものです。これで必要な情報はほとんど手に入ります。読んで確認したいと思ったところが明確になると、それ以外についてはあまり話を聞く気はしませんでした。研修を受ける目的がはっきりしているので、それが達成できればいいからです。

研修はハンドブックをそのままスクリーンに表示しながら、講師が席に座ったままで淡々と説明をしていくものでした。はっきりした声で聞きやすい話し方を意識されていましたが、聞き手をひきつけるような工夫はありません。しかし、これでも全く問題は感じませんでした。この研修を通じて考えることはほとんどありません。会計基準の変更について必要な情報を知ればいいだけです。しかも参加者は知りたい、知る必要がある方ばかりです。講師の話から必要な情報を手に入れればいいからです。
受け手が学びたいと思っていれば、内容さえちゃんとしたものであれば研修は成り立つということです。自腹の研修と強制的な研修とで雰囲気が大きく違うのも、学ぶ意欲の差です。学校などで研修の講師をおこなうときには、まずこの意欲をどう高めるかが問題です。参加者の問題意識を高めるための問いかけや参加者にとって意味を感じる課題を提示することが必要になります。これは授業にもつながることです。子どもたちの学ぶ意欲があれば、すぐに本題に入っていくことができます。そうでなければ、まず意欲を高めることが必要です。相手の状況で変わっていくのです。

今回の研修で私の目的は十分達成できました。知りたかったことはすべて知ることができました。しかし、研修の間私はずっと集中していたわけではありません。講師の話も必要なところしか聞いていません。これは、問題が解けた子どもと似た態度です。答を知ることが目的であれば、問題が解けた時点でほぼ目的は達成されています。自分の答が正しいことを確認できれば、それ以外は無駄な時間になります。残念ながら、答を知ることを目的としている子どもたちや授業に思いのほか多く出会います。一人ひとりが互いにかかわりながらそれぞれの成長をすることを学校では目指します。社会性は重要な要素です。自分が答えを知ることではなく、全員で答を見つける、答の見つけ方を考える、友だちにわかるように説明する。こういうことを目的としなければ、教室での授業は成立していきません。今回の研修と学校の授業とは目的の形が異なるのです。このことは意外と意識されていません。子どもたちの求めるものが、教師が求める答の授業ではいけないのです。このことを先生方がきちんと共有することが大切です。もちろんこのことは保護者とも共有する必要があります。ホームページや学校通信などで活用して、学校にかかわるすべての人で共有してほしいと思います。

研修を受けながら、このようなことを考えました。

人事と研修を考える

校長先生との会話の中に人事に関することが増えてきました。なぜか人事の話題はあまり明るい話になりません。来年度は初任者が○人になりそうで厳しい。○○先生が6年で抜ける穴が大きい(愛知県は、小中学校では原則初任から6年で異動となる)といった言葉がよく聞かれます。

初任者を育てるのに時間と労力がかかります。一方、苦労して育てて戦力となった先生が異動で抜けていくのですから、確かに痛手です。しかし、よくよく考えてみるとその戦力を受け入れる学校があるのですから、地域の学校全体で考えれば異動があってもトータルの教育力は変わりません。結局、退職されるベテランに対して補充される初任者の差が明確な差となるのです。仮に定年退職者1人と初任者1人が入れ替わるとすれば、40年近くのキャリアの差が戦力の差となります。これはとても大きなものです。単純に考えると年々それだけ学校の教育力が落ちていくことになります。しかしこれは、現役の先生方の教育力が変わらないという前提での話です。現役の先生方一人ひとりの力量が向上していけば、ベテランと初任者の大きな差を全体で埋めることができるのです。そういう視点に立てば、戦力的に見劣りする初任者の研修に力をいれるだけでなく、学校全体での研修に力を入れることが大切なことがよくわかります。
伸びしろの多い初任者、若手をまず育てることを優先するのか、全体の向上の中で引っ張っていくのか。それとも同時並行でいくのか。学校の規模、職員構成でも最適な戦略は異なります。悩ましい問題です。

ところで、戦力として育った若手を受け入れる側は、大きくプラスになるはずです。実際に、そのような声もよく聞くのですが、どうも戦力を放出して痛手だという声に対して少なすぎる気がするのです。この時期、わかっているのは異動で出ていく人ばかりですから、暗い話になりやすいのはわかります。しかし、新年度になって数か月してもポジティブな話はあまり聞けないのです。その理由を私なりに考えると、学校ごとに戦力として求められる内容が異なっていることが原因であるように思われます。
若手は、その学校で求められていることを一番に学んでいきます。荒れ気味の学校ではあれば生徒指導面や部活動面。学校独自の授業スタイルがあれば、当然そのスタイルを学ぶことが優先されます。ある面、その学校に特化していくのです。学校ごとに状況は違います。新しい学校では、以前の学校で身につけた力がそのまま生かせれるとは限らないのです。小学校から中学校、中学校から小学校への異動でその傾向が顕著です。即戦力を期待されているのに、新しい学校に適応するのに時間がかかってしまうのです。
しかし、このことは決して悪いことではありません。新しい学校で学んでいくことで幅が広がりますし、どんな学校でも共通する基本を意識することで地力がつきます。一段と成長できるのです。実際、異動当初は戸惑っていた方が、ぐんぐん力をつけていく姿をたくさん見ています。また、以前の学校ではあまり力を発揮できなかった方が、新しい環境で成長することもよくあることです。

新規採用が増えている現状で、一律に6年で異動といった原則に縛られることに少し疑問も感じています。その学校の環境ではうまく育てることが難しい先生も他の学校では成長できる可能性もあります。早目に異動して、そこでやり直すことも選択肢としてあってよいように思います。
異動は誰にとっても新たな成長のチャンスです。そのチャンスを活かすかどうかは本人だけの問題ではありません。特に若手にとっては、適切な研修や指導がまだまだ必要なのです。しかし、意外に転入者に対してのケアは薄いように感じます。

そろそろ来年度に向けての準備が始まる時期です。思い通りにならないのが人事です。それよりも、学校としてどのように先生方の教育力をあげていくのか、その戦略を立てることが大切です。先生方の成長を個人の問題としてとらえないようにしてほしいと思います。そもそも学校というところは、組織的に子どもを成長させるところです。先生方に対してもそうあるべきではないのでしょうか。
こんなことを校長先生方との会話の中で考えました。

