子どもの様子を見ることから始める

前回の日記の続きです。

採用2年目の先生の4年生の道徳の授業です。
自分の力で頑張ろうとしているお年寄りに手を貸そうかどうかを主人公が悩むことを通じて、相手の気持ちを思いやることを考える読み物教材を使ったものでした。

授業者は最初にワークシートを配った後、「いつも言っているけど、道徳は何のためにやるんですか?」とたずねます。ワークシートに名前を書いているので、それどころでない子どももいます。道徳の授業ではいつも聞くことなので、参加できていない子どもがいても気にならなかったのかもしれませんが、全員が参加の状態になるまで待つ必要があるでしょう。「生きるため」という答ですが、抽象的です。授業者は「今日もこんな場面ではこういうこともあるんだろうなということ取り扱っていきます。どういう風に生きていくのがいいのかを考えます」と説明しますが、子どもたちの顔は上がっていません。授業者も子どもたちの様子をちゃんと見ていません。形式的に話しているだけです。「生きるため」という言葉が単なるお題目にならないよう意識してほしいと思います。

親切にしてもらってうれしかった経験を子どもたちに問いかけます。1/3ほどの子どもがすぐに手を挙げると、授業者はすかさず1人を指名しました。自分の経験を振り返る時間をもう少し取りたいところでした。子どもたちは発表者の方に体を向けます。ゲーム機を欲しいと言ったら父親が並んで買ってくれたという発表に、子どもたちが拍手をします。この場面に少し違和感を覚えました。この発表の何に対して拍手をしたのでしょうか。内容は拍手をするようなものではありません。形式的に拍手をしているだけのように見えます。この授業では子どもたちが意見を言う場面がこの後いくつもありましたが、拍手は起こりませんでした。拍手の意味がよくわかりません。
また、次に指名された子どもも、ゲームを遠くまで行って父親が買ってくれたという似た経験でした。子どもたちは親切ということをちょっと違った理解をしているようでした。そこで授業者が、買ってもらった以外の親切を問いかけると、扉を開けてもらったということが出ました。それを受けて、「みんなはいろいろしてもらったことがあるね」とまとめました。この日の授業のねらいは親切を通じて相手の気持ちを思いやることを考えることです。「してもらったこと」とまとめるのではなくその時の双方の気持ちを問いかけたいところでした。
授業者は親切についてのお話と言って、副読本を開かせます。親切という言葉にこだわりすぎているように思います。

子どもたちが副読本を開いていてまだ話を聞く準備ができていない時に、「主人公は僕」といった説明をします。子どもたちの状況を無視して授業を進める傾向があることが気になります。授業者は子どもたちの準備ができるまで少し間をおいてから範読しますが、副読本を手に持っている子ども、机の上に広げている子どもとバラバラです。読み始めると頭がふらふらと動く子どもが目立ちます。しかし、授業者は副読本をずっと見続けて、子どもたちの様子に気づきません。ここは副読本を開かせずに顔をしっかりと上げさせ、子どもたちと視線を合わせながら範読するべきでしょう。

この日の教材は、次のようなお話です。

足の不自由なおばあさんに手を貸そうとした主人公が、申し出を断られます。そのことを母親に話すと、そのおばあさんは歩けるようになるために練習をしていると教えられます。暑い日に、つらそうに歩いているおばあさんに再びであった主人公は、声をかけようかどうか迷いながらもその後ろを歩き続け、結局、坂の上の自宅に着くまで見守ります。玄関で待っている娘さんのところにたどり着いたお年寄りが笑顔になるのを見て、主人公は心と心で握手した気持ちになりました。

授業者は範読を終わると、主人公の気持ちについて考えてみたいと言って内容の確認を行います。授業者は、「だれと出会った?」「おばあささん」「どのような?」「足の不自由な」と黒板に絵を貼りながらやり取りしますが、「しかも重そうな荷物を持っている」と言葉を足します。子どもに答えさせても、用意した絵を貼りながら授業者が言葉を足すのであれば、答探しになってしまいます。範読の途中で立ち止まり、絵を貼りながら授業者がその場で確認すればよいでしょう。

主人公が最初におばあさんに声をかけた時の気持ちを問いかけます。指名して答えるたびに板書をします。最初は発表を見ていた子どもも、3人目になるとほとんど見なくなりました。授業者はそのことを気にしていません。気づいていなかったのかもしれません。聞いていることの価値がないために、子どもたちの集中力が失われていきます。
続いてこの後どうしたと問いかけます。声をかけたことを確認して、親切にされた経験についてのやりとりでまとめた「してもらった」と関連づけて、これは親切かどうかを問いかけました。指名した子どもが「親切」と答えると、そのまま「親切だ」と結論づけました。この流れだと、「親切とは何か」ということに焦点化されていきます。親切かどうかではなく、相手の気持ちも問いかけたいところでした。

申し出を断られた時の気持ちを問いかけます。子どもから出てきた意見を受け止めますが、つなぐことはしません。子どもからは「嫌な気持ち」「せっかく」といった、ネガティブな言葉も出てきます。これが子どもたち自身の気持ちであれば、おばあさんの事情を知って揺さぶられるのですが、子どもたちは断られた理由を知っています。いろいろと意見が出ても、話の内容をすべて知っているので、どうしても自分に引き寄せることが弱くなってしまいます。
おばあさんを見かけたところで範読を止め、「君たちならどうする?」と問いかけ、その気持ちを全体で共有する。主人公が申し出を断られた時、「君たちだったらどう思う?」「おばあさんの気持ちは?」「どうして断ったんだろう?」と問いかけていけば、自分のこととして考えることができたと思います。

おばあさんが家にたどり着いたのを見届けて主人公の心が明るくなった時、どんなことを考えたのかを副読本を広げて考えさせます。まわりで意見を聞き合い発表しますが、ここでも意見をつなぐことはしません。子どもたちは発表を聞いてはいるのですが、反応があまりありません。授業者が子どもたちの反応を拾うことをしないこともその理由の一つでしょう。ただ、発表させるだけでは考えは深まりません。
「玄関で見守っていたおばあさんの娘さんの気持ちは?」「心と心で握手したとはどういうことか?」と問いかけますが、結局、本文に沿って気持ちを考える、表面的な読み取りをする国語の授業になってしまいました。

最期に、「この物語について」「友だちのよかった意見」「これからの自分について」、書けるだけ書くことを指示します。道徳の振り返りをパターン化しているようです。このこと自体は悪いことではありません。むしろ、子どもたちが考えやすくなるよい方法だと思います。問題は、子どもたちがこれに応えられるために必要な活動をしてきたかどうかです。友だちの意見を漫然と聞いているだけでは、どの意見がよかったとは答えられません。考えを共有し、自分の考えと比較するような場面が必要になります。これからの自分について考えるのであれば、自分に引き寄せる場面が必要です。このことを意識した授業設計が大切になります。

まだ若い先生です。まずは、子どもの様子をしっかり見ること。特に子どもの表情発言を意識するとよいでしょう。そして、子どもの発言を受け止めるだけでなく、価値付けしたり、つないだりできるようになれば、授業は大きく進化します。自分で課題を設定しながら、一つずつクリアしてほしいと思います。
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