子ども同士がかかわりながら理解していく場面が必要

昨日の日記の続きです。

5年生の授業は、値引きの問題を元の量の何倍にあたるかで考える場面でした。
子どもたちの視線がそろわないことが気になります。黒板に貼ったコピーを見ている子ども、授業者を見ている子ども、手元を見ている子どもとバラバラです。
15000円の10%引きの代金を求める問題で、百分率の確認を行います。挙手が数人しかいないのに、指名して進みます。「10%引き」という言葉の意味を全員が理解しているかはっきりしません。授業者は「納得した?」と確認しますが、子どもたちはあまり反応できていませんでした。「まわりの人と確認して」と子ども同士で言葉にさせるといったことが必要でしょう。

どうやって考えるかを、すぐに線分図を示して説明します。子ども自身に問いかけて考えさせる時間がありません。線分図を使った問題を授業の最初に復習しておくといったことをして、この課題を解くための足場をつくっておく必要がありました。見通しを子どもに持たせようとするのですが、授業者の一方的な説明が続くだけで、子どもが自分で咀嚼する時間がありません。授業者の「できそうですか?」の言葉に対して、反応がうすいことからそのことがわかります。

最初に教科書を開かせているのですが、利用する場面がありませんでした。教科書には、この問題を考えるための線分図が載っています。中にはそれを見ている子どももいます。ここでは、求める代金が線分図で1から0.1を引いた残りであることを自分で考えさせたいのですから、教科書はじゃまだったように思います。
授業者は、困っている人は近くの人に「教えてもらって」という言葉を使いました。子ども同士をかかわらせようとするのはよいことですが、「教える」と「教えてもらう」は取りようによっては上下関係が感じられます。子どもの自尊心を傷つける可能性があります。近くの人に「聞いてごらん」、近くの人と「相談して」といった表現をするとよかったでしょう。

指名した子どもに式を説明させます。線分図をかいて黒板の前で説明しますが、授業者の方を向いてしゃべります。友だちにわかってもらおうとしていません。線分図で0.1を引いた残りが求めるものであるのは、10%「引き」だからです。この「引き」をしっかりと押さえておく必要がありますが、このことを授業者は確認しません。線分図の「0.1が何であるのか?」「なぜ残りの0.9を求めているのか?」といったことを問いかけて、子どもの考えを整理し、他の子どもにわかるようにする必要がありました。説明後、「他の人はどう思いましたか?」と確認しますが、子どもたちは反応できませんでした。

授業者は、値引きした金額、代金の関係を整理しようとして、これは「何のお金?」と問いかけましたが、何を答えてよいかよくわかりません。「10%引き」を「10%安くする」「10%値引きする」というように、子どもたちの言葉でたくさん言い変えさせるとよいでしょう。「代金は、元の値段と比べてどれだけ安い?」、「値引きは元の値段の何倍?」「代金は元の値段の何倍?」といった問いかけをしていくことで、子どもの考えが整理されていくと思います。

授業者やわかった子どもの一方的な説明を聞いて理解するのではなく、子ども同士がかかわりながら理解する過程を授業に組み込む必要があります。「友だちの説明を聞いてまわりと確認する」「友だちの考えを自分の言葉で説明する」といった場面が必要です。授業を組み立てる時に、これだけは全員にしっかりと理解させたいと思うことを共有する場面を意識的につくる必要があります。

ペアで相談させる場面で、隣の子どもとかかわれていないのに、挙手をする子どもがいます。子ども同士のかかわり合いが、学級全体でまだうまくできないようです。学び合いはペアやグループの活動を取り入れれば成り立つというものではありません。子ども同士がかかわり合う必然性をどうつくるかということが大切です。そして、友だちとかかわって「よかった」と思える場面が必要になります。互いが認め合うことを日ごろから意識しておかないと、なかなかかかわり合うことができないのです。

この学校における「学び合い」への取り組みは、まだ始まったばかりです。こういった課題を学校全体で共有して、互いに学びあってほしいと思います。

この続きは明日の日記で。

どのような力をつけるのかを意識した教材研究が必要

前回の日記の続きです。

4年生は正方形を積み上げた時の段数とまわりの長さの変わり方の規則を考える学習でした。
正方形を階段状に積み上げていくときの、段の数とまわりの長さの表から規則を見つけて、一般化するところから参観しました。表を縦に見る、横に見るといった視点がはっきりと整理されていませんでした。出てきた規則で一般化しますが、数学の視点で言えば見通しを持っただけです。それが「いつも言えるか?」「絶対に正しいのか?」という根拠を問わなければいけません。この授業ではそのことに触れられていないようでした。「いつも言えそう?」ということを問いかける必要があります。少なくとも根拠が明確になっていなければ、それを「正しい」とは言ってはいけません。「どうやら言えそうに見えるね」といった表現にして、まだ「正しい」とは言えていないことを明確にしておくことが必要です。

続いて、正方形をピラミッド状に積み上げていく時の段数とまわりの長さの関係の規則を見つける課題に取り組みます。子どもたちは淡々と表を埋めましたが、予想がついた子どもとつかない子どもがかかわる様子はあまり見られませんでした。その前の階段状に積み上げることで何を獲得していたのかを注意して見ましたが、戦略的に辺の数を数える子どもはいないようでした。表を縦に見た子どもは、規則を見つけることができません。横に見た子どもは同じ数だけ増えていることに気づけますが、○や△を使って式にするのに苦労していたようでした。先ほどの全体での確認の場で、押さえるべきことが明確に押さえられていなかったように思えます。

最初の課題で、表をつくるのにまわりの長さを毎回調べる子どももいたでしょうが、どれだけ増えたかを考えた子どももいたはずです。1段増やす時に、各段の左側に正方形を1つずつ積んで最後に上に1段増やすという考え方もあります。そうではなく右側に1列正方形を積むという発想もあります。どれだけ増えるかという発想を持つことで、増えかたの規則がわかります。この視点は帰納的に物事を見るというとても大切なものです。高等学校での漸化式にもつながるものです。そして、表から見つけた規則が図からも見つかることに気づくことで、多様な視点を獲得していくことにつながります。
一方、毎回数えるという方法も演繹的な発想につながります。この時、縦と横を別々に数えることをすれば、表に頼らなくても規則は見つかります。こういった、課題解決のための発想、視点、道具を子どもたちから引き出して整理し、共有することが大切なのです。そこで得たものを次の課題解決につなげるということが、算数・数学を通じて身につけさせたい資質・能力の一つなのです。
一度経験したからといって身につくことではありません。しかし、意図的に経験を重ねさせることで、必ず身につくはずのことです。教科書はそのような意図を持って編集されていますが、先生方が理解できていないことがあるのが残念です。

授業者が、この課題の解決にはどんな力(知識ではない)が必要なのかをあらかじめ理解した上で、どの力に焦点を当てるのかを考えて授業を組み立てる必要があります。単にその課題を解いて説明できる以上の力が授業者に要求されます。すべての先生に高い数学的な能力を求めているのではありません。算数としてつけるべき力を理解して、どのような活動や問いかけが必要かを考え工夫するという、教材研究の基本を大切にしてほしいのです。
変化の様子をとらえるのに、戦略的なものの見方ができるようにする必要があります。こういったことを理解した上で、教材研究に取り組んでほしいと思いました。

この続きは明日の日記で。

多様な考えをどう理解するか

昨日の日記の続きです。

3年生の授業は分配法則を上手く利用して計算を簡単にすることを考えるものでした。
「べつべつに」「いっしょに」の2つのやり方で計算する問題の答が板書してありましたが式と答えしか書いてありません。算数の授業ではこのような板書に出会いますが、子どもたちがこれを写しても結論がわかるだけです。「どうやって考えたのか?」、「この式の意味は何?」「この数はどこから来たのか?」といったことは、そこからはわかりません。口頭で説明したのかもしれませんが、その場で全員が理解し定着していなければ、後で振り返るためのものが必要になります。理解、定着を図るために練習問題があります。しかし、本当に理解しているのか、手順を覚えているだけなのかは、ただ解かせただけではわかりません。説明を求めたり、そのことを活用するような別の問題に挑戦したりすることが必要です。

「『いっしょに』の問題だから『いっしょに』できる」という言葉が出てきました。「掛ける数が同じ」(「掛けられる数が同じ」)であることをきちんと押さえていなかったようです。問題文では「○○と△△を□人に配ると……」といった自然な書き方がされます。「同じ」数だけ配るといった言葉は出てきません。「いっしょに」を考えやすいように配慮しています。だからこそ、「べつべつに」計算しているものを「いっしょに」できるためには、「掛ける数が同じ」(「掛けられる数が同じ」)を押さえておかなければいけないのです。

子どもが答を板書して、それに対して「いいです」と反応したのは一人でした。子どもたちに反応させたいのであれば、全員に何らかの反応をさせるべきです。いつも反応するはずであれば、子どもたちが「いい」と思っていないのですから、どういうことか問い返す必要があります。しかし、授業者は「それでは」と次に進んでしまいました。
子どもの答に対して「正解です」と授業者が判断する場面がありました。知識などの確認場面ではよいのですが、考え方を問うような場面では子どもたちに判断させることが必要です。根拠を持ってこれが正しいと言える子どもに育てることが求められます。常に先生が正解かどうかを判断すると、先生の求める答探しをするようになってしまうことに注意してほしいと思います。

