うれしい報告

先日中学校で、学校訪問で代表授業をする3人の授業アドバイスをしました。その学校の教務主任から、授業者の感想と学校訪問での授業の報告が学校訪問の記録とともに送られてきました。アドバイスをした側としては、どのように受け取られたのか、彼らの授業にどのような変化があったかは知りたいところです。とてもうれしいことです。とはいえ、アドバイスを受けた側からすれば、手間もかかることですし、私の方からお願いできるようなことではありません。また、たとえ教務主任だからといっても、このようなことを先生方にお願いすることはそれほど簡単なことでないはずです。日ごろから、彼らに授業改善のアドバイスをしている、そしてそのことを彼らが肯定的にとらえている。教務主任が言うことは、自分たちにとってプラスになる。そう思うからこそ従ってくれるのです。

そのことは、3人の報告からも見てとれます。

その後何を意識して授業に臨んだかを報告してくれた教師は、

・子どもの様子をよく観察する
教室の斜め前から、子どもたちを見るとようすがよくわかります。今の時間が全員に有効なのかそうでないのか、理解できていない子がどれくらいいるのかなど、子どもの様子から知ることができます。まだうまく対応ができませんが、子どもが思った姿にならないときに、自分の言動を振り返ってみようと思います。

・しゃべりすぎない
どうしても、頭の中にある授業構成にそって子どもたちを動かそうとしてしまい、その結果、発言や発表の内容も知らず知らずのうちにこちらが誘導してしまいます。今は、過剰な説明はしないように心がけ、子どもたちに判断するように問いかけようとしていますが、反応がいまいちで、確認の仕方や意見の求め方にまだまだ戸惑いがあります。しかし、受け身の授業ではなく、全員が参加する(考える)授業をつくっていくためには、このことがとても重要であると感じています。いつか、「正誤の判断は子ども」ができる授業したいと思っています。

・評価を適切に
「ほめ言葉が少ない」と言われ授業を振り返ってみると、確かにほめていませんでした。一方的な授業をしていると、子どもをほめる場面が生まれません。まず、子どもが活躍できる場面を増やし、どんどんほめていきたいと思いました。また、何をどう頑張ればいいのかわかるようなほめ方を心がけることも気をつけたいことです。ほめ言葉のバリエーションを増やし、ほめられることを見つけるセンサーを磨き、これからもたくさん子ども達をほめていきたいと思いました。

このようなことを書いてくれました。前向きであることがよくわかります。

また、別の教師は学校訪問の授業を詳しく振り返り、子どもがとてもおもしろい考えを発表してくれた場面について、こんな言葉を残してくれました。

私もあせってしまい「すごい発見だね」という声がけしかできませんでした。生徒の言葉でつなぐことの難しさ、すぐにできることではないので、生徒の言葉をつないで生かせられるような授業作りをたくさんしていこうと思います。

ここにも、自分の授業を素直に振り返り、前向きに取り組もうとしている教師の姿があります。

もう1人の授業者も、授業検討会での同僚の意見を素直に受け止め、

自分では肩に力が入りすぎていたなと反省しました。どうしても「本時のねらい」を達成しなくてはという思いが強すぎました。しかし、よい勉強になりました。

と書いています。

彼らの資質はもちろんですが、教務主任始め、管理職や同僚の方がこういう前向きな気持ちになるようなかかわりをしているということです。この学校がよい方向に向かっている原動力がわかったように思います。この報告を受けて、私自身もとても前向きな気持ちになりました。ありがとうございました。

若い教師と一緒に授業を見ることにこだわる理由

ここ数年、初任者や若手の授業アドバイスを頼まれることが増えてきています。アドバイスを頼まれたときに、彼らの授業を見せてもらう前に、一緒に他の先生の授業を見る機会をできるだけ持てるようにお願いしています。なぜこのことにこだわるのか、その理由を少し述べたいと思います。

