「鍛える」と「学び合い」

「鍛える」という言葉を聞いて思い浮かぶのが野口芳宏先生です。「教師の読み以上の授業はできない」という言葉からもわかるように、鍛える側の教師にも学ぶ姿勢を厳しく求められる方です。「学び合い」の対極にあるように評されることもあります。子ども同士で学び合う授業では、子どもの言葉をつないで考えを深めていくことが教師の大きな仕事になります。「鍛える」と縁遠いように思われています。最近ある中学校がこの「鍛える」と「学び合い」をつないで「鍛える学び合う学び」を提唱しました。「鍛える」、「学び合い」をそれぞれ意識している方、双方ともに違和感を感じるかもしれません。しかし、以前から私は両者が互いに対極にあるとは思っていませんでした。むしろ互いに必要とされる要素は変わらないと思ってきました。この学校の思いとは異なるものかもしれませんが、私の考えを少し述べたいと思います。

「鍛える」というのは教師が一方的に教え込むことではありません。大切なのは、子どもに考えさせ、向上的な変容をはかることです。しかし、教師が課題を提示して「考えろ」で子どもが考えるわけではありません。子どもの意見を重ねていけば、考えが「深まる」わけではありません。野口先生の言葉を借りれば、子どもが考えるための教材の準備、課題の提示といった「計画の論理」、子どもの反応、意見、考えに対してどう対応するかという「状況の論理」が必要になります。

一方「学び合い」でも、ことは同じです。子どもがたちが学ぶための課題がいい加減なものであれば、一生懸命話し合っても何も身につきません。互いに聞き合う姿勢が身についていても(これだって、教師がしっかり指導し、鍛えなければ身につきません)、学びは少ないのです。「・・・について」という課題だけで子どもがしっかりと学ぶ授業に出会ったこともあります。しかし、それまでに色々な場面で「・・・について」考え、学ぶためにはどうすればよいか、どのようなことが大切なのか、教師が直接指導や活動の評価をしたり、子ども同士で互いに評価し合ったりすることで鍛えているからこそ、抽象的な課題でも子どもたちは学び合えるのです。
「学び合い」を意識した授業をたくさん見ていますが、子ども同士の関係がよく、互いに聞き合うことができていても、教師の教材研究不足で課題がいい加減だったり、何を学ぶのかがはっきりしなかったりで、野口先生のおっしゃる「活動あって学びなし」という状態であることが多いのです。子どもが「学ぶ」ためには教師の提示する課題はとても重要です。しかし、「学び合い」では、まず子どもたちの人間関係をつくり、「学ぶ姿勢」「学び方」を身につけさせることが基本となります。その基本ができたところで止まってしまっていることが多いのです。その次の段階である、子どもたちにより質の高い「学び」を求めることは、「鍛える」ということとつながるのです。子どもたちが学ぶための状況のつくり方、ステップが違うだけなのです。
「一人残らず」学びに参加することを学び合いでは大切にしますが、野口先生も、「○か×か?」自分の立場をはっきりさせるために全員に書かせる、小刻みにノートに書かせるといったことで全員が学習に主体的に参加させることをとても大切にされています。子どもが学ぶ主体であることには変わりありません。
「学び合い」では、子どもの考えをどう受け止め、他の子どもにどうつなぐか、返すかといったことが大切になります。たとえ子ども同士で考えを深めるのであっても、教師の働きかけは絶対必要なのです(これを否定する学び合いを提唱される方がいますが、それについてはまた別の機会に)。たとえ子ども同士の「学び合い」であっても、授業を成立させるための重要な要素が教師であることは間違いないのです。野口先生の「状況の論理」と大きな違いを感じません。せいぜい、教師が強く迫ることをするのか、できるだけ子ども自身が聞き合うようにするかの程度の差だと思います(この違いが大きいと言われればそうかもしれませんが、教師の判断力がとても大切であることは認めていただけると思います)。「鍛える」であろうが「学び合い」であろうが教科力、教材把握力といった教師の力量が大切であることは変わりないのです。教師も鍛えられなければならないのです。

「学び合い」は比較的経験の浅い教師でも、適切な課題を準備できればそれなりの授業になっていきます。ある意味形だからです。ある程度のつなぎができれば、子どもたちで考えを深めていくこともできます。しかし、子どもたちが大きく飛躍するような課題をつくりだす、子どもたちの気づきや学びを大きくジャンプさせるためには高い教科力が求められます。ここからは、本当に長く地道な積み重ねが必要なのです。

学び合いを進めたある教育長の言葉が思い出されます。

子ども同士の関係がよく、互いに聞き合う、落ち着いた教室をつくることがゴールではない。最低保障だ。ここまでは、名人でなくてもできる。

だれしも野口先生のような名人になれるわけではありません。しかし、目指すことはできます。そのゴールは、子どもたちに「学ぶ力」をつけることと、その結果である「学力」をつけることができる教師となることです。そのために何が必要かを「鍛える」と「学び合い」の2つの言葉が教えてくれるように思います。

会議に参加して考える

先日は授業力アップの研修会についての会議に参加しました。10年続いた研修会の次の10年の方向性とそれをもとにした研修の進め方についてです。

参加者はスタッフとして研修会を支えてこられた方です。10年の流れの中で初期のメンバーは立場が変わり、スタッフとして仕事をすることがなかなか難しくなってきました。そこを支えてくれたのがこの日多くを占めていた若手・中堅の方々でした。まだ確固とした自信が持てない中で、一生懸命に参加者へのアドバイスやコメントもしてくれました。彼ら自身が学びたい、進歩したいという強い思いを持っていますが、そこをこらえてスタッフとして会を下支えしてくれています。しかし、インプットよりアウトプットの方が多くては精神的に続きません。次の10年は、かかわる人みんなが学べることを大切にした、学習会の要素が強いものに変えていくことが提案されました。この方向性はとてもよいものだと思います。学びたい思いの強い方が集まっていますので、皆さんに受け入れらるものでした。

続いて来年早々におこなう会の内容について提案がされました。提案以外にも、進め方については色々な方法が考えられます。なぜこの進め方なのか、参加者に提案者の意図がなかなか伝わりません。そこで、「目的は何か」、「そのために参加者がどうなることが必要か」、「そのための手立ては何か」、こういったことを提案者に聞き返しました。「参加者が再レベルアップする」という目的に対して、「参加者の今までの授業・授業観をこわす」ことが必要という説明がされました。「こわす」という象徴的な言葉だったため、そのための具体的な手立てについては厳しく迫るイメージで議論が進んでいってしまいました。模擬授業を先にすることで「こわす」か、先に指導案の検討をすることで「こわすか」という選択になったところで、次のような意見が出されました。

「事前に指導案の検討をして授業についての考えを深めてからの方が模擬授業の質があがり、それに対して指摘し合う方がよりよい学びができる」

「こわす」ための手段として何が有効かという視点ではなく、より効果がある進め方という視点での意見です。事前に他者の考えを聞いて自分の考えを修正してからおこなった方がよりよいところから出発ができるし、失敗も少なく指摘も受け入れやすいというやさしい考えです。この意見に会場全体が救われました。実は提案者の思いもこれに近いものでした。ところが「こわす」という言葉にこだわって話を進めたため、それ以外の視点が議論から失くなってしまっていたのです。「こわす」という、わかりやすいが参加者に厳しい視点から、もっと早くに離れることが必要だったということです。

考えを明確にし議論を円滑に進めるためには、端的な言葉で表現し焦点化することは大切ですが、少し離れた視点で議論全体を見る必要もあります。焦点化と拡散のバランスが大切なのです。授業でもいえることです。このことに気づかせてくれた意見でした。とても勉強になりました。ありがとうございました。

最後の素敵な意見を取り入れることで、2日間の学習会はきっと和やかで学びの多いものになることと思います。楽しみな会がまた一つ増えました。

野口芳宏先生から学ぶ

本年度第4回の教師力アップセミナーは、野口芳宏先生の講演でした。11年連続のご登壇です。一本筋の通ったぶれないお話の中に、毎年新しい気づき、学びがあります。

午前の講演は具体的な教材をもとに、教材内容と教科内容、子どもの向上的変容、学力形成の判定などについてお話しされました。聴衆に若い先生が増えたことをお伝えしたせいでしょうか、いつも以上にわかりやすい例をもとにお話しいただけました。

