人事と研修を考える

校長先生との会話の中に人事に関することが増えてきました。なぜか人事の話題はあまり明るい話になりません。来年度は初任者が○人になりそうで厳しい。○○先生が6年で抜ける穴が大きい(愛知県は、小中学校では原則初任から6年で異動となる)といった言葉がよく聞かれます。

初任者を育てるのに時間と労力がかかります。一方、苦労して育てて戦力となった先生が異動で抜けていくのですから、確かに痛手です。しかし、よくよく考えてみるとその戦力を受け入れる学校があるのですから、地域の学校全体で考えれば異動があってもトータルの教育力は変わりません。結局、退職されるベテランに対して補充される初任者の差が明確な差となるのです。仮に定年退職者1人と初任者1人が入れ替わるとすれば、40年近くのキャリアの差が戦力の差となります。これはとても大きなものです。単純に考えると年々それだけ学校の教育力が落ちていくことになります。しかしこれは、現役の先生方の教育力が変わらないという前提での話です。現役の先生方一人ひとりの力量が向上していけば、ベテランと初任者の大きな差を全体で埋めることができるのです。そういう視点に立てば、戦力的に見劣りする初任者の研修に力をいれるだけでなく、学校全体での研修に力を入れることが大切なことがよくわかります。
伸びしろの多い初任者、若手をまず育てることを優先するのか、全体の向上の中で引っ張っていくのか。それとも同時並行でいくのか。学校の規模、職員構成でも最適な戦略は異なります。悩ましい問題です。

ところで、戦力として育った若手を受け入れる側は、大きくプラスになるはずです。実際に、そのような声もよく聞くのですが、どうも戦力を放出して痛手だという声に対して少なすぎる気がするのです。この時期、わかっているのは異動で出ていく人ばかりですから、暗い話になりやすいのはわかります。しかし、新年度になって数か月してもポジティブな話はあまり聞けないのです。その理由を私なりに考えると、学校ごとに戦力として求められる内容が異なっていることが原因であるように思われます。
若手は、その学校で求められていることを一番に学んでいきます。荒れ気味の学校ではあれば生徒指導面や部活動面。学校独自の授業スタイルがあれば、当然そのスタイルを学ぶことが優先されます。ある面、その学校に特化していくのです。学校ごとに状況は違います。新しい学校では、以前の学校で身につけた力がそのまま生かせれるとは限らないのです。小学校から中学校、中学校から小学校への異動でその傾向が顕著です。即戦力を期待されているのに、新しい学校に適応するのに時間がかかってしまうのです。
しかし、このことは決して悪いことではありません。新しい学校で学んでいくことで幅が広がりますし、どんな学校でも共通する基本を意識することで地力がつきます。一段と成長できるのです。実際、異動当初は戸惑っていた方が、ぐんぐん力をつけていく姿をたくさん見ています。また、以前の学校ではあまり力を発揮できなかった方が、新しい環境で成長することもよくあることです。

新規採用が増えている現状で、一律に6年で異動といった原則に縛られることに少し疑問も感じています。その学校の環境ではうまく育てることが難しい先生も他の学校では成長できる可能性もあります。早目に異動して、そこでやり直すことも選択肢としてあってよいように思います。
異動は誰にとっても新たな成長のチャンスです。そのチャンスを活かすかどうかは本人だけの問題ではありません。特に若手にとっては、適切な研修や指導がまだまだ必要なのです。しかし、意外に転入者に対してのケアは薄いように感じます。

そろそろ来年度に向けての準備が始まる時期です。思い通りにならないのが人事です。それよりも、学校としてどのように先生方の教育力をあげていくのか、その戦略を立てることが大切です。先生方の成長を個人の問題としてとらえないようにしてほしいと思います。そもそも学校というところは、組織的に子どもを成長させるところです。先生方に対してもそうあるべきではないのでしょうか。
こんなことを校長先生方との会話の中で考えました。

ある校長の退職に思う

昨日はお世話になっている校長先生とお話をする機会がありました。今年度で定年退職されるのですが、勤務校やこの町の教育への思いをいろいろと聞かせていただきました。

町として新しいことに挑戦した学校でした。新しいことは最初からうまくいくわけではありません。理想と現実の間で、手探りでの試行が続きました。取り組みの成果が見えず、混乱した状態が批判を受けることになり、学校のことが選挙の争点となるなど、政治が絡んできました。そういった批判に対して、学校の考えを理解いただき、職員が自分たちの信じる教育をおこなえるように多くの力を割いてこられたことと思います。学校の中のことに力を注ぐべき時に、余計なことに力を割かれ悔しい思いもされたことでしょう。言いたいこともたくさんあると思います。その努力が正しく評価され報われたのかはわかりません。
地元の方なのでいろいろなしがらみもあったようです。次の校長にはそういったしがらみのない方がなって、学校運営に専念してほしいとおっしゃっていました。退職後は学校現場からは完全に離れられるようです。その方がこの学校にとっても良いことだと考えられてのことでしょう。一方、町としてすべての小中学校で最低限の授業規律や授業の進め方の共通化を図るよう取り組むべきだと、その実現に向けて働きかけてもおられます。学校への強い思いを感じました。
退職後はどのような形で学校教育とかかわられるのかお聞きすることを楽しみにしていたのですが、とても残念です。長い間お疲れさまでした。

今、学校現場への政治の介入が話題となっています。安易に是非を語ることはできませんが、そのために現場の教師が教育と関係ないところに力を割かなくてはいけない、よりよい学校をつくろうとする意欲がそがれる、少なくともそんなことだけは無いようにしてほしいと思います。政治には子どもたちのために先生方がその力を存分にふるえる環境をつくることを期待します。

教師を映し出す鏡を見る

この日記でもいつも書いていますが、先生の笑顔が子どもたちの笑顔を引き出します。明るい学級は間違いなく先生も明るいのです。教室の子どもたちは教師を映し出す鏡です。3学期ともなると子どもたちの所作も担任と似てきます。考え方までも似てくるのです。

私は明るい性格でないから無理だなどと思う必要はありません。教師がいつも笑顔で子どもたちに接すればいいのです。笑顔は訓練でつくることができます(笑顔は訓練でつくる参照)。最初はぎこちなくても、続けていれば自然なものになっていきます。教師が笑顔で接してくれれば子どもたちも安心して学級で暮らすことができます。子どもたちは教師の笑顔が大好きなのです。
子どもたちの心を育てることはとても難しいことです。しかし、印刷物を配る、宿題を集めてもらう、子どもに何かしてもらうたびに教師が「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えていれば、子どもたちは自然に「ありがとう」を口にするようになります。教室に「ありがとう」があふれるようになってきます。道徳の時間に感謝を取り上げるよりもよほど効果があります。

多くの先生が明るい学級、楽しい授業ということを口にします。子どもの心を育てたい。誰しもがそう思います。それを実現するのは、日頃の教師の子どもへの接し方だと思っています。今年度も残りわずかです。今一度、子どもという教師を映し出す鏡をじっくりと見てください。そこにはどんな姿が写っていますか。年度末には素敵な姿が映っているようにしたいものです。

白石範孝先生から学ぶ

本年度第6回の教師力アップセミナーは筑波大学附属小学校の白石範孝先生の「『この時の主人公の気持ちは?』これでいいのか、国語の授業〜論理的思考ができる子どもを育てる〜」と題した講演でした。

多くの国語の授業は思いついたことを子どもが発表するだけで、子どもが真に考えるものになっていないという白石先生の問題提起はとても賛同できるものでした。国語も算数も論理的な教科であるという言葉はまさに我が意を得たりでした。

論理的に考えるためには、

たとえば「要点」(形式段落レベルのまとめ)「要約」(文全体のまとめ)「要旨」(筆者の主張)といった国語の「用語」の違いを明確にして習得し、活用すること。
たとえば形式段落に分ける「方法」を習得しその方法を活用すること。
たとえば、漢字の書き順を上から下、左から右の順に書くといった「原理原則」を習得することで、1字1字覚えずに例外だけを覚えるようにすること。

といった、「用語」「方法」「原理原則」を習得しそれを活用することが必要と主張されました。
これらは、メタな知識、他の場面でも活用できる再現性のある技術と言い換えてもいいかもしれません。これはどの教科でも大切にしてほしい観点です。得た知識や技術は他の場面で活用できてこそ意味があります。このことを意識せずに学習を続けた結果、勉強とは単に記憶することと思っている子どもがいることはとても残念なことです。

