実践発表から教育におけるICT活用について考える

昨日の日記の続きです。

午後からのICT活用の実践発表は、使っているソフトや環境は変わっているのに、その中身は20年前とほとんど変わっていないという印象でした。
例えば、プレゼンテーションの学習は、ソフトの使い方ではなく、プレゼンテーションで何をどのように伝えるか、その視点やまとめ方が大切になるということが発表されますが、そのようなことは、プレゼンテーションを学ぶ基本中の基本です。そのことを再確認するのはよいのですが、プレゼンテーションの学習をどのように組み立てれば子どもにどんな力がつくのかをもっと現場の視点で知りたいと思いました。

驚いたのは、ある市の取り組みの発表で、校外学習で子どもがタブレットを使ってその場で写真を撮ってメモをしている姿を見せて素晴らしいと評価していることでした。タブレットを操作できていることが素晴らしいのだとすれば、それはソフトが簡単で使いやすくなったということです。その場で写真やメモを取るのは、別にタブレットを使わなくても取材であれば当然のことです。大人でもパソコンを操作するのが大変だった時代ならいざ知らず、正直何を素晴らしいと言っているのかわかりません。
プレゼンテーションで子どもが聞き手を見ている、聞き手が話し手を見ていることも、評価しますが、これも基本中の基本です。ICTを使おうが使うまいがそうできるように指導してあたりまえです。あたりまえのことができているのはよいことですが、それとICTの教育的な効果がよくわかりません。未だにこの程度のリテラシーなのかと思うと、永らくこの世界に身を置いていたものとしては悲しい限りです。
また、思考ツールとして、タブレットを使うという実践もありました。フィッシュボーン、ベン図、ピラミッド図といった枠組みを与えて、思考の整理をするというものです。こういった思考ツールは最近の流行りでそれなりに理解できるのですが、紙やホワイトボードではなくタブレットであることの意味が全く語られません。子どもたちがタブレット上のピラミッド図を使って説明している、ベン図で説明していると言われても、ICTのよさを感じることができませんでした。

遠隔地とのネットでのテレビ会議の実践はしっかりしたものだったのですが、そこで言われるポイントは、「事前の準備や相手との関係づくり」「活性化するための仕掛け」と、テレビ会議の教育での活用がはじまったころと同じです。その通りなのですが、何が進歩したのかがわかりません。ICT環境が安定し、活用できる範囲が広がったということだけなのでしょうか。

子どものノートを机間指導する代わりに、タブレットに書かれたものをネット越しに見てコメント、アドバイスを書き込む実践は目新しいように見えます。優れた授業者は素早く全員を机間指導できますが、経験の少ない教師には難しいものです。これなら座ったままで効率的にアドバイスできるように見えます。しかし、直接顔を合わせて指導せずに、しかもリアルタイムに文書や図でアドバイスをするので、高いコメント力が求められます。チラリと見せていただいたコメントは、???と思うものでした。これも昔から言われていることですが、ICTがある面をカバーしてくれるからこそ、より高い授業力が求められるのです。授業者の実力をよりはっきりと映し出します。

学校内での閉じたSNSを使った実践には、興味をひかれました。算数のまとめをSNSに書き込むことで、途中で友だちの考えを見ることができます。子どもたちのまとめが収束していくというのです。逆に社会の実践では、気づいたことを書き込むことで子どもの考えが多様に広がったと言います。ノートやワークシートに書くのと同じですが、作業中に他者の考えに触れることができるので、書き終った後に聞くのと違ってすぐに自分の作業に反映できるのです。かつて、掲示板にリアルタイムで意見を書き込む実践がありました。それと同じと言えば同じなのですが、そこで起こっていることの整理の視点は参考になりました。この実践でも、収束した後、多様に広がった後にどう授業を進めていくのかという授業力が問われるという点では同じです。

今回の実践発表を聞かせていただいて、学校のICT環境が充実し、使いやすいソフトが出てきたことはよくわかりました。しかし、それを活用して子どもにどんな力がつくのか、つけることができるのか、そのためのポイントは何かという視点では、新しい知見を得ることができませんでした。ICTの活用といっても、昔から言われるように教師の授業力がなければどうにもならないのでしょうか。ICTを活用することで、授業者にかかわらず子どもたちにある種の力が自然につくといったことは考えられないのでしょうか。ICTの活用で教師に求められる力の一部が不要になり、教師はより高度なことに専念するといった図は描けないのでしょうか。
教育におけるICT活用の将来像が混とんとしたものに感じてしまいました。