ある校長の退職に思う

昨日はお世話になっている校長先生とお話をする機会がありました。今年度で定年退職されるのですが、勤務校やこの町の教育への思いをいろいろと聞かせていただきました。

町として新しいことに挑戦した学校でした。新しいことは最初からうまくいくわけではありません。理想と現実の間で、手探りでの試行が続きました。取り組みの成果が見えず、混乱した状態が批判を受けることになり、学校のことが選挙の争点となるなど、政治が絡んできました。そういった批判に対して、学校の考えを理解いただき、職員が自分たちの信じる教育をおこなえるように多くの力を割いてこられたことと思います。学校の中のことに力を注ぐべき時に、余計なことに力を割かれ悔しい思いもされたことでしょう。言いたいこともたくさんあると思います。その努力が正しく評価され報われたのかはわかりません。
地元の方なのでいろいろなしがらみもあったようです。次の校長にはそういったしがらみのない方がなって、学校運営に専念してほしいとおっしゃっていました。退職後は学校現場からは完全に離れられるようです。その方がこの学校にとっても良いことだと考えられてのことでしょう。一方、町としてすべての小中学校で最低限の授業規律や授業の進め方の共通化を図るよう取り組むべきだと、その実現に向けて働きかけてもおられます。学校への強い思いを感じました。
退職後はどのような形で学校教育とかかわられるのかお聞きすることを楽しみにしていたのですが、とても残念です。長い間お疲れさまでした。

今、学校現場への政治の介入が話題となっています。安易に是非を語ることはできませんが、そのために現場の教師が教育と関係ないところに力を割かなくてはいけない、よりよい学校をつくろうとする意欲がそがれる、少なくともそんなことだけは無いようにしてほしいと思います。政治には子どもたちのために先生方がその力を存分にふるえる環境をつくることを期待します。

教師を映し出す鏡を見る

この日記でもいつも書いていますが、先生の笑顔が子どもたちの笑顔を引き出します。明るい学級は間違いなく先生も明るいのです。教室の子どもたちは教師を映し出す鏡です。3学期ともなると子どもたちの所作も担任と似てきます。考え方までも似てくるのです。

私は明るい性格でないから無理だなどと思う必要はありません。教師がいつも笑顔で子どもたちに接すればいいのです。笑顔は訓練でつくることができます(笑顔は訓練でつくる参照)。最初はぎこちなくても、続けていれば自然なものになっていきます。教師が笑顔で接してくれれば子どもたちも安心して学級で暮らすことができます。子どもたちは教師の笑顔が大好きなのです。
子どもたちの心を育てることはとても難しいことです。しかし、印刷物を配る、宿題を集めてもらう、子どもに何かしてもらうたびに教師が「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えていれば、子どもたちは自然に「ありがとう」を口にするようになります。教室に「ありがとう」があふれるようになってきます。道徳の時間に感謝を取り上げるよりもよほど効果があります。

多くの先生が明るい学級、楽しい授業ということを口にします。子どもの心を育てたい。誰しもがそう思います。それを実現するのは、日頃の教師の子どもへの接し方だと思っています。今年度も残りわずかです。今一度、子どもという教師を映し出す鏡をじっくりと見てください。そこにはどんな姿が写っていますか。年度末には素敵な姿が映っているようにしたいものです。

白石範孝先生から学ぶ

本年度第6回の教師力アップセミナーは筑波大学附属小学校の白石範孝先生の「『この時の主人公の気持ちは?』これでいいのか、国語の授業〜論理的思考ができる子どもを育てる〜」と題した講演でした。

多くの国語の授業は思いついたことを子どもが発表するだけで、子どもが真に考えるものになっていないという白石先生の問題提起はとても賛同できるものでした。国語も算数も論理的な教科であるという言葉はまさに我が意を得たりでした。

論理的に考えるためには、

たとえば「要点」(形式段落レベルのまとめ)「要約」(文全体のまとめ)「要旨」(筆者の主張)といった国語の「用語」の違いを明確にして習得し、活用すること。
たとえば形式段落に分ける「方法」を習得しその方法を活用すること。
たとえば、漢字の書き順を上から下、左から右の順に書くといった「原理原則」を習得することで、1字1字覚えずに例外だけを覚えるようにすること。

といった、「用語」「方法」「原理原則」を習得しそれを活用することが必要と主張されました。
これらは、メタな知識、他の場面でも活用できる再現性のある技術と言い換えてもいいかもしれません。これはどの教科でも大切にしてほしい観点です。得た知識や技術は他の場面で活用できてこそ意味があります。このことを意識せずに学習を続けた結果、勉強とは単に記憶することと思っている子どもがいることはとても残念なことです。

詩、文学作品、説明文それぞれについて授業の作り方を具体的に教えていただけました。

詩では、リズムを大切にしたい。リズムは音数(字数ではない)できまる。したがって、音数、字数という用語を押さえておくことが必要であること。また、五七調は重い、暗い、七五調は軽い、明るいといった原理原則を押さえておくこと。使われる技法を見つけて終わるのではなく、その技法はどんな効果があるのか、その効果をどう活かしているのかといったことを問うことが必要である。

文学作品や説明文では、全体をとらえて考えることを大切にする。そのためには、題名をそのまま使って問いをつくることが有効である。題名は、文学作品であれば「中心事物・登場人物」「山場」「主題」、説明文であれば「題材・話題」「事例」「主張・要旨」であることが多い。たとえば「タンポポの秘密」であれば、「タンポポの秘密」はどんなもの、いくつある、・・・。こうすることで、文の構成を意識でき、読む視点も明確になる。

文学作品は、中心人物の変容をとらえることが中心となる。中心人物が事件・出来事によってどう変容するか。事件・出来事と変容の因果関係を問うことを大切にする。低学年の内に、登場人物(人に限らず、意思を持って動いたり話をしたりするもの)、中心人物(物語を通じて変容していくもの)といった用語もしっかり押さえておく。

説明文は、問いと答えに注目し、用語を積み上げていくことで指導していくとよい。

低学年では、形式段落、主語、文といった用語をまず押さえておく。問いの文は「・・・でしょうか」、答えの文は「・・・です」と文末に注目することを指導する。問いの文はどの段落にあるか、段落は何文あるか、どの文が問いの文か、何について聞いているかと問うことで、文意識や主語意識を持たせることが大切である。

