最新更新日:2018/11/17
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「やる気の三中」を掲げ、地道・徹底を貫き、自立・貢献 できる生徒を育成します。

もどってきたサイン帳(6.18 校長講話)

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ある日、ディズニーランドのインフォメーションにひとりの男性が暗い顔でやってきました。
「あの‥‥落とし物をしてしまって」
「どういったものでしょうか?」
「サイン帳です。」
子どもがミッキーやミニーちゃんのサインが欲しいって、園内のいろんなところを回って書いてもらったものです。あと少しでキャラクター全員のサインがそろうところだったんですが‥‥」
インフォメーションにサイン帳は届いていませんでした。心当たりの場所にもかたっぱしから電話をかけてみましたが、どこも届いていないという返事でした。
「ご滞在はいつまででしょうか?」
「2泊3日のツアーに参加しているので、2日後のお昼には帰ることになっています」
「では、このあともう少し探してみますので、お帰りの前にもう一度こちらにお立ち寄りくださいますか?それまでには見つけられると思いますので」

そのキャストのAさんはサイン帳の特徴を詳しく聞き、男性を送り出しました。男性が帰ったあと、さらにいくつかの小さいセクションに電話をしました。サイン帳のことを伝え、さらにほかのキャストにも声をかけてもらって、大勢でパーク内をいっせいに探して回りました。ところがどうしても見つかりませんでした。
キャラクターのサインがあるサイン帳だから、誰かがそれを拾ったとき、うれしくて持って帰ってしまったのかもしれません。

2日後、この間の男性がインフォメーションに現れました。
「どうでしたか?」
たぶん見つからなかっただろう、という口ぶりでした。
Aさんは、残念そうに答えました。
「大変申し訳ございません。全力で探したのですが、サイン帳を見つけることはできませんでした。しかし、お客様‥‥」
そして、1冊のノートが差し出されました。
「どうぞかわりにこちらのサイン帳をお持ち帰りください」
渡されたノートを開いてみると、そこにはなんとキャラクターのサインが書かれていました。しかもキャラクター全員分のサインがちゃんとそろっていたのです。Aさんは落としたサイン帳と同じものを店で見つけてきて、いろんなエリアを歩き回り、キャラクターたちにサインを書いてもらって回ったのです。男性は顔をくしゃくしゃにして喜び、何度も何度もお礼を言って帰りました。

さて、後日、一通の手紙がAさんに届きました。
先日はサイン帳の件、本当にありがとうございました。じつは連れてきていた息子は脳腫瘍をわずらっていて、いつ大事に至るかわからないような状態だったのです。息子は物心ついたときから、ディズニーのことが大好きでした。
「パパ、いつか絶対ディズニーランドに連れてってね」と毎日のように言っていました。
私は、「そうだね、行こうね」と答えながら、でも、もしかしたら約束を果たせないかもしれないと思っていました。命が、あと数日で終わってしまうかもしれなかったからです。
だから、せめて今のうちに喜ばせてやりたい。そう思い、無理を承知でディズニーランドへ連れて行きました。その息子が、ずっと夢にまで見ていた大切なサイン帳を落としてしまったのです。息子の落ち込みようは見ていて苦しくなるほどでした。しかし、あなたが用意してくださったサイン帳を渡したときの息子の顔が忘れられません。
「あったんだね!パパありがとね!」と本当に幸せそうな顔でした。
ほんの数日前、息子はこの世を去りました。
ずっとサイン帳をながめていました。
「ディズニーランド楽しかったね。また行こうね」と言い続けていました。
眠りにつくときも、サイン帳を抱えたままでした。
もしあなたがあのとき、サイン帳を用意してくださらなかったら、
息子はあんなにも安らかな眠りにはつけなかったと思います。
息子はディズニーランドの星になったと思います。
あなたのおかげです。本当にありがとうございました。

手紙を読んだAさんは、その場に泣き崩れたのでした。

日本を離れて分かった笑顔の意味(6.4 校長講話)