詩、文学作品、説明文それぞれについて授業の作り方を具体的に教えていただけました。

詩では、リズムを大切にしたい。リズムは音数(字数ではない)できまる。したがって、音数、字数という用語を押さえておくことが必要であること。また、五七調は重い、暗い、七五調は軽い、明るいといった原理原則を押さえておくこと。使われる技法を見つけて終わるのではなく、その技法はどんな効果があるのか、その効果をどう活かしているのかといったことを問うことが必要である。

文学作品や説明文では、全体をとらえて考えることを大切にする。そのためには、題名をそのまま使って問いをつくることが有効である。題名は、文学作品であれば「中心事物・登場人物」「山場」「主題」、説明文であれば「題材・話題」「事例」「主張・要旨」であることが多い。たとえば「タンポポの秘密」であれば、「タンポポの秘密」はどんなもの、いくつある、・・・。こうすることで、文の構成を意識でき、読む視点も明確になる。

文学作品は、中心人物の変容をとらえることが中心となる。中心人物が事件・出来事によってどう変容するか。事件・出来事と変容の因果関係を問うことを大切にする。低学年の内に、登場人物(人に限らず、意思を持って動いたり話をしたりするもの)、中心人物(物語を通じて変容していくもの)といった用語もしっかり押さえておく。

説明文は、問いと答えに注目し、用語を積み上げていくことで指導していくとよい。

低学年では、形式段落、主語、文といった用語をまず押さえておく。問いの文は「・・・でしょうか」、答えの文は「・・・です」と文末に注目することを指導する。問いの文はどの段落にあるか、段落は何文あるか、どの文が問いの文か、何について聞いているかと問うことで、文意識や主語意識を持たせることが大切である。

中学年では、意味段落、要点、要約といった用語指導し、これらを使って文章構成図をつくっていく。
問いと答えの間にある事例・実験・調査・観察に焦点を当て、何が・いくつ・何のため・結果はといったことを問い、筆者の言いたいことにつなげていく。

高学年では、中学年にプラスして要旨を問う。具体を読み取り抽象化することが要旨をまとめることになる。
また、文の構成の基本パターンを指導しておくことも大切になる。
結論が先頭にくる頭括型、結論が最後にくる尾括型、結論が最初と最後にある双括型があるが、双括型は、途中で最初の結論をまとめて、それに自分の本当に言いたいことを+αして結論とすることが多い。
この基本パターンは文全体だけでなく、形式段落の構成など部分にも当てはまる。文章を書く時にも応用ができる。

要点は、文章構成、意味段落、要約、要旨を理解するための手段である。要点は、いくつの文からなるかという文意識と大切な一文を抜き出し短くまとめることが必要となる。このとき、何についてという主語を意識することが大切となる。主語を文末にした体言止めの形で要点を書くことが、主語意識を持たせるのに有効である。同じ主語のグループをまとめれば意味段落になっていく。

私がすぐに思い出せることでも、これだけのことがあります。非常に論理的かつ具体的で、参加された誰もが納得させられるお話でした。まさに国語の授業の原理原則を教えていただけたと思います。とはいえ、これで教材を目の前にしてすぐに授業が作れるかと言えばそういうわけにはいきません。白石先生からいただいた視点を参考に何度も文章を読み、教材研究することが必要です。私も白石先生から学んだことを、時間をかけて消化していきたいと思います。とてもよい学びをできたことを感謝します。

給食での死亡事故に思う

先日小学5年生の女児が給食のチヂミをおかわりして、アナフィラキシーショックで亡くなるという痛ましい事件が起きました。たまたま私の知り合いにその学校の保護者がいて、学校から保護者への説明の内容をかいつまんで教えていただけました。感じたことを少し述べたいと思います。

報道では3時間後に死亡となっていますが、実際はお子さんが不調を訴えたのが13時24分、校長がエピペン(アナフィラキシーに対する緊急補助治療に使用される医薬品で、使用者は患者本人か患者が未成年の場合は説明済みの保護者であるが、必要に応じて救命士、保育士、教師も使用可能)を注射したのが13時35分、13時40分の救急車到着後すぐに心肺停止が確認されているので、あっという間のことだったようです。

マスコミの論調は担任がチェックを怠ったことが原因ということでしたが、実際には不幸な偶然が重なったようです。

「これおかわりして大丈夫な食べ物か?」と担任は女児に聞き、女児といっしょに「親の作った献立表」でアレルギー物質の含まれている食事か確認したそうです(このとき、栄養士の作った献立表の確認はしなかった)。
女児は「お母さんの作ったリストに、マーカーが引いてないから大丈夫」と言ったそうです。急変後に担任はエピペンを打とうとしたのに、女児自身が「違う、打たないで」と言ったとも。

だから母親の責任だというつもりはありません。そんなことを言われなくても、母親は自分を責め続けるでしょう。担任もあのとき栄養士の作った献立表を再度確認しておけば、女児の訴えを聞かずにエピペンを打っておればと悔やんでいるはずです。除去食の受け渡しの担当者は、チヂミにはチーズが入っていて、除去食はチーズを抜いてあることを説明しておけばと・・・。多くの関係者がそれぞれに苦しんでいることでしょう。そして、目の前で友だちが死んでいくのを見ることになった子どもたちの心の傷はどれほどでしょうか。誰が悪いとかいう問題ではなく、事故は多くの人を不幸にします。

たまたまが重なって事故は起こるものです。ミスを起こさないようにすることも大切ですが、ミスは起こるものだという前提で最悪の事態を回避できるような体制をつくることが大切です。ミスは起きない「だろう」ではなく、起きる「かもしれない」と考えなければなりません。
事故が起きるたびに責任の所在が追及されます。誰かを悪者にしなければ悲しみや怒りの行き場がなくなることもわかります。法的な問題もあるでしょう。しかし、責任ではなく原因を追究することにより多くのエネルギーを割いてほしいと思います。そして、このような悲しい事故が2度と起きないような対策を取ることを最優先することを願います。もちろん子どもたちの心のケアはそれ以上に大切ですが。

女児の冥福と、保護者、子どもたち、担任をはじめ関係者の方々の心の傷が一刻も早く癒えることを心からお祈りします。

試験後の学習を考える

冬休みが明けて課題試験を実施している中学校も多いと思います。子どもたちが休み期間中に学習をするための動機づけとしているように思います。しかし、試験が終わってその結果を見て、よくできた、ダメだった次は頑張ろうといった思いを持つだけで、その結果が学習に反映されていないように感じます。私は、試験が終わったあとこそ学習をすべき時だと思っています。

試験は評価のためにおこなうものでもあります。評価ですから、何が目標に到達できていないかがわかるはずです。目標が達成できていなければ、達成させなければならないはずです。ところがせいぜい試験の直しをさせるくらいで、本当に目標を達成させるまでは学習をさせることはなかなかできていません。授業は先に進んでいかなければいけないので授業中にやり直しをしている時間はありません。結局、子どもたちは試験が終わって結果に一喜一憂して終わってしまうのです。

試験の結果をもとに子どもたちが学習をし直すための仕掛けをつくる必要があると思います。
私は、絶対的な目標を設定して試験をおこないました。その目標に達しなければ再度類題で試験をおこないます。担任にも協力いただき全員が合格できるまで週に一度くらいの頻度で授業後に試験をおこない続けました。子どもたちには負担だったと思います。時には次の試験までに全員が合格しないこともありました。しかし、特に積み重ねの必要な教科では、基本となることが定着していなければいくらその次に頑張ろうとしてもできるようにはなりません。連続性のある単元であれば、この試験に合格しようと学習を続けたことが、今授業で学習していることの理解を助けてくれることもあります。先に進むことよりも立ち止まって定着させることのほうが大切なこともあるのです。同じことを単元でこれだけは絶対定着させなければいけない基本事項に絞って小テストでもおこなってきました。
全教科で同じことをすれば子どもたちの負担は大きくなりすぎますし、教科特性もありますからどの教科でも有効だとは思いません。しかし、学校全体で目標達成を意識して試験後に子どもたちにどう学習させるかを考えることは必要だと思います。

学校での試験は、入学試験のような子どもたちを選別するものではないはずです。試験をして単元の学習が完結するのではなく、試験から再度学習が始まるという発想も大切にしてほしいと思います。

今年のアドバイスの方針

管理職の方から年賀状でいただいたメッセージに、若手の育成に関するコメントが多く見られました。現場に共通する課題です。私にとっても大きな課題ですが、即効性のあるうまい方法がないというのが実情です。今年は再度原点に立ち返って、次のようなことをていねいにおこなっていきたいと考えています。

・目指す子どもの姿を共有する
研究指定校などでは、管理職や研究のリーダとは子どもの姿について共有をするように努めています。そこで共有できると、学校全体と共有できたような気がして、個々の先生としっかり確認しないままアドバイスをしてしまうことがあります。一人ひとりの見たい子どもの姿をできるだけ具体的かつ詳細に聞き、しっかりと共有することから始めることを徹底したいと思います。

