ICT活用授業の参観

昨日は、小学校のICT活用授業を参観しました。ICTを活用した協働学習を研究テーマにしている学校です。

第一印象は、ICT機器の活用を意識しすぎたため、本来できていたはずの授業の基礎・基本がおろそかになっているということです。教師が子どもを見ていない、子どもを見て話さない。子どもに発言を求めない、子どもをつながない。こういう場面が多くありました。特に、ほとんどの教師がICT機器の操作に気を取られて子どもに意識がいかなくなっていました。ディスプレイの画面を見て教師がしゃべっている。肝心の子どもは画面に集中していない。こういう場面が多いのです。

教師に余裕がないため、教室に笑顔が少ないことも気になりました。ICT機器の活用に時間を取られ、その少ない時間に教師がまた説明をしようとするので大変です。子どもの発言の場面も少なく、子どもの言葉を活かすことができません。子どもの発言を笑顔で受け止める、ポジティブに評価する余裕もないのです。全体的に授業中の教師と子どもの関係がまだしっかりとできていないように感じました。

また、全体的に子どもの集中力が低いことも気になりました。その理由の一つが、子どもが受け身になっている時間が長いことにあります。たとえば、動画を見せると基本的にその間は受け身です。それをもとに子どもが考える、話し合うという活動があればよいのですが、説明の動画であっても、そのあとまた教師が説明をしてしまうこともあります。これでは、子どもの集中力が持つはずがありません。ICT機器を使う時間が、情報を一方的に与えられる時間になってしまってはいけないのです。

もう一つ特徴的だったのが机間指導です。どう指導していいのか戸惑っているように感じたのです。ノートであれば、○をつける、書き込みをするといったことができるのですが、タブレットPCを使っているのでどう関わっていいのかわからないようなのです。漫然と歩いているか、できない子を集中的に個人指導しているのです。
一方、子どもたちは黙々と作業しているのですが、まわりと相談している姿は見られません。早く終わってしまった子どもが雑談をしている姿を見るくらいです。

残念ながら、ICT機器が教師と子ども、子ども同士を分断しているのです。この学校の先生方を非難・批判する気はありません。機器だけあってソフトがそろっていない。ソフトもまだまだ未消化で、インターフェイスもこなれていない。そんな環境で、ICT機器の活用を義務づけられれば、本来できていたこともできなくなってしまうことは十分に考えられます。もう一度授業の基本を確認することと、ICT機器の活用に関しては、子どもにどんな力をつけたいのか、どんな姿を見たいのかを明確にして、どのような活動を組み合わせればいいのか、教師はどのようにかかわればいいのかを整理することが必要だと思います。

夏休みに入って先生方にお話をさせていただきますが、一度肩の力を抜いて子どもたちに笑顔で向き合うこと、ICT機器を活用しているときの教師の役割を意識することを伝えたいと考えています。先生方に元気になっていただけるような話を心掛けたいと思います。

中学校で授業参観

先週末は、中学校で若手と一緒に授業参観をおこないました。子どものたちの姿から、授業で大切にしたいことや子どもたちを見る視点を説明しました。

社会科の文明と宗教についての導入で、野球の話をしている場面がありました。子どもたちも先生の話に反応しています。笑い声もでています。しかし、よく見ると野球に興味のない子なのでしょうか、あまり集中して聞いていない子どもいます。一部の子どものテンションが上がると、それに呼応するように集中力を失くす子どもも増えていきます。最後に「野球の神様」という言葉が出て、宗教につなげました。この間10分近くを費やしましたが、教科の内容につながる部分はこの「神様」という言葉だけでした。しかも、教科の内容に入ると、先ほど盛り上がっていた子どもたちも、集中力がなくなっていました。彼らは、無責任に話を聞いていられるこの10分で集中力を使い切ったのです。
これでは本末転倒です。授業の初めの一番集中できる時間を無駄に使ってしまいました。導入はできるだけ短く、集中力が上がった時点で、本時の課題に取り組めることが大切です。そのことがよくわかる場面でした。

数学の式の整理の練習問題の場面では、黒板で解答をしながら、教師がポイントを説明していました。黒板には模範解答が書かれ、そのほかには同類項に下線がひかれているだけです。思ったよりできていなかったということで、再度別の問題に取り組ませていましたが、なかなかできるようにはならなかったようです。間違えた子どもは、正解を写してもできるようにはなりません。解答の行と行の間を埋めるものが必要です。できなかった子どもがわかる、できるための手がかりが残っていないのです。教師の説明を聞いても言葉はすぐに消えてしまいます。理解して頭に残すか、板書を見ればわかるようにしておく必要があります。
同じ場面で、行間を子どもに言わせている教室もありました。いきなり最後まで解答するのではなく、最初の1行を書いた後、その1行はどう考えてそのように変形したのか、子どもから丁寧に引き出そうとしています。しかし、教師とその子ども2人だけのやり取りになってしまい、他の子どもたちはそのやり取りに参加できていませんでした。授業者にそのことを指摘すると、すぐに反応してくれました。他の子どもに納得したか確認する。もう一度他の子どもに言わせる。こういうことが必要だったと気づいてくれたのです。子どもを見る力がついてきているので、この状況を自分でも感じていたのです。この場面も、練習問題を解かせているとき、子どもたちがよく理解できていないことに気づいたので、途中で一旦止めて見通しを持たそうとしていたのです。子どもの状況をつかむことを意識できています。この意識を持って毎日の授業にのぞめば、自然に力がついてきます。今後の進歩が楽しみです。

以前に訪問したとき、新年度になってから3年生の緊張が緩んで集中力が落ちてきていると感じていたのですが、この日はずいぶん違っていました。どの教室もよい緊張感があり、子どもたちもよく集中していました。修学旅行が終わり、進路説明会もあり、それに合わせて学年団が意識して指導したのでしょう。子どもたちの姿にその結果が表れています。
その中でとても面白い場面を見ることができました。教師が説明しながら板書をしています。この場面は説明を聞かせるのか板書するのか明確にしておくのが基本です。そうでないと説明を聞いている子ども、板書を写す子どもとバラバラになります。この教室では、子どもたちのほぼ全員がノートを取っています。こういう時は、教師が板書をすると子どもたちは一斉に手を動かすのですが、この学級は違っていました。手を動かすタイミングが一人ひとり違っているのです。どういうことなのでしょうか。中学生では珍しいのですが、彼らは教師の話を聞きながら、ノートを取っているのです。教師の言葉を理解しながら、一人ひとり自分のリズムで写しているので、顔を上げるタイミング、手を動かすタイミングがばらばらなのです。さすがに3年生です。1年生から鍛えられ、よい意味でこの教師の授業スタイルに順応しているのだと思います。
隣の教室でも多くの子どもたちは集中していましたが、そのようすはだいぶ違っていました。よく見ると、体は起きているが集中していない子もいます。ノートを写している子どものリズムは一定です。作業に集中しているのです。先ほどの教室と比較してみるとよくわかります。一緒に授業を見ていた先生方もその違いに気づいてくれました。同じ集中でも質に違いがあることがよくわかりました。

また、2年生の理科の体の構造や働きの学習の場面では、子どもたちのよい姿を見ることができました。集中しているのでしょう、私たちの視線に気づくこともなく、教師の(呼吸の?)説明を自分の体を動かすことで確認している子どもが何人もいるのです。例外なくとても楽しそうな表情で、しっかりと教師を見ています。同行していた、この学年を担当している先生は、子どもたちが授業中にこんな表情をすることを知って驚いていたようです。教師の働きかけで子どもたちの姿が変わるということを実感できたようです。

英語のヒアリングのQ&Aの場面で気になることがありました。解答をする場面で子どもたちとあまり意味のないやり取りをしたり、正解者を挙手させてテンションを上げたりしているのです。ヒアリングが終わってしまえば、その後正解を言われても間違えた子どもは、間違えたと指摘されるだけで何も学ぶことはできません。正解の子どもも何らかの新しい学びがあるわけではありません。そこに多くの時間を使うことは無意味です。根拠となる文は何だったか子どもに言わせる。できなかった子どもはそれを聞いて修正する。これが難しいのなら、もう1度、該当箇所をゆっくり聞かせて、その意味を確認するといった、できなかった子どもができるようになるための工夫が必要になります。
この場面に限らず、解答をするときは、できなかった子どもができるようになるための手立てを用意すること。できた子どもにはできてよかったではなく、その手助けをするなどのかかわり合いを意識させることなどの工夫が必要です。単なる正解不正解の確認ならば、できるだけはやく終わらせるべきです。頭を使わないことに必要以上の時間を使う必要はないのです。

同行した先生方は、子どもたちの姿から何を学んでくれたでしょうか。「子どもたちを見るとはどういうことかわかった気がする」と言ってくれた先生もいました。まだ、教壇に立って3か月も経っていない方です。子どもたちから学ぶことを知ることが教師の成長の第一歩だと思います。このような経験をきっかけにして、彼らがどのように変化していくのかとても楽しみです。

うれしい報告

先日訪問した学校の校長と研修担当の先生から、うれしいメールをいただきました。

校長からのメールには、教室をまわって先生たちのようすが変わったと報告がありました。多くの先生が学級全体に目を配るようになったそうです。また、正門での朝の挨拶で、「おはようございます」と挨拶を返すだけでなく、「いい挨拶だなあ」「すばらしい」「元気ですね」「自分から挨拶してすごい」といった言葉をつけ加えるようにしたところ、子どもたちがみるみる嬉しそうな表情になったそうです。自身が担当される授業でも、子どもたちを意識して見ると、一人ひとりの子どものようすの違いがとてもよくわかることに気づかれたようです。子どもたちの反応を見るのが、おもしろくて仕方がないそうです。
校長自ら前向きに変わろうとしていること、先生方の変化・子どもの実態をしっかりとらえようとしていることがよく伝わります。

研修担当の先生からのメールには、授業者一人ひとりと話(雑談)をする機会を持ったことが書かれていました。ほとんどの方が、協議会で指摘されたことを次の授業で試したそうです。授業を参観された先生も、学び合いの授業に挑戦してくれているそうです。また、子どもたちの集中が切れる場面を意識するようになったという声も聞こえてくるようです。
実際に子ども同士をつなごうとすると、指名してもなかなか答えられなかったり、一部のできる子どものみで進んでしまったりするようです。同じ意見を言ってもよいことを伝えること、まちがえても大丈夫という安心感を与えること、そして、教師の発問を工夫していくことが重要だと気づかれたようです。学び合いは教師と子どもたちで一歩一歩、一緒に作り上げていくということを再確認することができとのことでした。もちろん、この担当の先生自身も研修で気づいたことを早速実践しているとのことでした。
とても素直で、前向きな先生方ばかりだということがよくわかります。先生方が変わり始めていることがとてもよく伝わりました。

どの学校もこのようにすぐによい変化がみられるわけではありません。しかし、よい変化がみられる学校には共通の特徴があります。校長や研修担当者のように全体をけん引するリーダーの方が、まず自ら変わろうとする姿勢を見せること。そして、先生方とコミュニケーションをとり、教室の変化をしっかりとらえ、先生方や子どもたちの変化を前向きに評価することです。この学校はこの条件を満たしていたということです。研修はきっかけにしかすぎません。リーダーの日ごろの姿勢が今回のよい変化につながったのだと思います。もちろん、先生方が素直で前向きなことが一番ですが。

このような報告をいただけることは、私のような立場の者にとっては本当にうれしいことです。このような機会を得たことを本当に感謝します。次回の訪問を思うと、気持ちが高揚すると同時に前回以上の研修にしなければとプレッシャーもかかります。このプレッシャーを楽しみながら次回の準備をしたいと思います。

算数で大切にしたい活動

算数では、数の概念や足し算・引き算などの演算の概念、長さなどの単位の概念などを形成することがとても大切になります。このとき、意識してほしいことは、問題を解けるようにすることをあせるあまり、言葉から直接式をつくる訓練に終始しないことです。

演算で考えてみましょう。算数の問題は、言葉で書かれたものを、式を立てて解くことが求められます。しかし、言葉と式を直接結びつけることはとても危険です。なぜこの問題は足し算なのか、なぜ引き算なのかを言葉で説明することはとても難しいことだからです。「違い」を聞かれているから「引き算」というのは、本当は説明にはなっていません。そもそも「引き算」という概念は言葉で形成されたものではないからです。