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「笑顔、笑顔」
中学生になり、家の手伝いとして店のレジに立つと、必ず母に遠くから叫ばれたものです。
「手伝ってあげてるのに何さ」
当時、生意気だった私は、楽しくも無いのに笑わなければならないことに腹を立てていました。また、自分の顔に文句をつけられていると感じて、嫌な気持ちがしたのでした。
大学に入り、アルバイトを始めました。
有名なファーストフード店です。
「元気なあいさつ」「さわやかな笑顔」が売りでした。
「いらっしゃいませ、こんにちは」
「ご一緒に、ポテトもいかがですか?」
普段は声の低い私も、さすがに声のトーンを1オクターブ高くし、無愛想なお客さんにも笑顔で対応しました。
ある日、東京の本部から社長が視察に来ることとなりました。出勤すると「今日一日は、いつもの2倍笑ってください」と指示が出ました。私たちはいつもより2オクターブほど声を高くし、思い切り口の両端を上げ、笑顔を作りました。自分が自分でなくなったように感じました。
作り笑顔に疲れた私は、3ヶ月でそのアルバイトを止めました。

大学4年生になり、1年間イギリスで生活する機会に恵まれました。
大学の学生寮は食事がつきましたが、昼食は自分で用意しなければなりません。なかなか時間が取れなかったので、ほとんど買って間に合わせました。
海外にもコンビニエンスストアは普及しています。ロンドンにも朝早くから、夜遅くまで営業しているお店がたくさんありました。焼きたてのパンやサンドイッチ、飲み物が売られていて、お昼にはよく足を運びました。
初めて買い物をしたときのことでした。
お昼時でレジには長い行列ができていました。イギリスの単位にまだ慣れていなかった私は、支払うのにもたついてしまいました。
(1ポンドは、10ペンスだっけ・・・)
財布からコインを探していたその時です。レジに立っていたインド系の女性店員が「ちっ」と舌打ちしたのです。顔を上げるとイライラした表情の彼女と目が合いました。
思わず「Sorry」と謝ってしまいました。
ふと周りを見ると、彼女だけが特別無愛想なわけではありませんでした。ほとんどの店員が与えられた仕事を仕方なくこなしているように見えました。それでいて客も普通でした。だれも笑顔やサービスなど期待していませんでした。

こんなこともありました。
チェコに旅行したときの出来事です。
都心の繁華街。その一角にある洋服店に入ると、だれも出てきません。店内を見て回ると試着室がありました。するとその奥にはお菓子をバリバリと食べながら雑誌を眺める店員がいたのです。私の姿に気づくと、「あら、いたの」という顔をして、重い腰を上げました。
「Hello」
無機質な声であいさつらしき言葉を発し、ボーっと遠くを眺めていました。この時間をいかにつぶすか、といった様子でした。
「もらう給料の額が一緒なら、楽した方がいい」という考えのようでした。
私が店を出ると、彼女は「はぁっ」とため息をついて、また試着室の奥へと消えていきました。
彼女の邪魔をしたようで、なんだか悪いことをしたような気分になってしまいました。私は、再びその店へ足を運びたいとは思いませんでした。

日本で当たり前のサービスは、海外では当たり前ではなかったのです。
あんなに面倒だった「笑顔」。
他人に媚(こび)を売るようで嫌だった「笑顔」。
多少辛いときでも、つくらなければならなかった「笑顔」。
でも、自分で不愉快な思いをして初めて、人に与える印象の大切さに気づいたのでした。

only one の生き方(5.21 校長講話)

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肩まで伸ばした髪。バンダナを頭に巻き、髭をたくわえ、素足で歩き回る。およそ学者とかけ離れた風貌。

秋山仁さんは、NHKの小中学生向けの数学の番組に出て、難しい数学を楽しく噛み砕いてお話をしてくれます。一般の人向けの講演会は、多い年で200回にもなるといいます。しかし、専門は「組み合わせ論」という数学の分野です。コンピューターとも近い、最先端の数学を研究しているのです。

