算数の授業アドバイス

昨日は、小学校の算数の授業アドバイスをおこなってきました。どの学級も教師と子どもたちの関係がよく、よい意見を発表する子どもも多く、レベルの高い課題に挑戦していました。

5年生の合同の授業は、授業者と子どもたちの関係のよさをとても感じました。子どもたちに身近な合同の図形を発表させる導入の場面では、発表者の方を見るように指示を出し、子ども同士が互いに聞き合える関係をつくろうとしています。
2つの図形が互いに合同か迷う場面がありました。授業者は隣同士で相談するように指示を出し、その後、どちらかに挙手をさせたところ大きく分かれました。子どもたちに理由を問うのですが、互いに相手を納得させられません。問題点を焦点化できずに最後は授業者が結論出しました。まだよく納得できていない子どもいたのですが、教師が結論を出すと素直に従っていました。最後に正解を確認する場面ではどの子も大きな声で答を言っていました。教師の正解を素直に受け入れていることがわかります。時間の関係もありますが、教師が絶対者として結論を出すのではなく、子どもたちで結論を出すことをしたい場面でした。
この日のまとめとして子どもたちに合同な図形を見つけるポイントをノートに書かせ、発表させました。間違えた考えもあったのですが、授業者は否定することなく板書しました。とてもよい姿勢です。その後、一つずつ取り上げ子どもに意見を発表させました。正しい考えを知識として知っている子どもも、友だちの考えが正しいかどうかはちゃんと確かめてみなければわかりません。どの子どもも真剣に友だちの発言を聞いています。よい意見がでて、子どもたちが大きくうなずく場面がいくつもありました。残念なのは、その後、教師が「これは違うようだ」結論を出してしまったことです。うなずいている子どもに再度意見を言わせ、間違えていた子どもが納得したことを確認し、子どもたちで結論を出すようにしたかったところです。
子どもの言葉を大切にしようとしている先生なので、子ども同士をつなぐ、結論を子どもにゆだねることを意識すると、子どもたちの考える力はどんどん伸びていくと思います。

3年生のあまりのある割り算の授業は、基礎的な計算力をつけることを大切にしていると同時に、難しい問題にもチャレンジしていました。時間を切って問題を解くなどスピードを重視していました。子どもたちは集中して問題に取り組んでいました。上手にやる気を引き出しています。何問できたか競い合う必要はないのですが、自分の成果を評価する場面、たとえば前回と比べて伸びたといった、自分の進歩を意識させるとよいと思いました。
この日の課題は文章題でした。子どもたちに問題文を読ませるときに数字を大きな声で読ませるようにしています。おもしろい試みです。確かに数字は式を立てるときに必要となる大事な要素なのですが、文章題ではその日本語の部分に式の根拠があります。問題を解くための大切な言葉も意識させるとよいと思いました。
子どもたちのノートを実物投影機で黒板に映して発表させるなどの工夫もしていました。今回は図を使っている子どもが多いので、とても有効な方法です。子どもも一生懸命スクリーンを使って発表していました。ちょっと残念だったのは、発表のあとその考えを全体で確認し共有化する場面がなかったことです。なかなか難しい問題だったので、どうしても、教師が説明してしまうのです。子どもたちは、基礎力もあり、友だちの考えを理解しようとする姿勢を持っていますので、同じ考えの子どもに発表させたり、意見を聞いて納得した子どもに発表させたりする授業に挑戦してほしいと思いました。

4年生は線分図を使って文章題を解く授業の2時間目でした。この時間では、問題を解くのにスモールステップに分けずに一度に解かせていました。線分図と式を書かせて説明しますが、式の値を線分図で確認したり、書きこんだりはあまりしませんでした。前の時間にやったのかもしれませんが、線分図だけをまず押さえて、そこから解き方を考えさせ、見通しを持たせてから、式を立てて答を求める。そういう過程を一度経験させてから、練習に移った方がよかったように思いました。
子どもの説明の中で「そろえる」というとてもよい言葉が出ました。授業者はすかさずこの「そろえる」を使って説明をしました。後で聞いたところ、これはキーワードになると思いその場でとりあげたそうです。予定していなかった言葉をキーワードとしてとらえることができる柔軟さは見事です。しかし、とっさのことだったので、全体にきちんと押さえ確認することは徹底できませんでした。机間指導をしながら押さえようとはしたのでしたが、全員にはきちんと届きませんでした。授業者は、次の時間の最初にもう一度押さえたいと意欲的に語ってくれました。自分の足りなかったところを埋めようとする姿勢は素晴らしいと思いました。
この学級に限らず、できる子どもが、問題を解いた後、時間をもてあましている場面がありました。彼らにどのような課題を与えるかは学校共通の問題のように思います。正解がわかっているので真剣に話を聞いていないと感じる場面もよくあります。しかし、友だちの説明を聞くような場面では集中度が増します。このあたりに問題解決のヒントがあるように思います。
また、授業者は子どもたちの評価をするのに足りないこと、できていないことを指摘する傾向がありました。子どもたちは担任のさっぱりとした性格(お話をしていて個人的にそう感じました)をよく知っているのか、あまりネガティブにはなっていませんでしたが、ちょっと気になりました。思い切ってご本人にお話ししたころ、どのようにして修正したらよいかご自身も悩んでいるようでした。まず、できていることをほめること。本人が自分で気づくように仕向けること。自分で直したらほめることをお伝えしました。前向きに聞いていただけたようで、次にお会いする時にはきっと大きく進歩されていると思いました。

どの授業も自主的に参観する先生がたくさんいらっしゃいました。どなたも、真剣に子どもたちのようすを見られていました。子どもたちからたくさんのことを学ぼうとしていることが、参観後の質問の多さにも現れています。とても充実した楽しい時間を過ごすことができました。校長も終始先生方と行動を共にされ、自ら学ぶ姿勢を見せておられました。研修担当の先生の熱心な姿勢も印象に残ります。話をうかがっていると、学校全体の授業力アップのためにどのようなことが必要か、自分はどのように働きかければよいか、とてもよく考えられていることがわかります。
本日も引き続き授業アドバイスをさせていただきますが、子どもたちも先生方も素晴らしい姿を見せてくれることと思います。

「わからない」にどう対応する

説明のあと、子どもが「わからない」と言ったときどのように対応しますか。もう一度、同じ説明を繰り返しますか。それとも、どこがわからないか聞きますか。子どもの「わからない」にどう対応すればよいか、考えてみたいと思います。

子どもにとって、同じ説明を繰り返されると、「わかりなさい」「この説明がわからないの」とプレッシャーをかけられることになります。そこで、教師は違った説明をするのですが、今度はさっきと異なる説明なので、余計に混乱させてしまうこともあります。いくつかの説明を準備しておくことは大切ですが、子どもに応じてどのように説明するかは難しいものです。

一方「どこがわからない」と聞くことは悪い対応ではありません。しかし、どこがわからないか自分で言えることはかなり高いレベルです。答えられないことも多いはずです。そこで、算数や数学などでは「ここまではわかる?」とステップごとにどこがわからないか、どこまでわかったか確認していくことになります。一つひとつ確認していって最後まで「わかった」はずなのに、「わかったね」と聞くと、「わからない」と返ってくることもよくあります。
こういう場合、子どもは「なぜこんなことを考えるのか」と課題そのものの必然性がわからないためにつまずいてしまっていることが多いようです。子どものわからないと、教師の説明がずれてしまったわけです。子どもが何につまずいているのか見つけることは、経験ある教師にとっても難しいことです。

色々な説明を試みる、子どもがどこでつまずいているか見つけて説明することは有効な手段の一つですが、発想を変えて子ども同士に任せるという方法もあります。
「わからない人は他にもいるかな」とたずね、「どこがわからないか教えて」と聞きます。どこがわからないか答えられない子どもがいても、他の子どもから引き出すことができます。
「助けてくれる人いる」と子どもに説明させると教師の説明よりもすんなり理解してくれることもあります。説明を聞いているようすを客観的に見ることができるので、どこにつまずきがあったのかもよくわかります。
説明できる人がいない、わからない子がたくさんいるのであれば、グループやまわりの子どもで相談させることも有効です。友だちと相談してわかった子どもに全体で発表させ、何人かに補足させると、つまずいていた子どももよくわかるようです。

わからない子どもをわかるようにするのは教師の務めです。そのため、教師はわからせなければならないと説明しすぎる傾向があります。教師が一生懸命に説明すればするほど子どもにプレッシャーがかかり、子どもが引いてしまうこともよくあります。ちょっと肩の力を抜いて、思い切って子ども同士に任せることも大切です。教師が思う以上に子どもたち同士でわかりあえるものです。

算数の授業検討会で指導(長文)

昨日は小学校の算数の授業研究に参加しました。授業に先駆け校長・教務主任と教室のようすを見せていただきました。子どもたちは素直で落ち着いていましたが、授業における子どもたちのかかわり合いが少ないと感じました。1問1答が多く、教師との1対1の関係が中心でした。子どもの言葉を活かそうという意識は授業からはあまり感じられませんでした。
また、体は起きているのですが子どもたちが聞くことに集中していない場面も目にしました。教師が子どもたちに望んでいるのが、席について体を起こすところまでで、教師を見てしっかり聞くことを求めてはいないのです。若い教師が、板書しながら黒板に向かってしゃべっている場面も多く見ました。チョークの持ち方も鉛筆のように持っています。子どもを見るということはどういうことか、一度整理する必要を感じました。
ハンドサインを利用している授業が多かったのですが、ほとんどの子どもが賛成のサインを出すと、授業はそのまま進んでいってしまいます。賛成、反対、意見ありといったサインを何もだせない子どもがいても、その子に判断をうながしません。それでは、ハンドサインを出させる意味がありません。「わかった?」「はい」と全く変わりません。ハンドサインについては、どう活用すればよいのか学校全体で考える必要がありそうです。

算数の授業研究は、折れ線グラフの下部を省略して目盛りを拡大する工夫を学ぶところでした。子どもの言葉を活かす、デジタル教科書を活用するという授業に挑戦してくれました。
授業者と子どもの関係はよく、子どもたちは真剣に取り組んでいました。導入でグラフをかく場面は、目盛りが細かくてうまく書けないこと、変化がわかりにくいことの2つを気づかせることに活動を絞り切れず、時間を予定より使いすぎてしまいました。そのことがその後の展開に影響しました。

