企業の方との勉強会で学ぶ

先月末に授業と学び研究所と企業とで、これからの学校におけるICT活用に合同勉強会が行われました。

今回は学校にあるデータをどのようにして活用するかが主な話題になりました。現在全国に校務支援システムが普及してきましたが、その先にどのようなものがあるのを学校に近い私たち研究所のフェローとシステムを提供する側との双方の視点から意見交換をしました。

企業の方は全国の学校から様々な要望をいただいています。その要望をできるだけよい形で取り入れようとしています。私も学校の事情はよくわかっているつもりですが、こうしていろいろな地域や学校の要望を聞くと、本当に学校の置かれている状況は様々であることを実感します。企業としては、できればすべての要望を実現したいと考えますが、当然そのようなことは現実的ではありません。また、こうしてほしいと言われたからといって、その通りにするのがよい解決策であるとも限りません。なぜそうしたいのか、どこに問題があるのかをきちんと理解して、よりよい解決策を考えることが大切です。この勉強会では、そういう視点で本質的な意見交換ができたのではないかと思いました。

今回この勉強会を通じて感じたのは、企業の方が真摯に学校の持つ課題の解決に役立ちたいと考えられていることです。また、学校からの要望が、今自分たちが直面している目先のことに関するものが多いことが印象的です。これからの学校には何が必要なのかを考え、新しいシステムを導入することで教育を変えようというような発想が少ないのです。そういった長期的なビジョンを学校現場が持つ余裕がない、またはそういう視点がないということなのでしょう。

こういった状況を踏まえて、私たち研究所に求められるのは、これからの学校教育をよりよくする、提案性の高い企画を考えることだと思います。現状を改善するという視点だけでなく、全く新しい発想で学校教育の進化を後押しするようなものが提案できればと考えます。今までにないものを考えるには、こういった私たちと違う立場で学校とかかわっている方との勉強会は貴重な場となります。今すぐに企画や提案が形になるわけではありませんが、近い将来私たちの考えたものが学校現場で先生方のお役に立つ日が来ることを願って、今後もいろいろな方と協力していきたいと考えます。
私にとって、とても充実した勉強会になりました。このような機会を持てたことに感謝です。

何を目指して授業をつくるか考えてほしい

昨日の日記の続きです。

初任者の1年生の理科の授業は飽和水溶液と再結晶についての場面でした。
前時での実験の確認を2人の子どもに発表させます。2人の意見を「いっしょ」と授業者が判断しますが、全く同じ発言ではないので同じかどうかは少なくとも本人たちに判断させたいところです。子どもに意見を言わせた後、授業者がすぐに説明することも気になります。復習の場面なので子どもたちに活躍させたいところです。
結晶の定義を「いくつかの平面で囲まれた、規則正しい(形状の)個体」と確認しますが、子どもたちにピンときません。形状と言った言葉が抜けているので余計わかりにくくなっていますし、針状の結晶に対しても上手く説明できません。この程度の定義であれば、何種類もの結晶をディスプレイで見せて、子どもたちに特徴を言わせて、定義に使う「規則正しい」といった言葉を拾いたいところです。

実験からわかったことをもとに、子どもたちと物質が水に溶ける時の性質をきちんと整理し、それを受けてから、溶解度の定義をしたいところですが、天下りでの定義になってしまいました。水の量を変えたら溶ける量がどう変わるのかを子どもたちに問いかけて考えさせ、同じ温度であれば、溶ける量は水の量に比例することをきちんと押さえておくことが必要です。基準となる水の量に対してどれだけ溶けるのかを知っていれば、水の量が変わっても溶かせる量がどれくらいかわかることを確認して、基準となる水の量として100gを選んだということを伝えるのです。こうすることで溶解「度」という言葉になることも理解できるはずです。用語が出てくる必然性を理解した上で、自然に定義したいものです。

授業者はパソコンとディスプレイを使って、溶解度曲線などの資料を提示します。しかし、パソコンとディスプレイを離して手元で操作するので、子どもたちの視線が授業者かディスプレイか定まりません。授業者はパソコンを操作する時は下を見て、説明はディスプレイを見てしまいます。子どもたちの様子を見ることができていません。ワイヤレスマウスなどを利用してパソコンから離れ、指示棒などを上手く使うことで子どもの顔を見るようにしたいものです。

子どもたちに硝酸カリウムと塩化ナトリウムの溶解度曲線を見せて、ここからわかることを言わせようとしますが、なかなか反応が出てきません。正解を言わなければならないと思っているために、発言しにくいのかもしれません。発言しなくても、最後は先生が答を言って説明するから参加しなくても問題ないと思っているのかもしれません。理科の資料を見る力や考察力が育っていないのかもしれません。資料の読み取りでは、変化のあるなし、その特徴(増加、減少、一定か否か)、比較といった視点を整理しておくことが必要です。日ごろからこのようなことを意識しておくことが必要です。
子どもたちは受け身の時間が長くなってきて集中力が落ちてきます。授業者の問いかけに何を答えていいのかわからなくなってきたようです。授業者が子どもたちから言葉を引き出そうとして「硝酸ナトリウムと塩化ナトリウムの違い」「何がわかる?」と問いかけの言葉を変えているのも子どもたちを混乱させる原因です。この状態で無理やり指名して答えさせたり、授業者が自分で説明したりすれば、ますます反応しなくなります。隣同士やまわりと相談させるといった活動が必要になります。

「練習する前にまとめます」と授業者がまとめを板書します。子どもは結局それをワークシートに写すだけです。穴埋めの多いワークシートを使っていましたが、子どもたちは穴を埋めて完成させることで満足感を得ます。考えることより穴を埋めることを優先します。課題を解決したいという気持ちが前面にでるようにしたいものです。この時間の課題ではありませんが、溶解度について考えたいという気持ちになるような展開を考えたいものです。
「一番甘い砂糖水(シロップ)ってどのくらい甘いだろう?どうすればつくれる?」と問いかけ、「どんどん溶かそう。あれっ、もう溶けなくなっちゃった。これが一番甘い砂糖水かな?誰か舐めてみる?」と、子どもたちから「温めればもっと溶ける」という言葉を引き出し、「本当?溶ける?やってみようか?」と温度で溶け方が違うことを確かめ、「でも熱くて飲めないね。さまして飲もう」と冷して再結晶をすることを見せて興味を持たせます。じゃあ「一番辛い塩水は?」というようにして、水に物質がどのくらい溶けるのかを考えたい気持ちにさせるといった導入も考えられます。これはほんの思いつきですが、こういった工夫もほしいと思います。

溶解度曲線から、どれだけ溶けるかを読み取らせようとしますが、溶解度曲線の意味がよくわかっていません。最大どれだけ溶けるかの押さえが弱いのです。「○°Cの水に、50g溶ける?60gは?」と、このグラフから何がわかるのかをまず、きちんと練習することが大切です。
授業者は子どもたちが理解するためのステップをとばし、練習問題を解くために必要な情報をヒントとして教えます。「問題を解くためにどんな情報をグラフから読み取る必要があるのか」を考える力をつけることが一番大切なのですが、問題の解き方を教えることにまっしぐらです。これは、理科という教科を通じて子どもたちにどんな力をつけたいかという授業観の問題でもあります。一度原点に戻って、このことを考えてみてほしいと思います。

子どもたちはどんどん反応しなくなっていきます。授業者は溶けるとはどういうことかを問いかけますが、過去に学習したことなのに、だれもノートや教科書を調べませんでした。
授業の中に子どもたちがわかるという場面がありません。授業者の結論をそのまま受け入れるだけで、考えることがないのです。理科は実験や観察、事実がもとになって成り立つ教科です。実験から考えることがとても大切なのですが、子どもたちにとっては実験より先生の説明、まとめが重要になってしまっています。

まだまだ、経験の浅い初任者です。いろいろな先生の授業を見て、自分が目指す授業像、子ども像をつくっていってほしいと思います。この学校の理科は、30代以降の先生がいないようです。これはなかなか厳しい状況です。教科の先生で互いに学び合うことはもちろんですが、他教科の授業も見ることや、できれば他の学校のベテランの理科の授業を見たり、セミナーなどに参加したりして視野を広げてほしいと思います。憧れる授業が見つかればきっと大きく進歩すると思います。

英語がわかる、できるようになる授業はどのようなものか考える

前回の日記の続きです。

1年生の英語の授業は電話の応対の場面でした。小学校から異動してきた先生です。
小学校での経験からか、子どもたちを非常に上手に受け止めています。子どもたちの表情がよいことが印象的です。失敗しても笑い飛ばせる明るい雰囲気があります。しかし、小学校英語の影響でしょうか、授業が活動中心に構成されているように思います。一つひとつの活動のねらいやそれが達成できたかという評価が授業を見ていてはっきりとしないのです。

フラッシュカードを使うのは読みの練習なのか、リスニングの練習なのか、単語を覚えることなのか、よくわかりません。フラッシュカードはそのどれにも活用できるので優れているのですが、ただいつも同じように授業者が発音して、子どもが繰り返すのでは中途半端で力がつきません。読むことを意識するであれば、カードを見せるだけで授業者は発音する必要がありません。リスニングを意識するのであれば、カードは見せずに聞かせる必要があります。子どもが発音してから、カードを見せるべきですが、その時何を見せればよいのかは難しいところです。言葉を覚えるのであれば日本語を使わずに”situation”から理解させることが大切です。その点から言えば、”situation”や名詞であればその物を表わす絵を見せるという方法があります。その逆に、絵で表わしたものを見せて、言葉を言わせるという方法もあります。言葉の本来の意味を理解した後であれば、読みの確認として英語を見せればいいでしょう。どれが正解と言うのではなく、授業の組み立の中でねらいを明確にして活用してほしいと思います。

単語の意味を子どもたちに問いかけます。知っている子どもしか答えられません。復習であれば、その時使われた英文を聞かせ、思い出させてから問いかけたいところです。また、言葉の意味を教科書の例文の使われ方で教えるのも気になります。例えば”free”を「ひま」と教えます。「拘束されていない状態」という”root sense”で教えたうえで、子どもたちから「ひま」という言葉を出させたいところです。
一人の子どもが発言すると、その後授業者の説明が続く一問一答形式で進みます。授業者に続いて”repeat”しているか、こういった一問一答の受け身の時間が多く、英語が話せるようになる活動や場面はどこなのだろうと考えてしまいます。

この日の主課題は電話での応対ができるようになることです。電話でのやりとりはその”situation”を伝えにくいのが難点です。電話をかける前に、「○曜日にパーティをしよう」「だれを呼ぼうか?」「○○さんは暇かな?」「電話してみよう」「電話にでるかな」といった気持ちを吹き出しに絵で表わしておくといったことをしておきたいところです。その上で会話を聞けば、かなり理解度が変わってきます。田尻悟郎先生風に、この部分を口に出してから、英語を話すといったやり方もあるでしょう。
電話での会話の”repeat”に教科書を見せています。目で文を見ながら耳で聞くので簡単に”repeat”ができます。丸暗記するならいいのですが、言葉として覚えるのにはただ繰り返すのは有効ではありません。目は文を読むためでなく”situation”を理解することに使いたいのです。先ほど用意した絵を指さしながら、”repeat”させると言った工夫がほしいところです。

読む目標を「感情を込める」として、練習させます。指名した子どものテンションは上がります。楽しい活動を目指すのは理解できるのですが、英語の技能には直接結びつきません。それよりも正しく理解して、正しい発音で英語が使えるようにすることが優先です。小学校の英語活動ではないのです。読む練習をしますが、そうではなく話せるようになる練習が先だと思います。どうしても紙の試験への対応が優先された授業構成になってしまいます。大学入試を含め英語の試験のあり方が変わらないとなかなか変われないのかもしれません。

一方が友だちを誘い、他方がその誘いを受けるか受けないかを答えるという練習をペアでします。文をつくるのに「後ろと協力して」と子ども同士のかかわりも持たせています。こういった発想はとてもよいと思います。ただ、かかわれていない子どもも目に付きます。授業者は全体を見て、かかわれていない子ども同士をかかわらせるような動きをしてほしいと思います。
どのようなお誘いなのか、相手の言っていることを聞かなければわからないので頭を使った会話が成立しそうですが、実際の活動を見ているとそうはなっていません。電話なので直接目が合う必要はないとはいえ、誘う方は自分のワークシートに書いておいた文を読んでいます。一方、受け手は、誘いを受けるか受けないかの返事をすればいいので、とりあえず、相手の誘いの内容がわからなくても返事が可能です。また、ちゃんとできているのかどうかの判断、評価ができません。自分のことで手一杯だからです。やはり活動だけで学びが少ないのです。
オリジナルの文をつくると言っても、実際には”situation”をつくっているだけです。そこに時間をかけるのはちょっともったいないように思います。誘う内容の例を絵などで黒板に用意しておくといいでしょう。それをもとに、各自複数の文をつくって、どのようなことを誘うか選べるようにしておきます。一方で受けるかどうかの判断をするために、曜日の表をつくり、忙しい日を決めて印をつけておきます。ここで、授業者が指示した後ろとの協力を、バディとしてより積極的に活用します。バディで互いの文を確認し合い、ペアでの会話はバディにワークシートを預けて、何も見ないで言わせます。ここで言葉に詰まるようであればバディが助けるのです。評価もバディがすることができます。誘いを受ける方は、自分の予定が決まっているので、相手の誘いを聞き取ればすぐに答は決まります。好きなこと嫌いなことを事前に決めさせておくなどすれば、より高度な判断を必要とするやり取りにできます。

一通り活動が終わった後に、挙手で誘う役の子どもを指名して前でやらせます。相手役を決めて実演させますが、ペアの時と同じく誘う役の子どもはワークシートを読んでいます。2人のやり取りを見ている子どもたちは、ただその寸劇もどきを楽しんでいるだけです。そのやり取りの終了後、評価を子どもたちに挙手でさせます。笑い飛ばせる雰囲気の学級だからそれほど気にはなりませんでしたが、友だちに良し悪しを決められるのはあまりうれしいことではありません。いくつかの視点を予め与えておいて、子どもにその視点に沿ってよいところを言わせるといった発想をしてほしいと思います。
聞く側の子どもにしっかりと聞かせるためには、やり取りが終わった後に、”When do(will) they play soccer?”というように、会話の内容について問いかけるといったことが必要です。お客さんにしないような工夫が大切です。

一見活動量が多いように見えるのですが、英語としての活動量は少ない授業でした。英語がわかる、使えるようになるためにどのような活動が必要なのかを考えてほしいと思います。
授業者は、子どもたちを動かす力があります。子どもたちとの関係もとてもよいように思います。だからこそ、英語科の教師として一つひとつの場面で何を目指すのかを明確にして、ていねいに授業を組み立ててほしいと思います。このことを意識すれば、大きく成長する先生だと思います。またぜひ授業を見せてほしいと思う方でした。

最後の授業研究については明日の日記で。

何を根拠として考えさせるか意識することが大切

中学校で授業アドバイスを行ってきました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は3人の若手の授業アドバイスをさせていただきました。

