最新更新日:2018/11/17
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「やる気の三中」を掲げ、地道・徹底を貫き、自立・貢献 できる生徒を育成します。

22年目の謝罪(11.5 校長講話)

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小学6年の女の子がクラスの子をいじめていました。
そのいじめていた女の子も中学生になり、クラスも変わって、いじめはなくなり、やがて大人になりました。そして、その女の子は結婚をして、子どもを出産しました。
赤ちゃんを抱いて、新しい家族の誕生に人生最高の喜びを感じながら、でも、ふと、自分の赤ちゃんの泣き顔と、自分が昔いじめた女の子の泣き顔が重なりました。
「もしこの子があのときと同じようにいじめられたら」、と、本当に大事な存在ができてやっと、自分が彼女にしたことの重大さに気がついたのでした。
「もし、私があの子だったら『死にたい』と思ったかもしれない」。

その女性はせめて相手の子に謝りたいと思い、友人を通じて連絡をとり、そのことを伝えてもらいました。
しかし、相手の子から返ってきた返事は、「謝ってほしくない」「あの頃のことは辛い思い出しかないから、思い出したくもない」という言葉でした。

その女性は、自分がした罪の重さを改めて突きつけられ、謝ることさえもさせてもらえなかったのです。それは、いじめから22年目の出来事でした。
今は、その痛みに気づかなくても、いつかいじめをしたことを後悔するときが必ずやって来るものです。私たちが人の心の痛みを分かるようになったときに、後からどんなに悔いても時間は戻せません。

私たちが、いつか本当に大切な人と出会ったときに、自分が「いじめで人を傷つけた」「人を死に追いやった」「または、そうなりかけた」と言えるでしょうか。その人がそれを聞いたらどう思うでしょうか。自分が聞かされたら皆さんはどう思うでしょうか。
いじめをするとはそういうことなのです。いじめた側も一生消えない、取り返しのつかない大きな代償を負うことになるのです。

ところで、いじめを苦に自殺する人は、心のコップの水があふれるときのように「死」を選ぶといいます。
人は、嫌なことをされると、だれでも心のコップに水がたまるそうです。些細な悪口やシカト、嫌がらせなど、最初は大丈夫でもだんだんと水がたまり、やがて一杯になります。そして、その状態のコップの水をあふれさせるには、たった一滴の水で足ります。この最後の一滴になるのは、特別ないじめである必要はなく、「ウザイ」「キモイ」「死ね」などの一言、嫌がらせの一つで十分足ります。
コップの大きさも人それぞれで、どの程度たまっているのかは、外からは決して見えません。もしかすると、あなたのその一言が、その人を死に追い詰めてしまうかも知れない。それが「いじめ」の実態です。

これまで「いじめはいじめられる側も悪い」と考えていた人にたずねたいと思います。自分のその一言が、この最後の一滴になるかも知れないと分かっていても、いじめをしようと思うでしょうか。相手を「死」に追いやっても、それでもやっぱり、いじめられても仕方ないときがあると言えるでしょうか。

悲しいことに、例年、中学年がいじめを苦に死んでいます。
「死ね」とか「自殺してみろ」とか、周囲から言われている人もいました。
誰が何と言おうと、この世に意味のない人生は一つもありません。
皆さんには、この「ウザイ」「キモイ」「死ね」という言葉の恐ろしさを改めて理解し、決して使ってはならない言葉にしてほしいと思います。

成らぬは人の成さぬなりけり(10.22 校長講話)

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1961年、アメリカ合衆国の第35代大統領に就任したジョンFケネディは尊敬する政治家として一人の日本人の名前を挙げました。上杉鷹山(ようざん)その人です。鷹山は江戸時代中期から後期にかけての米沢藩の藩主で、米沢藩再生のきっかけを作った人です。明治時代の思想家、内村鑑三は「代表的日本人」という本を英語で出し、その中で鷹山を詳しく紹介していました。そして、その本を若きケネディが読んでいたのです。では、外国の政治家からも尊敬される上杉鷹山とはどんな人でしょう。