「わかりやすいグラフにするためにはどうすればいい」と子どもたちに問いかけたところ、何人かが挙手しました。1人の子どもは目盛りの表示を表の数の近くにすればよいという表現をしてくれました。しかし、うまく整理できてないので授業者は、「まあいいでしょう」と言って、「つまり○○君がいったのは・・・」と勝手に解釈してしましました。子どもは自分の考えとは違うと感じたようでした。再度その子に確認したところ、違う表現をしました。私は最初の彼の言葉をとても面白く思ったのですが、結局消えてしまいました。次の子どもは、扱っているのが人の体温だから、0度や10度にはならないから省略するという発言をしました。多くの子どもがハンドサインで賛成を示しましたが、このことの意味することを全員がわかったとは思えません。子どもは言っている日本語は理解したのですが、それが算数としてどのような意味を持つのか、どのような工夫につながるのかは理解していません。あとから、整理したかったのかもしれませんが次の子どもに発言を求めました。この子どもは、37.3度だったら37度に近い数にするという考えを発表しました。授業者はとりあえず「なるほどね」と受け止めて黒板に書いたのですが、どう処理していいか困惑していました。導入で時間を取りすぎたこともあり、「実はねえ・・・」とデジタル教科書を見せることにしてしまいました。最後の子どもの意見だけでなく、前の2つの意見も活かすことができずに進みました。ここで、これらの意見を捨ててしまったことが次の場面に影響を与えました。

デジタル教科書は、グラフの目盛りを下に伸ばし、はみ出る下の部分を波線で省略するようすを、連続したアニメーションで見せてくれます。これを見せると子どもたちは「おおっ」とよい反応示すのですが、気づいたこと問いかけて出てくるのは、「グラフの変化がわかりやすくなった」といった、変化のようすに関することばかりです。「ビヨーンとなった」「伸びた」「目盛りが広がった」といった言葉が出てこないのです。これは、先ほど子どもから出てきた「目盛り」を授業者がすてたこと、「実はねえ・・・」という言葉に否定的なニュアンスがあったことから、「目盛り」はどうやらここでは求められていることではないと思ったのでしょう。その結果、授業のめあてである、「変わり方がよくわかるグラフをかこう」に強くひっぱられた意見になったということです。

また、波線による省略部分を焦点化しようとするのですが、省略された目盛りは波線の下にある、という意見が出てきて少し混乱してしまいました。実はデジタル教科書では波線の間の部分はきちんと方眼の縦横の線を消しているのですが、教科書ではそのまま残しています。ディスプレイがやや小さく、細かい線が見にくかったので、子どもたちは教科書を見て考えていたのです。授業者はそのことに気づいていなかったので、子どもたちとずれてしまったのです。

2つのグラフを比較して考えをノートに書く場面では、子どもたちは想像以上によく書けていました。日ごろから考えを書くことを鍛えられている証拠です。子どもたちの意見を板書していきましたが、最後に授業者が、「下の方を省くとよくわかる」とまとめてしまいました。まとめを子どもの言葉でつくりたかったのですが、教師の言葉になってしまいました。

検討会では、最後のまとめは「目盛りの間隔を延ばすとグラフがわかりやすくなる」ではないかという意見が出されました。もっともな意見です。なぜ授業者は「省略」こだわってしまったのでしょうか。実は、指導書は「省略の印を使うことで・・・」とまとめています。そこに授業者は影響されていたのです。指導書はデジタル教科書を使うことを考えてつくられていません。子どもたちが「変化をわかりやすくするのにどうする」という課題に行き詰ってから省略の印の波線の入った方眼紙を与えて、これを使う意味を考えさせるという展開なのです。ですから、「グラフの下の部分を省略することで、・・・」というまとめになっているのです。思考の基点がそこだったからです。一方デジタル教科書では目盛りを伸ばすことを起点にしていたので、当然まとめ方も変わるべきだったのです。

また、指導書の展開を理解すれば、教科書のグラフで省略の印の波線部分の間が消されていなかった理由はすぐに理解できると思います。教師が波線の間を消した方眼紙を準備することはとても大変です。教科書で消されていると、そこにこだわる子どもが出てきます。そうならないように、教科書も消していなかったのです。
そのほかにも、教科書とデジタル教科書には微妙な違いがあります。デジタル教科書では下に伸ばすということから、グラフの最大値は40度のままになっています。しかし、教科書では、データがうまく収まる範囲だけ書けばよいという考えで進めていますから、最大値は39度あたりにしています。もし、教科書のグラフで比較を考えるのなら、ここにも気づかせたいのです。
いずれの教科書を使うにしても、教科書をきちんと理解することはとても大切になります。私自身もあらためてそのことを実感させてもらいました。

授業者は子どもの意見をうまく処理できず、とりあげられなかったことをよくわかっていました。その場面からあと余裕を失くして、それまでしっかり意識してつくられていた笑顔がなくなったこともちゃんと気づいていました。自分自身でしっかり気づけているので、大丈夫です。このような教師は毎日の授業で着実に進歩していきます。次回の訪問でどのように進歩しているかとても楽しみです。

検討会の場を借りて、いくつかの授業改善のヒントを話させていただきました。最後に校長が「百発一中」という私の言葉を紹介して、若手に何か一つ変えてほしいと伝えました。具体的にたずねたところ、「笑顔を大切にする」「チョークの持ち方を変える(板書中に子どもの顔を見る)」「導入を3分で済ます」など、それぞれが実行できそうなことを明確に言ってくれました。このような問いかけをできる校長の指導力に感心しました。

この日校長と教務主任は終日私のそばにいて話を聞いてくださいました。すこしでも他者から吸収しようとする姿勢はとても素晴らしいと思いました。学校をよくするためにどうすればよいかを常に考え続け、勉強されていることがよくわかります。このような学校のお手伝いをできることをとてもうれしく思いました。次回は、他の先生方ともたくさんの時間を一緒に過ごしたいと思います。とても楽しみです。

中学校で講演

昨日は中学校で講演をおこないました。先週見せていただいた授業をもとに、言語活動を活発にするためのヒントをお話させていただきました。

言語活動を活発にするということは、子どもたちの活躍の場をつくることにつながります。この活躍という視点で子どもたちの活動をとらえると、大切になるのは、他者に認められること、他者の活動に影響を与えるということです。子どもの発言を評価して、その言葉を活かすことが求められます。
子どもの発言内容にかかわらず、教師が自分の言いたいことを一方的に説明すれば、子どもは自分の発言が認められたとは感じません。このようなやり取りを続ければ、次第に積極的に発言しようとはしなくなります。また、教師が発言をまとめれば、教師のまとめを聞くことが一番効率的な学習になります。それでは、友だちの発言を聞くようにはなりません。「今の意見、なるほどと思った人」「同じような考えの人いる」と子どもの発言をできるだけ活かそうとすることが必要です。
子どもが発言してくれない大きな原因は、教師が正解を求めるからです。正解を求められれば、自信がないと答えられません。わからない子は発言することができません。そうではなく、「どんなことを考えた」「何をやってみた」「困ったことない」と過程を聞くようにすれば、どの子にも発言の機会を与えることができます。また、安心して発言できる雰囲気をつくるためには、どんな発言でも「なるほど」と認め、たとえ間違いでも友だちの発言を聞いて修正する機会を与える。うまく言えなくても「まわりの人助けてあげて」と失敗で終わらせない、最後は必ずほめる、認められるようにする。このようにすれば、子どもの発言は必ず増えていきます。
また、教師は時間がないことを理由に一方的な説明をする傾向があります。しかし、教師が説明すればそれでわかるようになるわけではありません。子ども同士が互いに言葉を足しながら、たどたどしい説明をする方がよくわかることもあります。自分の言葉で話すことで、理解できることもあります。授業を見ていると、多くの場合一人の子どもの発言に対して、教師はその3倍以上の時間しゃべります。その時間を減らせば、多くの子どもに発言の機会を与えることができるのです。一方教師は、説明はするのですが、子どもが理解しているか確認をしない傾向があります。「わかりましたか?」「はい」では、確認になりません。子どもに出力を求めなければいけないのです。

このような内容をできるだけ具体的な場面をもとに話させていただきました、うまく伝わったでしょうか。先生方が子どもとの接し方をほんの少し変えるだけで、この学校の子どもたちは大きく変化すると思います。積極的に学ぼうとする姿を見せてくれると思います。先生方がその一歩を踏み出す勇気を持ってくれることを願います。

再び、ICTの活用について

ICTを活用した授業を論じるとき、その特性や利点ばかりが言われたり、逆に、授業の本質はここであって、ICTはそこには役立っていない、それよりももっと授業の中身を考えるべきだと言われたりします。また、ICTがなくてもできる、わざわざ使う必要はあるのかということも、よく言われます。この議論は、微妙にかみ合っていないように思います。トータルに見て、ICTがそのコスト(準備等の労力)に見合っただけの効果があったかどうかが問われるべきだと思います。
以前ICTの活用について書きましたが(ICTの活用について考える参照)、このことについてもう少し整理してみたいと思います。

たとえば、社会科で子どもたちに、「あれ?」「どうなっているの?」「知りたい!」と疑問や興味を持たせる場面を考えてみましょう。どのような資料を見せるか、どういう発問をするかを考えることが第一になります。どんな資料があるか、どんな資料があればよいか、そのような知識の有無が絶対的な授業の質に影響します。名人であれば素晴らしい資料と発問で子どもたちを見る見る引き込んでいきます。しかしだれもが名人というわけではありません。なかなかよい資料が見つからないかもしれません。それでも、少しでも子どもたちを目指す姿に近づけるための手段の一つとしてICTのような道具があるのだと思います。
同じ写真でも、モノクロで印刷して配るのと、カラーで大きく映して見せるのではその効果は変わります。友だちの気づきを手元の写真で確認しても、なかなかみつからないこともあります。経験の浅い教師だと「見つかった?」と聞くだけで全員が見つけたか確認せずに進むこともあります。参加できない、よくわからなければ、子どもたちは興味を失っていくかもしれません。ベテランであれば、「まわりの人とたしかめてごらん」と子ども同士で確認させることで、なんなくクリアしてしまうかもしれません。
一方、スクリーンに大きく映せば、全員の顔が上がります。友だちの気づきもスクリーン上で共有することで、全員に瞬時に伝わります。子どもたち同士がつながり、誰もが参加することで、疑問や興味も共有しやすくなります。
この例では、ICTは必須ではありません。しかし、授業者によってはICTを活用することによって、この場面での本質、子どもに疑問や興味を持たせることを実現するために大いに役に立っているのです。

では、子どもが黒板に解答を書く代わりに、実物投影機を使ってノートを映すことを考えてみましょう。子どもが黒板に解答を書く時間は、よほどの工夫がない限りあまり意味のある時間とはなりません。この時間がなくなるだけで、多くの時間が生まれます。この活用自体は先ほどの例と違って授業の本質とは直接関係がありません。しかし、これも立派なICT活用です。授業によっては、子どものかかわり合いのための貴重な時間を生み出してくれた、一番の功労者といえるかもしれません。

授業をよりよくするという視点でICTの活用を考えると、教師に求められることは大きく2つだと思います。ICTで何ができるか、どんな利点があるが、その具体例を知ること。もう一つはICTを使う以前に、その授業で何が大切なのか、その実現のために何が課題になっているかを明確に意識できていることです。後者の視点では、その課題がすでに解決されてしまっているとICTを活用する必然性はありません。名人がその典型です。しかし、多くの教師にとっては解決されていない課題があるはずです。そのすべてがICTで解決できるわけではありませんが、有力な道具となるはずです。時間がないといったある意味本質でない課題でも、それを解決することで本質的な問題の解決につながることもあります。また、ICTを使わなくて解決できている課題でも、ICTのよさを知ることで、それをより簡単に実現したり、よりよいものに変えたりできることがあります。

