道徳で、子どもたち自身の問題として考えさせる難しさを感じる(長文)

前回の日記の続きです。

9月の訪問時に、ベテランの先生の道徳の授業を参観しました。道徳の研究会での研究の一環として新しい授業の組み立てに挑戦されたものです。自分が担任している学級でないので、雰囲気づくりに苦労しているように感じました。

授業は、レ・ミゼラブルの銀の燭台を扱ったものです。本文を子どもたちに配ってから範読をします。子どもたちは手元の本文を見ながら集中して聞いていました。
本文は最後に、盗みをかばってもらったジャン・バルジャンが司教から銀の燭台を渡され、「正直な人間になるためにこの銀の食器や燭台使うと約束したことを忘れないで」と言われ、ただ震えているばかりだったというところで終わっています。
授業者はジャンがどうして震えていたのかを子どもたちに淡々と問いかけます。子どもたちは一瞬動きを止めて考えましたが、すぐに本文を読み返し始めました。国語の読み取りに近い状態です。本文が手元にあるとこうなるのが一般的です。このことをどう考えるかで、本文を配るかどうかの判断が分かれると思います。子ども自身の気持ちや考えを引き出すことを優先するのであれば、本文は手元にない方がよいように思います。

子どもたちは個人で静かに考えています。しばらく時間を与えた後、子どもたちに挙手を求めますが、なかなか手が挙がりません。声をかけた子どもが答えられなくても、特に答を求めて迫ることはせずに、「まだ、考えているの」と受容します。子どもたちが答えやすい雰囲気をつくろうとしているのがよくわかります。一人の子どもが挙手してくれたので、考えを聞きます。盗んだことがばれているのに、許してくれたことと答えます。表面的な答です。挙手が続かないので、授業者はダジャレを言って雰囲気を和らげようとします。反応してくれた子どもを指名すると、司教が憲兵に嘘をついてまでして、許してくれたことが怖くて震えているという意見です。授業者は子どもとやりとりしながら考えを整理して板書しますが、その考えをもとに掘り下げようとはせずに、次の子どもを指名していきます。許されることで、自分は何て悪いことをしたんだろうと思って震えていたという意見が出ます。この3つの意見が出たところで、自分の意見がどれに近いかをたずねます。挙手させる前に授業者は、それぞれの意見を感情込めて「何で……なんだろう」とちょっとテンションを上げて確認します。こういった迫り方はこの授業者の持ち味ですが、この場面までは見ることができませんでした。
手を挙げさせた後、1回も手を挙げていない子どもを確認すると、数人が手を挙げました。授業者はその子どもたちに考えを聞きます。子どもたちの言葉を引き出すよい方法だと思います。指名された子どもは、銀の食器を見せてわざとジャンに盗ませたという考えです。ジャンが悪い人なので、改めさせるためにそうしたというのです。授業者が、そこまで考えて司教が行動したことにジャンが気づいて震えたと整理をすると、子どもたちから「あー」という声が聞こえてきます。なかなか面白い読み取りですが、ちょっと方向がずれていきます。話の内容はきちんと共通で押さえておかないとこのようになってしまう可能性があります。
授業者は「司教の考えの深さ」と板書して次に進もうとしますが、違う考えがあるかもしれませんので「他の人、いい?」と念を押します。すると、一人の子どもが意見を言いたそうにしているのに気づいて、「聞かせて」と発表させます。ていねいに子どもたちを見て対応しています。銀の食器や燭台を得る代わりにする約束がむちゃくちゃ大きいという意見です。授業者は「あー」と大きく反応して受容します。「それだ、という人」と問いかけると、手を挙げかけて引っ込めた子どもがいます。その子どもに声をかけて、「言った方がいい?あなたに任せるよ」と子どもの気持ちに寄り添おうとします。すると、「言った方がいい」と立ち上がってしゃべり始めました。「ジャンは今までしてきたことをいつものようにしたが、司教のしたことで自分はなんてことをしてきたんだろうと、自分が憎い、悔しい気持ち」という意見です。この話をよく分かっていないためにジャンを盗みの常習者のように思ってしまっています。範読しながらジャンがなぜ盗みを働いたのか、何を盗んだのかをきちんと押さえておく必要があったようです。授業者はこの意見もしっかりと受容しました。
もう意見を言いたい人がいないことを確認して、「ここまで、みんなはしっかりと考えてくれた」と評価し、次に進みます。先ほどの子どもからでた大きな約束とは何かを確認しますが、子どもたちは今一つ反応しません。授業者が声を出すようにうながすと、子どもが本文を見ながらつぶやきます。どうしても客観的な文章の読み取り中心になってしまい、子どもたち自身の問題になっていないように感じました。