「残り」「違い」と聞かれたら「引き算」と教えることはHow to としては、多くの問題で有効かもしれません。しかし、その言葉の表しているものを無視して「引き算」と直接結びつけて解かせても、「引き算」を理解したことにはなりません。
「残り」と「違い」は「引き算」で求められますが、同じことを表しているわけではありません。教科書では、「残り」が「引き算」の定義、概念の出発点となっています。引き去った「残り」を求めることが「引き算」であると定義をしているのです。では、「違い」も「引き算」になることはどのように理解していくのでしょうか。たとえば、赤組8人、白組5人の「違い」を考えてみましょう。赤組、白組を整列させ、求めるものは図のどこの部分が表す数かを考えさせる。はみ出た3であれば、それはどのような操作で求められるか考える。それは、白組の5人と対応する5人を白組から引き去った「残り」だから、引き算で表される。このような過程を経ます。「違い」を「残り」に帰着させて引き算となること理解させるのです。「残り」を考えることで引き算の概念を形成し、それをもとに「違い」に拡張しているのです。

教科書では、子どもたちがばらばらにいる図、整列した図、ブロックで対応させた図、5つのブロックを対応させ、分解した図と丁寧にこの段階を踏んでいます。授業では、ブロックを使った操作をすることが必須となります。ブロックの操作が、今までやった「残り」と同じ操作だと気づくことで、これが引き算だと子どもは理解するのです。
子どもが納得できるまで、この操作を経験させることが大切です。ここをさぼって、だから「違い」は引き算だねと教え込むことは危険なのです。

また、ブロックのよさは操作できることだけではありません。人間のままでは、どうしても赤組の子ども、女の子といった属性が残ります。一旦ブロックに置き換えることでその属性は消えます。この置き換えは、数の本質的な概念形成に役立ちます。数は対応関係に注目した概念で、属性を消し去ることがその本質だからです。

問題文という言葉と式という言葉。この2つの言葉だけを行き来することを重視するのではなく、図による視覚化、ブロックのような具体物による操作、この3つを自在に行き来する活動がとても大切です。特に演算の概念形成は、どのような操作がその演算となるのかをしっかりと理解させ、練習では問題文を直接式にするのではなく、その表す状況を絵や図で表し、どのような操作で求められるのかを意識して式を立てるようにさせてほしいと思います。

算数の授業アドバイス(その2)(長文)

昨日は、引き続き小学校の算数の授業アドバイスをおこなってきました。

2年生は引き算の筆算の場面でした。2桁同士から3桁の数に拡張していく場面です。授業者は教科書を黒板に実物投影機で映しだしました。子どもたちの顔をあげたいという思いです。子どもたちのこういう姿を見たいという思いを持つことはとても大切なことです。しかし、教科書を映す前に今日は○○ページを学習しますと、教科書を開かせてしまいました。そのため、子どもたちはどうしても手元の教科書を見てしまい、顔が上がりません。黒板に集中させるためには、必要になるまで教科書を開かせないことも大切なことなのです。
0から9のカードを使って2桁の筆算の問題をつくる課題では、子どもたちに問題をきちんと把握させずに、いきなり、教科書のキャラクターの言葉を読ませ、その説明を求めました。挙手をした子どもを指名しましたが、うまく説明できません。子どもの言葉を理解しようと聞き返すのですが、よくわかりません。そこで、子どもたちに「賛成の人」と助けを求めました。子ども同士をつなごうとするよい姿勢です。ところが、誰も手を挙げませんでした。続いて「違うと思う人」と聞いてしまいました。たくさんの手が挙がりました。ここですぐに他の子どもに意見を求めました。この子どもの発言も不十分だったのですが、活かせそうだと判断して他の子どもとつなぎながらまとめていきました。授業者は最初の子どもを直接否定はしてないのですが、「違うと思う人」と聞いてしまうことで、結果的に否定してしまいました。これでは子どもの意欲は落ちてしまいます。
ここでは、「もう一度言ってくれる」「ちょっと待って、それってどういうこと」と子どもの言葉を短く区切りながら整理させ、まず全員でその内容を理解する過程を踏む必要がありました。その上で、活かせそうになかったら、「なるほど、そう考えたんだね」と認めて、他の子に意見を求めればよかったのです。あえて、否定する必要はなかったのです。
また、教科書のキャラクターの言葉をいきなり読ませましたが、教科書は子どもたちからその考えがでなかったときや自習することも意識してこのような構成になっています。できれば子どもたちからその言葉を引き出すようにしてほしいと思います。デジタル教科書では消すことができますが、実物投影機を利用するのであれば、白い紙でその部分を覆っておけばいいのです。ちょっとした工夫をすることで授業は大きく変わっていくと思います。
この時間の主たる課題である「筆算の仕方を考える」について、教科書は「筆算の仕方をもとに考える」と考え方の方向性を示しています。しかし、授業者は子どもに考えさせるのではなく、筆算のやり方の手順を一つひとつ子どもに確認し、その後、すぐに練習に取り組ませました。解答の解説の場面でも、子どもに発表させたのは手順です。最初に「筆算の仕方を考えよう」と課題を提示したのに、考えることや仕方を整理することはなく、解くための手順を言う、問題を解くという作業に終始しました。これでは、考えることは手順を覚えることになってしまいます。
ここでは、教師がピンポイントで発問するのではなく、「筆算ってどうやるんだっけ」と子どもに問いかけ、できるだけたくさんのポイントを子どもから出させる。その上で、「じゃあ、この問題やれそう」と子どもが見通しを持てたことを確認してから、解かせるとよいでしょう。解答、確認の場面では、子どもたちからでたポイントの何を使ったのかを意識させます。その上で、「今までの勉強したことを使って、新しい問題(3桁の問題)を解くことができたね。すごいね。みんなよく『考えた』ね」と評価するのです。
子どもをつなごうとする姿勢の見える授業でした。この授業で子どもの何をつなげばよいのか、そのために何を問いかければよいのかを意識すると、とてもよくなっていくと思いました。

6年生はかなりレベルの高い文章題の演習場面でした。昨年より、グループで演習をすることに挑戦されているということで、参観することをとても楽しみにしていた授業でした。
まず、答だけを確認した後、子どもたちに困っている問題を聞きました。子どもたちは、恥ずかしがらずにしっかり手を挙げます。とてもよい姿です。多くの子どもが最後の問題で困っているようなので、この問題を授業では取り上げることにしました。
授業者は子どもに問いかけながら進めています。子どもの反応を拾う力もあります。それだけに、子どもの言葉を受けて説明しすぎるのがもったいないと思いました。教師が説明するため、できている子、わかっている子は集中しては聞きません。わかっているから聞かなくていい、自分の出番はないからつまらない、そんな子どもの気持ちが見て取れます。ここは、教師が説明せずに、できている子どもにヒントを出させる、最初に何をやった、どんなこと考えたと初手を言わせる。その言葉を手掛かりにして子ども同士をつなげていく。こんな進め方に挑戦してほしいと思いました。優秀な子どもたちですから、きっと応えてくれると思います。
授業者は類題に気づかせ、その問題を図を使って解いていくことで、解決の糸口を見つけさせようとします。図が示されると、「あっ」「そうか」「わかった」というつぶやきが漏れてきます。子どもたちが動き始めました。授業者は、その上でもう少し説明を付け加えていきました。多くの子どもが反応しだします。このときには待ちきれなくて自分で問題を解こうとしている子も出てきています。そこで、授業者は説明を止めて、この先を自分たちでやるようにグループに戻しました。どのグループも一気に話し合いに集中しました。自分の説明でここまで子どもがよい反応をしてくれると、教師は一気に説明を続けたくなるものです。そこを、グループに戻す判断ができるのですから素晴らしいと思いました。ただ、最初に子どもたちが反応した段階で、子どもたちに気づいたことを言わせ、その気づきを広げていき、その時点でグループに戻せば、子どもたち自身でより多くのことに気づけたと思います。
この後の全体での追究場面では、2つの図が出てきました。比の基準を何にするかの違いです。それぞれに説明させ、「同じ図を書いた人」と問いかけ、子ども同士をつなぎます。ほとんどの子どもがどちらかの図をかけています。ここは、一気に深める場面です。「同じだ」という声も何人から出ています。この「同じ」という言葉、2つの図の「違い」を焦点化してほしかったのですが、そこまでは残念ながらできませんでした。2つの「違う」図を「同じ」だという意味がわかれば、何を基準にしたかの違いだけで関係は同じことに子どもたちが気づけるはずです。
ここは、「えっ、同じなの。2つの図は違うと思うけど」と子どもに問いかけて、説明させる。それが難しそうなら、「ねえ、この図の1て何が1なの」と問いかけてみるのもよいでしょう。ちょっとした働きかけで、流れは変わったと思います。
また、比における基準のように、意識すべきキーワードは、学年を越えた共通のものとしていつも子どもたちに問いかけることが大切です。色々な場面で同じキーワードが使われることで、子どもたちは基本となる考えを身につけていきます。
その後グループで、できなかった問題を教え合うことになったのですが、子どもたちのテンションの高さが気になりました。グループではなく、ペアや違うグループの仲のよい子と教え合っています。また、わからない部分を聞いてその部分を理解するというよりは、答の図や式を教えてもらっているというように見えます。一方、自分一人で解きたい子は話し合いに参加しません。これでは、グループ活動は崩れていきます。
グループの活用の場面は、全員で同じ問題を解く場面と個別に問題を解く場面の大きく2つ分かれると思います。
前者の場合、できる子がすぐに解いてしまい、みんなに教えて終わってしまうような課題ではあまり意味がありません。高めの課題を与える。行き詰まっているグループがあれば、一旦グループ活動を止めて、全体の場で、「どんなことをやってみた」と過程を共有し、その上で再びグループに戻す。できてしまったグループには、「全員が説明できるようにしてね」とさらなる課題を与える。説明の場面は途中で困ってもいいので、できる子にはあえて指名しない。説明につまれば、そのグループの子どもたちが助けるようにする。こんなことを意識するとよいでしょう。
後者の場合は、個別であっても、わからなかったら友だちに聞いてもいい、聞かれたら友だちがわかるまでしっかり教える。自分で解きたい子もいるので、聞かれないのに教えることは絶対しない。こういうルールを明確にしておくことが大切です。たとえ自分で次の問題を解きたいと思っても、友だちを助けることを優先するように指導してほしいと思います。また、聞く方も、ただ「教えて」ではなく、「ここがわからないから、教えて」と聞けるようになってほしいものです。
どのように聞く、どのように説明するといったグループ活動で必要な力は、グループ活動の場面だけではなく、全体追求の場面で鍛えておくことが大切です。「困っていることは何?」「何かいいヒントはない?」「どの言葉でわかった」「どの説明でピンときた」などと教師が問いかけ続けることで、子どもたちは自然にその力を身につけていきます。
また、先生方からは子ども同士で考えさせると時間がかかるので、教師が教えた方が結局効率的ではないかという疑問も出されました。解くべき問題を精選すること。最後まで解かずに、図にするところまでで止めるやり方もあること。そこから先は宿題にしてもこの学校の子どもたちなら自分で解く力があることなどをお話しました。