ICTという道具の出現で、前者がクローズアップされました。それに対抗するように後者の視点も授業の本質といった表現で強調されてきました。これらは相反するものではなく、互いがからみ合うことで、よりよい授業の実現につながっていくものだと思います。

算数の授業研究

昨日は、小学校で算数の授業研究に参加しました。4年生の「式の読み方」でした。

事前にお会いした時にお願いしたように、授業者は終始明るい表情で、教室はとてもよい雰囲気でした。たくさんの先生が参加される中でも、子どもたちは集中して取り組んでいました。
碁石の数を求める問題で、式と図での考え方、言葉での説明をつなぐ内容です。まずは式と図をつなぎ、それから言葉で説明するという流れでした。○つけ法を実施することで、多くの子どもは自信を持って挙手しました。しかし、図と言葉の説明については、手がつかない子も多く、一人の子どもが説明した後、あらかじめ用意しておいた教師の解答を黒板に貼って終わってしまいました。授業者は子どもたち全員が言葉で説明できることを期待していなかったようでした。図の意味は式と結びつける、言葉と結びつける、それぞれをすることで理解できます。相互に行き来することが大切です。
TTの授業で、○つけも2人でおこなっていたのですが、つまずいている子どもの指導に時間が取られ、なかなかスムーズにまわることができていませんでした。

協議会は、4つのグループで話し合っていただきましたが、予定した時間になっても話し合いは熱心に続いていました。どのクループも○つけ法について多くの意見が出ました。

・○をつけてもらったので子どもたちが自信を持って手を挙げていた
・○をつけるところが多いと時間がかかるので難しい
・できたら手を挙げてと指示をしていたが、なかなか○をつけにこないので、その間、子どもたちは何もできずに待っていた
・できない子どもに説明していて○つけが終わるまでに時間がかかっていた
・・・

この授業での○つけ法のよかった点、問題点がたくさん指摘されました。よく見ています。しかし、だから○つけ法が有効な場面とそうでない場面があるというように考えられていました。まだ、○つけ法の基本・ポイントを理解されていないようです。
私からは、○つけは何問も同時にするのではなく、1問に絞ること。どの1問にするかが教材研究として大切であること。また、スピードが大切で、間違えた子どもへはできているところまでを認めて、間違いを簡潔に指摘したり、素早く次の1手を指示したりして長くかかわらず、後でもう1度まわってあげること。できたら挙手をするといった指示は、必ず全員に○をつけることが原則なので不要であることなどの基本的なことを説明しました。

図での説明と式を結びつけることができている子どもは多かったが、言葉での説明ができていない子どもが目立ったことも指摘されました。
このことについては、子どもの発言を受けて、教師が一方的に説明してもなかなか理解できないこと。どの子ども理解するようになるためには、子どもの説明を「今の説明、なるほどと思った人」「かわりに説明してくれる子いる?」と子どもにつなぎ、子どもが言葉を足し、自分たちの言葉で考えていくことが大切であることを説明しました。
限られた時間の中で、どれほどのことが伝わったかわかりませんが、どの先生も非常に真剣に聞いてくださり、授業改善への熱意が伝わりました。

この授業は2時限だったのですが、その直後、校長が同学年の先生にこの授業についての改善点を話されたようです。中の若い先生が、「やってみます」と次の3時限で同じ授業に挑戦してくれました。その授業を少し見たのですが、とても素晴らし場面がたくさんありました。一人の子どもの「2が6あることだから・・・」という説明に対して、他の子どもが「○○さんとほとんど同じですが、2のまとまりが・・・」と言葉を足してくれました。他の子どもも大いに納得したので、授業者は「これでわかった、説明しなくていいね。では・・・」と子どもの言葉だけで次に進みました。ここは、教師がもう1度自分で説明したくなるところですが、それをしませんでした。ベテランでもなかなかできないことです。子どもたちは、自分たちの言葉だけで説明されたことがやる気アップにつながったのか、いつもに増して集中して問題に取り組んだようでした。このほか、子どもの発言をうながす場面で、「教えてください」とIメッセージをうまく使うなどして、子どもたちととてもよい関係をつくっていました。
授業者と少し話す時間をいただきましたが、とても素直で前向きな方でした。これからもどんどん進歩していくことでしょう。次回訪問時にまたぜひ授業を見せていただきたいと思いました。

学校全体としてみれば、まだまだ改善点はたくさんありますが、よい芽もたくさんあることがわかりました。しっかり水を与えれば立派な花が咲くことと思います。私が毎日水をやることはできませんが(たまに肥料をあげる程度)、校長や教務主任がきっと大切に育ててくれることと思います。この学校の今後が大変楽しみになりました。とてもよい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。

校長の勉強会と愛される学校づくり研究会に参加

先週末は、校長の勉強会と愛される学校づくり研究会に参加しました。

勉強会は、日ごろ語られることのない学校経営・リスクマネジメントの背景・裏側をたくさん聞くことができました。
私はたくさんの校長とお話する機会がありますが、感じることは、校長は孤独になりやすいということです。下手に相談すれば、相手によっては命令とも取られかねない。相談することで相手を不安にさせるかもしれない。そのため、どうしても一人で考え込んでしまうのです。今回の勉強会のように校長同士で互いの経営をオープンにして語り合うという機会はなかなか持てません。そういう意味でもとても面白い会でした。

校長の学校経営に関するスタンスは色々あると思いますが、私が感じるのは大きく2つです。過去の路線を踏襲し、できるだけ無難に過ごそうとする「無事これ名馬」型、現状維持は後退と考え、常に改善、進歩を目指し、「打たれても出る杭」型です。一概にどちらがよいとは言えませんが、今の時代は後者が求められているように思います。当り前と言えば当り前ですが、私を呼んでいただけるような学校の校長は後者がほとんどです。改善点の無い学校はありません。たとえ目に見える大きな問題がなくても、学校をよくするために何をすればよいか考えることが、校長には求められると思います。
こういう場に積極的に参加し、学び合う姿勢こそが学ぶべきことなのかもしれません。

話題の一つに、先日の台風時の下校の判断がありました。共稼ぎや片親の家庭が多く、子どもを早く帰宅させてもかえって不安な地域もあれば、校区が広く、子どもの帰宅に時間がかかるため早めに下校させなければならない地域もあります。一律の判断はできません。だからこそ、各校長が判断することになっています。いつ下校の判断をしたかと結果を気にする方も多いように聞きましたが、その判断の根拠・過程こそが大切であると思います。今回、各学校のそこのところを聞くことができ、なるほどと納得させられることがたくさんありました。

愛される学校づくり研究会の前半は、先日のフォーラムのまとめの書籍に関する検討でした。ICT活用の提案に関する章の内容について、この章の取りまとめを任された私が司会をさせていただきました。私自身、方向性が揺れていたので、とりあえず皆さんがフォーラムで思ったことを聞かせていただきながら、落とし所を探ろうとしました。
授業の一場面を切り取ったICT活用の提案をするのか、授業の本質に基づくICT活用とは何かを提案するべきなのか。私の心の揺れを反映したのか、皆さんの意見も動きます。その中間を落とし所として探っても見たのですが、なかなかうまくいきません。結局、この議論そのものが、ICT活用を考えるための指針となるという考えから、全体の取りまとめの先生が、自ら執筆すると宣言して何とか収まりました(ありがとうございました<(_ _)>)。
その内容がどんなものになるかは、出版を楽しみにしていただくとして、反省は、当日のフォーラムに参加されていない方には、議論のもととなる具体的な活用がイメージできなかったため、議論が抽象的すぎてついていけなかったことです。そこに配慮ができなかったことを申し訳なく思いました。

後半は、何かと話題のフューチャー・スクールの実践報告を聞かせていただきました。司会者の「厳しい、普通、優しいの、どれでいきますか?」という前代未聞の振りから始まった意見交換は、厳しいけれど、実践がよい方向に進んでほしいという思いがこもっていたように感じました。率直な意見がでるこの会での報告を引き受けたということは、自分たちの実践をより高めたいという強い思いがなければできません。たとえ厳しい意見でも、まず素直に受け止めようとする校長・教務主任の姿勢にとても感心しました。だからこそ、中身の濃い意見交換ができたように思います。

この日も終日、たくさんのことを学ばせていただきました。このような機会に恵まれていることに感謝です。

授業研究に参加(長文)

昨日は中学校の授業研究に参加しました。もう何年もおじゃましている学校ですが、子どもたちが落ち着いて学び合える学校になってきました。この日は、2年生の英語の授業でした。

コミュニケーションを重視し、「Clear Voice」「Face To Face」を目標にしていました。昨年度のようすから子どもたちの人間関係は悪くないはずなのですが、笑顔が少なく感じました。自分の夢を英語で話し、ペアの人が聞きとるという場面では、通常はかかわり合いが起きて表情がよくなるところですが、あまり表情がさえません。4人グループでの活動は、友だちの夢を英語で紹介し他のペアがそれを聞きとるというものでした。こちらの方は明らかにペア活動よりも表情が柔らかくなっていました。この状況の違いは、課題や指示の構造的な問題が大きく関係していました。

本来ペアでの活動はグループと違って1対1で逃れられない厳しい関係にあります。今回は、相手の話すことを聞きとってメモをするという、ある意味、出題者と解答者の関係です、気軽に教えてとは聞けません。聞き返すのも「Could you ・・・」と丁寧で長い文を使うということになっていたのでハードルも高かったのです。もう一つの問題は、子どもの夢が「I want to be ・・・」と職業で語られていたことです。子どもたちは自分のなりたい職業を教師が用意した単語一覧から拾っていますが、聞く方はまず知らない単語が出てきます。聞きとるにしても、書くにしても苦しい状態になります。話す方も覚えて話すのに精一杯で、相手の顔を見る余裕がありません。聞く方もメモしなければならないのでずっとワークシートを見ている状態でした。互いにかかわりあえなかったのです。
一方グループの活動では、発表に対して、その内容を1番よく知っている発表者のペアがフリーでかかわれます。職業の単語がよくわからない友だちに、職業の単語一覧を使ってこれだよと教えています。聞く方のペアは同じ立場なので気軽に相手に聞いたり、互いのメモを見合って確認したりできます。かかわりが発生しているのです。だから、表情がペアの活動よりよくなっていたのです。
ペア活動の場面では、書くことは後にし、「I want to ・・・」に対し「You want to ・・・」と主語を変えて復唱し、それに対して「Yes,・・・」「No, I want to ・・・」と進めるなど、互いがかかわり合える構造にしていく必要があると思います。