さて、数学者というと、頭がいい、と連想してしまうと思うのですが、秋山さんは、自分はそうではなかったと言います。高校は、進学校を希望したのですが、受験に失敗して、できたばかりの私立の男子校に入ることになりました。成績の上下が激しく、ビリになったこともありました。

高校でのエピソードです。log(エルオージー)と書いて「ログ」という記号を習います。秋山さんは授業中にこれを「10グラム」と読み、大笑いをされたと言います。
こんな秋山さんでしたが、「数学者になりたい」と考えました。

まず、第一関門は大学入試でした。
受ける大学、受ける大学にことごとく落ちました。受かっても行きたくないと思っていた私立の大学に補欠合格で何とか入ることになりました。

大関門は大学院入試です。学者になるためには大学院を出なければなりません。担当の先生に、成績があまりに悪いので、大学院への推薦状を書いてもらうことができませんでした。そして、大学院受験でまた不合格。

これでも秋山さんは諦めませんでした。
新しく大学院ができるという話を聞きつけ、「知名度もないだろうから、競争相手がいないかもしれない」と考えました。
実際、受けた学生は秋山さんただ一人。筆記試験は全滅でしたが、面接で好印象を与えることができて、なんとか合格することができました。

第三関門は、修士論文でした。書いた論文が認められずに、一年留年することになってし
まいました。ここで、秋山さんは本気になって、これまでの人生を振り返ってみました。よく考えると、受験の失敗を含め、競争に負け続けてきたことに気がつきました。
そこで、競争相手の少ないところ、競争相手のいないところを探そうと考えたのです。競争相手がいなければ負けることはありません。

これが、秋山さんのonly oneの生き方の始まりと言えます。
当時、秋山さんは「微分」関係の研究をしていました。この分野は歴史が長く、研究をしている人もたくさんいました。逆に「順列、組み合わせ」の分野は大学にはないことに気が付きました。

例えば、四色問題という当時未解決な問題がありました。地図に色を塗る問題なのですが、約束が一つだけあります。隣り合った国を別の色にする、というものです。この条件で、最低で何色あれば塗り分けられるかというのが四色問題です。実は、どんな地図でも四色あれば塗り分けられるのだそうです。

「よし、これをやろう」
日本では、「組み合わせ理論」や「グラフ理論」は学問として認められていない風潮がありました。しかし、アメリカやヨーロッパでは研究され始めていました。
秋山さんは、早速行動を開始したのでした。アメリカに実費で渡り、大学の講義を学生のふりをして受けたのです。

その後、秋山さんはグラフ理論で書いた論文で博士号を取得します。グラフ理論での博士号は日本で初めてでした。高校生を対象とした数学オリンピックに、日本の高校生を出場させようと行動したのも秋山さんです。
また、「グラフ理論」国際大会を日本で初めて誘致しました。
NHKや一般の方への講演会などで、数学の楽しさを伝える活動も積極的に行っています。組み合わせとグラフ理論の数学の専門書も創刊しました。
このように、まだ、誰もやっていないことを次々にやって行く秋山さんの生き方は、まさに、only oneの生き方です。

競争に勝つことだけが、世の中の役に立つ生き方ではないということです。
皆さんにもいつか必ず、世の中で役に立つことが見つかるはずです。
それまであきらめないことが大切です。

当たり前のレベル(5.14 校長講話)

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かつて好敵手としてしのぎを削ったライバルの間に、いつの間にか大きな実力差が生まれてしまうことは少なくない。
この結果を「持って生まれた才能」や「日々の努力」の差と片付けてしまうのは簡単です。しかし、現実にはそれだけでは説明できない“何か”があるのではないか。環境か、精神力か、それとも運なのか・・・・。

プロフェッショナルサラリーマンの著者でビジネスコンサルタントの俣野成敏さんは、差がつくひとつの理由として「当たり前のレベル」の違いをあげています。
「誰もが、“自分はやるべきことをやっている”“一生懸命やっている”と思っている。しかし、“当たり前”と思ってやっていることのレベルは、各人違うのだ。そして、その小さな積み重ねの差が、5年後、10年後には圧倒的な差になっていく」