中学年では、意味段落、要点、要約といった用語指導し、これらを使って文章構成図をつくっていく。
問いと答えの間にある事例・実験・調査・観察に焦点を当て、何が・いくつ・何のため・結果はといったことを問い、筆者の言いたいことにつなげていく。

高学年では、中学年にプラスして要旨を問う。具体を読み取り抽象化することが要旨をまとめることになる。
また、文の構成の基本パターンを指導しておくことも大切になる。
結論が先頭にくる頭括型、結論が最後にくる尾括型、結論が最初と最後にある双括型があるが、双括型は、途中で最初の結論をまとめて、それに自分の本当に言いたいことを+αして結論とすることが多い。
この基本パターンは文全体だけでなく、形式段落の構成など部分にも当てはまる。文章を書く時にも応用ができる。

要点は、文章構成、意味段落、要約、要旨を理解するための手段である。要点は、いくつの文からなるかという文意識と大切な一文を抜き出し短くまとめることが必要となる。このとき、何についてという主語を意識することが大切となる。主語を文末にした体言止めの形で要点を書くことが、主語意識を持たせるのに有効である。同じ主語のグループをまとめれば意味段落になっていく。

私がすぐに思い出せることでも、これだけのことがあります。非常に論理的かつ具体的で、参加された誰もが納得させられるお話でした。まさに国語の授業の原理原則を教えていただけたと思います。とはいえ、これで教材を目の前にしてすぐに授業が作れるかと言えばそういうわけにはいきません。白石先生からいただいた視点を参考に何度も文章を読み、教材研究することが必要です。私も白石先生から学んだことを、時間をかけて消化していきたいと思います。とてもよい学びをできたことを感謝します。

給食での死亡事故に思う

先日小学5年生の女児が給食のチヂミをおかわりして、アナフィラキシーショックで亡くなるという痛ましい事件が起きました。たまたま私の知り合いにその学校の保護者がいて、学校から保護者への説明の内容をかいつまんで教えていただけました。感じたことを少し述べたいと思います。

報道では3時間後に死亡となっていますが、実際はお子さんが不調を訴えたのが13時24分、校長がエピペン(アナフィラキシーに対する緊急補助治療に使用される医薬品で、使用者は患者本人か患者が未成年の場合は説明済みの保護者であるが、必要に応じて救命士、保育士、教師も使用可能)を注射したのが13時35分、13時40分の救急車到着後すぐに心肺停止が確認されているので、あっという間のことだったようです。

マスコミの論調は担任がチェックを怠ったことが原因ということでしたが、実際には不幸な偶然が重なったようです。

「これおかわりして大丈夫な食べ物か?」と担任は女児に聞き、女児といっしょに「親の作った献立表」でアレルギー物質の含まれている食事か確認したそうです(このとき、栄養士の作った献立表の確認はしなかった)。
女児は「お母さんの作ったリストに、マーカーが引いてないから大丈夫」と言ったそうです。急変後に担任はエピペンを打とうとしたのに、女児自身が「違う、打たないで」と言ったとも。

だから母親の責任だというつもりはありません。そんなことを言われなくても、母親は自分を責め続けるでしょう。担任もあのとき栄養士の作った献立表を再度確認しておけば、女児の訴えを聞かずにエピペンを打っておればと悔やんでいるはずです。除去食の受け渡しの担当者は、チヂミにはチーズが入っていて、除去食はチーズを抜いてあることを説明しておけばと・・・。多くの関係者がそれぞれに苦しんでいることでしょう。そして、目の前で友だちが死んでいくのを見ることになった子どもたちの心の傷はどれほどでしょうか。誰が悪いとかいう問題ではなく、事故は多くの人を不幸にします。

たまたまが重なって事故は起こるものです。ミスを起こさないようにすることも大切ですが、ミスは起こるものだという前提で最悪の事態を回避できるような体制をつくることが大切です。ミスは起きない「だろう」ではなく、起きる「かもしれない」と考えなければなりません。
事故が起きるたびに責任の所在が追及されます。誰かを悪者にしなければ悲しみや怒りの行き場がなくなることもわかります。法的な問題もあるでしょう。しかし、責任ではなく原因を追究することにより多くのエネルギーを割いてほしいと思います。そして、このような悲しい事故が2度と起きないような対策を取ることを最優先することを願います。もちろん子どもたちの心のケアはそれ以上に大切ですが。

女児の冥福と、保護者、子どもたち、担任をはじめ関係者の方々の心の傷が一刻も早く癒えることを心からお祈りします。

試験後の学習を考える

冬休みが明けて課題試験を実施している中学校も多いと思います。子どもたちが休み期間中に学習をするための動機づけとしているように思います。しかし、試験が終わってその結果を見て、よくできた、ダメだった次は頑張ろうといった思いを持つだけで、その結果が学習に反映されていないように感じます。私は、試験が終わったあとこそ学習をすべき時だと思っています。

試験は評価のためにおこなうものでもあります。評価ですから、何が目標に到達できていないかがわかるはずです。目標が達成できていなければ、達成させなければならないはずです。ところがせいぜい試験の直しをさせるくらいで、本当に目標を達成させるまでは学習をさせることはなかなかできていません。授業は先に進んでいかなければいけないので授業中にやり直しをしている時間はありません。結局、子どもたちは試験が終わって結果に一喜一憂して終わってしまうのです。

試験の結果をもとに子どもたちが学習をし直すための仕掛けをつくる必要があると思います。
私は、絶対的な目標を設定して試験をおこないました。その目標に達しなければ再度類題で試験をおこないます。担任にも協力いただき全員が合格できるまで週に一度くらいの頻度で授業後に試験をおこない続けました。子どもたちには負担だったと思います。時には次の試験までに全員が合格しないこともありました。しかし、特に積み重ねの必要な教科では、基本となることが定着していなければいくらその次に頑張ろうとしてもできるようにはなりません。連続性のある単元であれば、この試験に合格しようと学習を続けたことが、今授業で学習していることの理解を助けてくれることもあります。先に進むことよりも立ち止まって定着させることのほうが大切なこともあるのです。同じことを単元でこれだけは絶対定着させなければいけない基本事項に絞って小テストでもおこなってきました。
全教科で同じことをすれば子どもたちの負担は大きくなりすぎますし、教科特性もありますからどの教科でも有効だとは思いません。しかし、学校全体で目標達成を意識して試験後に子どもたちにどう学習させるかを考えることは必要だと思います。