続いて、全体で発表し合う場面です。ここでは自分の夢を発表してもらい、その内容を、主語をかえて「She wants ・・・」と全体で言いかえる活動でした。子どもたちは、今まで友だちの夢を発表して、それを聞きとることをしていたので、意外そうでした。発表のハードルは下がったのですが、今まで頑張ってきたことが活かされないので、ちょっと意欲が落ちたように感じました。
教師が指名して発表させ、それを全体で言いかえさせますが、なかなか全員が口を開けて大きな声を出せません。全員に発表させたいためでしょう、1回言ってはすぐ次の発表者に移ります。最後になってだんだん声が出るようになりましたが、子どもたちが一番しっかりと「Clear Voice」で言えたのは授業終了時の英語での挨拶でした。いつも言い慣れて自信を持っているからです。子どもたちはここまでやれるはずです。これを目標にするべきなのです。
1回言って次に進めば、自信のない子は声を出す機会がありません。声を出せなくても、だれも困りません。こういう状況であれば、なかなか頑張ろうとはしません。全員が口を開くまで何度も同じことを言わせることが大切です。わかっているけれど自信がなくて声が小さい子に対しては、うなずいて見せるなり、いいよとOKサインを出したりしてしっかり声が出せるように励まします。TTであれば、T2が子どもの中に入って励まし役をするのもよいでしょう。最初はよくわからない、できなくても、友だちの声をよく聞いてまねをすれば評価される。自分が参加するのを待ってもらえる。自分がちゃんと声を出さないと先には進まない。だから頑張る。このような姿を目指してほしいことを伝えました。
また、この全体での活動中、子どもが一番緊張したのは、一人の子に「わからなければ聞き返して」と先生がせまったときです。全体で答えればいい「みんな」という、ある意味無責任な状態から、「あなた」という個人になることを求められたからです。自分が指名されることも想定して、みなその子の答に注目したのです。このことからもわかるように、個人を指名したり、全体の場で個人と個人でやらせてみたりすることもとても有効な手段です。自分が指名されることを意識すれば、指名されなくても集中してやり取りを聞き、主体的に参加するのです。

もう一つ気づいたことは、できる生徒の活動量が低いということです。自分の発表文をつくる場面、ペアでの活動の場面、いずれにしてもすぐにクリアして緩んでいます。全体での言い換えの場面でも、あまり口を開いていません。決まったパターンでの練習で、わかりきっているので参加する意味を感じないのでしょう。誰もができるようにと課題を低めに設定すると上位の子どもが参加しなくなってしまいます。どちらかと言えば課題は高めの方が有効です。苦しい子も助けてもらえばできるので、クリアすることは可能です。できる子は助けることでより高度な課題に挑戦することになるからです。

授業後の検討会は子どものことをよく見て、とてもよい気づきがたくさん語られていました。途中で各グループの話題を発表し合うことで、後半はグループ間で共通の話題が増えました。それを全体で共有することで学びは深くなったと思います。この学校に初めておじゃましたころと比べると確実に進歩しています。とてもよい指摘、なるほどと納得できる指摘がたくさんありました。しかし、ともすると第三者的な立場で話していると感じることがありました。この授業に対する指摘に終わり、そこから自分の授業、自分たちの授業にどう活かすか、どう反映していけばよいと思ったのかがあまり語られないのです。学んだことを自分たちの授業にどう活かすかが大切です。このことに皆さんが気づいてくれれば、学校全体のレベルアップにつながると思います。

検討会終了後、授業者と話をしました。
非常に素直に皆さんからの指摘を受け止めていました。この姿勢があれば確実に成長していくと思います。授業者の思いが明確で、子どもたちとの関係も良好だからこそたくさんのことが学べたと思います。

校長、教頭、教務主任の先生とそれぞれお話して、3人とも授業を大切にする学校を目指して、それぞれが課題を持って学校経営に取り組んでいることがよくわかります。昨年、今年と人事面では厳しい状況にありますが、きっと乗り越えられると思います。私もたくさんのことを学べた1日でした。

授業研究の打ち合わせと授業力向上研修(長文)

昨日の午前中は、来週参加する小学校の授業研究のための事前打ち合わせをおこないました。校長から学校の現状と授業改善に対する思いをうかがいました。自身がとても授業を大切にされていることも、その授業力の高さもよく伝わりました。しかし、校長の授業力が高ければ先生方の授業力が高まるわけではありません。校長が直接働きかけるべきこと、誰かを使って働きかけるべきことを明確にし、先生方が変わろうとする仕掛けをつくっていく必要があります。そのことをはっきりと意識されているので、私に期待されていることは何かがよくわかりました。
打合せの後、子どもたちのようすを少し見せていただきました。子どもたちが落ち着かない、授業規律の維持が大変であるといった問題点を事前にうかがっていましたが、その原因は、子どもではなく、教師の指導のありよう、子どもたちとの関係のつくり方にありそうだと感じました。教師が子どもに求めるものが、とりあえず大人しくしていればよい、言うことを聞けばよいというもので、それ以上は求めない。逆にそこが崩れることに対しては過剰に反応して、子どもを押さえる。そのような状態ではないかと推察します。大切なことは、子どもたちに求める授業規律を学校全体で明確にし、徹底することです。注意するのは、この徹底を勘違いしないことです。常に強圧的に命令し、できていない子を叱ることではないのです。足りない部分を指摘するのではなく、できたところまでほめる、子どもたちの進歩を認めることで徹底していくのです。このことを先生方に伝え、納得していただくのがこの学校での私の仕事の第一歩だと思いました。

午後からは、市主催の授業力向上の研修会でした。各小中学校から1〜数名が参加するもので、その代表が授業をおこない、その後検討会をするという形式です。小学校3年生の国語の報告文の授業でした。自分が見つけた記号をある観点で分けて報告文をつくるための材料とするというものです。

授業者は教職6年目の方でしたが、子どもたちの表情を見るだけで、教師との関係がよいことがわかります。授業開始の挨拶の時点で、授業規律がしっかりと確立されていることが印象付けられます。その秘密はすぐにわかりました。黒板拭きに使った雑巾が片づけ忘れられていました。授業者は、「きれいにしてくれてありがとう」と言って、ちょっと大げさに雑巾をつまみあげて片付けました。子どもたちから笑顔と軽い笑いが漏れます。開始早々注意されるのとは大違いです。この1時間の授業の中だけでも何度もありがとうの言葉が聞かれました。子どもを常に認めよう、ポジティブに評価しようとしているのです。
また、本時のめあてを読ませる場面で、全員がしっかりと手を挙げました。通常、この学級のように教師と子どもの関係がよい場合には、子どもたちは指名されようとテンションが挙がることが多いのですが、思ったより落ち着いています。自分が指名されなくてもちょっと残念がるだけで、大げさにがっかりしたりしません。不思議に思っていると、次々に挙手と指名が繰り返されました。この日は3人でしたが、多いときには6人くらいにチャンスを与えるそうです。何度もチャンスがあることを知っているので子どもは落ち着いて待てたのです。
話を聞かせるときなど、一旦切りをつけたいときには「サインを送って」と声をかけます。子どもたちは姿勢を正すことで、聞く体制ができていることを示すのです。これに限らず、色々な場面で子どもたちに外化を求めています。そして、そのことをきちんと評価しています。子どもたちをほめる機会をたくさんつくっているのです。
こういった授業技術を誰に教わるでもなく、自分で工夫したと聞き、このことにも驚きました。

この研修は5年以上続いているのですが、今年は例年に比べて若い方(経験年数10年未満)が多く、この授業からどんな気づきをするのかとても興味がありました。
まず驚いたのが、皆さん非常にしっかりと子どものようすを見ていることです。付箋紙にたくさんの気づきが書かれています。子どもの事実と授業者の働きかけの関係きちんと意識しています。各学校の日ごろの授業研究の質の高さがうかがえます。各グループからの発表は、この授業のよさ、学ぶ点をしっかり押さえています。その上で、より高いところを目指すためにどうすればよいかを考えていました。あるグループが「授業がとても素晴らしかったが、あえて指摘すると・・・」と前置きしていましたが、とても素晴らしい授業だったので多くのことに気づけたのです。
各グループからの指摘は私が解説しようと思っていたことばかりでした。このようなことは非常に珍しいことです。皆さん若いのにもかかわらずとてもレベルが高いことに感心しました。このような若手が育つ環境をつくっている市のお手伝いができていることをとてもうれしく思いました。

皆さんの指摘をもとに、次のような解説を少しさせていただきました。

作業の説明をする場面で、子どもたちが困らないように丁寧に説明していました。しかし、やや抽象的な説明が続くため子どもが理解できたか不安です。ほんの一部ですが、集中力を失くし始めている子どもがいました。さあ、いよいよ始めるかと思ったとき、今度は、作業の最初の部分を、1ステップずつ指示を出しながら進めました。もちろん子どもたちは指示通りに動くのですが、結局最初の説明があまり意味を持たなくなりました。その後作業を続けていると、子どもの手が挙がります。作業に関してわからないことを質問するためです。次々手が挙がるのですが、授業者は全部の子どもをまわりきれません。子どもたちはおとなしくじっと手を挙げたまま待っていました。
教師との人間関係がよいと、子どもは教師の求めに応えたい、教師の指示した通りにやりたいと強く思います。また、質問すると教師を独占できるので、ちょっとしたことでも質問しようとします。最初は少しだった質問が、どんどん増えていくのです。しかし、その一つひとつはあえて質問するようなレベルのことではなかったのです。
説明については、過去の授業での経験を子どもたちから出させ、それと関連づけたり、全員で、一度実際にやってみたりすることで、子どもたちを受け身にしないで済みます。質問については、教師の説明不足など、全体で確認すべきことであれば、一度作業を止めてちゃんと話すことが必要です。また、まわりの人と相談したり、確認したりするように指導することで、教師に頼らなくなっていきます。

グループの活動の課題は、自分が選んだ仲間分けの観点と、その観点で分けたものを発表するというものです。聞いている子の目標は感想を言うこと。より高い目標は、その観点での他の分け方についてして指摘することでした。しかし、この課題では、ただ発表するだけで、グループ活動によってその内容が高まることはありません。たとえ、別の分け方を指摘されたとしても、このあとの報告書を書くという活動には影響はありません。グループ活動の課題としては疑問です。子どもたちのようすも、話者に顔は向けているのですが、体はまっすぐに立っています。聞く形はとっているのですが、聞こうとする意欲は高くないのです。子どもたちにとって聞く必然性のある課題、聞くことで他者に認められるような課題が求められます。
また、司会者を決めていたのですが、グループでの活動では特に必要がありません。司会者に進め方を書いたカードを渡していましたが、そのカードを読んで司会をしている子がほとんどでした。友だちを見て話すことが大切なので、カードを見ないで話す、覚えておいてわからなくなったらカードを見てもよいなどと指示をすることが必要です。