3年生の理科の授業は、力と運動の関係を考える場面でした。
授業者は笑顔も多く、子どもたちとの関係が良好でした。子ども同士の関係もよく、失敗を笑って済ませられる雰囲気のある学級でした。
前時までの復習で力を加えると何が変わるのかの確認から入ります。子どもたちの挙手は半分くらいです。「速さ」「向き」が出てきます。大切なことなので、具体的な例をもとに隣同士で確認させるといったことが必要だと思います。
続いてこの日のめあて「運動と力の関係について理解する」がすぐに示され、教科書に載っている写真の運動を分類するという課題に取り組ませます。子どもたちは、授業者が指示をすればすぐに従って活動します。そのため、意欲づけや動機づけをあまり意識していないように思いました。子どもたちに、疑問を持たせたり、知りたいと思わせたりする場面から授業を始めることを意識するとよいでしょう。
運動は、「静止している」「加速度運動している(加速と減速)」「等速直線運動」ものがありますが、これらをどう分類するかはいろいろな考え方ができます。しかし、教科書の下には運動のようすの視点からまとめると、「静止している物体」「動いていて、速さが変わらない物体」「動いていて、速さがおそくなる物体」「動いていて、速さが速くなる物体」と分類できると書いてあります。教科書を見て取り組ませても、どうしてもその記述に影響されます。教科書を使わず、運動の様子が書かれたカードのようなものを準備して考えさせるとよかったでしょう。グループで相談させますが、どれが正しいと根拠を持って言えないものなので、深まるようには見えませんでした。
いくつに分類したかを聞きますが、数を聞くことは意味がありません。可能性は何通りもあるのです。授業者は、どのように分類したかを指名した子どもとやり取りしますが、他の子どもにつなぐことはしません。発表者とだけでやり取りが進みます。早く4つに分類したいのです。子どもたちに相談させるように問いかけもできます。そうすれば子どもたちはよく話し合います。しかし、全体では一問一答で進めてしまいます。もったいないと思います。子どもたちの活躍の場面をもっと増やすことを意識するとよいでしょう。

子どもから出てきた「速さが一定」という言葉に対しては、切り返す必要があります。「速さが一定?どうやったらわかる?速さはどのくらい?」と速さの絶対値を意識させておいて、止まっているもの指して「速さはどのくらい?」と問いかけるのです。「速さが0」が出てきた時に、「なるほど、速さは0なんだ。速さは0から変わっている?」と切り返して、静止も速さが一定に気づかせることが大切です。止まっているのは別に分類するという意見も出るでしょう。子どもたちがそのことにこだわるなら、それを採用すればいいだけです。「止まっているものと動いているものに分類するんだ」と2種類に分類できると押さえ、その上で、「まだ分類したい?」と動いているものをどう分類するかを考えさせるのです。教科書はそういう視点で分類しています。この視点をきちんと子どもたちに意識させることが大切です。速さの変化に注目すると、「速さが変わらないもの(静止を含む)」「速さが変わるもの(加速・減速)」の2つに分類できることも押さえておくと、力と運動の関係を理解しやすくなると思います。この視点を活かして授業をつくるのであれば、最初に力を加えないとどうなるかという「慣性の法則」を復習しておきたいところでした。
一つの予定した答に向かうとする活動になっていました。それよりも運動をいろいろな視点で見ることを通じて、どこに注目するかで分類も変わることなどを子どもたちに気づかせたいところでした。理科を通じて身につけさせたいものの見方です。

速さが一定の時、合力が0か0でないかを問いかけます。ここで合力がいきなり出てくることが気になります。力が加わっているのかどうか以外に、合力という概念を理解していることも求められるからです。合力を使うのであれば、もう少し丁寧に合力を復習しておいてから、問いかける必要があったと思います。
「進む力」という言葉が出てきます。「進むということはどちらかの力が必要だから……力がいる」という意見は子どもにとって素直な感覚です。ここを焦点化していくことで、この日のねらいの「力と運動の関係」を明確にすることができるのですが、授業者は先に進むことを優先して、すぐに結論を自分で説明しました。多くの子どもは結論を知っているかもしれませんが、このことをきちんと説明できるようには見えませんでした。子どもたちともう少しやりとりをして、子どもたちの言葉で納得させたいところでした。せめて、物体に力を加えて「動き出した。速さはどうなった?」、続いて「今、力は加えている?」「動いている?」「速さはどうなっている?」と問いかけて、子ども自身に気づかせて修正させたいところでした。また、この場面で「慣性の法則」が、子どもからも授業者からも出なかったことが気になりました。やはり、復習の時点押さえておくべきだったように思います。

先ほど分類した運動に対して物体に働く合力を作図で考えることが主課題です。ここで、合力を作図する上で大切なことを確認しません。特に子どもたちがよく間違える垂直抗力については、復習しておきたいところでした。個人で考えた後グループでまとめますが、子どもたちの議論のよりどころがはっきりしません。重力や抗力、摩擦力などの力が加わっているはずだからと書き込んでいくのか、速さの変化から合力はこうなるはずだと考えるのかよくわからないのです。ねらいである「力と運動の関係」を物体に働く力を書き込んでその合力がどうなるかから考えさせるのか、物体は力を加えた方向に増えるように速さが変化するという「力と運動の関係」を前提に考えさせるのかといった、論理の方向が不明確なのです。後者であれば、先ほどの分類の時に、しっかりとこのことを整理しておく必要があります。
斜面を落ちていく物体に働く力を考える時に、合力が斜面と平行でなければならないことが意識せずに作図をしている子どももいます。また抗力が接触面と垂直に働くことが理解できていない作図も目立ちます。これまでに抗力について学習していたようですが、定着していないのです。授業者が「抗力は重力と反対に働く」という言葉を使ったことも気になります。水平面に物体が載っている時に使ったのですが、不用意にこういう言葉を使うと混乱する原因になります。抗力はどうして起こるのかという説明は中学生ではまず理解できません。そもそも上手く説明がつかないのです。現象として、物体が面に接触している時、面と平行に摩擦力が、面と垂直抗力が働くと教えるしかないと思います。であれば、そのことをきちんと教えておかなければ、こういった問題に答えることはできないのです。
また、スライディングをしている人物に加わる力で、摩擦力を進行方向に向かっていると書いているグループがありました。力の向きが加速の向きであることがよく理解できておらず、進むためには推進力がいると勘違いしていたのです。摩擦力がどう働くのかを体感させて考えさせるか、減速していることをきちんと押さえて減速させるためにはどんな力が働くのかを考えさせるアプローチがあります。正解のグループもあるのですから、子どもたちに議論させてもいいのですが、結局は後者の視点で授業者が説明をしました。力は加速に影響するといった、考えるためのよりどころが整理されていないので、子どもたちが発表する答えに対して、最後は常に授業者が正解かどうかを判断し説明することになります。教師が求める答探しになっていました。

考えの根拠となるべき法則や現象は何かを、授業者は意識していません。因果関係がはっきりしないまま、恣意的な説明になっています。子どもは指示に従って作業に取り組みますが、根拠を持って考えることはできていません。結果として子どもたちは課題の答を写して、覚えることになってしまいます。子どもが授業に集中して参加できるからこそ授業の組み立てがとても大切になるのです。
授業者は、私の指摘を前向きに受け止めてくれます。残念なことに、この学校には若手の理科教師しかいません。互いに学び合うにしても限界があります。市内の理科教師が集まって学び合うような機会をつくることが必要だと思いました。

この続きは次回の日記で。

子どもたちにどうあってほしいかを意識することの大切さを感じた授業

中学校の体育の授業アドバイスを行ってきました。

授業者は、3年目の若手です。3年生の女子の跳び箱の授業を2つの学級で1時間ずつ見せていただきました。
どの学級も子どもたちは落ち着いています。ただ、ランニングや準備運動など、緩いと感じる場面もあります。ただやっているという感じです。この活動で意識してほしいことが明確になっていません。準備運動のラジオ体操はしっかりと体を曲げる、伸ばすができていません。授業者が見本で意識的に動かしているところはまだいいのですが、私から見て授業者も流していると見えるところは、子どもの動きがだらだらしています。準備運動なのでそれほど気合を入れなくてもいいのかもしれませんが、どんな時もしっかり運動しようという意識は持たせたいと思います。
面白いのが、準備運動を見ているだけでも、学級間の運動能力の差を強く感じたことです。実際に、跳び箱を跳ぶ活動ではその差が顕著に現れます。学級の状況に応じて活動内容を変えることは大切なのですが、現実には難しいものがあります。こういった差に対応するのは、どの教科でも悩ましい問題です。

子どもたちは挨拶の時はよい姿勢なのですが、体育委員が出欠の報告をする場面では緩みます。授業者の意識は報告者に向いていて、首が動きません。他の子どもたちに今どうあってほしいかが意識されていないのです。この場面に限らず、授業者が子どもの姿を意識していない時には子どもたちの集中力が落ちたり緩んだりする傾向がありました。常に全体を見ようという意識が少し弱いようです。体育の教師にとって全体を見ることはとても大切です。説明をする時にも、子どもの顔が上がっていないのにしゃべる場面が何度かありました。気づいた時は集中するように指示しますが、全員の視線が上がるまで待てませんでした。

授業者は「腰を高く持っていくよ」と口で説明しますが、跳び箱のような種目は言葉で言ってもなかなかわかりません。ビデオなどで見せる、演示する、子どもにやらせるなどして視覚に訴えた上で、「どうだった?」と子どもの言葉で言わせることが必要です。こうすることで、視覚的なイメージと言葉が結びついていきます。今度はその言葉を使うことで、イメージが浮かぶようになるのです。体育では、活動だけでなくこういった言語活動も大切になります。

子どもの活動の様子を「はい、いいね」とほめますが、なんとなくほめているだけではよいものは広がっていきません。具体的に何がどのようによいのか伝えなければ、まねをしてはくれません。活動をさせますが、できるようになるために何を意識させればよいのかがはっきりしません。何となくやっているうちにできたというパターンになりそうです。前時までにやったことを復習でやらせるような場面でも、「この前説明したように」とやったことだからと端折ります。せめて、「どんなことをやった?」「ポイントは何だっけ?」と問いかけ子どもたちに言わせることではっきりと意識させたいところでした。

子どもたちの活動の隊形に対して授業者の立ち位置が気になります。長方形の短辺側に立ちます。後ろの方はどうしても見にくくなります。また、授業者の視線が手前に落ちることも気になりました。班ごとに跳び箱を跳んでいる場面で子どもたちに声かけをするのですが、すべて手前の班に対してだけです。跳べなかった子どもが手前にも奥にもいたのですが、奥の子どもにはアドバイスはありませんでした。
途中で班を回って補助に行くのですが、全体が見えない方向に体が向いていました。後で聞いたところによると、利き手の関係で反対側からは上手く補助ができなかったそうです。子どもに補助をさせるのは難しいのですが、上手く手伝わせて、自分は全体を見ることを意識してほしいと思いました。補助に専念するのではなく、途中でまわりを見るようにすべきだったでしょう。
できない子どもに対して、授業者が個別に指導することには限界があります。できないのが一人ならいいですが、何人もいれば手は回りません。特に体育は個別指導に手をかけすぎると事故の危険が増します。活動を工夫し、子ども同士のかかわりの中でできるようになる仕組み考えること大切です。

全員が一斉に同じ活動をしている時の活動量は多いのですが、跳び箱を跳ぶ活動では、順番を待つのでどうしても活動量が減ります。ただ跳んでいるだけでは、上手いかないところを修正できないので、なかなか上達しません。待っている時にどんな活動をさせるかが大切です。できる子どもは、友だちの跳ぶ様子を観察してよいところを真似しようとしたりしますが、漫然と待っている子どもが大多数です。バディを組ませるなどして互いによいところ、課題を伝え合うといったことが必要なります。
そのためには、ポイントをきちんと意識させなければいけませんが、授業者が一方的に説明することがほとんどです。子どもの目で見させて、子どもの言葉に直させることが大切です。
子どもの演技で拍手をさせますが、形式的になっています。どこがよかったのかを具体的にしないのでよさは広がりません。中には口を開いている子どもいるのでどこがよかったのか聞きたいところですが、授業者は演技者しか見ていませんでした。子どもの活躍の場面をもっとつくってあげたいところでした。

最後に、子どもたちに跳ぶためのポイントは何かを考えさせます。指名して発表させますが、子ども同士をつなぐことはまだできません。手前の子どもを指名した時には、授業者ではなく後ろを向いてみんなにしゃべるように指示しましたが、一番端の列の真ん中あたりの子どもを指名した時には、授業者の方を向いて発表しても向きを変えさせませんでした。授業者も発表者をずっと見ているので、子どもたちが発表者の方を向いていないことに気づかなかったのでしょう、見るように促しませんでした。
子どもたちの発表を受けて、授業者が解説をして終わります。子どもたちの言葉でたくさん言わせて自分のイメージを持てるようにすることが、できるようにするためには大切です。少ししゃべりすぎです。一番問題なのは、この場面が授業の最後だということです。ポイントを意識できても、実際にやってみる時間はありません。次の時間に思い出させても、せっかくのイメージは消えています。しかも今回、次の時間は別の技に入ります。
子どもからでたポイント「踏み切り」を受けて、そうだね「踏み切り」が大切だねと、「踏み切り」を正解として黒板にまとめとして書き、写しておくように指示しました。定期試験に出すから最後にまとめたように感じてしまいました。

授業研究を、跳び箱という「できた」「できなかった」がはっきりわかる種目で行ったことは立派だと思います。女子の場合、跳び箱を跳べない子どもも多いのですが、ほとんどの子どもが跳べるようになっていました。跳べるようになるためのステップを意識した活動ができていたように思います。ベテランの教科指導員のアドバイスがあったそうです。体育はできるようになるためのステップがはっきりしていて、それが蓄積されている教科です。よき先輩から素直に学んでいることは素晴らしいと思います。
個々の子どもたちとの関係もとてもよいと思います。ただ、授業の中で、できていないことを注意してしつけているように感じました。子どもたちのよいところを具体的にほめて、他の子どもがまねしようとすることで、よい行動を増やすことを意識してほしいと思います。

授業者はとても素直で、前向きです。指摘されたことを自分のものしようという意識が強く感じられました。子どもたちができるようになるためにどのような活動が必要なのか、それはどこがポイントで、子どもたちにどう意識させるのかを考えることで、大きくレベルアップすると思います。検討会では、教科指導員の先生ともご一緒できました。私にとっても参考となるアドバイスをたくさん聞くことができました。とても学びの多い時間でした。このような機会を得られたことに感謝です。

子どもの発言を引き出すことの難しさを感じた授業

昨日の日記の続きです。

3年生担任の初任者の国語の授業は、「ちいちゃんのかげおくり」で主人公の気持ちを考える場面でした。
参観者がいるせいでしょうか、子どもたちの集中度が低いことが気になります。授業者も黒板に向かってしゃべったりと、子どもをしっかりと見ることができていません。子どもたちの状況に関係なく授業を進めてしまいました。授業者もちょっと緊張してしまったようです。

前時に何をやったか復習しますが、子どもの発言を「そうだね」と受け止めるだけで、「どんな意見があった?」「あなたは、どんな考えだった?」といったことを聞いたりはしませんでした。この日は、前時にまとめたことをもとにグループで考えを伝え合う活動をします。一度中断しているので、考えたことを思い出させることが必要になります。

グループで「ちいちゃんに4つのかげが見えた理由」を話し合う活動をします。グループでの話し合いのルールを授業者が確認します。ルールを明確にするのはよいことですが、この時期ですので子どもたちに言わせるか、確認をしなくてもできるようになっていてほしいところです。また、班に司会者がいることも気になります。自然に聞きあえるようにしたいところです。
授業者が話せなければ書いたことを読んでもいいと言ったためか、ほとんどの子どもが読んでいます。その時考えたことを思い出せないことも原因としてあると思います。そのため、発表する子どもは下を向いてしゃべるので、子ども同士の視線が合いません。友だちの発表を全く無視している子どもも目立ちます。子ども同士の関係がまだできていないように感じました。また、話し合うためには、根拠を明確にすることが必要ですが、授業を通じてあまり意識されていません。結局しゃべっただけで終わってしまいます。子ども同士がかかわるためにどのようなことが必要かを考える必要があります。

