教師の考える価値観に無理に誘導しない(長文)

1学期に参加した市の研修会は、市内の各学校から1〜2名参加して授業研究を行うものです。

授業は中学校1年生の道徳でした。集団での責任について考えるものです。
最初に、授業者が校歌を一人で歌ってくれる人がいないかと問いかけます。「完璧に、間違えずに」と言葉を足してプレッシャーをかけます。もちろん誰も手が挙がらないので、全員で歌うことにしました。子どもたちは大きな声で一生懸命に歌います。授業者を盛り上げようとしている姿から、授業者との関係のよいことがよくわかります。明るい雰囲気の元気な学級でした。

歌い終わった後、どうして一人では歌えなかったのかを問いかけました。「一人だと恥ずかしい」という答に、「そりゃそうだよねえ。めちゃ恥ずかしいよね」と明るく何度も同意します。何人も指名して、その都度同じように同意します。子どもたちとの関係のよい理由がわかります。また、子どもたちは発言者の方を向いて聞こうとします。時には笑い声もあがる、子ども同士の関係もよい学級です。

この日の資料は絵本です。最初にその一場面を印刷した紙を見せますが、小さいので細かいところはよくわかりません。そこで、授業者が口頭で補足します。学校の昼休みに起きた出来事です。後ろに14人の子どもがいて、前に男の子が一人いて泣いていると説明します。どの子どもも体を乗り出してしっかり見ようとしていました。続いてディスプレイに絵本を映して見せていきます。それならば、最初からディスプレイで見せればよかったと思います。
「明るいので照明を消しましょうか?」と言ってくれる子どもに、「ナイス。電気消してくれるとうれしい」と返します。ちょっとしたことですが、「うれしい」と一言付け加えていることが学級の雰囲気づくりに役立っています。
一人のちょっと変わっている男の子が、何人もの友だちに叩かれて泣いているというお話です。そこにいた14人、一人ひとりの言葉が読み上げられていきます。「自分は見ていない」「見ていたけれど、怖くて何もできなかった」「叩いたけれど、少しだけだ」「本人が何も言わないのがいけない」……といった、責任回避の言葉が続きます。
授業者は椅子の上に置いたPCを操作しながら読み上げます。目の前にPCの画面があるので時々顔を上げながら子どもたちの方を見ますが、この態勢では見るのは難しいと思いました。PCを使う時によくあることですが、ワイレスのインターフェースを準備する必要があります。ICTの円滑な活用には、このようなちょっとした環境面を整えておくことが重要になります。

登場した14人ついてどう思うかを問いかけます。「どう思う?」という問いかけは、子どもたちの主観を問うものなので、道徳ではよく使われるものです。ここから、子どもたちが自分のこととして資料の登場人物にどう入り込んでいくかが勝負です。
すぐに挙手した子どもを指名すると、「人に責任をなすりつけている」と答えます。授業者は、すぐに「いいこと言うねえ」と返し、「○○さんと同じように考えた人いる?」と全体に声をかけました。他の教科では、子どもの発言を価値付けすることは大切なのですが、道徳では注意する必要があります。特定の価値観を教師が押しつけることになることもあるからです。「なるほど、人に責任をなすりつけていると思ったんだ」と受容してから他の子どもにつなぐとよかったでしょう。

子どもたちに、この14人はひどいと確認した上で、どんなところをひどいと思ったかを問いかけます。指名した子どもは「自分のやったことを認めていない」と答えましたが、授業者は「なるほど」と言って、「自分の罪は認めていない」と板書しました。無意識でしょうが「やったこと」を「罪」と言い変えています。こういったことにも注意が必要です。この後、同じように考えた人を確認し、もう一人を指名して、「泣いている子のせいにしている」という意見を発表してもらいました。子どもの発言を受容して、同じ意見の子どもを確認して考えをつなごうとしています。しかし、発言する子どもの数は多くはありません。挙手に頼らず次々に指名したり、まわりと意見を交換したりして、一人ひとりに自分の意見を話す場面をつくるとよかったと思います。

14人がほとんど共通して言っている言葉は何かと問いかけます。挙手で指名した子どもが「私のせいじゃない」と答えると、「私のせいじゃない」と復唱して、すぐに「よく覚えていたね。その通り」と返しました。内容に関する質問なので正解はありますが、授業者が正解かどうか判断するのはあまり勧めません。この言葉がキーワードとなるのなら、挙手した子どもを何名か指名してから、挙手していない子どもに「みんな、言っていた?」と問いかけ、全員で確認したいところでした。