「いっしょに」で考えた式と「べつべつに」で考えた式を指して、「こっちの式とこっちの式は同じ」と説明します。混乱する子どもが間違いなく出てくる言葉です。子どもにとってはどう見ても式は違うからです。大人は数学で2つの式を等号で結ぶことに慣れていますが、子どもにとってはそのような等しいという概念はギャップがあります。「こっちの式とこっちの式は同じ答になるね」「こっちの式とこっちの式はどちらも同じ○○を計算する式になっているね」といった言い方をする必要がありました。
この日の分配法則の問題の活用場面を考えると、「(○×△)+(□×△)の式で△が同じだから、(○+□)×△といっしょにできる」ことをここでもしっかりと押さえておく必要がありました。

(1234×□)−(234×□)の形の問題で、□に9、8を入れて素早く解いて見せます。素早く計算できる理由を考えて発表する場面で、「1000」違うからという意見が出ました。このことを再度説明させます。「8と9で1段違う」という言葉が足されました。なかなか面白い説明です。ここで授業者は「今、言ったことを説明できる人」と子どもにつなぎました。よい展開です。「1段ずつわかっていく」という言葉が返ってきます。一連の説明で1段という言葉が出てきているのですが、唐突です。この1段という言葉の意味するところを理解できた子どもはこの議論についていけますが、そうでない子どもには不可能です。この段が何を意味しているかを確認する必要がありました。
結局子どもの発言を引き取って授業者が説明を始めました。答が□の部分の数に「0をつけとくだけだから」と説明します。根拠を意識せずに表面的な規則で説明しますが、段を使って説明した子どもの考えはそういうことではなさそうです。2年生の時の九九の表で考えたことを連想したのでしょう。□の中を9、8と変えていくことが、九九の段が順番に数を変えていることにつながって、段と言ったのだと思います。九九の表で掛ける数が同じだと、1段ずれれば掛ける数だけ違ってくるという性質を思い出したに違いありません。ここで、その意味するところに気づけていれば、九九の表と結びつけて、「1000を掛けている」「9×1000、8×1000」「1000×9、1000×8」といった言葉を引き出すことができたと思います。ここを起点にして、この授業でねらっていた分配法則につなげることができたはずです。
「9と9は同じだから」という意見が子どもから出てきました。これは、授業者のねらいにつながる意見です。授業者はすぐにこの意見に飛びついきました。しかし、これまで議論していた段の考えとは直接つながらない考え方です。子どもたちは、突然違う考えに方向転換してしまったので、ますます混乱してしまいました。

子どもたちが考えるための足場となるもの(この例であれば、「べつべつに」計算しているものを「いっしょに」できるためには、「掛ける数が同じ」)が、はっきりしないままに進んでいたので、かえって多様な意見が出てきて面白かったのですが、授業者が焦点化できませんでした。
子どもたちの多様な考えを活かすためには、思わぬ考えが出た時に対処する力が求められます。子どもの発言は言葉足らずで、理解できないことがよくあります。それを授業者が無理に理解して対応しようとするよりも、子ども同士のかかわりの中で少しずつその考えを明確にしていくようにした方がよいのです。不思議なことに、言葉足らずの表現でも子ども同士は理解し合えることがよくあります。子どもたちに助けられながら授業者も理解していけばよいのです。その上でどう深めるか、他の考えとつなげていくのかといった次の対応を考えるのです。

多様な考えが出ることはとてもよいことですが、対応を間違えるとかえって子どもたちが混乱するだけになってしまいます。多様な考えを活かすには子どもたちの助けを借りるという発想を持つとよいでしょう。

この続きは次回の日記で。

子どもの多様な考えを認めようとした授業

昨日の日記の続きです。

2年生は九九の決まりを考えて九九の表にないかけ算の答を考える授業でした。

学び合いを意識して机の配置をコの字の形にして授業を進めていましたが、友だちの発言を全員の子どもが聞いていないことがあります。また、コの字の形にしているにもかかわらず、子どもたちが黒板の前にいる授業者の方を向いて発言しています。互いの発言を聞きあうことが、まだ徹底できていないようでした。基本的にまっすぐ前を向けば友だちに向き合うはずですが、どうしても授業者の方を見てしまうのであれば、子どもの視線から外れるようにしゃがんだり、子どもの視線が授業者に向かっても友だちの方を向くように一番前の子どものすぐ横に立ったりするとことが必要です。コの字の形の時は、子どもたちとやりとりする場面では黒板のすぐ前に立たないことを意識するとよいでしょう。
授業者は学習規律を意識できています。子どもたちの指示が徹底できるまで、指示を繰り返したり、待ったりできます。先ほどの立ち位置についても、そのことを意識すればすぐにできるようになると思います。
子どもが指示に従った時に、そのことをほめたりして認めることが少なかったのが気になりました。この時期だからかもしれませんが、うなずくだけもいいので、承認してあげたいと思います。

4×12列の●を提示して、この数を求めるのがどのような式になるかを問いかけます。指名した子どもが「かけ算」と発言します。「4が12列ある」ということを言ってくれる子どもがいます。そのことを最初に発言した子どもに確認します。子どもの考えをつなぐことを意識できていました。よい場面でした。「12が4列」という発言もでます。ここで、4と12がどこにあるのかを確認するとよかったでしょう。そうすることで、「4が12ある」「全部4」「4つずつ12」といった言葉を引き出すことができます。こうすることで九九の決まりを見つけるための視点を与えることができます。「決まりを見つける」場面では、決まりに気づけることも大切ですが、その根拠を意識できることも大切です。「同じものが、いくつかある」からかけ算になっていること、この例であれば「4つずつ」あるから、「4つずつ」増えるという決まりが導き出されることに気づかせたいところでした。

子どもたちの発言が挙手指名で行われているのですが、特定の子どもが何度も指名されます。挙手に頼らず意図的に指名することも必要です。挙手が少ない時には、まわりと相談させるといった方法もあります。できるだけ多くの子どもに考えを外化させることが大切です。

どのようにしてこの数を求めるかを考えさせるところで、面白い場面がありました。6×6という間違いが出てきたのですが、授業者は間違いと切り捨てませんでした。よい姿勢です。間違えた子どもは上手く説明できませんが、他の子どもが12列を6と6に分けて考えたことに気づいてその子どものかわりに説明しました。6と6で6×6と考えていたのでした。このあと、4×12の答をどうやって求めるかで、「4×6が2つ」という考えができました。間違いであっても、そこから新たな発想が出てくることもあります。間違いもていねいに対応することの大切さを感じました。
友だちの考えを理解できた子どもは評価されますが、間違えた子どもは評価されません。間違いだったのですから、どうしても落ち込みやすくなります。「わかってもらえてよかったね」といった言葉をかけて気持ちを前向きにすることも大切です。「4×6が2つ」という考えがでたところで、間違えた子どもの考えとつないで、「○○さんの考えとつながったね」評価したいところでした。

面白い場面であったのですが、6×6の間違いはかけ算の意味が定着していないということですので、注意が必要です。この授業に入る前にかけ算の復習をもう少しする必要があったと思います。「4が12列」から出発するのではなく、「4が8列」くらいから始めて4×8という式を確認して九九で答を出すまでを復習としてやってもよかったかもしれません。6×6という間違いがあってはいけないということではありませんが、ここで、かけ算の意味を確認しておけば避けられたかもしれません。
誘導的になるので賛否はあると思いますが、続いてもう1列4を足すとどうなるかを考えても面白いかもしれません。「4×9を九九で計算する」「32に4を足す」といった考えが出てきたあとに、この4×12に挑戦させると素直にねらった考えは出てきたと思います。

子どもたちからは多様な考えが出てきますが、これをどのように整理していくのかが難しいところです。ねらったものに焦点化していくことになりますが、子どもたちは自分の考えで正しい答が出た時はそれに固執する傾向があります。焦点化したものを全員が自分のものとして理解し、納得する場面が必要です。ねらった考えを「○○さんの考えたことを隣の人に説明して」といった活動を入れるとよいでしょう。もし、その内容が理解できていないようであれば、焦点化した後、グループや個人に戻して考える時間をとることも大切です。なかなか難しいことですが、子どもたち一人ひとりの考えを大切にすると同時に、全員が理解し身につける必要があることはきちんと定着させなければいけません。このことは忘れないようにする必要があります。

グループで活動している時に、一部のグループに入り込み過ぎることがあります。グループの活動では、参加できていない子どもなどに必要な支援がすぐにできるように、常に全体を見ることを意識してほしいと思います。

授業者が一人ひとりの子どもの考えを受容しているよい場面がたくさん見られた授業でした。学び合いを意識しているのですが、基本的な進め方やポイントがまだ自分のものになっていません。学び合いの授業に取り組んでまだ日が浅いので無理もありません。学校全体で進め方の基本を共有していくことが大切だと思います。

この続きは明日の日記で。

算数の授業で言葉にこだわることを考える

遅くなりましたが、1月に訪問した小学校の話です。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。小規模の学校で、全学年での算数の授業アドバイスを行いました。この学校は子どもたちが学び合う姿を目指しています。学校全体で子どもたちのよい表情や姿を見ることができました。先生と子どもたちとの基本的な関係がどの学級もしっかりとしていると感じました。