・人間関係をつくることを意識してもらう
授業が成立する基本は内容以前に子どもとの人間関係です。子どもの言葉をうなずきながらしっかり聞く、子どもをポジティブに評価する、こういう姿勢の大切さや子どもの言葉を活かすことをしっかりと伝えたいと思います。教師がしゃべりすぎないように気をつけ、子どもの言葉をつなぐことで、友だちの話をしっかり聞く姿勢をつくることが、子ども同士の人間関係をつくることにつながっていきます。ここまで意識してもらうことを目指したいと思います。

・子どもを見ることを具体化する
子どもを見るということはどの先生も大切にしていますが、何を見るか・見ているかは実は一人ひとり大きく異なっています。一緒に授業を見ながら子どもの姿から何がわかるかを伝える。授業の具体的な場面での子どもの姿がどうであったかを伝えて、それはどういうことか一緒に考える。このような機会をたくさん設けて、子どもを見る視点を増やし、自分の授業での子どもの姿をより意識して見るようになってもらえるようにしたいと思います。

・教科書の内容・意図を読み取ることを意識してもらう
経験が少ない先生へのアドバイスは、教科内容以前の授業技術や子どもとのかかわり方で終わってしまうことが多くなります。しかし、もう一つの軸となる教科内容を後回しにしていると、子どもはとてもよい状態で授業を受けているのに学力がつかないということになってしまいます。教科書は授業で押さえるべきこと、子どもたちに考えさせたいことを意識してつくられています。表面的に理解するのではなく、なぜこのような例や素材を用いているのか、なぜこのような課題になっているのか、なぜあえてこのような表現をしているのかといった、教科書の記述や内容にこだわることが大切です。教科書の内容・意図を読み取ることを常に意識することで、自然に授業のポイントが押さえられるようになります。教科内容についてのアドバイスは、授業の具体的な場面で教科書の記述をもとに一緒に考えることで、教科書の内容・意図を読み取ることを意識してもらえるようにしたいと思います。

教師が育つためにはたくさんのことが必要です。今年もたくさんの方へアドバイスする機会をいただけそうですが、まずはこの4つのことを大切にしたいと思っています。

授業力をどうやって高めようとしたのか思い出す

学期末から冬休みに入り、学校で授業を観ることのない日が続いています。先生方も少し息をついているところだと思います。しかし、このような時期だからこそいろいろなグループや団体の研修もおこなわれていることと思います。自主的に学んでいる先生方には頭が下がります。

自分の教員時代を振り返ると、長期休業中は部活動ばかりでこういった研修にもあまり参加した記憶がありません。もっとも、当時は今ほど機会がなかったようにも思います。ただ私が不勉強で知らなかっただけかもしれませんが・・・。では、私自身どのようにして授業の力を高めようとしていたのでしょうか。先輩の授業をこっそりのぞいたり、授業を終わって職員室に戻るときに先輩の板書を盗みしたり、印刷室や教室で先輩のプリントを拾ったりと、基本は盗むという発想でした。その一方で先輩に負けたくないというライバル心も旺盛でした。恥ずかしい話ですが、自分が担当している学級の平均点を競うようなこともしていました。子どもたちの成績を上げるためにはどうすればよいのか、とにかく思いつくことは何でも挑戦してみました。そのやり方がよいかどうかは、試験の結果が教えてくれます。とても単純な考え方ですから、一定の法則が生まれてきます。簡単なことです、教師が頑張った量ではなく、子どもが頑張った量で成績は決まるのです。ここに、大きな落とし穴があるのにも気づかずに、演習量(課題や宿題も含む)をいかに増やすかにエネルギーを注いだ時期がありました。自分が担当している学級の成績がよいと自分の手柄のように思い満足していました。担当している学級で私の教科の成績が他の教科と比べて相対的によいと、他の教科の先生の教え方が悪いのではないかとさえ思うようになっていました。当たり前のことに気づくまでは。そうです、私が子どもたちの演習量を増やしたために、他の教科にまで手が回らなくなっていたのです。子どもの時間を奪い合っていただけなのです。

このことに気づいてから、演習量を確保するのなら、他の教科の時間を奪わない方法を考えようとしました。その答えの一つは、子どもがやる気を出せばトータルの学習時間が増えるということです。やらされているという気持ちでは、時間の奪い合いになります。もっと勉強したいという気持ちにさせることが大切なのです。とはいってもそれは簡単なことではありません。自分が頑張ってわかった、できるようになったという自己有用感を持たせることが大切です。そのためには、日頃の授業も課題もすべてに工夫が求められます。同じように授業をしているのにこの学級の子どもは出来が悪いと子どものせいにして終わってしまっていてはどうにもなりません。そこから出発して、どうすれば彼らがやる気をだし、力を伸ばす授業になるのかを考えることが本当に必要なことです。学級ごとに、もっと言えば一人ひとりの子どもにどう対応して授業をつくっていくのかが問われているのです。課題を全員添削して、どこでつまずくのか、何がわかっていないのかを把握する。担当している子どもたちの学級や部活動でのようすを担任や顧問に聞く。他の教科の成績も教えてもらう。そういう情報を参考にしながら授業を組み立てようとしました。授業がうまくいっているかどうかは、子どもたちが教えてくれます。子どもたちの表情、集中の度合い、家庭での学習量、試験の結果、・・・。謙虚に子どもたちの発信を受け止めることで、課題は見えてきます。昨年うまくいったから、昨日うまくいったからと安易に同じように進めるのではなく、子どもたちが発するものを精一杯受け止め、毎日子どもたちと新しい授業をつくっていく。そういう気持ちで臨みました。
とはいっても、研修にもろくに参加しないような私です。知らない授業技術もたくさんありました。そんな簡単によい授業ができるわけはありません。今振り返ってみれば、とても人様に誇れるような授業ではありませんでした。ただ、子どもたちが教えてくれる課題を解決しようと考えることで、多少なりとも授業を改善することはできたように思います。

授業力をつけるのに、研修はとても有効なものだと思います。しかし、課題を持たずに研修に参加しても、自分は勉強した、前向きなよい教師だという自己満足で終わってしまう危険性があります。目の前の子どもの課題に気づき、その課題を解決しようと考える。その延長上にあってこそ、研修は大いに意味を持つのではないか。昔の自分の姿を思い出しながら、こんなことを考えました。

地域の方と教師のかかわり方を考える

先日、私が学校評議員を務めている中学校のおやじの会の忘年会に呼んでいただけました。校長、元校長と同じように声をかけていただけることを大変うれしく思います。

おやじの会の方々と出会ってもう9年になります。皆さんの活動から地域と学校がどうかかわっていけばよいのかを日々学ばせていただいています。子どもたちのために多くの時間を割いている方々です。地域の子どもたちの成長を願っているからこそ、学校に対して温かい目と厳しい目を持っておられます。同じ子どもたちの姿を見ても教師とは異なったことを感じられます。その感じたことをまっすぐに伝えてくれる方々です。自分の子どもが学校にお世話になっている保護者は、なかなか本音のところを表に出すことができません。また、子どもが卒業してしまえば学校とはかかわりを持たなくなる方がほとんどです。自分の子どもが卒業しても地域として学校とかかわり続けることは、なかなかできることではありません。だからこそ、先生方には厳しい意見でもまずは受け止めてほしいのです。お二人の校長はその大切さをわかっておられるからこそ、こうして参加されるのです。

しかし、一般の先生方が地域の方の視点を受け入れることはそれほど簡単ではないようです。教師は教室では自分のやり方で動けます。自分の考え方と違うものを受け入れる風土があまりないのです。自分たちの価値観とずれることに対して、なかなか素直に受け止めることができません。そのため、子どもの引率の手伝いなど、自分たちがイニシアティブをとれる活動に地域が協力する形であればそれほど抵抗感がないのですが、同等の立場で協働するとなると抵抗感が増すのです。特に子どもと直接かかわることに対しては、自分たちがプロであるというプライドが邪魔をして、地域の方の子どもへのかかわり方を批判的に見てしまうのです。

教師は全員ができることを強く意識します。地域との行事で積極的に参加しない子ども、まじめに取り組まない子どもがいると、そのことがとても気になります。一部の子どもしか活躍しないものに対して否定的です。一方地域の方は、自分たちとかかわりあう子どもたちの成長に大きな喜びを感じます。たとえ数が少なくても、子どもの成長に役立てたということはとても素晴らしいことなのです。
同じ行事での子どもの姿を見ても、一方は子どもたちがきちんと参加できていないと否定的にとらえ、他方は子どもたちが頑張ったと肯定的にとらえることになります。そのため、互いの意見を受け入れがたく感じるのです。