ここまで授業開始から10分経っていません。導入や資料の読み取りに時間のかかる道徳の授業が多いのですが、よいテンポで進んでいます。
ここで、「みんながこの14人の一人だったら」「想像して」と質問を変えます。何度か「想像して」と繰り返し、「○○さん、想像した?いいねえ」と子どもの様子を固有名詞でほめます。子どもが登場人物にの気持ちになるための時間をていねいにとっています。そして、「次の日、また同じことが起こりました。あなたはどうしますか?」と問いかけました。
授業者は「すごいいい顔していた」とすぐに一人の子どもを指名しました。指名された子どもは「止める」と答えます。復唱して板書した後、声のトーンを落として「他に?」「みんな、止める?」と問いかけます。挙手に頼らず次に指名した子どもは「かかわらない」と答えます。子どもたちの間から失笑が漏れますが、決して雰囲気を悪くするものではありません。どちらかと言えば関係のよさが感じられるものでした。授業者は「と言うと、見て見ぬふりをするということ」と言葉を変えて板書します。続いて一人の子どもが挙手をし、「先生に助けを求める」と発言しました。これまでの2人の時には多くの子どもたちが発言者を見ていたのですが、この発言の時には子どもたちは前を向いたままでした。この違いがちょっと気になりました。授業者が「助けを呼んだあと、どうする?」と問い返すと「そのまま」と返ってきます。「そのまま、見ている?」「なるほど」と受けました。
「昨日叩いていた人もいたけれど、もしかしてまた叩いちゃうかもしれない」と板書し、自分はどうするか、今まででた意見のところに名前が書いてあるマグネットを貼らせます。選択肢として出しておきたいので、子どもから出なかった意見を書き出したのかもしれませんが、せっかく子どもからの意見で選択肢をつくっているのですから、その他としておけばよかったのではないかと思います。

ここまで、数人の意見を聞いただけで、その理由も聞いていません。子どもたちにとりあえず自分の考えを持たせて、その後に考えを深めるための時間を多くとるためなのでしょう。間をおかずに、すぐにマグネットを貼らせました。
さすがに「叩く」はいませんが、多くの子どもは「先生に助けを求めて、自分は見ている」に貼りました。この層をどう揺さぶるのかがこの授業の鍵となりそうです。授業者は「迷っていた○○さん」と声をかけます。子どもの様子をよく見ていることがわかります。「1対多では勝てるわけがない」という理由に、「そうだよね、勝てるわけないよね」と受け止めます。次に声をかけた子どもは「自分では解決できないから、先生とかそういう人に……」と答えます。この意見もしっかりと受容して、もう一人指名します。「自分一人では何ともできないから、先生とか権力のある人に……」という意見です。子どもたちは自分の考えが他人任せで、無責任とも言えるものだとは思っていないようです。

ここで授業者は見て見ぬふりをするという意見の子どもを指名します。「自分がやられるかもしれない」という本音が出てきます。次に指名した子どもに対して「先生には言わないの?」と返しますが、うまく説明できません。「『先生に言うのはなんだかなあ』というのを補足してくれる人いる?」と全体に問いかけます。一人の子どもが「自分も昨日まで叩いていたりしたから怒られる」と説明します。授業者はそのことを「なるほど、自分も叩いていたからおこられるもんねえ」としっかり受容しましたが、先ほど答えられなかった子どもに「どう?」とつなぐ必要があったと思います。もう一人にも理由を聞きますが、やはり自分がいじめられるのが怖いという意見です。

次に、止めるという意見の子どもに聞こうとしますが、指名する前に、「さっき校歌、一人で歌えなかったじゃない、それでも止められる?」と揺さぶりをかけます。このタイミングで揺さぶりをかけることは子どもの意見を出にくくします。揺さぶるのであれば、意見を聞いた後、先ほど出た友だちの意見を使って、「でも、勝てないかもしれないよ」「今度は自分がいじめられるかもしれないよ」とした方がよいと思います。
子どもからは、「友だちがいるからできる」「勇気を絞ればなんとかなる」と言う言葉が返ってきます。「でも、校歌は勇気を振り絞って歌えなかったよ」とまた校歌で揺さぶりますが、状況があまりにも違います。あまりよい揺さぶりとは思えませんでした。