文部科学省の関係者のお話は、ICTに限らず、これからの学校教育の方向性についてのものでした。これからの人材には、人工知能には答えられない問題に解答を出させることが求められるというお話は、確かになるほどとうなずけます。しかし、そうはいってもすべての人がそうなれるわけではありません。ある意味それは国家戦略の視点になります。学校教育は社会の要請ですから、そのことを否定はしませんが、現実に目の前にいる子どもたち一人ひとりのことを考えると、どこまでのことを求めればいいのかちょっと悩んでしまいます。OECDの調査で日本の子どもたちの学ぶ意欲が低いことと合わせて、学校で子どもたちに基本的に身につけさせるべきものは何なのか、改めて考えさせられました。

盛りだくさんなイベントで、いろいろなことについて考えることができました。よい時間を過ごすことができました。

ICT教育のイベントでプログラミング教育について考える

先月末に開かれた、業界団体主催のICT教育に関するイベントに参加しました。

午前中は、今回のイベントの中心となる企業による、これからの時代に求められる人材像とそれに対応する教育の話でした。生きる力に関連してICTを利活用した教育が必要とされているということは、その通りだと思います。続いて、「ICTの発達によってこれから求められる人材は理数系となってくる。その中でも情報技術者が大量に必要とされる。だから、これからは情報教育やプログラミング教育が重視される。初中等教育からプログラミング教育を導入することも視野に入れる必要がある」ということが言われましたが、これについては少々疑問を感じました。テクノロジーを進化させる人材が必要なのはわかりますが、それはマスでの情報教育の中から生まれてくるものだとは思えないのです。大量の技術者といっても、一昔前の工場労働者と同じ位置づけになるのではないでしょうか。たしかに短期的には必要なのかもしれませんが、それがいつまで続くのかは少々疑問です。人工知能が発達して、そういう仕事が一気に無くなることも十分考えられると思います。
現代の家庭電気製品は高度な技術によってつくられていますが、それを活用するのに必要な知識は私が子どもの頃よりはるかに少なくなっているように思います。同じように、日常の仕事でコンピュータを活用するために必要な知識や技術は、この40年ではるかに少なくなっています。もちろん、これからの社会で生活する上で情報教育は欠かせないことは間違いありませんが、それほど高度で、専門的なものが必要かどうかは疑問です。特に、小中学校や高等学校でプログラミング教育をしたからといって、それが活きるのはどういう場面なのかがよくわかりません。多くの子どもにとってコンピュータが動く仕組みの一部としてプログラミングを学ぶ程度で十分だと思います。
プログラミングで論理を学べるということを言われますが、これについても疑問です。そういう面も確かにあるとは思うのですが、プログラミングで身につく論理的な思考力はごく一部のように思うのです。私自身、かつて多くのプログラミング言語に触れ、実際にコーディングもしていましたが、それほど大した論理力が必要だと感じたことはありません。それまでの学習で身についた論理的な思考力で軽々と対処できるものです。論理的な思考力は、多くの教科や分野(国語や社会科の文型と言われる分野も含めて)で培うべきものだと思います。基礎的な論理力があれば、プログラミングはほんの短期間で身につくはずです。
社会の状況や仕事に求められるものが変わっても対処できる、より基礎的で汎用的な力をつけることが、これからの初中等教育では求められるべきだと思います。専門的なことは、高等教育以降に個人の意思で選択して学習すればよいのではないでしょうか。

現実に、情報技術者が不足している。その状況に対処しなければいけないということもよくわかりますが、それに特化したような教育を初中等教育に組み込むというのは今一つ納得がいきませんでした。子どもたちの選択肢の一つとして、高等教育以降に組み込むべきだと思います。子どもたちが選択しようとした時に必要となる基礎的な力を初中等教育できちんと身につけさせることが大切だと思います。