国語の授業では教材文を通じてどんな国語の力をつけるのかが問われますが、そのことを算数の足し算の例をもとに、教材内容、教科内容という言葉を使って説明されました。野口先生は短い言葉(用語)で端的に表すことで、考え方や概念をとてもすっきりと明確にされます。算数・数学で、用語を定義し概念を明確にしていくことと同じです。国語の授業は算数・数学と同様に論理的でなければいけないという私の思いを見事に具現化していただけるのが野口先生です。

学力形成の判定を次のように整理されました。

1 入手・獲得
2 訂正・修正
3 深化・統合
4 上達・進歩
5 反復・定着
6 活用・応用

教師がこの言葉を意識し、授業の各場面を評価することで、間違いなく子どもたちに力がつくと思います。

かな表記を漢字に変え読字力をつける。「姿を変える」を「変身」と言い換えることにより抽象度を高め、思考力のもととなる語彙を増やす。ともすれば、できるだけやさしく言い換えよう、わかりやすく説明しようとしがちな私たちに対して、学力形成のためにはチャンスを活かして子どもを鍛えるという姿勢とその具体的な方法にはとても説得力があります。子どもたちを「鍛える」者としての教師のありようを常に具体的に示していただけます。

午後の最初は、2年目の教師の道徳の授業ビデオをもとに会場の方と学び合おうというものでした。授業のハイライトシーンを視聴後まわりと話し合っていただき、その意見を全体で共有しました。指名された方はどなたも授業をポジティブに評価され、その上で自分なりの考えや改善案を具体的に話されました。参加者のレベルの高さがうかがえます。
最後に野口先生にコメントをいただきました。まず、ビデオで省略されていた最後の説話を聞かせてくれというリクエストです。授業者の学生時代の体験の話でした。そのあと、参加者に授業ビデオと今の説話のどちらがよかったかを問いました。圧倒的に説話です。それを受けて、授業ビデオの部分は職業的に話していた。一方説話は私的な話だ。表情も違う。教育には2つの側面がある。伝達と感化だ。伝達は忘れさられ剥がれていくが、感化は内面化され消えていかない。こう話されました。
まいりました。いかに伝えるか、理解させるか、そのためのスキルをどうするか。私のアドバイスも、まず目先の授業を改善するためにこういった話になりがちです。感化するとは、そういった技術の問題ではなく教師自身の在り方、内面の問題です。ここに踏み込むことは、相手に迫ることであり、それと同時に自分自身もどうであるか問われることです。それを臆することなく言う、求めることができる野口先生のすごさに圧倒されます。私のしているアドバイスが野口先生の前では薄っぺらなものに思えてきます。もちろん、私とて教師の根本部分を問うことをしないわけではありません。しかし、野口先生のように自らのありようを持って示せているかというと、とても比らぶべくもありません。またひとつ大切なことを教わった気がします。

最後の講演は、皇室についての考えをお話しされました。色々と異論のある微妙な問題ですが、臆することなく自らの考えを伝える姿勢には背筋が伸びます。講演後、先生のお話の中で私の知識とずれていたことに関してお話しさせていただきましたが、しっかりと聞く耳を持っていただけました。謙虚な姿勢には頭が下がります。

この日、一聴衆として野口先生の話に引き込まれていたのですが、その理由を考えてみました。たとえば、私が講演をするときは自分のリズムやテンポに聴衆を合わせようと意図的に声の大きさや間をコントロールします。動的です。それに対して野口先生にはそういう意図的な動きは全く感じられません。実に自然に話されるのですが、いつの間にか引き込まれているのです。目の動きは自然に聴衆のようすを追っています。聞き手が話を飲み込めた、どういうことだろうと興味・関心を持った、その瞬間に次の言葉が発せられるのです。野口先生にこのことをお聞きしても、意識はされていないそうです。当り前のように相手に合わすことができているのです。名人の名人たる所以です。

今回も野口先生から多くのことを学ぶことができました。そばにいて同じ空気を吸っているだけでも何か学べる気がします。感化力のある方とはこういうものなのでしょう。ありがたいことに、来年のお約束もいただけました。次回お会いする時が今から楽しみです。

力のある教師が尊敬されてほしい

日ごろおつきあいのある同世代の方は校長や教頭が多いのですが、一般の教諭の方も少なくありません。管理職になるより少しでも授業がしたい、子どもにより近いところにいたいという方が多いように思います。管理職になられても立派にこなすことができる力があるのに、あえて管理職の道を進まなかった方が何人もいます。

組織にとって管理職は責任の思い重要な仕事です。当然尊敬に値する方々ですが、管理職でなくても、素晴らしい授業、素晴らしい学級経営、学年経営で尊敬に値する方がたくさんいます。ところが、自分たちと同じ教諭の中に高い技術を持った方がいることに気づかずに、せっかくの学ぶ機会を見逃している方もいます。

以前ある教育長がおっしゃった言葉が思い出されます。

「管理職にはならなかったが、素晴らしい授業をする教師がたくさんいる。ところが、管理職でないということで、同僚からは軽く見られてしまうことがある。管理職でなくても素晴らしい教師がまわりから尊敬されるようにしたい」

なるほどと納得させられる考えです。私たちは、校長、教頭といったわかりやすい記号で判断してしまうことがあります。名刺の肩書で相手の対応が変わることもよくあります。企業では、営業職はたとえ経験の浅いものでも必ず何らかの肩書をつけます。そうしないと、私の担当は下っ端なのか、もっと上の人をよこせと言われたりするからです。一方、素晴らしい技術・技能を持った方をマイスター・名工として後進にその技を伝承する役目を与え、彼らが尊敬されるような仕組みつくっているところもあります。
学校という組織にとっても、管理職と同じく皆の手本となる教師の存在はとても大切です。肩書はなくても、そういう教師が同僚や保護者・地域の方から尊敬されるようであってほしいと思います。
彼らにスポットを当て、まわりから尊敬されるようにすることも、管理職の立派な仕事だと思います。

先日、子どもたちのようすを見て、担任の指導力がすごいと感心したところ、そばにいた地域の方が、「そりゃあ、○○先生だもの」と誇らしげにおっしゃいました。地域の方からも尊敬を集めているベテランの存在を感じることができました。校長も、若い人もその先生から盗んでいると思うよと話されていました。きっと意図的にその先生の素晴らしさを伝えているのでしょう。
また、ある校長は、授業の素晴らしさで定評のある「○○先生から学ぶ会」という立派な会を準備しているそうです。

組織にはいろいろな役割があります。それぞれが機能して初めて全体がうまくいきます。目立たないが素晴らしい仕事をしている人が評価され尊敬されることは、他の方のやる気にもつながります。組織としての力はそういうところから生まれてくると思います。

体育大会を観戦

昨日は、中学校の体育大会を観戦しました。昨日の日記(体育大会の何を見る)に書いたように、子どもたちの応援風景を中心に観察していました。

最初の集合、開会式の時から1年生の4学級のうち2学級が気になりました。集中力のない子どもが目立ち、そのようすが他の子どもに伝染していきます。発達障害の傾向のある子どもがいることは間違いないようです。他の学級にもそれらしい子どもはいるのですが、これほどには広がっていません。
一方2年生、3年生はさすがです。集中力を保ち、とてもよい姿を見せています。観戦のようすも、他学年の競技であっても熱心に応援していることが遠目でもよくわかります。特に2年生はどの学級を見ても頭の向きでどこに選手がいるかわかるくらいです。
1年生は、楽しそうではあるのですが、友だちと雑談したり、体がおかしな方向に向いていたりが目立ちます。その中でも1学級だけは2、3年生と比べても差がないほど落ち着いて観戦していました。いろいろな要素があるので何ともいえませんが、学級担任の指導にも差がありそうです。後でうかがったところ、この学級はベテランの先生が担任をされているそうです。なるほどと納得です。最初に気になった2学級は若手の先生が担任のようです。日ごろ自分の学級と他の学級を比較する機会はそれほど多くはありません。彼らもその差にきっと気づいたことだと思います。ベテランとの違いから多くを学べるとてもよい機会になったことと思います。