ここで「ジャンはこれからの人生どうやって生きる?」と問いかけます。「みんなも自分が壁にぶつかることがあるけど、その時、隣に友だちがいない、相談できないことがあるでしょう」と相談なしで、自分がジャンだったらどうするか考えるように指示します。
まず自分で考えることは否定しませんが、ちょっとこだわりすぎだと思います。苦しい時に相談できる子どもになることも大切なことです。あえて、相談できない状況を強調する必要はないと思います。また、自分がジャンだったらと主人公に引き寄せさせようとしますが、ジャンのこれまでの背景をきちんと押さえていないのでちょっと無理があります。また、ジャンの気持ちになるにも、今の子どもたちにこんな過酷な状況はなかなか実感を持って想像できません。自分ならとどうすると言っても、かなり難しいことと思います。
紙に書くのではなく、頭の中で考えさせます。ねらってのことなのかはよくわかりませんが、言葉として出力していないので揺らぎやすい状態です。友だちの意見を聞いている内に自分の考えが変わるかもしれませんが、意見が変わったことを意識することもしづらいと思います。
自分の考えがまとまった子どもを立たせます。見える化ですが、まだの子どもにはプレッシャーがかかります。意図的なのでしょう。立っている子どもにつられたように、次々に座っていた子どもが立ち上がります。1分ほどで、ほぼ全員が立ち上がります。授業者は立ち上がっていない子どものところに行って、まだ迷っているのなら、座っていていいと声をかけます。きちんと全員を見ているのは立派です。その間、すぐに起立した子どもはすることがありません。しゃべったりはしませんが、ごそごそと身体を動かす子どもが目立ちました。

「誰から教えてくれる?」と聞くと、1/4ほどの手が挙がります。授業者は「うれしいわー、この人たち」と声を出します。子どもたちが前向きになるような言葉を上手に使います。
最初に指名した子どもは、「食器や燭台を売って、そのお金でまっとうに暮らして姉と子どもも養う」という意見です。発表の間、子どもたちの体がゆらゆら揺れます。友だちの考えがどうなのか気にならないように見えます。授業者がその意見をまとめて板書している間もなかなか集中しませんでした。この後、同じ意見の人を座らせますが、たとえ同じでももう少し聞いてみたい気がします。
次に、「正直になると約束したから、売らないで自首をする」という意見が出てきます。「自首した後どうするの?」と、同じ意見の人たちに聞ききます。一人目は、その後働くという答です。子どもたちの答にどうにもリアリティがありません。「自首したら、また刑務所に入れられるけど自首をする?」と揺さぶりたいところです。「それでもあなたは自首をする?」と自分のこととして考えさせるのです。次の子どもも同じ答ですが、授業者は姉と子どもはどうすると問い返します。その子どもは「自分だけ」と答えました。授業者は「姉と子どももという人もいるけど、自分だけという人もいる」と焦点化しますが、次へ進むことを優先します。まだ立っている子どもを指名しました。
次の子どもは、「ジャンは19年間の監獄生活で人とどうやって接したらいいかわからなくなっているので、この先うまくいかなくて死んじゃう」という意見です。授業者が「自分ならどうする」と何度も言っていたのですが、他人事です。子どもたちが他の意見を真剣に聞かないのはどうもここに理由がありそうです。
続いて、「ジャンは元々いいやつだから司教に言われたことで目覚め、銀の食器や燭台を返してそこからちゃんと仕事して、誰よりも頑張って、姉と子どもと一緒に幸せに暮らす」という考えがでてきます。これも他人事です。
この後も他人事の意見が続きます。授業者は、子どもの言葉を受容して板書をしますが、それ以上は切り返すことはしませんでした。

