「協働」という言葉を考える

「協働学習」や「地域との協働」のように、「協働」という言葉がよく使われるようになりました。しかし、ただ共同で何かをしているだけ、一方的にお願いをする、されているだけのようにしか見えないことがよくあります。「協働」という言葉に出会うたびに、どのような思いを込めて使わるているのか考えずにはいられません。

学習の場面で使われるのであれば、かかわり合うことにより一人ではできないことができる。一人では気づけないことに気づく。一人で学べなかったことが学べる。このような視点があるのかどうかです。課題や活動が一人ひとりに何をもたらすかを意識して「協働」という言葉が使われているかが気になるのです。このことを明確に意識せずに、ただグループ活動をさせている。まわりと相談させている。このような、ただ一緒に何かをしているだけのことを「協働」という言葉でくくってほしくないのです。

地域との「協働」のように、立場が違うものが一つのことを協力して成し遂げようとするのであれば、互いに対等の立場で話ができる関係である。互いに目的・目標を共有している。互いに知恵を持ちより、自分ができること、自分にしかできないことをやろうとしている。このようなものになっているかどうかです。「協働」とは名ばかりで、こちらが助けてほしいことを一方的にお願いするだけ、ひどいときは、「子どものため」という一言でその目的や趣旨を詳しく説明もせずに、協力しないのは子どものことを考えていないことだと脅迫しているようにしか見えないこともあります。お願いされる方からすれば、ただで使える労働力としか見られてないのかと言いたくなります。「協働」という言葉を使うのであれば、少なくとも何をするか具体的に計画する段階から一緒に考えるべきです。

とりあえず「協働」という耳当たりのよい言葉を使っておけばいいという発想ではなく、「協働」という言葉にどのような思いを込めるのか、意識をして使ってほしいと思います。

昔の同僚と会う

先日、高校教員時代の同僚と食事をする機会がありました。今は管理職となっていますが、当時と変わらず授業のことを楽しそうに話す姿に、彼の教師としての原点を感じました。

管理職ですので、保護者からの苦情やトラブル対応も結構大変なようです。その話しぶりからすると、どちらかというと保護者より教師の方に苦労しているようでした。教師が保護者とコミュニケーションをうまく取れないことが原因のようですが、管理職が注意をすれば改善されるというわけでもないので、ストレスがたまるようです。本人が自分でそのことに気づくことが一番よいのですが、これはなかなか難しいことです。自分と保護者とのやり取りを第三者の視点で観察するのが近道ですが、ビデオに撮っておくというわけにもなかなかいきません。ロールプレーイングによる研修が増えてきているのもうなづけます。

自分の授業を生徒に評価させるなど、授業をよくすることにこだわりを持っている教師ですから、他の教師の授業のことも気なるようです。しかし、根本的に授業感が違うとなかなか話もかみ合わないということです。高校ではよくあることなのですが、学校が目指す子どもの姿が不明確で共有されていないことがその原因の一つのようです。進学率を上げるといった表面的なものを価値基準の中心に置くことが多い、高校の問題点だと思います。

初任を対象の研修会の授業検討会で、初任者たちが抽象的にほめ合うばかりで、授業者の解釈間違いや正しい解釈につながる子どもの発言をとりあげなかったことがとても気になったようです。水を向けても食いついてこず、日ごろは温厚な彼もさすがに厳しい言葉になったようです。互いにほめ合うだけで、深く議論しないのは最近の若者の特徴だと感じているようでした。たしかに、私もそのように感じる場面があります。これは、日ごろの授業検討会でも言えることのように思います。互いによいところを指摘し合うのはいいのですが、それで終わっては深まりません。たとえば、「子どもが活発に発言してよかったと思います」に対して、「それは具体的にどのような場面ですか」「他の先生はその場面をどのように感じましたか」「子どもが活発に発言した理由は何でしょう」・・・と、切り返していくことが大切です。授業と同じですね。

3時間あまり楽しく話をさせていただきましたが、高校の管理職の抱えている課題も色々と見えました。一番感じたのは、このような話を気軽する相手が管理職にはいないということです。彼のストレスが私と話したことで少しでも軽くなってくれればよいのですが。