競技審判も多くは子どもたちです。競技と競技の合間や、進行の関係で空白の時間ができることがあります。そんな時でも、リラックスはしていますが、顔をしっかり上げてきちんとした姿勢を崩さない子がいました。なかなかできることではありません。もちろん競技中も審判に集中していました。うっかりしてこのことを先生に伝え忘れたのですが、こういう子どもをしっかり評価してあげたいものです。

時間の関係で、1年生と2年生のクラスマス(ゲーム)を最後に席を立ったのですが、ここでも子どもたちの成長と教師の指導について考えさせられました。マスゲームをうまく見せるポイントは比較的はっきりしています。手や体の向きをそろえる、指先に力を入れる、止める瞬間に力を入れる、動き始めだけでなく、止めるタイミングをそろえるなどですが、これがどのくらい徹底できているかで大きく違ってきます。
1年生は経験が少ないためか、学級間の差が出ました。直接指導したのか、子どもたちに気づくように仕向けたのか、その指導法はわかりませんが、ベテランの学級はポイントがきちんと押さえられていて、なかなか見ごたえがありました。
一方2年生は、1年生と比べて差が少なくなっています。1年生で学んだことを元に自分たちでポイントを押さえているのでしょう。担任が意識して指導した部分は見えるのですが、大きな差とはなりません。見ることはできませんでしたが、おそらく3年生はこの傾向がもっと強くなっていると思います。

全学年が一堂に会することで、子どもたちの成長の過程がとてもよく見えてきます。頼もしい姿を見せてくれる3年生も、2年前には今の1年生のように幼く、頼りないようすだったはずです。子どもたちの成長と担任の指導の影響力について考えるきっかけになりました。楽しい時間をありがとうございました。

体育大会の何を見る

今週末、来週末は体育大会の学校が多いと思います。私も明日は招待されている体育大会におじゃまする予定です。保護者と違って、自分の子どもが参加するわけではないのでつまらないだろうと思われるかもしれませんが、子どもたちのようすを見ることでいろいろなことがわかり、とても興味深いのです。

子どもたちが、競技に真剣に取り組んでいる姿はとても気持ちのよいものですが、私は多くの時間を応援席の子どものようすを見ることに費やします。自分の学級の友だちが競技をしているときは、ほとんどの子どもが真剣に応援します。ところが、他学年の競技のときはまわりとおしゃべりしたり、席を立って遊んでいたりする子がいます。おもしろいことに、このような子どもが多い学級が、ある学年に集中していいたり、まったく不規則に見えたりします。不規則に見えるようでも、後で聞いてみると担任経験の浅い教師の学級だったりして、妙に納得することもあります。大会当日は教師も役割を持って動いているので、常に子どもたちのそばにいて指導できるわけではありません。当日までの指導やふだんの学級経営がそこに現れるのです。

小学校では、担任が一緒になって応援している学級は、担任につられて自分たちに直接関係のない競技でも真剣に応援する傾向にあります。
中学校では、3年生の応援態度が影響を与える傾向があります。子どもたちが成長するに従って教師よりも子ども同士の影響力が大きくなるのでしょう。3年生が学年を問わずに真剣に応援している学校は、それに影響されて他の学年の観戦姿勢が確実に変わっていきます。1日の中でも子どもたちのようすは変化します。行事の影響力はあなどれないものがあります。

競技の補助をしている子どもたちの姿も気になります。自分の役割をきちんと果たそうとしているのか、割り当てられた仕事だから仕方なくやっているのか、はたから見ていると意外とよくわかるものです。常に教師の指示に従って動いているか、それとも自分の判断で動いているか、中学校では子どもたちが育っているかはこういうところにも現れます。

また、進行に遅れがあるとかないとかに関係なく、せわしなく落ち着きがないと感じるときとゆったりと進んでいると感じるときがあります。どうやら、教師の指示の声がよく聞こえる、教師が忙しそうに動いているときにせわしなく感じるようです。教師が落ち着いている、子どもたちが整然と動いていると、たとえプログラムを早めに消化していてもゆったりと感じるのです。
ある中学校では、体育大会のアンケートから「職員の動きはいかがだったでしょうか」という項目を外したそうです。先生方は、「体育大会前日までにすべての指導をやり終えて臨みたいと考えてしっかり指導してきた。当日、職員は暇であることほどいいことなのだ。 当日、職員が動き回ってやっと計画通り進行するような体育大会はいかがなものだろうか」と考えられたということです。先生方が望む回答は、「職員の動きはほとんど見られなかった」ということになります。なるほどと納得させられる話です。

私のように自分の子どもが参加してない者でも、体育大会はとても楽しみな行事です。週末がよい天気になることを祈っています。

学生の会話から考える

昨日は東京へ出張していました。昼に外で食事をしたのですが、隣の席にいた学生たちの会話がとぎれとぎれに耳に入ってきます。

「カンニングが見つかって・・・」
「えっ、全科目0点じゃないの・・・」
「それが、教授が公にせずに済ませてくれて、1科目だけで済んだ・・・」

どうやらその中の一人が試験でカンニングをしたところ、教授が公にすると全科目0点になるので、その教科を0点にするだけにとどめ、内々で済ませてくれたということのようです。
驚いたのは話の内容よりも、話している学生の姿でした。悪びれるようすもなく、ごく普通に話しています。何という学生だろうとちょっと怒っていたのですが、少し落ち着いてみると、学生を怒ってばかりはいられないと思うようになりました。

堂々と話ができるということは、「恥」ではないということです。カンニングがばれると全教科0点になるというリスクを負って挑戦して失敗した。単に取りえる行動の一つとして選択した結果でしかないということです。
「カンニングをする」ということは、試験の「結果」が問題であって、その「過程」はどうでもよいと考えているということです。

人に迷惑をかけたわけではない。社会で求められているのは結果であり、その手段は問われていない。そう思っているのでしょう。今の社会の風潮だと言ってしまえばそれまでですが、彼の受けた教育にも問題があったはずです。

一番に思い浮かぶのは、道徳です。どのような道徳教育であればよかったのでしょうか。「悪いことをしてはいけません」「ルールは守りましょう」というだけでは意味がありません。悪いことをする、ルールを破る子どものほとんどは、それが悪いこと、ルール違反だと知っています。「何が悪い」という子どもでも、それが世の中では悪いこととされていることは知っています。正当化しようとしているだけです。
「道徳」で育てなければならないことは、「正しく判断」できる力です。ルールを破りたいと思った時に踏みとどまれる子どもです。
とはいえ、具体的にどのようにすればいいのでしょうか。自分の行為が他者とつながっている、他者に影響を与えるということを実感させることが大切だと思います。自分がルールを破ることで他者に迷惑をかける、不快な気持ちにさせる。こういうことを経験させ、相手の気持ちになって考えることができるようになれば、自己中心的な考えで行動することは減ってくるはずです。
ある状況に対して自分ならどうする、他者はどう考えて行動するか考える。一つの行動に対して、友だちの考えや思いを聞き合う。ふだんの学校生活でも、自分の行動が他者にどういう影響を与え、どういう感情を引き起こすのかを意識できるような場面をたくさんつくる。「自分はこうしたい、しかしまわりはそれを許さない」といった葛藤場面でどう行動すればよいかを身につけさせるのです。
では、先ほどの学生はどうなのでしょうか。悪いことではあるけれど、リスクは自分が負うだけで他人には迷惑をかけない。そう答えそうな気がします。アンフェアな行為をするということは、他者に対してどういうことを意味するのかを意識できていないように思います。他者と深くかかわり合う経験が少なかったのかもしれません。

もう一つの思い浮かぶのは、子どもたちの消費者的行動です。できるだけコスト(労力)をかけずに、早く結果を得たい。そういう風潮が広がっているように感じます。教師が答や結果だけを評価し、課程や方法をきちんと評価することをしていないこともその傾向に拍車をかけているように思います。注意してほしいのは、やったこと、努力したことをただほめるというのは評価ではないということです。認めることは大前提として、その上でどうすればよりよいのかを考えるために評価があります。結果がともなう努力をすることが大切なのであって、いくら努力しても結果が出なければ嫌になって安直な方法に走ってしまいます。
また、子どもたちが過程を楽しむ、楽しめるような工夫も必要だと思います。学ぶことは楽しい。そう思えることが一番ですから。
先ほどの学生は、学ぶことは楽しいという経験をしてこなかったのでしょうか。もしそうであれば、それは保護者を含め、彼の教育にかかわった者の責任だと思います。