発表をさせる前に「いっぱいいい意見があったよ」と、子どもたちの発言意欲を高めようとしますが、子どもには響きません。3年生ぐらいになると自我が発達してきますから、こういう言い方をされても、自分の書いたものがいい意見と言われたのだとは思いません。また授業者の「いい意見」というはどういうものか子どもたちにはよくわかりません。リアリティがないのです。具体的に伝える必要があります。個別に作業しているのであれば、机間指導の時に線を引いたり○をつけたりしながら、「○○がいいね」とどこがどのようによいのかわかるようにほめておくといったことが必要です。グループの時は、聞くことを大切にするためにも、「なるほどと思った意見を教えてくれる?」と友だちの考えを言わせたり、「どんな意見があった?」グループの話し合いの内容を発表させたりするとよいでしょう。

挙手指名で進め、子どもの発言を共有することなくすぐに板書するので、子どもたちは友だちの話を聞きません。また、子どもが理由を含めて話していても、授業者は結論だけを板書します。根拠を共有するという発想がないのが残念です。一問一答で進み、子ども同士をかかわらせるような場面がありませんでした。

子どもたちは授業者の指示にしたがって教科書を見たりはするのですが、それが発言にはつながりません。発言をすることに価値を感じていないのです。子どもたちの発言をポジティブに評価していないことがその一番の理由のように思います。「教科書の本文から考えてくれたんだ」といった評価もするのですが、子どもにとってはほめられたようには感じません。「本文に書いてあることをもとに考えることはとても大切だね。素晴らしい」とはっきりとほめ、「そこの文をみんな読んでみて。そこからどんなことが言えるかな?」というようにつないでいくことが大切です。
また、それまで考えさせていなかったことを子どもたち問いかけますが、突然問いかけられても、すぐには反応できません。考えたり、相談したりする時間が必要です。授業者は子どもの発言を引き出せないので、一部の子どものつぶやきと発言をもとにどんどん説明します。ほとんどの子どもは置いてきぼりです。子どもたちにとって全体追求の場面は他人事になってしまいます。

最後に「家族に会えて、ちいちゃんはほんとうにうれしかったのか」を考えさせました。授業者は単に「家族と会えてうれしい」という読みにならないようにしたいと考えていましたが、ちいちゃんの気持ちが読み取れる本文の記述は、「きらきら笑っている」という記述しかありません。ここは、ちいちゃんの気持ちではなく、「夏のはじめのある朝、こうして、小さな女の子の命が空に消えました」という記述をもとに、作者が伝えたい思いを考えさせたいところでした。

授業者は子どもの発言を引き出して授業をしたいと考えています。とてもよい姿勢だと思います。そのためには、子どもの発言を受容し、ポジティブに評価することで、たとえ間違えても恥ずかしくないという雰囲気を学級につくる必要があります。ちょっと「首をかしげた」「うなずいた」、そういった反応を見逃さずポジティブに評価して、発言につなげていくことも大切になります。まずは、ここから始めてほしいと思います。もちろん教科の内容についての勉強も欠かせませんが、基本となるのは安心安全な学級づくりです。あせらず、一つずつ課題をクリアしていってほしいと思います。

全体に対しては、子どもたちと先生方の関係が良好なこと、基本的な授業規律は問題ないことを伝えて、次の課題として「子ども同士をつなぐこと」「教科としてどのような力をつけるのかを意識して授業を組み立てること」をお願いしました。
また、課題を子どものものとするためには、天下り的に授業者が課題を提示するのではなく、子どもを揺さぶったり疑問を持たせたりすることが大切なことを、具体的な例をもとに話させていただきました。

この学校だけでなく、この市の小学校全体で先生方の基礎的な力が上がってきているように感じます。素直で前向きな先生が多いのだと思います。ここからは、これまでのように急激に進歩が見えるとはいかないでしょう。地道な努力を続けて少しずつ変化を実感できるレベルだと思います。あせらずに、学校全体で授業改善を続けてほしいと思います。

成長と同時に課題が見えた授業

昨日の日記の続きです。

5年生の授業は国語の「大造じいさんとガン」で、大造じいさんの残雪に対する気持ちがどこで変わったかを考えるものでした。

授業者も子どもたちもとてもよい表情です。人間関係のよさを感じます。
これまでの段落で、大造じいさんの残雪への気持ちが現れている言葉を全体で言わせます。子どもたちはよく反応してくれますが、反応できない子どもが気になります。個別に指名して何人にも答えさせたり、その一文を抜き出して言わせたりすることで、全員を巻き込むことが必要でしょう。

挙手指名で順番に音読させますが、大造じいさんの気持ちが変化したところはどこかを考えながら読むことを目標にします。目標を持たせることはいいのですが、「音読」そのものは日ごろどのようなことを意識しているのかよくわかりませんでした。この授業は6/7の位置づけですが、子どもたちの音読の声の大きさや間の取り方がまだまだという感じです。漢字の読みでつかえたり、間違えたりもよくあります。音読での目標を明確にして練習させる必要を感じました。
また、授業者は音読中、教科書に目をやっている時間が多く、できればもう少し教室全体の様子を見るようにしてほしいと思います。読み終ると、よかったことを評価し、最後に「ありがとう」の言葉が自然に出てきます。子どもたちの挙手が増えていきます。友だちが認められるのを見て、安心するのでしょう。音読そのもの目標を明確にし、評価がそれとしっかりと連動するとぐっとよくなると思います。

大造じいさんの残雪への気持ちが変わった場面を抜き出すのが課題です。
子どもたちはワークシートに本文を抜き出し、理由を書くのですが、ここに何を書くのかが子どもたちでバラバラです。「気持ちがこの場面でどのように変わったか」と「その理由」が混在しているのです。ここを整理して区別しておくとよかったでしょう。
これまで学習した場面での残雪に対する「賢い」といった評価を活動の前に確認しておくとよかったかもしれません。そうすることで、この場面での残雪の行動が「勇気」そして「気高さ」といった言葉につながって、対比しやすくなったと思います。
子どもたちは一生懸命に理由を含めて書いています。日ごろから鍛えてあることがわかります。予定の時間になってもまだ書いている子どもが多いので時間を少し延長しました。この判断自体は悪くないのですが、一部の書き終っている子どもへの指示がほしいところでした。

次にグループでの交流です。子どもたちは素早くグループの隊形になります。日ごろのグループ活動が子どもたちにとってよいものであることを感じさせます。友だちの考えを聞いて、なるほどと思ったことをメモしています。子どもたちはよい姿勢で聞き合っていました。

全体での交流は、子ども同士をかかわらせることを大切にしていました。
ほとんどの子どもたちは、発表者の方にすぐに体を向けて、よく聞いています。授業者は発表が終わると意見をすぐに板書するのですが、子どもたちがしっかりと聞けているのでその必要はないでしょう。そのままつないでいって、意見が大体出尽くしてから、必要に応じて板書すればいいと思います。
残雪が身を挺しておとりのガンを助けるところが子どもたちから出てきます。おとりのガンを仲間のガンといった子どもに対して、「このガンは仲間?」と聞き返しますが、すぐに「仲間のガンととらえますか」と自問自答して結論を出してしまいます。このことを焦点化するのであれば、時間を取って考えさせる必要があります。そうでなかっとしても授業者が根拠なく決めるのはちょっと気になる進め方です。時間を気にしてのことだと思いますが、中途半端な取り上げ方でした。
この場面は、ほとんどの子どもたちが抜き出しているので発言はたくさん引き出せます。しかし、授業者のねらいはここではなく、残雪が傷ついた体でどうどうたる態度で立ち向かおうとする場面です。この場面を取り上げた子どもは少数です。
「なぜ?」「どういう状況?」と問いかけ、全体で言わせますが、ここはほとんどの子どもが気づいてない場面ですから、個々に指名して言わせるなど、時間をかけて共有することが必要です。
こういう状況であれば「(逃れようと)さわがない?」というように、ここからは授業者が主導していきます。子どもに問いかけて答えさせますが、子どもたちは自分の考えを持てていませんから、目は発言者を見ていません。授業者の板書に意識が行ってしまいます。
結局、授業者がまとめて終わってしまいました。一番深めたかった場面です。少なくとも何人かの子どもが気づいていたのですから、子どもの言葉で進めたいところでした。

身を挺して仲間を救おうとした場面は、多くの子どもが気づけているので、テンポよくたくさん指名して発言させながら、「勇気」「仲間を思う気持ち」といった言葉を引き出しておけばいいでしょう。もう一つのどうどうたる態度で立ち向かう場面では、「本当?ここで、気持ちが変わる?」と問いかけ、まわりと相談させるとよかったでしょう。もし、時間があればもう一度グループに戻すとよい場面でした。この子どもたちであれば、そうすることでたくさんの言葉を引き出すことができたと思います。

授業者は以前に見た時と、本人も教室の雰囲気も大きく違っていました。最初の内しばらく私の知っている先生かどうかわからなかったほどです。子どもを受容する、認めることが自然にできています。日ごろから子どもの活動量を増やし、発言を活かそうとしていることがわかります。子どもたちにとって安心して暮らせる学級をつくっていました。子どもたちの姿から、授業者の成長がよくわかりました。いろいろな面で努力をし続けてきたのだと思います。先生のこのような成長した姿を見ることができるのが、この仕事をさせていただく上で一番の楽しみです。
次の課題は、その授業で大切にしたい内容をあつかう場面で、子どもたちの発言を引き出し、かかわらせながら深ていくことです。また、そのために必要な布石は何かを考えることです。1時間1時間の教材研究はよくやれていると思いましたが、単元を通じた授業構想をしっかりと考え、授業と授業をどうつないでいくのかがまだ弱いように思います。わずかな期間でここまで成長したのですから、次に会う機会があれば、また別人のような姿を見せてくれることと楽しみです。

最後の授業研究は、明日の日記で。

単元で教えるべき概念を理解することが大切

前回の日記の続きです。

1年生の授業は算数の大きさ比べの場面でした。直接比べることのできない物の長さを、テープを使って比べる活動です。

授業者は緊張しているのか表情が少しかたくなっています。そのせいか、子どもたちも今一つ落ち着かず、教科書を開かせた後なかなか話を聞く態勢になりません。しかし、授業者はその状態のまま話し始めました。また、結局この時間の最後まで教科書を使う場面はありません。なんとなく指示を出していることが気になります。

前時の復習で何を使ったかをたずねます。ここで大切なのは、「何をつかった」ではなく「どのようにして」です。鉛筆やテープを使ったようですが、鉛筆のいくつ分、より大きい小さいという使い方をしたのであれば基準をもとに考える、単位につながる発想です。同じ長さのテープで比べるという使い方であれば他の物に長さを写して(対応させて)比べる半抽象化につながるものです。前時にどのようなことを押さえたかわかりませんが、復習ではこういったことを意識した言葉を引き出すことが大切です。ただ、「鉛筆」「テープ」を使ったでは復習にはならないのです。
長さを比べる時のポイントを子どもたちに確認します。「はしをそろえる」「ぴんとのばす」「テープをつかう」です。ここで大切なのは、比べるもの長さと同じ長さのものを使って比べることです。この長さが「同じ」というところを押さえずに、ただやり方のポイントを教えては意味がありません。解き方を教えるのと同じ発想です。別のものに長さを写すという算数・数学的な考え方を押さえてほしいのです。また、言葉の混乱もあります。長さを「比べる」と「測る」の両方の言葉が出てきます。ここでは、まだ「測る」という概念は明確になっていません。あくまでも、比較しやすいもの、同じものに長さを写して「比べる」という半抽象化の段階です。

この日の課題は、教室の端にある机を出入り口から運び出すことができるかどうかです。どうすればいいのかを考えますが、ここで大切なのは、何と何の「長さを比べれば」いいのかを明確にすることです。ここをきちんと押さえていないので、子どもからは授業者が期待した答えが出てきません。机を動かすことを考える子どももいます。「動かせないものの長さはどうやって比べればいいのかな」と後からこの課題のポイントを授業者が言ったり、「『これ使うといいんじゃない』というものはない」と問いかけたりして、子どもからテープを使うという答を出させようとしますが、なかなか上手くいきません。
箱を使って比べるという意見が出てきます。子どもは机を運び出すので、面でとらえたのです。とても素直でよい発想だと思います。しかし、授業者はそれを評価することができません。「そのやり方もあるねえ」と受け止めたように見せますが、やり方「も」といった時点で、他の答を求めていることが子どもに伝わります。また、子どもが友だちの発言に対して、「正解だと思います」といった反応をすることも気になります。授業のいろいろな場面から、日ごろから正解探しの授業になっていることが伝わってきます。
授業者の期待しない答であっても、「なるほど」と認め、「いいね、どんどんみんなの考えを聞こう」と他の子どもに意見を出させて、それをもとに後から修正していけばよいでしょう。
「どれがいいと思う」と子どもに問いかけますが、一人ひとりの意見を全体で共有していません。どんな考えがあったのかの整理もしていませんので、子どもたちはどの意見と答えることはできません。子どもからは「ノート何冊分」という新しい意見が出てきます。面白いのですが、それがどういうことなのかをきちんと確認しません。ノートの辺の長さで考えているのか、ノートを面として考えているのかがわからないのです。子どもたちは、とにかく自分のアイデアを言いたいばかりです。ブロックをつなげるという意見も出てきますが、どこの長さとどこの長さを比べようとしているのか明確にならないまま、何を使うのかのアイデア勝負になってきました。何が課題なのかが焦点化されないままどんどん拡散してしまいました。

「授業者は一番ちゃんと『測れる』のは?」と問いかけますが、言葉も混乱していますし、「ちゃんと」というのはどういうことか明確にしていないので、根拠を持った話し合いになりません。子どものテンションは上がるばかりです。「ちゃんと」ということを、「固いもの」にすればよいと考えた子どももいます。これは子どもにとっては自然なことです。ピアニカのケースを使うという意見が出てきます。「測る」と「固い」の2つの視点で考えたのでしょう。ピアニカのケースでは長さが足りないことを指摘すると、他のも使ってと一所懸命に説明をしますが、他の子どもは聞いていません。
授業者は、机のこの部分を「測りたい」と説明を始めます。机の「大きさ」という言葉も使ってしまいます。今まで子どもたちがやってきたこととつながらない言葉です。こうなると、子どもたちがこれまで考えてきたことと、この後がつながらなくなってしまいます。

では、どうすればよかったのでしょうか。課題の提示の場面で、まず、「机を運び出したいけれど、出入り口のところまで持っていってから運び出せないじゃ困るね」と動かさずに運び出せるかどうかを考えたいことを明確にします。その上で、机をどの向きで運び出せばよいかを簡単に確認し、どこの長さとどこの長さを比べてどうなれば運び出せるかをはっきりとさせておきます。そして、「どうやって比べればいいだろう」とするのです。
この課題のねらいは、何を使うのかではなく、直接比べられない場合は、長さを別の同じ長さのものに写せばよいことに気づくことです。「同じ長さ」をキーワードにして、話し合いは進めればよかったのです。

結局、授業者がテープを使うのがよいことを説明して、子どもたちに机の長さを写し取らせます。こうなると、子どもたちはただ自分がやりたいばかりです。しかし、机は一つなので全員がやることはできません。指名された子どもだけです。指名してもらおうと、子どもたちのテンションは上がるばかりです。こういった活動は、全員がやれるものにしたいところです。少なくとも、友だちがやっている時に、何に注目すればよいのかが明確でなければ、ほとんどの子どもは集中して様子を見ることもしません。全員参加の工夫が必要です。

