中学校で授業アドバイスと1年間の総括をおこなう(長文)

中学校で授業アドバイスとこの1年間の総括を全体会でおこなってきました。

初任者の社会科の授業は、都道府県クイズづくりでした。
まず教師から都道府県クイズを出します。山のつく県を書き出させます。子どもたちのテンションが上がっていきます。一定数書けたら起立させるのですが、もっと探そうとする子、これでよいと緩んで勝手にしゃべりだす子もいます。授業者との関係は悪くないのですが、都道府県名を覚えていない子は参加できません。地図帳を見ることも禁止されています。それならば、早く終わって先に進む必要があります。山がつく県に岩手県という子どもがいました。確かに岩に山が含まれています。しかし、「これは考えるのをやめよう」と最終的には数にいれませんでした。まず、子どもの考えを「すごい」「おもしろい」と受け止めてやってほしいところです。
授業全体を通じて授業者がどのような授業規律を求めているかがよくわかりませんでした。一方子どもは授業者がどこまでを許すのかを探りながら、授業規律を緩めさせてきているように思いました。
メインの活動はグループのオリジナルのクイズづくりです。「ヒントを出せば答が出るのがよい問題」と評価の視点を示します。とはいえ、これだけではどのようなクイズをつくればよいかわかりません。そこで、回答者を1人指名して試しにやってみます。全体で一度体験することは、とてもよいやり方です。回答者を子どもの方に向かせて、黒板に答を書きます。「AKB」です。さすがに子どもからも「県じゃないの?」と疑問の言葉が出てきます。回答者から質問をさせて、子どもたちにヒントを出させます。これは、予定しているクイズとは形式が違います。この後の作業は正解となる都道府県を決めて、その県に関する情報をヒントとしてつくるものです。ずれています。これでは、体験させる意味はありません。真剣に考える必要のない活動なので、子どもたちのテンションは上がっていきます。テンションが上がる一方で白けている子どもも増えていきます。一部の子どもが場を支配していきます。あまりよい状態ではありません。しかも、答を「○○先生」としてもう一度おこないました。ムダな時間が多すぎます。授業の導入で、教師または他の学級がつくったクイズをおこなえば、すぐにメインの活動に入れます。
途中、「ガチでやめろ!」という声が聞こえてきました。この学校で授業中にこのような攻撃的な言葉が聞かれたのは初めてです。言われた子どもはそのあと、集中できずに目はずっと泳いだままでした。あとで確認したところ、授業者はその言葉が聞こえていたようです。であれば、子どもの間に入るべきでした。「どうしたの?」とたずね、「なるほど、でも、今のような言葉を聞くのは悲しいな」と諭す必要があります。もし、言われた子どもにも非があるなら、互いに謝らせ、「2人ともありがとう」と教師が言って終わるようにしたいところです。
グループでクイズづくりを始めましたが、子どものテンションは下がりません。どの都道府県を正解にするかは、根拠を持って考えるようなことではないのでテンションが上がるのです。6人の生活班でおこなったため、どうしても仕切る子どもが出てきます。3人は考えているが、残り3人は参加していないグループ。席を立ってよそのグループにちょっかいをかける子どももいます。授業規律がかなり怪しくなっています。最初から集中して取り組んでいたのは、たまたま4人のグループだけでした。子どもたちのテンションが落ち着いたのは、都道府県を決めてから、ヒントの内容を考えているときです。しかし、再びテンションが上がります。ヒントが決まってホワイトボードに書いているときです。大多数の子どもがすることがないからです。
結局時間がないため、ヒントを書いたパネルを前に並べ、各自が問題を解いて白地図に書き込んで終わりました。ヒントを1つしかつくっていないグループもあります。うず潮、踊りといった文化的なものをヒントにしているグループ。どのヒントでも答えが出るようにしているグループもあれば、1つのヒントでは絶対に答が決まらないようにつくっているグループもありました。基準がはっきり示されていないからです。せめて、ヒントを考える範囲を資料集や地図帳に限定して、そこを根拠に問題を解くといった活動にすべきだったと思います。子どもたちが考える時間のほとんどない授業でした。授業者はテンションが高いのがよい授業と考えている節があります。そうではなく、子どもたちが考える授業を目指してほしいと思いました。