歳をとってくると、「最近の若者は・・・」と批判をしがちになりますが、彼らをそのようにした責任の一端は私たちにもあることを忘れてはいけません。そのような若者をつくらないためにどうしなければいけないのかを真剣に考えることが、歳をとった者の責務だと思います。
学生の会話からこんなことを考えた昼時でした。

アンケートの結果を予想する

行事や授業などについてアンケートを採る機会が増えてきていると思います。最近のアンケートは無難な回答を避けるため、「普通」「どちらでもない」といった真ん中の選択肢をなくすようになってきました。よいことだと思います。そういった質問紙の作成に知恵を絞ると同時にお願いしたいことがあります。それは、アンケートの結果を予想することです。

何かを意識して取り組んでいるから、その評価が知りたいわけです。問題点を見つけるためにもアンケートをおこなうのです。評価者と実施者の現状認識の違いを明確にするために、項目ごとにどのくらいのポイントになるかを予想するのです。年に何回か実施しているものであれば、どの項目が上昇するかを予想することは、実態をどれだけ把握できているかのチェックにもなります。
また、これから実施される行事のようなものであれば、何を大切にしようか、どこに重点を置こうかといったことを意識することになります。明確な目的意識をもって取り組むことにつながります。そのためにも、アンケートは早めにつくっておくとよいでしょう。

一般的に、アンケートの結果を予想すると低めの評価を予想します。予想を下回るのが嫌だからです。単に予想より高いからよかったと考えるのではなく、総合的に見ることが必要です。
たとえば、項目Aと項目Bをそれぞれ、3.5と4.0と予想したところ、実際には4.5と4.0だったとします。予想よりもよいか予想通りの評価だったのでよしとするのではなく、項目Bの方が高いと予想したのに、項目Aの方が高かったということに注目してほしいと思います。項目Bに力を入れたのに、結果としてはあまり効果がなかったのかもしれません。それとも、項目Aに関して何かよい力が働いたのかも知れません。その原因を考え次の行動にどう反映させるのかが大切です。
年に1度の行事のアンケートなどは、目標(予想)とアンケートの結果を比較することで、取り組みの評価が明確になり、次年度への取り組みに活かすことができます。

アンケートの結果を予想することは、結果をより真剣に分析することにもつながります。結果を事実として公表するだけでなく、その結果をどう分析し、どのように受け止め、どう対応していくのかを明確にし、評価者に伝えることが、評価者からの信頼につながります。

話は少しそれますが、アンケートの結果を数値化して棒グラフにしたもので、ときどきグラフの基準がおかしなものを目にします。たとえば「悪い」「やや悪い」「ややよい」「よい」の4段階をそれぞれ1から4に数値化した場合で考えてみましょう。グラフの基準が0になっているのです。基準を0にすると、真ん中は2になります。しかし、最低が1なのですから、実際には真ん中は2.5です。グラフは視覚的にはよい方にずれて見えます。よく見せようという意図がないのであれば、基準を1にしないと邪推されます。こういうことを避けるためにも、また分布をはっきりさせるためにも平均を棒グラフにするのではなく帯グラフで各評価の割合を見せるのがよいと思います。

アンケートを作成するときにその結果も合わせて予想することは、アンケートをより効果的に活用する事につながります。作成者だけでなく多くの方が予想することで、より多くのことが見えてくるはずです。ぜひ試してほしいと思います。

中村健一先生から学ぶ

本年度第3回の教師力アップセミナーは、山口県岩国市立平田小学校の中村健一先生の講演でした。「お笑い」「フォロー(対応の技術)」そして、「厳しく叱る」の学級づくりというタイトルで、学級づくりのための具体的なネタ(活動)を中心にお話いただきました。

今の子どもは教師が一方的しゃべっていると集中力がなくなる。細かく活動を入れなければならないという主張はよくわかります。テンポにこだわり、次々と繰り出されるネタに参加者は大いに笑い、またその解説の場面ではすぐに集中力を取り戻していました。中村先生のうまさと同時に、参加者の質の高さもうかがえます。しかし、実際の教室では子どもたちのテンションがこのように上がったとき、すぐに下がるのかちょっと気になりました。テンションを下げることは上げること以上に難しいように思います。若い先生方が実際にこのようなネタに挑戦する時に、テンションをどうコントロールするか忘れずに意識してほしいと思いました。
また、指相撲やハイタッチなど子ども同士の身体接触を伴う活動もいくつか紹介されました。子ども同士の人間関係ができていないとうまくいかないこともあります。これに限らず、子ども同士の人間関係との兼ね合いで使えるネタは制限されます。中村先生も注意されていましたが、子どもの状況をつかんでいないと、逆に学級が崩れるきっかけになることもあるように思います。

「お笑い」の構成の基本を、「フリ」「オチ」「フォロー」と定義し、その中でも特に「フォロー」(評価、ほめるなど)の大切さを強調されました。やりっぱなしにさせない、教師がまずほめることで子どもたちの中によい価値観を醸成するという考えは、その通りだと思います。子どもに活動させたときには、その結果をできるだけポジティブに評価する。失敗も明るい笑いに変えることで子どもたちの自尊感情を傷つけない。子どもの自己有用感を大切にする考えです。これらのことは教育活動の多くの場面で大切にししなければならないことです。

一つひとつのお話に納得しながら、若い先生方は今回のお話をどうとらえるのだろうと考えました。最近の若い先生は今回のような「ネタ」を欲しがる傾向にあるように思います。子どもの気持ちを早くつかみたい。あまり難しくない、簡単にできること、方法はないか。その答の一つが今回のような「ネタ」なのでしょう。子どもたちだけでなく、教師にも消費者的行動が浸透してきているように感じます。
「ネタ」を求めることを全面的に否定する気はありません。しかし、これだけで学級経営や授業が成り立つわけでもありません。子どもの実態をしっかり把握し、使いどころを考えて「ネタ」を活用する必要があります。
また、子どもが集中できる時間が短いからとテンポ上げて、目先を変えることばかりしていると、いつまでたっても集中力はつきません。子どもがつねにおもしろい「ネタ」を求めるようになってしまえば、地道な学習活動を嫌うようになる危険性もあります。
要は、「ネタ」だけに頼るのではなく、同時にベースとなる授業力をあげていくことを忘れてはいけないということです。

もちろん中村先生はこのことはよくおわかりだと思います。今回の講演が、「ネタ」に関して先生方とどのような話をすればよいのかをあらためて考える機会となりました。よい学びの機会をいただき、ありがとうございました。

管理職が教員とコミュニケーションをとる工夫

コミュニケーションの大切さがよく言われます。企業はもとより学校でも子どもたちのコミュニケーション能力が問われています。ところが、教師同士となると必要性はわかっていてなかなかその時間が取れないのが実情です。いわんや管理職と一般の教員とのコミュニケーションはもっと難しいのではないのでしょうか。愛知県でも評価制度の導入を機に校長と一般教員の面接が義務付けられていますが、夏休みが終わってもまだ実施できていない学校もかなりあるように聞きます。

私がかかわった中でよい方向に変化している学校は、個人プレーではなく、組織として方向性を持って動いていることが共通しています。目指す方向性が共有化され、その具体的な実践も互いに共有されているのです。
そのための方法として、校長や担当者がこまめに通信などを出して、具体的に伝えることをしていることが多いようです。なかなかまとまった時間が取れない中、口頭できちんと伝えるのは難しいことです。紙であれば、時間のある時にじっくり読んでもらうこともできますし、保存もききます。年度当初にぶちあげて終わりではなく、こまめにそのことを色々な形で伝え、共有していくことが大切です。一方的、間接的ではありますが、立派なコミュニケーションだと思います。