1年生は、引き算の問題をつくる場面でした。図の中から7−2となる問題をつくるという課題です。教科書の例は「ちょうが7ひきいます。ちゃいろいちょうは2匹です。しろいちょうはなんびきいますか」というものです。授業者は、図は使わずに、わかっているものは何、聞いているもの何と、問題を解く視点でこの例を子どもたちに分解させます。例を素早く終わると、次はわかっているところを与えて、最後の聞いているところをつくる問題です。ここで、教科書を振り返り、今までやった引き算の問題の聞いている部分を整理しました。「のこりは・・・ですか」「ちがいは・・・ですか」「・・・多いですか」といった言葉を使えばいいこと、最後は「か」で終わることを押さえ、こういった言葉を使えばいいと教えました。
残念ながら、教科書を正しく理解していません。授業者は算数の問題を解くために、言葉と演算を直接結びつけようとしているのです。こういう指導をすると、残りという言葉があれば引き算という、とんでもない発想をする子どもが育ってしまうのです。そうではなく、この問題で聞かれているのは図でいうと、これからこれを引いた残りの部分だから、引き算だという発想をしてほしいのです。ここまで教科書の引き算の問題は文章だけのものはありません。必ず図が一緒にあります。その意味をわかっていないのです。引き算などの演算と言葉を直接結びつけることは絶対にしてはいけません。言葉が表している事象や状態から、これは引き算になると理解することが大切なのです。算数の概念形成の段階では、式は図(具体的な事象)と結びつけなければいけません。文章に示されている数は図のどこに表れているか、求めるものは図のどの部分を指しているか。そして、その関係からこれは○○算になるという思考をすることが大切なのです。逆に式の数が図のどの部分になっているのかを確認したりすることで、数、式、図、言葉を子どもたちが自由に行き来できるようにするのです。
ここまで教科書は、「残り」を基準にして考えています。「違い」はブロックなどを使い、「残り」を求めればよいことに気づかせています。ではこの時間の課題は何を考える課題なのでしょうか。引き算になる事象を図から探し、それを言葉にすることで、図や式と言葉を結び付けることをし、今まで引き算を表す言葉を限定していたものを拡張していく課題なのです。ですから、例は「残り」も「違い」も使っていません。今まで引き算を表すキーワードだったものを使わずに、「しろいちょうはなんびきですか」と聞いているのです。キーワードがなくても、言葉が表す事象を考えることで演算が決定できることに気づかせるのです。この例文は算数の引き算の問題としては不適切です。正しくは「しろいちょうとちゃいろいちょうがあわせて7ひきいます」となっていなければいけません。それをあえてしていないのは、子どもにそれを求めていないということです。要は図を見てわかればいいのです。ですから、この課題で図を見ずに言葉だけで授業が進んでいくことはあり得ないのです。教科書はそこまで考えてつくられているのです。
授業者は、この例が算数の問題としては不適切だということに気づいていました。また、聞いている部分が今までのキーワードと違うのでしっくりきていませんでした。これまでの指導とずれていることが嫌だったので、できるだけ軽く扱いたかったようです。そこに気づけるのですから、もう1歩だったのです。それができなかったのは、問題を解くことにばかり目がいって、算数の概念形成という本質を見落としていたからです。教科書の意味することを理解できていなかったのです。パターンや手順で教えれば目先の問題は簡単にできるようになります。しかし、それではやったことのある問題しか解くことはできません。思考力は育ちません。残念ながらこの授業だけではなく、私が目にする算数・数学の授業の多くはこのことに気づいていないのです。
検討会では、先生の中から、この授業は黒板に教科書を実物投影機で映して、図と対応させながら進めればいいという意見が出ました。その通りです。それを受けて、授業者は、図でばらばらに配置されていて物は子どもがうまく整理できないので、図の物の上にブロックを置いて、それを移動して整理させればいいですねと、とてもよい発想をしてくれました。言葉の違いに気づける感性、ちょっとしたヒントから子ども目線の展開をつくりだせる発想力。とてもよいものを持っています。教科書を読みこみ、視点を少し変えれば大きく進歩すると思いました。最後に、「ブロックの移動は教師ではなく、子どもにやらせるといいですね」とアドバイスをして終わりました。

また、多くの授業で共通して気になることとして、宿題の答え合わせを授業の最初にしていたことがあります。ただ答を子どもが順番に読みあげて○をつけているだけで頭を使っていません。授業の一番よい時間を無駄に使ってしまっているのです。できるだけ早く済ます工夫、思い切って授業時間外で○つけをするといった工夫をする必要があると思いました。

検討会終了後、校長、研修部の先生方とこの2日間で気づいたことについてお話させていただきました。朝礼前の教室、放課中の廊下や運動場、登校、掃除、教室移動の場面での子どもの姿から多くのことに気づけました。子どもたちの持つポテンシャルの高さとそれを活かしきれていないことを先生方にお伝えしました。どなたもとても真剣にこの学校の方向性について考えていただけたように思います。

多くの先生が、時間を割いて授業を参観してくださいました。また、授業が終わるとすぐにたくさんの質問をいただきました。これほど多くの質問をいただいたことは経験がありません。次回は先生方の疑問や質問をもとに全体に対してお話をさせていただくことになっています。どのような質問が寄せられるかとても楽しみです。先生方の前向きな姿勢に応えられるようなお話をできるようにしたいと思います。次回の訪問が今からとても楽しみです。

算数の授業アドバイス

昨日は、小学校の算数の授業アドバイスをおこなってきました。どの学級も教師と子どもたちの関係がよく、よい意見を発表する子どもも多く、レベルの高い課題に挑戦していました。

5年生の合同の授業は、授業者と子どもたちの関係のよさをとても感じました。子どもたちに身近な合同の図形を発表させる導入の場面では、発表者の方を見るように指示を出し、子ども同士が互いに聞き合える関係をつくろうとしています。
2つの図形が互いに合同か迷う場面がありました。授業者は隣同士で相談するように指示を出し、その後、どちらかに挙手をさせたところ大きく分かれました。子どもたちに理由を問うのですが、互いに相手を納得させられません。問題点を焦点化できずに最後は授業者が結論出しました。まだよく納得できていない子どもいたのですが、教師が結論を出すと素直に従っていました。最後に正解を確認する場面ではどの子も大きな声で答を言っていました。教師の正解を素直に受け入れていることがわかります。時間の関係もありますが、教師が絶対者として結論を出すのではなく、子どもたちで結論を出すことをしたい場面でした。
この日のまとめとして子どもたちに合同な図形を見つけるポイントをノートに書かせ、発表させました。間違えた考えもあったのですが、授業者は否定することなく板書しました。とてもよい姿勢です。その後、一つずつ取り上げ子どもに意見を発表させました。正しい考えを知識として知っている子どもも、友だちの考えが正しいかどうかはちゃんと確かめてみなければわかりません。どの子どもも真剣に友だちの発言を聞いています。よい意見がでて、子どもたちが大きくうなずく場面がいくつもありました。残念なのは、その後、教師が「これは違うようだ」結論を出してしまったことです。うなずいている子どもに再度意見を言わせ、間違えていた子どもが納得したことを確認し、子どもたちで結論を出すようにしたかったところです。
子どもの言葉を大切にしようとしている先生なので、子ども同士をつなぐ、結論を子どもにゆだねることを意識すると、子どもたちの考える力はどんどん伸びていくと思います。

3年生のあまりのある割り算の授業は、基礎的な計算力をつけることを大切にしていると同時に、難しい問題にもチャレンジしていました。時間を切って問題を解くなどスピードを重視していました。子どもたちは集中して問題に取り組んでいました。上手にやる気を引き出しています。何問できたか競い合う必要はないのですが、自分の成果を評価する場面、たとえば前回と比べて伸びたといった、自分の進歩を意識させるとよいと思いました。
この日の課題は文章題でした。子どもたちに問題文を読ませるときに数字を大きな声で読ませるようにしています。おもしろい試みです。確かに数字は式を立てるときに必要となる大事な要素なのですが、文章題ではその日本語の部分に式の根拠があります。問題を解くための大切な言葉も意識させるとよいと思いました。
子どもたちのノートを実物投影機で黒板に映して発表させるなどの工夫もしていました。今回は図を使っている子どもが多いので、とても有効な方法です。子どもも一生懸命スクリーンを使って発表していました。ちょっと残念だったのは、発表のあとその考えを全体で確認し共有化する場面がなかったことです。なかなか難しい問題だったので、どうしても、教師が説明してしまうのです。子どもたちは、基礎力もあり、友だちの考えを理解しようとする姿勢を持っていますので、同じ考えの子どもに発表させたり、意見を聞いて納得した子どもに発表させたりする授業に挑戦してほしいと思いました。

4年生は線分図を使って文章題を解く授業の2時間目でした。この時間では、問題を解くのにスモールステップに分けずに一度に解かせていました。線分図と式を書かせて説明しますが、式の値を線分図で確認したり、書きこんだりはあまりしませんでした。前の時間にやったのかもしれませんが、線分図だけをまず押さえて、そこから解き方を考えさせ、見通しを持たせてから、式を立てて答を求める。そういう過程を一度経験させてから、練習に移った方がよかったように思いました。
子どもの説明の中で「そろえる」というとてもよい言葉が出ました。授業者はすかさずこの「そろえる」を使って説明をしました。後で聞いたところ、これはキーワードになると思いその場でとりあげたそうです。予定していなかった言葉をキーワードとしてとらえることができる柔軟さは見事です。しかし、とっさのことだったので、全体にきちんと押さえ確認することは徹底できませんでした。机間指導をしながら押さえようとはしたのでしたが、全員にはきちんと届きませんでした。授業者は、次の時間の最初にもう一度押さえたいと意欲的に語ってくれました。自分の足りなかったところを埋めようとする姿勢は素晴らしいと思いました。
この学級に限らず、できる子どもが、問題を解いた後、時間をもてあましている場面がありました。彼らにどのような課題を与えるかは学校共通の問題のように思います。正解がわかっているので真剣に話を聞いていないと感じる場面もよくあります。しかし、友だちの説明を聞くような場面では集中度が増します。このあたりに問題解決のヒントがあるように思います。
また、授業者は子どもたちの評価をするのに足りないこと、できていないことを指摘する傾向がありました。子どもたちは担任のさっぱりとした性格(お話をしていて個人的にそう感じました)をよく知っているのか、あまりネガティブにはなっていませんでしたが、ちょっと気になりました。思い切ってご本人にお話ししたころ、どのようにして修正したらよいかご自身も悩んでいるようでした。まず、できていることをほめること。本人が自分で気づくように仕向けること。自分で直したらほめることをお伝えしました。前向きに聞いていただけたようで、次にお会いする時にはきっと大きく進歩されていると思いました。

どの授業も自主的に参観する先生がたくさんいらっしゃいました。どなたも、真剣に子どもたちのようすを見られていました。子どもたちからたくさんのことを学ぼうとしていることが、参観後の質問の多さにも現れています。とても充実した楽しい時間を過ごすことができました。校長も終始先生方と行動を共にされ、自ら学ぶ姿勢を見せておられました。研修担当の先生の熱心な姿勢も印象に残ります。話をうかがっていると、学校全体の授業力アップのためにどのようなことが必要か、自分はどのように働きかければよいか、とてもよく考えられていることがわかります。
本日も引き続き授業アドバイスをさせていただきますが、子どもたちも先生方も素晴らしい姿を見せてくれることと思います。

「わからない」にどう対応する

説明のあと、子どもが「わからない」と言ったときどのように対応しますか。もう一度、同じ説明を繰り返しますか。それとも、どこがわからないか聞きますか。子どもの「わからない」にどう対応すればよいか、考えてみたいと思います。

子どもにとって、同じ説明を繰り返されると、「わかりなさい」「この説明がわからないの」とプレッシャーをかけられることになります。そこで、教師は違った説明をするのですが、今度はさっきと異なる説明なので、余計に混乱させてしまうこともあります。いくつかの説明を準備しておくことは大切ですが、子どもに応じてどのように説明するかは難しいものです。

一方「どこがわからない」と聞くことは悪い対応ではありません。しかし、どこがわからないか自分で言えることはかなり高いレベルです。答えられないことも多いはずです。そこで、算数や数学などでは「ここまではわかる?」とステップごとにどこがわからないか、どこまでわかったか確認していくことになります。一つひとつ確認していって最後まで「わかった」はずなのに、「わかったね」と聞くと、「わからない」と返ってくることもよくあります。
こういう場合、子どもは「なぜこんなことを考えるのか」と課題そのものの必然性がわからないためにつまずいてしまっていることが多いようです。子どものわからないと、教師の説明がずれてしまったわけです。子どもが何につまずいているのか見つけることは、経験ある教師にとっても難しいことです。

色々な説明を試みる、子どもがどこでつまずいているか見つけて説明することは有効な手段の一つですが、発想を変えて子ども同士に任せるという方法もあります。
「わからない人は他にもいるかな」とたずね、「どこがわからないか教えて」と聞きます。どこがわからないか答えられない子どもがいても、他の子どもから引き出すことができます。
「助けてくれる人いる」と子どもに説明させると教師の説明よりもすんなり理解してくれることもあります。説明を聞いているようすを客観的に見ることができるので、どこにつまずきがあったのかもよくわかります。
説明できる人がいない、わからない子がたくさんいるのであれば、グループやまわりの子どもで相談させることも有効です。友だちと相談してわかった子どもに全体で発表させ、何人かに補足させると、つまずいていた子どももよくわかるようです。

わからない子どもをわかるようにするのは教師の務めです。そのため、教師はわからせなければならないと説明しすぎる傾向があります。教師が一生懸命に説明すればするほど子どもにプレッシャーがかかり、子どもが引いてしまうこともよくあります。ちょっと肩の力を抜いて、思い切って子ども同士に任せることも大切です。教師が思う以上に子どもたち同士でわかりあえるものです。

算数の授業検討会で指導(長文)