上杉鷹山は10歳で米沢藩主・上杉重定の養子になり、わずが17歳で第9代の藩主になりました。上杉家はもともと大きな藩でしたが、関が原の合戦で石田三成に味方したために徳川家康によって会津120万石から米沢30万石にされ、また第3代藩主が跡継ぎを決める前に急死したためにさらに半分の15万石に減らされてしまいました。

収入が8分の1になったのに120万石当時の家臣6千人をかかえ、借金は20万両にも達していました。加えて幕府への出費や洪水の被害が藩財政を直撃し、悪いことに、何度かの大凶作が追い討ちをかけていました。そのため家臣や領民は貧困にあえぎ苦しんでいました。鷹山が藩主になったのはそんな最悪の頃でした。

鷹山は、藩主になるに当たって、神社に密かに誓いを立てました。藩主は「民の父母」であること、質素倹約を忘れないこと、米沢藩を必ず再生させること、その決意を怠ることがあれば、神の罰を受けてもかまわないことなどが誓われました。
「民の父母」とは藩主として領民に実の父母のように慈(いつく)しみの心をかけるということです。

藩主になって鷹山が真っ先に行ったのは藩全体に倹約の命令を出すことでした。短期間に大幅な収入が見込めない以上、できるだけ出費を切り詰めなければなりません。しかし、永年の贅沢に慣れた藩の上層部は、若い藩主の方針に大いに不満でした。そこで鷹山は自らが率先して質素倹約に努めました。鷹山は参勤交代の際にも、江戸屋敷での自分自身の生活費を7分の1まで切り詰めました。

日常の食事は一汁一菜、衣服は綿のみとし、屋敷で働く奥女中も50人を9人に減らしました。米沢での藩主就任祝いの宴会でもご馳走を止め、赤飯とお酒だけで行いました。その席で彼は、武士としては一番下の足軽にまで親しく声を掛けたといいます。

このような鷹山の姿勢に共鳴する家臣もいた一方で、古くからの家臣たちの中には強く反発する者もいました。
そして、ついに7人の有力な家臣が反旗をひるがえしました。しかし、鷹山はひるみませんでした。すぐさま7人に厳しい処分を下し、改革の姿勢をとりつづけました。
鷹山はみずからも鍬(くわ)を取って働きました。家臣の労働意欲を奮い立たせるために、奉行以下のすべての役人が参列して鷹山がまず鍬を打ち、全員が鍬を打ち続けて最後にお神酒(みき)をいただくという行事を毎年行いました。当時は藩主が自ら鍬を取って肉体労働をすることは驚くべきことでした。

米の生産高を上げるために山をくり抜いて大規模な農業用水路を作り、新田開発や河川の改修、橋の架け替え、建設などを行いました。
鷹山は質素倹約を奨励しましたが、将来の財政につながることにはお金を注ぎました。
温泉地帯での塩の精製、藩内で産出する火打石の江戸での販売、墨、すずり、染料である藍玉の製造、陶器焼き場の建設、鯉の育成など、産業振興による収入増を行いました。下級武士には内職として一刀彫や人形を作らせ、少しでも収入にするよう奨励しました。
また、江戸から細井平州という有名な学者を招いて藩の学校、興譲館を開き、家柄にとらわれない優秀な人材を育てました。

さらに藩主自ら農民の意見を聞く制度を作って、よい意見は聞き、同時に藩の財政支出の公開も行いました。こうして、藩の建て直しのめどが立った頃、鷹山は35歳の若さで藩主の地位から退きました。
引退後も鷹山は次の藩主やその次の藩主の後見(こうけん)役として米沢藩の再建に努め、72歳でその生涯を閉じました。