地域の人とかかわることでしかできない子どもたちの成長があるはずです。たとえ全員でなくても、教師だけでは生み出せない新たな学び・成長をする子どもがいることを、教師が素直に認めることが必要だと思います。その上で、その数を増やすためにどうかかわるかが、教育のプロとして問われるのです。地域の方も、子どもたちがどのような成長をしてくれたのかを自分の言葉で伝え、成長の輪をどのようにして広げればよいのかを教師とともに考える姿勢を見せてほしいと思います。
互いの視点の違いを否定的とらえるのではなく、謙虚にその視点も取り入れることでよりよいものにしていく姿勢が大切なのです。

子どもたちの成長を心から喜び、その輪をどのように広げようか熱く語ってくれるおやじの会の方々です。この日も楽しくお話ししながら、地域と学校・教師のかかわり方についてたくさんのことを学ばせていただきました。このような方々と出会え、楽しい時間を過ごせる機会を得ている幸せを感じた日でした。

伸びる先生の条件(その2)

以前に伸びる先生の条件として、「素直」「謙虚」「向上心」が大切だと書きました。どうもそれとはすこし違う要素もありそうです。このことについて少し書きたいと思います。

人の話を素直に聞くのですが、その割には全く変わらない若い先生が増えてきたように感じます。話をメモし、内容をきちんとまとめてもくれます。次はどのように変わっているのか期待するのですが、ほとんど変化がありません。もちろん、指摘されたことをしっかり意識して取り組み、急速の成長を遂げる方もいます。一見して両者の違いが判らないのです。

どうも、前者の方は、

・指摘されたことが理解・納得できないが、取り敢えず聞いておく。
・そもそも、自分の授業に問題を感じていない。

ということではないかと想像しています。というのも、あとから思うと、伸びる方は私の指摘に対してより具体的な質問をしたり、自分の困っていることに関して相談をしてくれたりします。「そうか、そういうやり方があるのか」といった言葉が聞かれます。話の中から自分の課題の答を見つけようとしているのです。それに比べて、変わらない方は、黙って素直に話を聞いているのですが、反応が薄いように感じます。「向上心」がないのとは違うように思います。目指す授業の姿がはっきりしていないというか、授業はこんなものだと勝手に思っているような風があるのです。自分の授業に問題を感じていないのですから、これは変わるはずがありません。彼らがよい授業を受けてこなかったことが一つの原因かもしれません。そうであればよい授業を見せるのが一つの答えになります。私ができるだけたくさん授業を見せようとする理由の一つがこれです。あこがれるような名人に出会ったり、理想とする授業をイメージできるようになったりすれば変わるはずです。

とはいえ、私が魅力的に思える授業を見せても、これまた反応が薄い方もいます。こうなると実はお手上げです。目指す授業というものが根本的に違っているのかもしれません。悪い言い方ですが、授業で自分が必要と思うことを話せば責任は果たした。そう考えているようにも見えます。あまりしたくないことですが、彼らの授業がなぜいけないのかを厳しく話すことがあります。中には、口には出さないけれど、なぜそこまで言われなければならないのかと思っている方もいます。ほかの先生だって似たようなものだと思っている節もあります。見る目がまだないので、子どものようすや授業の違いもよくわかっていないのです。
厳しく言うことも、嫌われても困らない外部の人間である私の仕事だと思っています。しかし、効果がなければ何の意味もありません。内部の方のフォローがあって、初めて効果も期待できます。フォローを信じているかこそできることです。

どういう教師を目指すか、何も求めて教師になったのか。原点というべきものがしっかりしていなければ、何も始まりません。ここがしっかりしていれば、必ず成長していきます。逆にここを育てることが一番難しいことなのかもしれません。彼らを囲む先生方が、それぞれの目指す教師像や授業像を伝え続けるしか方法はないようにも思います。私自身、まだまだ手探りの状態が続いています。

研究発表会で学校の変化から学ぶ

昨日は、小学校の研究発表に参加しました。1年ぶりの訪問です。
まず驚いたのは、子どもたちの雰囲気が大きく変わっていました。落ち着いていて、笑顔もたくさん見ることができました。教室が子どもたちにとって安心できる場所になっています。先生方が目指す授業規律も徹底されてきています。簡単なことのようですが、学校全体となるとそれほど簡単なことではありません。先生方が互いに学び合った時間の積み重ねを感じます。以前は多かった、否定的な言葉や「正解」といった言葉が聞かれません。そのかわり、「なるほど」といった受容的な言葉が増えています。このあたりにも雰囲気がよくなった秘密がありそうです。こういう基本ができてくると、課題もたくさん見えてきます。ここで満足せずに次の課題を意識しないとせっかくの取り組みが活かされません。幸い、ここで研究を終わらずに来年度以降も継続されるようなので、今後の変化がますます楽しみになってきます。私の目に映った課題を少し挙げておきたいと思います。

授業規律は、顔を上げて教師の話を聞く、作業が終わったら静かに待つ、音読では教科書はきちんと立てて持つ、ノートは決められた形式で書くなど、形はかなりできています。授業者によってまだ差はありますが、発表の時に友だちの方を向いている学級もかなりあります。しかし、残念ながらまだ形だけなのです。友だちの方を向いていても、ちゃんと聞けていない子が目立ちます。形ができていることで先生が満足しているからです。指示もよく通るようになっていますが、確認が弱いように感じます。聞いているか、理解しているかを問わないからです。
子どもは教師が求める姿にしかなりません。形から中身へと、先生方の意識を変えることが必要になります。

習得では、フラッシュカードなどを使って全員で大きな声を出させる場面が多いようです。先生は声の大きさで子どもたちの取り組みを評価しています。自信と声の大きさはある程度比例するからです。しかし、注意して見るとテンションを上げて学級を引っぱっている子どもの陰で、口がしっかり開いていない子どももいます。まだ、スクリーンに目がいっている先生もいます。子どもを見ている先生でも、子どもの何を見るかが明確になっていないようです。子どもの状態でリズムを変えたり、一人ひとり指名して確認したりといったことはできていませんでした。子どもを一人ひとり見ることは大きな課題になってくると思います。
また、全員で練習することが多いのですが、活動によってその目標を明確にする必要があります。問題を全員で音読する。国語の教科書を音読する。子どもたちは大きな声を出すことを目標としているのですが、場面によってはもっと大切な目標があるはずです。残念ながら子どもたちのようすからは、それが何かは明確なっていないようでした。一つひとつの活動の意味を問い直すことも課題です。

基本となる知識を早く教えて、定着させて活用する。この方針で取り組んでいます。この考え方は決して間違いではありません。特に算数では問題が解けるという結果に直結させやすいので有効に見えます。そのせいか、公開授業も算数が多いように感じました。しかし、ここでは解き方などの結果だけでなく、考え方も教師が教えています。考え方は教師が説明し、話形で説明練習しただけでは身に着くものではありません。話形で言えれば考え方がわかっているわけではないからです。そのための活動が必要です。残念ながらそれが何かはまだ先生方は意識できていません。板書も結論や結果が中心で、そこに至る過程が残ってはいませんでした。
考え方にも基礎・基本があります。まだまだ結果の定着が中心で、考え方、考える課程を定着させることはこれからの課題でしょう。そのためには、教科の内容をしっかり理解することが必要です。教科書を大切にして取り組んでいますが、教材研究の必要性はますます高くなっています。

活用場面で顕著なのは、習得や定着の場面と違って子どもの挙手が少ないことです。このこと自体は決して悪いことではありませんが、問題はそこですぐに指名して進めてしまうことです。教師は指名した子どもを受け止めることはできていますが、他の子どもが理解したかはきちんと確認できていません。全体に問いかけることはしても、個に確かめることはしていないからです。わかった子ども中心の授業となっています。そして、子どもの発言を受け止めたあとは、知識を教えるときと同じく、ここでも教師が説明を始めてしまいます。このことは、復習の場面でも起こっています。復習ですから、子どもが説明できるはずです。なのに、結果を子どもに言わせたあと、最初に教えたときと同じように教師がまた説明を始めるのです。
しゃべらなくてもよい時にもしゃべりすぎてしまい、結果として子どもの活躍の場を教師が奪ってしまっていることも課題です。

子どもがノートを実物投影機で発表する場面もあるのですが、まだまだ発表の形だけで、本当に伝わったかどうかは確認されていません。教師も発表者に注意がいって、他の子どもたちが理解しているかに意識があまり向いていません。自分の考えではなく友だちの考えを発表するような、「つなぐ」ということが、この学校が次の段階へ進むための大きな壁になるかもしれません。