学校での試験は、入学試験のような子どもたちを選別するものではないはずです。試験をして単元の学習が完結するのではなく、試験から再度学習が始まるという発想も大切にしてほしいと思います。

今年のアドバイスの方針

管理職の方から年賀状でいただいたメッセージに、若手の育成に関するコメントが多く見られました。現場に共通する課題です。私にとっても大きな課題ですが、即効性のあるうまい方法がないというのが実情です。今年は再度原点に立ち返って、次のようなことをていねいにおこなっていきたいと考えています。

・目指す子どもの姿を共有する
研究指定校などでは、管理職や研究のリーダとは子どもの姿について共有をするように努めています。そこで共有できると、学校全体と共有できたような気がして、個々の先生としっかり確認しないままアドバイスをしてしまうことがあります。一人ひとりの見たい子どもの姿をできるだけ具体的かつ詳細に聞き、しっかりと共有することから始めることを徹底したいと思います。

・人間関係をつくることを意識してもらう
授業が成立する基本は内容以前に子どもとの人間関係です。子どもの言葉をうなずきながらしっかり聞く、子どもをポジティブに評価する、こういう姿勢の大切さや子どもの言葉を活かすことをしっかりと伝えたいと思います。教師がしゃべりすぎないように気をつけ、子どもの言葉をつなぐことで、友だちの話をしっかり聞く姿勢をつくることが、子ども同士の人間関係をつくることにつながっていきます。ここまで意識してもらうことを目指したいと思います。

・子どもを見ることを具体化する
子どもを見るということはどの先生も大切にしていますが、何を見るか・見ているかは実は一人ひとり大きく異なっています。一緒に授業を見ながら子どもの姿から何がわかるかを伝える。授業の具体的な場面での子どもの姿がどうであったかを伝えて、それはどういうことか一緒に考える。このような機会をたくさん設けて、子どもを見る視点を増やし、自分の授業での子どもの姿をより意識して見るようになってもらえるようにしたいと思います。

・教科書の内容・意図を読み取ることを意識してもらう
経験が少ない先生へのアドバイスは、教科内容以前の授業技術や子どもとのかかわり方で終わってしまうことが多くなります。しかし、もう一つの軸となる教科内容を後回しにしていると、子どもはとてもよい状態で授業を受けているのに学力がつかないということになってしまいます。教科書は授業で押さえるべきこと、子どもたちに考えさせたいことを意識してつくられています。表面的に理解するのではなく、なぜこのような例や素材を用いているのか、なぜこのような課題になっているのか、なぜあえてこのような表現をしているのかといった、教科書の記述や内容にこだわることが大切です。教科書の内容・意図を読み取ることを常に意識することで、自然に授業のポイントが押さえられるようになります。教科内容についてのアドバイスは、授業の具体的な場面で教科書の記述をもとに一緒に考えることで、教科書の内容・意図を読み取ることを意識してもらえるようにしたいと思います。

教師が育つためにはたくさんのことが必要です。今年もたくさんの方へアドバイスする機会をいただけそうですが、まずはこの4つのことを大切にしたいと思っています。

授業力をどうやって高めようとしたのか思い出す

学期末から冬休みに入り、学校で授業を観ることのない日が続いています。先生方も少し息をついているところだと思います。しかし、このような時期だからこそいろいろなグループや団体の研修もおこなわれていることと思います。自主的に学んでいる先生方には頭が下がります。

自分の教員時代を振り返ると、長期休業中は部活動ばかりでこういった研修にもあまり参加した記憶がありません。もっとも、当時は今ほど機会がなかったようにも思います。ただ私が不勉強で知らなかっただけかもしれませんが・・・。では、私自身どのようにして授業の力を高めようとしていたのでしょうか。先輩の授業をこっそりのぞいたり、授業を終わって職員室に戻るときに先輩の板書を盗みしたり、印刷室や教室で先輩のプリントを拾ったりと、基本は盗むという発想でした。その一方で先輩に負けたくないというライバル心も旺盛でした。恥ずかしい話ですが、自分が担当している学級の平均点を競うようなこともしていました。子どもたちの成績を上げるためにはどうすればよいのか、とにかく思いつくことは何でも挑戦してみました。そのやり方がよいかどうかは、試験の結果が教えてくれます。とても単純な考え方ですから、一定の法則が生まれてきます。簡単なことです、教師が頑張った量ではなく、子どもが頑張った量で成績は決まるのです。ここに、大きな落とし穴があるのにも気づかずに、演習量(課題や宿題も含む)をいかに増やすかにエネルギーを注いだ時期がありました。自分が担当している学級の成績がよいと自分の手柄のように思い満足していました。担当している学級で私の教科の成績が他の教科と比べて相対的によいと、他の教科の先生の教え方が悪いのではないかとさえ思うようになっていました。当たり前のことに気づくまでは。そうです、私が子どもたちの演習量を増やしたために、他の教科にまで手が回らなくなっていたのです。子どもの時間を奪い合っていただけなのです。