「成せば成る、成さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の成さぬなりけり」この有名な一文は、鷹山が家臣や領民に対して説いた心構えです。何かを成し遂げるということは、誰かが与えてくれるものではなく、自らの力で作り上げるものだという、強い決意が感じられます。

ナヴォイ劇場(10.15 校長講話)

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1966年4月、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦共和国、ウズベキスタンの首都タシュケントで直下型の大地震が起き、大多数の建物が倒壊した中、築18年を迎えたナヴォイ劇場だけが、瓦礫の中に、まったくの無傷で凛として立っていたのです。

太平洋戦争末期、日本国外にいた約65万人の日本人がソ連に強制的に連行され、強制労働をさせられた「シベリア抑留」については、よく知られていますが、日本人の抑留者が中央アジアのウズベキスタンにまで連行されたことを知る人は少ないのです。
ウズベキスタンに連行された抑留者は、約25000人で、過酷な労働を強いられ、道路、工事、運河、炭鉱、発電所、学校などの社会基盤の建設にあたりました。厳しい気候条件に加え、十分な食事を与えられらない厳しい収容生活、そして就労させられた危険な仕事などの結果、病気や事故などで、多くの日本人が死んでいったのです。
ナヴォイ劇場の建設には、約500人の日本人抑留者があてられ、そのうち約60人が建設中に亡くなったと伝えられています。この数字からも、当時の過酷な労働条件が想像できます。

しかし、日本人の抑留者は、そのような理不尽かつ、非人道的な状況のなかであっても、手抜き一つすることはなかったのです。抑留者として連行された日本人には、旧満州鉄道や建設会社の、そして関東軍の工兵たちなど、いわば最先端の技術者が多く含まれていました。そして、彼らは戦争に敗れても日本人としての誇りを捨てることなく、丁寧な仕事をして、見事なオペラ・バレエ劇場、ナヴォイ劇場を完成させたのでした。
入口の天井付近などには細かい彫刻や模様があしらわれていますが、それらも手先が器用で細かい作業も得意とする日本人の技術者がつくったものです。

そのような日本人の丁寧でまじめに働く姿を目の当たりにした市民たちは、次第に、尊敬と畏敬の念を抱くようになり、見るに見かねて食料を差し入れた者もいたといいます。さらに、当時、待遇改善を訴えてばかりいたドイツ人捕虜たちとは異なる日本人の姿に、多くの人々が感動し、その話は、今でも語り草となっているのです。

1966年4月の大地震でも無傷で残ったナヴォイ劇場を見たタシュケントの市民は、その立派なナヴォイ劇場の姿に感動し、完成度の高い仕事を成し遂げた日本人抑留者たちのことを改めて称えました。
中央アジアの国々の中でも、ウズベキスタンの日本を愛する度合いが抜きんでて色濃いのは、私たちの祖先である抑留者の方々のお陰でもあるのです。

ある通訳をしてくれた地元の大学生は、母親から「日本人のように真面目な人になりなさい」と教えられて育ち、日本を夢見て日本語を学び始めたといっています。そして、日本とウズベキスタンの友好の架け橋になるのが夢だと語ってくれたのです。

顧みぬものに目を向け(10.2 校長講話)

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ここに一つの名言があります。
「多くの教養ある人々は、富の誘惑を払うことができる。しかし、名声の誘惑をしりぞけることは、きわめて偉大な人でなければできない」。
さて、「名声の誘惑を退けた極めて偉大な人」として前野良沢を今日は紹介します。良沢は、寛政の改革で有名な松平定信と同時代の人で、中津藩の医者をやっていました。

良沢は、47歳という遅い時期にオランダ語の勉強をはじめ、やがて友人の杉田玄白らとオランダ語訳のドイツ解剖医学書を翻訳しようと志しました。
しかし、良沢たちが知っているオランダ語は、わずか一千語あまり。最初は何から手をつけたらいいのか分からず、作業はまさに、蟻の歩みのようでした。
絶望感に襲われることもしばしばありましたが、それでも歳月が経つにつれ、動物の解剖等を行って研究を積み、4年間で5巻、250ページの本文の翻訳がついに完成しました。