最近では、そのための方法として学校ホームページが注目されています。
保護者や地域の方たちに伝える道具としてだけではなく、教師同士のコミュニケーションツールとしても活用するのです。共有したい実践や、目指す姿の具体的な場面を見つけた時に、写真と簡単なコメントをつけてアップするだけです。その学校の教員であれば、その記事の持つ意味はわかると思います。「こういうことをすればいいのか」「こんなやり方もいいな」「詳しいことを聞いてみようか」と思ってくれればいいのです。
これだけでも有効なのですが、ここでもう一歩進めることが大切に思います。
だれが記事をアップするかにもよりますが、このような記事であれば管理職やそれなりの立場の方だと思います。この記事をきっかけに、ほんの少しでいいから当事者と会話をするのです。このとき、記事をアップした意図(よさ)を伝えるだけでなく、「このほかにもどんな工夫をしている」「どんなことを意識している」「困っていることはないか」とできるだけ相手に話をさせて聞くのです。発信をきっかけに、教師同士のコミュニケーションをつくりだすことはできますが、管理職とのコミュニケーションはまだ一方通行のままです。コミュニケーションの基本である「聞く」場面を意識してつくるのです。

私が注目している校長は、これに加えてリーダーと話し合う機会を頻繁に取っておられます。給食指導の無い教員(管理職、主任、・・・)が集まって、給食時間に気軽に話をする場を設けています。発信ばかりでなく、受信の機会を意図的につくっているのです。聞き合うことで、新しい視点が生まれますし、校長の考えもより深く伝わります。

コミュニケーション不足の原因を時間がないことを理由にしている方が多いように思います。以前よりも忙しくなったとよく言われますが、新しい道具もたくさん出てきています。学校ホームページを始め、校務支援システムもかなり普及してきています。こういうものをうまく活用し、工夫をすれば、本当に大切であるリアルなコミュニケーションをとる時間も生み出すことができると思います。

数学の教師は数学の勉強をしない?

中学校の数学の授業アドバイスをするときに感じるのは、数学的な背景やその意味をわかっていないまま授業をしている教師が多いことです。自分は問題が解けるから数学がわかっていると勘違いをしているようにも思えます。

自分の教科に対する自信が大きいのでしょうか、他の教科と比べて教科の内容を深く勉強している方が少ないように思います。社会科の教師は常に最新の情報(地理や政治経済だけでなく歴史も新事実が出てきて変わる)や資料を探していますし、理科なども実験の工夫(新しい機器や素材がどんどん出てくる)や、新しい事実(科学はどんどん進歩していますし、身近に新しい応用例もどんどん出てきます)に対応する必要があります。国語も扱う文章が時代とともに変わっていきます。
ところが数学だけは恐ろしく古い内容を扱っています。というか、現代的なものを扱うためにはその基礎となる知識が必要となるために、まずはそこからというわけなのですが・・・。最新の数学が教科書に登場することはまずありません。しかも、中学校(高等学校も一部)では厳密な証明は求められません。基本的なこと(基本的・シンプルなことほど難しい)に関しては、なんとなく納得、説明で済まされることが多いのです。定義も曖昧なままのものが多いようです。

関数って何?
1次関数のグラフはが直線になることはきちんと証明したの?
平行線と直線が交わってできる同意角が等しいことは、平行線の定義からきちんと証明している?
実数って何? 有理数とは? 循環小数と非循環小数の違いはどこからくるの?
2(x+1)=2x+2と2(x+1)=1の=は同じ?
確率って何?
なんで連立方程式には{ がつくの?
・・・

中学生への説明の前に、数学教師は数学的に正しく定義でき、証明できるのでしょうか?
教科書の説明はそのことがわかった上で中学生にどう説明すればよいかを考えて作られています。中学生と同じレベルで理解していては困るのです。記述の背景にあるものを教師がしっかり理解していてほしいのです。

このことは、社会科を例にして話をすればわかると思います。たとえば、第1次世界大戦について教科書の記述と同じレベルの知識しかなくて教壇に立つことは考えられませんね。教科書には書かれていない背景や事実を知っているからこそ、何が重要か何をそぎ落とすといった判断がどのようにされているか、作り手の思いもわかるのです。わかった上でどう授業を進めるかという自分の考えが持てるのです。

数学は問題を解ければいいのではありません。それは学習の一つの結果なのです。定義一つとっても、矛盾のないもの、扱いやすいものにするための試行錯誤があるのです。そういう思考を大切にしてほしいのです。
教科書では凹多角形をあつかわないことをいうのに、具体例を1つだして、「このような多角形」としています。なぜ凹多角形といわないのでしょうか。それは、中学生のレベルではきちんと凸、凹を定義するのは難しいからです。では、星型多角形は?
視覚的になんとなくわかることもきちんと定義しようとすると大変です。逆に定義を考えることでそのことの持つ本質が見えてきます。少なくとも、教師はそのことを理解してほしいのです。

私の専門が数学だから数学教師に厳しいのかもしれません。しかし、他の教科の教師と比べて、どうしても甘さを感じることが多いのです。問題の解き方を機械的に教えている、覚えさせていると感じる教師が多いのです。その延長では高等学校でつまずいてしまいます。数学の教師だからこそ数学とは何かについて深く考え、教科書の背後にある数学の世界をしっかりと理解して教壇に立ってほしいのです。

10年続いた「算数・数学の授業力アップ研修会」から大いに学ぶ(長文)

先週末は、算数・数学の授業力アップの研修会に参加しました。毎年夏休みに先生方の自主運営でおこなわれています。私はスタッフではないのですが、オブザーバーとして毎年参加させていただいています。今年は第10回という節目で、初回から参加している者としては感慨深いものがありました。
中心となるスタッフも会とともに歳をとり立場的にもなかなか時間が取れなくっていく中、10回も続いているのは並大抵のことではありません。愛知県内で同時期に始まった同様の研修会で今も続いているのはこの研修会だけです。
若いスタッフを育ててきたこと、市の研究会のバックアップあることなど、要因はいろいろあると思いますが、この研修会を通じて自分たちも学べる、学ぼうという姿勢があることが何と言っても一番のような気がします。昨年と同じということがない、毎年違うことに挑戦していることからもそのことがわかります。

今回は記念大会ということもあるのでしょう、例年と違って大きなホールで全体会とグループ別の研修をおこないました。会場に余裕があるため、斜め前から研修の様子を見ることができました。参加者は一部を除いてほとんどが若手です。彼らがどのような反応をするかをじっくり観察することができました。話はちゃんと聞いているし、メモも取るのですが、意外に顔があがりません。ノートを取ることを大切にしている子どもたちとよく似た様子です。知ろうとする姿勢は感じるのですが、考えようという雰囲気が薄いのです。講師も伝えたいことがあるので、どうしても情報量が多くなるのですが、参加者はその情報を消化しようというよりは、そのまま保存しようとしているように感じました。
講義の中でも一部実習があるのですが、実習をすると全体の雰囲気が和みます。ペアで役割を交代しながらおこなうのですが、交代する前に感想や気づきを聞くと緊張も緩みます。ところが、実習でできていなかったことや追加の解説が入ると会場全体に緊張が走ります。しっかりと聞くのですが、すぐにメモを取ります。実習で自分たちがこうすべきだったという「正解」を聞き洩らさないようしようとしているように見えます。自分たちも考えたはずなのですが、講師からの説明を正解として上書きされるようです。講師としては、一度にたくさん説明しても頭に入らないので、分割して説明しただけで、参加者の気づきを否定しているわけでもないのですが、「自分たちができていなかったことを説明される」=「自分たちのやったことは間違い」、「追加の説明」=「これが正解」というような変換が頭の中でなされているようです。
また、交代する前に気づいたことを発表させるだけで、講師が追加の説明をしなかったときは、和やかな雰囲気が持続し、実習後の解説を聞くときもその雰囲気が持続されています。
実習に対して解説をすることは、注意を要することに気づけました。参加者の気づきから課題を焦点化してからそのことについて話をする、参加者の気づきをすべて認めた上で「追加」であることを強調して話をするといった工夫が必要に思いました。自分が講師を務めた研修を振り返るよい機会になりました。

グループ別の実習では、若手の教師がインストラクターとなってとても頑張っていました。未熟な面もありますが、参加者と一緒に学ぼうという前向きな姿勢がグループ全体の一体感をつくっていました。講義のときと比べて参加者の積極的な態度が印象的でした。インストラクターが一人ひとりを受け止め、認めていることも大きな要因でしょう。
実習の後半は教科書のあるページを与え、その場で授業の流れをつくるという、かなりレベルの高い課題に挑戦しました。短い時間で教科書を理解し、めあて、ポイントを押さえて流れをつくることは大変ですが、グループで挑戦することで、一人で考えるとき以上に多くのことを学べたと思います。