このことに気づいてから、演習量を確保するのなら、他の教科の時間を奪わない方法を考えようとしました。その答えの一つは、子どもがやる気を出せばトータルの学習時間が増えるということです。やらされているという気持ちでは、時間の奪い合いになります。もっと勉強したいという気持ちにさせることが大切なのです。とはいってもそれは簡単なことではありません。自分が頑張ってわかった、できるようになったという自己有用感を持たせることが大切です。そのためには、日頃の授業も課題もすべてに工夫が求められます。同じように授業をしているのにこの学級の子どもは出来が悪いと子どものせいにして終わってしまっていてはどうにもなりません。そこから出発して、どうすれば彼らがやる気をだし、力を伸ばす授業になるのかを考えることが本当に必要なことです。学級ごとに、もっと言えば一人ひとりの子どもにどう対応して授業をつくっていくのかが問われているのです。課題を全員添削して、どこでつまずくのか、何がわかっていないのかを把握する。担当している子どもたちの学級や部活動でのようすを担任や顧問に聞く。他の教科の成績も教えてもらう。そういう情報を参考にしながら授業を組み立てようとしました。授業がうまくいっているかどうかは、子どもたちが教えてくれます。子どもたちの表情、集中の度合い、家庭での学習量、試験の結果、・・・。謙虚に子どもたちの発信を受け止めることで、課題は見えてきます。昨年うまくいったから、昨日うまくいったからと安易に同じように進めるのではなく、子どもたちが発するものを精一杯受け止め、毎日子どもたちと新しい授業をつくっていく。そういう気持ちで臨みました。
とはいっても、研修にもろくに参加しないような私です。知らない授業技術もたくさんありました。そんな簡単によい授業ができるわけはありません。今振り返ってみれば、とても人様に誇れるような授業ではありませんでした。ただ、子どもたちが教えてくれる課題を解決しようと考えることで、多少なりとも授業を改善することはできたように思います。

授業力をつけるのに、研修はとても有効なものだと思います。しかし、課題を持たずに研修に参加しても、自分は勉強した、前向きなよい教師だという自己満足で終わってしまう危険性があります。目の前の子どもの課題に気づき、その課題を解決しようと考える。その延長上にあってこそ、研修は大いに意味を持つのではないか。昔の自分の姿を思い出しながら、こんなことを考えました。

地域の方と教師のかかわり方を考える

先日、私が学校評議員を務めている中学校のおやじの会の忘年会に呼んでいただけました。校長、元校長と同じように声をかけていただけることを大変うれしく思います。

おやじの会の方々と出会ってもう9年になります。皆さんの活動から地域と学校がどうかかわっていけばよいのかを日々学ばせていただいています。子どもたちのために多くの時間を割いている方々です。地域の子どもたちの成長を願っているからこそ、学校に対して温かい目と厳しい目を持っておられます。同じ子どもたちの姿を見ても教師とは異なったことを感じられます。その感じたことをまっすぐに伝えてくれる方々です。自分の子どもが学校にお世話になっている保護者は、なかなか本音のところを表に出すことができません。また、子どもが卒業してしまえば学校とはかかわりを持たなくなる方がほとんどです。自分の子どもが卒業しても地域として学校とかかわり続けることは、なかなかできることではありません。だからこそ、先生方には厳しい意見でもまずは受け止めてほしいのです。お二人の校長はその大切さをわかっておられるからこそ、こうして参加されるのです。

しかし、一般の先生方が地域の方の視点を受け入れることはそれほど簡単ではないようです。教師は教室では自分のやり方で動けます。自分の考え方と違うものを受け入れる風土があまりないのです。自分たちの価値観とずれることに対して、なかなか素直に受け止めることができません。そのため、子どもの引率の手伝いなど、自分たちがイニシアティブをとれる活動に地域が協力する形であればそれほど抵抗感がないのですが、同等の立場で協働するとなると抵抗感が増すのです。特に子どもと直接かかわることに対しては、自分たちがプロであるというプライドが邪魔をして、地域の方の子どもへのかかわり方を批判的に見てしまうのです。

教師は全員ができることを強く意識します。地域との行事で積極的に参加しない子ども、まじめに取り組まない子どもがいると、そのことがとても気になります。一部の子どもしか活躍しないものに対して否定的です。一方地域の方は、自分たちとかかわりあう子どもたちの成長に大きな喜びを感じます。たとえ数が少なくても、子どもの成長に役立てたということはとても素晴らしいことなのです。
同じ行事での子どもの姿を見ても、一方は子どもたちがきちんと参加できていないと否定的にとらえ、他方は子どもたちが頑張ったと肯定的にとらえることになります。そのため、互いの意見を受け入れがたく感じるのです。

地域の人とかかわることでしかできない子どもたちの成長があるはずです。たとえ全員でなくても、教師だけでは生み出せない新たな学び・成長をする子どもがいることを、教師が素直に認めることが必要だと思います。その上で、その数を増やすためにどうかかわるかが、教育のプロとして問われるのです。地域の方も、子どもたちがどのような成長をしてくれたのかを自分の言葉で伝え、成長の輪をどのようにして広げればよいのかを教師とともに考える姿勢を見せてほしいと思います。
互いの視点の違いを否定的とらえるのではなく、謙虚にその視点も取り入れることでよりよいものにしていく姿勢が大切なのです。

子どもたちの成長を心から喜び、その輪をどのように広げようか熱く語ってくれるおやじの会の方々です。この日も楽しくお話ししながら、地域と学校・教師のかかわり方についてたくさんのことを学ばせていただきました。このような方々と出会え、楽しい時間を過ごせる機会を得ている幸せを感じた日でした。

伸びる先生の条件(その2)

以前に伸びる先生の条件として、「素直」「謙虚」「向上心」が大切だと書きました。どうもそれとはすこし違う要素もありそうです。このことについて少し書きたいと思います。

人の話を素直に聞くのですが、その割には全く変わらない若い先生が増えてきたように感じます。話をメモし、内容をきちんとまとめてもくれます。次はどのように変わっているのか期待するのですが、ほとんど変化がありません。もちろん、指摘されたことをしっかり意識して取り組み、急速の成長を遂げる方もいます。一見して両者の違いが判らないのです。

どうも、前者の方は、

・指摘されたことが理解・納得できないが、取り敢えず聞いておく。
・そもそも、自分の授業に問題を感じていない。

ということではないかと想像しています。というのも、あとから思うと、伸びる方は私の指摘に対してより具体的な質問をしたり、自分の困っていることに関して相談をしてくれたりします。「そうか、そういうやり方があるのか」といった言葉が聞かれます。話の中から自分の課題の答を見つけようとしているのです。それに比べて、変わらない方は、黙って素直に話を聞いているのですが、反応が薄いように感じます。「向上心」がないのとは違うように思います。目指す授業の姿がはっきりしていないというか、授業はこんなものだと勝手に思っているような風があるのです。自分の授業に問題を感じていないのですから、これは変わるはずがありません。彼らがよい授業を受けてこなかったことが一つの原因かもしれません。そうであればよい授業を見せるのが一つの答えになります。私ができるだけたくさん授業を見せようとする理由の一つがこれです。あこがれるような名人に出会ったり、理想とする授業をイメージできるようになったりすれば変わるはずです。