昨日は小学校の算数の授業研究に参加しました。授業に先駆け校長・教務主任と教室のようすを見せていただきました。子どもたちは素直で落ち着いていましたが、授業における子どもたちのかかわり合いが少ないと感じました。1問1答が多く、教師との1対1の関係が中心でした。子どもの言葉を活かそうという意識は授業からはあまり感じられませんでした。
また、体は起きているのですが子どもたちが聞くことに集中していない場面も目にしました。教師が子どもたちに望んでいるのが、席について体を起こすところまでで、教師を見てしっかり聞くことを求めてはいないのです。若い教師が、板書しながら黒板に向かってしゃべっている場面も多く見ました。チョークの持ち方も鉛筆のように持っています。子どもを見るということはどういうことか、一度整理する必要を感じました。
ハンドサインを利用している授業が多かったのですが、ほとんどの子どもが賛成のサインを出すと、授業はそのまま進んでいってしまいます。賛成、反対、意見ありといったサインを何もだせない子どもがいても、その子に判断をうながしません。それでは、ハンドサインを出させる意味がありません。「わかった?」「はい」と全く変わりません。ハンドサインについては、どう活用すればよいのか学校全体で考える必要がありそうです。

算数の授業研究は、折れ線グラフの下部を省略して目盛りを拡大する工夫を学ぶところでした。子どもの言葉を活かす、デジタル教科書を活用するという授業に挑戦してくれました。
授業者と子どもの関係はよく、子どもたちは真剣に取り組んでいました。導入でグラフをかく場面は、目盛りが細かくてうまく書けないこと、変化がわかりにくいことの2つを気づかせることに活動を絞り切れず、時間を予定より使いすぎてしまいました。そのことがその後の展開に影響しました。

「わかりやすいグラフにするためにはどうすればいい」と子どもたちに問いかけたところ、何人かが挙手しました。1人の子どもは目盛りの表示を表の数の近くにすればよいという表現をしてくれました。しかし、うまく整理できてないので授業者は、「まあいいでしょう」と言って、「つまり○○君がいったのは・・・」と勝手に解釈してしましました。子どもは自分の考えとは違うと感じたようでした。再度その子に確認したところ、違う表現をしました。私は最初の彼の言葉をとても面白く思ったのですが、結局消えてしまいました。次の子どもは、扱っているのが人の体温だから、0度や10度にはならないから省略するという発言をしました。多くの子どもがハンドサインで賛成を示しましたが、このことの意味することを全員がわかったとは思えません。子どもは言っている日本語は理解したのですが、それが算数としてどのような意味を持つのか、どのような工夫につながるのかは理解していません。あとから、整理したかったのかもしれませんが次の子どもに発言を求めました。この子どもは、37.3度だったら37度に近い数にするという考えを発表しました。授業者はとりあえず「なるほどね」と受け止めて黒板に書いたのですが、どう処理していいか困惑していました。導入で時間を取りすぎたこともあり、「実はねえ・・・」とデジタル教科書を見せることにしてしまいました。最後の子どもの意見だけでなく、前の2つの意見も活かすことができずに進みました。ここで、これらの意見を捨ててしまったことが次の場面に影響を与えました。

デジタル教科書は、グラフの目盛りを下に伸ばし、はみ出る下の部分を波線で省略するようすを、連続したアニメーションで見せてくれます。これを見せると子どもたちは「おおっ」とよい反応示すのですが、気づいたこと問いかけて出てくるのは、「グラフの変化がわかりやすくなった」といった、変化のようすに関することばかりです。「ビヨーンとなった」「伸びた」「目盛りが広がった」といった言葉が出てこないのです。これは、先ほど子どもから出てきた「目盛り」を授業者がすてたこと、「実はねえ・・・」という言葉に否定的なニュアンスがあったことから、「目盛り」はどうやらここでは求められていることではないと思ったのでしょう。その結果、授業のめあてである、「変わり方がよくわかるグラフをかこう」に強くひっぱられた意見になったということです。

また、波線による省略部分を焦点化しようとするのですが、省略された目盛りは波線の下にある、という意見が出てきて少し混乱してしまいました。実はデジタル教科書では波線の間の部分はきちんと方眼の縦横の線を消しているのですが、教科書ではそのまま残しています。ディスプレイがやや小さく、細かい線が見にくかったので、子どもたちは教科書を見て考えていたのです。授業者はそのことに気づいていなかったので、子どもたちとずれてしまったのです。

2つのグラフを比較して考えをノートに書く場面では、子どもたちは想像以上によく書けていました。日ごろから考えを書くことを鍛えられている証拠です。子どもたちの意見を板書していきましたが、最後に授業者が、「下の方を省くとよくわかる」とまとめてしまいました。まとめを子どもの言葉でつくりたかったのですが、教師の言葉になってしまいました。

検討会では、最後のまとめは「目盛りの間隔を延ばすとグラフがわかりやすくなる」ではないかという意見が出されました。もっともな意見です。なぜ授業者は「省略」こだわってしまったのでしょうか。実は、指導書は「省略の印を使うことで・・・」とまとめています。そこに授業者は影響されていたのです。指導書はデジタル教科書を使うことを考えてつくられていません。子どもたちが「変化をわかりやすくするのにどうする」という課題に行き詰ってから省略の印の波線の入った方眼紙を与えて、これを使う意味を考えさせるという展開なのです。ですから、「グラフの下の部分を省略することで、・・・」というまとめになっているのです。思考の基点がそこだったからです。一方デジタル教科書では目盛りを伸ばすことを起点にしていたので、当然まとめ方も変わるべきだったのです。

また、指導書の展開を理解すれば、教科書のグラフで省略の印の波線部分の間が消されていなかった理由はすぐに理解できると思います。教師が波線の間を消した方眼紙を準備することはとても大変です。教科書で消されていると、そこにこだわる子どもが出てきます。そうならないように、教科書も消していなかったのです。
そのほかにも、教科書とデジタル教科書には微妙な違いがあります。デジタル教科書では下に伸ばすということから、グラフの最大値は40度のままになっています。しかし、教科書では、データがうまく収まる範囲だけ書けばよいという考えで進めていますから、最大値は39度あたりにしています。もし、教科書のグラフで比較を考えるのなら、ここにも気づかせたいのです。
いずれの教科書を使うにしても、教科書をきちんと理解することはとても大切になります。私自身もあらためてそのことを実感させてもらいました。

授業者は子どもの意見をうまく処理できず、とりあげられなかったことをよくわかっていました。その場面からあと余裕を失くして、それまでしっかり意識してつくられていた笑顔がなくなったこともちゃんと気づいていました。自分自身でしっかり気づけているので、大丈夫です。このような教師は毎日の授業で着実に進歩していきます。次回の訪問でどのように進歩しているかとても楽しみです。

検討会の場を借りて、いくつかの授業改善のヒントを話させていただきました。最後に校長が「百発一中」という私の言葉を紹介して、若手に何か一つ変えてほしいと伝えました。具体的にたずねたところ、「笑顔を大切にする」「チョークの持ち方を変える(板書中に子どもの顔を見る)」「導入を3分で済ます」など、それぞれが実行できそうなことを明確に言ってくれました。このような問いかけをできる校長の指導力に感心しました。

この日校長と教務主任は終日私のそばにいて話を聞いてくださいました。すこしでも他者から吸収しようとする姿勢はとても素晴らしいと思いました。学校をよくするためにどうすればよいかを常に考え続け、勉強されていることがよくわかります。このような学校のお手伝いをできることをとてもうれしく思いました。次回は、他の先生方ともたくさんの時間を一緒に過ごしたいと思います。とても楽しみです。

中学校で講演

昨日は中学校で講演をおこないました。先週見せていただいた授業をもとに、言語活動を活発にするためのヒントをお話させていただきました。

言語活動を活発にするということは、子どもたちの活躍の場をつくることにつながります。この活躍という視点で子どもたちの活動をとらえると、大切になるのは、他者に認められること、他者の活動に影響を与えるということです。子どもの発言を評価して、その言葉を活かすことが求められます。
子どもの発言内容にかかわらず、教師が自分の言いたいことを一方的に説明すれば、子どもは自分の発言が認められたとは感じません。このようなやり取りを続ければ、次第に積極的に発言しようとはしなくなります。また、教師が発言をまとめれば、教師のまとめを聞くことが一番効率的な学習になります。それでは、友だちの発言を聞くようにはなりません。「今の意見、なるほどと思った人」「同じような考えの人いる」と子どもの発言をできるだけ活かそうとすることが必要です。
子どもが発言してくれない大きな原因は、教師が正解を求めるからです。正解を求められれば、自信がないと答えられません。わからない子は発言することができません。そうではなく、「どんなことを考えた」「何をやってみた」「困ったことない」と過程を聞くようにすれば、どの子にも発言の機会を与えることができます。また、安心して発言できる雰囲気をつくるためには、どんな発言でも「なるほど」と認め、たとえ間違いでも友だちの発言を聞いて修正する機会を与える。うまく言えなくても「まわりの人助けてあげて」と失敗で終わらせない、最後は必ずほめる、認められるようにする。このようにすれば、子どもの発言は必ず増えていきます。
また、教師は時間がないことを理由に一方的な説明をする傾向があります。しかし、教師が説明すればそれでわかるようになるわけではありません。子ども同士が互いに言葉を足しながら、たどたどしい説明をする方がよくわかることもあります。自分の言葉で話すことで、理解できることもあります。授業を見ていると、多くの場合一人の子どもの発言に対して、教師はその3倍以上の時間しゃべります。その時間を減らせば、多くの子どもに発言の機会を与えることができるのです。一方教師は、説明はするのですが、子どもが理解しているか確認をしない傾向があります。「わかりましたか?」「はい」では、確認になりません。子どもに出力を求めなければいけないのです。

このような内容をできるだけ具体的な場面をもとに話させていただきました、うまく伝わったでしょうか。先生方が子どもとの接し方をほんの少し変えるだけで、この学校の子どもたちは大きく変化すると思います。積極的に学ぼうとする姿を見せてくれると思います。先生方がその一歩を踏み出す勇気を持ってくれることを願います。

再び、ICTの活用について

ICTを活用した授業を論じるとき、その特性や利点ばかりが言われたり、逆に、授業の本質はここであって、ICTはそこには役立っていない、それよりももっと授業の中身を考えるべきだと言われたりします。また、ICTがなくてもできる、わざわざ使う必要はあるのかということも、よく言われます。この議論は、微妙にかみ合っていないように思います。トータルに見て、ICTがそのコスト(準備等の労力)に見合っただけの効果があったかどうかが問われるべきだと思います。
以前ICTの活用について書きましたが(ICTの活用について考える参照)、このことについてもう少し整理してみたいと思います。

たとえば、社会科で子どもたちに、「あれ?」「どうなっているの?」「知りたい!」と疑問や興味を持たせる場面を考えてみましょう。どのような資料を見せるか、どういう発問をするかを考えることが第一になります。どんな資料があるか、どんな資料があればよいか、そのような知識の有無が絶対的な授業の質に影響します。名人であれば素晴らしい資料と発問で子どもたちを見る見る引き込んでいきます。しかしだれもが名人というわけではありません。なかなかよい資料が見つからないかもしれません。それでも、少しでも子どもたちを目指す姿に近づけるための手段の一つとしてICTのような道具があるのだと思います。
同じ写真でも、モノクロで印刷して配るのと、カラーで大きく映して見せるのではその効果は変わります。友だちの気づきを手元の写真で確認しても、なかなかみつからないこともあります。経験の浅い教師だと「見つかった?」と聞くだけで全員が見つけたか確認せずに進むこともあります。参加できない、よくわからなければ、子どもたちは興味を失っていくかもしれません。ベテランであれば、「まわりの人とたしかめてごらん」と子ども同士で確認させることで、なんなくクリアしてしまうかもしれません。
一方、スクリーンに大きく映せば、全員の顔が上がります。友だちの気づきもスクリーン上で共有することで、全員に瞬時に伝わります。子どもたち同士がつながり、誰もが参加することで、疑問や興味も共有しやすくなります。
この例では、ICTは必須ではありません。しかし、授業者によってはICTを活用することによって、この場面での本質、子どもに疑問や興味を持たせることを実現するために大いに役に立っているのです。

では、子どもが黒板に解答を書く代わりに、実物投影機を使ってノートを映すことを考えてみましょう。子どもが黒板に解答を書く時間は、よほどの工夫がない限りあまり意味のある時間とはなりません。この時間がなくなるだけで、多くの時間が生まれます。この活用自体は先ほどの例と違って授業の本質とは直接関係がありません。しかし、これも立派なICT活用です。授業によっては、子どものかかわり合いのための貴重な時間を生み出してくれた、一番の功労者といえるかもしれません。