まだまだ、課題はたくさんあります。わずか1時間の公開授業でたくさんのことが見えてきます。これはこの学校がダメだということではありません。むしろ、素晴らしい進歩をしているということなのです。一度にすべてがよくなるわけではありません。いつも述べているように、できたことがたくさんあるからこそ、できていないことがたくさん見えてくるのです。

こうなると、わずか1年半でこの学校をこのように進歩させた講師の講演が楽しみです。全部で9回訪問されたということです。学校を変えるのにこの回数を多いと思うか少ないと思うかは人それぞれでしょう。私はこの回数で変わったことはすごいことだと思います。その秘密の一端が講演から伝わってきました。

講演は、この学校の実践を通して参加者に伝えられることを実にコンパクトにまとめていました。その見せ方には何か法則がありそうです。
全員がどの教室でもできていることは、そのことを指摘しそのよさを語ります。つぎに、一部の教師しかできていないことは、一部であることにはあまり触れずに、その場面を映像で示し、具体的かつ丁寧に説明されます。講師が教えるという形でなく、仲間のよさという形で伝えます(裏ではその教師を個別に指導していたのかもしれませんが?)。できていない教師にとっては、「おまえはダメだ」と指摘されるとネガティブな気持ちになりますが、このやり方であれば「こうすればいのか」「私もまねしよう」とポジティブになります。こうして、この学校のよいところだけを伝えます。しかし、「課題も明確にして指摘しなければ進歩しないだろう」「こんなレベルで満足していいの」「講師は課題がわかっていないんじゃないの」、そんな風に思われる方もいるかもしれません。そんなことはありません。この学校の課題は、とてもよく理解されています。意識して聞くと、一部の方ができていることを強調することで、その裏にある「できていないこと」が実に見事に浮き上がってきます。講演を聞きながら、私も再度この学校の課題を整理することができました。講師の話したことではなく、話さなかったことがたくさんメモできました。こういうことは非常に稀です。高次元の伝え方を知らされました。
もちろん、表面だけ聞いていれば課題は見えてきません。しかし、そこはぬかりありません。今までどのようなことを指導したという話の中で、さりげなく課題を再度明確に伝えます。できていないことを「課題」と言わずに「指導したこと」と一般論としてさらりと言うところがさすがです。たくさんの指導の中で、活用場面の練り上げを取り上げたところも見事です。そこには、私が気づいたような課題がコンパクトに凝縮されていました。そして、より高みを目指してほしいという気持ちを、他校の例を示すことで伝えました。
上から目線で指導するのではなく、先生方ができたという実感を持ちやすい「形」から入り、できたこと共有化し、根気よく自信を持たせながらここまで来たのだとよくわかります。私も学ばなければいけないことがたくさんありました。いつお会いしても、たくさんのことを学ばせていただけます。感謝です。

この学校がここまで来たのは、外部の指導者や先生方の頑張りだけではありません。管理職の方もここに至るまで意識を変革し、日々先生方の頑張りを支えるように動かれたことと思います。この地区はいくつかの事情もあり、今まで授業研究や研究発表といったことがあまり盛んでありませんでした。その雰囲気を変え、市全体の底上げをしようと教育長、指導主事を始め多くの方が陰になり日向になり研究を支えてこられました。この学校全体でできたことを今度は市全体に広げるのが次のステップです。困難はあるかもしれませんが、きっとよい方向に変わっていくと思います。
もちろん、この学校はこれからも市全体のよいモデルとして進歩してくれることと思います。こまでは比較的早く結果が出せる取り組みが多かったのですが、これからはそうはいきません。今まで以上に地道な努力が求められます。あせらずに、一歩ずつ進み続けてほしいと思います。多くのことを学び、元気をいただいた発表会でした。

青山新吾先生から学ぶ

本年度第5回の教師力アップセミナーは、ノートルダム清心女子大学の青山新吾先生の講演でした。特別支援教育に現場の教師としてかかわってこられたのち、大学に移られた方です。

特別支援教育に関してチームワークという言葉がよく言われます。実際にそのありようはどうあるべきか、具体的な事例をもとに考える材料を与えてくださいました。

直接指導する担任の思い、それを実現させるために他の教師がどう支えるか。たとえ、子どもが飛び出すことがわかっていても、叱るべきときは叱らねばならない。叱らなければ、まわりの子どもが嫌になる。それは、飛び出した子どもをフォローしてくれる教師がいることを信じられるからできること。特別な子もそこまでやれば叱られる、その事実が他の子どもの安心感につながり、だからこそ、その子にやさしくなれる。

チームワークとはどうあるべきか、考えるきっかけをいただきました。

支援を要する子どもが落ち着いてくると、それで安心してしまうこともよくあります。そうではなく、その子どもの将来を見据えて、どうあればよいかというゴールを考えることが大切になります。このお話は、荒れた学校が落ち着いたときとよく似ています。そこからどこへ向かうのか、次に何をするのかが大切になるのです。
学級経営でも同じです。「この子にこうなってほしい」「こんな学級にしていきたい」。そういう目指すゴールを持つことが必要です。一気にゴールに到達するのは難しいことです。だからこそ、できるようになるといいね、ここまでできたねとゴールまでのステップを意識しフォローしていくことが大切になります。
特別支援も通常の学級経営も大きな違いはありません。特別支援の考え方を通常の学級経営に活かすと言われます。逆に、通常の学級経営で大切なことが特別支援教育でも大切になるといってもよいと思います。学級経営がしっかりできる教師は支援を要する子どもがいてもうまく対応できることがその証拠でしょう。
基本となることは、まずコミュニケーションをしっかりとることです。子どもたちに「あなたはここにいていいんだよ」と居場所を持たせる。「みんな、あなたのことを大切に思っているよ」と自分が見捨てられていないことを伝える。こういうことが大切になります。
その上で、一人ひとりのゴールを意識し、できたことをほめ、次のステップに向かう意欲を高めることが大切になります。できた、できなかったというデジタルではなく、できるようになる途中であると認識し、そこで必要な言葉、メッセージをどう与えるかを考えることが大切なのです。

また、支援を要する子どもとのコミュニケーションで心理的距離を意識してうまくいった例もお聞きすることができました。直接話すと反発する子に、誰に言うともなくつぶやくことで聞かせる。心理的距離を少し調整することで、子どもの姿勢が変わることもあると教えていただけました。

特別支援に関しては、多くの方がピンポイントの「正解」を求めます。青山先生はやさしい口調で、この事例はたまたまであることを伝え、いかかでしょうかと私たちに考えることを促します。どんな子にも通用する魔法のような方法はありません。個の抱えている問題やその背景は異なっています。一人ひとりと向き合って、手探りで対応を見つけていくしかないことがたくさんあるのです。
その子に応じた対応が必要だから「特別」支援教育なのです。そうやさしく諌められているようにも感じました。

豊富な具体例をもとにしたお話と特別支援教育への青山先生の思いを感じることで、特別支援だけでなく子どもたちを育てるということはどういうことなのか、じっくり考えるきっかけをいただきました。ただ、知識や経験を伝えるのではなく、一緒に考えていきましょうという青山先生の講演姿勢も素晴らしいものでした。多くの学びと考えるきっかけをいただけた素敵な講演でした。ありがとうございました。

子ども主体のフェスティバル

昨日は、私が関わっている中学校で行われた地域ふれあい学びフェスティバルを見学してきました。このフェスティバルを見学するのも今年で9年目です。そのあり方は色々と変化してきましたが、現在は地域の方のバックアップのもと、子どもたちがイベントや模擬店を運営し地域の方に楽しんでもらう場となっています。

今年は、会場に入ってすぐに雰囲気の変化に気づきました。目立つ人が減っているのです。中心となって動く地域の支援者、PTAの方、先生方、そして頑張っている子どもたち、彼らの姿が見えないのです。だからといって、活気がないわけではありません。表に大人が出ていない分、活動している子どもの姿はいつもに増して多いのです。目にする生徒たちは、何かしらの役割を果たしています。昨年とは漂っている空気が違います(イベントの目指すべき姿参照)。一部の子どもが頑張っているのではなく、どの子も自分のこととして参加しているのです。
子どもたちが、地域の方に喜んでもらう、そのために自分のできることをする。参加された地域の方、特に小学生と接している生徒たちの姿にその意識を感じました。