ここで、話の状況を変えて、「一人が止めに行ったら、あなたはどうする?」と問いかけます。また、選択肢をつくるために何人かの子どもを指名します。「止める」「止める前に、同じような仲間をつくってから止める」と意見が続きます。授業者は仲間をつくるということについて「すごいねえ」と一言返しますが、ここも「なるほどねえ」と受容だけして授業者が価値付けしない方がよいと思います。
「いじめられている子どもを助ける」という別の子どもの考えを「なるほど、なるほど」と受け止めながら問い返して、「この意見とちょっと違う?」と他の意見に統合しようとしました。しかし、その子どもからは「ちょっと違う」と返ってきます。そこで、「ちょっと違うの」と復唱して別の意見として板書しました。ここで無理をせずに子どもの意見を別の意見としたのはよかったと思いますが、子どもによっては授業者からの圧力を感じて、不本意ながら「大体同じ」と答えるかもしれません。特に道徳ではこのような圧力をかけないように注意したいところです。
子どもから出た4つの選択肢、「止める」「味方をつくってから助けに行く」「泣いている子どもに声をかける」「そのまま見ている」から1つを選んで、もう1枚のマグネットを貼らせます。「止める」という子どもは少なく、多くの子どもは「味方をつくってから助けに行く」を選びます。しかし、泣いている子どもに声をかける」「そのまま見ている」を選ぶ子どもも少なからずいました。子どもの意見が分かれたので、この後の展開が面白くなります。

「止める」に意見を変えた子どもに理由を聞いた後、「止める」人が増えているのはなぜかを全体に聞きます。増えている理由を聞くということは客観的な意見を求めていることになります。「止める」を選ばなかった子ども参加できる発問です。しかし、ここは他の人の考えを客観的に想像させるよりも、もう少し止めるという意見の子どもの本音を共有したいところでした。指名した子どもからは「味方がたくさんいればいじめられる心配がない」「心強い」といった意見が出てきます。子どもたちは、最初はしっかりと発言者を見ていたのですが、次第に振り向く子どもが減ってきました。予想通りの答が続くので興味が減っていったのかもしれません。授業者は発言者の意見をしっかりと受容しているのですが、子ども同士をつなぐことをもう少し意識するとよいかもしれません。

「泣いている子どもに声をかける」を選択した子どもたちには、「なぜ止めないで、声をかけるの」と揺さぶってから意見を聞きます。無意識のうちに授業者が「止める」ことを求めているように感じました。子どもからは、自分が行っても変わらないので、それよりも泣いている子どもに寄り添うという意見が出てきました。この場面でも多くの子どもたちは友だちの方を見ようとしません。授業者もこの選択肢が自分の想定外のものだったせいか、あまり深くは触れませんでした。

続いて、止めずに「そのまま見ている」子どもたちの意見を聞きます。授業者は「みんなが止めると言っているのにそれでも、見ているの」と揺さぶります。「いじめられたくない」「かかわりたくない」といった言葉が出てきます。どの子どももしっかりと発言者を見て聞いています。子どもたちがどんな意見なのか興味を持っていることがよくわかります。友だちの本音に笑い声が起きますが、嘲笑と言うわけではありません。本音が言え、時には笑い飛ばせるというのは、安心して暮らせる学級である証拠だと思いますが、あまり笑いがエスカレートするようであれば注意が必要です。
授業者は「助けたいけれど」という言葉を拾い強調します。「助けたい」という気持ちを大切にしようとしているのでしょう。

一通りの意見を聞いた後、「一人の友だちが止めようとしたらこんなにたくさんの人が止めに行くと言ったが、だれも止めに行かなければ、助けを求めに行くか、見ている人が多かった。みんなは最初に14人のことをひどいと言っていたが、自分たちはどう?」と揺さぶります。それに続いて、「この学級ではそんなこと見たくない。じゃあ考えてみて」「いじめが起きない学級にするために自分にできることは何か考えてほしい?」と課題を提示します。この発問は結論を誘導しています。止めるべきだと思っていても、いじめられたくないから止められない、最初の一人になれないという苦しい子どもの本音を、まず焦点化して深めることが大切です。それなしで「何ができるか?」と問いかければ、どうしても表面的な答になってしまいます。