最後は、グループでテープを使って測りたいものを決めます。子どもたちの活動の目的がいつの間にかテープで「測る」ことになって、ねらいがずれてきています。こうなると「測る」という概念が混乱してきます。教科書はこういったことを意識して用語の登場の順番や使い方を考えていますが、授業者は理解できていなかったようです。結局子どもたちは、算数・数学的には何も学ぶことなく終わってしまいました。

授業者は、子どもを受け止めることや、授業規律の基本的なことはできるようになっていました。ちゃんと進歩しています。しかし、いつも言うことですが、だからこそ、教材研究がとても大切になるのです。この単元ではどんな概念を身につけさせるのかがわかっていません。この授業で、何を思考させるのか、どんな言葉が出てくればねらいにつながるのかといったことが明確ではありません。そのため、自分の考える答を引き出そうと子どもを誘導することばかりになってしまいました。子どもから出てこないと、結局は自分で答を言うことになってしまいます。この壁を破ることはそれほど簡単ではありません。各教科・単元で身につけさせることは何かをきちんと理解し、子どもの視点で教材を見直すことで、子どもの言葉で授業を組み立てることができるようになります。ここまで着実に進歩していているのですから、あせらずに、このことを意識して毎日の授業に取り組んでほしいと思います。そうすることで、必ず結果は後からついてきます。これからも努力を続けてほしいと思います。

この続きは明日の日記で。

教科の根っこをしっかりと押さえることの大切さを感じた授業

小学校で授業アドバイスを行ってきました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は4人の若手の授業アドバイスと全体に対してお話をさせていただきました。

4年生の理科の授業は、空気の圧縮の実験でした。
前時は空気鉄砲の実験でした。復習から授業は始まります。空気鉄砲で、前の玉が飛ぶ理由を子どもに確認します。指名された子どもの説明を他の子どもがうなずいて反応します。よい姿です。しかし、授業者は子どもの発言や聞く態度を評価せずにすぐに自分で説明をします。子どもたちはよく育っていますが、授業者は余裕がなかったようです。
授業者は続いてすぐに、「閉じ込めた空気に力を加えると、空気の体積と手ごたえはどうなるか」というこの日の課題を示します。子どもたちにとっては、特に疑問を感じていることでもありません。これでは子どもの課題になりません。「空気鉄砲の玉の出口を押さえたらどうなると思う?」と問いかけたりして疑問を持たせてから、課題につなげたいところです。

授業者は注射器の口をふさいでピストンを押し込む実験の手順の説明に入りましたが、子どもは実験の必然性がないまま、作業の指示を聞くことになります。
子どもたちに実験の結果を予想させます。これはとてもよいことなのですが、子どもたちに明確な根拠はありません。予想なのであまり時間をかける意味はないのですが、グループで話し合わせます。グループはほとんどが5人です。見ているとどうしても端の子どもが1人参加できなかったり、2人と3人に分かれてしまったりしています。5人でのグループは子どもでは難しいようです。
子どもの予想は、感覚的なものと数値で示すものに分かれます。「何目盛りというと、わかりやすいね。誰にでもよくわかるね」というように、その違いを評価し価値付けすることが大切です。

実験後子どもたちに結果を聞きます。子どもからは色々な表現が出てきます。一人ひとりの発言をしっかりと受け止めるのですが、それを深めたり広げたりする場面がありません。同じような結果を何人にも言わせたり、意見が分かれた場合は、もう一度実験して確認したりする必要があります。そういった場面がないのです。子どもの意見に対して、授業者がすぐに説明をします。
手を放してピストンが元のところより少し手前までしか戻らないという意見と元に戻るという意見があった時に、すぐに「誤差」という子どもがいました。理科では「誤差」の概念は大切ですが、簡単に「誤差」で切り捨てることは危険です。戻る時は誤差と言えますが、押し込める量の違いは「誤差」ではなく、加える圧力の違いです。「なぜ誤差だと思った?」と「誤差」がどうかの判断をする場面もつくりたかったところです。また、子どもの「手ごたえが重くなる」という表現を授業者が「固くなる」と言いかえました。ここは、何人かの子どもに発言させて、子どもからよい言葉を引き出したいところです。

グループで実験の結果を書く作業をさせます。その時、結果の書き方のポイントを授業者が一方的にしゃべります。以前にもこういった機会はあったはずですから、「何が大切だった?」「何に注意する?」と子どもたちに問いかけて、子どもに言わせたいところです。
まとめを書く子どもは限定されています。中にはその作業に参加しない子どももいます。子どもたちはあまり考えずに作業をしているので、テンションが上がっていきます。また、グループでまとめてしまうと、結果の違いが埋もれてしまいます。大切なのは違いがなぜ起こるのかを考え、場合によってはもう一度実験して確かめることです。

各グループの代表の発表では、足りない言葉を足す場面や、同じ結果になったのかを全体に確認する場面がありません。子どもの活動に対する価値付けや評価、共有がないのです。
発表の後で、「何か気づくことはありませんか?」と問いかけますが、子どもたちはこれまで何も考えずにただ実験していただけです。実験することがこの日の目標になっていました。すぐに答えられるはずはありません。挙手は一人だけです。せめて先ほどのグループ活動の時に課題として与えておけば、また違ったと思います。
「空気は中身があるの?」という質問に、「空気の限界までいった」というつぶやきが聞こえてきました。面白い発想ですが、授業者は拾うことができませんでした。そもそも授業者は何を根拠として「空気に中身があるかどうか」を説明するつもりだったのでしょうか?子どもが課題を解決するために必要なことやステップが意識できていませんでした。そのため、子どもの言葉を拾って、考えをつなげていくことができません。「空気は中身があるのか?」がこの日の課題であれば、最初に提示して予想させ、どのような実験をすればわかるのかから考えさせるべきだったでしょう?

最後に、中に空気の入った星形の樹脂?を注射器に入れ「星の大きさが変わります」とピストンを引いてみせます。星が大きくなるのを見て子どもたちが興味を示します。この日一番子どもたちが意欲的になった場面でした。子どもたちは勇んで自分の道具で実験をしました。しかし、なぜ最後にこの実験をしたのか子どもたちにはわかりません。せめて、星形の樹脂が力を加えると変形することを見せておく必要があったでしょう。押すと縮む、引っぱると伸びることを確認してから、「どうなると思う?」とこの日の実験結果から予想させたいところでした。

授業者は、子どもたちを受容しよい関係をつくれています。学級の雰囲気もとてもよいと思います。次の課題は、「子どもの発言や活動をどう評価、価値付けするか」「子どもの考えを子どもに返しながらどう深め、つなげ、広げていくのか」ということです。
今回の授業では、理科としてこの単元で何を子どもたち考えさせるのか、どのような理科的なものの見方・考え方を身につけさせるのかといった、教材研究や単元観がしっかりしていませんでした。もっと言うと、理科はどういう教科なのかがわかっていないということです。これはこの授業者に限ったことではありません。小学校の教師は全教科を一人で教えるのでとてもたいへんだと思います。だからこそ、その根っこの部分をしっかりと意識して授業に臨んでほしいと思います。
授業者は基礎的な力はついてきていると思います。だからこそ、より高度なことが求められるのです。これからの成長に期待したいと思います。

この続きは次回の日記で。

愛される学校づくり研究会で考える

先日、愛される学校づくり研究会がありました。

第一部は2月6日(土)に開かれる「愛される学校づくりフォーラム 2016 in東京」の午前の部に関連して“「チーム学校」で示された地域連携担当は何をすべきか”というテーマで3人の地域コーディネーター経験者のお話をうかがい、それをもとに会員で話し合いました。
改正された教育基本法の、「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」を具体化するために、学校・家庭・地域が一体となって地域ぐるみで子どもを育てる体制として、学校支援地域本部が設置され、地域とのパイプ役として学校に地域連携担当の職員を置くことが求められます。今回は、地域コーディネーターの側から見た学校との連携の問題をきっかけに、本音の意見が飛び交いました。
「学校側は窓口になる先生以外、地域との連携に積極的であるように思えない」「学校によっては地域とのかかわりを求めていない」「地域が何を協力しているのか、どんな活動が行われているのか、知らない、興味を持たない先生が多い」という意見が出されます。「ボランティアに『ごくろうさん』という声かけがされる。『ありがとう』という感謝の気持ちが感じられない。そもそも、助けてもらっているという感覚はあるのだろうか?」と学校はボランティアが助けてくれて当たり前と思っているのではないかという指摘もあります。「学校だから、子どもたちのためだから、ボランティアは協力するのだ」という意見を、学校は重く受け止める必要があると思いました。
一方、会員の学校では地域の協力で助かっているという声がたくさん聞かれました。立場上地域とかかわる方が多いからでしょう。私個人としては、地域の方がどのように感じているのかが気になります。子どものために学校に協力しているのですが、それに対してきちんとフィードバックがされているのでしょうか?学校からお願いされるばかりで、自分たちの思いが実現できているのでしょうか?一方の学校は、本当に地域の方と協力したいと思っているのでしょうか?学校は地域の思いの上に成り立つべき存在であると学校の教職員が思わなければ、担当職員をおいても地域連携は進まないと思います。
体制整えるばかりではなく、学校側の意識を変えることが重要なカギになると強く思いました。

第二部は、会員の推薦の方に模擬授業をしていただき、授業検討を行いました。こちらもフォーラム関連して、午後の部の進行のリハーサル的な要素もありました。
授業は小学校一年生の道徳です。「はしのうえのおおかみ」という話をもとに、親切について考える授業でした。
冒頭に親切という言葉を取り上げます。優しくされた経験について問いかけます。低学年なのでこれもいいように思いますが、最初にどんな話か、何について考えるかがわかると子どもは最初からそのように思って授業を受けます。子どもたちの思考を誘導してしまう心配があります。
授業者は、表情豊かでとても受容的です。子ども役の大人でもすぐに惹きつけられます。
ペープサート(紙の人形劇 Paper Puppet Theater)でお話を見せます。オオカミが一匹しか通れない狭い橋の上で出会ったウサギを追い返して、いい気持ちになります。それが面白くて、タヌキやキツネといろいろな動物を追い返して意地悪をします。ある日、クマと出会い、自分ではかなわないと引き返そうとしますが、クマがオオカミを抱きかかえて橋の上でぐるりと回転してうまくすれ違うことができました。オオカミは次にウサギに出会った時にクマと同じようにして、いい気持ちになりました。
話し方も上手で、演じている間も子ども役から視線が離れません。日ごろから子どもをよく見ていることがわかります。

登場した動物を確認します。指名した子ども役が答えると「よく覚えていましたね」と必ず受容や称賛の言葉を返します。その言葉も多彩です。この先生の学級は暖かい雰囲気だろうと想像がつきます。ただ、一問一答形式になるきらいがあります。実際の子どもであれば、「先生大好き」「先生聞いて」という気持ちが強くなり、先生と子どもの関係が強くなりすぎる可能性があります。場面にもよりますが、他の子どもに同意を求めることや同じ考えでも言葉にさせることをしないと、子ども同士のかかわりができなくなる心配があります。

「おおかみさんを中心に考えてもらいます」と宣言します。ちょっと唐突な気がしました。あえて、オオカミを中心に考えることを宣言しなくても、そのままオオカミの気持ちを問いかけていけばよかったように思います。大人だったせいもあったのでしょうが、一瞬子ども役が戸惑ったというか、身構えたようになったような気がしました。
子ども役にウサギを追い返したときのオオカミの気持ちを問いかけます。子ども役からの意見をなるほどとしっかりと受容し、時には聞き返して言葉を足させます。個への対応としては素晴らしいのですが、やはり授業者一人ですべてを受けてしまいます。子どもの意見を先生が説明する場面もありました。「似た意見の人いる?」「同じように考えた人?」とつないであげるとよいと思います。「先生に聞いてもらいたい」から「友だちに聞いてもらいたい」に変えていくことが必要です。子ども役の先生方も、発表者の方を向かなくなりました。授業者が中心となっているからです。

オオカミがクマと出会ったときの気持ちを問いかけます。子ども役からは、「強そう、まずいな」という意見が出ます。授業者は、板書する時に「まずいな」を落としました。ここは、何がまずいのかを確認したいところでした。
続いて、クマに親切にされた時の気持ちを答えてもらいます。子ども役からは、「きゅ〜んとした」「渡れてうれしい」「くまさんはやさしいな」といった言葉が出てきます。ここで授業者は子どもたちからどんな気持ちを引き出し共有したかったのかがよくわかりませんでした。ここは、「きゅ〜んとしたって気持ちわかる?何にきゅ〜んとしたんだろうね?」「○○さんは、くまさんのことをやさしいと思ったんだ。他の人はどう思ったと思う?○○さんと同じ?」というように「親切にされたオオカミがどのように感じたのか?」「クマに対してどのような気持ちになったのか?」を子どもの意見をつなぎながら焦点化したかったところでした。

クマと同じようにしてウサギを通してあげた時のオオカミとウサギの気持ちを聞いていきます。ここでも、子ども役の意見を「素敵な意見」と上手に評価する場面がありました。よい雰囲気で、子ども役の意見を聞きだすことができます。ただ、この時間で子どもたちがどのような変容をするのかを考えてみると、この教材に最初に触れて感じた以上に深まる場面があまりなかったように感じました。「親切にされるとうれしい」「親切にすると気持ちがいい」と強く感じる場面がほしかったように思います。
オオカミがクマと出会うところでいったん話を止めて、「ここでオオカミはどんな気持ちでどう行動するだろうか?」ということをたくさん言わせるというやり方もあると思います。「どうしてそう思のか?」といったことも聞けるとよいでしょう。自分が意地悪していい気持ちになったとことと関連づけておくと、クマの対応から、親切にすると自分も相手も気持ちがよいことに気づいてくれると思います。ただ、一つ間違えると、「くまさん賢い」「そういう手があったのか」と違う方向に行ってしまう可能性もあります。そんな時は「くまさんに出会う前にこのやり方に気づいたとして、おおかみさんはそのように行動しただろうか?」と切り返すといったことが必要になるでしょう。このあたりは難しいところだとは思います。

「親切にしてよかったなあ」と思ったことを子ども役に言わせます。過去に親切にしてよかったという経験がない子どもにとっては、なかなか厳しい問いかけになります。道徳では、過去のことよりもこれからどのように行動するかを大切にするとよいと思います。親切という言葉ではなく、「人にどんなことをすると気持ちがいいかな?相手も気持ちがいいと思ってくれるかな?」と子どもたちに考えたり言わせたりして終わるというやり方もあるでしょう。
最後に、一人ひとりのよい行動をほめるカードを全員に配って終わります。授業者の人柄を感じることができるとても素敵な授業でした。ただ、こういったことがすべて授業者と子どもたち一人ひとりとの関係を強化することにつながり、相対的に子ども同士のかかわりが弱くなることが気になります。低学年では、教師が中心になって子どもをコントロールすることが必要な場面が多いのですが、子ども同士のかかわりもバランスよく授業に組み込んでほしいと思いました。

検討会は、検討する授業の質が高かったので学びの多いものになったと思います。それと同時に、道徳の難しさも考えさせられました。また、フォーラムでは参加者は見ているだけになりますので、その方々に満足していただけるために検討会をどのように進めるとよいのか、当日使用する授業検討システムの活かし方を含めてコーディネーター役の先生は悩むことになると思います。きっと工夫が感じられるものになると期待しています。
「愛される学校づくり研究会」は、2月のフォーラムに向けての動きが加速しています。詳細は12月に発表できると思います。毎年楽しみにしてくださっている方、もうしばらくお待ちください。