授業をよりよくするという視点でICTの活用を考えると、教師に求められることは大きく2つだと思います。ICTで何ができるか、どんな利点があるが、その具体例を知ること。もう一つはICTを使う以前に、その授業で何が大切なのか、その実現のために何が課題になっているかを明確に意識できていることです。後者の視点では、その課題がすでに解決されてしまっているとICTを活用する必然性はありません。名人がその典型です。しかし、多くの教師にとっては解決されていない課題があるはずです。そのすべてがICTで解決できるわけではありませんが、有力な道具となるはずです。時間がないといったある意味本質でない課題でも、それを解決することで本質的な問題の解決につながることもあります。また、ICTを使わなくて解決できている課題でも、ICTのよさを知ることで、それをより簡単に実現したり、よりよいものに変えたりできることがあります。

ICTという道具の出現で、前者がクローズアップされました。それに対抗するように後者の視点も授業の本質といった表現で強調されてきました。これらは相反するものではなく、互いがからみ合うことで、よりよい授業の実現につながっていくものだと思います。

算数の授業研究

昨日は、小学校で算数の授業研究に参加しました。4年生の「式の読み方」でした。

事前にお会いした時にお願いしたように、授業者は終始明るい表情で、教室はとてもよい雰囲気でした。たくさんの先生が参加される中でも、子どもたちは集中して取り組んでいました。
碁石の数を求める問題で、式と図での考え方、言葉での説明をつなぐ内容です。まずは式と図をつなぎ、それから言葉で説明するという流れでした。○つけ法を実施することで、多くの子どもは自信を持って挙手しました。しかし、図と言葉の説明については、手がつかない子も多く、一人の子どもが説明した後、あらかじめ用意しておいた教師の解答を黒板に貼って終わってしまいました。授業者は子どもたち全員が言葉で説明できることを期待していなかったようでした。図の意味は式と結びつける、言葉と結びつける、それぞれをすることで理解できます。相互に行き来することが大切です。
TTの授業で、○つけも2人でおこなっていたのですが、つまずいている子どもの指導に時間が取られ、なかなかスムーズにまわることができていませんでした。

協議会は、4つのグループで話し合っていただきましたが、予定した時間になっても話し合いは熱心に続いていました。どのクループも○つけ法について多くの意見が出ました。

・○をつけてもらったので子どもたちが自信を持って手を挙げていた
・○をつけるところが多いと時間がかかるので難しい
・できたら手を挙げてと指示をしていたが、なかなか○をつけにこないので、その間、子どもたちは何もできずに待っていた
・できない子どもに説明していて○つけが終わるまでに時間がかかっていた
・・・

この授業での○つけ法のよかった点、問題点がたくさん指摘されました。よく見ています。しかし、だから○つけ法が有効な場面とそうでない場面があるというように考えられていました。まだ、○つけ法の基本・ポイントを理解されていないようです。
私からは、○つけは何問も同時にするのではなく、1問に絞ること。どの1問にするかが教材研究として大切であること。また、スピードが大切で、間違えた子どもへはできているところまでを認めて、間違いを簡潔に指摘したり、素早く次の1手を指示したりして長くかかわらず、後でもう1度まわってあげること。できたら挙手をするといった指示は、必ず全員に○をつけることが原則なので不要であることなどの基本的なことを説明しました。

図での説明と式を結びつけることができている子どもは多かったが、言葉での説明ができていない子どもが目立ったことも指摘されました。
このことについては、子どもの発言を受けて、教師が一方的に説明してもなかなか理解できないこと。どの子ども理解するようになるためには、子どもの説明を「今の説明、なるほどと思った人」「かわりに説明してくれる子いる?」と子どもにつなぎ、子どもが言葉を足し、自分たちの言葉で考えていくことが大切であることを説明しました。
限られた時間の中で、どれほどのことが伝わったかわかりませんが、どの先生も非常に真剣に聞いてくださり、授業改善への熱意が伝わりました。

この授業は2時限だったのですが、その直後、校長が同学年の先生にこの授業についての改善点を話されたようです。中の若い先生が、「やってみます」と次の3時限で同じ授業に挑戦してくれました。その授業を少し見たのですが、とても素晴らし場面がたくさんありました。一人の子どもの「2が6あることだから・・・」という説明に対して、他の子どもが「○○さんとほとんど同じですが、2のまとまりが・・・」と言葉を足してくれました。他の子どもも大いに納得したので、授業者は「これでわかった、説明しなくていいね。では・・・」と子どもの言葉だけで次に進みました。ここは、教師がもう1度自分で説明したくなるところですが、それをしませんでした。ベテランでもなかなかできないことです。子どもたちは、自分たちの言葉だけで説明されたことがやる気アップにつながったのか、いつもに増して集中して問題に取り組んだようでした。このほか、子どもの発言をうながす場面で、「教えてください」とIメッセージをうまく使うなどして、子どもたちととてもよい関係をつくっていました。
授業者と少し話す時間をいただきましたが、とても素直で前向きな方でした。これからもどんどん進歩していくことでしょう。次回訪問時にまたぜひ授業を見せていただきたいと思いました。

学校全体としてみれば、まだまだ改善点はたくさんありますが、よい芽もたくさんあることがわかりました。しっかり水を与えれば立派な花が咲くことと思います。私が毎日水をやることはできませんが(たまに肥料をあげる程度)、校長や教務主任がきっと大切に育ててくれることと思います。この学校の今後が大変楽しみになりました。とてもよい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。

校長の勉強会と愛される学校づくり研究会に参加

先週末は、校長の勉強会と愛される学校づくり研究会に参加しました。

勉強会は、日ごろ語られることのない学校経営・リスクマネジメントの背景・裏側をたくさん聞くことができました。
私はたくさんの校長とお話する機会がありますが、感じることは、校長は孤独になりやすいということです。下手に相談すれば、相手によっては命令とも取られかねない。相談することで相手を不安にさせるかもしれない。そのため、どうしても一人で考え込んでしまうのです。今回の勉強会のように校長同士で互いの経営をオープンにして語り合うという機会はなかなか持てません。そういう意味でもとても面白い会でした。

校長の学校経営に関するスタンスは色々あると思いますが、私が感じるのは大きく2つです。過去の路線を踏襲し、できるだけ無難に過ごそうとする「無事これ名馬」型、現状維持は後退と考え、常に改善、進歩を目指し、「打たれても出る杭」型です。一概にどちらがよいとは言えませんが、今の時代は後者が求められているように思います。当り前と言えば当り前ですが、私を呼んでいただけるような学校の校長は後者がほとんどです。改善点の無い学校はありません。たとえ目に見える大きな問題がなくても、学校をよくするために何をすればよいか考えることが、校長には求められると思います。
こういう場に積極的に参加し、学び合う姿勢こそが学ぶべきことなのかもしれません。

話題の一つに、先日の台風時の下校の判断がありました。共稼ぎや片親の家庭が多く、子どもを早く帰宅させてもかえって不安な地域もあれば、校区が広く、子どもの帰宅に時間がかかるため早めに下校させなければならない地域もあります。一律の判断はできません。だからこそ、各校長が判断することになっています。いつ下校の判断をしたかと結果を気にする方も多いように聞きましたが、その判断の根拠・過程こそが大切であると思います。今回、各学校のそこのところを聞くことができ、なるほどと納得させられることがたくさんありました。

愛される学校づくり研究会の前半は、先日のフォーラムのまとめの書籍に関する検討でした。ICT活用の提案に関する章の内容について、この章の取りまとめを任された私が司会をさせていただきました。私自身、方向性が揺れていたので、とりあえず皆さんがフォーラムで思ったことを聞かせていただきながら、落とし所を探ろうとしました。
授業の一場面を切り取ったICT活用の提案をするのか、授業の本質に基づくICT活用とは何かを提案するべきなのか。私の心の揺れを反映したのか、皆さんの意見も動きます。その中間を落とし所として探っても見たのですが、なかなかうまくいきません。結局、この議論そのものが、ICT活用を考えるための指針となるという考えから、全体の取りまとめの先生が、自ら執筆すると宣言して何とか収まりました(ありがとうございました<(_ _)>)。
その内容がどんなものになるかは、出版を楽しみにしていただくとして、反省は、当日のフォーラムに参加されていない方には、議論のもととなる具体的な活用がイメージできなかったため、議論が抽象的すぎてついていけなかったことです。そこに配慮ができなかったことを申し訳なく思いました。

後半は、何かと話題のフューチャー・スクールの実践報告を聞かせていただきました。司会者の「厳しい、普通、優しいの、どれでいきますか?」という前代未聞の振りから始まった意見交換は、厳しいけれど、実践がよい方向に進んでほしいという思いがこもっていたように感じました。率直な意見がでるこの会での報告を引き受けたということは、自分たちの実践をより高めたいという強い思いがなければできません。たとえ厳しい意見でも、まず素直に受け止めようとする校長・教務主任の姿勢にとても感心しました。だからこそ、中身の濃い意見交換ができたように思います。

この日も終日、たくさんのことを学ばせていただきました。このような機会に恵まれていることに感謝です。

授業研究に参加(長文)

昨日は中学校の授業研究に参加しました。もう何年もおじゃましている学校ですが、子どもたちが落ち着いて学び合える学校になってきました。この日は、2年生の英語の授業でした。

コミュニケーションを重視し、「Clear Voice」「Face To Face」を目標にしていました。昨年度のようすから子どもたちの人間関係は悪くないはずなのですが、笑顔が少なく感じました。自分の夢を英語で話し、ペアの人が聞きとるという場面では、通常はかかわり合いが起きて表情がよくなるところですが、あまり表情がさえません。4人グループでの活動は、友だちの夢を英語で紹介し他のペアがそれを聞きとるというものでした。こちらの方は明らかにペア活動よりも表情が柔らかくなっていました。この状況の違いは、課題や指示の構造的な問題が大きく関係していました。

本来ペアでの活動はグループと違って1対1で逃れられない厳しい関係にあります。今回は、相手の話すことを聞きとってメモをするという、ある意味、出題者と解答者の関係です、気軽に教えてとは聞けません。聞き返すのも「Could you ・・・」と丁寧で長い文を使うということになっていたのでハードルも高かったのです。もう一つの問題は、子どもの夢が「I want to be ・・・」と職業で語られていたことです。子どもたちは自分のなりたい職業を教師が用意した単語一覧から拾っていますが、聞く方はまず知らない単語が出てきます。聞きとるにしても、書くにしても苦しい状態になります。話す方も覚えて話すのに精一杯で、相手の顔を見る余裕がありません。聞く方もメモしなければならないのでずっとワークシートを見ている状態でした。互いにかかわりあえなかったのです。
一方グループの活動では、発表に対して、その内容を1番よく知っている発表者のペアがフリーでかかわれます。職業の単語がよくわからない友だちに、職業の単語一覧を使ってこれだよと教えています。聞く方のペアは同じ立場なので気軽に相手に聞いたり、互いのメモを見合って確認したりできます。かかわりが発生しているのです。だから、表情がペアの活動よりよくなっていたのです。
ペア活動の場面では、書くことは後にし、「I want to ・・・」に対し「You want to ・・・」と主語を変えて復唱し、それに対して「Yes,・・・」「No, I want to ・・・」と進めるなど、互いがかかわり合える構造にしていく必要があると思います。

続いて、全体で発表し合う場面です。ここでは自分の夢を発表してもらい、その内容を、主語をかえて「She wants ・・・」と全体で言いかえる活動でした。子どもたちは、今まで友だちの夢を発表して、それを聞きとることをしていたので、意外そうでした。発表のハードルは下がったのですが、今まで頑張ってきたことが活かされないので、ちょっと意欲が落ちたように感じました。
教師が指名して発表させ、それを全体で言いかえさせますが、なかなか全員が口を開けて大きな声を出せません。全員に発表させたいためでしょう、1回言ってはすぐ次の発表者に移ります。最後になってだんだん声が出るようになりましたが、子どもたちが一番しっかりと「Clear Voice」で言えたのは授業終了時の英語での挨拶でした。いつも言い慣れて自信を持っているからです。子どもたちはここまでやれるはずです。これを目標にするべきなのです。
1回言って次に進めば、自信のない子は声を出す機会がありません。声を出せなくても、だれも困りません。こういう状況であれば、なかなか頑張ろうとはしません。全員が口を開くまで何度も同じことを言わせることが大切です。わかっているけれど自信がなくて声が小さい子に対しては、うなずいて見せるなり、いいよとOKサインを出したりしてしっかり声が出せるように励まします。TTであれば、T2が子どもの中に入って励まし役をするのもよいでしょう。最初はよくわからない、できなくても、友だちの声をよく聞いてまねをすれば評価される。自分が参加するのを待ってもらえる。自分がちゃんと声を出さないと先には進まない。だから頑張る。このような姿を目指してほしいことを伝えました。
また、この全体での活動中、子どもが一番緊張したのは、一人の子に「わからなければ聞き返して」と先生がせまったときです。全体で答えればいい「みんな」という、ある意味無責任な状態から、「あなた」という個人になることを求められたからです。自分が指名されることも想定して、みなその子の答に注目したのです。このことからもわかるように、個人を指名したり、全体の場で個人と個人でやらせてみたりすることもとても有効な手段です。自分が指名されることを意識すれば、指名されなくても集中してやり取りを聞き、主体的に参加するのです。