最初の自分の意見から変わっていいからと、これまで出た意見の中から自分がとる行動を選択させます。挙手で確認した後、「これ、どうして?」と聞いてみたい意見があるかをたずねます。「あるでしょう?」と目の前にいる子どもに迫りますが、質問は出てきません。そこで、まずそれぞれの答を選んだ理由をたずねることにします。「売らないで一生懸命に働く」を選んだ子ども3人を立たせて、聞きます。「司教の恩を忘れない」という言葉が出てきます。授業者は「恩」という言葉が付け加わっていることを強調します。上手く言えない子どもに続いて、もう一人は、「罪を犯したから他の人と同じだけ働いても償いができない。だから、他の人以上に働く」と言います。よいことを言っているのですが、これもちょっと離れて見ているように思えます。授業者はこの意見に対して聞きたいことはないかとたずねますが、やはり反応はありません。
「銀の食器を売って働く」を選んだ子どもは、「現状が厳しいから、売ってお金をつくらないと生きていくことが苦しい」と言います。本音に近いところが出てきています。同じ行動を選んだ子どもたちは、この意見に同意して全員着席しました。ここは、この本音の部分を何人にも聞いて焦点化して、売らないと言っている子どもに、「こういっているけど、どう?それでもやっぱり売らない?」とつないでいきたいところでした。

最後に、よく考えてくれたけれど、今日のテーマはいったい何だったんだろうかと問いかけ、ジャンのその後を話します。ここでジャンのその後を話しても、お話ですから説得力はありません。子どもたちからもあまり反応が出てきませんでした。
そして、この日のテーマと感想を、なるほどと思った友だちの考えを入れ込んで書くように指示しました。「テーマが何かわからない」という声が上がったので、とばして感想を書くようにと伝えます。授業者としては、人はやり直し、立ち直ることができることをテーマにしていたのですが、そもそも「やり直せない」と思っていないので、このことはあまり意識されなかったのです。

今回の授業は、私の知っている授業者の授業イメージとは異なりました。実は、今回の指導案の流れは、研究会を指導している先生のスタイルを踏襲していたのです。このスタイルでは、授業者は積極的に子どもの意見に対して切り返したり、揺さぶったりしないようです。子どもたちが友だちの意見を聞きながら変容することを大切にしています。授業者としては、切り返したり焦点化したり、揺さぶったりしたかったと思いますが、それをぐっとこらえているように見えました。
今回、子どもたちが自分の問題としてとらえにくかった大きな要因は、この話が子どもたちにとってリアリティがないことだと思います。まず、ジャンが銀の食器を盗もうとする場面で、「親切に食事と宿を提供してくれた人のものを盗むってありえなくない?」と揺さぶったりすることが必要でしょう。子どもたちから、「刑務所に19年も入っていたら仕事もない」「この先、暮らしていけない」「盗むしかない」といった言葉を引き出すのです。その上で、司教から「正直な人間になるため……」と言われた後、「あなたなら」どうするかを問いかけるとよかったと思います。子どもから出た意見に対して、先ほどの「仕事がない」「盗むしかない」という考えと対比させて「本当にできるの?」と揺さぶったりすることで考えが深まり、大切なことは自分の意志であるといったことに気づいてくれるのではないでしょうか。

異なったスタイルの授業に挑戦することは素晴らしいと思います。その上で、自分のスタイルとどう融合させていくかが大切だと思います。与えられたスタイルにとらわれず、授業者の思いをそこに組み込んでいけばよいとアドバイスさせていただきました。

この続きは、次回の日記で。
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