わかりやすい例として俣野さんが紹介するのは、カリスマ美容師と並の美容師の違いだ。
「ある人気美容師に有望な人材の特徴をたずねると、彼は『シャンプーで指名を取れる人』と答えました。誰がやってもあまり差がつきそうにない地味な仕事に思えますが、将来、カリスマになる人は、気持ちいいシャンプーのやり方を徹底的に研究し、そのときの客との会話をメモしておいて、次に来店したときには『あの映画、面白かったですか?』と話しかける。それが当たり前だと思っているのです」
美容院に就職しても、実際にハサミを持たせてもらえるまでには時間がかかる。その時間をどう過ごすか。
「シャンプーをするために美容師になったわけじゃない」と思いながらシャンプーする者と、「今のうちに気持ちのいい接客を身につけよう」と考える者。
その違いが5年後、10年後の指名客数の差になるというわけだ。

リクルートエージェントのキャリアアドバイザー細井智彦さんも言う。
「伸びない人は、自分の好みに合うかどうかだけで“面白くない仕事”と判断してしまう。そうではなく、その仕事の中で自分がどう面白いことを見つけられるかを考え、貪欲に自分の中に取り込もうとする人が成長できるのです」

販売店でも、買い物を終えた客を、店の外に出て客の背中が見えなくなるまで見送り続けることを「当たり前」と思っている販売員と、客が店を一歩出たとたんにもどる販売員とでは、いずれ大きな差ができると俣野さんは言う。
「お客様を見送る姿を、店の前で通る人はちゃんと見ていて、“あの店員さんは感じがいいね”ということになる。また、こうしたお客様への感謝や気遣いの積み重ねは、店内での接客態度にも必ず影響します。その差は小さくても、毎日の蓄積でそれは大きな差になっていくのです」

何を当たり前とするか、
それを決めるのは、自分自身。
その「当たり前」の差は、時が経てばたつほど、はっきりとした差になるのです。
今の自分にできることを決め、「地道」に「徹底」してやり続け、自分にとって当たり前とすること。それが、多くの成功者の共通点なのです。

活きた学問(4.23 校長講話)

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徳川時代のわが国は、藩で構成されていました。
そして、その藩には、現代の大学に相当する学校として、藩校が設置され、江戸には、それら藩校の総元締めの大学として湯島聖堂がありました。
湯島聖堂は最高学府として偉容を誇っただけでなく、教授は天下に名を知られた学者ぞろい。学生も各藩からよりすぐった秀才ばかりを集めていました。もちろん教育施設も日本一整っていました。

それに反し、当時の吉田松陰の松下村塾は、松陰が罪人として幽閉されていた粗末な3畳ほどの部屋からスタートし、教師は吉田松陰ただ一人。松陰がおとがめを受けているため、大っぴらに生徒を集めることはできず、近隣の青少年や松陰を慕う青少年が集まって来たに過ぎませでした。
しかし、幕末から明治維新の激動の時代に当たって、わが国の命運を賭ける課題に立ち向かい、課題の解決に自分の命を賭けて活躍し、歴史にその名を残した、多くの人物は、立派な湯島聖堂からの出身者ではなく、粗末な松下村塾から巣立った者達だったのです。

坂本竜馬や西郷隆盛に影響を与えた、長州藩の中心人物、久坂玄瑞。
江戸幕府の倒壊を決定づけた、奇兵隊で有名な高杉晋作。
第9代内閣総理大臣となった、山縣有朋。
初代内閣総理大臣から、5代・7代・10代と4回にわたり内閣総理大臣となった、伊藤博文など、幕末の偉人を次々と輩出したのです。
現在の調査によると、松下村塾の塾生は、述べ90名程度で、その30%に当たる塾生が、後に歴史に名を残したといわれています。
しかも、松陰がその塾生達の指導に当たったのは、わずか2年にすぎなかったのでした。