とはいえ、私が魅力的に思える授業を見せても、これまた反応が薄い方もいます。こうなると実はお手上げです。目指す授業というものが根本的に違っているのかもしれません。悪い言い方ですが、授業で自分が必要と思うことを話せば責任は果たした。そう考えているようにも見えます。あまりしたくないことですが、彼らの授業がなぜいけないのかを厳しく話すことがあります。中には、口には出さないけれど、なぜそこまで言われなければならないのかと思っている方もいます。ほかの先生だって似たようなものだと思っている節もあります。見る目がまだないので、子どものようすや授業の違いもよくわかっていないのです。
厳しく言うことも、嫌われても困らない外部の人間である私の仕事だと思っています。しかし、効果がなければ何の意味もありません。内部の方のフォローがあって、初めて効果も期待できます。フォローを信じているかこそできることです。

どういう教師を目指すか、何も求めて教師になったのか。原点というべきものがしっかりしていなければ、何も始まりません。ここがしっかりしていれば、必ず成長していきます。逆にここを育てることが一番難しいことなのかもしれません。彼らを囲む先生方が、それぞれの目指す教師像や授業像を伝え続けるしか方法はないようにも思います。私自身、まだまだ手探りの状態が続いています。

研究発表会で学校の変化から学ぶ

昨日は、小学校の研究発表に参加しました。1年ぶりの訪問です。
まず驚いたのは、子どもたちの雰囲気が大きく変わっていました。落ち着いていて、笑顔もたくさん見ることができました。教室が子どもたちにとって安心できる場所になっています。先生方が目指す授業規律も徹底されてきています。簡単なことのようですが、学校全体となるとそれほど簡単なことではありません。先生方が互いに学び合った時間の積み重ねを感じます。以前は多かった、否定的な言葉や「正解」といった言葉が聞かれません。そのかわり、「なるほど」といった受容的な言葉が増えています。このあたりにも雰囲気がよくなった秘密がありそうです。こういう基本ができてくると、課題もたくさん見えてきます。ここで満足せずに次の課題を意識しないとせっかくの取り組みが活かされません。幸い、ここで研究を終わらずに来年度以降も継続されるようなので、今後の変化がますます楽しみになってきます。私の目に映った課題を少し挙げておきたいと思います。

授業規律は、顔を上げて教師の話を聞く、作業が終わったら静かに待つ、音読では教科書はきちんと立てて持つ、ノートは決められた形式で書くなど、形はかなりできています。授業者によってまだ差はありますが、発表の時に友だちの方を向いている学級もかなりあります。しかし、残念ながらまだ形だけなのです。友だちの方を向いていても、ちゃんと聞けていない子が目立ちます。形ができていることで先生が満足しているからです。指示もよく通るようになっていますが、確認が弱いように感じます。聞いているか、理解しているかを問わないからです。
子どもは教師が求める姿にしかなりません。形から中身へと、先生方の意識を変えることが必要になります。

習得では、フラッシュカードなどを使って全員で大きな声を出させる場面が多いようです。先生は声の大きさで子どもたちの取り組みを評価しています。自信と声の大きさはある程度比例するからです。しかし、注意して見るとテンションを上げて学級を引っぱっている子どもの陰で、口がしっかり開いていない子どももいます。まだ、スクリーンに目がいっている先生もいます。子どもを見ている先生でも、子どもの何を見るかが明確になっていないようです。子どもの状態でリズムを変えたり、一人ひとり指名して確認したりといったことはできていませんでした。子どもを一人ひとり見ることは大きな課題になってくると思います。
また、全員で練習することが多いのですが、活動によってその目標を明確にする必要があります。問題を全員で音読する。国語の教科書を音読する。子どもたちは大きな声を出すことを目標としているのですが、場面によってはもっと大切な目標があるはずです。残念ながら子どもたちのようすからは、それが何かは明確なっていないようでした。一つひとつの活動の意味を問い直すことも課題です。

基本となる知識を早く教えて、定着させて活用する。この方針で取り組んでいます。この考え方は決して間違いではありません。特に算数では問題が解けるという結果に直結させやすいので有効に見えます。そのせいか、公開授業も算数が多いように感じました。しかし、ここでは解き方などの結果だけでなく、考え方も教師が教えています。考え方は教師が説明し、話形で説明練習しただけでは身に着くものではありません。話形で言えれば考え方がわかっているわけではないからです。そのための活動が必要です。残念ながらそれが何かはまだ先生方は意識できていません。板書も結論や結果が中心で、そこに至る過程が残ってはいませんでした。
考え方にも基礎・基本があります。まだまだ結果の定着が中心で、考え方、考える課程を定着させることはこれからの課題でしょう。そのためには、教科の内容をしっかり理解することが必要です。教科書を大切にして取り組んでいますが、教材研究の必要性はますます高くなっています。

活用場面で顕著なのは、習得や定着の場面と違って子どもの挙手が少ないことです。このこと自体は決して悪いことではありませんが、問題はそこですぐに指名して進めてしまうことです。教師は指名した子どもを受け止めることはできていますが、他の子どもが理解したかはきちんと確認できていません。全体に問いかけることはしても、個に確かめることはしていないからです。わかった子ども中心の授業となっています。そして、子どもの発言を受け止めたあとは、知識を教えるときと同じく、ここでも教師が説明を始めてしまいます。このことは、復習の場面でも起こっています。復習ですから、子どもが説明できるはずです。なのに、結果を子どもに言わせたあと、最初に教えたときと同じように教師がまた説明を始めるのです。
しゃべらなくてもよい時にもしゃべりすぎてしまい、結果として子どもの活躍の場を教師が奪ってしまっていることも課題です。

子どもがノートを実物投影機で発表する場面もあるのですが、まだまだ発表の形だけで、本当に伝わったかどうかは確認されていません。教師も発表者に注意がいって、他の子どもたちが理解しているかに意識があまり向いていません。自分の考えではなく友だちの考えを発表するような、「つなぐ」ということが、この学校が次の段階へ進むための大きな壁になるかもしれません。