中学校のグループだけ別の部屋でした。この種の研修ではどうも中学校の先生方が硬い傾向にあります。専門教科であるからきちんとわかっていなければいけない、正解できなければいけないというプレッシャーがあるように感じます。気軽に聞きあえればよいのですが、壁を感じることが多いです。
中学校はn角形の内角の和の公式をつくる場面です。教科書には既存の知識(3角形の内角の和)を使うという「見方・考え方」がちゃんと書かれています。実習で考えるのはこの後の部分が中心でしたが、そこでのやり取りは、この既存の知識を使うということを大切したやり取りが欲しいところです。3角形にこだわることで答が出せそうだ。どうすればうまくいくのだろう。そういう過程を大切にしてほしいのです。
教科書は1つの頂点から対角線を引いて3角形に分割し、表にして関係を見つけるとなっていますが、参加者は、1つの頂点で分割する必然性を子どもたちから引き出すことには消極的であると感じました。一番大切なのはその部分です。1つの頂点から対角線を引いた図から出発して説明しても、自分でその分割を見つけることができる子どもは育ちません。先生方にそのことに気づいてほしいのです。
子どもが自由に分割した図で、多角形の内角が過不足なく含まれているか調べれば、重複している、無駄な角が見つかるので、それを除外すれば答はちゃんと一致します。その上で、過不足ない図はどうすれば書けるのかを課題にするのです。
教科書にはありませんが、既存の知識を利用するという考えを使うという発想は帰納的な発想につなげることができます(本当はこのほうが将来的には大切になるのですが・・・)。たとえば5角形の内角の和を、小学校でやった3角形と4角形の内角の和を使って求められないかという問いから始めるという考えです。5角形の場合、1つ対角線を引くと、3角形と4角形に分かれます。じゃあ6角形は3角形と5角形、7角形は・・・、としていけば、n角形はn−1角形と3角形に分割できることに気づけます。既存のもの同士を組み合わせるという発想をすれば、対応の関係でなく隣同士の関係から表を埋めていくことができます。関数で大切になってくる見方です。証明としてもほぼ完璧なものに近づいていきます。また、将来数学的帰納法を学習するときの布石ともなります。もちろんこれがベストなものだという気はありません。そうではなく、選択肢としてあがってほしいのです。
教科書は、わざわざ多角形といったときに凹多角形は考えないと書いてあります。「なぜ?」とたずねたところ、明確な答えが返ってきません。凹多角形でも内角の和の公式は成り立ちます。ただ、証明(説明)が難しくなるからです。しかし、教科書のすぐ下にはn角形の内部に1点をとり、各頂点を結んで3角形をn個作る方法が示されています。この考えを使えばかなり複雑な凹多角形でも説明がつきます(すべての場合はちょっと難しいのですが・・・)。教科書の執筆者は、そんなことに気づいてくれる子どもがいることをきっと願っていると思います。

(ちなみに、先ほどの帰納的な発想を使うときちんと凹多角形でも説明ができます。もし1つ離れた頂点同士を結んだときに3角形が内側にできても、内角の和はn−1角形の内角の和+180°になることがすぐにいえるからです)

凹も含めて多角形の内角の和を考えることを課題にした授業をしろと言っているのではありません。そこまで教科書を読み込んだ上で、授業を考えてほしいのです。中学校の教師が中学校の問題を解けるのは当たり前です。その教材の持つ意味をわかって授業をつくるから教師なのです。そうでなければちょっと優秀な中学生でも教師になれてしまいます。教師の教師たる所以は何かを意識してほしいのです。

本来乱入してはいけない立場なのですが、つい余計なことで研修を止めてしまいました。申し訳ありませんでしたが、私が割って入った思いをわかっていただければ幸いです。

最後の講演(講義)は、予定を少し変えて参加者が実習で苦労したところ、疑問、課題をもとに模擬授業をおこなっていただけました。願ったりかなったりです。自分たちからでた課題に対する回答なので、参加者の集中度はとても高くなっていました。メモ取るのではなく、真剣に見て、聞いて何が起こっているのか、自分たちと何が違うのかを理解しようとしています。ここから学ぶことは大きいと思います。模擬授業後、授業者から突然解説をするように求められました。とっさにどうしようかと思いましたが、参加者の多くが見落としていると思われる部分を解説させていただきました。

授業者は○つけをして全員が正確になっているところで、挙手をさせました。そのとき、反応の悪い子どもに、反応を求めました。全員○をつけて正解であることを確認しているのですから、そこまでしなくてもよいようにも思います。しかし、わかっているのならわかっている、わからなければわからないと反応するように求めたのです。「全員にできるようになってほしいから」、教師が外化を求めることを伝えたのです。いきなりの模擬授業でなかなかできることではありません。授業者の子どもへの思いが現れた場面です。「先生はだれも見捨てない。全員できるようにしたい」、そういうメッセージを言葉だけでなく体全体で子どもに伝える必要があるのです。
聞いたところ、子ども役同士で理解の遅い子役を2人決めておいたそうです。もちろんそのことを授業者は知りません。その子ども役のしぐさをきちんと見て対応したのです。さすがです。細かい授業の進め方やスキルも大切ですが、その教師の根っこに子どもへの思いがしっかりとなければいけないことがよくわかります。その思いがあるからこそ、子どもの何を見るのかが明確になる、見る目を持つことができるのです。そんなことをあらためて確認することができました。

10年にわたりこの研修会からは本当に多くのことを学ばせていただきました。感謝の言葉以外ありません。来年以降どのような形となって進化していくのかとても楽しみです。また、きっとたくさんのことを学ばせていただけることと思います。ありがとうございました。

夏の研修を振り返って

多くの学校で、夏休みもいよいよ最終日になりました。今年もたくさんの研修を担当させていただき、多くのことを学ぶことができました。

その中でも印象的だったのが企業での研修です。昨日の日記にも書きましたが、参加者は相手の考えを聞いて自分の主張を変えることは負けだと考えているように見えました。対象だった方は就職で苦労した世代です。就職試験対策で集団面接などのノウハウを学んできたのでしょう。相手を否定はしない、しかし、自分の考えはしっかりと主張するように指導を受けてきたのかもしれません。他者より自分が優れているところを見せなければいけない。そういう脅迫観念があるのかもしれません。そのことが研修に影響していたように思いました。

先生方では見られない姿です。教師は他の先生と比較されることや、相対的に評価されることがあまりありません。他者の意見を素直に受け入れて考えを変えることが比較的素直にできるのかもしれません。しかし、競争意識があまり働かないのでぬるま湯になりやすいとも言えます。そこで、飴と鞭の教員評価制度が導入されつつあります。しかし、評価制度を変えることがよりよい方法なのでしょうか?
私の目から見ると評価制度を変えても、大きくは教師の意識は変わらないと思います。また、変わってほしくはありません。先生方が自分の業績を声高に主張する姿は想像したくありません。評価制度で解決する問題というよりもマネジメントの問題だと思います。
今までの制度化でも、教師集団のやる気を引き出し、成果を挙げている学校はたくさんあります。そのマネジメントの重要性とノウハウを管理職が共有することの方が大切なように思います。

企業の社員の特性と、教師の特性のどちらが好ましいかは一概に言えません。そのよさを活かしながら、よりよい方向に持っていくマネジメントをするだけです。
先ほどの企業の例であれば、チームや部門、最終的には会社全体で最適化される解答にたどり着くことが大切だ、それがだれの発案であるかといったことは大きな問題ではないという意識をもつことが重要です。一人ひとりがチームの中での自分の役割を意識して全体で最適化できるように行動することが大きなパワーを生むのです。

企業研修を見ていた上司の方から、「『提案力=聞く力』ということを再確認させていただくよい機会となりました」とメールをいただきました。この言葉の裏には、顧客の本当に願っていることを聞くことができれば、その情報をよい提案に変えていくことは社内のみんなの力を集めてできる自信があるということです。組織の力を信じているということです。この姿勢が全社に広がれば大きな力となるでしょう。
この発想は企業だけでなく、学校でも全く同様に成り立つことだと思います。
企業からも学ぶことはたくさんあることをあらためて実感しました。