では、その奇跡のような教育とはなんだったのか。
それは一言で言えば、松下村塾の学問は時代の課題に立ち向かう「活きた学問」であったということです。
「活きていない」学問というのは、たくさんの知識は身につけるけれども、その志は、よい就職口にありつきたいとか、学者としての名声を得たいとか、富や名声の欲に走り、または、物知り辞典のような立場に満足して、その時代の本当の問題や課題を知らず、これを解決しようとする心構えがない。つまり、世の中の人々を救おうとする「志」に欠けた学問を言います。

これに反し、松下村塾では、名声や利益を求める心を捨て、ただひたすら、世のため、人のために、今ある社会の課題に立ち向かい、その解決のために勉学に全力を尽くすとともに、「自分の持ち味」を活かして、社会に貢献しようとしたのです。
松下村塾では、10代の塾生が、世の中の問題について、堂々と議論していたといいます。そして、それはまるで、白熱教室と言えるものでした。

さて、ひるがえって今の私たちの勉強はどうでしょうか。
そもそも、私たちは、自分のことは心配しても、今の日本のことを心配したことがあるでしょうか。
諸外国との関係をどのようにつくっていくと日本の安全が保障されるのか。そして、そのために日本にとって必要なものは何か。そのために、私たちはどのような知識、どんな力を身につけなければならないか。
松下村塾の議論を現代に置き換えれば、塾生の間でこうした議論が展開されていたことでしょう。インターネットなどない情報不足の中で、大したものです。

しかし、皆さんだって負けてはいません。
なぜなら、皆さんは、テレビやネットで、ニュース解説や討論番組を見たり、様々な情報や意見を取り入れることで、日本の問題を自分の問題として受け入れることができるからです。
もっと身近な例では、皆さんの学校生活の中で、いかに次の行事を成功させるかを真剣に話し合うことや、学級内の人間関係や、いじめの問題に正面から取り組むことは、まさに「活きた学問」といえるのです。
こうした、現実の問題に目を向け、それを解決しようとする「正義感」や「使命感」こそ、吉田松陰が力説する「志」なのです。
つまり、勉強とは、世の中の問題を解決するため、自分らしく貢献できるよう、備えるためにあると思うのです。
皆さんには、自分だけのためという枠を突き破り、他者のため、そして、みんなのために貢献する誇りと喜びを、現実の学校生活の中で体験して欲しいと思います。

何のために学びますか(4.16 校長講話)

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ある日のこと、一通の手紙を読み終えた青年は、打ちのめされました。
「とてもかなう相手ではない」
自分がいちばん優れているとうぬぼれていたこの青年とは、後に高杉晋作と並んで松下村塾の双璧をなす、久坂玄瑞(げんずい)、17歳でした。

わが長州藩(現在の山口県)に吉田松陰という優れた人物がいると聞いた久坂玄瑞は、吉田松陰に手紙を送ったのです。
「今日の日本は、綱紀が乱れ、士気も低下しております。しかも西洋列強がすきあらば侵略の手をわが国に伸ばしつつあるのに、何もできていません。アメリカの使者などは斬って捨て、断固として外国を排除すべきだと思いますが、いかがでしょうか」

自分の意思をきっぱりと示し、松陰の共感を得ようとした手紙でした。松陰からの返信はただちに来ました。しかし、それは思いがけない内容でした。

「あなたの議論は軽薄です。本当は自分の名誉と利益を求めているのと変わりありません」それを読んだ玄瑞は、松陰など評判ほどの人物でもないと怒りましたが。再び反論の手紙を書きました。

1ヶ月半が過ぎて、ようやく見覚えのある手紙が届きました。

「今、日本に必要なことは、まず国内を固めることです。まして外国と和親条約を結んだからには、相手を切り殺すと国際信義を失います。あなたは医学生でありながら、天下の重大事に感心を持っているのは大変すばらしいので、私はあなたに望みをかけ、この手紙を書きました。しかしあなたは言葉が多く雄弁ではありますが、一つとして実践で結果を残していません。すべて口先だけの空理空論ではないですか。元気があるのはいいですが、歴史の方向性を冷静に見つめ、日本の未来を切り拓くことができる人間になってほしいのです」