いつもは忙しくブースの運営をしていた方々と初めてゆっくりとお話をうかがう機会を持てました。
今年は、子どもたちが中心となって運営をすることを大切にされたようです。総合的な学習の時間に地域の方と一緒に活動する経験もしている子どもたちです。今度は、「自分たちが主体となって地域に何ができるか」を考える場としてこのフェスティバルを位置づけたのです。そのために、大人の手がどうしてもたくさん必要なブースは廃止にしたようです。とはいえ、子どもたちだけですべてを運営はできません。地域の支援者が裏方に徹し、下支えをしているのです。子どもたちが自分たちで運営するということは、失敗したりトラブルが起きたりする可能性が高くなります。それを恐れるのではなく、失敗も含めて子どもたちによい経験をさせようというのです。

おもしろいエピソードを聞くことができました。喫茶室ではとても安い値段でコーヒーやホットケーキが提供されています。しかし、最初提案された値段はもっと高かったようです。仕入れ値から計算するとこのくらいになるという説明だったようです。しかし、喫茶室をひらく目的は、お金儲けではありません。少しでも多くの方にくつろいでもらうことが目的です。そのために、どんな努力や工夫をしたのか。仕入れ先を色々探してみたり、つくり方を工夫したりしたのか。そう子どもたちに問いかけたそうです。子どもたちがそれに応えてこの値段になったそうです。
大人の役目は、物理的に助けることだけではありません。子どもたちに考える視点を与え、時には厳しい課題を課すことで鍛え育てるのです。日ごろの授業だけでは学べないことをこのような場を借りて学ばせるのです。
この地区では地域と学校が一体となって子どもを育てていることを強く感じました。

目立たないところで動いている大人と黙々と働いている子どもたちの姿が印象的でした。最後まで見ることはできませんでしたが、終わった時には子どもたちの表情はきっと達成感、充実感で満たされていたことと思います。その子どもたちの姿が、大人たちの笑顔につながったことでしょう。

生徒全員参加の形になって4年目、いよいよ子どもたちが主体となって運営するフェスティバルとなってきたようです。こうなると今から来年が楽しみです。多くの子どもたちが主体的に参加するようになった半面、一人ひとりの絶対的なエネルギーはまだまだ高まる余力を感じました。きっと来年は、どの子も今年以上の力を発揮してくれることと思います。

授業アドバイスが活かされる学校

多くの学校で授業アドバイスをしていて感じるのが、アドバイスがすぐに活かされる学校となかなか変化しない学校があるということです。個別アドバイスであれば基本的に個人の資質の問題のはずなのですが、それでも学校としての差を感じるのです。

効果のでる学校は、教務主任や研修担当者が積極的に先生方とかかわっています。授業研究のときであれば、授業構想や指導案の検討など、授業づくりに関して最初の段階から相談に乗っています。事前の検証授業なども必ず参観してアドバイスをしています。また、同じ教科や学年でバックアップする体制をつくったり、研究授業を教科や学年の提案としてチームでおこなったりするように働きかけています。
全体研修ではなく個人への授業アドバイスのときでも、アドバイスの場面に立ち会うことや、その後の授業の変化を見てよくなった点をほめるといったフォローを欠かしません。また、個人の授業へのアドバイスだからといって一人にせずに、教科や学年全員で聞くように仕向けたりします。ペア、グループ、チームといった小集団でのかかわりを大切にしているということです。
授業を変えるということは、新しいことに挑戦するということです。それには勇気がいります。一人ではなかなか変える勇気は持てません。大丈夫と励ましてくれる人、一緒に挑戦してくれる人、そういう人がまわりにいなければなかなか一歩は踏み出せません。また、挑戦してもそのことを評価してくれる人がいなければ、続くものではありません。
授業で困っている先生には寄り添う人が必要です。先生同士が互いに支え合う関係が大切です。ですから、うまくいく学校は同時に複数の先生方の力量が向上します。互いによい影響を与え合っているからです。

こういう、うまくいっている学校は「雰囲気」がよいと評されることが多いようです。「雰囲気」という言葉は自然発生的な感じがします。しかし、そうではないのです。「雰囲気」は、それをつくりだすムードメーカーが必ずいるのです。うまくいっている学校は、教務主任や研修担当者が意図的にムードメーカーとして先生方に働きかけているのです。こういう動きを大切にしてほしいと思います。

うれしい報告

先日中学校で、学校訪問で代表授業をする3人の授業アドバイスをしました。その学校の教務主任から、授業者の感想と学校訪問での授業の報告が学校訪問の記録とともに送られてきました。アドバイスをした側としては、どのように受け取られたのか、彼らの授業にどのような変化があったかは知りたいところです。とてもうれしいことです。とはいえ、アドバイスを受けた側からすれば、手間もかかることですし、私の方からお願いできるようなことではありません。また、たとえ教務主任だからといっても、このようなことを先生方にお願いすることはそれほど簡単なことでないはずです。日ごろから、彼らに授業改善のアドバイスをしている、そしてそのことを彼らが肯定的にとらえている。教務主任が言うことは、自分たちにとってプラスになる。そう思うからこそ従ってくれるのです。

そのことは、3人の報告からも見てとれます。

その後何を意識して授業に臨んだかを報告してくれた教師は、

・子どもの様子をよく観察する
教室の斜め前から、子どもたちを見るとようすがよくわかります。今の時間が全員に有効なのかそうでないのか、理解できていない子がどれくらいいるのかなど、子どもの様子から知ることができます。まだうまく対応ができませんが、子どもが思った姿にならないときに、自分の言動を振り返ってみようと思います。

・しゃべりすぎない
どうしても、頭の中にある授業構成にそって子どもたちを動かそうとしてしまい、その結果、発言や発表の内容も知らず知らずのうちにこちらが誘導してしまいます。今は、過剰な説明はしないように心がけ、子どもたちに判断するように問いかけようとしていますが、反応がいまいちで、確認の仕方や意見の求め方にまだまだ戸惑いがあります。しかし、受け身の授業ではなく、全員が参加する(考える)授業をつくっていくためには、このことがとても重要であると感じています。いつか、「正誤の判断は子ども」ができる授業したいと思っています。

・評価を適切に
「ほめ言葉が少ない」と言われ授業を振り返ってみると、確かにほめていませんでした。一方的な授業をしていると、子どもをほめる場面が生まれません。まず、子どもが活躍できる場面を増やし、どんどんほめていきたいと思いました。また、何をどう頑張ればいいのかわかるようなほめ方を心がけることも気をつけたいことです。ほめ言葉のバリエーションを増やし、ほめられることを見つけるセンサーを磨き、これからもたくさん子ども達をほめていきたいと思いました。

このようなことを書いてくれました。前向きであることがよくわかります。

また、別の教師は学校訪問の授業を詳しく振り返り、子どもがとてもおもしろい考えを発表してくれた場面について、こんな言葉を残してくれました。

私もあせってしまい「すごい発見だね」という声がけしかできませんでした。生徒の言葉でつなぐことの難しさ、すぐにできることではないので、生徒の言葉をつないで生かせられるような授業作りをたくさんしていこうと思います。

ここにも、自分の授業を素直に振り返り、前向きに取り組もうとしている教師の姿があります。

もう1人の授業者も、授業検討会での同僚の意見を素直に受け止め、

自分では肩に力が入りすぎていたなと反省しました。どうしても「本時のねらい」を達成しなくてはという思いが強すぎました。しかし、よい勉強になりました。

と書いています。

彼らの資質はもちろんですが、教務主任始め、管理職や同僚の方がこういう前向きな気持ちになるようなかかわりをしているということです。この学校がよい方向に向かっている原動力がわかったように思います。この報告を受けて、私自身もとても前向きな気持ちになりました。ありがとうございました。

若い教師と一緒に授業を見ることにこだわる理由

ここ数年、初任者や若手の授業アドバイスを頼まれることが増えてきています。アドバイスを頼まれたときに、彼らの授業を見せてもらう前に、一緒に他の先生の授業を見る機会をできるだけ持てるようにお願いしています。なぜこのことにこだわるのか、その理由を少し述べたいと思います。

経験の浅い教師の授業アドバイスをしていて、彼らが授業の場面を再現できないことに気づきました。「この場面で子どもがこういったよね。そのとき、あなたはどういったか覚えている?」「あなたの発問に対して、○○さんが反応したんだけどどんな反応だった?」と問いかけても、かなりの確率で覚えていないのです。そういう場面があったことはなんとなく覚えているのですが、子どもがどういう状況であったか、それに対して自分が何を言ったか、子どもがどういう反応をしたか再現できないのです。力のある教師だとどの場面を聞いても、そのときの状況から自分の発言・対応の意図まで完璧に再現できます。アドバイスをする立場から言えばこの差はとてつもなく大きいのです。
「この場面では、・・・だから・・・こう対応すべき」と説明しても、自分の中で場面を明確に再現できなければ実感を伴いません。また、場面認識と対応は連動します。「子どもが混乱した」「子どもの集中力が切れた」場面だったからこうすべきだと対応をいくら教えても、実際にそのことを認識できないのであれば活かすことはできません。せっかく授業を見て具体的な場面でアドバイスをしようとしても、これでは本を読むことと変わらないのです。