学業にかかる費用を考えさせる

子どもにはお金のことを話さない家庭が多いのではないでしょうか。学校の集金もほとんどが振込で、子どもが自分の学業にかかる費用を意識することはあまりないように感じます。せいぜい学用品を自分の小遣いで買う時ぐらいなのではないでしょうか。少なくとも高校進学までには、自分の学業にかかる費用を考えさせる必要があると思います。義務教育が終われば、自らの意志と負担で学生生活を送るという自覚を持つべきなのです。高校授業料の無償化で、このあたりのことがますます曖昧になっているように思います。

学校運営にかかわる費用を児童生徒の人数で割ってみると、驚くほど高額であることに気づきます。教師の給与だけを考えても、その額の大きさがわかることと思います。1人当たりの年間の費用はほとんどの場合、保護者が払っている年間の税金を上回っているはずです。それだけ公費が教育に投下されているのです。
一方、それだけ社会が費用を負担しているにもかかわらず、保護者の負担もかなりのものになるはずです。学用品や、体操服、修学旅行の積立金などばかになりません。
こういった金額を子どもたちに示して、自分たちが学ぶ意味を考えてさせてほしいのです。子どもは保護者や社会の庇護を受けています。それを当たり前のことのように考えすぎているように思います。感謝しろと言っているのではありません、自覚してほしいのです。
「勉強しなくて困るのは自分だ」ということは間違いではないのですが、個人の問題だけではないのです。家庭や社会の問題でもあるのです。
奨学金の手続きのとき、「誰がお金を借りるのか」と確認すると、驚くことに「親」と応える子どもがたくさんいます。こういう子たちは自分が学ぶために、自分が借金するのだという自覚がないのです。

学校や家庭で学業にかかる費用を話題にしてみてください。学業にかかる費用を考えることを、自分たちが学ぶ理由や意味を問い直すきっかけにしてほしいと思います。

PTAのHPに注目

学校HP(ホームページ)が変化してきている話(学校HPの変化参照)を以前しましたが、最近注目しているのがある中学校PTAのページです。

「PTAの部屋」という学校HPから見ることができるブログ形式のものですが、今までは教頭が随時更新をしていたそうです。ところが、今年度学校HPがリニューアルされ、学校の思いが明確な形で発信されるようになったことに刺激されてか、PTAで更新をしたいと要望があったそうです。それを受けて更新・内容をすべてお任せすることになったようです。学校HPの中に入っているようにみえますが、まったくの独立サイトのようです。
とはいえ、学校HPと連動しているサイトの運営をPTAに完全に任せることには、勇気がいります。単なる連絡掲示板のようになってしまうのか、それとも学校とうまく連携がとれたものになるのか、どのようなものになるか注目していました。

ふたを開けてみれば、学校の発信と連動して、保護者の視点でそれどう受け止めているか、どうあろうとしているかが発信されています。学校の発信をただ受けて理解しているだけではなく、それを我が事として考え、深め、こうありたいと発信しているのです。

これも1歩進んだ学校HPのあり方だと思います。学校の発信に対して保護者がどう感じ、どう応えようとしているかが伝えられることで、学校の思いが多くの方により深く理解され、また学校側もそれに応えようとより一層の努力をすることでしょう。学校の発信とPTAの発信がうまく共鳴し合い、学校にかかわる人たちを色々な方向から包み込むようにして、学校の教育活動に巻き込んでいくように思えます。

PTAにサイトの運営を任せればうまくいくというものではないでしょう。サイトを運営する役員の方の個人的な力量の問題もあるでしょう。しかし、学校側が伝えたいこと、伝えるべきことを明確に発信してれば、どの学校でも起こりえることでもあります。
学校の発信の質の変化が学校にかかわる人たちにも変化を促していくように思います。この学校で起こっているようなことが、他の学校でも起こってくると思います。新しい学校とPTAのかかわり方の形として、しばらくこのサイトから目が離せません。

長瀬拓也先生から学ぶ

本年度第1回目の教師力アップセミナーは、中津川市立蛭川中学校の長瀬拓也先生の講演でした。会場を大口町立大口中学校へ移しての初めてのセミナーということで、運営上のいろいろな課題もありましたが、多くの方の協力で無事に終えることができました。

