子どもたちの成績がよいからと安易に妥協しない

子どもたちの成績がよく、通塾率も高い、いわゆる文教地区の学校を訪問してよく感じるのはが、授業における子どもと教師の関係の希薄さです。教師は淡々と説明をしている、子どもはとりあえず大人しく聞いている姿勢をとる。教師の質問に対して、わかっていても挙手しない。教師も質問しても反応がないので、ますます一人でしゃべっている。このような状態でも、子どもたちの成績はよいので、問題と思わなくなる。成績がよいことで、安易に妥協してしまっているのです。
ちょっと荒れた地区であれば、あっという間に学級が崩壊するような状況です。子どもたちのどこに原因があり、教師は何を変えていけばよいのでしょうか。

子どもたちがこのような状態になるのは、学習に対する価値観が試験の成績に偏っていることが大きな原因だと思います。こうなると、効率的に試験の点が取れるように子どもたちは行動します。試験に出題されることには敏感ですが、それ以外のことには興味をなかなか示しません。教師が、板書したことから出題するのであれば、板書だけは必ずきちんと写します。教師が話していても、写すことを優先します。こうなると教師も子どもの関心を引くために、「試験に出す」といった利益誘導の言葉を使うようなり、悪循環に陥ってしまいます。彼らは、勉強はおもしろいものだとは思いません。試験に出ることを覚える、点を取れるように訓練する作業に近いものなのです。また、教師も勉強とはそういうものだと思っていれば、この状態はまず変わることはありません。

では、試験でよい成績をとることの価値を否定すればよいのでしょうか。この価値を否定すれば、試験そのものの意味が大きく揺らいできます。ふだんの試験はまだしも、入学試験がある現実を考えればナンセンスです。
大切なのは、結果を覚えることではなく、その過程、学ぶことに価値を見出させることです。知識そのものではなく、知識を組み合わせて問題を解決することを大切にするのです。一人ではすぐに答が出せないことを、みんなでかかわりながら考え解決することの楽しさを経験させるのです。そして、試験でも単に知識を覚えれば解ける問題ではなく、授業で経験したような考える問題を出すのです。

たとえば歴史で、「ペリーが日本に来て開国を迫り、日米和親条約が結ばれ鎖国が終わった」。これは大切で試験にもよく出ます。しかし、ペリーが来たのは、なぜこの時期だったのか。日米和親条約の結果、世の中の何が変わることになるのかなどを問うのです。事実をもとに考え、それに関する他の事実を調べ、点の知識を線でつないでいく。このような課題を子どもたちに課すのです。正解は一つとは限りません。一問一答で知識を確認するのではなく、教師が言葉をつなぎながら、友だちのいろいろな考えを聞くことで自分の答えを見つけていく。そして、この課程で子どもたちの活動をポジティブに評価するのです。正解が評価されるのではなく、たとえ不正解やずれた発言でもその価値を認めるのです。

試験でよい点を取るのと同じかそれ以上の価値を、授業に参加することに見出す。そして、そのことを価値づけてくれるのが教師や友だちであれば、授業の雰囲気は間違いなく変わっていきます。
教師が子どもと同じように、試験の結果だけを評価するのではなく、より高いものを子どもに求めるのです。その価値を子どもと共有することで、子どもと教師、子ども同士がかかわりあう関係が育っていくのです。子どもに安易に妥協するのではなく、高いものを子どもに求めてほしいと思います。
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