1年生は3桁までの数の大小を考える授業でした。
最初に復習で2桁の数の大小クイズを行います。ここで気になったのが、授業者が2桁の「数字」と言っていることでした。私もうっかりすると言ってしまうので偉そうなことは言えないのですが、正しくは「数」です。例えば、21の2という「数字」は20という「数」を表わしているのです。これが位取り記数法の基本的な考え方です。「数字」の大小ではなく、「数」の大小を考えていることを意識しておくことが必要です。

子どもたちはよい表情で大小を答えます。ただ、いつも全員で答えるのではなく、時々意図的に指名をして個別に答えさせることも必要です。まわりの子どもの答えを聞いて少し遅れて答える子どももいます。個別に答えさせることできちんと理解できているか確認したり、ほめることで自信を持たせたりすることが大切です。

授業者は数の大小を考えるのに「どういうことに気をつける」と問いかけますが、子どもたちは反応できません。「どういうことに気をつける」と聞かれても、何を答えていいのかわからないのです。授業者は「ヒント」と言って「○けたのかずより○けたのかずが小さい」と板書します。「ヒント」をこのような答(結論)の形の穴埋めで出すと、子どもたちは教師の求める答探しをするようになります。できるだけ子どもの言葉で、考える過程を大切にして発言させたいところです。
子どもたちにペアで相談させますが、ちょっとテンションが高いのが気になりました。1年生なので、具体的に相談とはどのようなことをするのかといったことが明確になっていないのかもしれません。また、「どういうこと」という言葉は発言しやすい問いかけでもあります。全体では正解を言わなければと答えにくいことも、子ども同士になると言いやすくなったのかもしれません。
1年生ですが、相談を止める指示には素早く反応して授業者に集中します。授業規律はよくできています。
子どもを指名しますが、どこを見るといった手順を発表します。挙手でよいかどうかを確認すると、全員が挙手します。しかし、これもまわりにつられている可能性があります。何人かを指名して発言させることで、本当に納得できているのか確認したいところでした。
ここでも、3桁の「数字」、十の位の「数」と「数字」と「数」が混乱しているのが気になりました。「3桁の数は百の位を比べる」とまとめますが、「一番大きい桁」であることを意識させてから、この結論を確認したいところでした。「最初にどこ(何)を比べる?」といった問いかけから、「数字」「どこの数字?」といったやり取りをしながら、「位が違えば数字の表わす数の大きさが違う」という位取り記数法の本質を意識させるような展開をするとよかったと思います。

次の課題のワークシートを配って読ませますが、授業者は拡大コピーを準備していたので、まずそれを使って説明するとよかったと思います。授業者が説明している時に、子どもたちの顔が上がらなかったのが残念でした。
子どもたちによい姿勢をとらせるのに、よい姿勢とはどういうものかを順番に言わせて確認します。4月の段階では「背筋を伸ばす」「手は膝の上」といった確認は大切になりますが、この時期であればもう必要はないはずです。たとえ1年生でも、「どんな姿勢をとればいいかな?」「先生は次にどんなことを言うと思う?」「次はどうすればいいかな?」と、直接指示をしなくても、だんだん子どもたちが自分で考えて行動できるようにしたいものです。

前にやった大きい順に並べる方法を確認せずに、小さい順に数を並べる課題に取り組ませます。ここは、子どもたちに見通しを持たせてから取り組ませたいところでした。子どもが考えるための足場をつくってあげることを意識してほしいと思いました。

小学校の算数は、大人にとっては当たり前のこと、少々言葉がおかしかったり抜けたりしていてもわかるはずのことばかりです。言葉が雑になってしまいやすい教科です。だからこそ、言葉にこだわる必要があります。子どもが考え活動しやすい言葉で発問つくることや、子どもに伝わりやすい言葉を選んで説明することが大切です。このことをいつも意識してほしいと思いました。

この続きは明日の日記で。

「何を考えさせるのか」「どんな力をつけるのか」というねらいを意識した活動が大切

昨日の日記の続きです。

6年生の理科の授業は、LEDと豆電球の電気の使用量の違いを考える実験でした。
手回し発電機で発電した電気をコンデンサーに蓄え、どれだけの時間光っているかを調べる実験をしているところから参観しました。子どもたちは実験に夢中です。じっとLEDや豆電球が光っているところを見ています。授業者が途中で指示をするのですが、子どもたちは目を離すことができないので、指示をしっかり聞くことができません。途中で止めることが難しい実験などの時は、必要な指示は事前にしておく、言葉ではなく板書やディスプレイに表示するといった工夫が必要です。
また、LEDがかなりの時間光り続けているので、その間ごそごそしてしまう子どももいます。何回手回しするかで決める充電量を子どもたちに決めさせたので、回数が多すぎたのです。実験時間から逆算してある程度縛りを設けるか、試しに1回やって見て、長すぎないような回数になるように誘導すべきだったでしょう。
実験を終えたあとの子どもの状況が、「結果を板書する者」「板書を写すもの」「片付けをする者」「考察をする者」とバラバラになっていました。授業者は力のある先生です。よい行動をほめて促そうとしているのですが、この状況ではあまり効果がありません。ここは一旦動きを止めて、順番に行動を指示したいところでした。
結果から考えたことを考察するのですが、まず全体で結果を整理したいところでしたが、時間が押していてその時間を取ることができませんでした。子どもたちは、実験には楽しく取り組んでいたのですが、実験から何を知るのかという意識は薄かったように見えました。授業者は「なぜ信号機がLEDに変わっているのか?」という疑問を最初に持たせようとしていたようです。しかし、子どもたちにはよくあることですが、そのことは薄れてしまって、どれだけ長く点いているかという競争のようになっていたようでした。
理科の実験では、その実験から「何を確かめたいのか」「どんな疑問を解決するのか」といったことが大切になりますが、子どもたちは、ともすれば、実験そのものに興味が行ってしまいそのことを忘れてしまいます。実験を行う時はこのことを意識しておく必要があります。

もう一つの6年生の学級の授業は体育のバスケットボールでした。昨年の初任者です。
体育では床に座って話を聞く場面が多いのですが、顔が下を向いてしまいやすい姿勢です。指示が徹底しないとケガをする危険が増します。子どもたちの目線が自分に向かっているのを確認して話をすることが大切になりますが、顔が上がっていない子どもが目立ちました。
子どもたちが動いている時に、「上着をどうするんだったか覚えていますか?」と問いかけます。問いかけそのものは悪くないのですが、まず動きを止めてからにしないと、きちんと伝わりません。
寒いせいもあるのですが、子どもたちが準備運動を雑に行っています。寒い時だからこそ、しっかりとする必要があります。ランニングを全体で行いますが子どもたちがばらけています。授業者も一緒に走っていますが子どもたちの様子をよく見ていないようでした。
「子どもたちをよく見る」「指示を徹底する」「準備運動をしっかりする」といったことは事故防止のためにもとても大切なことです。このことをしっかりと意識してほしいと思いました。
この日はドリブルで相手のゴールを目指すことが課題です。上手な子どもを指名して手本にします。子どもに活躍の場を与えることはよいことです。また、子どもに手本を示させるとは、授業者も解説したりどこがよいかを子どもたちに問いかけたりしやすいので積極的に活用すべき方法です。ところが、授業者はどこが、どうよいのかを確認しません。どこが上手かを子どもたちに気づかせて共有する場面が必要でした。子どもたちによくある悪い例を授業者が見せて、見本の子どもと比較させてもよかったでしょう。
まずその場でドリブルさせますが、膝が伸びて毬つきのようになっています。ポイントの確認をしていなかったことも影響しているでしょう。子どもたちが広がってから、ボールの扱いを指示しますが、この状態だとどうしても指示は通りにくくなります。一旦集合させた方がよかったと思います。
続いて緩急をつけたドリブルをさせますが、その時のポイントは何でしょう。こういったことを考える場面がありません。ただ活動しているだけです。見本を見せることもそうですが、試しにやって見て、どうやるとうまくいくかを相談したり発表させたりするとよいと思います。
子どもたちの集合の時の動きが気になります。どの子どもも移動の速さが同じなのです。体育で集合する時は、遠くにいる者はできるだけ速く移動するように習慣づけておくことが大切です。そうしないと、結果的に近くの子どもは待つことになってしまい、だらけてしまうのです。
コーンのまわりをスラロームしながらドリブルで往復します。リレー形式で競争をするのですが、ここでも大切なことの指示やポイントの説明がありません。リレー形式なのですから、次の人にボールを渡す必要があります。子どもたちはボールを放り投げてしまうので、次の人は大変です。次の人がとりやすいようにパスすることを意識させることが大切です。また、3チームに分かれていましたが、待っている時間は結構長くなります。待っている間に何をするのか、何を見て考えるのかといった指示も必要でしょう。友だちのよいところ、改善点などを見て伝えるといった役割を与えたいところです。また、左利きの子どもも右利きと同じ方向に回ります。通常バスケットボールのドリブルは、回る向きで左右の手を使い分けます。こういったところにも配慮して指示をしてあげるとよかったと思います。
ハーフコートを使って3対2の練習をします。チームで作戦を立てるように指示しましたが、全員が参加できていません。一部の子どもで話が進んでいました。また、作戦を評価する場面がありません。やりっぱなしになってしまいました。どのような作戦を考えてその結果はどうだったか、全体で共有したいところでした。
この授業でどのような力をつけたいのかがよくわかりませんでした。活動はありますが、子どもたちが上手くなるための仕組がはっきりしません。体育は上手くなるためのポイントがはっきりしている教科です。子どもたちが上手くなるためにはどのような活動が必要かを考えて授業を組み立ててほしいと思いました。