経験の浅い教師の授業アドバイスをしていて、彼らが授業の場面を再現できないことに気づきました。「この場面で子どもがこういったよね。そのとき、あなたはどういったか覚えている?」「あなたの発問に対して、○○さんが反応したんだけどどんな反応だった?」と問いかけても、かなりの確率で覚えていないのです。そういう場面があったことはなんとなく覚えているのですが、子どもがどういう状況であったか、それに対して自分が何を言ったか、子どもがどういう反応をしたか再現できないのです。力のある教師だとどの場面を聞いても、そのときの状況から自分の発言・対応の意図まで完璧に再現できます。アドバイスをする立場から言えばこの差はとてつもなく大きいのです。
「この場面では、・・・だから・・・こう対応すべき」と説明しても、自分の中で場面を明確に再現できなければ実感を伴いません。また、場面認識と対応は連動します。「子どもが混乱した」「子どもの集中力が切れた」場面だったからこうすべきだと対応をいくら教えても、実際にそのことを認識できないのであれば活かすことはできません。せっかく授業を見て具体的な場面でアドバイスをしようとしても、これでは本を読むことと変わらないのです。

そこで、一緒に授業を見ることにしたのです。具体的には子どもたちのようすを見て、今、子どもに何が起こっているのか考えさせたり、解説したりするのです。

「今、子どもたちは集中している?」
「集中していない子どもはいる?」
「あの子はわからなくて手遊びしているんだろうか、それともできてしまったからだろうか?」
「今、あの子が笑顔になったけど、どうしてだと思う?」
「あの子は顔が上がらないけど、いつ上がると思う?」
・・・

子どもたちの見せる姿から、実に多くの情報が入ってくることに気づかせます。こうすることで、自分の授業ではどうなのか気になりだすのです。よく「子どもを見なさい」とアドバイスしますが、具体的に何をどう見るかを伝えないと、漫然と眺めているだけなのです。(子どもの「何」を見る参照)
少なくとも一度この経験をした後であれば、子どもがどういう状況かを以前よりは確実に意識することができます。自分の授業を振り返ったときにその状況を再現できなくても、こういう状況だったと伝えれば、授業を見た経験から「ああ、ああいう場面だったんだな」とある程度具体的に想像ができるのです。互いに共通の場面認識ができるので、アドバイスが理解されやすくなります。また、子どもたちのようすが気になりだせば、よい場面に出合えば再現できるように意識しますし、気になる場面があれば修正しようとするようになります。毎日の授業の中で自然に工夫をするようになります。

若い教師はいい授業を見たことがない、あこがれる教師、目標とする教師を持っていないと言われます。たしかにこれはとても大切な視点ですが、よい授業を見たり、憧れるような教師に出会ったりする機会をつくることは現実的になかなか難しいことでもあります。しかし、授業中の子どもたちのようすを客観的に見る機会はいくらでもつくることができます。意識することで、毎日接する子どもたちから多くのことを学べます。優れた教師から学ぶ以外にも、目の前の子どもから学ぶという方法もあるのです。一緒に授業を見るというのはそのことに気づいてもらうきっかけでもあるのです。若い教師と一緒に授業を見ることに私がこだわるのは、このような理由があるからなのです。

「鍛える」と「学び合い」

「鍛える」という言葉を聞いて思い浮かぶのが野口芳宏先生です。「教師の読み以上の授業はできない」という言葉からもわかるように、鍛える側の教師にも学ぶ姿勢を厳しく求められる方です。「学び合い」の対極にあるように評されることもあります。子ども同士で学び合う授業では、子どもの言葉をつないで考えを深めていくことが教師の大きな仕事になります。「鍛える」と縁遠いように思われています。最近ある中学校がこの「鍛える」と「学び合い」をつないで「鍛える学び合う学び」を提唱しました。「鍛える」、「学び合い」をそれぞれ意識している方、双方ともに違和感を感じるかもしれません。しかし、以前から私は両者が互いに対極にあるとは思っていませんでした。むしろ互いに必要とされる要素は変わらないと思ってきました。この学校の思いとは異なるものかもしれませんが、私の考えを少し述べたいと思います。