「協同の学びをつくる ‐幼児教育から大学まで‐」から学ぶ

画像1 画像1
いつも多くのことを学ばせていただいている、愛知文教大学人文学部教授の副島孝先生(前小牧市教育長)が著者に名を連ねる「協同の学びをつくる ‐幼児教育から大学まで‐」を読ませていただきました。8人の方が著者に名を連ねていることからも想像がつきますが、幼児教育から大学までの広い範囲をそれぞれ異なった立場・視点で書かれたユニークな本です。

読者の立場で言えば、最初のうちはどこへ行くのかわからないままあちらこちらに振り回されている感じがして読み辛いのですが、何かまとまったメッセージを受け取ろうとするのではなく、それぞれの章から参考になるものを拾っていこうという気持ちで読むと学ぶことがたくさんあります。私にとっては、日ごろ接することの少ない幼児教育や大学での試みがとても勉強になりました。
幼児教育では環境(どんな道具や教具を用意するか、どこに置いておくか etc.)を工夫することで子どもたちの学びを生み出すということはよく聞いていましたが、それにプラスする教師のかかわり方が幼児教育以外でも十分通用するものだと思いました。たとえ言葉がまだ拙い幼児でも教師が予断を持たずにその声をしっかり聞いて対応を考えているということを知り、教師の基本は「聞くこと」だと再確認できました。
また、大学でも教師と学生、学生同士のかかわりを大切にした授業に挑戦されていて、制約のある中でも工夫することで、協同的な学びを生み出していることを知りました。その手法は、小中と比べて制約の多い高校でも使えるもので、なるほどと思わせるものです。

この本は手作り感が強く(悪く言えば、校正ミスや編集の未熟さが目立つ)、各章ごとのばらつきも大きいのですが、協同的な学び(協同の学び)に取り組むもうとしている方には、小さなヒントがたくさん手に入るのではないかと思います。日ごろ自分が目にしない世界にも学ぶことがたくさんあることに気づけるだけでも読む価値があると思います。

教え子から元気をもらう

先日すぐ近くに住む教え子に招待されました。卒業後(30年近く経っています)一度もあっていない友人がお盆で帰省するので、仲のよかった者同士4人で集まることになったそうです。そのうち3人が高校1年生の時に私が担任する学級にいたので、私にもお声がかかったという訳です。

40代も半ばを過ぎ、彼女たちもすっかり落ち着いて見えましたが、話をしていると当時の元気いっぱいな姿が思い出されます。彼女たちからパワーをもらって私も少し若返ったような気がしました。
今でこそ、偉そうに多くの先生方にお話をさせていただいていますが、当時の私を今見れば眉をひそめることばかりでしょう。未熟な私が担任であっても立派な社会人になった彼女たちを見ると、人が成長する力の素晴らしさを感じずにはおれません。
彼女たちと10歳違いの私です。教え子が今の自分と同じ歳になったときには自分を越えるような者がたくさんいるだろう。しかし、10年分自分も進歩して、彼らに負けないでいたい。当時はそんな風に思っていました。
あれから30年以上経った今、私はどれほどの進歩をしたでしょうか。教え子の中にはすでに学校の管理職になっている者もいます。もうすっかり追い越されているのかもしれません。しかし、そう思うことがちょっぴり嬉しくもあります。教師を辞めた今でも教え子の成長は何よりも励みになります。私がいつまで現役を続けられるのかわかりません。しかし、教え子たちのいきいきとした姿から、まだまだ私も進歩しなければと元気をもらいました。声かけてくれてありがとう。

コミュニケーション力を考える

コミュニケーション力ということがよく言われます。企業の採用でも一番重視されるのはコミュニケーション力だと聞きます。しかし、私が耳にするコミュニケーション力のとらえ方に違和感を感じることがあります。

一つは、プレゼン力という言葉で置き換えられることが多い、発信する力に偏っているということです。一方的に自分の考えを伝える。いかに、自分を認めさせる。そこにエネルギーを使っているように感じます。相手の事をわかろうとする。相手の言葉を理解しようとする。そういうことを軽視しているのではないでしょうか。
互いに発信するばかりでは、コミュニケーションは成り立ちません。受け止める姿勢が大切です。プレゼン力も、自分の考えが相手にどのようにとらえられているのか、相手の立場に立てばどのように聞こえるのか、感じるのか。そういう聞き手意識を大切にし、相手の表情、反応に合わせて変化できることが求められます。

もう一つは、受容のあり方です。相手を受容することがコミュニケーションでは大切です。しかし、「なるほど」「すばらしい」という受容の言葉を使うだけで、かかわり合いが表面的なもので終わっていることが多いのです。コミュニケーションには、相手の考えを理解し、それを深めていくことが求められますが、そこまでは踏み込まず、互いに表面的に認めあって終わってしまっているのです。互いに傷つくのを恐れているようにも感じます。コミュニケーション力は、ぶつからない力、仲良くやる力ではないのです。ぶつからない、仲よくするに越したことはありませんが、互いの考えを理解しわかり合う、そういう力だと思います。具体的に相手のどこに共感するのか、またどの部分が納得できないのか、それを明確にして伝え合うことが大切です。たとえそこで摩擦があってもきちんと伝え合うことで、解消できるはずです。そこまでできて、初めてコミュニケーション力があると言えるのだと思います。

また、集団で一つのことに取り組んでいるとき、自分から発信はしなくても、全体を見て欠けているところを補う、自分がやるべきことを言われなくてもできる。そういう人もいます。目立たないためなかなか評価されませんが、みんなの状況を理解し、自分の考えを行動で示しています。これも広い意味でのコミュニケーション力だと思います。

学校でもコミュニケーション力ということが言われるようになってきました。コミュニケーション力を考えるときに、発信ばかりにこだわらない。表面的な受容ではなく相手をきちんと理解する。集団の中で自分の役割を意識する。こういうことも意識してほしいと思います。

美術館で考える

先日久しぶりに美術館に絵を見に行きました。今回の目玉はフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」でした。これ以外にも、レンブラントやルーベンスなどの素晴らしい作品をたくさん目にすることができ、とても充実した時間を過ごすことができました。

人気の「真珠の耳飾りの少女」を最前列で見るためには並ばなければなりません。係の方が立ち止まらずに移動しながら見るように呼びかけています。ある男性が、「止まらずにどうやって見るんだ」とつぶやいていました。確かにそうですね。私は最前列で見ることはあきらめ、少し遠くなりますが並ばずに立ち止まって見ることを選びました。じっくり見ることで初めてわかることもあります。素晴らしい作品であるからこそ、落ち着いてじっくり見たいものです。

授業でもこれと似たことを感じることがあります。
進度の関係でここまで進まなければならない。とりあえずは説明だけしておく。こういう場面を目にすることがあります。悪い言い方をすれば、言い訳づくりの授業です。こうなる原因に、教師が教科書の内容を説明しなければならない、授業で扱わなければ学習したことにならないという考え方があります。子どもも、授業で教えてもらわなかった、扱わなかったことが試験に出れば不平を言ったりします。知識を教えてもらう、扱った問題しかできない。それでは力がついたことにはなりません。自ら知識を得ようとする。見たことがない問題でも解決できる。そんな子どもに育てることが大切です。
すべての教材、内容が同列でありません。その単元でじっくり取り組むべきものを選ぶ必要があります。時間をかけてその課題に取り組むことで、必要な知識を自分で得る、どのような考え方をすれば課題を解決できるかがわかる。そのような教材に時間をかけるのです。力がついてくれば、教師が説明しなくても、自分の力で考え理解することができるようになります。授業ですべての内容を詳しく扱わなくても、自分でその隙間を埋めていくことができるようになるのです。

私の高校時代は「学校は何を勉強すればよいかを教えてくれるところ。勉強は自分でするもの」というのが当り前の感覚でした。そういう感覚を持った子どもに育ててほしいのです。
美術館で名画を鑑賞しながら、ふとこんなことを考えてしまいました。