ワークシートを配り子どもたちに書かせます。子どもたちの手は止まりがちです。自分の考えを持てたので、どうしようかと考えているのだと思います。状況を変えて考えさせたのがよかったのでしょう。
書き終わった後グループで共有します。いいなあと思った意見は自分のワークシートにメモするように指示します。ここで面白いことが起こりました。これまでずっと集中していなかった子どもがいたのですが、グループの隊形になった時、机をしっかりとくっつけませんでした。すると、その前にいた子どもがその机を自分の方にぐっと引っぱりました。なかなかできることではありません。机を引っぱられた子ども、特に気にした様子もなく話し合いに参加しました。友だちとかかわろうとする子どもが育っていることが素晴らしいと思いました。
気になったのが、鉛筆を持って下を向いて聞いている子どもが多いことでした。ワークシートに友だちの意見を書くことが優先されているのかもしれません。ワークシートは見ないで相手の顔を見て話すことをさせたいところです。

自分の意見、よいと思った友だちの意見を挙手で発表させます。挙手する子どもは半分以下でした。挙手に頼らず、グループでどんな意見が出たか、どの意見が一番納得したかを聞きたいところでした。
子どもからの意見は、「いじめている側につかない」「少しでも予感がしたら止める」「無責任にならない」といったものです。「自分も同じことをしない」といた答もありますが、これは最初の14人の中にもあった無責任な行動です。授業者は一つひとつの考えをていねいに受け止め板書しますが、多くの子どもが発言者を見ずに板書を写していました。この課題に授業者の正解があると考えているようにも見えました。
最後にもう一度、だれも止めに行かなかった時にどうするかを問いかけました。考えが変わった子どもはマグネット貼り変えるように指示したところ、半分くらいの子どもが変更しました。授業者は「すごいこんなに変わっている」と言ってから、振り返りを書かせました。「すごい」という言葉はいろいろな意味にとることができますが、考えを変えた子どもがすごいというような評価にとられると心配です。逆に、授業者が価値観を(無意識に)誘導している中で、変えなかった子どもがたくさんいることに、この学級のよさを感じました。子どもが安心して自分の考えを持ち続けることができているからです。
また、最初に子どもたちの考えが友だちの力を借りていじめを止めるというところに偏っていたことも気になりました。多数の力に頼るということは、一つ間違えればいじめる側でも起こることです。子どもたちはマグネットを貼り変えましたが、本当に一人でも止めることができるようになったとは思えません。このことを焦点化して、為すべきことを為すことの難しさと大切さをもう少し考えさせたいとことでした。

学級経営が上手くいっている、先生と子ども、子ども同士の関係のよい学級です。授業者は基本的な授業技術もしっかりしていましたが、発言した子どもの意見だけを受けて一方的に進めている授業になっていました。友だちの意見に対して、子ども同士がかかわりながら、考えを深める場面がありません。授業者が発言を評価し揺さぶりながら、結局は自分の求める価値観に誘導しようとしているように見えます。立ち止まってじっくりと焦点化すれば深まる場面がいくつもありましたが、結論に向かうことを優先していました。思い切って、いじめをなくすにはどうすればよいかという課題をやめて、その前の場面に時間をかけてもよかったと思います。
また、まわりにいる14人ではなく、いじめられている子どもの視点で考えさせてもよいでしょう。「あなたがこの子どもだったら、そのまま見ている人をどう思いますか?」といった問いかけをしても面白かったと思います。

検討会は、質のよい提案授業だったのでとてもレベルの高いものになりました。私がアドバイスしよう思ったことのほとんどが、各グループの検討で出ていました。この市の各学校で質の高い授業検討が行われていることがわかります。
私自身も本当にたくさんのことを学ぶことができた、レベルの高い研修会となりました。

今後向き合うべき課題を意識してほしい(長文)