講師の英語の授業は、わずかな間に急激に進化していました。まず子どもたちが積極的に授業に参加しています。理由の1つは、子どもたち一人ひとりを笑顔でしっかり見ていることです。以前は教科書を見ながら、顔を上げずに進めている場面がありましたが、この日は教科書を見ないで子どもだけを見ながら進んでいきます。CDを聞いて教科書を見ながら音読する場面。授業者の音読に続いてsituationを意識しながら音読する場面。ペアで音読し合う場面。教科書を見ずに黒板に貼った絵と授業者を見ながら、授業者の発声に続いて発声する場面。それぞれの場面の意図が伝わっています。子どもたちの声がしっかり出るようになり、確実にうまくなっていきます。
授業がよくなってくると課題もはっきりします。前回の個人発表の評価をALTが”Well done.”と書いてくれています。子どもたちは”done”の意味を知りません。似た言葉を連想させて、”do” ”dose”を引き出しました。そのあとすぐに自分で説明をしましたが、ここは他の子どもに「どう思う。似ている」とつなぎ、「doが変化した言葉思い出して」と”did”を連想させたりしたうえで説明すれば、多くの子どもが参加できます。
CDを聞きながら、situationを理解する場面は、隣同士で確認するのですが、聞き取れなかった子どもは、正解を教えてもらっても確認のしようがありません。もう1度CDを聞かせて、最初聞き取れなかった子どもにもう1度機会を与えるべきでしょう。
ペアでの音読は、聞き手に1文ずつチェックする役割が与えられています。役割がはっきりしているので、コミュニケーションがしっかりとれています。ただ、どちらから始めるかをじゃんけんで決めさせていました。ムダにテンションが上がってしまいます。どちらから始めるかは、教師が指示をすればいいのです。
グループの活動の時に、まだグループの中に入りすぎます。まず全体の活動のようすを見る習慣をつけてほしいと思います。
また、授業の道具を一式忘れた子どもがいました。注意をして、隣に見せてもらうように指示しました。本人にどうするか考えさせ、「見せてください」と頼ませる。頼まれた子どもに「いいよ」と言わせる。それに対して、「ありがとう」を言わせ、教師も「よかったね」「ありがとう」と言う。教師が主体で対応するのではなく、子ども同士をつなぐようにするとよかった場面です。
とはいえ、この進歩は尋常ではありません。授業を変えようと本当に真剣に取り組んだことがよくわかります。この姿勢であれば将来が楽しみです。

2年目の教師の数学の授業は、問題演習の時間でした。
わからない子どもが自然に聞きあっている姿が見られます。友だちに聞ける子どもは、問題が解けるようになっています。ところが、手遊びしたり、ボーとしたりしている子どもが何人かいます。問題に手がついていない子どもたちです。中には机間指導で授業者が近づいてくるのをこっそり見ている子どももいます。教師が助けてくれるのをそっと期待しているのです。ところが授業者はその子の横を素通りしてしまいました。
説明の最初に、「みんなの答を見たけれど、記述式の問題だったらたいていの子は×だよ」と話しかけます。方程式の問題は、何をxとおいたか示さなければいけないのを忘れている子がたくさんいるというのです。しかし、この言い方は試験で×になるからいけないというパラダイムです。そうではなく、相手にわかってもらうために書かなければいけないというパラダイムにしなければいけません。
xの説明がない解答に対して、「xて何?何のこと?」と問いかければいいのです。そうすれば、自然に気づきます。「相手にわかるように書くことが大切だね」と押さえるのです。説明も、「わかりましたね」ですぐに終わります。わかっていなかった子が本当にわかったかどうかは「わかりましたね」では確認できません。どうすればわかっているのか確認できる手段を持つ必要があります。結局わかっている子は確認だけで、真剣に聞いていません。わからない子は答を写します。聞いていたわかった子どもは途中から説明を聞かずに自分で解き始めます。説明を始めるときにまだ途中だった子どもはそのまま顔を上げずに自分で問題を解いています。説明を聞くより自分で解きたいのです。結局教師の説明はどの子にとってもあまり意味のないことだったのです。そのことを象徴する出来事がありました。授業者が線分図を書くときに、「歩いている」「走っている」を単純に取り違えて描いてしましました。ところが、誰も指摘をしませんでした。しばらくして授業自身で気づきましたが、子どもたちが真剣に参加していなかったということです。子どもが参加する必然性のある授業をつくることはどういうことか、もう一度自身に問い直してほしいと思います。

小学校から移動して2年目の教師の社会科の授業は、大日本帝国憲法についてでした。
一部の子どものテンションが最初から高く、授業開始の時点で顔が上がっていない子どもが目立ちました。教師が子どもに背を向けると席の離れた子ども同士が何かやり取りを始めます。
最初に「明治政府の目標」を問います。子どもから答えが出ないので、ヒントを出します。いくつかのヒントの後「殖産興業」とう言葉出ると、そうだねとすぐに拾います。1問1答になっています。一部の子どもは資料集や教科書を自主的に見るのですが、そのよい行動をとらえて広げようとはしません。ヒントに対して反応するテンションの高い一部の子どもたちで授業が進んでいます。
「伊藤博文が憲法をつくるのに参考にしたのはどこの国でしょうか」と問いかけますが、「1 ドイツ 2 フランス 3 イギリス」の3択です。根拠を考える必要がない、ただのクイズです。せめて、3つの国の憲法の特徴を与えるか、調べさせてから問いかけるべきでしょう。
結局、教師の説明中心の、子どもが受け身の授業になっていました。
授業後話をしたところ、中学校はきっちり指導なければならないと思い、注意をし続けてきた。あまり口うるさくてもいけないと注意を減らすと、規律が乱れる。その悪循環に苦しんでいるようでした。教師の死角でごそごそしているのは、その象徴です。中学校を妙に意識してうまくいかなくなっている例です。最近になって、強く子どもに出るというのはどうも違うことに気づいてきたようです。この学校で学級経営がうまくいっているのは、子どもをしっかり受容して、しっかりほめている担任です。実はこの先生がこの学校に来た当初は、子どもに対して受容的という印象でした。それが、いつの間にかそのことを忘れてしまっていたのです。しかし、そのことに気づけたので、子どものよいところを見つけ、広げるようにすればきっと状況は変わっていくと思います。