もう一つ気づいたことは、できる生徒の活動量が低いということです。自分の発表文をつくる場面、ペアでの活動の場面、いずれにしてもすぐにクリアして緩んでいます。全体での言い換えの場面でも、あまり口を開いていません。決まったパターンでの練習で、わかりきっているので参加する意味を感じないのでしょう。誰もができるようにと課題を低めに設定すると上位の子どもが参加しなくなってしまいます。どちらかと言えば課題は高めの方が有効です。苦しい子も助けてもらえばできるので、クリアすることは可能です。できる子は助けることでより高度な課題に挑戦することになるからです。

授業後の検討会は子どものことをよく見て、とてもよい気づきがたくさん語られていました。途中で各グループの話題を発表し合うことで、後半はグループ間で共通の話題が増えました。それを全体で共有することで学びは深くなったと思います。この学校に初めておじゃましたころと比べると確実に進歩しています。とてもよい指摘、なるほどと納得できる指摘がたくさんありました。しかし、ともすると第三者的な立場で話していると感じることがありました。この授業に対する指摘に終わり、そこから自分の授業、自分たちの授業にどう活かすか、どう反映していけばよいと思ったのかがあまり語られないのです。学んだことを自分たちの授業にどう活かすかが大切です。このことに皆さんが気づいてくれれば、学校全体のレベルアップにつながると思います。

検討会終了後、授業者と話をしました。
非常に素直に皆さんからの指摘を受け止めていました。この姿勢があれば確実に成長していくと思います。授業者の思いが明確で、子どもたちとの関係も良好だからこそたくさんのことが学べたと思います。

校長、教頭、教務主任の先生とそれぞれお話して、3人とも授業を大切にする学校を目指して、それぞれが課題を持って学校経営に取り組んでいることがよくわかります。昨年、今年と人事面では厳しい状況にありますが、きっと乗り越えられると思います。私もたくさんのことを学べた1日でした。

授業研究の打ち合わせと授業力向上研修(長文)

昨日の午前中は、来週参加する小学校の授業研究のための事前打ち合わせをおこないました。校長から学校の現状と授業改善に対する思いをうかがいました。自身がとても授業を大切にされていることも、その授業力の高さもよく伝わりました。しかし、校長の授業力が高ければ先生方の授業力が高まるわけではありません。校長が直接働きかけるべきこと、誰かを使って働きかけるべきことを明確にし、先生方が変わろうとする仕掛けをつくっていく必要があります。そのことをはっきりと意識されているので、私に期待されていることは何かがよくわかりました。
打合せの後、子どもたちのようすを少し見せていただきました。子どもたちが落ち着かない、授業規律の維持が大変であるといった問題点を事前にうかがっていましたが、その原因は、子どもではなく、教師の指導のありよう、子どもたちとの関係のつくり方にありそうだと感じました。教師が子どもに求めるものが、とりあえず大人しくしていればよい、言うことを聞けばよいというもので、それ以上は求めない。逆にそこが崩れることに対しては過剰に反応して、子どもを押さえる。そのような状態ではないかと推察します。大切なことは、子どもたちに求める授業規律を学校全体で明確にし、徹底することです。注意するのは、この徹底を勘違いしないことです。常に強圧的に命令し、できていない子を叱ることではないのです。足りない部分を指摘するのではなく、できたところまでほめる、子どもたちの進歩を認めることで徹底していくのです。このことを先生方に伝え、納得していただくのがこの学校での私の仕事の第一歩だと思いました。

午後からは、市主催の授業力向上の研修会でした。各小中学校から1〜数名が参加するもので、その代表が授業をおこない、その後検討会をするという形式です。小学校3年生の国語の報告文の授業でした。自分が見つけた記号をある観点で分けて報告文をつくるための材料とするというものです。

授業者は教職6年目の方でしたが、子どもたちの表情を見るだけで、教師との関係がよいことがわかります。授業開始の挨拶の時点で、授業規律がしっかりと確立されていることが印象付けられます。その秘密はすぐにわかりました。黒板拭きに使った雑巾が片づけ忘れられていました。授業者は、「きれいにしてくれてありがとう」と言って、ちょっと大げさに雑巾をつまみあげて片付けました。子どもたちから笑顔と軽い笑いが漏れます。開始早々注意されるのとは大違いです。この1時間の授業の中だけでも何度もありがとうの言葉が聞かれました。子どもを常に認めよう、ポジティブに評価しようとしているのです。
また、本時のめあてを読ませる場面で、全員がしっかりと手を挙げました。通常、この学級のように教師と子どもの関係がよい場合には、子どもたちは指名されようとテンションが挙がることが多いのですが、思ったより落ち着いています。自分が指名されなくてもちょっと残念がるだけで、大げさにがっかりしたりしません。不思議に思っていると、次々に挙手と指名が繰り返されました。この日は3人でしたが、多いときには6人くらいにチャンスを与えるそうです。何度もチャンスがあることを知っているので子どもは落ち着いて待てたのです。
話を聞かせるときなど、一旦切りをつけたいときには「サインを送って」と声をかけます。子どもたちは姿勢を正すことで、聞く体制ができていることを示すのです。これに限らず、色々な場面で子どもたちに外化を求めています。そして、そのことをきちんと評価しています。子どもたちをほめる機会をたくさんつくっているのです。
こういった授業技術を誰に教わるでもなく、自分で工夫したと聞き、このことにも驚きました。

この研修は5年以上続いているのですが、今年は例年に比べて若い方(経験年数10年未満)が多く、この授業からどんな気づきをするのかとても興味がありました。
まず驚いたのが、皆さん非常にしっかりと子どものようすを見ていることです。付箋紙にたくさんの気づきが書かれています。子どもの事実と授業者の働きかけの関係きちんと意識しています。各学校の日ごろの授業研究の質の高さがうかがえます。各グループからの発表は、この授業のよさ、学ぶ点をしっかり押さえています。その上で、より高いところを目指すためにどうすればよいかを考えていました。あるグループが「授業がとても素晴らしかったが、あえて指摘すると・・・」と前置きしていましたが、とても素晴らしい授業だったので多くのことに気づけたのです。
各グループからの指摘は私が解説しようと思っていたことばかりでした。このようなことは非常に珍しいことです。皆さん若いのにもかかわらずとてもレベルが高いことに感心しました。このような若手が育つ環境をつくっている市のお手伝いができていることをとてもうれしく思いました。

皆さんの指摘をもとに、次のような解説を少しさせていただきました。

作業の説明をする場面で、子どもたちが困らないように丁寧に説明していました。しかし、やや抽象的な説明が続くため子どもが理解できたか不安です。ほんの一部ですが、集中力を失くし始めている子どもがいました。さあ、いよいよ始めるかと思ったとき、今度は、作業の最初の部分を、1ステップずつ指示を出しながら進めました。もちろん子どもたちは指示通りに動くのですが、結局最初の説明があまり意味を持たなくなりました。その後作業を続けていると、子どもの手が挙がります。作業に関してわからないことを質問するためです。次々手が挙がるのですが、授業者は全部の子どもをまわりきれません。子どもたちはおとなしくじっと手を挙げたまま待っていました。
教師との人間関係がよいと、子どもは教師の求めに応えたい、教師の指示した通りにやりたいと強く思います。また、質問すると教師を独占できるので、ちょっとしたことでも質問しようとします。最初は少しだった質問が、どんどん増えていくのです。しかし、その一つひとつはあえて質問するようなレベルのことではなかったのです。
説明については、過去の授業での経験を子どもたちから出させ、それと関連づけたり、全員で、一度実際にやってみたりすることで、子どもたちを受け身にしないで済みます。質問については、教師の説明不足など、全体で確認すべきことであれば、一度作業を止めてちゃんと話すことが必要です。また、まわりの人と相談したり、確認したりするように指導することで、教師に頼らなくなっていきます。

グループの活動の課題は、自分が選んだ仲間分けの観点と、その観点で分けたものを発表するというものです。聞いている子の目標は感想を言うこと。より高い目標は、その観点での他の分け方についてして指摘することでした。しかし、この課題では、ただ発表するだけで、グループ活動によってその内容が高まることはありません。たとえ、別の分け方を指摘されたとしても、このあとの報告書を書くという活動には影響はありません。グループ活動の課題としては疑問です。子どもたちのようすも、話者に顔は向けているのですが、体はまっすぐに立っています。聞く形はとっているのですが、聞こうとする意欲は高くないのです。子どもたちにとって聞く必然性のある課題、聞くことで他者に認められるような課題が求められます。
また、司会者を決めていたのですが、グループでの活動では特に必要がありません。司会者に進め方を書いたカードを渡していましたが、そのカードを読んで司会をしている子がほとんどでした。友だちを見て話すことが大切なので、カードを見ないで話す、覚えておいてわからなくなったらカードを見てもよいなどと指示をすることが必要です。

研修終了後、授業者としばらく話をしました。
授業者は他者からの指摘を本当に素直に受け止めていました。これだけきちんと子どもとの関係をつくれるので、次の目標として子ども同士をつなぐことを意識してほしいことを伝えました。今回、授業をやって本当によかったと話してくれたことをとてもうれしく思いました。今回の研修には直接関係ないのですが、この学校の教務主任が最初から最後までずっと参加していました。この研修から学んだことを自校の研修に活かそうとする前向きな姿勢が素晴らしいと思いました。このような環境が、今回の授業者の姿につながっているのでしょう。充実した研修で、私もとても多くのことを学ぶことができました。皆さんに感謝です。

講演の事前打ち合わせと授業見学

昨日は、来週おこなう講演の打合せとそのための授業見学で中学校を訪問しました。

言語活動の充実を重点目標として取り組んでいる学校で、講演も言語活動に関連した話を予定しています。しかし、授業を見ていて、先生方が言語活動のよさをあまり感じていないのではないかと疑問を持ちました。教師の説明の時間が長く、子どもたちが集中できていない場面が目につきました。子どもの集中力が高まるのが、実験や実技などこれから自分たちが活動することに対する説明の場面ですが、それも教師の話が長くなると集中力が落ちてきます。基本的に子どもが積極的に活動する時間が少ないのです。

子どものつぶやきを拾う場面もあるのですが、それを受けて教師が説明したり、結論を与えたりしてしまいます。その言葉をもとに、他の子どもたちと一緒に考えるような展開にはなりませんでした。

子どもたちの表情が柔らかくなる場面は、教師に笑顔が出ているときです。特に1年生では、小学校で教師との関係がよかったのかその傾向が強いように感じました。逆に、教師のテンションが高く、声が大きい授業では子どもが集中せず、顔を上げていても聞いていない子どもが目立ちました。子どもからすれば、教師の説明を理解しろ、わかりなさいという強い圧力となり、結果として拒否的な態度をとるようになります。教師が前へ前へと出て行くと、子どもはじりじりと下がっていくのです。

また、子どもの発言そのものが少ないのですが、発言を受容する言葉や評価する言葉が少ないことも気になりました。命令的な言葉、YOUメッセージが多いことから、教師の上から目線を子どもが感じているように思います。

学校全体に感じるのが、今の授業スタイルを変化させるのに臆病になっていることです。今の状態に大きな問題を感じていない、とりあえず子どもとの関係は維持できている。それを変えて崩れるのが怖い、子どもの活動を増やして、コントロールできなくなると不安だということです。子どもたちは決して悪くありません。子ども同士の関係も教師との関係以上によいように思います。子どもを信じる勇気、新しいスタイルに変える勇気を持ってほしいと願います。