前回の日記の続きです。

高校1年生の英語表現の授業は前置詞を意識した動詞句の学習場面でした。
この日の活動に合わせて、最初に6人のグループをつくります。この後どんな活動をするのかはっきりしないためか、子どもたちの動きがやや遅く、おしゃべりをしている子どもが目立ちました。授業者が話し始めるといったん静かにはなりますが、集中度が上がりません。質問をしても、関係のないことを話している子どもが目につくことが気になりました。
続いて一人の子どもにボールを渡して、注目するように指示しますが、グループの隊形のため、後ろ向きの子どもは見にくそうです。振り返らない子どももちらほらいます。グループで活動する場面になるまでは、机を合わせない方がよかったように思います。
授業者が”Put the ball on that table.”とボールを渡した子どもに指示します。子どもが指示通りにボールを置いた後、”He put the ball on the table.”と授業者が視点を変えてその行動を表現します。同様に”take”を使って黒板の地図やマグネットを外させます。これまで学習した前置詞の復習です。集中して見ている子どももいるのですが、手元の語彙集を見て参加しない子どもの姿も目立ちます。どちらかと言えばできる子どものようです。復習でわかっているから参加しなくてもよいという姿勢です。こういった状況が起こる要因の一つには、指名された子ども以外は見ているだけということがあります。授業者ではなく、子どもたちに行動を表現させるとよいでしょう。
また、指名されて動いた子どもの終わった後の様子も気になります。表情の変化が乏しく、達成感が感じられないのです。活動に対する評価が弱いことが原因でしょう。少々大げさでもいいので、しっかりとほめることが大切です。
グループ毎に1人1枚のカードを配ります。配られたカードは一人ひとり違う前置詞が書かれていて、互いに見せないように注意します。カードに書かれた前置詞のイメージを絵で表現することが次の作業です。この作業の指示は先ほどよそ事をしていた子どもたちも集中して聞いていました。グループでの活動に対しては前向きのようです。
他のグループにいる友だちに「カードを見せて」と何度も声をかける子どもがいます。授業者は無視していましたが、こういった他者のじゃまをする行動はきちんと止める必要があるでしょう。
子どもたちの中には与えられた前置詞の意味がわからない者もいますが、友だちに言うわけにはいかないので聞くこともできません。自分で辞書を引くしかないので、グループで作業をやる意味があまりありません。
早く終わった子どもは手持ちぶさたにしていましたが、この時間がもったいないと思います。次にするべきことを意識させたいところです。作業終了後に順番に絵を見せあって、その表す語を手元に書いていきます。前置詞の持つイメージを全員で共有しようという活動でしたが、一人ひとりが異なる語を担当する必要性が感じられず、この活動をグループにする意味がよくわかりませんでした。前置詞の持つイメージを理解させ、基本の動詞と組み合わせることで表現の幅が大きく広がります。そのために前置詞のイメージを持たせることが目的であれば、授業者が動作化したり、絵を見せたりして、どの前置詞のことかを考えさせればよいように思います。自分でイメージ化させることが目的であれば、全部の前置詞を個人でやることが必要でしょう。見せるだけでは受け身で集中してくれないので、このような方法を取ったのかもしれませんが中途半端になっていました。
授業者は柔らかい話し方で、落ち着いた雰囲気の教室をつくっています。研究熱心で工夫が多く見られますが、まだ活動を中心に授業を組み立てているように見えます。子どもたちにどうなってほしいかを明確にした上で、活動を工夫してほしいと思います。

高校3年生の現代文の授業は山椒魚の範読の場面でした。
この授業者には、以前も範読の場面でアドバイスをしたのですが、ほとんど変化が見られませんでした。文中に動物が出てきたら囲むように指示していたようですが、なぜそうするのかの説明はありません。立ち止まって、「動物が一匹出てきました」と問いかけ、一人が答えると「正解」といって次に進みます。指示と一問一答で進む授業スタイルは変わっていません。子どもたちは受け身で聞いているだけなので集中が続きません。そこで、「聞くのも練習です。大人になったら聞かなければならないことがあります」としっかり聞くように話をしますが、学習の本質から外れた言葉です。こういった言葉を聞かせるほど、ますます子どもたちは授業から離れていってしまいます。聞く価値のある場面にする工夫をしなければなりません。
休息を兼ねて顔を上げるようにと言って、嘲笑と失笑の違いを問いかけます。子どもの発言に対して「おしい」と返しますが、これでは授業者の求める正解探しになってしまいます。知識ですから調べるか教えるかしかありません。結局この場面も一問一答で、授業者が説明して終わりました。
「狼狽」が出てきたところで読み方を確認し、試験に出ると強調します。試験に出るから覚えるというパラダイムは、学びとは程遠いスタンスです。また、「ああ、寒いほどひとりぼっちだ」のところでは、「キーワードになります」と説明しますが、これがキーワードになることに気づける力を子どもたちにつけることが授業者に求められることです。すべて一問一答の、試験問題の解答見つけの授業構成でした。
もう一つ気になったのが、途中眠っていた子どもを授業の最後になって起こしたことです。起こすことの是非は別として、最期だけ起こすということは、途中は大して意味がないということを子どもたちに伝えているようなものです。気をつけるべきでしょう。
アドバイス以前の授業観の問題なのかと思い、授業後どういう授業をしたいのかを聞いてみたところ、どうもそうではないようです。本人は一問一答をやめようと思っているのですが、どうやってよいか全くわからないというのです。これまで、自身が経験した授業が一問一答ばかりだったのかもしれません。簡単なことでよいので、子どもたち自身が課題を考えるような場面をつくることから始めることをお願いしました。次回の公開授業では、何かしら変化が表れることを期待しています。