それが、わが国最初のオランダ語翻訳医学書、解体新書なのです。
この本の翻訳は、ただ一人、オランダ語に通じている良沢が中心になってなされたのですが、翻訳者は杉田玄白の名前で出版されました。
それは、良沢が「名声を得るために学業を行うのではない」という固い信念と、その翻訳の内容に、まだ不満足な点があって、翻訳者になることを不本意とし、拒否したからでした。
やがて、この解体新書は、大きな反響を呼び、幕府や公家にも献上されました。それまで無名の医者だった翻訳者、杉田玄白の名声はたちまち高まり、全国の医学生が彼の元に集まってきました。

杉田玄白が栄誉と富に恵まれた一方で、前野良沢は抜群の蘭学の学力を持ちながら、まだまだオランダ語研究は不十分で、他人に伝授する資格はないと考え、弟子は一切取らず、つつましい生活に甘んじて研究に打ち込むことのみに没頭しました。
玄白の栄誉と富は、良沢の貢献がなければ到底得られないものでした。それを目の前にしても、良沢は心を動かさず、学問に対する情熱は80歳でこの世を去るまで衰(おとろ)えることはありませんでした。
名声を得るのに十分な実力と業績があったにもかかわらず、ついに終生それを求めることなく、ひたすら学問の進むことを願って研究し続けた良沢。
7歳で父親と死に別れ、母親に捨てられて天涯孤独だった良沢を育ててくれたのは、伯父の宮田全沢(ぜんたく)で、その伯父の次の言葉が、良沢の終生変わらぬ清廉(せいれん)で強靭な精神を作り上げたのかもしれません。

「人が顧みぬものに目を向け、それを深く極めることに努めよ。よいな、人としてこの世に生を受けた限り、そうしたことに身を捧げねばならぬ」
世の中において、人がすぐに飛びつきそうなものばかりが意味のあるものではありません。「人が顧みぬもの」の中に、人間としてやるべき仕事を見つけ出すことが尊いのではないか。

今、流行しているものは、皆さんが40歳50歳になったときにも流行っているでしょうか。むしろ、今、注目されていない分野こそ、将来性があるということも少なくないのです。
学校の勉強は、一見つまらなそうな場合もあります。しかし、その中で我慢する力を身に付け、努力を重ねる中で、楽しさや確かな成長の喜びを見出す地道な活動。これが勉強なのです。
今自分にできないことを数えるのではなく、今の自分にできることを見つけ、それを地道に徹底して身につけてほしいと思います。

凛とした美しさ(9.3 校長講話)

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中学生時代、Aさんには道子さんという友達がいました。
隣のクラスの彼女は、何かがちょっと違っていました。初めは何が違うのか分かりませんでした。入学してしばらく経った頃、ある友人がAさんのところに来て言いました。
「あの足、マネキンの足みたいだね」
思わずAさんが彼女の足に目をやると、左右の足の太さが違います。そして、歩き方が少しぎこちないのです。身体をちょっと斜めに傾けて、足を引きずるように歩いていました。
その理由は、まもなく分かりました。彼女の右脚は膝から下が義足だったのです。当たり前にあると思っていた自分の身体の一部がないという友達は初めてで、自分と同じ中学1年生の女の子に「脚が無い」ということは、Aさんにとって大変なショックでした。