そこで、一緒に授業を見ることにしたのです。具体的には子どもたちのようすを見て、今、子どもに何が起こっているのか考えさせたり、解説したりするのです。

「今、子どもたちは集中している?」
「集中していない子どもはいる?」
「あの子はわからなくて手遊びしているんだろうか、それともできてしまったからだろうか?」
「今、あの子が笑顔になったけど、どうしてだと思う?」
「あの子は顔が上がらないけど、いつ上がると思う?」
・・・

子どもたちの見せる姿から、実に多くの情報が入ってくることに気づかせます。こうすることで、自分の授業ではどうなのか気になりだすのです。よく「子どもを見なさい」とアドバイスしますが、具体的に何をどう見るかを伝えないと、漫然と眺めているだけなのです。(子どもの「何」を見る参照)
少なくとも一度この経験をした後であれば、子どもがどういう状況かを以前よりは確実に意識することができます。自分の授業を振り返ったときにその状況を再現できなくても、こういう状況だったと伝えれば、授業を見た経験から「ああ、ああいう場面だったんだな」とある程度具体的に想像ができるのです。互いに共通の場面認識ができるので、アドバイスが理解されやすくなります。また、子どもたちのようすが気になりだせば、よい場面に出合えば再現できるように意識しますし、気になる場面があれば修正しようとするようになります。毎日の授業の中で自然に工夫をするようになります。

若い教師はいい授業を見たことがない、あこがれる教師、目標とする教師を持っていないと言われます。たしかにこれはとても大切な視点ですが、よい授業を見たり、憧れるような教師に出会ったりする機会をつくることは現実的になかなか難しいことでもあります。しかし、授業中の子どもたちのようすを客観的に見る機会はいくらでもつくることができます。意識することで、毎日接する子どもたちから多くのことを学べます。優れた教師から学ぶ以外にも、目の前の子どもから学ぶという方法もあるのです。一緒に授業を見るというのはそのことに気づいてもらうきっかけでもあるのです。若い教師と一緒に授業を見ることに私がこだわるのは、このような理由があるからなのです。

「鍛える」と「学び合い」

「鍛える」という言葉を聞いて思い浮かぶのが野口芳宏先生です。「教師の読み以上の授業はできない」という言葉からもわかるように、鍛える側の教師にも学ぶ姿勢を厳しく求められる方です。「学び合い」の対極にあるように評されることもあります。子ども同士で学び合う授業では、子どもの言葉をつないで考えを深めていくことが教師の大きな仕事になります。「鍛える」と縁遠いように思われています。最近ある中学校がこの「鍛える」と「学び合い」をつないで「鍛える学び合う学び」を提唱しました。「鍛える」、「学び合い」をそれぞれ意識している方、双方ともに違和感を感じるかもしれません。しかし、以前から私は両者が互いに対極にあるとは思っていませんでした。むしろ互いに必要とされる要素は変わらないと思ってきました。この学校の思いとは異なるものかもしれませんが、私の考えを少し述べたいと思います。

「鍛える」というのは教師が一方的に教え込むことではありません。大切なのは、子どもに考えさせ、向上的な変容をはかることです。しかし、教師が課題を提示して「考えろ」で子どもが考えるわけではありません。子どもの意見を重ねていけば、考えが「深まる」わけではありません。野口先生の言葉を借りれば、子どもが考えるための教材の準備、課題の提示といった「計画の論理」、子どもの反応、意見、考えに対してどう対応するかという「状況の論理」が必要になります。

一方「学び合い」でも、ことは同じです。子どもがたちが学ぶための課題がいい加減なものであれば、一生懸命話し合っても何も身につきません。互いに聞き合う姿勢が身についていても(これだって、教師がしっかり指導し、鍛えなければ身につきません)、学びは少ないのです。「・・・について」という課題だけで子どもがしっかりと学ぶ授業に出会ったこともあります。しかし、それまでに色々な場面で「・・・について」考え、学ぶためにはどうすればよいか、どのようなことが大切なのか、教師が直接指導や活動の評価をしたり、子ども同士で互いに評価し合ったりすることで鍛えているからこそ、抽象的な課題でも子どもたちは学び合えるのです。
「学び合い」を意識した授業をたくさん見ていますが、子ども同士の関係がよく、互いに聞き合うことができていても、教師の教材研究不足で課題がいい加減だったり、何を学ぶのかがはっきりしなかったりで、野口先生のおっしゃる「活動あって学びなし」という状態であることが多いのです。子どもが「学ぶ」ためには教師の提示する課題はとても重要です。しかし、「学び合い」では、まず子どもたちの人間関係をつくり、「学ぶ姿勢」「学び方」を身につけさせることが基本となります。その基本ができたところで止まってしまっていることが多いのです。その次の段階である、子どもたちにより質の高い「学び」を求めることは、「鍛える」ということとつながるのです。子どもたちが学ぶための状況のつくり方、ステップが違うだけなのです。
「一人残らず」学びに参加することを学び合いでは大切にしますが、野口先生も、「○か×か?」自分の立場をはっきりさせるために全員に書かせる、小刻みにノートに書かせるといったことで全員が学習に主体的に参加させることをとても大切にされています。子どもが学ぶ主体であることには変わりありません。
「学び合い」では、子どもの考えをどう受け止め、他の子どもにどうつなぐか、返すかといったことが大切になります。たとえ子ども同士で考えを深めるのであっても、教師の働きかけは絶対必要なのです(これを否定する学び合いを提唱される方がいますが、それについてはまた別の機会に)。たとえ子ども同士の「学び合い」であっても、授業を成立させるための重要な要素が教師であることは間違いないのです。野口先生の「状況の論理」と大きな違いを感じません。せいぜい、教師が強く迫ることをするのか、できるだけ子ども自身が聞き合うようにするかの程度の差だと思います(この違いが大きいと言われればそうかもしれませんが、教師の判断力がとても大切であることは認めていただけると思います)。「鍛える」であろうが「学び合い」であろうが教科力、教材把握力といった教師の力量が大切であることは変わりないのです。教師も鍛えられなければならないのです。

「学び合い」は比較的経験の浅い教師でも、適切な課題を準備できればそれなりの授業になっていきます。ある意味形だからです。ある程度のつなぎができれば、子どもたちで考えを深めていくこともできます。しかし、子どもたちが大きく飛躍するような課題をつくりだす、子どもたちの気づきや学びを大きくジャンプさせるためには高い教科力が求められます。ここからは、本当に長く地道な積み重ねが必要なのです。

学び合いを進めたある教育長の言葉が思い出されます。

子ども同士の関係がよく、互いに聞き合う、落ち着いた教室をつくることがゴールではない。最低保障だ。ここまでは、名人でなくてもできる。

だれしも野口先生のような名人になれるわけではありません。しかし、目指すことはできます。そのゴールは、子どもたちに「学ぶ力」をつけることと、その結果である「学力」をつけることができる教師となることです。そのために何が必要かを「鍛える」と「学び合い」の2つの言葉が教えてくれるように思います。

会議に参加して考える

先日は授業力アップの研修会についての会議に参加しました。10年続いた研修会の次の10年の方向性とそれをもとにした研修の進め方についてです。

参加者はスタッフとして研修会を支えてこられた方です。10年の流れの中で初期のメンバーは立場が変わり、スタッフとして仕事をすることがなかなか難しくなってきました。そこを支えてくれたのがこの日多くを占めていた若手・中堅の方々でした。まだ確固とした自信が持てない中で、一生懸命に参加者へのアドバイスやコメントもしてくれました。彼ら自身が学びたい、進歩したいという強い思いを持っていますが、そこをこらえてスタッフとして会を下支えしてくれています。しかし、インプットよりアウトプットの方が多くては精神的に続きません。次の10年は、かかわる人みんなが学べることを大切にした、学習会の要素が強いものに変えていくことが提案されました。この方向性はとてもよいものだと思います。学びたい思いの強い方が集まっていますので、皆さんに受け入れらるものでした。

続いて来年早々におこなう会の内容について提案がされました。提案以外にも、進め方については色々な方法が考えられます。なぜこの進め方なのか、参加者に提案者の意図がなかなか伝わりません。そこで、「目的は何か」、「そのために参加者がどうなることが必要か」、「そのための手立ては何か」、こういったことを提案者に聞き返しました。「参加者が再レベルアップする」という目的に対して、「参加者の今までの授業・授業観をこわす」ことが必要という説明がされました。「こわす」という象徴的な言葉だったため、そのための具体的な手立てについては厳しく迫るイメージで議論が進んでいってしまいました。模擬授業を先にすることで「こわす」か、先に指導案の検討をすることで「こわすか」という選択になったところで、次のような意見が出されました。