授業への思いと現実の差をどう埋めるのか考える

前回の日記の続きです。

初任者の数学の授業研究は多角形の内角の和の公式の問題でした。授業者がしゃべりすぎて子どもの活躍場面が少ないという前回の私の指摘を意識した指導案でした。

まずこの日の学習に必要なことを復習します。三角形の内角の和を確認し、内角はどこかも押さえました。しかし、すぐの自分で説明してしまうのが残念でした。四角形の定義も確認しますが、角が4つ、辺も4つと説明します。定義と性質、角や辺といった用語がきちんと整理されていません。授業者自身がこういうことをきちんと意識する必要があります。この日の授業で利用する性質、内角の和がそれぞれ180°、360°であることを確認しますが、「いつでも」「どんな」といったことを押さえません。三角形の内角の和が180°であることが、「いつでも」成り立つ、「どんな」三角形でも言えるのかを問いかけて、子どもたちにこのことを常に意識させることが必要です。
子どもたちから言葉を引き出さそうと問いかけてはいるのですが、挙手する子どもとだけで進んでいきます。一部の子どもの顔が上がりません。この場面は自分が参加しても困らないと考えているようです。授業者が発言を受けてすぐに説明するのではなく、他の子どもにつなぐことが必要です。

四角形の内角の和が360°であることの説明を子どもたちに確認します。この時、「三角形の内角の和が180°を使っていたね」と一番肝心のところを自分で言ってしまいます。ここは「どうやったら説明できる?何を使う?」と子どもたちに問いかけ、反応が少ないようであればまわりと確認させるといったことが必要です。
ここで、「角が1個増えた」というつぶやきがありました。授業者は上手くひろえませんでしたが、これを取り上げても面白かったでしょう。「三角形の角を一つ増やして、四角形にしてみて。内角の和はどうなった?」と作業をさせると、角が一つ増えると内角が三角形一つ分増えることに気づくことができるはずです。
授業者は対角線を引くという考えを受けて、「どういう線?」と問い返します。用語の確認をするのはよいことです。その後、「例えば?」と子どもに図に書き込ませました。内角の和を考えるのに対角線を引いた図を示すのはよいのですが、対角線の定義はそれでは明確になりません。きちんと定義の確認をすることは必要でしょう。面白かったのが、指名された子どもが前で線を引く場面では顔が下がっていた子どもの顔が上がったことです。子どもの活躍場面を増やすことが、他の子どもの参加も促すことになることがわかります。

多角形の内角の和を考えようという課題を提示したあと、どうやって調べればいいかを問いかけます。まずしなければいけないのは、五角形や六角形でも内角の和はいつも一定かどうかの確認です。そうしなければ、一つ調べればよいということになってしまいます。子どもたちからは出ませんでしたが、分度器で測るといった考えが出てきた時に、一般化の必要性につなげることができません。
授業者は五角形に切り取った紙を何枚か用意して配り、「各頂点で折り曲げて」と考え方を指定しました。「頂点で折り曲げる」という方針についてはきちんと共有していません。授業者が一方的に指示してしまっています。子どもに考えさせたい、活動させたいと思っているのですが、教師のねらっている考えに最初から誘導してしまっています。子どもから出てきたものを価値付けしながら焦点化したいところです。初任者なのでまだまだ仕方がないのですが、このことを意識してほしいと思います。また、五角形も同じものばかりなのが気になります。何種類か用意できるとよかったでしょう。
知っている子どもたちは、内角の和が540°になることをすぐに確認して動きが止まってしまいます。できるだけたくさんの考え方を見つける、誰もやらないような折り方といった条件を付加することも必要でしょう。

子どものかいた「一つの対角線で四角形と三角形に分けた」「一つの頂点から引いたすべての対角線で三角形に分けた」「五角形の内部で交差する2つの対角線で四角形と三角形に分けた」図を黒板に示して、すぐに本人に計算式を言わせます。ここで大切なのは、五角形の内角がどこにあって、それらの「和」がどのような角を合わせたものかを明確にすることです。ここをしっかりと押さえずに、計算式を言わせてもあまり意味はありません。「360+180」であれば、360°と180°がそれぞれ図のどこの角の和となっているのかを押さえる必要があります。計算式も図をかいた本人に言わせるのではなく、他の子どもに言わせて説明することで、より理解が進みます。特に、交差する対角線では、内部の角の和360°を引くことが必要ですが、本人に言わせて先生が説明しました。このことは他の子どもたちから出させたいところでした。
授業者が3つの異なる考え方を取り上げたのはとてもよいことなのですが、それぞれのよさをきちんと価値付けしていません。どちらかと言えば、これらを比較して「一つの頂点から引いた対角線で三角形に分割する」方法に収束させようとしています。
四角形と三角形に分割したのであれば、既に知っている三角形と四角形をもとに考えたことを価値付けすることが必要です。「これで五角形もわかったね。なるほど〜。六角形はどうなのかな?」というように、漸化式的な発想を意識させるような言葉を発するとよいでしょう。
一つの頂点から対角線をすべて引くとムダなく三角形に分割できることを押さえ、対角線は何本引けるか、三角形はいくつできるのかを意識させることも必要です。対角線を1本ずつ引きながら、「三角形が一つできたね」「この頂点からは対角線はもう引けない?」「三角形はいくつになった?」というようなやりとりもあってもよいでしょう。
交差する対角線であれば、「どこの角をたせばいいの?」「どこの角だったら大きはわかる?」といったやり取りをしながら、「余分をひく」という発想の素晴らしさを価値付けしたいところです。
このやり方の説明で、子どもから「三角形が3つ」という言葉が出てきました。授業者はすぐに「3つあるね」と黒板で説明します。物わかりがよすぎます。三角形は他の三角形を含む大きなものも考えられます。「どの三角形?みんなわかる?」と問い返したり、わざと違う三角形を示したりすることが必要です。子どもを揺さぶることで考えさせたいところです。

続いて同じように六角形の紙を与えて作業に入ります。五角形の時には手がつかなかった子どもが、こんどは一生懸命に作業に取り組みます。五角形の説明で何をすればよいのかわかったようです。課題がきちんと理解されていなかったのです。下位と思われる子どもも一生懸命に取り組んでいます。また答がすぐにわかる子どもも、五角形で違ったやり方を見ることで、他のやり方に挑戦しています。子どもたちが活動的になりました。
六角形の発表に入るのですが、一部の子どもが自分のやり方に熱中して顔が上がりません。授業者はそのまま話し始めました。ここは、きちんと作業を止めてしっかりと集中させたいところでした。六角形で対角線がたくさん引けることもあり、子どもたちは多様なやり方をしています。ここでは「もっと角の数が大きい多角形でも使えそうなやり方」といった一般化を意識させてから取り組ませた方がよかったかもしれません。

授業者はいくつかのやり方を確認した後、「このやり方に決定します」と統一しました。多様な考え方を価値付けした後、一般化しやすいという視点で子どもたちから出させた結論ならまだよいのですが、一方的に授業者が決めてしまうのなら子どもたちは自分たちのやってきたことは何かわからなくなってしまいます。結局「先生の求める答探し」をすることになります。この後、表を埋めながら一般化をするのですが、表を与える時点で考え方を固定化させています。授業者は多角形の角の数と分割してできる三角形の数の規則性に気づかせようとしていますが、表に頼らず「対角線に対して三角形がいくつできるかで考える」「角が一つ増えると、内角の和が180°増える規則から考える」といったことも当然あってよいはずです。内部で交差する対角線の考えを拡張して、内部の1点から頂点に引いた線分で三角形に分割することに気づかせることもしたいところです。「余分なものを引けばいい」発想で、角の数と同じ数の三角形の内角の和から、内部の360°引くというやり方です。子どもたちからでた考え方の先にはこんなに素晴らしい世界が広がっているのです。せっかくの多様性を発展させるのではなく、一つに切り捨ててしまったのは、数学的にとても残念でした。

「多角形の内角の和の求め方は、一つの頂点から引いた対角線で三角形に分割して考える」が授業者の考えるこの時間のまとめでした。授業者は、まだ、答を出すこと、解き方を教えることが授業のゴールのように思っています。数学を通じて論理的な思考力を育てることをもっと意識してほしいと思います。この時間であれば、問題の解決の方法として「すでに知っている知識(三角形や四角形の内角の和)を利用することを考える」「うまくいったやり方(対角線の引き方)と同じようなやり方を他の場面でもやってみる」といったメタなことを子どもたちがまとめとして書けるようにしたいところです。

授業者は子どもたちを活躍させたいという思いは強く持っています。しかし、まだまだ教師としてスタートしたばかりです。そのために必要な、子どもの言葉を活かしたり、つないだりするための技術、数学に対する知識や理解が不足しています。自分に足りないことを一つずつ埋めていくことが必要です。私からの指摘を素直に受け止めることのできる先生です。きっとこれからも努力し続けてくれると思います。今後の成長を期待したいと思います。

理科の単元の導入について考えさせられた授業

中学校で授業アドバイスをしてきました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は、若手の理科と数学の授業研究でした。

理科は2年生の「音の正体を考える」という、音の単元の導入の授業でした。
授業者の表情はよく、子どもたちも安心して授業に参加していました。子どもたちは指示に素早く従えます。授業者が、大太鼓や音叉、モノコードで音を出してみせます。ワイングラスに水を入れてふちをこすることで音を出してみせると(グラスハープ)、子どもたちの目は、やりたいという意欲を見せます。子どもたちを意欲的にする仕掛けとしてはよかったと思います。
この日の課題「音の正体を探ろう」を提示して、教師が準備した物を使って、音が鳴っている時の共通点を見つけることを指示しました。なかなか考えた導入なのですが、課題が天下りなのが残念です。また、音の正体を探るという課題と、音が鳴っている時の共通点を見つけるという目標の関係も明確でありません。課題の解決の方法を教師が指示をしたのも気になります。どんなことに着目すればよいかは、子どもたちから出させたいところでした。この道具を使って、どんなことをすれば音の正体を探ることができるのか、いろいろと意見を言わせたいところです。

子どもたちは、音を出すことに意識が集中していました。共通ということはあまり意識できていません。モノコードの絃を指で押さえて鳴らす子どもや、ワイングラスの水面の様子を見ている子どももいますが、そういった行動やそこで気づいたことが共有される場面がありませんでした。
ここでいったん活動を止めさせました、子どもたちに実験を止めて授業者に集中するように優しく促します。柔らかでよい指示です。子どもたちに発表をさせますが、挙手は3人です。指名した子どもが「音が大きい方が、振動が長い」ということを言いました。なかなか面白い意見ですが、授業者はすぐにこの「振動」を拾って、「震えている」という言葉で説明しました。「どうも振動している」と子どもたちに確認してから、「どこが振動している?」と新たな課題を与えて再び実験をさせました。「2段階で実験するとよい」という私のアドバイスを受け入れてくれたのはとてもうれしいのですが、あまりに急ぎすぎでした。まず、発言した子どもは、音が大きいと音が長く持続することを伝えたかったのですが、その伝えたかった部分は無視されてしまいました。発言した子どもは釈然としなかったと思います。また、他の2人の子どもや挙手しなかったけれど何かを見つけた子どもたちの意見は取り上げられません。先生は振動のことを言ってほしかっただけなんだと、子どもたちは思ったに違いありません。
ここは、「同じようなことに気づいた人はいない?」と持続時間のことを確認し、他の2人の子どもの意見を聞き、それから「振動という言葉が出てきたけれど、それってどういうこと?」「どれも振動していた?」と最初の「共通」という視点で整理、焦点化するとよかったでしょう。「音と振動は関係あるのかな?」「振動していないと音はでないの?」と子どもたちに問いかけてから、「振動に注目してみようか。何を、どこを見ればいい?」と実験観察の視点を子どもたちに考えさせてから、再度実験をすればすっきりしたと思います。

子どもたちは、それぞれの音源のどこが振動しているのか観察をします。グループでまとめますが、今度はかかわり合いが出てきます。太鼓にこだわり、叩いた反対側が振動していることを確認して、太鼓の中も振動しているはずだと考える子ども、ワイングラスの水が波打っていることに気づき、振動しているのはガラスか水かと考えている子ども、面白い発言がたくさん聞かれます。子どもたちが発表用のまとめを書きますが、どこが振動しているのかはグループによって微妙に違います。この違いを発表でどのように扱うかが授業のポイントになります。各グループが黒板に貼ったまとめに、授業者は余計なコメント加えずになるほどと認めていきます。授業者は他のグループが書かなったことを「やってみよう」と子どもたちに再度やらせて確認させました。これはとてもよい姿勢です。子どもたちもとても真剣に取り組みます。ワイングラスについては、水が振動していることに対して、水なしでも音が出るかどうかをやらせます。とてもよいことなのですが、こういった指示が常に授業者から出てくることが気になります。「水とガラス」「水」「ガラス」どこが振動しているのか、「どうやって調べる?」と子どもたちに問いかけることが必要です。常に先生が判断して指示するのではなく、自分たちで考えて実験をするという姿勢をつくりたいところです。
「振動が上から下へ伝わっている」ということを書いているグループもあります。上も下も振動しているのではなく、「伝わっている」という言葉を使っているところに、理科としてはこだわりたいところです。「どういうこと?」と聞くことで、「叩いたところではないところ」が振動したこと、そこから「伝わった」と考えられるという推論を明確にできたと思います。

最後は、教師が「振動で音が生じている」とまとめましたが、これも残念なところです。ここでは、導入なので無理にまとめる必要はありません。振動で音が「生じている」というところまではこの日の実験からは言えません。逆に「地震って音がする?」「地面が振動しても音が出る?」などと揺さぶっておきたいところでした。子どもたちにとって、「実験」と実験から「考えること」が分離しています。教師がその時間の内容をまとめてくれるのであれば、子どもたちは考えなくても困りません。せいぜい教師の求める答探しをするだけです。「音と振動は関係がありそうだね」くらいにしておくか、子どもたちが気づいたことをまとめさせて、たくさん発表して終わるだけで十分だと思いました。

授業者だけでなく、理科の担当の先生方が一緒になってつくった指導案のようです。とても意欲的な授業だったと思います。この活動を活かす流れについて考えたくなるものでした。次のような流れを考えてみました。
「音って何?」「音って見える?」といったことを子どもたちに気軽に答えさせます。知識のある子どもが「振動」などと言った時には、腰を振って「振動しているけれど音がする?」と揺さぶります。「よくわからないことがあるね」と疑問を持たせておき、「これから音について学習して、こういったことに答えられるようになろう」と単元の目標を設定します。その上で、どんな実験をすればよいかを子どもたちに考えさせて、「すべてができるかどうかはわからないけれど、音を出せるものをいくつか用意したからこれらを使って音の正体に迫って」とすると、より子どもたちの課題となったと思います。
実験で使う音源についても、グラスハープの鳴らし方の説明程度に抑えてできるだけ早く実験に移ります。全員が実験をしたと思われるところで、一度どんなことをしたかと、その結果を中間発表させます。ここが難しいところですが、子どもから出てきたことを、いくつかの視点で整理していきます。「振動」「伝わる」「大きい・小さい」「高い・低い」といったことから、もう一度視点を定めて実験をさせ、最後に子どもたちの実験結果をできるだけ多く発表させます。その上で、みんなが見つけたことをきちんと説明できるように、これから音の学習をしていこうとして、導入の時間は終わるのです。
子どもたちから出てきたことはまとめておいて、いつでも取り出せるようにしておきます。この後の学習に合わせて、この実験で見つけたことを説明するという課題を与えることで導入が活きてくると思います。