高校2年生の数学IIの授業は三角方程式の解法の場面でした。
子どもたちが話を聞く準備ができていないのにすぐに説明を始めます。子どもたちは授業者の説明よりも板書を写すことを優先しています。子どもに問いかけて発言をもとに進めようとはしていますが、特定の子どもとだけで進んで行きます。一問一答で進み、子どもたちに考えさせることをしていませんでした。
問題をいくつかのステップに分けて解くのですが、「代入して」、「展開して」「sinθ=tとおいて」といった指示で進んで行きます。なぜそうするのか、どうしたら解けそうなのかといった見通しがなく、結果として答が出ただけです。sinθ=tとおいてtについての2次方程式をつくりますが、解く前に-1≦t≦1を示します。突然に範囲を示されてもその必然性が子どもたちにわかりません。t=2となった時に、sinθ=2を解こうとして初めて気づくことです。答案づくりではなく、思考の過程を大切にした授業づくりをしてほしいと思います。
授業者は、問題を解いている途中で書く場所がなくなり、最初の復習の板書を消しました。しかし、このことを使って問題を考えるから板書したわけで、消してしまえば、このあと利用することを意識しなくなります。また、写す前に消されるといけないので、子どもたちが板書を写すことを優先させることにつながります。こういったことにも配慮して板書計画を立ててほしいと思います。
板書にはなぜそのような変形や置き換えをするのかの根拠が残っていません。問題集についている簡単な解答と変わらない程度の情報量です。授業者は配った問題を、これを「真似して」解くようにと指示しました。この指示はとても危険です。どうやったら解けるのかを全く思考せずに、黒板の解答をなぞることにつながります。数学的な見方・考え方が育たず、子どもたちがおかしな間違いをしかねません。実際、予想通りのことがこの後起こりました。
sinθ=tとおいて解いた2次方程式の解が2つとも-1≦t≦1を満たしている問題で、2つ目の解-1を除外する子どもが何人もいます。例題が2つのうち一方を除外していたので、何も考えずに真似たのです。また、例題ではcos2θをcos2θ=1- sin2θを使ってsinθの式に置き換えるのですが、与えられた問題の中にはsin2θをcosθの式におきかえなければいけない問題があります。その問題でも例題と同じくcos2θ=1- sin2θを使おうとして、無理やりcosθに代入しようとする子どもが目立ちます。意味も考えずに形を真似ているのです。
数学的な見方・考え方を意識して、問題を解くことを構造化することが必要です。問題解決に使えそうな知識に何があるか、この問題を解決するのに困難は何かといったことを最初に考えなければなりません。今まで学習した、sinθ=〇、cosθ=〇、tanθ=〇の形の方程式であればθを求めることができることなど、三角関数について知っている知識を確認した上で、この日の例題を眺めます。cos2θ とsinθが混ざっているので、このままではsinθ=〇の形にはできません。sinθかcosθだけの式なれば、それを解くことができるかもしれないことを子どもから出させたいところです。ここでsinθとcosθの関係、sin2θ+ cos2θ=1が使えそうだと気づかせると、cos2θをsinθで表わすことができます。代入して整理すればsinθだけの式になり、sinθについての2次方程式になります。2次方程式であれば解けますから、既存の問題に帰着できたわけです。ここまでが三角関数についての知識で構成される第一ステップです。後は2次方程式を解くだけです。sinθ=〇の形になればそれを解けばよいのです。解こうとすれば、sinθの値に制限があること気づきますから、不要な値を除外すればよいのです。こういった思考の過程を子どもたち自身でたどらせることが必要なのです。
既存の知識を整理し、どうなれば解けそうかの見通しを持たせるといった構造化を意識しなければ、子どもたちにとって全く同じ形の問題以外は別の問題になってしまいます。未知の問題を解決するための方法や考え方を学ぶことが数学を学習する目的の一つであることを意識してほしいと思います。
授業者は私からの指摘を素直に聞き入れてくれましたが、だからといってすぐに授業が変わるわけではありません。数学的な見方・考え方を授業者自身が整理して、問題解決を構造化していくことが必要です。日ごろからそのような視点で数学と接していなければすぐにできるよういなるものではありません。日々意識して授業に臨んでほしいと思います。