講師の社会科の授業は、時差の学習でした。療養休暇を取られた先生の関係で、担当が変わった学級です。
「日付変更線から夜が明けてくる」という発表をした子どもがいました。「わからない」とそれに反応する子どもがいました。とてもよい場面です。「どこがわからない」という授業者の問いかけに、「日付変更線から夜が明けてくる」とそのまま答えます。これでは全面否定です。教師が間に入って、たとえば「日付変更線はわかる」と問いかけ、発表者に「説明して」とつなぐ必要があります。しかし、授業者は他の子どもに「助けて」とつなぎました。ところが次の発表は「日付変更線から夜が明けてくる」と全く関係のない、その子自身の説明でした。これでは、最初の発表者は置き去りです。友だちの説明にも納得できないようすでした。まわりの子どもに自分の説明に対して同意を求め、しばらく授業に参加しませんでした。授業者は発表者や質問者に戻すことをせずに、2人が説明してくれたようにと言って、自分の言葉で説明を始めてしまいました。しかもその説明は、最初の発表者の言葉とは全く関係ありません。こういうことが続いてくると、子どもは教師を信用しなくなり、話も聞かなくなってしまいます。
「前の地図を見てください」と言っても、顔が上がりません。しかし、授業者は気にせずに進めていきます。説明すればわかったはずだと思ってしまうのでしょうか、確認をしませんでした。
ワークシートの穴を埋める作業をしますが、子どもたちは自分が活動する必要性をあまり感じていません。その理由はすぐにわかりました。1人指名して答えると「入れてください」とワークシートに答を書き込むように指示をするからです。どのくらい正解したか確認して「よくできている、○組はかしこい」とほめますが逆効果です。できなかった子は、自分はダメな子、この学級の数に入っていないと感じるからです。「みんな」でほめることは危険なのです。「みんな」を使うときは、本当に全員できていることを確認することが必要です。
作業中に、「困っている子いるから教えてあげてください」と指示をします。大きなお世話です。これでは、子どもたちの人間関係が悪くなってしまいます。先生が途中でヒントを出します。先生の求める答探しをしろということになります。
子どもの顔が上がっていないのに説明を始めてしまいます。子どもは、板書は写す価値があるが、説明を聞く意味はないと思っているのです。
机間指導で、「できている。早い」と声をかけますが、上から目線に聞こえます。そのあとの指示もないので、その子はそのあとずっとじっとしたままでした。ムダに時間だけが過ぎています。
全体での発表に移る前から、ペアで教え合っている子どもがいました。先生の説明、友だちの説明よりも、自分たちで解くことを優先しているのです。2人が聞いていないことに気づいた授業者は「何を言ったか聞いていた」と教えられている子どもを指名しました。その子どもは何とか答えましたが、これは明らかにお仕置きです。子どもは、教えろ、教えてもらえと言われていたので、そうしていただけです。釈然としないでしょう。「教えてもらっているの。よかったね。でも、今は友だちの考えを聞こう」といえば済むことなのです。そのあと、教えていた方の女子は、とても不安定な状態になりました。涙を流しているようにも見えました。
時差の求め方を、「覚えておいてね」と言いましたが、こういう言い方は、勉強は覚えるものだと思わせてしまいます。「自分で考えてできるようになろう」といった表現の方が望ましいでしょう。
グループ活動では、1つ1つのグループに深くかかわりすぎていました。グループの中の特定の子どもと話していますが、その間グループの誰ともかかわらずにいる子どももいました。教師が子ども同士のかかわりを断ってしまっているのです。時には、ミニ授業を始めています。あとで説明することであれば、一部のグループに話してしまえば、そのグループは全体の場で参加する意味がなくなります。本当に必要なのであれば、一旦活動を止めて、全体で話すべきでしょう。
残念ながら、以前のこの学級の姿と今の姿は大きく異なってしまいました。授業者が意図せずに、子どもたちから上から目線と感じられるような表現・態度をとっているのが残念でした。子どもたちに対し、意図して受容的になってほしいと思います。

全体会では、子どもたちが教師によって示す態度が変わっている。子どもと教師の基本的な関係は悪くないので、子どもの態度は悪くない。教師の話を聞くことはできるので、教師がしゃべりすぎる。グループ活動は、生活班ではなく男女4人グループで市松模様の座席でおこなう。グループで結論をまとめずに、一人ひとりの考えを持たせるようにする。このようなことを話しました。
今回は少し辛口の話になりました。学校として、研究を始めたころの原点に戻り、目指す姿を共有してほしいと思います。よい授業をしている方はたくさんいらっしゃいます。互いに学び合い、高め合っていただくことを願います。
来年度も続けてお手伝いさせていただけそうです。この学校の進化を楽しみにしています。
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