研修終了後、授業者としばらく話をしました。
授業者は他者からの指摘を本当に素直に受け止めていました。これだけきちんと子どもとの関係をつくれるので、次の目標として子ども同士をつなぐことを意識してほしいことを伝えました。今回、授業をやって本当によかったと話してくれたことをとてもうれしく思いました。今回の研修には直接関係ないのですが、この学校の教務主任が最初から最後までずっと参加していました。この研修から学んだことを自校の研修に活かそうとする前向きな姿勢が素晴らしいと思いました。このような環境が、今回の授業者の姿につながっているのでしょう。充実した研修で、私もとても多くのことを学ぶことができました。皆さんに感謝です。

講演の事前打ち合わせと授業見学

昨日は、来週おこなう講演の打合せとそのための授業見学で中学校を訪問しました。

言語活動の充実を重点目標として取り組んでいる学校で、講演も言語活動に関連した話を予定しています。しかし、授業を見ていて、先生方が言語活動のよさをあまり感じていないのではないかと疑問を持ちました。教師の説明の時間が長く、子どもたちが集中できていない場面が目につきました。子どもの集中力が高まるのが、実験や実技などこれから自分たちが活動することに対する説明の場面ですが、それも教師の話が長くなると集中力が落ちてきます。基本的に子どもが積極的に活動する時間が少ないのです。

子どものつぶやきを拾う場面もあるのですが、それを受けて教師が説明したり、結論を与えたりしてしまいます。その言葉をもとに、他の子どもたちと一緒に考えるような展開にはなりませんでした。

子どもたちの表情が柔らかくなる場面は、教師に笑顔が出ているときです。特に1年生では、小学校で教師との関係がよかったのかその傾向が強いように感じました。逆に、教師のテンションが高く、声が大きい授業では子どもが集中せず、顔を上げていても聞いていない子どもが目立ちました。子どもからすれば、教師の説明を理解しろ、わかりなさいという強い圧力となり、結果として拒否的な態度をとるようになります。教師が前へ前へと出て行くと、子どもはじりじりと下がっていくのです。

また、子どもの発言そのものが少ないのですが、発言を受容する言葉や評価する言葉が少ないことも気になりました。命令的な言葉、YOUメッセージが多いことから、教師の上から目線を子どもが感じているように思います。

学校全体に感じるのが、今の授業スタイルを変化させるのに臆病になっていることです。今の状態に大きな問題を感じていない、とりあえず子どもとの関係は維持できている。それを変えて崩れるのが怖い、子どもの活動を増やして、コントロールできなくなると不安だということです。子どもたちは決して悪くありません。子ども同士の関係も教師との関係以上によいように思います。子どもを信じる勇気、新しいスタイルに変える勇気を持ってほしいと願います。

可能性を感じる若手の教師に出会いました。子どもたちにわからせたい、しっかり理解させたい。子どもたちこうなってほしいという強い思いを持っている教師です。笑顔で話すことを意識していることもよくわかります。しかし、子どもたちとの関係はあまりよい状態ではありませんでした。子どもたちに思いがうまく伝わっていないのです。とてももったいないと思いました。予定にはなかったのですが、無理を言って少し話す時間をいただきました。
この日の授業で起こったことを例に子どもを受容することをお話しました。具体的には、教師が説明を続けているときに、子どもが質問した場面でした。その質問は少しずれたものだったので、教師はそうでないことを説明したのですが、その子は顔を下に向けて聞いていませんでした。教師は子どもを否定したつもりはありません、それどころか正しいことを伝えようと一生懸命説明したのです。しかし、子どもからすれば、君の考えは違っているといきなり否定されたように感じたのです。教師の表情も説明のときには笑顔だったのが、その質問がずれていたので素の顔に戻っていました。このことも否定されたように感じた原因です。このずれに気づいて修正することが大切です。子どもが間違いやずれたことを言った時に笑顔になること。どんな発言でも、まず笑顔でなるほどとうなずくようにすることが大切です。できれば、質問をしてくれたことを「うれしい。ありがとう」とIメッセージで受け止めます。
また、日ごろから子どもたちにこうなってほしいという思いが強いため、注意することが多いと思われます。実際にはほとんどの子どもはできているのに、一部のできていない子どもを注意することで、多くの子どもに嫌な思いをさせます。ちゃんとしているのに評価されない。教師が注意をすればするほど彼らが離れていくのです。注意するのをちょっと我慢して、できている子どもを見つけてはほめるようにしてほしいと伝えました。私の指摘を前向きにとらえ、「目標ができました」と明るく答えてくれました。その力強い言葉に私も元気をもらいました。きっとよい方向に向かっていくことと思います。

また、新任の教師に少し時間をとってもらい、一緒に教室を回りました。柔らかい雰囲気の授業を目指しているという言葉どおり、笑顔の多い授業をする方です。第三者の立場で子どもを見ることでたくさんのことに気づいてくれたようです。目指す子どもの姿をつくるためのヒントを得てくれたのでないかと思います。

講演の詳細はこれから考えるわけですが、「言語活動は子どもたちの活躍の場をつくる」ということ中心に、とにかく先生方に伝わる話をしたいと思っています。先生方がちょっとチャレンジしてみようという気持ちになっていただくことを目標にしたいと思います。

授業研究でアドバイス(長文)

昨日は中学校の授業研究に参加してきました。5時間で6つの授業を見たあと、協議会で全体へのアドバイス、その後個別のアドバイスをおこないました。

おもしろかったのが、この学校の子どもたちは教師が説明の途中で板書をしてもすぐに写さないことでした。とりあえず教師の説明を聞くことを優先しているようでした。その一方で、教師の説明を集中して聞いていない子どもも目立ちました。また、どの教室でも、指示が徹底しないのも共通の特徴でした。子どもが作業に入ると必ずと言っていいほど子どもから質問がでます。そして、先生はその質問に答えます。これでは、きちんと聞く意味がありません。また、子どもの作業中に教師の追加の指示や説明がでて子どもの集中を乱したり、逆にきちんと作業を止めて全体に指示しないため聞き流す癖をつけたりしてしまっていました。
子どもたちは、わかること、できることには前向きに取り組みますが、ちょっと壁があると教師の指示や答えを待ってしまう傾向にあります。ワークシートに意見が書いてあっても、手を挙げて発言しようとはしません。一問一答式のやり取りが多く、子どもの発言を笑顔で受容し、ポジティブに評価することが少ないこと、数人の挙手でも指名して進んでいくために自分が発言する必然性がないことなども関係していそうです。
小学校で学び合いを経験しているせいか、グループでの話し合いはある程度成立するのですが、その後の全体での場面ではかかわりあえません。友だちの話を聞く姿勢がなくなり、教師の方ばかり見ます。多くの授業で、グループでのまとめを代表に発表させるので、発表者でない子どもはそこから先は自分の仕事でないと思っているようです。また、子どもの発表を他の子どもにつなぐことをせずに、教師が評価して説明することが多いこともその理由だと思います。子どもの目から見ると、自分たちが何を言っても最後は教師が予定していたことをしゃべって終わるように感じると思います。自分たちの活動が授業の中で有用性を持っていると感じないのです。

全体では、次のようなことを話させていただきました。

子どもたちの発言を受容すること、ポジティブに評価することなどの授業における基本的な姿勢や、指示の出し方(指示を徹底させる参照)などの基本的なスキルについて。
授業を参観するとき、教師ではなく子どもを見ることの大切さ、特に子どもの何を見たいか、目指す姿を意識していないと見えない物がたくさんあること。
グループでの結論をださない、話し合いでなく聞き合いを意識させる、教師は個別にミニ授業などをせずに子どもをつなぐことに専念する、発表の場面では結論を聞くのでなくどんなことを話し合ったかを聞けばどの子も発言できることなど、グループ活動における基本的なこと。

その後個別にアドバイスさせていただきましたが、授業者だけでなく、教科の先生も一緒に参加していただけたことを大変うれしく思いました。

英語では、活動の目的を意識すること、特にリーディングでは、なぜ全体で、ペアで、個別でおこなうのかを教師が意識していないと、漫然とした活動になること。ペアでの活動は、受け手の役割が大切なこと(ペア活動のポイント参照)。
situationを意識して話す必然をつくることなどをお伝えしました。

国語では、鑑賞と感想の違いを、国語における根拠の大切さ(根拠を問う参照)とともにお話しました。合わせて、「結果をつなぐ」と「根拠をつなぐ」の2つのつなぎ方を知っていると、子ども同士をかかわらせやすくなること。また短歌などの創作では、工夫を抽象的に説明するのではなく、鑑賞した作品を具体例として活用することで、鑑賞と創作がつながること。伝えたいこと、感動したことを書かせておいて、その言葉は使わないことをルールにするといった手立てや工夫の有効性について。全員の作品の評価は教師には負担なので、子ども同士でやらせるとよいが、その際、ただよいではなく、どこがどのようによいのか具体的にさせるように指導することなどを伝えました。

社会では、復習したり、調べたり色々な活動をおこないたくても、考えさせたいことを中心に授業を組み立て、その時間を確保するためには他の活動を思い切って短くすることも大切であること。グループ活動のあと全体で話し合って終わるのではなく、そこで問題になったこと、一部のグループしか気づいてなかったことなどをもう一度グループに戻す時間をつくるとよいこと。資料の活用の仕方(資料集をどう活用する参照)などをお話しました。

時間の関係で数学の方とお話しできなかったことをとても申し訳なく思っています。次回の訪問時には、必ず時間を取るようにしたいと思います。

子どもたちのようすについて色々気づきましたが、決して子どもたちが悪いわけではありません。先生方もとても前向きに授業に取り組んでおられます。問題は先生方がちょっとしたことを意識しているかどうか、学ぼうとしているかどうかです。互いに授業を見合い、授業について話をして、子どもたちにのぞむ姿を共有することで、子どもたちは大きく変わっていくと思います。校長始め、教頭、教務主任もとても前向きで、学ぼうとする姿勢が感じられました。先生方の授業力向上への取り組みをしっかりサポートしてくださることと思います。
次回訪問時には、きっと多くのことが変わり始めていると思います。次回の訪問がとても楽しみです。

公開授業と青少年健全育成会議

先週末は、学校評議員をしている中学校で、公開授業の見学と青少年健全育成会議への参加をしました。

公開授業での子どもたちのようすを見て、全体的に話を聞くことに集中できていないことが気になりました。一問一答形式での子どもとのやり取り、子どもが聞く体制ができていないのに教師が説明をする。このようなことがその原因にあるように感じました。また、前時の復習の場面で、手が挙がらないのにノートや教科書を調べようとしない子どもや、わかっているのに挙手をしない子どもが目立ちました。数人しか手が挙がらないのに教師が指名して進めてしまうなど、積極的に参加することを求めていないので、子どもたちは受け身で板書を写すことに終始していました。
グループでの活動も、課題が明確でなかったり、根拠を明確にすることを求めていなかったりするため、友だちの意見を聞く必然性がなくて話し合いが止まっていたり、逆に無責任な発言が多くテンションが高くなっていたりしていました。