6月になり、水泳の授業が始まりました。
中学1年生。ちょっと異性を意識し始めた年頃でした。
恥ずかしさから、Aさんは「男子と一緒にプール入るのなんてやだよねー」なんて、よく友達と話していました。水泳サボっちゃおうか。なんて思うこともありました。
次の時間は、道子さんのクラスが水泳の授業でした。
Aさんは、当然、道子さんは水泳の授業は見学だと思い込んでいました。片足がないのですから。
でも、一方で、好奇心から、道子さんもしかしたらプールに入るのかな?けどどうやって?とも思いました。
Aさんは自分のクラスの水泳の授業が終わって、友達とおしゃべりしながら更衣室に向かいました。
その時です。向こうから私と同じ水着姿の女子生徒が、ピョンピョンと跳ねてくるのです。
道子さんでした。義足をはずし、もう片方の足だけでプールに向かっていきました。Aさんは声が出ませんでした。「脚が無い」彼女を始めて見たからです。
すれ違いざまに、思わず彼女の「ない」脚をまじまじと見てしまいました。そして、彼女の顔を見ました。
なんと、彼女は笑顔だったのです。

Aさんは自分がとても恥ずかしくなりました。どこも悪くないのに、「プールに入るの嫌だ」なんて言っていたことを。そして、「道子さんがどうやってプールに入るのか」なんて考えてしまったことを。
中学生なら、多少なりとも人目を気にする年頃だと思います。自分の水着姿なんて人に見せたくない、と思ってもおかしくないでしょう。ましてや、脚が無い自分の姿を皆に見せたいと思うでしょうか。
彼女の凛とした強さを目の当たりにして、Aさんは恥ずかしさで顔が真っ赤になってしまいました。

2年生になって、Aさんと道子さんとは同じクラスになりました。その年の夏、道子さんは突然入院しました。成長に伴い、義足が合わなくなったから作り直す、ということでした。たまたま同じ病院に通っていたこともあって、Aさんは何度か、道子さんの病室を訪れました。そのとき、なぜ彼女が自分の右足を失ったかを初めて知りました。
2歳のとき、重い血液の病気になり、命を救うためには右足を切断するしかなったのだそうです。自分の意思を伝えることのできない2歳という年齢で右足を失ってしまった悔しさ、悲しさを「何で何も分からない私の足を切っちゃったの?」と何度も何度も泣きながらご両親に訴えたのだそうです。
しかし、中学生の彼女はいつも明るく、みんなを笑わせていました。腕の点滴のテープにイラストを描いて看護婦さんを笑わせ、病室を脱け出して私と二人でカップラーメンを食べたりしていました。

その後、Aさんは教師になり、最初に赴任した学校に偶然にも中学時代の体育の竹田先生がいました。先生は大変厳しい先生で、水泳の授業をサボろうものなら、こっぴどく叱られたものでした。当時の話になったとき、自然と道子さんの話になりました。
「そういえば、道子さん、プールに入っていましたよね。すごいなぁ、って思っていました」
その話になると、竹田先生は急に真剣な顔になり、こうおっしゃいました。
「実はね、あのとき道子さんに「プール、無理して入らなくてもいいんだよ、休んでもいいんだよ」って私は言ったの。でも、頑として休まなかったんだよね。あの子」
Aさんは、本当の「美しさ」というものを忘れないようにしよう。そして、教師として、それを次の子どもたちに伝えようと決心したのでした。

使命感(8.2 校長講話)

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東京のある街で「助けて‼」という甲高い悲鳴が響きました。
その声を聞いて行動した1人の女性警官がいました。
警察官というのは、人を守るために様々な武器を身につけています。しかし、この日は、仕事が休みで、武器は携帯していませんでした。急いで現場に駆けつけると、血だらけの中年女性が飛び出してきました。すぐ後ろからは犯人らしき男が追いかけてきています。手には包丁のような刃物が光っています。

女性警官の身長は160cm。それに対して男は190cmを超す大男。
しかし、女性警官はその男に立ち向かったのです。
手に持っていたバインダーで必死に刃物を止めますが、力では到底、大男にはかないません。バランスを崩します。そこへ襲いかかってきた男の刃物。女性警官はそれを自分の手のひらで受け止めました。激痛が走ります。大男はその隙に再び中年女性を追いかけはじめました。しかし、駆けつけた別の警察官によって、間一髪のところで男は逮捕されました。

