わからない子どもがわかるようになる場面をつくる

前回の日記の続きです。

2年生の道徳は、高齢者への思いやりを考える授業でした。
子どもたちは落ち着いていますが、表情があまりよくありません。私たちが参観しているので緊張していたのかもしれません。

最初に「お年寄りが困っているのを見たことがあるか」「お年寄りが困っていたら声をかけるかどうか」といったことを子どもたちに問いかけます。子どもの発言に対して評価や他の子どもにつなぐことはせず、指名された子どもが答えていくだけです。子どもたちが友だちの方をあまり見ようとはしないのが気になります。授業者が発言者だけを見ていることも要因でしょうか、今一つ学級全体が集中しません。
機械の操作など、お年寄りが困ることを子どもたちに言わせますが、子どもからでてきたことをきっかけに、結局授業者がしゃべってしまいます。ここまでにかなりの時間を使ってしまいました。ここは本題ではないので、あまり時間を使わなくてもよいように思います。困っている年寄りに声をかけない子どもが多かったので、そこで止めて置いて、授業の最後にもう一度同じ問いをして子どもの変容をとらえても面白かったかもしれません。

資料を音読するのですが、読んでいない子どもが目につきます。授業者は資料を見ているのでそのことに気づけませんでした。資料を読む時なども子どもたちに目を向けることを意識してほしいと思います。
資料を見ないように指示して、登場人物や気持ちについて質問します。反応しない子どもに「○○さん」と声をかけると挙手をしてくれます。こういったかかわり方はさすがです。指名するとその子どもが返事をしません。もう一度「○○さん」と声をかけて「はい」と返事をさせます。「返事!」と叱ったりしないのはよいのですが、子どもがよい行動をとったこと評価をしないことが気になります。挙手をしてくれれば「おっ、手を挙げてくれた。うれしいね」、返事をしたら「いい返事だね」といったように、ポジティブに評価したいところでした。
登場人物の確認だけでかなりの時間を使いました。読み取りが授業の目的ではありませんから、ここに時間を使う意味はありません。資料を見ないようにしたために、余計に時間がかかりました。資料を見ない意味はあまりないように思いました。

続いて主人公の少女の気持ちを考えていきます。近所の一人暮らしのおばあさんの家で「よく来てくれたね」と声をかけられた時の気持ちを問いかけました。「うれしい」「楽しい」といった言葉が返ってきます。理由を聞くと「おばあさんのことが好き」という自分の感情が出てきます。子どもたちは自分たちの祖父母が優しくて好きなので、その感覚で答えるのです。ここは、「おばあさんが喜んでくれる」という言葉を引き出したいところですが、授業者が説明してしまいました。ちょっと残念な場面でした。「主人公が喜んでくれるのを見たら、おばあさんはどう思う?」といった質問をすることで、喜んでもらえると自分もうれしいことに気づかせるという方法もあったと思います。主人公の訪問をばあさんが喜んでいることに思いが至れば、おばあさんが喜んでくれると主人公もうれしいことを子どもから引き出せたと思います。

友だちとの約束よりもおばあさんから頼まれた水やりを優先した時の気持ちを考えさせる場面では、おばあさんが水やりを「やって」ではなく「やってくれる」と言ったことを考えさせました。おばあさんの思いを考えさせるよい発問だと思いましたが、一人発言した後、他の子どもに「大体同じ?」で済ませてしまいました。よい発問だからこそ、たくさんの子どもに自分の言葉で発言させたかったところです。子どもが発言するとすぐに授業者が言葉を足していく形で進んでいきました。子どもの言葉に、子どもの言葉を重ねていくようにしたいところでした。

お年寄りを大切にしようとする気持ちを持たせたいという授業者のねらいはよくわかりますが、単に「お年寄りは大切にしなければいけない」という教条的なものになってしまったように感じます。内発的に「お年寄りを大切にしたい」と思ってもらえるようにするためには、主人公の側ではなく、お年寄りの側に立ってその気持ちに寄り添った方がよかったのかもしれません。「お年寄りの気持ちに寄り添った時に、自分に何ができるだろうか?」「そうすることで、自分はどんな気持ちになるのだろうか?」そんなことを考えさせても面白かったかもしれません。

これ以外の学級も参観させていただきました。
特別支援学級では、子どもたちが元気に活動している姿を見ることができました。先生方と子どもたちの関係も良好です。友だちの発表を後ろでしっかりと見ることができる子どもがいました。友だちの発表を落ち着いて見ることができることも素晴らしいことです。発表している子どもに意識が向いてしまいがちですが、こういった子どもを意識的にほめることができるとよいと思いました。

3年生の算数は「べつべつ」と「いっしょ」の2つのやり方で計算する場面でした。
「べつべつ」に計算するという言葉は、大人が思う以上に抽象度が高いものです。「ジュースはいくら?」「みかんはいくら?」とスモールステップで確実に解かせることも必要です。その後で。計算を「べつべつ」にやったと説明すると低位の子どもも理解しやすかったと思います。
計算式とその答を発表させたあと、一部の子どもたちが「いいです」と言って次に進んでいきます。つまずいている子どもがいないことを確認しているのならいいのですが、そうでなければ、答を聞いてもつまずいている子どもはできるようにはなりません。つまずいている子どもができるようになる場面をどのように作るかを意識してほしいと思います。

4年生の国語の授業は10年後の私に手紙を書く場面でした。
子どもたちのノートには、何をどの順番で書くかという構造が書かれています。それをもとにして下書きを書くのですが、書けている子どもと手がついていない子どもに分かれていました。手がつかない子どもには、書けるために足りないものがまだあるということです。この課題に取り組むための足場がそろっていないのです。書くための材料が整理できていないのかもしれません。授業者は子どもたちの作業中に指示を出しますが、これではなかなか伝わりません。一旦作業を止めて、学級全体で足場をそろえる必要があったと思います。

5年生の算数は割合の問題に取り組んでいる場面でした。
机間指導でつまずいている子どものところに行きますが、その子どもにかかりきりで全体を見ることができません。まわりの子どもに教えてもらうようにうながすといったことが必要です。また、つまずいている子どもが多いようであれば、まだ学級全体が問題に取り組める状況になっていないということです。一旦作業を止めて、見通しを持たせる時間を取る必要があります。
子どもの答を確認して共有しますが、どうやって考えたかを発表させて共有しません。くどいですが、結果である答を共有してもわからない子どもがわかるようになるわけではありません。答を知ることはできても、考え方を身につけることはできないのです。わからない子どもがわかるようになる場面をどのようにしてつくるのかが課題です。

最後に全体に対してお話しさせていただきました。
授業規律や先生と子どもたちとの関係はしっかりとできています。この学校の課題は、わからない子ども、つまずいている子どもが、わかるようになる、できるようになる場面をどのようにつくるかです。そのために大切になるのは、困っている子どもたちに寄り添って授業を進めることです。常に先生が教えようとしてもすべてに対応することはなかなかできません。だからこそ子ども同士で解決するような場面をつくることが大切になるのです。このことを意識しながら授業を進めてほしいと思います。
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