可能性を感じる若手の教師に出会いました。子どもたちにわからせたい、しっかり理解させたい。子どもたちこうなってほしいという強い思いを持っている教師です。笑顔で話すことを意識していることもよくわかります。しかし、子どもたちとの関係はあまりよい状態ではありませんでした。子どもたちに思いがうまく伝わっていないのです。とてももったいないと思いました。予定にはなかったのですが、無理を言って少し話す時間をいただきました。
この日の授業で起こったことを例に子どもを受容することをお話しました。具体的には、教師が説明を続けているときに、子どもが質問した場面でした。その質問は少しずれたものだったので、教師はそうでないことを説明したのですが、その子は顔を下に向けて聞いていませんでした。教師は子どもを否定したつもりはありません、それどころか正しいことを伝えようと一生懸命説明したのです。しかし、子どもからすれば、君の考えは違っているといきなり否定されたように感じたのです。教師の表情も説明のときには笑顔だったのが、その質問がずれていたので素の顔に戻っていました。このことも否定されたように感じた原因です。このずれに気づいて修正することが大切です。子どもが間違いやずれたことを言った時に笑顔になること。どんな発言でも、まず笑顔でなるほどとうなずくようにすることが大切です。できれば、質問をしてくれたことを「うれしい。ありがとう」とIメッセージで受け止めます。
また、日ごろから子どもたちにこうなってほしいという思いが強いため、注意することが多いと思われます。実際にはほとんどの子どもはできているのに、一部のできていない子どもを注意することで、多くの子どもに嫌な思いをさせます。ちゃんとしているのに評価されない。教師が注意をすればするほど彼らが離れていくのです。注意するのをちょっと我慢して、できている子どもを見つけてはほめるようにしてほしいと伝えました。私の指摘を前向きにとらえ、「目標ができました」と明るく答えてくれました。その力強い言葉に私も元気をもらいました。きっとよい方向に向かっていくことと思います。

また、新任の教師に少し時間をとってもらい、一緒に教室を回りました。柔らかい雰囲気の授業を目指しているという言葉どおり、笑顔の多い授業をする方です。第三者の立場で子どもを見ることでたくさんのことに気づいてくれたようです。目指す子どもの姿をつくるためのヒントを得てくれたのでないかと思います。

講演の詳細はこれから考えるわけですが、「言語活動は子どもたちの活躍の場をつくる」ということ中心に、とにかく先生方に伝わる話をしたいと思っています。先生方がちょっとチャレンジしてみようという気持ちになっていただくことを目標にしたいと思います。

授業研究でアドバイス(長文)

昨日は中学校の授業研究に参加してきました。5時間で6つの授業を見たあと、協議会で全体へのアドバイス、その後個別のアドバイスをおこないました。

おもしろかったのが、この学校の子どもたちは教師が説明の途中で板書をしてもすぐに写さないことでした。とりあえず教師の説明を聞くことを優先しているようでした。その一方で、教師の説明を集中して聞いていない子どもも目立ちました。また、どの教室でも、指示が徹底しないのも共通の特徴でした。子どもが作業に入ると必ずと言っていいほど子どもから質問がでます。そして、先生はその質問に答えます。これでは、きちんと聞く意味がありません。また、子どもの作業中に教師の追加の指示や説明がでて子どもの集中を乱したり、逆にきちんと作業を止めて全体に指示しないため聞き流す癖をつけたりしてしまっていました。
子どもたちは、わかること、できることには前向きに取り組みますが、ちょっと壁があると教師の指示や答えを待ってしまう傾向にあります。ワークシートに意見が書いてあっても、手を挙げて発言しようとはしません。一問一答式のやり取りが多く、子どもの発言を笑顔で受容し、ポジティブに評価することが少ないこと、数人の挙手でも指名して進んでいくために自分が発言する必然性がないことなども関係していそうです。
小学校で学び合いを経験しているせいか、グループでの話し合いはある程度成立するのですが、その後の全体での場面ではかかわりあえません。友だちの話を聞く姿勢がなくなり、教師の方ばかり見ます。多くの授業で、グループでのまとめを代表に発表させるので、発表者でない子どもはそこから先は自分の仕事でないと思っているようです。また、子どもの発表を他の子どもにつなぐことをせずに、教師が評価して説明することが多いこともその理由だと思います。子どもの目から見ると、自分たちが何を言っても最後は教師が予定していたことをしゃべって終わるように感じると思います。自分たちの活動が授業の中で有用性を持っていると感じないのです。

全体では、次のようなことを話させていただきました。

子どもたちの発言を受容すること、ポジティブに評価することなどの授業における基本的な姿勢や、指示の出し方(指示を徹底させる参照)などの基本的なスキルについて。
授業を参観するとき、教師ではなく子どもを見ることの大切さ、特に子どもの何を見たいか、目指す姿を意識していないと見えない物がたくさんあること。
グループでの結論をださない、話し合いでなく聞き合いを意識させる、教師は個別にミニ授業などをせずに子どもをつなぐことに専念する、発表の場面では結論を聞くのでなくどんなことを話し合ったかを聞けばどの子も発言できることなど、グループ活動における基本的なこと。

その後個別にアドバイスさせていただきましたが、授業者だけでなく、教科の先生も一緒に参加していただけたことを大変うれしく思いました。

英語では、活動の目的を意識すること、特にリーディングでは、なぜ全体で、ペアで、個別でおこなうのかを教師が意識していないと、漫然とした活動になること。ペアでの活動は、受け手の役割が大切なこと(ペア活動のポイント参照)。
situationを意識して話す必然をつくることなどをお伝えしました。

国語では、鑑賞と感想の違いを、国語における根拠の大切さ(根拠を問う参照)とともにお話しました。合わせて、「結果をつなぐ」と「根拠をつなぐ」の2つのつなぎ方を知っていると、子ども同士をかかわらせやすくなること。また短歌などの創作では、工夫を抽象的に説明するのではなく、鑑賞した作品を具体例として活用することで、鑑賞と創作がつながること。伝えたいこと、感動したことを書かせておいて、その言葉は使わないことをルールにするといった手立てや工夫の有効性について。全員の作品の評価は教師には負担なので、子ども同士でやらせるとよいが、その際、ただよいではなく、どこがどのようによいのか具体的にさせるように指導することなどを伝えました。

社会では、復習したり、調べたり色々な活動をおこないたくても、考えさせたいことを中心に授業を組み立て、その時間を確保するためには他の活動を思い切って短くすることも大切であること。グループ活動のあと全体で話し合って終わるのではなく、そこで問題になったこと、一部のグループしか気づいてなかったことなどをもう一度グループに戻す時間をつくるとよいこと。資料の活用の仕方(資料集をどう活用する参照)などをお話しました。

時間の関係で数学の方とお話しできなかったことをとても申し訳なく思っています。次回の訪問時には、必ず時間を取るようにしたいと思います。

子どもたちのようすについて色々気づきましたが、決して子どもたちが悪いわけではありません。先生方もとても前向きに授業に取り組んでおられます。問題は先生方がちょっとしたことを意識しているかどうか、学ぼうとしているかどうかです。互いに授業を見合い、授業について話をして、子どもたちにのぞむ姿を共有することで、子どもたちは大きく変わっていくと思います。校長始め、教頭、教務主任もとても前向きで、学ぼうとする姿勢が感じられました。先生方の授業力向上への取り組みをしっかりサポートしてくださることと思います。
次回訪問時には、きっと多くのことが変わり始めていると思います。次回の訪問がとても楽しみです。

公開授業と青少年健全育成会議

先週末は、学校評議員をしている中学校で、公開授業の見学と青少年健全育成会議への参加をしました。

公開授業での子どもたちのようすを見て、全体的に話を聞くことに集中できていないことが気になりました。一問一答形式での子どもとのやり取り、子どもが聞く体制ができていないのに教師が説明をする。このようなことがその原因にあるように感じました。また、前時の復習の場面で、手が挙がらないのにノートや教科書を調べようとしない子どもや、わかっているのに挙手をしない子どもが目立ちました。数人しか手が挙がらないのに教師が指名して進めてしまうなど、積極的に参加することを求めていないので、子どもたちは受け身で板書を写すことに終始していました。
グループでの活動も、課題が明確でなかったり、根拠を明確にすることを求めていなかったりするため、友だちの意見を聞く必然性がなくて話し合いが止まっていたり、逆に無責任な発言が多くテンションが高くなっていたりしていました。

もちろんすべての授業がそうではなく、同じ学級でも教師によっては違った姿を見せてくれていました。子どもたちの問題というより、教師の側の問題でしょう。授業の形にとらわれて、子どもたちのどのような姿が見たいかが明確に意識されていないことにその原因があるように感じました。

青少年健全育成会議は、通常の会議の他に数年前から地域の大人と子どもたちが一緒になって考える会が設けられています。その中で、大人と子どもの触れ合いの時間が設けられていますが、そこにも少し変化が見られました。
地域の大人1人に対して子どもたち10人ぐらいのグループをつくるのですが、今回は子どもたちがなかなかグループをつくれないのです。仲のよい子が5、6人のグループをつくるのですが、そこから他のグループと合流して大きなグループをつくれません。私が入ったグループも、すぐそばにちょうど一緒になるのに適当な人数のグループがいるのに互いに声をかけ合って合流しようとしないのです。人とかかわる力が落ちてきているように思いました。
大人と一緒に考える場面でも、なかなかうまく話し合いができません。たまたま私が入ったグループは1年生だったせいもあるのでしょうか、ぽつぽつと意見を言うのですが、そこから考えが広がりませんでした。まわりを見ても、似たような状況でした。しかし、このグループの1人は全体の場で2回も自分の意見を発表していました。このことは自分の考えは持っていても、かかわり合って高めるという経験が少ないことを意味しているように思いました。同じようなことを、この日参加された地域の方も感じておられるようでした。毎年参加されてきちんと子どもを見られていることがよくわかります。地域の方がこのような目線で学校を支えてくださっていることは、とても素晴らしいことだと思いました。

今回の話し合いは、自分たちの地域にゴミが捨てられている状況を写真で見て、それについて考えることがテーマでしたが、子どもたちはこのことを、ゴミを捨てる人の問題、環境の問題としかとらえられずに、自分の問題としてはとらえることができませんでした。ゴミを捨てる側の問題ばかりがでてきて、それを見た側の問題、それを放置するのか、拾うのか、どういう行動をとるのかということには考えが至りませんでした。このことは、この日見た授業ともつながるように感じます。自分がわかっていればいい、友だちがわからないのは自分とは関係ない。そのような空気が感じられたからです。教師が意図的に子ども同士のかかわり合いをつくり、人とかかわることのよさを経験させ、他者の役に立つことで自己有用感を持たせることが大切です。学級経営でも、たとえば、遅刻した子どもだけを責めるのではなく、そのことに気づいて声をかけられなかったこと、気づいてあげられなかったことを問題にするなど、他者とのかかわりの中で自分にできることを意識させることが必要になってきます。

ずいぶんネガティブなことを書きましたが、この日少しお話する機会のあった校長も教務主任もこのことはちゃんと気づかれているようでした。次回訪問した時にはきっと違った姿を見ることができると思います。そのことを楽しみにしたいと思いました。

授業に浸った1日

昨日は中学校で授業アドバイスをおこなってきました。若手中心に授業を見せていただいたあと、道徳の授業研究でした。

昨年おじゃましたときと比べて、若い先生、少経験者が増えています。授業を見せていただいて感じたことは、余裕がないということでした。みなさん授業の準備をしっかりされているのですが、かえって、これをやろう、話そうと準備したことをやりきるので手一杯となっているのです。そのため、子どもが考える・活動する場面が少なく、受け身の時間が長くなっています。そんな中で子どもは板書を写すことに意識が集中して、教師の説明よりノートを取ることを優先しています。教師も時間に追われ、子どもが顔を上げて話を聞いていなくても、そのまま話し続けたり、子どもが作業に集中しかけた時に追加の指示を出したり、説明を付け加えたりしています。子どもを見る余裕、子どもに任せておく余裕を失くしているのです。子どもの活動ではなく、教師の活動に意識が強く向いているということです。

子どもは教師の見たい姿にしかなりません。子どもが教師の話を集中して聞く。友だちの考えを真剣に聞く。集中して問題に取り組む。どんな子どもの姿が見たいのかを意識することが大切です。同じ学級でも、ベテランの授業では、子どもたちは説明を聞くべき場面では指示しなくてもしっかり顔が上がっています。日ごろの授業の中で自然にできるようになっています。子どもがノートに向かっているときには教師は何もしゃべりません。教師がじっと待っている間、子どもは集中して作業しています。子どもの問題ではなく、教師の問題であることがよくわかります。