最後に6人の授業者全員に対してお話をさせていただきました。この学校は来年度道徳の研究発表の会場となって先生方が道徳の授業を公開します。そのこともあり、特に道徳の読み物資料の読み取りについて詳しく話をしました。皆さんがこのことを意識して取り組んでいただければうれしく思います。

道徳で授業者がどのような価値を意識しているのかを考える

前回の日記の続きです。

4年の道徳は、お手伝いを通じて働くことの喜びを知る読み物資料を使った授業でした。
この授業者は、道徳の研修で学んだ「授業者が範読し、所々止めながら子どもとのやり取りを通じて読み取りを素早く行う」という授業スタイルに挑戦していました。学んだことをすぐに実行しようというのはとても素直でよい姿勢だと思いました。

教科書を開かせて範読するので、教科書から目が上がらない子どもが目立ちました。範読で進めるのなら、教科書は開かない方が授業者に集中できてよいと思います。
母親との約束で、ゴミ出しするのですが、夏場なので主人公が「手も、くさいような気がしてきた」という場面があります。授業者はこの「手がくさい」という言葉を意識的に強調します。主人公がこの仕事を嫌に思う気持ちを表しているのでよい工夫だと思います。

主人公は隣のおばさんに「えらいね」とほめられて、「えっ」と思います。「おばさんの言葉が頭の中で何度も繰り返された」という言葉を子どもに問いかけて「グルグルまわる」という言葉を引き出します。「えらいね」という言葉が主人公に大きな衝撃を与えたことを強調するよい活動でした。

生ゴミにスイカが入っていたために重かったことを実感させようと考えたのでしょうか、スイカのゴミの絵をかかせます。重かったことを実感させるのであれば、重たいゴミ袋を用意して子どもに持たせるといった方法の方がよかったように思います。においを強調するのであれば、「手がくさくなるようなスイカのゴミってどんな感じ?ちょっとかいてみて」とするとよかったでしょう。

この後、「えっ」と思った気持ちを考えさせます。子どもからは単純に「うれしい」という言葉が出てきます。「ほめられることが意外だったこと」「ほめられるような仕事だと思っていなかったこと」が浮き上がってきません。主人公が「ゴミ出しを嫌な仕事と思っている」「意味のある仕事と思っていなかった」ことがしっかりと子どもたちの中に入っていなかったようです。また、「おばさんの言葉が頭の中で何度も繰り返された」という言葉の後でスイカのことに場面が戻ってしまっていたので、「言葉がぐるぐるまわった」印象が薄れてしまっていたことも残念でした。「この言葉がぐるぐるまわっていたのはどういうこと?」と問いかけてもよかったと思います。

時間の都合でここまでしか見ることができませんでした。
授業者はあまり意識していなかったのかもしれませんが、働くことを考えさせたいのであれば、「役立ち感」を大切にしたいところでした。「ほめられて」うれしいではなく、「だれかの役に立って」うれしい、「喜んでもらえて」うれしいというところにスポットを当てたいところです。授業者は終始主人公の気持ちを追いかけていましたが、母親の気持ちを考えてもよかったかもしれません。おかあさんの「ありがとう。……」という言葉に注目することで、「役立ち感」を意識させることができたと思います。

前回の日記でも述べたように、道徳では、子どもたちにどのようなことを考えさせたい、意識させたいかでだれにスポットを当てるかが変わってきます。授業者のねらいがそこに現れてくるのです。この授業であれば、授業者自身が働くことにどのような価値を見いだしているのかが問われるのです。そこをもう少し意識していれば、また違った展開になっていたかもしれません。

この続きは明日の日記で。

道徳でどの人物にスポットを当てるかを考える

昨日の日記の続きです。

初任者が担任の5年生の授業は道徳でした。
重い病気のせいで体育を休まなければならず、顔色が悪くしゃべり方も元気がないことや、病気のことをみんなに伝えていないために学級で孤立している女の子が、手術することになった。その女の子と仲よくなっていた転校生がそのことを知って学級全員に事実を伝え、みんなが励ましの千羽鶴と色紙を送り、無事手術を終えたという読み物資料を利用をした授業でした。

内容確認を一問一答で行います。病気の女の子が嫌われていたことに対して、その理由を確認します。「もぞもぞしゃべっていたから」という理由にまわりの子どもは賛成の反応をしません。そこで、別の子どもを指名します。「体育の時間に参加しないから」という答に対しても全員が賛成の意志を示しません。「転校生とはしゃべっていたから」といった答も出てきますが、授業者はこれらの発言を評価しません。どれも理由の一つです。きちんと受容することが大切です。国語の授業ではないので読み取りに時間をかけるのはムダです。中途半端に問いかけるより、授業者がテンポよく押さえていってもよかったと思います。
授業者は「見た目で判断している」ことを言わせたかったようですが、病気の子どもにスポットを当ててもでてきません。もしそうなら、学級の子どもたちにスポットを当てるべきでしょう。結局授業者がその言葉を出しました。

「転校生はどんな人?」という質問に、「見た目で判断しない人」という意見が出てきます。授業者の言葉に引きずられています。この転校生にスポットを当ててもあまり意味はありません。一貫した行動をとる人物です。単純な質問しても子どもたちが揺さぶられることはないのです。
転校生が手術のことを知り、意を決して学級の全員の前に立った時、顔を真っ赤にしていた理由を問いかけます。子どもの反応が薄いので、「どんな時に真っ赤になる?」と質問を変えます。「恥ずかしい時」という答に「いいんですがー」と言葉をつなげ、「先生はどう思ったかと言うと……」とここも授業者が説明してしまいます。結局授業者が説明するのであれば子どもに問いかける意味はあまりありません。資料を読みながら授業者が解説すればいいのです。道徳の授業は読み取りが目的ではありません。子どもたちが、資料の世界にできるだけ早く入り込み、自分のこととして考える変容していくことが大切です。

登場人物の気持ちを考えるまでに、30分近くが過ぎました。じっくり考えを深める時間はもうありませんでした。
ワークシートの課題「転校生が顔を真っ赤にして立ち上がった時の気持ち」を考えさせますが、どんな時に顔を真っ赤にするかを問いかけた時に、授業者がほぼ説明してしまっています。子どもたちが自分のこととして考えることは難しくなっています。手がつかない子どもは資料を見ています。答探しをしているのです。
「一旦鉛筆を置いて、答を聞く時間です」と子どもに指示をだして、考えを発表させます。きちんとけじめをつけさせているのはよいことです。「共感できる考えを聞く」という言葉を授業者は使いました。共感できない考えは排除してよいようにも聞こえます。授業者にそのような意図はないのはわかりますが、こういった言葉づかいは気をつける必要があります。
次の発問は「病気の女の子はどんな思いがあったから手術を乗り越えられたのでしょうか?」というものでした。ちょっと気になる発問です。「思い」で手術が乗り越えられるとうことはそれほど納得感のあることのように思えないのです。この発問をするのであれば、手術前の不安な気持ちをもっとクローズアップしておかなければいけません。「こんな気持ちで手術が乗り切るのだろうか?」といったことを問いかけておかないと唐突に感じてしまいます。
子どもたちからは、「みんなと一緒に旅行に行きたい」「みんなが千羽鶴をつくってくれたから」といった答がでてきます。それを「仲間の支え」と授業者がまとめます。こういう展開をしているとたとえ道徳でも、「これが答なんだな」と答探しをするようになってしまいます。

友だちと支え合うことが大切として、この学級での出来事をスライド見せます。ここでは、子どもたちはとても集中していました。この後話をしている時に、一部の子どもがスライドに視線を残したままでした。授業者はそのことに気づいてディスプレイを消しました。子どもたちを見ることができていました。

この授業は考える立場や視点が揺れていたために、子どもたちが自分のこととして深く考えることがありませんでした。「転校生」が病気の女の子のことを学級に伝えた気持ち、「病気の女の子」が手術を乗り越えた思い、「仲間」の支えと一定していません。
道徳では、気持ちが大きく変化した者にスポットを当てるのが一つの方法です。この資料で一番気持ちが変わったの、実はその他大勢の「学級のみんな」なのです。その変化が「病気の女の子」の気持ちを変えたのです。そのきっかけとなったのが「転校生」です。
「学級のみんな」が「病気の女の子」を嫌っていた理由をただ考えるだけでなく、自分だったらどうかを、資料の読みを途中でいったん止めてたくさん話させます。「転校生」の話を聞いた後、同様に「学級のみんな」の気持ちの変化を問いかけ、その理由を考えさせます。「知っていたら、嫌わなかった?本当?」と揺さぶり、何がいけなかったのかを考えさせるのです。授業者がねらっていた「見た目で判断しない」といった言葉もここで出てくると思います。授業者が考えさせたかったこととずれるかもしれませんが、「相手のことを知ろうとする」「相手に伝えようとする」という、お互いが垣根なく言い合える聞きあえる関係の大切さを子どもたちが考えることができたのではないかと思います。