意欲的な授業のおかげで、私が今まで考えていなかった理科の導入の形を見つけることができたように思います。私にとっても学びの多い授業でした。

数学の授業研究については、次回の日記で。

子どもたちが見せる姿の変化から学ぶ

中学校で授業アドバイスを行ってきました。2時間かけて学校全体の様子を見せていただき、その後学年と懇談、個別のアドバイスをさせていただきました。

3年生はそろそろ受験が近づいてきたこともあり、全体的に落ち着いていました。しかし、授業者の問いかけに積極的に参加できる子どもと、できない子どもがはっきりしているように感じました。参加できない子どもも決してやる気がないわけではありません。むしろわかるようになりたいと思っているはずです。ただわからなくて参加できない子どもも結構いるように思います。どの子どもも参加できる、わかる、できるようになる場面をつくることが大切です。挙手だけに頼らず、聞いていれば答えられることを意図的に指名して発言させ、ポジティブに評価するといったことを繰り返すことが必要です。
学年団から進路指導面で悩んでいる子どもへの対応を相談されました。学年全体に対しては、進路面での悩みを「みんな苦しいことがあるよね」と個人のものとせずに共有することを意識してほしいと伝えました。一人ひとりの目標を達成するために、互いに支え合える関係をつくることが大切になります。
個々の子どもの悩みには、面談等で対応することになります。成績面での不安や悩みに対しては、下手に励ますのではなく、負の感情も含めて子どもの苦しさに寄り添う姿勢で接することが大切です。すぐにアドバイスしたり、安易に気持ちがわかるといった言葉をかけたりしないよう注意が必要です。「だめかもしれない」といった言葉に「大丈夫」といった言葉を返すと、自分の苦しさはわかってもらえないと心を閉ざすことにつながります。「そうか、だめかもしれないと思っているんだ。それは苦しいね」とまず気持ちを認めることから始めます。その上で、そう思う理由や気持ちを聞いてあげることをします。焦ってアドバイスする必要はありません。まずは気持ちをしっかりと受け止めることが大切です。その上で、どうすればいいのかを一緒に考えることをします。大切なのは、どうすればいいのかに自分で気がつくことです。子どもの口から言わせるようにするのです。1回の面談で結論を出すことはありません。無理をせずに、継続的に話ができる関係をつくることを優先してほしいと思います。また、担任がすべて引き受けようとする必要もありません。相性というものがありますから、気軽に他の先生とも話すようにさせてほしいと思います。担任にこだわらず、学年全体で対応するという姿勢で臨むようにお願いしました。

2年生は、気なる場面にたくさん出会いました。子どもたちの集中度や表情、態度が授業によって大きく変わるのです。子どもの活動量が多い授業では、とてもよい表情で一所懸命に先生や友だちの話を聞いています。逆に、先生が一方的に説明している授業では、顔も上がらずじっと我慢している状態です。子どもたちの持っているエネルギーは大きいのですが、それが内にこもっているように見えます。その反動が休息時間や放課後、校外などで表れることが心配です。授業中にいい形でエネルギーを使わせてほしいと思います。
同じ教科でも授業者によってスタイルが大きく違います。同じ子どもたちでも、授業者によって見せる姿が異なります。参考となる授業がたくさんあるのに、互いに学び合っていないように思います。先生の個性を否定するわけではありませんが、この学校で広がりつつあった、子どもの言葉を活かし、子どもを活躍させる授業スタイルが減ってきているように感じます。
また、同じ授業時間内でも、集中力が大きく変わることもありました。英語の授業で電話での会話を学習している場面のことです。ALTが英語でこの会話の”situation”を説明します。視覚的な情報もなく一方的にALTがしゃべっても”situation”は伝わりません。子どもたちは、ただボーっと聞いているだけでした。ところが、ALTと授業者2人で電話を掛ける場面になると、子どもたちの姿勢が変わります。体が前に乗り出し真剣に集中して聞き始めたのです。動きが出てきたので、内容を理解できそうになったからです。やる気がないのではないことがよくわかります。わからなければ、参加しない、参加できないのです。
先生方には、互いに授業を見合い、子どもたちの姿を見てほしいと思います。子どもたちのよい姿をみることで、何が大切なのかがわかってくると思います。

1年生は、以前に教師と子どもの関係ができる前に子ども同士の関係ができつつあることを指摘しました。そういう意味では、先生方が子どもとの関係を大事にしてきたことはわかります。子どもは気軽に先生に話しかけます。しかし、授業に直接関係ないことが多いのです。一部の子どもの無責任な発言を受け止めすぎる場面に多く出会います。そうなると子どもたちのテンションは上がっていきます。当然それについていけない子どもは、白けていきます。一人ひとりの子どもをよく見ることが必要です。また、子どもたちが主導権を握ろうとしている授業も目につきます。子どもとの関係をつくるのと、何でも受け止めることとは違います。授業に関係ない発言は無視をすることも必要です。子どもの発言や行動をきちんと評価し、よい発言や行動を増やすようにして、学級内の規律を確立することが大切です。子どもたちが楽しい学級より、安心・安全な学級をつくることが優先です。このことを意識してほしいと思います。

一つひとつの授業をじっくり見ることはできませんでしたが、面白い場面や考えさせられる場面をたくさん見ることができました。
理科のイカの解剖の実験で、子どもたちがとても集中している学級がありました。直接解剖をしていない子どもも真剣に見ています。ところが、結果をスケッチする場面になると集中力が落ちてしまいました。子どもにとっては、解剖することが目的化していたのかもしれません。教師から一方的に課題を与えられても、なかなか自分のものにはなりません。疑問や興味を持たせる工夫が必要です。イカの解剖であれば、「イカの内臓を見たことある?」「心臓はあった?」「どこ?」といったことを問いかけます。真剣に考える必要ありませんから、気軽に答えさせます。そこで、「じゃあ、イカの体の中にどんな臓器がどこにあるかかいて?」と子どもたちにイカの内臓がどのようになっているかをかかせます。知識なので考えてもわかりませんから、これもあまり時間をかける必要はありません。ただ、外部から見える口などを手掛かりに考えさせるといったことはしてもよいでしょう。グループで見せ合ってもいいでしょうし、全体で何人か紹介してもいいでしょう。ここで、「誰のが正解か、どうすればわかる?」と問いかけ、「一番確かなのは自分の目で見ることだ」と子どもたちと確認して、解剖に入るのです。こうすれば、子どもたちはこの課題に集中して取り組むと思います。また、「イカにも個性があるかな?みんな同じような構造だろうか?」と問いかけ、雄雌があるのかといったことも意識させることでスケッチの必然性を与えることもできます。
子どもたちが集中していたので、こんな展開を思いつきました。

同じ学級の違う授業、同じ教科、単元で異なる授業者の授業を比較して見ることができたので、たくさんのことに気づくことができました。私にとっても、学びの多い時間でした。研究発表が終わってから時間が経ってきました。これから人の入れ替わりも多くなると思います。この学校がこれからどういった方向に進んでいくのか、岐路に立っていると思います。今一度、互いに学び合うことを意識してよい方向に進んでほしいと思います。

資料を活かす授業展開の大切さを感じる

昨日の日記の続きです。

2つ目の授業研究は4年生の社会科の交通事故をなくすために何ができるかを考える授業でした。
前時の復習で、交通事故を減らすのにどんな取り組みがあったかを聞きます。ノートを見てもいいと指示をしたのですが、全員の手が挙がりません。授業者の指名の声がちょっと強いのも気になりました。何となく圧力を感じてしまいます。こんなことも子どもの挙手が思ったより少ない原因があるのかもしれません。とはいえ、教室全体は授業規律もしっかりして、学級経営は上手くいっているように見えました。
講習会という答に対して、その内容を聞いたのですが発言者は答えることができません。他の子どもからもなかなか出てきませんでした。子どもたちは、まとめとして板書されたものしか意識していないように思います。注意が必要です。
子どもの発言をしっかり受容することはできるのですが、発言する子どもとだけで授業が進んでいきます。また、板書をする時に勝手に言葉を足す場面もありました。先生の求める答探しの授業になる危険性があります。言葉が足りなければ子どもたちから出させるようにする必要があります。一問一答を止めて、同じ質問に何人にも答えさせることが大切です。

子どもたちに交通事故件数のグラフを見せて、読み取れることは何かを聞きます。「気づいたこと」ではなく、「読み取れる」という言葉を使ったのは社会科の視点を意識しています。子どもからは、「○○年が一番多い」「……ちょこっとずつ減っている」「……より増えている」といったことが出てきます。よい読み取りができています。残念なのが、こういった子どもたちのよい読み取りを価値付けしていないことでした。授業者が、「一番多いところに目をつけたんだ」「『ちょこっとずつ』と変化の仕方まで読み取ってくれたね」(これはグラフの見せ方でも変わって見えるので、別の機会にそのことに触れることが必要でしょう)「……年と比較したんだね。他の年と比べるとどうかな?」といった言葉を返すことが必要です。子どもたちが育ってくれば、「今の意見は、何に注目して読み取ったのかな?」と子どもに視点を言わせるとよいでしょう。子どもたちに資料の読み取り方を身につけさせてほしいと思います。また、「同じことに気づいた人いるかな?」と挙手させたり、「同じでいいから読み取ったことを聞かせて?」と発言させたり、「どう、今の意見に納得した?」と気づかなかった子どもに納得するかどうかを問いかけたりすることも必要です。一部の子どもとだけで授業が進まないように意識してほしいと思います。

どんな時に交通事故が起きやすいかを子どもに問いかけます。「急いでいる時」「赤信号で渡る」といった意見が出てきます。授業者は子どもの意見を受け止めますが、深めることはしません。ここは、「急いでいるとどうして交通事故が起きやすいの?」「赤信号で渡るのはどんな時?どうして?」と交通ルールを守ること心情との関係を押さえておくとよいでしょう。前の時間にやった取り組みと結びつけて、講習会といったものがどうして事故対策としてあるのかに気づかせてもよかったでしょう。
ここで授業者は、子どもの原因別事故件数の資料を見せました。まずは、歩行中です。この資料から読み取ったことを発表させます。原因を子どもの側から見た資料で、「違反がない」ことが一番多いのがわかります。授業者としては、自分は違反していなくても事故にあうことに着目させたかったのですが、当然子どもからはそれ以外にも色々なことが挙がってきます。中に、表の一番数が少ない項目を「○○が一番少ない」と答える子どもがいました。表には「その他」の項目もあります。授業者は子どもの間違いを否定しなかったのですが、「その他」の意味をきちんと教えておく必要がありました。
続いて、自転車での同様の資料を見せて、今度はグループで情報交換させました。それぞれが自分の意見を言った後、動きは止まります。情報交換してという指示ではそれ以上動かないのです。あまり意味のないグループ活動でした。次第に子どものテンションが上がっていきます。ここでは、歩行中より自転車の事故が圧倒的に多いことに気づかせたいところですが、ほとんどのグループではそのことは出ていませんでした。2つの資料を比較する意見が発表される場面があったのですが、授業者は価値付けしませんでした。もったいないと思いました。

ここまでに多くの時間を使ってしまいました。事故を減らす、事故にあわないためにどうすればいいのかを資料から「考える」ことがこの授業のねらいです。読み取りよりも考えることに時間を使いたいところです。早く問題を焦点化することが必要でした。
この授業であれば、どんな時に交通事故が起きやすいかを聞いた時に、交通ルールを守ることが事故防止に大切だということを意識づけておいて、「じゃあ、君たち子どもの事故原因で多いのは何だと思う。信号無視?……」と資料にある原因のいくつかを例示して、子どもに言わせることや、「君たちは普段歩くことが多い?自転車に乗っていることが多い?事故が多いのはどちらかな?」と予想させることをしておくとよかったでしょう。その上で資料を見せれば細かい読み取りは必要なく、ルールを守っても事故にあうことをすぐに焦点化できます。「じゃあどうすれば事故を減らせるのだろうか?」とせまれば、この日の課題に子どもたちは深く入ることができたと思います。ここでグループ活動にすれば、かなり動きは違っていたでしょう。

授業者はこの後、校区の写真を子どもたち見せて、気をつけることはあるかと問いかけます。子どもたちは意見を出すのですが、資料と関連づけた意見ではありません。資料を見ながら、この場所ではどんな事故が起きやすいかといったことをまず出させて、それからどんな対策をするとよいかを考えさせてもよかったでしょう。これまでの学習と関連づけて、「ミラーをつける」「○○注意の看板を立てる」といったことが出てくると思います。
この後、グーグルマップを使って学校からの道をストリートビューで見せながら、どこで注意が必要かを子どもたちに言わせました。活動としては面白いのですが、ねらいとつながる活動なのかは疑問です。最後は子ども目線でのまとめでした。子どもたちだけの問題ではなく、社会としてどう対応するかが問題です。前時にやった社会の取り組みと関連づけて、もう一度見直すことが必要だったと思います。

この学級の雰囲気のよさを感じる場面がありました。事故につながりそうな経験を子どもたちたずねた時に、信号無視したことを話してくれる子どもがいました。その発言に対して、子どもたちは批判的な反応を示しません。何を話しても安心な学級づくりができているように思いました。

資料や活動はなかなか面白かったのですが、この時間を通じて柱になることは何か、ゴールはどこかということが明確でなかったために、子どもたちはただ指示に従って活動するだけでした。社会科としての力がついたのかはちょっと疑問です。資料を活かす授業展開を考える必要がありました。授業者にはこういったことを指摘しながら、ここで示したような流れを参考として提示しました。授業者はスッキリしたと言ってくれました。学級の基盤がしっかりしてこその授業ですが、その点、この先生は問題ないと思います。だからこそ、深い教材研究、授業研究が求められます。このことを意識して、これからも努力を続けてくれることと思います。これからが楽しみな先生でした。

全体にお話しする時間をいただきました。
全体として授業規律や、子どもたちとの関係は良好です。個々の子どもたちの発言を受容することもできています。課題は、子どもの発言をつないで、広げ、深めることです。また、授業の課題が子どもたちのものになっていないように感じる場面も多くありました。そこで、「アクティブ・ラーニング」についての解説と合わせて、子どもたちが自分で課題を持つためにどのようなことを意識すればよいかといったことをお話しさせていただきました。
2年間で4回訪問させていただきましたが、学校全体の力が上がっているように思います。先生方が、努力されていることがよくわかります。次の課題もきっとクリアされることと期待しています。

教材研究の大切さを強く感じる

小学校で授業アドバイスをしてきました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は学校全体の授業の参観と、若手2人の授業研究でした。

全体として子どもたちは落ち着いて授業に参加しています。先生方との関係のよい学級が多く、授業規律の心配もなさそうです。ただ、授業者と子どもとの個の関係で授業が進む場面が目立ちました。全体の場で子ども同士のかかわり合う場面が少ないのです。また、課題が子どものものになっていないと感じる場面が多くありました。教師から与えられた課題を指示に従って取り組んでいるのですが、解決したいという意欲があまり感じられないのです。
この学校も、次の段階に移ってきているように思います。授業規律や教師と子どもの基本的な関係は問題がないので、子どもが自ら課題をみつけ、主体的に取り組み、子ども同士がかかわり合って学ぶ授業を目指してほしいのです。これがまさに今言われているところの「アクティブ・ラーニング」だと思います。

授業研究の1つは、4年目の教師の3年生の算数の授業でした。結合法則の学習場面でした。
子どもたちの授業規律はとてもよく、授業者との関係も良好です。子どもたちは先生のためにも頑張ろうとしているのがよくわかります。「問題文を読みたい人?」という問いかけに、たくさんの子どもが挙手しました。指名された子どもが読むと、全員が読み手をしっかりと見ます。そのようなルールになっているのでしょう。徹底されていることがよくわかります。読み終ると拍手がありますが、これは形式的になっているように思われます。読み終った子どもの表情がうれしそうにならないからです。授業者が具体的によいところを評価してあげたいところでした。