玄瑞は衝撃を受けました。
言葉だけで何も実行したことが無いという松陰の指摘は事実だったからです。しかし玄瑞は懲(こ)りずにまた、長々と激しい意見を松陰に返信したのです。それに対して、松陰から送られてきた手紙は、玄瑞に覚悟を迫る、いわば最後の挑戦状でした。

「僕があなたを口先だけの人間だと疑ったのは間違いでした。では今後、あなたは外国人を斬ってみてください。私はあなたの才能を見させていただきます。私も以前、江戸でアメリカ人を斬ろうと思いながら、利益よりも害悪が多いと気がつき、止めました。あなたが言葉通り実行できたら、あなたの名は後世に残るでしょう。しかしそれは自分の名誉や利益を求めるだけの行為だと思います。そして、もしそれができなければ、あなたは私と同じ無能の人です」

この手紙は久坂玄瑞を打ちのめしました。
後に深い絆で結ばれる松下村塾の師弟関係がここに誕生した瞬間でした。

吉田松陰は、それが自分より年下の17歳の青年であっても一人前の大人として扱い、全身全霊で誠実にぶつかり、忍耐強く相手の気持ちが熟すのを待ち、厳しい言葉を送りました。誰に対してでも変わらぬその一貫した誠実な姿勢が、相手の魂を揺り動かしていったのです。

吉田松陰が指導した松下村塾は、八畳一間ほどの小さな塾でした。松陰が松下村塾で直接弟子たちを教えたのは、わずか二年半ほどに過ぎません。しかしその間に、この久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文をはじめとする明治維新の原動力となった人物が次々と育ったことは驚くべきことです。

松陰は門をたたいてきた若者に、必ず聞くことがありました。
それは、「何のために学問をするのですか」という質問です。
そして、「単なる物知りになってはいけない、実行が第一だ」と諭(さと)しました。そして、自分の名誉や利益を捨てて物事に接すれば、人も周囲の状況も必ず動くということです。

さて、皆さんは、松陰や玄瑞の時代とは比べ物にならない程、豊かな環境の中で育ち、体格などは当時とは比べものにならない程立派です。しかし、大人として自立する覚悟や社会で貢献しようとする志はあるでしょうか。

私は、松陰先生が皆さんに言っているような気がします。
「何のために勉強するのですか」と。

地道・徹底(4.5 校長講話)

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二年生、三年生の皆さん、進級おめでとうございます。

今、新入生を迎え、尾西第三中学校総生徒数五六四名が、新しいスタートを迎えました。新しいクラスも決まり、後は、担任の先生は誰なんだろうと、期待と不安で一杯のときだと思いますが、発表する前に一つだけお話をします。
これからの一年間、私が皆さんに期待することはたくさんありますが、先ほど述べた「自立」と「貢献」を実現するため、そして君たち自身の夢をかなえるためのキーワードを一つだけ述べます。

それは、「地道・徹底」です。

これは、地道に、しかも徹底して行うという意味です。自分のすべきこと、そして、自分にできることを見つけ、それを徹底して繰り返し、習慣化すること。これこそが勉強においても、スポーツにおいても成功への近道だと思います。また、逆にやってはならないことについては、決してやらないと決意をし、守り切ることが大切です。例えば、いじめ等、卑怯な振る舞いは決して許してはなりません。

このように、徹底して身に付けた良き習慣こそが、皆さんの本当の力となり、その後の人生を実り多いものにしてくれるものと思います。

さあ、自分にできないことを数えることは、もうやめましょう。
今の自分にできることがあります。それを見つけ、徹底してやり切り、習慣にし、自分のものにしていきましょう。

三中の先生は、頑張る皆さんの目標達成のために、全力で応援します。
共にがんばりまょう。

自立・貢献(4.5 校長講話)

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命あるものすべてが大きく躍動する春爛漫の季節を迎えました。
そんな中で、本日、入学式を挙行できることを大変うれしく思います。
一七八名の新入生の皆さん、入学おめでとうございます。皆さんは、今日から晴れて、この伝統ある尾西第三中学校の一員となり、義務教育の仕上げをする、中学校生活の第一歩を踏み出しました。このスタートにあたり、私から皆さんに二つのことを提案します。