初任者で、まだまだ経験不足なので仕方がないと思いますが、道徳で子どもたちに何を考えさせたいのか、どんな言葉を引き出したいのかをしっかりと意識して授業を組み立ててほしいと思います。そうすることで、読み物資料で、どこに時間をかけ、誰にスポットをあてればいいかが見えてくると思います。

この続きは次回の日記で。

話し合いの仕方を考える授業から学ぶ

昨日の日記の続きです。

2年生のもう一つの学級はグループで話し合いをするときに気をつけることを考える国語の授業でした。
話し合いのCDを聞いて、話し合いの仕方と気をつけることを確かめる場面です。言語活動の充実で「話し合い」を扱う教材が増えてきています。この授業に限らず「話し合い」の定義が曖昧になっているのを感じます。グループで相談して自分の考えをまとめることを「話し合い」と言っています。全体で一つの結論を出すのも「話し合い」です。この教材では結論を出す「話し合い」を扱っています。授業者はこのことを意識させようとしていたようですが、グループでの活動も「話し合い」と言っていることもあり、子どもたちにはその違いは明確になっていないようでした。
「上手な話し合い」の仕方を考えるといった言葉も、どういうことなのかわかりません。ここをきちんと押さえていないと、ただ話し合いでそれぞれが「何を言っているか」を取り上げるだけで、それがどういう意味を持っているのかわからなくなります。形式的に手順を追うだけになってしまいます。
子どもたちが考えるための視点や方向性がはっきりしていないので、ただ気づいたことを言い合うだけです。子どもたちが気づいたことをもとに、授業者が話し合いの流れ(手順)を整理していきます。最終的には子どもたちが授業者のまとめを写すだけになってしまいました。なぜ、そのような役割が必要なのか、話し方をしなければいけないのかを、子どもたちが考える場面がありません。2年生なので難しいところもありますが、「話し合い」で大事なことは何かを考えさせることが大切です。算数で「こうやると答えが出るよ」と解き方の手順を教える授業のようになってしまいました。
子どもたちと授業者、子ども同士の関係もよい学級です。授業規律もしっかりしているだけに残念でした。

まず「みんなの考えをまとめて結論を出すことを目的とした話し合い」であることを明確にする必要があります。その上で、結論はどのようなものであるべきかを子どもたちに考えさせることが必要です。「一人の意見で決まってはいけない」「みんなが納得するものでなければいけない」といったことに気づかせたいところです。「グループの時には同時に意見を言いたい人がいたらどうする?」とグループでは互いに譲り合えばすむことを確認した上で、「学級全員で話す時、同時に何人も意見が言いたい人がいたらどうする?」といったことを問いかけることで司会者の必要性に気づかせることもできます。おそらく2年生にでは事前に考えることができるのは、この程度ではないかと思います。
話し合いのCDをからどんなことをやっているかを早く整理して、なぜこのようなことをしているのか理由を考えさせることに時間を使うとよかったでしょう。「司会者が発言者に問い返した(質問した)のはなぜだろう?」「『他に意見はありませんか』と聞いたのはどうしてだろう?」といったことを、話し合いの目的(結論がどのようなものであるべきか)を根拠にして考えさせると、深まったと思います。
また、意見を言う時に気をつけることはどんなことかを考えさせるのであれば、CDの発言を取り上げて、ふだん友だちと会話する時との違いに気づかせるという方法もあります。授業者は態度面も気づかせたいと思っていましたが、CDでは話し合いの様子を見ることはできません。そのことを逆手に取って、ロールプレイをさせてもよかったかもしれません。「発言者はどこを向いてしゃべっているか?」「聞いている人はどこを向いているか?」「聞いている人はどんな反応をしているか?」といったことを焦点化すると、面白いと思います。

話し合いの仕方を考えるといった授業は、文章の読み取りとは違った要素がたくさんあります。スキルとして教えるだけでなく、話し合いとは何のために行うのかといった本質に迫るような授業を目指すことが大切だと思います。今回授業を見せていただいて、私自身このことについて具体的に考えることができました。よい学びの機会をいただきました。

この続きは明日の日記で。

算数の授業で用語や根拠の大切さを考える

遅くなりましたが、1月に訪問した小学校の話です。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は若手を中心に6人の授業アドバイスを行ってきました。

2年生の担任の初任者の授業は算数の100cmを超える長さでした。
子どもたちとの関係は良好で、指示もきちんと通ります。子どもたちが指示に従えた時にほめることもできます。

前時の復習で両手を広げた時の長さが100cmを越えていたこと確認します。指名した子どもが答えた時に子どもたちがハンドサインを出すのですが、数人です。ハンドサインを利用するのであれば全員にきちんと意志表示させることが必要です。
同じ質問を複数の子どもにした時に、子どもたちが「同じです」と答えます。授業者はそれを許してしまいますが、ここは「もう一度言ってくれる?」と本人の言葉で言い直させたいところです。同じといっても全く同じことはまず言いません。微妙に表現が違っていたり、言葉を足してくれたりします。その違いをクローズアップすることで考えが深まったり広がったりします。日ごろから「同じです」を許さないようにしたいものです。

30cmの定規がたくさん必要だったこと、測ったら120cmくらいだったことを思い出させようと問いかけますが、すぐに指名をしていきます。子どもたちが振り返って考える間がありません。ついていけない子どもは戸惑っています。この日は120cmの別の表し方を知ることをめあてとして説明しますが、別の「表し方」という言葉が腑に落ちていない子どもも目立ちます。

板書中に子どもが質問の手を挙げましたが、黒板ばかり見ているので授業者は見落としてしまいます。また、ノートを使わない場面でノートに書いている子どもがいましたが、そのことに気づかずに指示が遅れてしまいました。初任者で仕方がないのですが、ちょっと余裕がなかったようです。子どもの様子を常に意識して見ることを忘れないでほしいと思います。

板書を写し終れば、授業者の方を見るように指示をします。この時期であれば、こういった指示はしないでも自然によい姿勢をとって、授業者に集中するようになってほしいところです。指示が通るようになれば、早い時期に「先生は次に何を言うと思う?」「次はどうすればいいかな?」と子どもたちが指示を待たずに自分で判断してよい行動がとれるようにしていくことが大切です。一つひとつ指示をして子どもたちを動かしていると、指示待ちの子どもが育ってしまいます。指示がきちんととるようになったら、次のステップとしてこのことを意識してほしいと思います。

長さの単位について問いかけますが、子どもたちは「単位」がよくわかっていないようです。何を答えていいのかわからない子どもが目につきました。「単位」といった用語は日ごろから定義を確認して、きちんと定着させておくことが大切です。
「センチ」という答を修正せずにそのまま使います。というよりも、授業者自身が「cm」を「センチ」と読んでいます。日常生活では「c」や「m(ミリ)」を補助単位(接頭辞)として使うのは長さの場合が多いためにm(メートル)を省略することが多いのですが、算数では省略することは避けるべきです。高学年で「m」「c」「d」「da」「h」「k」などの補助単位(接頭辞)を学ぶ時に混乱する恐れもあります。きちんと「センチ」「メートル」と言うことで単位の構造を意識させることが必要です。
続いて、新しい単位として「m」を導入し、書き方を練習します。ここで「cm」の「m」と同じであることを押さえて、「cm」の書き方と関連づけたいところです。こうすることも単位の構造を意識することにつながります。

120cmの別の表し方を考えるために、「cm」と「mm」の関係を復習します。「1cmは何mm?」「12mmは?」と問いかけます。ここでも「mm」を「ミリ」と読んでしまいました。問いかけに対して、「10mm」「1cm2mm」と答を確認するだけで、どうしてそうなのかは押さえません。「1cm」が「10mm」となるのは定義(規則、約束)です。「12mm」は「10mm」と「2mm」なので「1cm2mm」です。「10mmは1cmだから、1cmと2mmで1cm2mmになるんだね」といった言葉がほしかったところです。
算数は根拠がとても大切な教科です。「定義」なのか「性質」なのかといったことも意識する必要があります。答だけを提示することがないようにしてほしいと思います。

この続きは明日の日記で。

わからない子どもがわかるようになる場面をつくる

前回の日記の続きです。

2年生の道徳は、高齢者への思いやりを考える授業でした。
子どもたちは落ち着いていますが、表情があまりよくありません。私たちが参観しているので緊張していたのかもしれません。

最初に「お年寄りが困っているのを見たことがあるか」「お年寄りが困っていたら声をかけるかどうか」といったことを子どもたちに問いかけます。子どもの発言に対して評価や他の子どもにつなぐことはせず、指名された子どもが答えていくだけです。子どもたちが友だちの方をあまり見ようとはしないのが気になります。授業者が発言者だけを見ていることも要因でしょうか、今一つ学級全体が集中しません。
機械の操作など、お年寄りが困ることを子どもたちに言わせますが、子どもからでてきたことをきっかけに、結局授業者がしゃべってしまいます。ここまでにかなりの時間を使ってしまいました。ここは本題ではないので、あまり時間を使わなくてもよいように思います。困っている年寄りに声をかけない子どもが多かったので、そこで止めて置いて、授業の最後にもう一度同じ問いをして子どもの変容をとらえても面白かったかもしれません。