2mの雲梯があって、木はその3倍の高さ、校舎はその木の2倍の高さです。この校舎の高さを求める2つの方法をもとに、結合法則を考えるのがこの日の課題です。
前時にやった、2つの計算のやり方を復習します。子どもたちの手が半分ほど挙がります。微妙な数です。授業者は指名で答えさせ復唱し、すぐに板書します。これでは、本当にわかっているか確認できません。「順番に計算する」という答そのものが大切ならば、すぐに板書せずに、挙手した、しなかったにかかわらず何人も続けて指名し、定着させることが必要です。また、その内容が大切ならば、「順番に計算する」を何人かに確認した後、「最初に何を計算する?」「次に何を計算する?」と具体的に計算を確かめていきます。「2×3」が出てくれば、「何を計算したの?」と問い返します。出てこないようであれば、「2って何?」「3って何?」ともっと細かく聞くのです。復習として最初に課題とは別の問題を1題やってもよいでしょう。
続いて、もう一つのやり方をたずねます。「先に何倍かを考える方法」と一人が答えると、やはりすぐにそれを板書します。ここで「まず何倍……」と「先に」が「まず」に置き換わっていました。もし、「まず」に直させたいのなら子どもに訂正させることが必要です。ここでは、その必要はありませんから、そのまま「先に」を使えばいいのです。「まず」に置き換えることで、子どもは「先生は、まずと言ってほしかったんだ」と思ってしまいます。先生の求める答探しを始めるようになっていきます。できるだけ、子どもの言葉をそのまま使うようにしてほしいと思います。
「順番にやる」と同じように確認をした後、結合法則の布石として、どちらのやり方でも「答は同じ」ことをしっかりと押さえておくことが大切です。

ワークシートには「ひなたさん」と「たいちさん」の考えの図が書いてあり、それぞれの下に、□×□=□と穴埋めの式が2段積み重なっています。授業者は2人のやり方がどちらかを確認します。挙手で指名した子どもの答に、他の子どもが「賛成」と声を出します。しかし、全員がきちんとわかっていっているわけではありません。不安な様子が見てとれます。個々に言わせて確認することが必要です。
この場面では、子どもはやり方を確認する意味がよくわかっていません。図から式はつくれます。「順番にやる」「まず何倍か考える」といった「やり方」をなぜ先に考えるのかよくわからないのです。授業者が「やり方」にこだわったのは、このあと2つの式を一つにするための布石となる、考え方の説明を書かせるのに、「順番にやる」「まず何倍か考える」というやり方を意識させるとよいと思ったからでしょう。式を書かせた後、これも説明のための布石として、式に単位を書き込ませます。気持ちはわかりますが、この一連の活動はあまり意味があるとは思えませんでした。また、ここで、倍を単位として書き込みました。倍は単位ではありません。「×□」が□倍です。ここが混乱していると、何倍の何倍がわかりにくくなってしまいます。

授業者としては充分準備ができたので、やり方の説明を書くように指示をします。ワークシートにはそれぞれ「まず、木の高さを計算します」「まず、校しゃの高さがうんていの高さの何倍かを計算します」と書いてあるので、その続きを書くのです。子どもたちは「説明」と聞いたとたん嫌な顔をしました。何を書いていいのかわからないのです。先生の期待に応えたいのに答えられない、どうしようという思いのように見えます。いきなり説明しろと言われても、個々の作業がバラバラでどうつながっているのかわからないのです。どうしていいかわからない子どもがほとんどで、なかなか手がつきません。結局、発表では挙手が数人で、指名された子どもの答を聞いても子どもはよくわからない表情です。授業者はここで「説明は後にする」と、説明にこだわることをあきらめました。それなりによい判断なのですが、ここで式の意味をきちんと押さえていないので、次の2つの式を一つにすることが、またわからなくなってしまいました。
ここは、いきなり説明を書かせるのではなく、どのようなことを言えばいいのか、実際にやって見せることが必要です。単位ではなく、式の意味をいろいろな形で言わせるのです。「2×3=6」からは、「2×3は何を計算したの?」「2は何?」「3は何?」「6は何?」と聞いたり、「×3ってどういうこと?」と3「倍」を押さえたりするのです。数字の上に、「うんてい」「木」と書くことで、「うんてい」の高さの3倍が「木」の高さと言葉で説明できます。同様に「木」の高さの2倍が「校しゃ」の高さと言葉にすればよいのです。もし、書かせることにこだわるのであれば、「今の説明をワークシートに書いて」と指示すれば書けるはずです。3倍の2倍も、同様にして、「うんてい」の高さの6倍が「校しゃ」の高さといった言葉を引き出すのです。

ここで、図に2つのやり方を書き込むとよいでしょう。「木」のところに「うんていの3倍」「2×3」と書き込み、「校しゃ」のところに「木の2倍」「6×2」と「順番にやる」やり方を書き込みます。「まず何倍か考える」方法は、「うんてい」と「木」、「木」と「校しゃ」を結ぶ矢印を2倍、3倍に対して、「うんてい」と「校しゃ」を矢印で結んで「(3×2)倍」と書き込みます。そして、式と図、言葉を自由に行き来できるように、「式を見ながら言葉にする」「図を見ながら言葉にする」「式を見ながら図を指さす」こういったことを子どもたち何度もさせるのです。このようにして頭の中を十分に耕しておけば、式を一つにすることはそれほど難しくないはずです。
授業者は、2つの式で同じものがないかを注目させようとしますが、数字では属性が落ちているので、値が同じでも同じものとは意識できません。先ほどのように数の意味するものを意識させておけば、様子はかなり違ったでしょう。

式を一つにするのにかなりの時間を使いました。授業者は子どもの的外れな答もしっかり聞くことができます。好感が持てるのですが、なんとか正解を言わせようと「そうじゃなくて……」と発言を否定するような言葉を使ってしまいます。その場で視点を変えて新たに考えさせようとしても無理です。ここは、「なるほど」と受け止めて、次に進めばいいのです。
最後は教師主導で式を一つにして、計算の順番が違っても答えが同じことを「多くの数をかけるとき、順を変えても同じなります」とまとめました。かなり無理があります。一つの例でしか確認していないのに、常に成り立つことは納得できることではありません。せめて、値を変えて確認したり、図を使ってこのことが数値に影響されないことを確認したりすることが必要です。同様に、「多くの数」も確認が必要です。4つ以上の数でも成り立つことを子どもが納得することが必要です。残念ながら、算数・数学の本質的なところを押さえきれていない授業でした。

この授業者は学級経営や授業規律といった点ではよく頑張っています。だからこそ、教科の中身の理解、教材研究が強く求められるのです。説明で全く手がつかなった子どもも、練習問題では一生懸命に取り組みます。わかる、できるようなりたいとどの子どもも思っているのです。だからこそ、子どもたちがわかる、できるようになるための手立てを教師がしっかりと持たなければいけないのです。教師としての力がついてきたからこそ、次に求められるものは大きいのです。
授業後、とても素直に自分の授業を振り返ってくれました。自分でも、子どもたちがわかっていなかったことは痛いほど感じています。だからこそ、どうすべきだったのに気づけた時に、スッキリとしたと言ってくれました。日々の教材研究を大切にして、一歩ずつ前に進んでほしいと思います。

この続きは、明日の日記で。

私学で子どもたちのポテンシャルを感じる

私立の中学高等学校で、授業アドバイスと研修を行ってきました。

全体的には、よい状態が続いています。子どもたちが積極的に授業に参加している姿をたくさん見ることができました。また、若手の先生方が何を意識して授業しているのかがよくわかる場面にたくさん出会えました。授業をよくしようという意欲を感じることができます。

体育の授業をいくつか見ることができました。
高校1年生の男子のバスケットボールの授業では、子どもたちは積極的に体を動かしていました。しかし、グループでの活動でかかわり合いが少ないと感じました。互いにアドバイスをしたり、上手くいった時に「ナイス!」といった声をかけたりしないのです。授業者はその点に気づいて声を出すように指示をしましたが。その時はやれるのですが、すぐに元に戻ってしまいました。プレイにおける具体的な目標や、ポイントを意識させると同時に、チームとしての目標を明確にしておくことが大切でしょう。まだ1年生ですので、これからいろいろな場面でこのことを意識して、子ども同士のかかわり合いをふやすようにしてほしいと思います。
高校3年生の男子のバレーボールは、試合の場面でした。さすがに3年生です。それなりに試合になっています。感心したのはよく声が出ていることでした。また、ミスをした子どもに対して、笑い飛ばせる雰囲気があったことも素晴らしいと思いました。つまらないミスが出ると、勝ちたい気持ちの強い子どもからブーイングや心無い言葉が出ることがあります。そういった言葉を子どもたちから聞くことはありませんでした。よい学級だと思いました。後から授業者に聞いたところ、人間関係も考慮してチーム編成をしているとのことでした。こういった細かい心配りが、試合の雰囲気をつくっていたのだと感心しました。

高校2年生の英語で、探査機はやぶさについての教科書の本文を使った発表会を参観しました。グループで、教科書の本文から1章をピックアップして発表するのですが、その内容に合わせたスライドをつくって、それを見せながら読み上げます。英語によるプレゼンテーションです。授業者は自ら英語でMCをして、雰囲気を盛り上げます。子どもたちは緊張しながらも一生懸命です。まだまだたどたどしいのですが、終わった時のやり終えた感が伝わってきます。空き時間の先生方が何人も参観していました。授業者が発表会をやることを伝えて参観をお願いしたそうですが、それに応えてくれる先生がいたことをとても感激していました。もちろん子どもたちも、多くの先生方が見に来てくれてやりがいを感じていたように思います。
素晴らしいと思ったのが聞いている子どもたちの態度でした。とても真剣です。発表が終わった者、これからの者も関係ありません。友だちの発表が終わると緊張が弛むのが伝わってきます。それだけ集中していたということです。友だちの発表の簡単な評価をすることだけでは、このような集中は生まれません。授業者に聞くと、事前にいくつかのグループで合同の事前発表会をして、改善点などを意見交換したそうです。グループ同士でかかわり合ったのでの、発表に集中したのかもしれません。子どもたちのよい姿を見せてもらいました。

英語は一部習熟度別を取り入れています。2年生の下のクラスの授業でとても興味深いことが起こっていました。一部の習熟度の高いクラスでは、高校生向けに英語で書かれた小説をテキストにして、自分たちで要約するという課題を与えていました。下位のクラスではとてもそんなことはできないと思っていたそうですが、試しにと同じような課題を与えてみたそうです。読みを助けるために、単語や語句の意味、ポイントをまとめたものも一緒に与えました。上位のクラスよりも、手厚いものを用意したようです。驚いたことに、子どもたちはわき目もふらずに課題に取り組んだそうです。辞書を引くことも困難な子どもたちですが、助けになるものがあれば集中して取り組むことができるのです。この日はその2回目でした。私の目にも集中して取り組んでいるのがよくわかります。最初だけかと思ったそうですが、そんなことはなかったようです。中に一人、手持ち無沙汰にしている子どもがいました。「やはり手のつかない子どももいるんだなあ」と思ったのですが、驚いたことに、その子どもは既に与えられたところをすべて読み終っていたそうです。次の課題がまだ準備できていなかったので、することがなかったのです。子ども同士で要約を見あったりさせることで、かかわり合って活動を始めました。
この授業者と子どもたちの関係といった特別な要因がこのクラスにあったからこのようなことが起こったのかもしれないと思ったのですが、そうではなかったようです。他の先生が担当している下位のクラスでも同じ課題を与えたところまったく同じような状態だったようです。彼らでは無理だというのは先生の思い込みで、実際には課題等を工夫し、条件させ整えればしっかりと学習に取り組むのです。具体的な要因としては、子どもたちが面白いと思える内容の話だったこと、読み解くために必要な材料があらかじめ用意されていたことが大きいと思います。また、子ども同士が気軽に聞きあえる関係が、英語だけに限らずいろいろな場面で育っていたことも大きいでしょう。できない、やる気がないように見える子どもたちも、「やってもできない」と思っているから無気力になっているだけなのです。「やれそうだ」「おもしろうそうだ」と思えれば、集中して取り組むのです。課題ややり方を工夫することで、子どもは全く違った顔を見せてくれるのです。先生方はあらためて子どもたちのもつポテンシャルに気づいたようです。とてもよいものを見せていただきました。

この日は、先生方の空き時間に、希望者を対象に「アクティブ・ラーニング」の研修を行いました。前回参加した方も今回初めての方もいらっしゃったので、簡単に「アクティブ・ラーニング」の考え方を説明し、子どもが自ら課題を見つける、主体的に取り組むといったことについて社会科を例にしながら、具体的にお話させていただきました。多人数での研修ではないので雑談めいたものになりましたが、いっそのこと先生方が今取り組んでいること、悩んでいることなどを相談し合う場にすればよかったと反省しています。授業改善に取り組んでいる先生方も増えているので、そういった情報交換も含めて、先生同士で気軽に授業について話ができる雰囲気づくりを今後目指したいと思います。

学校の中でいろいろな変化がどんどん起こっています。その変化が子どもたちのよい姿につながっているように思います。この日も、子どもたちの姿からたくさんの元気をもらいました。先生方と子どもたちが一緒に成長しているように感じます。これからどのようなよい変化が見られるのかとても楽しみです。

介護の研修で、経営という視点を考える

介護関連の研修で講師を務めました。今回は、介護制度の変化に事業所としてどのよう対応していけばよいのかを、参加者の皆さんに考えていただきました。研修を通じていろいろなことに気づくことができました。

これから、ボランティアといった、専門職でない方も介護にかかわることが予想されますが、そんな中で自分たちがプロとしての差別化ができなければいけないことをしっかりと意識していただけたように思います。現場で働いている人の視点での意見をしっかり聞くことができました。また、事業所としてはリハビリテーションや認知症の対応などの相対的に介護報酬が高い、技術を必要とする分野に積極的に対応することも大切になります。先ほどのプロとしての差別化にも関連しますが、プロ意識を持って、質の高い介護技術を提供しなければ、介護事業所も生き残れない時代になっていくことをわかっていただけたようです。
この事業所では、訪問介護、訪問看護、弁当宅配などの訪問型、デイサービス、老人ホームなどの施設型のサービスを行っています。しかし、グループとしてこういったいくつものサービスを複合的に行っていることの意味については、あまり意識されていなかったようです。安定して事業を継続するためには、利用者の囲い込みこという発想も必要です。こういった発想は経営者の発想ですから、なかなか現場の方にはピンとこないことかもしれません。

こういった研修を通じて感じる課題の多くが学校現場にも通じます。例えば、先生方は学校経営という視点で自分たちの仕事を見ることはなかなかできていません。学校を取り巻く状況は非常に速いスピードで変化しています。以前と比べて学校に求められることは質も量も大きく異なっています。21世紀型学力、グローバル人材、センター試験廃止、地域連携、チーム学校、アクティブラーニング、道徳の教科化、小学校英語の教科化……と、最近耳にするキーワードだけでもものすごい量になります。先生方がこれらをただ受け身で、現場に降りてきてから考えようとしていては、学校経営は成り立ちません。先生方一人ひとりが、これからの学校はどのように変わらなければならないのかを考え、今からそれに対する準備をしておくことが必要です。「日々の仕事に追われてそんな余裕はない」という声が聞こえてきそうですが、先生方がどう対応するかは、よくも悪くもすべて子どもたちに還元されていきます。子どもたちのためにも、これからの学校ではどのようなことが大切になり、それを実現するためにはどのようにしなければいけないのか、ほんの少しでよいので、考えてほしいと思います。