夏休みの研修をどう活かすか

8月に入って、夏休みの研修も本格化してきます。私もいくつかお声をかけていただいていますが、授業のないときの研修なので、講演や全体研修のような形式が多くなります。受講者が受け身にならないような工夫が必要になります。
一方、受講者の立場でいえば、よい話を聞けた、勉強になったと思っても、授業がないのですぐに試すことはできません。2学期になるころには感動も薄れて、結局何も変わらなかったりします。そのためか、夏休みの終わりに研修をおこなうところも多いようです。

夏休みの研修を活かすには、学んだことを自分の授業に当てはめ、できるだけ具体的にしておくととよいでしょう。教科書を開いて、2学期の最初の単元でどう活かすかを考えます。早く授業をやってみたい、そういう気持ちになるはずです。そこで、ポイントとなること、意識したいことを教科書に書きこんだり、付箋紙に書いて貼ったりします。こうすることで、2学期になって授業をしようと教科書を開いたときに、研修を受けた時の新鮮な感動を思い出せるはずです。

また、研修でメモしたことをそのまま記録としてしまっておかずに、読み直しながら要点を箇条書きにして、その一つひとつを付箋紙に書くという作業をしてみるのもよいと思います。そして、教科書を広げて活かせそうなところにこの付箋を貼っておくのです。自分で整理し直すことで学んだことが定着します。このような作業は時間に余裕のある夏休みだからこそできることでもあります。

夏休みだからこそ、余裕をもってじっくり研修を受けることができます。これに限らず、自分なりの研修を活かす工夫をいろいろとしてみてください。「いい話だった」「勉強になった」と感動しただけで終わらせないようにしてほしいと思います。

冷蔵庫の修理で、横並び意識を考える

先週、冷蔵庫の製氷機能がおかしくなって、氷ができなくなってしまいました。何とかならないかと色々手を尽くしましたが、何ともならず、週末に修理をお願いしました。夏場は環境が過酷なため修理依頼が多いようです。それでも、昨日サービスの方が来てくださいました。
あらかじめ詳しく情報を伝えてあったので、故障個所のあたりはついていたようです。2、3確認した後、自動製氷のユニットが怪しいということですぐに作業に入りました。手際良くユニットを引き出すと、ケースのモータを支えている部分が割れていました。貯氷庫の中で氷が偏っていたため満杯であることを検知できずに無理に製氷皿を回そうとしたのか、ドアがきちんとしまっていなくて霜がついてしまいモータの動きを妨げてしまったのが原因のようです。サービスマンの話では、愛知県は高温多湿のため、特に後者の原因での故障が多いようです。日に3〜4件はあるそうです。30分足らずでユニット交換して修理は終わりました。

ここで思いもかけないことがありました。このメーカーではこの故障に対応するために、ユニットの遊びを少し大きくして、できるだけ汎用的にしたそうです。こうしてコストを下げた上で、ユニット交換で済む場合は無償対応にしたのです。我が家の冷蔵庫は購入してもう7年になるものです。有償でも文句は言いません。買い替えなくて済むだけでも感謝です。それを、本来であれば1万円以上の費用がかかるところを企業努力で無償にしてくれたのです。このメーカーのファンになってしまいます。
ところが、この対応をいつまで続けられるかわからないというのです。コストの問題かと思ったらそうではないのです。他のメーカーから苦情がきているのからなのです。このメーカーは無償で修理しているのに、他のメーカーが有償なのはおかしいとクレームがくるため、このメーカーに他のメーカーが有償にするよう申し入れているのです。
お客さまに喜ばれるように企業努力をしているのに、その足を仲間が引っ張るのです。自分たちも負けずに企業努力をすればいいことなのですが。

これと似た話を学校現場でも目にします。
たとえば、学級通信を出そうとすると、同じ学年の人から出さないように圧力がかかるのです。隣の学級で出されるとなぜ出さないのかと保護者から言われるからです。信念があって出さないのなら、そのことを伝えればいいのです。それに代わることをしているのであればそれでいいのですが、なぜか同僚の足を引っ張るのです。
ICTの活用でも似たような話があります。若い教師が積極的に利用すると、子どもたちがなぜ自分の学級では使わないのかと担任に言ってきます。だから、使わないようにしてくれと言うのです。
同様に、学校独自の取り組みでも、まわりの学校から控えてほしいとプレッシャーがかかることもあります。校長会で問題にされたりすることもあるようです。
よくない取り組みだからやめろというのでなければ、プレッシャーをかけるということは、よいと認めているということです。素直にまねをしてもいいし、それに代わる工夫を自分の学校でしてもいいわけです。互いに切磋琢磨すればいいのですが、なかなかそうはいかないようです。

とかく学校はこの手のことでやり玉に挙げられるのですが、どうやら学校だけのことではなさそうです。横並び意識を全面的に否定する気はありません。低いレベルにそろえるのではなく、高いレベルにそろえればいいのです。冷蔵庫の修理をきっかけにこんなことを考えました

学校の授業を考える

ある学生の方から、学校の授業よりも予備校の授業の方が役に立ったし、教科のおもしろさがよくわかって、受験ということを差し引いてもよかったという話を聞きました。何人かに聞いてみても同じような意見です。私が高校生のころは、予備校は受験のためのテクニック的な話が多く、学校の授業はその教科のおもしろさを伝えようとしていたというように感じていたので、ずいぶん印象が違います。そのことを知り合いの先生に話したところ、予備校の先生は授業(講義?)のことだけに専念できるけれど、今の学校の先生は授業以外の仕事が多い。部活動や校務、生徒指導などで、授業をしている以外の時間のほとんどを使われる。条件が違いすぎる。なるほど、たしかにそうです。この理屈は、学習塾にも当てはまるのかもしれません。

ちょっと違った視点でみると、教科のことに専念したければ予備校の講師や塾の先生の方がよいということにもなります。では、学校の教師は? 私が思うに子どもの成長をトータルで支えることがその魅力なのだと思います。だからこそ、部活動や生徒指導にあれだけ頑張れるのです。しかし、だからといって授業の質が予備校や塾より劣ってもよいということにはなりません。子どもをトータルに見ているからこそできる授業があるはずです。話術やネタのおもしろさで引き付ける、これが試験に出るからと目先のことで引き付ける、それとは違った方向性があるはずです。そこにエネルギーを使わなければ、学校は部活動や友だちと話をする社交場で、勉強は予備校や塾でする。そんな歪んだ図式になってしまいます。では、学校の授業は予備校や塾とどう違うべきなのでしょうか?

それは、子どもたちがかかわり合うということです。一方的に講義を受ける、これが試験に出るからと受け身で覚える。そういうものではなく、互いにかかわり合いながら、高めあう。それは、子どもたちが学校という共同体の中で互いにかかわりながら暮らしていて、彼らを教師がトータルに見ているからこそできることだと思います。部活動や生活指導に頑張っている先生を見ると本当に頭が下がります。しかし、子どもたちのトータルの成長には学習はとても大きな要素を持っています。それこそ、学校が死守しなければいけない最たるもののはずです。時間がないからといって、予備校や塾に明け渡してもいいのでしょうか。同じ土俵で戦う必要はないのです。子どもが自分で考え、伝え合い、学び合う授業を目指せばいいのです。

先日紹介した玉置崇先生の著書(「スペシャリスト直伝! 中学校数学科授業 成功の極意」が届く参照)の冒頭、第1章「玉置流授業づくりの大原則30」の「大原則1 玉置流授業の定義」にこう書かれています。

「講義」…その時間で一番大切なことを教師が言うのが講義
「授業」…その時間で一番大切なことを生徒が言うのが授業

そして、

授業とは、その時間で一番大切なことを、学ばなくてはいけないことを、
・生徒自ら気付き、発する
・生徒が教師の指導により気付かされ、発する
・生徒と仲間との学び合いにより気付き、発する

まさにここを目指してほしいのです。

夏休みは、部活動に専念できると頑張っておられる方も多いと思います。ちょっと、立ち止まって2学期以降の授業に思いを馳せてください。先ほどの定義にあったような授業はどのようにすればできるのだろう、どのような発問をすればいいのだろう、どのように受け応えればいいだろう。そんなことを考えてみてほしいと思います。イメージできなければ、本を読んだり、同僚と話し合ってみてください。多少は余裕のある夏休み(予備校や塾は稼ぎ時?)だからこそ、是非授業のことを考えてほしいと思います。
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31