まず一つ目は、「自立を目指すこと」です。

明治維新を成し遂げた最大の功労者、西郷隆盛が死ぬときまで肌身離さず持っていたのは、一通の手紙でした。それは、西郷より七歳年下の、しかし西郷が最も尊敬する人物、橋本左内からもらった手紙でした。橋本左内は、当時、諸外国から侵略される危機にあった日本に対して、開国をして強い国と同盟を結ぶことを提案したり、世界に国際連盟ができることを五〇年も前に予見したりするなど、後に、日本を救うことになる幕末でもっとも優れた志士でした。

その橋本左内が、たった十五歳のときに、自身の決意を『啓発録』という手記にまとめました。そして、これこそが彼を「福井の一少年」から「日本の橋本左内」へと大変身させるきっかけとなったのです。
その手記の中で佐内は、一番初めに(去稚心)「幼い心を捨てよ」と述べています。幼い心とは、怠ける気持ちや、甘える気持ち、また、失敗の原因を人のせいにし、人の悪口をいうことにより自分の行為を正当化しようとする幼い心をいいます。
新一年生のみなさん、みなさんが十五歳で卒業するまでの三年間で、「幼い心」を脱ぎ捨て、自分で考え、自分で決め、自分で責任を持って行動できる、自立した若者を目指してほしいと思います。人は放っておいて自然に大人になるものではありません。自分からなろうと覚悟を決めなければ立派な大人にはなれないのです。

二つ目の提案は、「貢献する喜びを知ること」です。

貢献とは、簡単に言えば人の役に立つことです。自分の利益ばかりを追求し、他人のことを考えず、自分の欲望を満たそうとしている人の生き方は、実は寂しく、本当の心の安らぎは感じられないものです。
一方、家族のため、友人のため、より多くの人々のために、自分を役立て、貢献できる人は、自分のことだけを考えている人より、深い喜びを得ることができ、幸せに生きることができると思うのです。

中学校には、皆さんが自分を役立て、貢献できる機会や活躍の場がたくさんあります。部活動や生徒会活動、各種の行事など、自分たちの手で作り上げていく活動が数多くあります。こうした機会や場をとらえ、学びあい、貢献するよろこびを一つでもたくさん味わってほしいと思います。

「幼い心を捨てて自立すること」、そして「貢献するよろこびを知ること」、この二つの目標を忘れずに生活していけば、皆さんの中学校生活は、きっと充実したものになるはずです。

二年生・三年生の皆さん、後輩が希望に燃え、大きな期待を持って入学してきました。新入生は、今、喜びと同時に不安で胸がいっぱいだと思います。どうか、新入生のよき相談相手として、やさしく接し、先輩としてのよき手本を示してください。そして、共に楽しい学校生活が送れるようにがんばってほしいと思います。

最後になりましたが、保護者の皆様、お子様のご入学、誠におめでとうございます。新しい制服に身を包んだお子様の凛々しい姿に、感慨もひとしおのことと拝察いたします。
今後三年間、皆様とともに、お子様の健やかな成長を願って、教職員一同、力を合わせて、全力を尽くしてまいります。皆様の本校教育活動へのご理解とご協力を心からお願い申し上げ、式辞といたします。
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学校行事
6/30 国民安全の日
7/2 期末テスト
第3回PTA役員会
第3回PTA理事会
7/3 期末テスト
避難訓練(不審者対応)
熱中症予防講話(学校保健委員会)
7/6 部活動激励会

お知らせ

学校配布文書

学校評価

2年学年通信

PTA

全校

保健室

部活動

生徒指導

一宮市立尾西第三中学校
学校長 岩原豊起
<生徒数> (H29.4.1)
 男子 266名
 女子 285名
 合計 551名
 18学級
 (含む特別支援2学級)
〒494-0001
愛知県一宮市開明字村上54番地
TEL:0586-28-8768
FAX:0586-62-9142