もちろんすべての授業がそうではなく、同じ学級でも教師によっては違った姿を見せてくれていました。子どもたちの問題というより、教師の側の問題でしょう。授業の形にとらわれて、子どもたちのどのような姿が見たいかが明確に意識されていないことにその原因があるように感じました。

青少年健全育成会議は、通常の会議の他に数年前から地域の大人と子どもたちが一緒になって考える会が設けられています。その中で、大人と子どもの触れ合いの時間が設けられていますが、そこにも少し変化が見られました。
地域の大人1人に対して子どもたち10人ぐらいのグループをつくるのですが、今回は子どもたちがなかなかグループをつくれないのです。仲のよい子が5、6人のグループをつくるのですが、そこから他のグループと合流して大きなグループをつくれません。私が入ったグループも、すぐそばにちょうど一緒になるのに適当な人数のグループがいるのに互いに声をかけ合って合流しようとしないのです。人とかかわる力が落ちてきているように思いました。
大人と一緒に考える場面でも、なかなかうまく話し合いができません。たまたま私が入ったグループは1年生だったせいもあるのでしょうか、ぽつぽつと意見を言うのですが、そこから考えが広がりませんでした。まわりを見ても、似たような状況でした。しかし、このグループの1人は全体の場で2回も自分の意見を発表していました。このことは自分の考えは持っていても、かかわり合って高めるという経験が少ないことを意味しているように思いました。同じようなことを、この日参加された地域の方も感じておられるようでした。毎年参加されてきちんと子どもを見られていることがよくわかります。地域の方がこのような目線で学校を支えてくださっていることは、とても素晴らしいことだと思いました。

今回の話し合いは、自分たちの地域にゴミが捨てられている状況を写真で見て、それについて考えることがテーマでしたが、子どもたちはこのことを、ゴミを捨てる人の問題、環境の問題としかとらえられずに、自分の問題としてはとらえることができませんでした。ゴミを捨てる側の問題ばかりがでてきて、それを見た側の問題、それを放置するのか、拾うのか、どういう行動をとるのかということには考えが至りませんでした。このことは、この日見た授業ともつながるように感じます。自分がわかっていればいい、友だちがわからないのは自分とは関係ない。そのような空気が感じられたからです。教師が意図的に子ども同士のかかわり合いをつくり、人とかかわることのよさを経験させ、他者の役に立つことで自己有用感を持たせることが大切です。学級経営でも、たとえば、遅刻した子どもだけを責めるのではなく、そのことに気づいて声をかけられなかったこと、気づいてあげられなかったことを問題にするなど、他者とのかかわりの中で自分にできることを意識させることが必要になってきます。

ずいぶんネガティブなことを書きましたが、この日少しお話する機会のあった校長も教務主任もこのことはちゃんと気づかれているようでした。次回訪問した時にはきっと違った姿を見ることができると思います。そのことを楽しみにしたいと思いました。

授業に浸った1日

昨日は中学校で授業アドバイスをおこなってきました。若手中心に授業を見せていただいたあと、道徳の授業研究でした。

昨年おじゃましたときと比べて、若い先生、少経験者が増えています。授業を見せていただいて感じたことは、余裕がないということでした。みなさん授業の準備をしっかりされているのですが、かえって、これをやろう、話そうと準備したことをやりきるので手一杯となっているのです。そのため、子どもが考える・活動する場面が少なく、受け身の時間が長くなっています。そんな中で子どもは板書を写すことに意識が集中して、教師の説明よりノートを取ることを優先しています。教師も時間に追われ、子どもが顔を上げて話を聞いていなくても、そのまま話し続けたり、子どもが作業に集中しかけた時に追加の指示を出したり、説明を付け加えたりしています。子どもを見る余裕、子どもに任せておく余裕を失くしているのです。子どもの活動ではなく、教師の活動に意識が強く向いているということです。

子どもは教師の見たい姿にしかなりません。子どもが教師の話を集中して聞く。友だちの考えを真剣に聞く。集中して問題に取り組む。どんな子どもの姿が見たいのかを意識することが大切です。同じ学級でも、ベテランの授業では、子どもたちは説明を聞くべき場面では指示しなくてもしっかり顔が上がっています。日ごろの授業の中で自然にできるようになっています。子どもがノートに向かっているときには教師は何もしゃべりません。教師がじっと待っている間、子どもは集中して作業しています。子どもの問題ではなく、教師の問題であることがよくわかります。

しかし、ベテランの授業でも子どもが友だちの話を真剣に聞く姿はあまり見ることができませんでした。指名した子どもが発表するとそれ引き取ってすぐに教師の説明が始まります。子どもの言葉を活かし、子どもの考えで授業を進めることは意識されていませんでした。おいしいところを教師が持っていってしまうのです。教師が子ども同士かかわり合う姿を見たいと意識すれば、そのような姿を見せてくれる子どもたちだと思います。とてももったいないと感じました。

道徳の授業は、授業者の子どもたちにこうなってほしいという気持ちが強く現れたものでした。子どもたちと授業者の関係もよく、多くの参観者がいる中、子どもたちが授業者の期待に応えようとしていることがよく伝わりました。子どもとのやり取りの場面で、発言に対する教師の受けの言葉が「なるほど」「そうだよね」の2つの場合があることに気づきました。後者の場合には、教師が復唱して強調することもあります。授業者に確認したところ意識はしていなかったということですが、思いが強いため、無意識のうちに自分の望む発言を評価し、誘導していたのかもしれません。また、資料の「わたしの気持ち」を考えるという発問と、「意見」を書くという指示の仕方もあって、子どもたちは資料から少し離れて、やや客観的に考えていたように感じました。あまり心が揺さぶられておらず、変容があったのかよくわかりません。友だちの意見を聞きあって最後に各自がまとめた文も、出てきた意見から正解(≒教師の求めるもの)を見つけようとしているもので、本音の部分はあまり感じられませんでした。

授業検討会では、子どもたちに求めたものは資料の読み取りなのか、自分の考えなのかといった、国語と道徳の違いに関することと、子どもたちが自信を持って考えを発表するための指導法として机間指導時にワークシートに線を引いたり、○をつけたりしてほめることの2つが特に話題となりました。
前者については、子どもの心の変容を求めることから考えれば、資料の中に入って自分の問題として考えることが大切だと伝えました。そのために資料を正しく読みとることが大切ですが、その部分に時間をかけると考える時間が少なくなってしまいます。できるだけ早く読みとるためには、教師が資料を読みながら状況を説明したり、登場人物の心情について子どもに気づかせたりするなどの働きかけも必要なことです。
後者については、特に数学などの正解不正解がはっきりしている教科の場合には有効な方法ですが、道徳の場合、線を引いたり○をつけたりすることが、時として教師の価値観の押し付けになってしまう危険性があります。教師が○をつけてくれることを書こうとしてしまうのです。自信を持たせることで発言させるという発想だけでなく、自信がなくても発言できる雰囲気、環境をつくることも大切であることを伝えました。何を発言しても受容される、友だちに認められる、そのような学級づくりを意識してほしいとお願いしました。

この日は、皆さんと食事をする場を設けていただいたのですが、会場の移動前や食事会の最中に多くの先生が話を聞きに来てくださいました。どなたも授業にとても前向きで、質問や悩みの中に私自身が気づかされることがたくさんありました。どれだけ効果的なアドバイスができたかわかりませんが、きっと毎日の授業の中で着実に力をつけていかれると思います。
話に聞きに来ようとしてくださったのに、時間がなくてお相手できなかった方がいらっしゃいました。一生懸命授業に取り組んでおられたのですが、子どもとのコミュニケーションに苦しんでおられたように見受けられます。きっとアドバイスを求めていらしたのだと思いますが、それに応えられなかったことを本当に申し訳なく思っています。次の機会には、ぜひじっくりとお話を聞きたいと思います。

終日、授業と授業に関連する話にどっぷり漬かり、充実した楽しい1日を過ごすことができました。このような機会をいただけたことを心から感謝します。2学期にもう一度授業を見せていただく機会をいただけるようです。先生方がどのような進化を見せてくださるのか、今からとても楽しみです。

算数・数学におけるジャンプの課題を考える

子どもたちの学び合いでは、課題が大切だとよく言われます。特に子どもたちが大きくジャンプするような課題が求められますが、このような課題を考えることはなかなか難しいと感じています。いつも学ばせていただいている先生から、数学におけるジャンプの課題について、考えていることをメールで教えていただきました。その一部を引用します(順序等も変えていることをお許しください)。

授業ではともすると、解答とそれが正しい理由が扱われて進んでいくのですが、その解答を導き出すための思考過程を言語化させていることが少ない、これこそジャンプの課題となるのではないかと考えたのです。

例えば、なぜそこに補助線を引くことになったのか、
引けばよいのか、
引かざるをえなくなったのかを考えさせることです。

なるほど、これは大切なことです。私なりに勝手に解釈すれば、問題を解く、解決するメタな考えを問うことです。
図形の問題であれば、知っていること(平行線に関する知識、三角形や平行四辺形に関する知識、合同や相似)、わかっていること(仮定、仮定からすぐにいえること)、いえればいいこと(結論、結論つながりそうなこと、結論の一つ手前、中間の結論)を整理する。その上で、もし手掛かりが見つからなければ、補助線を引くことで知っていることが使えないか、知っている図形をつくることができないか考える。
こういうことを子どもたちに問題を通じて具体化させることだと思います。
しかし、これは数学の授業であれば本来、常に問い続けなければいけない課題のようにも思います。とはいえ、若い教師では、教師自身がこうやって解くものだと信じ、なぜここに補助線を引くのだと聞いても、こうやると解けるとしか答えられないこともよくあります。こうなると、教師にとってもジャンプの課題になってしまいますね。

このメールをきっかけに、私なりのジャンプの課題の考え方について少し書いてみたいと思います。まだきちんと整理できていないので、うまく切り分けられていないことをあらかじめお詫びします。

・多様なアプローチがあり、そのアプローチに汎用性があるもの
たとえば、中学受験などでよく見る、階段のあがり方の場合の数。階段を1度に1段か2段あがるとき、n段あがる場合の数を求める(もちろんn段でなく、10段などとしてもよいのですが)。
答はよく知られているようにフィボナッチ数列(前の2つの場合を足した合計になる)です。アプローチとしては、表を使って性質を見つける。しかし、これでは絶対的に正しいとは言えません。そうなる理由を考えなければいけません。数学における帰納的な考え方(漸化式)、具体的にはn段にたどり着くには、その前はどうなっているのか(先ほどの図形の例における結論の一つ手前と重複しますが)という汎用的な考え方を使うことになります(n段にたどり着くには、その一つ手前はn−1段かn−2段)。