「鍛える」というのは教師が一方的に教え込むことではありません。大切なのは、子どもに考えさせ、向上的な変容をはかることです。しかし、教師が課題を提示して「考えろ」で子どもが考えるわけではありません。子どもの意見を重ねていけば、考えが「深まる」わけではありません。野口先生の言葉を借りれば、子どもが考えるための教材の準備、課題の提示といった「計画の論理」、子どもの反応、意見、考えに対してどう対応するかという「状況の論理」が必要になります。

一方「学び合い」でも、ことは同じです。子どもがたちが学ぶための課題がいい加減なものであれば、一生懸命話し合っても何も身につきません。互いに聞き合う姿勢が身についていても(これだって、教師がしっかり指導し、鍛えなければ身につきません)、学びは少ないのです。「・・・について」という課題だけで子どもがしっかりと学ぶ授業に出会ったこともあります。しかし、それまでに色々な場面で「・・・について」考え、学ぶためにはどうすればよいか、どのようなことが大切なのか、教師が直接指導や活動の評価をしたり、子ども同士で互いに評価し合ったりすることで鍛えているからこそ、抽象的な課題でも子どもたちは学び合えるのです。
「学び合い」を意識した授業をたくさん見ていますが、子ども同士の関係がよく、互いに聞き合うことができていても、教師の教材研究不足で課題がいい加減だったり、何を学ぶのかがはっきりしなかったりで、野口先生のおっしゃる「活動あって学びなし」という状態であることが多いのです。子どもが「学ぶ」ためには教師の提示する課題はとても重要です。しかし、「学び合い」では、まず子どもたちの人間関係をつくり、「学ぶ姿勢」「学び方」を身につけさせることが基本となります。その基本ができたところで止まってしまっていることが多いのです。その次の段階である、子どもたちにより質の高い「学び」を求めることは、「鍛える」ということとつながるのです。子どもたちが学ぶための状況のつくり方、ステップが違うだけなのです。
「一人残らず」学びに参加することを学び合いでは大切にしますが、野口先生も、「○か×か?」自分の立場をはっきりさせるために全員に書かせる、小刻みにノートに書かせるといったことで全員が学習に主体的に参加させることをとても大切にされています。子どもが学ぶ主体であることには変わりありません。
「学び合い」では、子どもの考えをどう受け止め、他の子どもにどうつなぐか、返すかといったことが大切になります。たとえ子ども同士で考えを深めるのであっても、教師の働きかけは絶対必要なのです(これを否定する学び合いを提唱される方がいますが、それについてはまた別の機会に)。たとえ子ども同士の「学び合い」であっても、授業を成立させるための重要な要素が教師であることは間違いないのです。野口先生の「状況の論理」と大きな違いを感じません。せいぜい、教師が強く迫ることをするのか、できるだけ子ども自身が聞き合うようにするかの程度の差だと思います(この違いが大きいと言われればそうかもしれませんが、教師の判断力がとても大切であることは認めていただけると思います)。「鍛える」であろうが「学び合い」であろうが教科力、教材把握力といった教師の力量が大切であることは変わりないのです。教師も鍛えられなければならないのです。

「学び合い」は比較的経験の浅い教師でも、適切な課題を準備できればそれなりの授業になっていきます。ある意味形だからです。ある程度のつなぎができれば、子どもたちで考えを深めていくこともできます。しかし、子どもたちが大きく飛躍するような課題をつくりだす、子どもたちの気づきや学びを大きくジャンプさせるためには高い教科力が求められます。ここからは、本当に長く地道な積み重ねが必要なのです。