この日、中学校の先生から文部科学省の研究開発校に応募したことの報告をいただきました。基礎力としての言語と理数への関心を高めるための、ICTを活用した新教科を開設するというものです。開設に向けてのステップについて相談を受けました。採用されるかどうかにかかわらず、この学校で取り組むべきこととして前向きに捉えられています。上から押し付けられて取り組むのではなく自分たちの学校、生徒にとって必要なものだと考えられていることをとても素晴らしいと思いました。このような先生方の挑戦をお手伝いすることは私にとっても大きな学びにつながります。今後の展開がとても楽しみです。

積極的に参加する子どもと受け身な子どもをつなぐ

前回の日記の続きです。

高校1年生の古文は宇治拾遺物語の現代語訳の場面でした。2年目の先生です。
指名された子どもたちが、黒板に書かれた原文の横に現代語訳を書いていきます。授業者は指示語の内容を補って現代語訳している子どものことをほめました。この場面に限らず子どもたちのよいところをほめようとする姿勢を見せてくれます。昨年は余裕がないためか硬い表情をすることが多く、子どもたちとのコミュニケーションがうまく取れていなかったように感じていましたが、今年は笑顔もたくさん見ることができ、教室の雰囲気もずいぶんとよくなっていました。

子どもたちに問いかけ、その反応をもとに進めています。板書された現代語訳に対して、これが正解と授業者が判断せずに、それでよいか子どもたちに判断させます。子どもたちに考えさせるためのよい方法です。ポイントとなる言葉の意味や文法的な説明がこれでよいかを問いかけて、子どもたちから異論が出なければそれで次に進むのですが、この訳でよいという根拠があまり明確にはなりません。明確な根拠を子どもに確認して言わせる場面が必要でしょう。

ある一文で、今一つ納得できないのか、何かぶつぶつとつぶやいている子どもがいました。授業者はその様子を見て「もやもやしているなら考えて」と自分で説明せずに、考えるように指示します。よい対応なのですが、板書を写すことに集中してこのやり取りに参加しない子どもも目立ちます。子どもたちの言葉を中心に授業を組み立てようとしていますが、積極的に参加する子どもとだけのやり取りになっているのが残念です。もやもやするのが何かを本人に聞いて、学級全体でどうなのか考えるといったことが必要になります。

助動詞「む」の意味を確認する時に、「どんな意味があった」と問いかけますが、ここでも反応する子どもの言葉で先に進めてしまいます。前の時間にやった判別の方法を思い出すように伝え、「調べる癖をつけてください」と、調べることをうながしたのですが、多くの子どもは答が出てくるのを待っていました。実際に調べさせることをしなければ、全員参加にはできません。
「3人称」というつぶやきが子どもから出てきましたが、授業者は「主語が3人称の時は……」と自分で説明をし始めました。「今言ってくれた人、どういうこと?」と全体で確認したり、「今、3人称という声が聞こえたけれど、どういうこと?誰か説明して?」と他の子どもにつないだりして、全員で共有することが必要です。

素直にアドバイスを受け入れて実行しています。自分でもいろいろな工夫をしていて、ずいぶんと進歩が見られます。だからこそ次の課題がより明確になっていると思いました。子どもたちは落ち着いて授業を受けていますが、積極的に参加する子どもと、受け身で参加する子どもに分かれています。受け身な子どもたちをどうやって能動的にするかが課題です。積極的な子どもたちがいるのですから、彼らとつなげることがポイントになります。最初は友だちが何と言っているのかを復唱させることから始めればよいと思います。聞くようになれば、「言っていることわかった?」「なるほどと思った?」「どこがよいと思う?」と判断や価値付けを求めていくことで参加度は上がっていくはずです。
授業者自身も自分の課題に気づけています。きっと次回の公開授業ではよい変化がみられると思います。

この続きは次回の日記で。
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