・知識を現実の問題に応用するもの
現実の問題ですから、絶対的な答えがないものもあります。それも含め、現実的な答を考えることで、学ぶ意味を知るというのは大切なことと思っています。
たとえば、過去のイベントの来場者数のデータから景品の数をいくつ準備するか考え、その根拠を数学的な用語を使って説明する。
平均でよいのか。平均より多かったら足りなくなる。最大値でよいのか。超えるかもしれない。大量に余るかもしれない。平均値にどのくらい足そうか。最頻値を基準に考えた方がよいのではないか。正解はありませんが、平均・最頻値などの統計指標や統計そのものの意味などを考えることにつながります。

・いつでも成り立つか、逆は成り立つかを問うもの
小中学校では(高等学校でもよくありますが)、具体例で確かめただけできちんといつも成り立つか確認していないものや、逆は成り立つのかを考えていないことがよくあります。
たとえば、比例や1次関数の性質には、変化率が一定であることや1増えれば同じ数だけ増えるということがあります。これは、本当にいつもいえるのか。逆に、変化率が一定である、1増えれば同じ数だけ増える関数は比例になるのか、1次関数になるのか。ならなければどういう条件があればいいのか。
いつも成り立つのかは、文字をうまく使うなどしなければきちんといえません。逆の問題であれば、変化率が一定のときでも、原点を通るといった条件がなければ、比例にはなりません。また、1増えれば同じ数だけ増えるという条件では、(定義域を)整数に限定するなどしなければ1次関数にはなりません。教科書の問題でほとんどの場合、1次関数でと条件に1次関数であることを入れている理由の一つです。

・定義の理由を考える
こう決めるということには、何らかの合理性があります。その意味を考えることで本質に気づくことができます。
たとえば、君たちなら、角度をどう定義するか。
定義そのものでもよいですが、1周を何度にするかでもよいかもしれません。360°にした意味を考えるだけでも色々なことに気づけると思います(理科の問題かもしれませんが・・・)。このことを考えることで、扇形の周や面積の問題は、定義から自明となります。

・教育課程の範囲を超えている、一般的な理論があることを、限定された条件や具体例で考えさせる。
これは、今までの例をほとんどカバーしていることかもしれません。誰も思いつかないような素晴らしい課題をそう簡単に思いつくわけがありません。先ほどまでの視点で、小学校であれば中学校の、中学校であれば高等学校の内容と、この先学習することから課題のネタを拾ってくるのです。フィボナッチ数列の例は言わずもがな、統計の例は、現実には分布がどのようなものになるか、標準偏差や危険率などの問題から考えることを、できる範囲で考えさせているわけですし、比例や1次関数の例は、関数の連続性や微分、関数方程式やカントール集合の問題などにもつながっています。角度の問題だって、孤度法にもつながります。(数学の先生でない方はこのあたりは読み飛ばしてくださいね)
たとえば、2の平方根は、循環小数にはなりそうもないと確かめていますが、有理数(分数)で表せないことは、きちんと平方根の意味を教えていれば、中学生にもチャレンジできる問題となります(背理法といった難しい言葉を使はなくてもいいのですから)。

ここであげた例が、現実にすぐに子どもがチャレンジできる課題かどうかはわかりません。それまで子どもたちがどのような課題に取り組んでいたかにもよるでしょう。最初にちょっと揶揄した書き方をしましたが、子どもにとってジャンプの課題は、教師にとってもジャンプの課題です。教師が積極的にチャレンジしていかなければ、子どものジャンプは期待できないと思います。皆さんがチャレンジしておもしろかったジャンプの課題があれば、ぜひ教えてください。また機会があれば、他の教科のジャンプの教材についても紹介したいと思います。

いつも同じことを言う教師

子どもの教師への評価に「先生はいつも同じことを言う」があります。これはよい意味でも悪い意味でも使われます。悪い場合は「くどい」「しつこい」に近い使われ方です。教師が求めるものが高く、それに子どもが応えられないとき、どうしても同じことを何度も言うことになり、子どもはまた言っている、また怒られたと感じるのです。一方よい場合は、教師が大切にしていることは結局このことだ、このことを意識していればいいのだと納得できているときです。教師がいつも言うべきこととは何なのでしょうか。

それは、目指す子どもの姿、行動を考えるときに、常にそこに立ち返るべき原点です。
たとえば、最近「当り前のことがちゃんとできる」ということを大切にしている学校によく出会います。この言葉の優れているところは、子どもたちの取るべき行動の原則として非常に広い範囲を含んでいることです。「時間を守る」「ルールを守る」「約束を守る」「整理整頓をする」・・・。どれも「当り前のことがちゃんとできる」に含まれています。「時間を守る」には、「学校に遅刻をしない」「チャイムが鳴る前に席につく」「体育館への移動に遅れない」などが含まれます。だんだん細かくなっていきますね。
一方子どもたちへの指示や指導はできるだけ具体的であることが大切です。「当り前のことがちゃんとできる」と言っても、「チャイムが鳴る前に席に着く」が「当り前のこと」として意識はされません。そのことを意識させる必要があります。だからといって、できるようになるまで「チャイムが鳴る前に席に着く」と言い続けることはネガティブを言われ続けるので、悪い意味で「いつも同じことを言う」と感じることになります。

「今日も遅刻がいなかったね。当り前のことがきちんとできているね。えらいね。ところで、さっきチャイムが鳴る前に全員席に着いていたかな。どう?」
「着いていなかった」
「チャイムが鳴る前に席に着くのは、当り前のことかな?」
「当り前のこと」
「じゃ、これもきちんとできるようになろうね」

指導する時には必ず、原点となる言葉に立ちかえるようにします。広い範囲を含むので、できていることもたくさんあるはずです。そのことをきちんとほめ、だからこれもできるようになろうと前向きに伝えるのです。原点に立ち返ることが意識されてくれば、どのような場面でも、自分で正しい行動を判断できるようになっていきます。

いつも言うことを「当り前のことがちゃんとできる」レベルにするのか、「時間を守る」レベルにするのかは子どもたちの状況によって異なります。年間と月単位でレベルを分ける方法もあります。校長と担任で分けるという考え方もあります。いずれにしても、示すときにはそこに含まれる具体的なことを子どもに考えさせる。できていないと指導するときは必ずそこまで戻り、できていることをほめることも忘れない。このことを意識して、よい意味で「先生はいつも同じことを言う」と言われる教師になってください。

学校訪問で気づく(長文)

昨日は中学校の学校訪問に参加させていただきました。午前中は公開授業、午後は2つの研究授業でした。

午前中の公開授業を通じて前回訪問時に感じた子どもたちの変化(子どもたちの変化を感じた訪問参照)の正体が見えてきたように思いました。今回は公開授業ということもあってか、前回の訪問と比べて多くの授業でグループ活動やペア活動の場面が見られました。子ども同士がかかわり合う場面では、表情もよく、子どもたちのやる気が感じられました。集中力の差はやテンションは、根拠を持って話し合える内容か、子ども自身の課題となっているかによって違っていましたが、総じてとてもよい雰囲気です。子どもたちの人間関係も崩れてはいません。ところがその同じ授業でも全体での追究場面となると大きく変わってくるのです。友だちの発言を聞かない、教師が話しているのに子どもが板書を写している。そんな授業が増えているのです。子どもの活動の結果はとりあえず発表して終わる、一問一答で進むなど、発言をもとに子ども同士がかかわりながら互いの考えが全体に広がっていくような活動がないのです。また、前回の比較から考えると、ふだんの授業でもペアやグループでの活動場面が減る傾向にあるのではないかと想像します。それで、子どもが変化したように感じたのです。しかし実際には子どもが変化したというよりも教師が変化したということなのです。今までと変わらない授業スタイルの先生の教室では、以前と同じかそれ以上によい姿を見せてくれています。こういう先生方は子どもが変わったとは感じないでしょう。自分たちの発言が活かされない、友だちの発言を聞いても意味がない、だからかかわらない、聞かない。子どもたちは単に授業に対して素直に対応しているだけだったのです。

午後の授業研究は、道徳と国語でした。
道徳は、介護の問題から同居するようになった祖父母との軋轢から、主人公の中学生が祖父母に出ていってもらいたいと考えるという資料をもとに、家族について考える2時間授業の後半でした。主人公に賛成か反対かと立場を明確にさせて意見を聞きあい、考えを深める場面の前半を見せていただきました。教師と子どもたち、子ども同士の人間関係がよいことが印象的でした。コの字型の机の配置もあってか、友だちの顔を見て話を聞ける子どもがほとんどです。友だちの意見を聞きながら考えを深めていっていることが感じられました。少し気になったのが、「賛成、反対」という問いのためか、私が見ていたときは客観的、評論家的で、建前で話していたことです。このような問いかけ方では、本音が出にくい傾向があります。「あなたならどうする」と迫る質問の方が、本音が出やすくなるようです。しかし、後半では実際に介護の問題を抱えている子どもの意見をとりあげたりしながら、子どもたちの本音をうまくひきだしたようです。協議会では、子どもに対する接し方、特に介護の問題を抱えている子どもへの気遣いの細やかさが、指摘されました。このあたりも子どもとの人間関係のよさの秘密があるように思いました。
「あなたならどうする」と考えさせ、「そのとき、父母や、祖父母はどう感じ、どうするだろうか」と意見を述べ合う展開だとどのようになっただろうかと、道徳の授業の進め方についていろいろと考えるきっかけをいただきました。

国語の授業は、説明文の構成を考える授業でした。教科書の文章を形式段落でバラバラにして順番を変えた資料から、本論と思われる文を抜き出す。はっきりしない文が本論に入るかどうかを考えるのに、正しい順序に並べ替える。こういう展開でした。私は後半を見たのですが、黒板には本論とは何かは書かれてはいませんでした。以前にやった授業をもとに進めているようなので、そのときには整理されたのでしょう。しかし、この授業ではそのことが根拠となるのですから、明確にしておく必要があります。言葉のはしばしに具体という単語が出てくるので、具体的なことが書かれているというのが定義の一部なのでしょうが、それではわからない文が出た時点で、再度本論とは何かが明確されなければなりません。残念ながら、そこは明確にせずに、正しい順番に並べれば、どこにあるかで(本論の文の間にあれば)わかると一言言っただけで、グループで並べ替える作業に移りました。並べ替えるにしても明確な視点、根拠を子どもたちは持っていません。逆にどの文が序論、本論、結論かグルーピングすることも並べ替えるための一つの方法です。これが明確でないのですから難航するはずです。子どもたちは試行錯誤しながら終始高めのテンションで作業をしていますが、根拠がないので話し合いは成立していませんでした。
このことが、発表の場面に現れました。理由も言ってと発表を促したところ、どのグループも挙手しません。そこで、理由はいいからとすると、ほとんどのグループの手が挙がりました。2グループ発表しましたが、その違いについて全体で考えることはできません。根拠がないのですから。結局、事前に回収してあった教科書で答を確認して、問題の文が本論になると結論づけてこの時間は終わりました。実はこの教科書は紙にくるんで一人ひとりの椅子の裏に貼り付けてありました。このサプライズに子どもたちは大いにわきました。結局、理由については次の時間で扱うようですが、子どもはサプライズと並べ替えが正解かどうかに気をとられ、そのことを意識している様子はありませんでした。
授業検討会では、グループ活動のときの子どもたちのようすが細かく報告されていました。先生方が子どもを見る視点がしっかりしていることを感じました。私がいなかったときに若手の先生から教科書のサプライズを評価する発言があったようです。若手はどうしてもこの種のパフォーマンスにひかれる傾向があります。授業の本質には関係ないそれどころか最後のまとめでなぜこの順番かじっくり考えなければいけないときに、無駄にテンションを上げてしまうマイナスなものです。このために時間を使うのであれば、もっともっと教材研究に力を入れてほしい、そのことをわかってほしいと思いました。