学び合いを進めたある教育長の言葉が思い出されます。

子ども同士の関係がよく、互いに聞き合う、落ち着いた教室をつくることがゴールではない。最低保障だ。ここまでは、名人でなくてもできる。

だれしも野口先生のような名人になれるわけではありません。しかし、目指すことはできます。そのゴールは、子どもたちに「学ぶ力」をつけることと、その結果である「学力」をつけることができる教師となることです。そのために何が必要かを「鍛える」と「学び合い」の2つの言葉が教えてくれるように思います。

会議に参加して考える

先日は授業力アップの研修会についての会議に参加しました。10年続いた研修会の次の10年の方向性とそれをもとにした研修の進め方についてです。

参加者はスタッフとして研修会を支えてこられた方です。10年の流れの中で初期のメンバーは立場が変わり、スタッフとして仕事をすることがなかなか難しくなってきました。そこを支えてくれたのがこの日多くを占めていた若手・中堅の方々でした。まだ確固とした自信が持てない中で、一生懸命に参加者へのアドバイスやコメントもしてくれました。彼ら自身が学びたい、進歩したいという強い思いを持っていますが、そこをこらえてスタッフとして会を下支えしてくれています。しかし、インプットよりアウトプットの方が多くては精神的に続きません。次の10年は、かかわる人みんなが学べることを大切にした、学習会の要素が強いものに変えていくことが提案されました。この方向性はとてもよいものだと思います。学びたい思いの強い方が集まっていますので、皆さんに受け入れらるものでした。

続いて来年早々におこなう会の内容について提案がされました。提案以外にも、進め方については色々な方法が考えられます。なぜこの進め方なのか、参加者に提案者の意図がなかなか伝わりません。そこで、「目的は何か」、「そのために参加者がどうなることが必要か」、「そのための手立ては何か」、こういったことを提案者に聞き返しました。「参加者が再レベルアップする」という目的に対して、「参加者の今までの授業・授業観をこわす」ことが必要という説明がされました。「こわす」という象徴的な言葉だったため、そのための具体的な手立てについては厳しく迫るイメージで議論が進んでいってしまいました。模擬授業を先にすることで「こわす」か、先に指導案の検討をすることで「こわすか」という選択になったところで、次のような意見が出されました。

「事前に指導案の検討をして授業についての考えを深めてからの方が模擬授業の質があがり、それに対して指摘し合う方がよりよい学びができる」

「こわす」ための手段として何が有効かという視点ではなく、より効果がある進め方という視点での意見です。事前に他者の考えを聞いて自分の考えを修正してからおこなった方がよりよいところから出発ができるし、失敗も少なく指摘も受け入れやすいというやさしい考えです。この意見に会場全体が救われました。実は提案者の思いもこれに近いものでした。ところが「こわす」という言葉にこだわって話を進めたため、それ以外の視点が議論から失くなってしまっていたのです。「こわす」という、わかりやすいが参加者に厳しい視点から、もっと早くに離れることが必要だったということです。

考えを明確にし議論を円滑に進めるためには、端的な言葉で表現し焦点化することは大切ですが、少し離れた視点で議論全体を見る必要もあります。焦点化と拡散のバランスが大切なのです。授業でもいえることです。このことに気づかせてくれた意見でした。とても勉強になりました。ありがとうございました。

最後の素敵な意見を取り入れることで、2日間の学習会はきっと和やかで学びの多いものになることと思います。楽しみな会がまた一つ増えました。

野口芳宏先生から学ぶ

本年度第4回の教師力アップセミナーは、野口芳宏先生の講演でした。11年連続のご登壇です。一本筋の通ったぶれないお話の中に、毎年新しい気づき、学びがあります。

午前の講演は具体的な教材をもとに、教材内容と教科内容、子どもの向上的変容、学力形成の判定などについてお話しされました。聴衆に若い先生が増えたことをお伝えしたせいでしょうか、いつも以上にわかりやすい例をもとにお話しいただけました。