「事前に指導案の検討をして授業についての考えを深めてからの方が模擬授業の質があがり、それに対して指摘し合う方がよりよい学びができる」

「こわす」ための手段として何が有効かという視点ではなく、より効果がある進め方という視点での意見です。事前に他者の考えを聞いて自分の考えを修正してからおこなった方がよりよいところから出発ができるし、失敗も少なく指摘も受け入れやすいというやさしい考えです。この意見に会場全体が救われました。実は提案者の思いもこれに近いものでした。ところが「こわす」という言葉にこだわって話を進めたため、それ以外の視点が議論から失くなってしまっていたのです。「こわす」という、わかりやすいが参加者に厳しい視点から、もっと早くに離れることが必要だったということです。

考えを明確にし議論を円滑に進めるためには、端的な言葉で表現し焦点化することは大切ですが、少し離れた視点で議論全体を見る必要もあります。焦点化と拡散のバランスが大切なのです。授業でもいえることです。このことに気づかせてくれた意見でした。とても勉強になりました。ありがとうございました。

最後の素敵な意見を取り入れることで、2日間の学習会はきっと和やかで学びの多いものになることと思います。楽しみな会がまた一つ増えました。

野口芳宏先生から学ぶ

本年度第4回の教師力アップセミナーは、野口芳宏先生の講演でした。11年連続のご登壇です。一本筋の通ったぶれないお話の中に、毎年新しい気づき、学びがあります。

午前の講演は具体的な教材をもとに、教材内容と教科内容、子どもの向上的変容、学力形成の判定などについてお話しされました。聴衆に若い先生が増えたことをお伝えしたせいでしょうか、いつも以上にわかりやすい例をもとにお話しいただけました。

国語の授業では教材文を通じてどんな国語の力をつけるのかが問われますが、そのことを算数の足し算の例をもとに、教材内容、教科内容という言葉を使って説明されました。野口先生は短い言葉(用語)で端的に表すことで、考え方や概念をとてもすっきりと明確にされます。算数・数学で、用語を定義し概念を明確にしていくことと同じです。国語の授業は算数・数学と同様に論理的でなければいけないという私の思いを見事に具現化していただけるのが野口先生です。

学力形成の判定を次のように整理されました。

1 入手・獲得
2 訂正・修正
3 深化・統合
4 上達・進歩
5 反復・定着
6 活用・応用

教師がこの言葉を意識し、授業の各場面を評価することで、間違いなく子どもたちに力がつくと思います。

かな表記を漢字に変え読字力をつける。「姿を変える」を「変身」と言い換えることにより抽象度を高め、思考力のもととなる語彙を増やす。ともすれば、できるだけやさしく言い換えよう、わかりやすく説明しようとしがちな私たちに対して、学力形成のためにはチャンスを活かして子どもを鍛えるという姿勢とその具体的な方法にはとても説得力があります。子どもたちを「鍛える」者としての教師のありようを常に具体的に示していただけます。

午後の最初は、2年目の教師の道徳の授業ビデオをもとに会場の方と学び合おうというものでした。授業のハイライトシーンを視聴後まわりと話し合っていただき、その意見を全体で共有しました。指名された方はどなたも授業をポジティブに評価され、その上で自分なりの考えや改善案を具体的に話されました。参加者のレベルの高さがうかがえます。
最後に野口先生にコメントをいただきました。まず、ビデオで省略されていた最後の説話を聞かせてくれというリクエストです。授業者の学生時代の体験の話でした。そのあと、参加者に授業ビデオと今の説話のどちらがよかったかを問いました。圧倒的に説話です。それを受けて、授業ビデオの部分は職業的に話していた。一方説話は私的な話だ。表情も違う。教育には2つの側面がある。伝達と感化だ。伝達は忘れさられ剥がれていくが、感化は内面化され消えていかない。こう話されました。
まいりました。いかに伝えるか、理解させるか、そのためのスキルをどうするか。私のアドバイスも、まず目先の授業を改善するためにこういった話になりがちです。感化するとは、そういった技術の問題ではなく教師自身の在り方、内面の問題です。ここに踏み込むことは、相手に迫ることであり、それと同時に自分自身もどうであるか問われることです。それを臆することなく言う、求めることができる野口先生のすごさに圧倒されます。私のしているアドバイスが野口先生の前では薄っぺらなものに思えてきます。もちろん、私とて教師の根本部分を問うことをしないわけではありません。しかし、野口先生のように自らのありようを持って示せているかというと、とても比らぶべくもありません。またひとつ大切なことを教わった気がします。

最後の講演は、皇室についての考えをお話しされました。色々と異論のある微妙な問題ですが、臆することなく自らの考えを伝える姿勢には背筋が伸びます。講演後、先生のお話の中で私の知識とずれていたことに関してお話しさせていただきましたが、しっかりと聞く耳を持っていただけました。謙虚な姿勢には頭が下がります。

この日、一聴衆として野口先生の話に引き込まれていたのですが、その理由を考えてみました。たとえば、私が講演をするときは自分のリズムやテンポに聴衆を合わせようと意図的に声の大きさや間をコントロールします。動的です。それに対して野口先生にはそういう意図的な動きは全く感じられません。実に自然に話されるのですが、いつの間にか引き込まれているのです。目の動きは自然に聴衆のようすを追っています。聞き手が話を飲み込めた、どういうことだろうと興味・関心を持った、その瞬間に次の言葉が発せられるのです。野口先生にこのことをお聞きしても、意識はされていないそうです。当り前のように相手に合わすことができているのです。名人の名人たる所以です。

今回も野口先生から多くのことを学ぶことができました。そばにいて同じ空気を吸っているだけでも何か学べる気がします。感化力のある方とはこういうものなのでしょう。ありがたいことに、来年のお約束もいただけました。次回お会いする時が今から楽しみです。

力のある教師が尊敬されてほしい

日ごろおつきあいのある同世代の方は校長や教頭が多いのですが、一般の教諭の方も少なくありません。管理職になるより少しでも授業がしたい、子どもにより近いところにいたいという方が多いように思います。管理職になられても立派にこなすことができる力があるのに、あえて管理職の道を進まなかった方が何人もいます。

組織にとって管理職は責任の思い重要な仕事です。当然尊敬に値する方々ですが、管理職でなくても、素晴らしい授業、素晴らしい学級経営、学年経営で尊敬に値する方がたくさんいます。ところが、自分たちと同じ教諭の中に高い技術を持った方がいることに気づかずに、せっかくの学ぶ機会を見逃している方もいます。

以前ある教育長がおっしゃった言葉が思い出されます。

「管理職にはならなかったが、素晴らしい授業をする教師がたくさんいる。ところが、管理職でないということで、同僚からは軽く見られてしまうことがある。管理職でなくても素晴らしい教師がまわりから尊敬されるようにしたい」

なるほどと納得させられる考えです。私たちは、校長、教頭といったわかりやすい記号で判断してしまうことがあります。名刺の肩書で相手の対応が変わることもよくあります。企業では、営業職はたとえ経験の浅いものでも必ず何らかの肩書をつけます。そうしないと、私の担当は下っ端なのか、もっと上の人をよこせと言われたりするからです。一方、素晴らしい技術・技能を持った方をマイスター・名工として後進にその技を伝承する役目を与え、彼らが尊敬されるような仕組みつくっているところもあります。
学校という組織にとっても、管理職と同じく皆の手本となる教師の存在はとても大切です。肩書はなくても、そういう教師が同僚や保護者・地域の方から尊敬されるようであってほしいと思います。
彼らにスポットを当て、まわりから尊敬されるようにすることも、管理職の立派な仕事だと思います。

先日、子どもたちのようすを見て、担任の指導力がすごいと感心したところ、そばにいた地域の方が、「そりゃあ、○○先生だもの」と誇らしげにおっしゃいました。地域の方からも尊敬を集めているベテランの存在を感じることができました。校長も、若い人もその先生から盗んでいると思うよと話されていました。きっと意図的にその先生の素晴らしさを伝えているのでしょう。
また、ある校長は、授業の素晴らしさで定評のある「○○先生から学ぶ会」という立派な会を準備しているそうです。

組織にはいろいろな役割があります。それぞれが機能して初めて全体がうまくいきます。目立たないが素晴らしい仕事をしている人が評価され尊敬されることは、他の方のやる気にもつながります。組織としての力はそういうところから生まれてくると思います。
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