まだまだ、課題はたくさんあります。わずか1時間の公開授業でたくさんのことが見えてきます。これはこの学校がダメだということではありません。むしろ、素晴らしい進歩をしているということなのです。一度にすべてがよくなるわけではありません。いつも述べているように、できたことがたくさんあるからこそ、できていないことがたくさん見えてくるのです。

こうなると、わずか1年半でこの学校をこのように進歩させた講師の講演が楽しみです。全部で9回訪問されたということです。学校を変えるのにこの回数を多いと思うか少ないと思うかは人それぞれでしょう。私はこの回数で変わったことはすごいことだと思います。その秘密の一端が講演から伝わってきました。

講演は、この学校の実践を通して参加者に伝えられることを実にコンパクトにまとめていました。その見せ方には何か法則がありそうです。
全員がどの教室でもできていることは、そのことを指摘しそのよさを語ります。つぎに、一部の教師しかできていないことは、一部であることにはあまり触れずに、その場面を映像で示し、具体的かつ丁寧に説明されます。講師が教えるという形でなく、仲間のよさという形で伝えます(裏ではその教師を個別に指導していたのかもしれませんが?)。できていない教師にとっては、「おまえはダメだ」と指摘されるとネガティブな気持ちになりますが、このやり方であれば「こうすればいのか」「私もまねしよう」とポジティブになります。こうして、この学校のよいところだけを伝えます。しかし、「課題も明確にして指摘しなければ進歩しないだろう」「こんなレベルで満足していいの」「講師は課題がわかっていないんじゃないの」、そんな風に思われる方もいるかもしれません。そんなことはありません。この学校の課題は、とてもよく理解されています。意識して聞くと、一部の方ができていることを強調することで、その裏にある「できていないこと」が実に見事に浮き上がってきます。講演を聞きながら、私も再度この学校の課題を整理することができました。講師の話したことではなく、話さなかったことがたくさんメモできました。こういうことは非常に稀です。高次元の伝え方を知らされました。
もちろん、表面だけ聞いていれば課題は見えてきません。しかし、そこはぬかりありません。今までどのようなことを指導したという話の中で、さりげなく課題を再度明確に伝えます。できていないことを「課題」と言わずに「指導したこと」と一般論としてさらりと言うところがさすがです。たくさんの指導の中で、活用場面の練り上げを取り上げたところも見事です。そこには、私が気づいたような課題がコンパクトに凝縮されていました。そして、より高みを目指してほしいという気持ちを、他校の例を示すことで伝えました。
上から目線で指導するのではなく、先生方ができたという実感を持ちやすい「形」から入り、できたこと共有化し、根気よく自信を持たせながらここまで来たのだとよくわかります。私も学ばなければいけないことがたくさんありました。いつお会いしても、たくさんのことを学ばせていただけます。感謝です。

この学校がここまで来たのは、外部の指導者や先生方の頑張りだけではありません。管理職の方もここに至るまで意識を変革し、日々先生方の頑張りを支えるように動かれたことと思います。この地区はいくつかの事情もあり、今まで授業研究や研究発表といったことがあまり盛んでありませんでした。その雰囲気を変え、市全体の底上げをしようと教育長、指導主事を始め多くの方が陰になり日向になり研究を支えてこられました。この学校全体でできたことを今度は市全体に広げるのが次のステップです。困難はあるかもしれませんが、きっとよい方向に変わっていくと思います。
もちろん、この学校はこれからも市全体のよいモデルとして進歩してくれることと思います。こまでは比較的早く結果が出せる取り組みが多かったのですが、これからはそうはいきません。今まで以上に地道な努力が求められます。あせらずに、一歩ずつ進み続けてほしいと思います。多くのことを学び、元気をいただいた発表会でした。

青山新吾先生から学ぶ

本年度第5回の教師力アップセミナーは、ノートルダム清心女子大学の青山新吾先生の講演でした。特別支援教育に現場の教師としてかかわってこられたのち、大学に移られた方です。

特別支援教育に関してチームワークという言葉がよく言われます。実際にそのありようはどうあるべきか、具体的な事例をもとに考える材料を与えてくださいました。

直接指導する担任の思い、それを実現させるために他の教師がどう支えるか。たとえ、子どもが飛び出すことがわかっていても、叱るべきときは叱らねばならない。叱らなければ、まわりの子どもが嫌になる。それは、飛び出した子どもをフォローしてくれる教師がいることを信じられるからできること。特別な子もそこまでやれば叱られる、その事実が他の子どもの安心感につながり、だからこそ、その子にやさしくなれる。

チームワークとはどうあるべきか、考えるきっかけをいただきました。

支援を要する子どもが落ち着いてくると、それで安心してしまうこともよくあります。そうではなく、その子どもの将来を見据えて、どうあればよいかというゴールを考えることが大切になります。このお話は、荒れた学校が落ち着いたときとよく似ています。そこからどこへ向かうのか、次に何をするのかが大切になるのです。
学級経営でも同じです。「この子にこうなってほしい」「こんな学級にしていきたい」。そういう目指すゴールを持つことが必要です。一気にゴールに到達するのは難しいことです。だからこそ、できるようになるといいね、ここまでできたねとゴールまでのステップを意識しフォローしていくことが大切になります。
特別支援も通常の学級経営も大きな違いはありません。特別支援の考え方を通常の学級経営に活かすと言われます。逆に、通常の学級経営で大切なことが特別支援教育でも大切になるといってもよいと思います。学級経営がしっかりできる教師は支援を要する子どもがいてもうまく対応できることがその証拠でしょう。
基本となることは、まずコミュニケーションをしっかりとることです。子どもたちに「あなたはここにいていいんだよ」と居場所を持たせる。「みんな、あなたのことを大切に思っているよ」と自分が見捨てられていないことを伝える。こういうことが大切になります。
その上で、一人ひとりのゴールを意識し、できたことをほめ、次のステップに向かう意欲を高めることが大切になります。できた、できなかったというデジタルではなく、できるようになる途中であると認識し、そこで必要な言葉、メッセージをどう与えるかを考えることが大切なのです。

また、支援を要する子どもとのコミュニケーションで心理的距離を意識してうまくいった例もお聞きすることができました。直接話すと反発する子に、誰に言うともなくつぶやくことで聞かせる。心理的距離を少し調整することで、子どもの姿勢が変わることもあると教えていただけました。