国語の授業では教材文を通じてどんな国語の力をつけるのかが問われますが、そのことを算数の足し算の例をもとに、教材内容、教科内容という言葉を使って説明されました。野口先生は短い言葉(用語)で端的に表すことで、考え方や概念をとてもすっきりと明確にされます。算数・数学で、用語を定義し概念を明確にしていくことと同じです。国語の授業は算数・数学と同様に論理的でなければいけないという私の思いを見事に具現化していただけるのが野口先生です。

学力形成の判定を次のように整理されました。

1 入手・獲得
2 訂正・修正
3 深化・統合
4 上達・進歩
5 反復・定着
6 活用・応用

教師がこの言葉を意識し、授業の各場面を評価することで、間違いなく子どもたちに力がつくと思います。

かな表記を漢字に変え読字力をつける。「姿を変える」を「変身」と言い換えることにより抽象度を高め、思考力のもととなる語彙を増やす。ともすれば、できるだけやさしく言い換えよう、わかりやすく説明しようとしがちな私たちに対して、学力形成のためにはチャンスを活かして子どもを鍛えるという姿勢とその具体的な方法にはとても説得力があります。子どもたちを「鍛える」者としての教師のありようを常に具体的に示していただけます。

午後の最初は、2年目の教師の道徳の授業ビデオをもとに会場の方と学び合おうというものでした。授業のハイライトシーンを視聴後まわりと話し合っていただき、その意見を全体で共有しました。指名された方はどなたも授業をポジティブに評価され、その上で自分なりの考えや改善案を具体的に話されました。参加者のレベルの高さがうかがえます。
最後に野口先生にコメントをいただきました。まず、ビデオで省略されていた最後の説話を聞かせてくれというリクエストです。授業者の学生時代の体験の話でした。そのあと、参加者に授業ビデオと今の説話のどちらがよかったかを問いました。圧倒的に説話です。それを受けて、授業ビデオの部分は職業的に話していた。一方説話は私的な話だ。表情も違う。教育には2つの側面がある。伝達と感化だ。伝達は忘れさられ剥がれていくが、感化は内面化され消えていかない。こう話されました。
まいりました。いかに伝えるか、理解させるか、そのためのスキルをどうするか。私のアドバイスも、まず目先の授業を改善するためにこういった話になりがちです。感化するとは、そういった技術の問題ではなく教師自身の在り方、内面の問題です。ここに踏み込むことは、相手に迫ることであり、それと同時に自分自身もどうであるか問われることです。それを臆することなく言う、求めることができる野口先生のすごさに圧倒されます。私のしているアドバイスが野口先生の前では薄っぺらなものに思えてきます。もちろん、私とて教師の根本部分を問うことをしないわけではありません。しかし、野口先生のように自らのありようを持って示せているかというと、とても比らぶべくもありません。またひとつ大切なことを教わった気がします。

最後の講演は、皇室についての考えをお話しされました。色々と異論のある微妙な問題ですが、臆することなく自らの考えを伝える姿勢には背筋が伸びます。講演後、先生のお話の中で私の知識とずれていたことに関してお話しさせていただきましたが、しっかりと聞く耳を持っていただけました。謙虚な姿勢には頭が下がります。

この日、一聴衆として野口先生の話に引き込まれていたのですが、その理由を考えてみました。たとえば、私が講演をするときは自分のリズムやテンポに聴衆を合わせようと意図的に声の大きさや間をコントロールします。動的です。それに対して野口先生にはそういう意図的な動きは全く感じられません。実に自然に話されるのですが、いつの間にか引き込まれているのです。目の動きは自然に聴衆のようすを追っています。聞き手が話を飲み込めた、どういうことだろうと興味・関心を持った、その瞬間に次の言葉が発せられるのです。野口先生にこのことをお聞きしても、意識はされていないそうです。当り前のように相手に合わすことができているのです。名人の名人たる所以です。

今回も野口先生から多くのことを学ぶことができました。そばにいて同じ空気を吸っているだけでも何か学べる気がします。感化力のある方とはこういうものなのでしょう。ありがたいことに、来年のお約束もいただけました。次回お会いする時が今から楽しみです。
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