資料を音読するのですが、読んでいない子どもが目につきます。授業者は資料を見ているのでそのことに気づけませんでした。資料を読む時なども子どもたちに目を向けることを意識してほしいと思います。
資料を見ないように指示して、登場人物や気持ちについて質問します。反応しない子どもに「○○さん」と声をかけると挙手をしてくれます。こういったかかわり方はさすがです。指名するとその子どもが返事をしません。もう一度「○○さん」と声をかけて「はい」と返事をさせます。「返事!」と叱ったりしないのはよいのですが、子どもがよい行動をとったこと評価をしないことが気になります。挙手をしてくれれば「おっ、手を挙げてくれた。うれしいね」、返事をしたら「いい返事だね」といったように、ポジティブに評価したいところでした。
登場人物の確認だけでかなりの時間を使いました。読み取りが授業の目的ではありませんから、ここに時間を使う意味はありません。資料を見ないようにしたために、余計に時間がかかりました。資料を見ない意味はあまりないように思いました。

続いて主人公の少女の気持ちを考えていきます。近所の一人暮らしのおばあさんの家で「よく来てくれたね」と声をかけられた時の気持ちを問いかけました。「うれしい」「楽しい」といった言葉が返ってきます。理由を聞くと「おばあさんのことが好き」という自分の感情が出てきます。子どもたちは自分たちの祖父母が優しくて好きなので、その感覚で答えるのです。ここは、「おばあさんが喜んでくれる」という言葉を引き出したいところですが、授業者が説明してしまいました。ちょっと残念な場面でした。「主人公が喜んでくれるのを見たら、おばあさんはどう思う?」といった質問をすることで、喜んでもらえると自分もうれしいことに気づかせるという方法もあったと思います。主人公の訪問をばあさんが喜んでいることに思いが至れば、おばあさんが喜んでくれると主人公もうれしいことを子どもから引き出せたと思います。

友だちとの約束よりもおばあさんから頼まれた水やりを優先した時の気持ちを考えさせる場面では、おばあさんが水やりを「やって」ではなく「やってくれる」と言ったことを考えさせました。おばあさんの思いを考えさせるよい発問だと思いましたが、一人発言した後、他の子どもに「大体同じ?」で済ませてしまいました。よい発問だからこそ、たくさんの子どもに自分の言葉で発言させたかったところです。子どもが発言するとすぐに授業者が言葉を足していく形で進んでいきました。子どもの言葉に、子どもの言葉を重ねていくようにしたいところでした。

お年寄りを大切にしようとする気持ちを持たせたいという授業者のねらいはよくわかりますが、単に「お年寄りは大切にしなければいけない」という教条的なものになってしまったように感じます。内発的に「お年寄りを大切にしたい」と思ってもらえるようにするためには、主人公の側ではなく、お年寄りの側に立ってその気持ちに寄り添った方がよかったのかもしれません。「お年寄りの気持ちに寄り添った時に、自分に何ができるだろうか?」「そうすることで、自分はどんな気持ちになるのだろうか?」そんなことを考えさせても面白かったかもしれません。

これ以外の学級も参観させていただきました。
特別支援学級では、子どもたちが元気に活動している姿を見ることができました。先生方と子どもたちの関係も良好です。友だちの発表を後ろでしっかりと見ることができる子どもがいました。友だちの発表を落ち着いて見ることができることも素晴らしいことです。発表している子どもに意識が向いてしまいがちですが、こういった子どもを意識的にほめることができるとよいと思いました。

3年生の算数は「べつべつ」と「いっしょ」の2つのやり方で計算する場面でした。
「べつべつ」に計算するという言葉は、大人が思う以上に抽象度が高いものです。「ジュースはいくら?」「みかんはいくら?」とスモールステップで確実に解かせることも必要です。その後で。計算を「べつべつ」にやったと説明すると低位の子どもも理解しやすかったと思います。
計算式とその答を発表させたあと、一部の子どもたちが「いいです」と言って次に進んでいきます。つまずいている子どもがいないことを確認しているのならいいのですが、そうでなければ、答を聞いてもつまずいている子どもはできるようにはなりません。つまずいている子どもができるようになる場面をどのように作るかを意識してほしいと思います。

4年生の国語の授業は10年後の私に手紙を書く場面でした。
子どもたちのノートには、何をどの順番で書くかという構造が書かれています。それをもとにして下書きを書くのですが、書けている子どもと手がついていない子どもに分かれていました。手がつかない子どもには、書けるために足りないものがまだあるということです。この課題に取り組むための足場がそろっていないのです。書くための材料が整理できていないのかもしれません。授業者は子どもたちの作業中に指示を出しますが、これではなかなか伝わりません。一旦作業を止めて、学級全体で足場をそろえる必要があったと思います。

5年生の算数は割合の問題に取り組んでいる場面でした。
机間指導でつまずいている子どものところに行きますが、その子どもにかかりきりで全体を見ることができません。まわりの子どもに教えてもらうようにうながすといったことが必要です。また、つまずいている子どもが多いようであれば、まだ学級全体が問題に取り組める状況になっていないということです。一旦作業を止めて、見通しを持たせる時間を取る必要があります。
子どもの答を確認して共有しますが、どうやって考えたかを発表させて共有しません。くどいですが、結果である答を共有してもわからない子どもがわかるようになるわけではありません。答を知ることはできても、考え方を身につけることはできないのです。わからない子どもがわかるようになる場面をどのようにしてつくるのかが課題です。

最後に全体に対してお話しさせていただきました。
授業規律や先生と子どもたちとの関係はしっかりとできています。この学校の課題は、わからない子ども、つまずいている子どもが、わかるようになる、できるようになる場面をどのようにつくるかです。そのために大切になるのは、困っている子どもたちに寄り添って授業を進めることです。常に先生が教えようとしてもすべてに対応することはなかなかできません。だからこそ子ども同士で解決するような場面をつくることが大切になるのです。このことを意識しながら授業を進めてほしいと思います。

返しの難しさを感じた授業

昨日の日記の続きです。

1年生の国語は物語で登場人物の気持ちを読み取って音読を工夫する授業でした。
授業規律もしっかりできていて、子どもたち対する指示も的確です。興味関心を持たせる工夫など、学ぶべきことの多い授業でした。
音読で子どもたちに「強く」「弱く」という強弱や「早く」「ゆっくり」という緩急などを意識して読ませます。できれば、「表題」や「作者」という用語やそれと関連して音読する時の間なども教えておきたいところでした。
「いつの話」「だれが何をしているのか」といったことを意識して読むように指示をします。目標を持たせることはよいことです。子どもたちは一生懸命に読んでいるのですが、音読に意識が集中しているようにも見えました。音読と読み取りと明確に分けてもよかったかもしれません。読み取りについては、それがわかる所に線を引かせると、何となくではなく根拠を持つことができると思います。
発表者には本文のどこに書いてあったかをちゃんと確認します。とてもよいことです。「最初のところに書いてあった」という子どもの答に、そこをちゃんと読ませます。これもよい指示ですが、本人に読ませずに、他の子どもに読ませたり、確認したりするといったことをしてもよいでしょう。手を挙げなかった子ども、聞いているだけの子どもを動かすことも大切だからです。
登場人物の確認で、「いいです」「同じです」という反応が返ってきますが、全員がきちんと反応しているわけではありません。何となくで先に進むことがあると、次第に子どもたちは受け身になっていきます。何人も指名して、「同じ」ではなくもう一度言い直させるとよいでしょう。
「やぶれしょうじ」の意味を確認しますが、しょうじを「やぶって」という子どもの言葉でそのまま進めます。「やぶれている」「やぶれたまま修理していない」ということ押さえる必要があります。また、作者の表現に敏感になって、そこから情景を読み取る力をつけることが大切です。「どうして敗れたままにしているの?」と子どもたちに問い返すことで、「やぶれしょうじ」という言葉から貧しい生活の様子がうかがえることに気づかせたいところでした。
登場人物のおかみさんとたぬきの様子を子どもたちに前に出てやらせます。小道具の糸車とお面に子どもたちは大喜びです。ここで「先生のつくったたぬきのお面は、目は回らないけれど」と本文のたぬきの目が糸車に合わせてクルクル回る表現を意識させます。たぬきの様子が書かれている本文の記述を抜き出して、子どもたちに気づかせてもよかったもしれません。
子どもたちの音読に合わせて、指名された子どもが演技をします。糸車の回る音だけの場面でおかみさんの回す糸車は「キーカラカラ キーカラカラ」「キークルクル キークルクル」という擬音語で表現されています。2つの音ははずみ車の部分の音と糸を巻き取る部分の違いを表わしているのでしょう。小道具の糸車はそこまで細かくつくられていませんが、音が2つに分かれていることも読み取らせたいところでした。また「キー」という音がついていることにも注目させる必要があると思います。ただ、「カラカラ カラカラ」「クルクル クルクル」だけではどう違うのか、それを意識して演技させたいところです。「キー」というきしむ音が入ることで、糸車が古くて痛んでいること、そこからも暮らしが楽でないことを読み取らせたいのです。