しかし、ベテランの授業でも子どもが友だちの話を真剣に聞く姿はあまり見ることができませんでした。指名した子どもが発表するとそれ引き取ってすぐに教師の説明が始まります。子どもの言葉を活かし、子どもの考えで授業を進めることは意識されていませんでした。おいしいところを教師が持っていってしまうのです。教師が子ども同士かかわり合う姿を見たいと意識すれば、そのような姿を見せてくれる子どもたちだと思います。とてももったいないと感じました。

道徳の授業は、授業者の子どもたちにこうなってほしいという気持ちが強く現れたものでした。子どもたちと授業者の関係もよく、多くの参観者がいる中、子どもたちが授業者の期待に応えようとしていることがよく伝わりました。子どもとのやり取りの場面で、発言に対する教師の受けの言葉が「なるほど」「そうだよね」の2つの場合があることに気づきました。後者の場合には、教師が復唱して強調することもあります。授業者に確認したところ意識はしていなかったということですが、思いが強いため、無意識のうちに自分の望む発言を評価し、誘導していたのかもしれません。また、資料の「わたしの気持ち」を考えるという発問と、「意見」を書くという指示の仕方もあって、子どもたちは資料から少し離れて、やや客観的に考えていたように感じました。あまり心が揺さぶられておらず、変容があったのかよくわかりません。友だちの意見を聞きあって最後に各自がまとめた文も、出てきた意見から正解(≒教師の求めるもの)を見つけようとしているもので、本音の部分はあまり感じられませんでした。

授業検討会では、子どもたちに求めたものは資料の読み取りなのか、自分の考えなのかといった、国語と道徳の違いに関することと、子どもたちが自信を持って考えを発表するための指導法として机間指導時にワークシートに線を引いたり、○をつけたりしてほめることの2つが特に話題となりました。
前者については、子どもの心の変容を求めることから考えれば、資料の中に入って自分の問題として考えることが大切だと伝えました。そのために資料を正しく読みとることが大切ですが、その部分に時間をかけると考える時間が少なくなってしまいます。できるだけ早く読みとるためには、教師が資料を読みながら状況を説明したり、登場人物の心情について子どもに気づかせたりするなどの働きかけも必要なことです。
後者については、特に数学などの正解不正解がはっきりしている教科の場合には有効な方法ですが、道徳の場合、線を引いたり○をつけたりすることが、時として教師の価値観の押し付けになってしまう危険性があります。教師が○をつけてくれることを書こうとしてしまうのです。自信を持たせることで発言させるという発想だけでなく、自信がなくても発言できる雰囲気、環境をつくることも大切であることを伝えました。何を発言しても受容される、友だちに認められる、そのような学級づくりを意識してほしいとお願いしました。

この日は、皆さんと食事をする場を設けていただいたのですが、会場の移動前や食事会の最中に多くの先生が話を聞きに来てくださいました。どなたも授業にとても前向きで、質問や悩みの中に私自身が気づかされることがたくさんありました。どれだけ効果的なアドバイスができたかわかりませんが、きっと毎日の授業の中で着実に力をつけていかれると思います。
話に聞きに来ようとしてくださったのに、時間がなくてお相手できなかった方がいらっしゃいました。一生懸命授業に取り組んでおられたのですが、子どもとのコミュニケーションに苦しんでおられたように見受けられます。きっとアドバイスを求めていらしたのだと思いますが、それに応えられなかったことを本当に申し訳なく思っています。次の機会には、ぜひじっくりとお話を聞きたいと思います。

終日、授業と授業に関連する話にどっぷり漬かり、充実した楽しい1日を過ごすことができました。このような機会をいただけたことを心から感謝します。2学期にもう一度授業を見せていただく機会をいただけるようです。先生方がどのような進化を見せてくださるのか、今からとても楽しみです。

算数・数学におけるジャンプの課題を考える

子どもたちの学び合いでは、課題が大切だとよく言われます。特に子どもたちが大きくジャンプするような課題が求められますが、このような課題を考えることはなかなか難しいと感じています。いつも学ばせていただいている先生から、数学におけるジャンプの課題について、考えていることをメールで教えていただきました。その一部を引用します(順序等も変えていることをお許しください)。

授業ではともすると、解答とそれが正しい理由が扱われて進んでいくのですが、その解答を導き出すための思考過程を言語化させていることが少ない、これこそジャンプの課題となるのではないかと考えたのです。

例えば、なぜそこに補助線を引くことになったのか、
引けばよいのか、
引かざるをえなくなったのかを考えさせることです。

なるほど、これは大切なことです。私なりに勝手に解釈すれば、問題を解く、解決するメタな考えを問うことです。
図形の問題であれば、知っていること(平行線に関する知識、三角形や平行四辺形に関する知識、合同や相似)、わかっていること(仮定、仮定からすぐにいえること)、いえればいいこと(結論、結論つながりそうなこと、結論の一つ手前、中間の結論)を整理する。その上で、もし手掛かりが見つからなければ、補助線を引くことで知っていることが使えないか、知っている図形をつくることができないか考える。
こういうことを子どもたちに問題を通じて具体化させることだと思います。
しかし、これは数学の授業であれば本来、常に問い続けなければいけない課題のようにも思います。とはいえ、若い教師では、教師自身がこうやって解くものだと信じ、なぜここに補助線を引くのだと聞いても、こうやると解けるとしか答えられないこともよくあります。こうなると、教師にとってもジャンプの課題になってしまいますね。

このメールをきっかけに、私なりのジャンプの課題の考え方について少し書いてみたいと思います。まだきちんと整理できていないので、うまく切り分けられていないことをあらかじめお詫びします。

・多様なアプローチがあり、そのアプローチに汎用性があるもの
たとえば、中学受験などでよく見る、階段のあがり方の場合の数。階段を1度に1段か2段あがるとき、n段あがる場合の数を求める(もちろんn段でなく、10段などとしてもよいのですが)。
答はよく知られているようにフィボナッチ数列(前の2つの場合を足した合計になる)です。アプローチとしては、表を使って性質を見つける。しかし、これでは絶対的に正しいとは言えません。そうなる理由を考えなければいけません。数学における帰納的な考え方(漸化式)、具体的にはn段にたどり着くには、その前はどうなっているのか(先ほどの図形の例における結論の一つ手前と重複しますが)という汎用的な考え方を使うことになります(n段にたどり着くには、その一つ手前はn−1段かn−2段)。

・知識を現実の問題に応用するもの
現実の問題ですから、絶対的な答えがないものもあります。それも含め、現実的な答を考えることで、学ぶ意味を知るというのは大切なことと思っています。
たとえば、過去のイベントの来場者数のデータから景品の数をいくつ準備するか考え、その根拠を数学的な用語を使って説明する。
平均でよいのか。平均より多かったら足りなくなる。最大値でよいのか。超えるかもしれない。大量に余るかもしれない。平均値にどのくらい足そうか。最頻値を基準に考えた方がよいのではないか。正解はありませんが、平均・最頻値などの統計指標や統計そのものの意味などを考えることにつながります。

・いつでも成り立つか、逆は成り立つかを問うもの
小中学校では(高等学校でもよくありますが)、具体例で確かめただけできちんといつも成り立つか確認していないものや、逆は成り立つのかを考えていないことがよくあります。
たとえば、比例や1次関数の性質には、変化率が一定であることや1増えれば同じ数だけ増えるということがあります。これは、本当にいつもいえるのか。逆に、変化率が一定である、1増えれば同じ数だけ増える関数は比例になるのか、1次関数になるのか。ならなければどういう条件があればいいのか。
いつも成り立つのかは、文字をうまく使うなどしなければきちんといえません。逆の問題であれば、変化率が一定のときでも、原点を通るといった条件がなければ、比例にはなりません。また、1増えれば同じ数だけ増えるという条件では、(定義域を)整数に限定するなどしなければ1次関数にはなりません。教科書の問題でほとんどの場合、1次関数でと条件に1次関数であることを入れている理由の一つです。

・定義の理由を考える
こう決めるということには、何らかの合理性があります。その意味を考えることで本質に気づくことができます。
たとえば、君たちなら、角度をどう定義するか。
定義そのものでもよいですが、1周を何度にするかでもよいかもしれません。360°にした意味を考えるだけでも色々なことに気づけると思います(理科の問題かもしれませんが・・・)。このことを考えることで、扇形の周や面積の問題は、定義から自明となります。

・教育課程の範囲を超えている、一般的な理論があることを、限定された条件や具体例で考えさせる。
これは、今までの例をほとんどカバーしていることかもしれません。誰も思いつかないような素晴らしい課題をそう簡単に思いつくわけがありません。先ほどまでの視点で、小学校であれば中学校の、中学校であれば高等学校の内容と、この先学習することから課題のネタを拾ってくるのです。フィボナッチ数列の例は言わずもがな、統計の例は、現実には分布がどのようなものになるか、標準偏差や危険率などの問題から考えることを、できる範囲で考えさせているわけですし、比例や1次関数の例は、関数の連続性や微分、関数方程式やカントール集合の問題などにもつながっています。角度の問題だって、孤度法にもつながります。(数学の先生でない方はこのあたりは読み飛ばしてくださいね)
たとえば、2の平方根は、循環小数にはなりそうもないと確かめていますが、有理数(分数)で表せないことは、きちんと平方根の意味を教えていれば、中学生にもチャレンジできる問題となります(背理法といった難しい言葉を使はなくてもいいのですから)。

ここであげた例が、現実にすぐに子どもがチャレンジできる課題かどうかはわかりません。それまで子どもたちがどのような課題に取り組んでいたかにもよるでしょう。最初にちょっと揶揄した書き方をしましたが、子どもにとってジャンプの課題は、教師にとってもジャンプの課題です。教師が積極的にチャレンジしていかなければ、子どものジャンプは期待できないと思います。皆さんがチャレンジしておもしろかったジャンプの課題があれば、ぜひ教えてください。また機会があれば、他の教科のジャンプの教材についても紹介したいと思います。

いつも同じことを言う教師

子どもの教師への評価に「先生はいつも同じことを言う」があります。これはよい意味でも悪い意味でも使われます。悪い場合は「くどい」「しつこい」に近い使われ方です。教師が求めるものが高く、それに子どもが応えられないとき、どうしても同じことを何度も言うことになり、子どもはまた言っている、また怒られたと感じるのです。一方よい場合は、教師が大切にしていることは結局このことだ、このことを意識していればいいのだと納得できているときです。教師がいつも言うべきこととは何なのでしょうか。

それは、目指す子どもの姿、行動を考えるときに、常にそこに立ち返るべき原点です。
たとえば、最近「当り前のことがちゃんとできる」ということを大切にしている学校によく出会います。この言葉の優れているところは、子どもたちの取るべき行動の原則として非常に広い範囲を含んでいることです。「時間を守る」「ルールを守る」「約束を守る」「整理整頓をする」・・・。どれも「当り前のことがちゃんとできる」に含まれています。「時間を守る」には、「学校に遅刻をしない」「チャイムが鳴る前に席につく」「体育館への移動に遅れない」などが含まれます。だんだん細かくなっていきますね。
一方子どもたちへの指示や指導はできるだけ具体的であることが大切です。「当り前のことがちゃんとできる」と言っても、「チャイムが鳴る前に席に着く」が「当り前のこと」として意識はされません。そのことを意識させる必要があります。だからといって、できるようになるまで「チャイムが鳴る前に席に着く」と言い続けることはネガティブを言われ続けるので、悪い意味で「いつも同じことを言う」と感じることになります。

「今日も遅刻がいなかったね。当り前のことがきちんとできているね。えらいね。ところで、さっきチャイムが鳴る前に全員席に着いていたかな。どう?」
「着いていなかった」
「チャイムが鳴る前に席に着くのは、当り前のことかな?」
「当り前のこと」
「じゃ、これもきちんとできるようになろうね」

指導する時には必ず、原点となる言葉に立ちかえるようにします。広い範囲を含むので、できていることもたくさんあるはずです。そのことをきちんとほめ、だからこれもできるようになろうと前向きに伝えるのです。原点に立ち返ることが意識されてくれば、どのような場面でも、自分で正しい行動を判断できるようになっていきます。

いつも言うことを「当り前のことがちゃんとできる」レベルにするのか、「時間を守る」レベルにするのかは子どもたちの状況によって異なります。年間と月単位でレベルを分ける方法もあります。校長と担任で分けるという考え方もあります。いずれにしても、示すときにはそこに含まれる具体的なことを子どもに考えさせる。できていないと指導するときは必ずそこまで戻り、できていることをほめることも忘れない。このことを意識して、よい意味で「先生はいつも同じことを言う」と言われる教師になってください。
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