学校訪問終了後、学校の現状について教務主任、校務主任、研修担当と話をさせていただきました。どなたも現状をしっかり認識しておられました。授業を大切にする意識が、研究発表後時間が経って薄れてきているのではないかという危機感を共有することができましたが、問題は今後どうしていくかです。すぐによい答えが見つかるとは思いませんが、知恵を出し合うことで、きっとよい方向にもっていけるでしょう。ここを乗り切ることで、この学校の授業力が継続的に向上する仕組みが見えてくることと思います。私も新たな挑戦として、前向きに取り組んでいきたいと思います。

鈴木明裕先生から学ぶ

本年度第2回目の教師力アップセミナーは、岐阜聖徳学園大学准教授の鈴木明裕先生の講演でした。算数・数学で教科書を理解できていない、うまく使いこなせていない若い先生が多いということで、「算数・数学での教科書の使い方と役割」というタイトルでお話いただきました。

・教科書に書かれた考え方以外に子どもはどんな考えを出すだろう。その考えが出てきたときどのように活かすことができるのだろうか。
・教科書では子どもがつまずきそうなこと、疑問に対する答(結論)が書かれている。子どもに聞かれたときにどのように対応すれば(過程を示せば)よいのだろうか。
・具体物を操作する。情報を整理して見やすくする。式で表現してみる。これらを行き来することで数学的な表現力は高まる。教科書の課題を解決するのに、どのようにアプローチすればよいのだろうか。

鈴木先生の教科書の具体的な場面での説明から、教科書を活かすためには、このような視点で考えることが大切だとあらためて整理できました。教科書の問題の数値一つとっても、教師に指導してほしいことへの思いが込められています。教科書に直接書かれてはいませんが、そのことに気づくヒントはあちらこちらにちりばめられています。宝探しのようなつもりで教科書を読んで見ると、多くのことに気づけると思います。

私は小学生を指導した経験はほとんどありません。数学以外の教科を教えた経験もわずかです。しかし、たとえ経験のない教科の内容についてもアドバイスをさせていただいています。それができるのは、教科書のおかげです。算数に限らず、教科書を読み解くことで、指導すべき内容やその方法が浮かび上がってくるのです。
教科書を執筆される方たちは、「てにをは」にもこだわって書かれています。そのこだわりから指導に関する多くのことを学べるのです。
教科書を見ていて「なぜ?」と疑問に思うことがあります。その疑問を追究することから、書かれていない多くの大切なことに気づけるのです。
教科書をしっかり読みこみ、そこを出発点として授業を組み立てていってほしいと思います。

鈴木先生のお話をきっかけに、色々なことを整理することができました。ありがとうございました。

学校の成長とこれからの課題について講演

昨日は中学校で講演をおこないました。4年間訪問している学校です。当初は授業規律もままならない状態でしたが、3年ほどですっかり見違えるような学校に変わりました。異動等でこれまでの経緯を知らない先生も増えました。ここで一度この4年間を振り返り、次へのステップアップのためのお話をさせていただくことになりました。

この4年間で、教師が子どもを受容する雰囲気がずいぶん学校に広まりました。その結果、子どもと教師の人間関係が良好なものになり、教師の話をしっかり聞こうとする姿勢ができました。実は、次のステップに進めるかどうかはここがポイントとなります。どういうことかというと、子どもたちが集中して聞いてくれるようになると、教師はついついしゃべりすぎてしまうのです。そうではなく、教師が聞く時間を増やすこと。つまり子どもの発言を増やすことが求められます。子どもに外化を求め、子どもの活動量を増やすのです。そのためには、一問一答形式の答え探しの授業からの脱却、子どもたちが考えざる得ない課題設定などの工夫が必要です。知識は知っていれば答えられますし、知らなければ答えられません。知識を問うても、考えることにはつながりません。先に答えを与えて、「どうやって求めたかわかる?」と聞いたり、「何がわかれば、答えが出せる?」と必要な条件をたずねたりするといった工夫が求められるのです。

うれしいことに、過去に私が個別のアドバイスをした先生方がとても集中して話を聞いてくださいました。彼らにとっては、アドバイスのときに聞いたことがある話がほとんどなのにもかかわらずです。アドバイスされたことを自分の中で確かなものにしようという意欲が感じられました。後ほど校長、教務主任から彼らの授業がとてもよくなってきていると聞きました。前向きな姿勢が進歩につながっているのだと思います。また何人かのベテランの方もとてもよく反応してくださいました。自身の経験と照らし合わせながら聞いていただけていることがよくわかります。自分の持っているものを今回の話をきっかけに整理していただけたのだと思います。こういう方は、若手にもきっとよいアドバイスをしてくださるでしょう。こういったベテランの存在が若手の成長を支えてくれるのです。

今年度も2学期以降、個別の授業アドバイスが予定されています。昨年に引き続き今年も希望してくださる方が何人もいらっしゃるそうです。きっと大きな進歩を見せていただけることと思います。この学校がこれからどのように進化していくのかとても楽しみです。

「効率的な学習方法」という質問から見えること

昨日仕事でおじゃました会社の方からおもしろい話を聞かせていただきました。今は新卒の採用時期で、適性検査の質問項目の中に「あなたにとっての効率的な学習方法」があるのだそうです。その回答がいくつかのグループに分かれるというのです。

A.「あなたにとって」のという文脈が正しく読みとれずに、ICT機器を活用した授業など、自分の体験とは関係のないもの
B.自宅では集中できないので図書館で勉強するなど、学習方法そのものというよりも、その前の段階である、集中するための条件整備
C.重要な事項にしぼって覚える、できなかった問題を何度も解くといった、訓練的な方法
D.友だちに教えさせてと頼み、わかりやすく教えようとすることで内容が理解できるといった、学習内容を関連づけて高いレベルで身につけるための工夫

これらの回答と適性検査の成績、面接での受け答えには相関関係が感じられるそうです。
なかなか興味深いものがあります。

Aのグループには、理解力、コミュニケーション能力の欠如が感じられます。
Bのグループには、意識しないと集中して学習に取り組めない、学習習慣や学習への姿勢の問題が感じられます。
Cのグループには、ある程度の成績はとるでしょうが、学習を覚えること、訓練すること考えているため、未知の問題に対する解決能力や問題を総合的にとらえる力が不足していることが感じられます。
Dのグループは、学習を前向きにとらえ、高いレベルを求める意欲と思考力の高さが感じられます。

教育にかかわるものとしては、傍観者としておもしろがっていられる話ではないと思います。それぞれのグループに対して、どのような働きかけがあったのか、なかったのかを想像してみてください。
皆さんの目の前の子どもは将来どのグループに属することになるのでしょうか。今の時期に、どのような課題を与え、どのようにかかわり、どのような指導をおこなう必要があるのか、具体的に考えてみてほしいと思います。

子どもたちの成績がよいからと安易に妥協しない

子どもたちの成績がよく、通塾率も高い、いわゆる文教地区の学校を訪問してよく感じるのはが、授業における子どもと教師の関係の希薄さです。教師は淡々と説明をしている、子どもはとりあえず大人しく聞いている姿勢をとる。教師の質問に対して、わかっていても挙手しない。教師も質問しても反応がないので、ますます一人でしゃべっている。このような状態でも、子どもたちの成績はよいので、問題と思わなくなる。成績がよいことで、安易に妥協してしまっているのです。
ちょっと荒れた地区であれば、あっという間に学級が崩壊するような状況です。子どもたちのどこに原因があり、教師は何を変えていけばよいのでしょうか。

子どもたちがこのような状態になるのは、学習に対する価値観が試験の成績に偏っていることが大きな原因だと思います。こうなると、効率的に試験の点が取れるように子どもたちは行動します。試験に出題されることには敏感ですが、それ以外のことには興味をなかなか示しません。教師が、板書したことから出題するのであれば、板書だけは必ずきちんと写します。教師が話していても、写すことを優先します。こうなると教師も子どもの関心を引くために、「試験に出す」といった利益誘導の言葉を使うようなり、悪循環に陥ってしまいます。彼らは、勉強はおもしろいものだとは思いません。試験に出ることを覚える、点を取れるように訓練する作業に近いものなのです。また、教師も勉強とはそういうものだと思っていれば、この状態はまず変わることはありません。

では、試験でよい成績をとることの価値を否定すればよいのでしょうか。この価値を否定すれば、試験そのものの意味が大きく揺らいできます。ふだんの試験はまだしも、入学試験がある現実を考えればナンセンスです。
大切なのは、結果を覚えることではなく、その過程、学ぶことに価値を見出させることです。知識そのものではなく、知識を組み合わせて問題を解決することを大切にするのです。一人ではすぐに答が出せないことを、みんなでかかわりながら考え解決することの楽しさを経験させるのです。そして、試験でも単に知識を覚えれば解ける問題ではなく、授業で経験したような考える問題を出すのです。

たとえば歴史で、「ペリーが日本に来て開国を迫り、日米和親条約が結ばれ鎖国が終わった」。これは大切で試験にもよく出ます。しかし、ペリーが来たのは、なぜこの時期だったのか。日米和親条約の結果、世の中の何が変わることになるのかなどを問うのです。事実をもとに考え、それに関する他の事実を調べ、点の知識を線でつないでいく。このような課題を子どもたちに課すのです。正解は一つとは限りません。一問一答で知識を確認するのではなく、教師が言葉をつなぎながら、友だちのいろいろな考えを聞くことで自分の答えを見つけていく。そして、この課程で子どもたちの活動をポジティブに評価するのです。正解が評価されるのではなく、たとえ不正解やずれた発言でもその価値を認めるのです。

試験でよい点を取るのと同じかそれ以上の価値を、授業に参加することに見出す。そして、そのことを価値づけてくれるのが教師や友だちであれば、授業の雰囲気は間違いなく変わっていきます。
教師が子どもと同じように、試験の結果だけを評価するのではなく、より高いものを子どもに求めるのです。その価値を子どもと共有することで、子どもと教師、子ども同士がかかわりあう関係が育っていくのです。子どもに安易に妥協するのではなく、高いものを子どもに求めてほしいと思います。
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