後日、この事件についてインタビューを受けた際、女性警官の第一声は「悔しい」でした。何が「悔しい」のか。
すると、「あの現場で、捕まえられなくて悔しかった」。
実は、この女性警官の父親も警官でした。
「お父さんのように市民を守れる警官になりたい。だから、どんな時でも人を守らなければいけない」。そういつも覚悟をしていたのだそうです。だから、「捕まえられえなくて悔しい」という気持ちになったのでした。

そんな強い覚悟を持った彼女に、新聞記者は問いかけました。
もし、同じような事件があったらどうしますか。
すると、彼女は、「同じ事態に遭遇しても、私は必ず立ち向かいます」ときっぱりと答えました。「警察官」という仕事への強い使命感と誇りがなければ出ない言葉だと思います。その使命感ゆえに、怖い目にあっても、痛い目にあっても、また立ち向かおうという気持ちが続くのだと思います。

皆さんも、自分の仕事に使命感を持ち、一生懸命に取り組める職業に出会う日が来ます。その日を目指して、地道で徹底した生活を送って欲しいと思います。

掃除と日本人(7.9 校長講話)

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2014年、ブラジルで開催されたサッカーの世界大会「ワールドカップ」。本選に出場した32か国の中に、日本の姿もありました。
とても大切な初戦で、日本はコートジボワールと戦いました。
結果は2対1の逆転負け。試合内容も、選手やサポーターの誰もが納得のいかないできでした。しかし、そのような逆境にあって、多くの国々が日本を褒めたのです。
何について褒めたのでしょうか。

それは、掃除です。
多くの国では、自国のチームがふがいない戦い方をした時、サポーターが激怒します。物を投げたり、ひどい時にはベンチを破壊したりすることもあります。逆転負けともなれば、なおさらのことです。
しかし、日本人サポーターは違いました。彼らはものに当たるどころか、自分たちの応援エリアを自ら掃除して帰ったのです。そのことについて世界中の人たちから賞賛の声が上がりました。
「日本人はいつもゴミを持ち帰ってる。1998年のフランス大会の時も日本人サポーターは掃除をしてた。2006年のドイツ大会の時もやってた」
「ゴミ袋を使って応援と掃除。日本人が手本を示した」
「日本人は規律の見本。これこそ我が国のほとんどの人に足りないもの。最高の見本だ」
「電車の中でさえ、自分が出したゴミをポケットに入れて、そのあとゴミ箱にちゃんと捨てるような人たちなんだ。もっと多くの人が、彼らのようになって欲しい。」
「日本のサポーターたちよ。真のMVPは君たちだ」

サッカーのワールドカップロシア大会で2大会ぶりに決勝トーナメントに進出し、1回戦で強豪ベルギーに惜敗した日本代表が5日、成田空港着の航空機で帰国。主将の長谷部誠が記者会見した。

会見では決勝トーナメント1回戦のベルギーとの試合後にロッカールームがきれいに清掃され、ロシア語で「ありがとう」というメモと一緒に折り鶴が残されていたことについて質問が出た。
ロッカールームの写真はインターネット上で拡散し「全てのチームのお手本」と称賛の声が上がっていた。
長谷部は「日本代表チームのスタッフの方々は本当に毎試合、ロッカールームをすべてきれいに片付けて、そして帰るという、選手として本当に誇りに思います」とたたえた。

長谷部は毎試合後に会場で清掃した日本サポーターにも言及。
「日本代表サポーターの方々がスタジアムで試合が終わった後にゴミ拾いをしてくださったりとか。僕は普段、海外に住んでいるので、そして、日本代表として、いろんな国に行く機会があるんですけど、本当に日本ほど街がきれいな国はないんじゃないかと思うぐらい、日本という場所、人は素晴らしい精神を持っていると思うので、それは一人の選手としてじゃなく、一人の日本人として誇りに思っています」と話した。