特別支援に関しては、多くの方がピンポイントの「正解」を求めます。青山先生はやさしい口調で、この事例はたまたまであることを伝え、いかかでしょうかと私たちに考えることを促します。どんな子にも通用する魔法のような方法はありません。個の抱えている問題やその背景は異なっています。一人ひとりと向き合って、手探りで対応を見つけていくしかないことがたくさんあるのです。
その子に応じた対応が必要だから「特別」支援教育なのです。そうやさしく諌められているようにも感じました。

豊富な具体例をもとにしたお話と特別支援教育への青山先生の思いを感じることで、特別支援だけでなく子どもたちを育てるということはどういうことなのか、じっくり考えるきっかけをいただきました。ただ、知識や経験を伝えるのではなく、一緒に考えていきましょうという青山先生の講演姿勢も素晴らしいものでした。多くの学びと考えるきっかけをいただけた素敵な講演でした。ありがとうございました。

子ども主体のフェスティバル

昨日は、私が関わっている中学校で行われた地域ふれあい学びフェスティバルを見学してきました。このフェスティバルを見学するのも今年で9年目です。そのあり方は色々と変化してきましたが、現在は地域の方のバックアップのもと、子どもたちがイベントや模擬店を運営し地域の方に楽しんでもらう場となっています。

今年は、会場に入ってすぐに雰囲気の変化に気づきました。目立つ人が減っているのです。中心となって動く地域の支援者、PTAの方、先生方、そして頑張っている子どもたち、彼らの姿が見えないのです。だからといって、活気がないわけではありません。表に大人が出ていない分、活動している子どもの姿はいつもに増して多いのです。目にする生徒たちは、何かしらの役割を果たしています。昨年とは漂っている空気が違います(イベントの目指すべき姿参照)。一部の子どもが頑張っているのではなく、どの子も自分のこととして参加しているのです。
子どもたちが、地域の方に喜んでもらう、そのために自分のできることをする。参加された地域の方、特に小学生と接している生徒たちの姿にその意識を感じました。

いつもは忙しくブースの運営をしていた方々と初めてゆっくりとお話をうかがう機会を持てました。
今年は、子どもたちが中心となって運営をすることを大切にされたようです。総合的な学習の時間に地域の方と一緒に活動する経験もしている子どもたちです。今度は、「自分たちが主体となって地域に何ができるか」を考える場としてこのフェスティバルを位置づけたのです。そのために、大人の手がどうしてもたくさん必要なブースは廃止にしたようです。とはいえ、子どもたちだけですべてを運営はできません。地域の支援者が裏方に徹し、下支えをしているのです。子どもたちが自分たちで運営するということは、失敗したりトラブルが起きたりする可能性が高くなります。それを恐れるのではなく、失敗も含めて子どもたちによい経験をさせようというのです。

おもしろいエピソードを聞くことができました。喫茶室ではとても安い値段でコーヒーやホットケーキが提供されています。しかし、最初提案された値段はもっと高かったようです。仕入れ値から計算するとこのくらいになるという説明だったようです。しかし、喫茶室をひらく目的は、お金儲けではありません。少しでも多くの方にくつろいでもらうことが目的です。そのために、どんな努力や工夫をしたのか。仕入れ先を色々探してみたり、つくり方を工夫したりしたのか。そう子どもたちに問いかけたそうです。子どもたちがそれに応えてこの値段になったそうです。
大人の役目は、物理的に助けることだけではありません。子どもたちに考える視点を与え、時には厳しい課題を課すことで鍛え育てるのです。日ごろの授業だけでは学べないことをこのような場を借りて学ばせるのです。
この地区では地域と学校が一体となって子どもを育てていることを強く感じました。

目立たないところで動いている大人と黙々と働いている子どもたちの姿が印象的でした。最後まで見ることはできませんでしたが、終わった時には子どもたちの表情はきっと達成感、充実感で満たされていたことと思います。その子どもたちの姿が、大人たちの笑顔につながったことでしょう。

生徒全員参加の形になって4年目、いよいよ子どもたちが主体となって運営するフェスティバルとなってきたようです。こうなると今から来年が楽しみです。多くの子どもたちが主体的に参加するようになった半面、一人ひとりの絶対的なエネルギーはまだまだ高まる余力を感じました。きっと来年は、どの子も今年以上の力を発揮してくれることと思います。

授業アドバイスが活かされる学校

多くの学校で授業アドバイスをしていて感じるのが、アドバイスがすぐに活かされる学校となかなか変化しない学校があるということです。個別アドバイスであれば基本的に個人の資質の問題のはずなのですが、それでも学校としての差を感じるのです。

効果のでる学校は、教務主任や研修担当者が積極的に先生方とかかわっています。授業研究のときであれば、授業構想や指導案の検討など、授業づくりに関して最初の段階から相談に乗っています。事前の検証授業なども必ず参観してアドバイスをしています。また、同じ教科や学年でバックアップする体制をつくったり、研究授業を教科や学年の提案としてチームでおこなったりするように働きかけています。
全体研修ではなく個人への授業アドバイスのときでも、アドバイスの場面に立ち会うことや、その後の授業の変化を見てよくなった点をほめるといったフォローを欠かしません。また、個人の授業へのアドバイスだからといって一人にせずに、教科や学年全員で聞くように仕向けたりします。ペア、グループ、チームといった小集団でのかかわりを大切にしているということです。
授業を変えるということは、新しいことに挑戦するということです。それには勇気がいります。一人ではなかなか変える勇気は持てません。大丈夫と励ましてくれる人、一緒に挑戦してくれる人、そういう人がまわりにいなければなかなか一歩は踏み出せません。また、挑戦してもそのことを評価してくれる人がいなければ、続くものではありません。
授業で困っている先生には寄り添う人が必要です。先生同士が互いに支え合う関係が大切です。ですから、うまくいく学校は同時に複数の先生方の力量が向上します。互いによい影響を与え合っているからです。

こういう、うまくいっている学校は「雰囲気」がよいと評されることが多いようです。「雰囲気」という言葉は自然発生的な感じがします。しかし、そうではないのです。「雰囲気」は、それをつくりだすムードメーカーが必ずいるのです。うまくいっている学校は、教務主任や研修担当者が意図的にムードメーカーとして先生方に働きかけているのです。こういう動きを大切にしてほしいと思います。
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