長瀬先生は教職9年目という、まだ若手と言ってもよい方です。今回の講演は「教師の成長」にスポットをあてたものでした。若い先生とお話をしていると、すぐに使える How to を求められることが多く、またそれに応えようとしていたのですが、成長するための方法、アプローチを一緒に考えることが必要だと気づかせていただきました。
失礼な言い方かもしれませんが、お話を聞きながら長瀬先生は「発展途上人」だと思いました。自分を見つめ、自分が成長するために必要な行動をとり、日々前へ向かって進んでいる。その勢いを感じました。この先5年、10年とどのように変貌していくかとても楽しみな方でした。

年齢の近い方から「共感を持って聞くことができた」「自分の教師としてのこれからの生き方の参考になった」という感想を聞くことができました。私のように年齢を重ねたものにとっても、自分の原点はどこにあるか見直すよい機会でした。
私の成長のキーワードを振り返ってみると「見る」ということでしょうか。自分の目で見た授業やできごとからいかに多くのことを「学ぶ」か、そしてそれを自分の言葉でどのように整理し「語る」かが私の成長の原点であると再認識できました。
話は少しそれますが、かつて私はよい授業を見ることが成長への近道だと考え、よい授業を見ることにこだわっていました。しかし、よい授業にこだわるのではなく、目の前の授業から何を学べるかが大切だと思うようになりました。たとえ未熟な新任の授業でも、子どもの事実と、その原因、授業者の思いとの関係などを見つけようとすることではまた違ったものが得られるからです。このことに気づいてからは授業を見ることからの学びが豊かになったように思います。私が学校から講演をお願いされるとき、たとえ廊下からでもよいから授業を見せていただくことを条件にしている理由がここにあります。

若手の先生方に、目先の問題解決ばかりでなく、いかにして教師として成長していくかを一緒に考えることをもっと意識しなければいけない。このことに気づけた、私にとってとても有意義なお話でした。また、自分の成長のキーワードが「見る」であることを意識できたことで、今後、若手の先生に「見る」ということと教師の「成長」とを結びつけて伝えることができるようにも思います。充実した時間を過ごせたことを長瀬先生に感謝します。

解いた問題量と成績は比例する!?

「解いた問題量と成績は比例する」ということを言う教師がいます。私はこのようなことは絶対に言いません。逆にこのことを強く主張する教師を信用するなとも言っています。

解いた問題量が0に近い子どもが問題に挑戦すればまず間違いなく成績は上がると思います。しかし、あるところで頭打ちになってきます。理由はいくつかありますが、やみくもに問題を解いて身につく力は限られていること、学習時間に限界があるため1日あたりの解く量には限界があることが主なものです。

問題を解いて、知識や解き方のパターンを「覚える」という学習では、結局記憶量を増やすということです。覚えても忘れることは当然ありますが、単純にたくさん覚えればそれだけたくさん忘れるわけで、効率は漸減していきます。知識を有機的につなげ、より上位の概念で統合するといったことをしていかないと効率は上がりませんし、活用することもできません。ただ解けばいいというものではないのです。運動を例にすればわかると思いますが、練習量は大切な要素ですが、その内容も問われます。工夫はとても大切なことです。また、1日当たりに可能な練習量にも限界があります。そのため効率的な練習が求められるのです。

とはいえ、問題をたくさん解くことを否定しているわけではありません。ただそれだけでは到達できる場所は限られているのです。小中学校では求められる知識や力はそれほど高いものではありません。問題量だけでもクリアできることが多いのも事実です。しかし、高校ぐらいの内容になってくるとそうはいきません。高校になって勉強がやりきれない、時間が足りないと学習面の悩みを訴える子どもの多くは、覚える、問題を解くことのくり返しで学習していることが多いのです。
逆に中学校では求められる知識は相対的に少ないので、単に問題を解く、解ければよいという学習から、自分で知識を整理し、メタな考え方を身につけるような学習へと質を変えていくだけの余裕があるはずです。早い時期に質の転換をはかるべきなのです。
また効率的に問題を解くという視点では、すべての問題を解くのではなく、どの問題を解けばいいか考えることも大切です。数学などでは、たくさん解くのではなく、深く解くという考え方もあります。1つの問題を徹底して考えることで、何十問、何百問を解くこと以上に力がつくこともあります。