用意したおかみさんとたぬきの絵の吹き出しに気持ちを書き込ませます。書けた子どもは手を挙げて先生が来るのを待っています。授業者は○をつけながら声かけをします。子どもたちはとてもうれしそうですが、挙手に頼っているので授業者はあちこちへと大忙しです。手がつかない子どもにも対応しているので、挙手をしている子どもに気づかなかったり、なかなか○つけに行けなかったりしています。ここは、挙手に頼らず列にそって全員に○つけをする「○つけ法」で行うとよいでしょう。手がついていない子どもには一言アドバイスをして、その子たちだけもう一度あとから○つけに回るのです。
子どもたちに、おかみさん、たぬきの気持ちを発表させますが、どこからそう思ったかは問い返しません。子どもなりに根拠があるはずですから、そのことを本文と関連づけて確認するとよかったでしょう。「かわいいなあ」という答に対して「ここに書いてある」と反応する子どもがいます。授業者はそれを取り上げませんでしたが、ちょっともったいないと思いました。
子どもは○ももらっているので発表したくてたまりません。テンションが上がっています。隣同士で聞き合うといったことをしてもよかったでしょう。

おかみさんの気持ちを意識して音読をさせます。子どもたちが考えた登場人物の気持ちと、強弱や緩急をつけるといった読み方の関連がはっきりしません。「どういう風に読むといい?」といった問いかけもするのですが、子どもからは気持ちの部分は出てきても具体的な読み方の説明には上手く結びつきません。ちょっと読ませてみて、子どもたちに「どんな工夫をしていた」とたずねたり、「強く読む時はどういう時?」「かわいいと思ったら、どういう風に読むといい?」と問いかけたりすることも必要だったと思います。

根拠を大切にしようとしていることはよくわかります。しかし、子どもはなかなか明確にすることができません。子どもの発言に対して、できるだけ具体的に問い返すことが必要です。子どもへの問いかけや返しの言葉を工夫するとよいでしょう。
また、この授業では登場人物の気持ちを読み取ることを主眼にしているので、情景の描写にはあまり触れませんでした。時間の関係もあるのでそう判断したのでしょう。情景描写の読み取りについてもどこかで時間が取れるとよいと思います。
力のある方なので、基本的なことは本当にしっかりとできています。だからこそちょっとした工夫で授業はより一層素晴らしいものになると思います。今後が楽しみです。

この続きは次回の日記で。

子どもたちの活動が主体の授業の難しさを感じる

遅くなりましたが、1月に訪問した小学校の話です。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日はベテランと中堅3人の授業アドバイスと学校全体に対してお話をさせていただきました。

6年生の国語の授業は漢字クイズをつくる場面でした。クイズの種類を「読み方山」「使い方山」「送り仮名山」と山に例えて、子どもたちが自分で問題をつくるのがこの日の課題です。
最初に前時にやったクイズについて復習します。指名された子どもは教科書やノートで確認をしようとするのですが、他の子どもは反応しません。他人事になっています。一問一答の形で授業が進むことが多いのかもしれません。
質問に対して積極的に反応する子どもが一部に偏っています。授業者がもっと積極的に指名すれば反応してくれる子どもたちに見えます。授業者がもっと多くを求めてもそれに応えてくれる子どもたちだと思います。

課題を提示後、「発展山」に挑戦してもよいことを伝えます。やる気のある子どもでしょう、「部首」「書き順」と発展問題のジャンルを話します。授業者はそれをすぐに板書しましたが、発言者と授業者だけで終わっています。板書する前に、他の子どもたちに「どんな問題か想像がつく?」と発言を共有したり、「この他にもどんな問題がつくれそう?」と広げたりしたいところでした。
グループで作業をするのですが、グループの形になる時に動きが遅いことが気になりました。課題は理解していますが、どのようにしてつくればいいのか見通しが立っていなかったからのように思いました。

ここで、「分担して、一人が1種類の問題をつくる」「一人2問つくる」「できたら班でやってみる」「掲示用の紙に問題を書き直す」といった一連の作業を説明します。口頭では追いきれません。こういった指示はグループになる前にディスプレイを使って説明するとよいでしょう。指示が終わった後もディスプレイに表示しておくことで、すぐに確認ができます。
子どもたちは、どこから手をつけてよいのかわからないために、エネルギーが低いように感じました。自信がないのでしょう、「先生これであっている?」と授業者に確認します。それに対して、授業者がていねいに対応していました。せっかくグループで活動しているので、グループの他の子どもにつなぐとよいのですが、一人ひとりが違う作業をしているのでかかわり合うことが難しくなっています。「グループで同じ種類の問題をつくる」、グループごとに全部の種類を用意したいのであれば、「ジグソーのように同じ種類で集まって問題をつくった後、元のグループに戻る」といった方法もあります。

気になったのが、この授業の流れからは、子どもたちにどのような力をつけたかったのかよくわからなかったことです。辞書や漢字練習帳をぺらぺらめくっている子どもが目立ちます。意図を持って活動できていません。「漢字に興味を持たせたかった」のか、「漢字の知識を増やしたかった」のか、「辞書の使い方を身につけさせたかった」のか、いずれにしてもそれが明確に伝わってきませんでした。
進捗状況も子どもによって大きく異なっていました。途中で、活動を止めて子どもたちに困っていることを言わせたり、何を使ってどのようなことを調べたかといったことを発表させたりする場面が必要だったでしょう。足場をそろえることで進捗のばらつきは緩和されます。また、「読み方がたくさんある漢字を探す」「同音異義語を探す」「訓読みを確認する」といったことを共有することで、授業のねらいもはっきりしてくるはずです。

子どもたちの活動は、この授業時間内では終わりませんでした。発表用に大きく書き直すことも時間がかかってしまった要因です。授業者は教室に貼ってみんなで見合うことをねらっていたので仕方がありませんが、全体で発表するだけなら実物投影機などを使うことで時間を大きく減らすことができます。こういった活動ではICT機器を活用することも視野に入れたいところです。

子どもたちの活動が主体の授業は、子どもたち任せておけばよいから楽だと思う方もいますが、教師主導の授業よりもはるかに難しいところがあります。課題の与え方一つで動きが変わってきます。また、子どもたちは授業者の予想通りに動くわけではありません。グループや個人によってその動きも異なってきます。子どもたちの様子を観察して、状況に応じた対応が求められます。高い授業力が求められるのです。
この授業を通じて改めてそのことを考えさせられました。この授業から、私も授業者も多くのことを学べたと思います。

この続きは明日の日記で。

学校の次の課題が見えてくる

昨日の日記の続きです。

授業研究は3年生の国語の授業です。「科学読み物を紹介しよう」という単元の第2時で、教科書の本文「ありの行列」の最初の時間でした。
この単元の最終目標である紹介文を書くことを確認してから授業は始まりました。ゴールを意識することはよいのですが、それとこの時間の関係がはっきりしません。内容がわかっていないと紹介できないので、「読み取り方」を学ぶことを明確にしておきたかったところです。
「どんな組立になっているか」を考えて読むことがめあてです。「つながりに気をつけて」という表現もします。「組立」「つながり」がどういうことなのかを確認しておきたいところでした。過去に学習したのであれば、その時の文章を提示して思い出させるといったことが必要だと思います。

授業者の範読を聞いて、初めて知ったことを後から発表してもらうと伝えます。目標を明確にすることはよいことです。この時鉛筆を手に持っている子どもと持っていない子どもがいることが気になりました。「初めて知ったところに線を引く」という課題にして、鉛筆を持つことまで指示した方がよかったかもしれません。
本文に「じょうはつ(蒸発)」という言葉がありました。子どもたちが「蒸発」という言葉を知っているのかちょっと心配でした。確認をしておきたいところです。
子どもから「お尻から液が出る」「餌が多いほど匂いが強くなる」といったことが出ます。この時、友だちの発言を聞いていない子どもが少し目につきます。ここはあまり時間をかけたくないところでしょうが、どこに書いてあったか確認することも必要でしょう。

文章を形式段落に分けさせます。上手く分けることができない子どももいます。形式段落の定義が全員に定着していないようでした。確認が必要だったようです。
段落数の確認で自信のない子どもはまわりの様子を見て手を引っ込めてしまいます。よくあることなのですが、間違えても恥ずかしくない雰囲気ができるとよいでしょう。

授業者がこういった文章には「問い」があると説明します。問いの文はどれかを探させます。「それなのに、なぜ、ありの行列ができるのでしょうか。」という文の「それなのに」を問いに含むかどうかで意見が分かれます。これは「問いの文」をどのように定義するかで違ってきます。「それなのに」の「それ」が、「ありは、ものがよく見えません。」を指していることを押さえて、「それなのに」を含めるのなら指しているものも一緒にしないとよくわからないことを確認するとよかったでしょう。両方を合わせて問いの文とする、1文にするのなら「それなのに」を外した方がよいといったところで納得させるとよかったでしょう。
ここは問いの文を厳密に定義することではなく、文章の構成を考えることがねらいのはずですから、あまりこだわりすぎない方がよかったと思います。
結局、問いの文は「それなのに」を除外することにしましたが、根拠は子どもたちには明確になっていませんでした。