午後の部は、実践発表でした。ここでもいろいろなことを考えさせられました。これについては、明日の日記で。

教師力アップセミナーで小笠原先生のファンになる

本年度第6回の教師力アップセミナーは中部大学准教授の小笠原豊先生の「子どもが夢中になる理科の授業」と題した講演でした。

スタートから小笠原ワールド全開です。現役小学校校長時代のエピソードに、思わず跳びあがってしまいました。小学校の修学旅行で神主に化けて子どもたちを出迎えたり、また別の年は舞子さんに扮して子どもたちを驚かせたりと、その時の子どもたちの驚きの表情が目に浮かびます。子どもたちと撮った記念写真をフレームに入れて、修学旅行から帰った時に全員に配ったそうです。子どもたちは、家族にその写真を見せながら、修学旅行の思い出を一生懸命に話したことでしょう。単なるパフォーマンスではなく、子どもたちに一生残る思い出をつくってあげたいという、小笠原先生の強い思いを感じます。
実は小笠原先生とは、先生が中学校の校長時代に一度お会いしています。その時は、まさかこんなパフォーマンスをする方だとは知りませんでしたが、ちょっと型破りで、とても懐の深い方だと印象に残っていました。今回の再会で、一気に先生のファンになってしまいました。

小笠原流「子どもが夢中になる授業」を実演しながら解説されます。その一番のポイントは、子どもに「あっ」「えっ」「わっ」と声を出させ、「何で?」「どうして?」と疑問や問題意識を持たせて、「やりたい!」と達成欲求を持たせることです。そのために、同じものを見せるにしても演出や仕掛けが大切です。特に小笠原先生は、「演出」(先生の言うところの「小芝居」)が素晴らしいので、大人でも引き込まれてしまいます。しかし、いくらパフォーマンスが素晴らしくても、理科として大切なところに子どもたちの興味を引き付ける仕掛けがなければ話になりません。単なるおもしろ実験をしただけでは、子どもたちにこれからの社会を生き抜くための資質・能力が身につくわけでもありません。その点、小笠原先生は、子どもたちが身につけるべき力を意識した単元構成をしっかりされています。

理科の探求学習の「ある科学的な知識を獲得するための探求(概念獲得型)」「ある科学的な概念を獲得するための探求(概念活用型)」という2つの分類を元に、小学校と中学校での探求学習の視点を整理されます。小学校では獲得する概念が少なく、活用するほどの知識・技能が乏しいので「概念獲得型」が、中学校では学習塾などで既習の子どももいることや、知識・技能が増えて深い追究が可能になっていることから、学びの有用性が時間できるような「概念活用型」が適しているということです。こういう視点を持つことで、理科の授業の構成がしやすくなると思いました。
この視点からすれば、小学校では単元の導入で子どもたちに強い問題意識や達成意欲を持たせる「仕掛け」が、中学校では、子どもたちにとって「リアリティのある課題」が大切になります。小笠原先生が実演・紹介された事例は、どれもその点でなるほどと納得させられるものでした。
具体的な例は先生の著書「mini 探求学習 RECIPES」を参考にしていただけたらと思います。

講演終了後も小笠原先生からたくさんの興味深いお話を聞かせていただきました。セミナーの運営にかかわっているものの特権です。その中に、こんなお話がありました。
あるところで講演の際、先ほどの「mini 探求学習 RECIPES」を販売したそうです。興味を持たれた先生が手に取ってパラパラめくっていたのですが、「これでは使えない。トークは書いていないんですか?」と聞かれたそうです。この本には、単なるネタではなく、学習のねらいやポイント、展開例もついています。授業をするために必要な情報は詰まっています。トークの部分は、それぞれ先生の個性で考えるべきものです。小笠原先生と同じトークをしても、キャラクターが違いますから上手くいくとは限りません。そこすら自分で考えられないのかと思うと、ちょっと驚いてしまいました。
かつて、若手も交えた勉強会で理科の実験の授業ビデオを見た時のことを思いだしました。小笠原先生と同じく、「しゃべり」が上手く、「小芝居」で子どもを引き付ける方の授業です。どこで心が動いたかを聞いたところ、ベテランは子どもの発言に対する受けや返し、つなぎの部分に集中したのですが、若手はその「しゃべり」や「小芝居」のところにひかれました。授業の本質よりも、話し方や演出といったパフォーマンスに目が行くようです。
授業で大切なことを伝える難しさを改めて感じさせられる話でした。

小笠原先生からとても多くのことを学ばせていただきました。素晴らしい先生と出会えたことに感謝です。
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