野口芳宏先生から心地よい刺激を受ける

今年度第5回の教師力アップセミナーは野口芳宏先生の講演と道徳の授業の実践発表でした。

午前の部は、宮沢賢治の「やまなし」の模擬授業をもとにして、野口流の国語授業のつくり方をたっぷりと教えていただきました。
「間違いは正さなければいけない。間違いをした子どもを落ち込ませるのではなく、間違いを知って正すことで成長したことを喜べばいい」「判断は誰でもできるが根拠が大切」といった素晴らしい言葉が次々と野口先生の口から語られます。
「一人ひとりの子どもが相手にされることが大切」という言葉に、野口先生の授業の底に流れる全員参加の考え方が現れています。「やまなし」であれば、舞台となっているのは「朝か昼か夜か」といったことを子どもたちに発問し、全員の考えを確認しなければ情景をきちんとイメージできているかどうかわからないということです。実際に参加した先生方でも答が違っていたことが印象的でした。

さて、今回取り上げた「やまなし」は40年以上にわたって光村図書の小学校6年生の教科書に掲載されていますが、難解な教材として定評があります。難解ですがこれだけ長い期間にわたって採用されているということは、それだけの魅力のある教材だということでしょう。「理屈の世界ではわけがわからない」と野口先生はおっしゃいます。この教材は、宮沢賢治の素晴らしい表現からイメージを描かせること中心にあつかいたいという提案です。
文学作品は、「内容と形式の調和」であり、その本質は美の追究であるとおっしゃいます。「内容美」は「理(知的価値)」「相(イメージ、様子……)」「情(感情理解)」、形式美は「体(構成、構造)」「律(リズム)」「語」からなるという整理の視点はなるほど納得するものがあります。心にとめておきたいことです。

「否定は大切」ということも野口先生の一貫した主張です。世の中の流れが否定ではなく、肯定、ほめることを大切にする方向に流れても、安易にそれに迎合しない野口先生の姿は凛としています。私自身、否定をしない、肯定的な表現をすることが大切だと考えています。しかし、野口先生の言う「否定することで次に進める。新たなものを得ることができる」という「否定の生産性」を間違いだとは思いません。その通りだと思います。私が大切にしたいのは、他者に否定されるのではなく、自分自身で間違いに気づけることです。だからこそ、野口先生と同じように根拠を明確にして、子どもが考える授業を大切にしたいのです。客観性のある議論をすることで、結論を一方的に受け入れるのではなく、自身で修正して正しい結論にたどり着いてほしいのです。
子どもは「不備」「不足」「不十分」の「三不」というのも、いかにも野口先生らしい言葉ですが、この子どもの中に潜在している「三不」をレントゲンのように浮き上がらせるのが「発問」だというのも、すばらしい「発問」のとらえ方です。

授業づくりについて話されます。「まずは『素材研究』。一人の大人として作品と向き合う。その上で一人の教師として『教材研究』。その先に授業者として『指導法』を考える」というのもいかにも野口先生です。特に「素材研究」を一番にするべきだというのは、まったくその通りだと思います。これは数学でも同様です。例えば関数の学習をするのに、「関数とは何であるのか?」「一次関数とは?」といった数学としての根本がわかっていなければ、本質を外した授業になってしまいます。その上で、教科書は何を、どこをねらっているのか「教材研究」していくのです。

全体の様子を描写する「括叙」(抽象的)に対して、個々の様子を描写する「細叙」(具体的)により、イメージ化ができる。最近は教えることが流行っているが、こういったことを教えることが大切であるというのも野口先生らしいのですが、何を教えて、何を考えさせるのかという選別が大切だと思います。基本知識は教えるか調べるかありません。そういったことまで子どもたち気づかせようとしている授業を野口先生は見たのでしょうか。今言われている授業のあり方は、野口先生のものと大きく乖離しているようには思えないのですが、どうでしょうか?

読み取りを進めるのに、「川の深さは何mだろうか?」「カニの大きさは何cmくらい?」と「数値」を問うのも、野口先生がよく使われる方法です。漠然と浅い深いといったことではなく、数値で答えようとすると根拠となるものを本文からしっかり探さなければいけません。子どもたちに深い読みをさせるための有効な方法です。
また、「ねむらない」と「ねむれない」の違いや、「遠めがねのような両方の目をあらんかぎりのばして」とあるその行動の裏にある感情を問うといったことも、非常に参考になる発問のあり方でした。

細部を読み進んだ後、題名が「やまなし」なのはなぜかを問います。「かわせみ」でも「かに」でもない。その理由を考えることが、この作品が何を言いたいのかを考え読み解くことになるという考えです。この授業の構成にはなるほどと思いました。「題名」の理由を考えるというのはよくあるやり方なのですが、私の中では、一読した後に問いかけ、作品全体を大掴みさせてから細部に入るという流れしかありませんでした。このように最後に作品全体をとらえるための発問にしたことは、とても新鮮に感じられました。
「やまなし」という難解な教材のあつかい方を通じて、国語授業のつくり方について、多くのことに気づき、学ぶことができました。

午後は、運営委員の学校の若手教員の道徳授業(道徳の授業撮影参照)のビデオをもとに、道徳の授業の視点を深める時間を取り、それを受けた形で、野口先生から道徳の教科化に伴う指導要領の改訂に関連してお話しいただきました。「考える道徳」「議論する道徳」に対してのお話も伺えました。第1回授業深掘りセミナーでも話題になったところ(第1回授業深掘りセミナー(その1)参照)ですが、まだまだ試行錯誤が続いていくのだろうと思いました。
それよりも道徳に関連して印象に残っているのは、懇親会で野口先生に質問させていただいたことに対するお答でした。「道徳でこういった行為はよくないというような話をする時、子どもの親がそういった行為をしていることもある。子どもが親を否定することにつながらないかと二の足を踏むことがあるがどう考えればよいか?」という質問でした。野口先生は、「元徳」という言葉を出されました。「徳の中で最も根本となるもの」という意味ですが、その「元徳」の一つは「親を敬う・大切にする」ことだというのです。だから、何があっても「親を敬う・大切にする」ことは忘れてはいけない。そう教えるというのです。今の時代、この考え方にすべての人が賛成するとは思えません。しかし、その言葉に野口先生のぶれない強さを感じました。おいくつになられても心地よい刺激を与えてくださる野口先生です。今年もとても素晴らしい、幸せな時間を共にすることができました。感謝です。
12月に第2回「教育と笑いの会」でお会いできるのが今からとても楽しみです。

ゼミでの学生の姿から考える

授業深掘りセミナーの後の会場で、玉置ゼミが開かれました。せっかくですので、少しゼミの様子を見学させていただきました。授業と学び研究所の小西克哉所長からの就活と最近の大学生気質についての話、フェローの神戸和敏先生の模擬授業でした。

小西所長の話は、学びの本質に迫るものでした。学びは一生涯続くもので、学び続けることができる人を企業は求めている。学ぶことを楽しめることが大切である。「学力」は「楽力」に通ずる。また就職は、自分がその企業で仕事をすることを通じてどのようになりたいかを思い描けなければうまくいかない。こういった主旨の話でした。
教員志望がほとんどで、一般的な就職活動には縁のない学生たちなので、どのような反応をするのか興味がありましたが、だれもが真摯な態度で話を聞いていました。素直に学ぼうという姿勢は好感が持てました。

神戸先生の1時間の模擬授業は2部構成でした。後半は次回の授業深掘りセミナーで行う模擬授業を試しに行うものです。前半は、なんと落語をアニメ化したものを見せました。「時そば」です。最初はなぜ落語を見せるのかその意図がわかりませんでした。アマチュアの域を超える落語家の玉置先生のゼミの学生にしては意外なことに、あまり「時そば」を知らないようでした。
神戸先生は「時そば」を見せ終わった後に、そばがいくらだったかを問いかけました。「16文にきまってらあ」という言葉の意味がわかっているかの確認です。「二八そば」から「16文」ということに気づいている学生は少なかったようです。どうやら神戸先生は、日常に潜む数や数学的な視点に気づく感性を持ってもらいたいことを伝えるのに、「時そば」を選んだようです。
落ちの「今何刻でぇ」「四つでさぁ」というところも、よくわかっていなかったようです。江戸時代の時刻が0時を「九つ」として、半日を2時間ごとに(正確には日の出を暁六つ、日の入りを暮れ六つとして計算)、「八つ」「七つ」「六つ」「五つ」「四つ」としていたことを知らないと、「九つ」より少し早かったために「四つ」で大失敗したということがわかりません。こういったお話を楽しむためにも、数の感覚が大切です。教師として、幅広い視点を持つこと、算数・数学を教えるためには日常に潜んでいる算数・数学的なものを見つける、見つけようとする姿勢が大切なことを伝えられました。「時そば」を当たり前のように楽しんでいた私には、このような教材として利用することは思いもつきませんでした。神戸先生の教材を見つける感覚に脱帽です。

後半の模擬授業については、次回の授業深掘りセミナーでのお楽しみにして、その時の学生たちの姿から感じたことを少し述べたいと思います。
非情に素直に課題に取り組みます。しかし、ある事柄の持つ特性や属性を分析したり、そのことをもとに推論したりするといった力が今一つです。日ごろから、身の回りのことを「なぜそうなっているのだろうか?」「他にはないのだろうか?」と原因や必然性を論理的に解釈しようとすることをしていないようです。答を出せた学生も、どうやって考えたのか、論理的に筋道立てて説明することが上手くできません。たまたまであったにせよ、そこにある必然性を見つけようとする姿勢が大切なのですが、そういう習慣はついていないようです。先ほどの「時そば」で感じたことと一致します。
このことは彼らのだけの問題ではありません。多くの小学校の先生の算数の授業で感じるのがこれなのです。解き方を知っていてそれを教えるだけの授業が多いのです。「なぜそうやると解けるのか?」「他にやり方はないのか?」「その必然性は?」といった視点が授業に欠落しているのです。解き方を教えるのは塾に任せて(塾に失礼ですね)、解き方を見つける力を子どもたちにつけてほしいのです。それが、算数・数学で目指したい力です。
そのためには、先生方がきちんとその問題の本質を理解して、論理的に解き方を説明できることが必要です。その上で、直接教えるのではなく、子どもたち自身で気づけるような授業構成をすることが求められるのです。
この日の神戸先生の模擬授業からは学生たちにそのことを気づかせたいという思いがあふれていました。これは、神戸先生の算数・数学の授業に共通する思いでもあります。
ゼミ生のみなさんには、これから教壇に立つまで、立ってからもこのことをいつも自身に問い続けてほしいと思います。

第1回授業深掘りセミナー(その3)

昨日の日記の続きです。

第1回の「教育情報知っ得コーナー」は授業と学び研究所フェローの後藤真一さんの「アクティブ・ラーニング」についての情報提供でした。このコーナーは10分ほどで簡単に最近の教育に関する情報を提供し、その後皆さんから質問を受け付けるというものです。

「アクティブ・ラーニング」は、もともとは大学の授業改革から出てきたもので、当初の定義では、「発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である」と学習者が活動していれば何でも「アクティブ・ラーニング」という広いとらえ方でした。
ところがこれが、次期学習指導要領の改訂では小中高大共通のキーワードとなるとともに、その意味するところが変わりそうです。中教審教育課程部会資料「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について」諮問の概要では、次のように示されています。
「子どもたちが厳しい挑戦の時代を乗りこえるために(少子高齢化・グローバル化・技術革新)」は「新しい時代に必要な力(資質・能力)を育てる(自立・協働・創造)」が必要となります。そのために、「新しい教科の設立」「目標・内容の見直し」と共に学び方の転換が求められます。それが「アクティブ・ラーニング」(課題の発見・解決に向けた主体的・協働的な学び)です。
ここで注目してほしいことは、「アクティブ・ラーニング」が「課題の発見・解決に向けた主体的・協働的な学び」とされていることです。先ほどの定義とはかなり変わってきているということです。
「中教審教育課程企画特別部会 資料1 論点整理(案)」では、いわゆる「アクティブ・ラーニング」として、「創造」「協働」「自立」というキーワードに対応させ、次のように説明されています。

1.習得・活用・探究という学習プロセスの中で、問題発見・解決を念頭に置いた深い学びの過程が実現できているかどうか。
2.他者との協働や外界との相互作用を通じて、自らの考えを広げ深める、対話的な学びの過程が実現できているかどうか。
3.子供たちが見通しを持って粘り強く取り組み、自らの学習活動を振り返って次につなげる、主体的な学びの過程が実現できているかどうか。

また、「小学校・中学校の『優れた実践』を、高校につなぐ」として、「一斉授業」ではなく「ペア活動」「ホワイトボードを使って話し合う」「付箋を使って話し合う」、「先生が説明する」のではなく「生徒が説明する」「ポスターなどを作成して発表する」「立場を決めて議論する」といった例が挙げられています。
高等学校の授業改革を意識しているようにもうかがえます。

「アクティブ・ラーニング」をどのようなものとしてとらえていいのか、今一つよくわかりませんね。「教育課程企画特別部会(第13回、平成27年8月5日)における主な意見」によれば、専門家の見方もいろいろであることがわかります。

【ゆるい・広い定義】
一斉講義式の授業や生徒が黙々と問題演習をするというような授業でないもの、能動的な活動が入っているものは全てアクティブ・ラーニング

【厳しい・狭い定義】
協働学習や問題解決を行う、しかも高次の問題解決を行うという相当厳しい条件がついたもの、これをアクティブ・ラーニング

ちょっと混とんとしてきますが、「アクティブ・ラーニング」で大切になってくるのは、学習指導の「型」でなく、実践のプロセスを伝えることです。「中教審教育課程企画特別部会 資料1 論点整理(案)」では、次のように言っています。

○こうした指導方法を焦点の一つとすること〜狭い意味での授業の方法や技術の改善に終始する〜本来の目的を見失い、特定の学習や指導の「型」に拘泥(こうでい)する事態を招きかねない〜

○ 「〜めざすのは、特定の型を普及させることではなく、〜下記のような視点で学び全体を改善し、〜指導や学習環境を設定すること〜、教員一人一人一人が〜研究を重ね〜工夫して実践できる〜」

現在学習指導要領の改訂に向けて論点整理がされていますが、おそらく1〜2年でどのようなものになるかがはっきりしてくるでしょう。最後に鍵を握るのは、「課題の発見・解決に向けて」「主体的・協働的に学ぶ」「アクティブ・ティーチャー」だと思われます。

このように「アクティブ・ラーニング」にかかわる論点を、「中教審教育課程企画特別部会」の資料を中心にわかりやすく伝えてくれました。見たことがある資料でも、こうして整理しまとまった形で提示・解説してもらえると、とてもよく理解できると思います。「アクティブ・ラーニング」といっても、「何をすればいいのかよくわからない」「今までやってきたことと何が違うのか?」といった疑問を持たれている方も会場にはたくさんいらっしゃったと思いますが、かなり理解が進んだのではないでしょうか。

次回は私が「教育情報知っ得コーナー」の担当ですが、かなりハードルが上がった気がします。「反転授業」についてお話しするつもりです。興味のある方はぜひご参加ください。

第1回授業深掘りセミナーは、非常に密度の濃いものになりました。授業と学び研究所のフェロー、レギュラー講師陣共に、次回以降さらに内容の濃いものを目指していきたいと思っています。ご期待ください。
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