「たくさん問題を解きなさい」というのは教師にとって安直な指導です。教師は問題を準備するなどの環境面さえ整えれば、あとは勉強ができないのは、問題を解かなかった子どもが悪いという言い訳をしているようなものです。授業を通じて、どのように学習すればよいのか、また問題とどのように向かい、そのことをどうやって活かすかをきちんと指導しなければなりません。もちろん学習には個人の能力や特性によって適した学習方法は異なります。だからこそ、自分で見つけろではなく、それを見つけるための方法論やアプローチを示してほしいのです。

私は高校教師として中学時代トップクラスの学力だったはずの子どもたちが伸び悩む姿をたくさん見てきました。その多くが、解いた問題(勉強)量と成績が比例すると信じ、学習の質を変えることに気づけなかったことが原因のように思います。彼らの学習の質を変えることができなかったことが今でも悔やまれます。なまじ中学校で成功体験を積んでいたことが災いしたのかもしれません。

「解いた問題量と成績は比例する」というのは一面では正しいことです。しかし、安直にこのことだけを子どもに強いないようにしてほしいのです。「解いた問題量で成績を上げる」という成功体験から早く子どもを解放してほしいのです。

私が、「解いた問題量と成績は比例する」と決して言わないのはこういう理由からなのです。

保護者の授業を見る目

学校公開日などで保護者へのアンケートをどのように実施するかということは、学校ごとに工夫がされています。先日の研究会でも話題になったのですが、特に授業についてのアンケートをどう考えるかは悩ましい問題です。

・そもそも保護者は自分の子どもしか見ていない、信頼に足る意見が得られるのか。
・アンケート(評価)項目を工夫することで、有意義な情報となる。
・アンケート(評価)項目を保護者と一緒につくることで、保護者の視点がわかるし、学校側の視点も伝えることができる。
・保護者のアンケート結果と、ふだん校長が授業を見て感じているものとのずれは少ない。保護者に授業を見る目はある。
・自由記述欄に書かれたことが、保護者の言いたいことだ。それをきちんと受け止め対応していくことで保護者の信頼や理解が得られる。
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いろいろな考えがありますが、学校の一番の根っこである授業に関して、保護者とのコミュニケーションを否定的にとらえることは、マイナスのように思います。
確かに、保護者の興味は自分の子どもが中心でしょうが、少し意識を変えていただければ授業を見る目は十分に信頼できるものになると思います。

昨年度PTAで講演したときに世話役だった方から先日届いたメールに、授業参観の話がありました。
今までは授業参観は自分の子どもの授業態度ばかり見ていたが、今回は「どんな授業の進め方をしているのか?」「子どもたちはどんな反応をしているのか?」と自分の子ども以外の態度まで気にして、まるで先生を審査するように見たそうです。先生によって本当にいろいろで、ベテランだから授業の進め方が上手というわけでもないと思ったそうです。
実際にこの方の感想が的を射たものであるかどうかははっきりとは言えませんが、授業の進め方、他の子どもの態度に注目したという時点で、かなり信頼に足る、聞く価値のあるものだと思います。
この方は、私の講演後ときどきこの日記を見て、子育ての参考にしていただいているそうで、とてもうれしく思っています。この日記を通じて、授業を見る視点を意識されたことが授業参観の仕方を変えるきっかけになったのだと思います。

授業で何が大切なのか、何を大切にしているのか。どこを見るべきなのか、どこを見てほしいのか。このことがきちんと保護者に伝わっていれば、授業のアンケートはとても有効なものになると思います。学校が目指す授業をポジティブに評価していただけ、先生方が元気になるはずです。学校HP(ホームページ)で、授業のよい場面やその解説を毎日のように発信している学校があります。こういう学校は間違いなく保護者の授業評価を意識しているはずです。保護者の授業を見る目を肥やした上での授業アンケート(評価)がどのようになるのかとても楽しみです。
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