構造を意識するのであれば、「疑問を持つ⇒調べる⇒答がわかる」という過程を意識して、この文章がこのような構造になっているのか考えさせるという方法もあります。
最初に問いがあることから、答はどこかにあるはずだと問いかけて、その部分とそれ以外に分かれていることに気づかせる方法もあります。
いずれにしても、その上で3つに分かれることを「はじめ」「中」「終わり」の用語とともに確認したいところでした。しかし、授業者はこれも天下りで「はじめ」「中」「終わり」の3つに分かれると教えました。何かに疑問を持って調べたり考えたりしたことを伝えようとすると、こういう構造になることに気づかせたいところでした。

3つに分かれることを説明した後で、答の文を確認させました。答の文を「このように、においをたどって、……」の「このように」を含めて線を引く子どもが何人もいました。「それなのに」を除外する根拠が明確でなかったので、混乱しているようでした。「それなのに」がダメだったから「このようにも」だめという意見が出ました。本質的な説明になっていませんが、授業者はそれでよしとしました。ここがこれほど子どもたちの争点になるとは思っていなかったのでしょう。恣意的に進んでしまいました。

結局、子どもたちとっては、文の構造を考えるのではなく、問いの文、答の文を見つけることが中心の活動になってしまいました。
「文の組立とはどういうことか?」「つながりとはどういうことか?」「『はじめ』『中』『おわり』の構成と『問い』と『答』の関係はどうなっているのか?」といったことをどのようにして考えさせ、教えるのかを整理しておく必要がありました。
一読した時に子どもから出た「不思議」という感想の言葉を活かして、「筆者も『不思議だ』と思ったんだね」とそこから「問い」「実験・観察」「答え」というこの文章の構造につなげても面白かったかもしれません。

授業検討会はグループに分かれて行われました。
学級の授業規律のよさや子どもたちが授業にしっかりと参加しているといったよい点がたくさん語られます。この学級だけでなく、学校全体としても授業規律や参加度はよくなっていると感じます。うれしいことです。
先生方の論議も「問いの文」をどう扱うべきだったか、文の構造とどう結びつけるかが中心となっていました。授業の深い部分について先生同士で話し合うことができていることをうれしく思いました。複数の学級がある学年では、授業のアドバイスを一緒に聞きに来てくれます。その一方で、1学級しかない学年もあります。相談相手に困ることもあるかもしれませんが、こういった機会を通じて気軽に話せる関係ができていくことを願っています。

授業規律や先生と子どもたちとの関係ができている学校です。次の課題は一つひとつの授業でどのような力をつけるのかを意識した教材研究です。授業技術を活かすにも、教材研究がその基本です。しかし、これはそれほど簡単ではありません。小学校のように受け持つ教科が多いと、教科書の内容をしっかり理解するための時間を確保するのも大変です。毎日の教材研究を一人で行うのは大きな負担です。互いに気軽に相談できることがとても大切になります。学校のチーム力が求められます。来年度、先生方がどのようにこの課題に取り組んでいくのか楽しみです。私も先生方の取り組みがより前に進めるようお手伝いしたいと思います。

子どもの実態を把握することが大切

昨日の日記の続きです。

4年生の算数の授業は、子どもたちがとてもよい表情で授業を受けていました。
子どもの発表に拍手が起こります。しかし、全員が拍手をしているわけではありません。拍手が形式的になっているように思いました。もし発表が間違っていたら、子どもたちはどう反応するのでしょうか?おそらく拍手は起こらないでしょう。発表した子どもは落ち込むかもしれません。形式的な拍手ではなく、意味のある拍手にすることを意識するとよいでしょう。具体的には、拍手した子どもにその理由を問うのです。形式的な拍手はしなくなります。本当に納得した時、すごいと思った時にされるものであれば、拍手が起きないのが普通になります。その代り、授業者が受容したり、他の子どもたちに同意を求めたりして認め合えるようにすればいいのです。
確認の場面で全員の手が挙がらなかった時に、すぐに指名せずに隣と確認させました。全員参加が意識できている証拠です。
この日は、真分数と仮分数という用語と分数の大きさの関係についての学習でした。用語は知識ですから教える必要があります。これを子どもたちに聞くと塾や通信教育で学習している子どもしか答えられません。また、はっきりしない説明でかえって混乱することもあります。授業者が子どもたちに未習の知識を問いかける場面がありましたが、授業者が説明すべきだったと思います。
真分数、仮分数の定義は、分子が分母より小さい、分子が分母と同じか等しいとなります。分子と分母が等しい時はどちらか?「以上」「未満」といった言葉の定義の再確認などが必要になります。また、分子<分母なら1より小さいということを結論として整理しますが、その理由をあまりきちんと押さえませんでした。「絶対に1より小さい?」「分数が1より小さかったら分子は分母より小さい?本当?」と子どもたちを揺さぶり、自分の言葉できちんと説明できるようにさせたいところでした。結論だけでなく、その根拠をきちんと意識し言語化させることも大切にしてほしいと思います。
練習で、数直線上を示してその値が真分数か仮分数かを問う場面がありました。子どもたちに結果を言わせますが、その根拠を確認しません。小学校では定義と性質を混乱する傾向があります。ここでは「1より小さい」「1以上」といった理由を言わせるだけでなく、「どうして1より小さいと真分数になったの?」と定義に戻って確認するといったこともしたいところでした。
この授業で一番大切なことは何かをしっかりと教材研究していないと、どうしても押さえるべきことが曖昧になります。授業規律や子どもとの関係がよいだけにこのことを意識してほしいと思います。

もう一つの4年生の授業は算数の資料の扱いの授業でした。度数分布表を「正」の字を使って素早くつくる練習をする場面でした。
「正」の字を使って資料の度数を調べるやり方は知識として教えるべきことです。きちんと教えて全員が素早くできるようにすることが大切です。
子どもたちが練習問題に取り組んでいますが、時間がかかっていることが気になります。その理由はすぐにわかりました。子どもたちは、ケガをした場所の数を調べるのに運動場なら運動場だけを探して1つ見つかるごとに「正」の字を1画ずつ書いているのです。これでは、普通に運動場はいくつか数えることと変わりありません。合計を数えるのにも「正」の字を使っている子どももいます。「正」の字を使う意味がありません。授業者はこのことに全く気付いていませんでした。子どもたちの手元を見ればすぐにわかることです。答の確認の場面でも、項目ごとに「正」の字がどうなっているかを示します。これでは子どもたちの間違いを強化してしまいます。
やり方の説明場面を見ていなかったので何とも言えませんが、1つ該当のものがあると1画書き足すことだけが強調されていたのではないかと思います。実際に全体でやって見せ、今までのやり方と比較して、そのよさを子どもたちに言わせるといったことが必要でしょう。その上で、目的によってどのような表をつくればよいのかを考えさせることも大切です。表を与えて穴を埋めるのではなく、何のための表かを意識して取り組ませるのです。また、表に合計の欄があることの意味も考えさせたいところです。間違いを修正するために、合計をどう利用するのかも教えるべきことです。
子どもたちのつまずきを意識して教材研究をし、常に子どもたちの実態を把握することを忘れないでいてほしいと思います。

5年生の道徳の授業は命をいただくことを考えるものでした。
授業者は子どもたちに配る資料を工夫していました。先を読まないように場面ごとに区切って、次の場面は紙を折らないと見られないようになっています。区切りごとに主人公の行動の選択肢が書かれていました。読みながら、どの選択肢を選ぶのか想像させるのです。子どもたちを資料に引き付けるにはとても面白い工夫です。
資料は、家で食用の山羊の面倒を見ることになった主人公が次第に愛情を持つようになったが、自分の寝ているうちに山羊は食べるために殺されたという話です。子どもたちは、主人公はどうするだろうと想像しながら話に引き込まれていきます。最後の方では、選択する場面で「主人公だったら?自分だったら?どっち?」と質問する子どもも出てきました。自分に引き付けて考えていることがわかります。授業者は子どもの選択に対して言葉を足しすぎているように思いました。興味をひかせたいという気持ちはわかるのですが、雑談になっている場面も目に付きました。
「山羊を殺されてどうする?」という問いかけにグループで話し合います。自分の課題となっていたのでしょう。子どもたちが素早くグループの隊形になったことが印象的でした。
時間の関係でここまでしか見られませんでしたが、授業の流れとしては、少し細かく資料を区切りすぎ、行動の選択に時間をかけすぎたように思います。「山羊に愛情を感じるようになったこと」「山羊が食べられることへの葛藤」を押さえて、早く「山羊が殺されてどうする?」という課題に向かわせたいところでした。この後主人公のおじさんの「命をもらわなければ生きていけない」という言葉をもとに、もう一度考えさせる展開だったでしょうが、おそらく時間が足りなかったのではないかと思います。子どもたちに興味をひかせ、考えさせる構成はよかったと思いますが、どこに時間をかけるかをもう少し意識できるとよかったでしょう。一般的に道徳の授業は資料の内容把握に時間をかけすぎる傾向が強いように思います。できるだけ早く子どもたちに考えさせ、そこに時間をかけたいところです。
授業者は毎回先輩と相談しながら、工夫をした授業を見せてくれます。この挑戦する姿勢を忘れずに毎日の授業に臨んでほしいと思います。次回の訪問も楽しみです。

授業研究については明日の日記で。
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