では、なぜ日本人はこのような行動をとれるのか。
考え方は様々ですが、その一つに「日本人は学校を自分たちで掃除をしているから」という意見があります。
日本の学校における掃除について知った海外の人たちには「素晴らしい考え方だ」と驚きます。
なお、欧米では学校だけでなく、様々な場所の掃除は、業者が行っているためか、公共の場でもポイ捨てしてしまう人が多いのだそうです。
私たちが小学校時代から、当たり前のようにやってきた「自分たちの場所は自分たちできれいにする」という習慣。それが今、世界から賞賛されているのです。
世界に誇るこの日本人の習慣と、その習慣を支える精神を、これからも大切にしていきたいものです。
まずは、自分たちの学校から。

勇・礼・義(7.6 校長講話)

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皆さんは何のために大会に出場するのでしょうか。いろいろな見方や考え方があるとは思いますが、目的を理解せずに大会に臨んでも、得るものは少ないのではないでしょうか。
そこで、今日は、その目的を整理し、それを私からの激励の言葉としたいと思います。

目的の1は、勇気の心を磨く。
これからの皆さんの人生は勝負の連続です。小さな失敗を気にして、すぐに勝負をあきらめるようでは、志を果たすことはできません。
次にどうしたら、有利な展開になるのか、最後まであきらめず戦い切る一つ一つの経験が、皆さんの心を強くすると思います。

目的の2は、礼節の心を磨く。
スポーツは勝利を目指して全力で戦う姿勢が大切です。しかし、スポーツにはそれ以上に大切なことがあります。それは、勝ったときにどれだけの人が喜んでくれるかです。
いくら勝っても、いくら強くても、喜んでくれる人がいないようでは、意味も半減します。
皆さんには、礼節ある振る舞いを心がけ、まず、愛される人、愛されるチームになってほしいと思います。

目的の3は、義の心を磨く。
自分の損得ではなく、人のために戦う心を「義」といいます。
この人のために戦うという心は、日本の武士道精神の真髄であり、またそれは、人に優しく、人に喜んでもらうことを自分の喜びとできる、皆さん三中生の目指す精神でもあるのです。
スポーツは皆、観るのとやるのとでは大違いで、苦しい場面が次々とやってきます。自分のためだけであれば、こんな苦しいことはなかなかできるものではありません。しかし、応援してくれる仲間のため、お世話になった先生のため、支えてくれた家族のためとなれば、別の力が湧いてくるものです。
みなさんは、全員が誇り高き三中生です。どうか、この三中の看板をしっかりと背負い、最後まで、堂々と戦ってきてください。

そして、1年生、2年生の皆さんは、先輩が全力で戦う背中をしっかりと目に焼き付けてきてほしいと思います。この大会が終わったら、先輩の夢を引き継ぎ、三中の看板を背負って行っていくのは1、2年生の皆さんです。
では、3年生のみなさんの健闘を祈ります。

もどってきたサイン帳(6.18 校長講話)

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ある日、ディズニーランドのインフォメーションにひとりの男性が暗い顔でやってきました。
「あの‥‥落とし物をしてしまって」
「どういったものでしょうか?」
「サイン帳です。」
子どもがミッキーやミニーちゃんのサインが欲しいって、園内のいろんなところを回って書いてもらったものです。あと少しでキャラクター全員のサインがそろうところだったんですが‥‥」
インフォメーションにサイン帳は届いていませんでした。心当たりの場所にもかたっぱしから電話をかけてみましたが、どこも届いていないという返事でした。
「ご滞在はいつまででしょうか?」
「2泊3日のツアーに参加しているので、2日後のお昼には帰ることになっています」
「では、このあともう少し探してみますので、お帰りの前にもう一度こちらにお立ち寄りくださいますか?それまでには見つけられると思いますので」

そのキャストのAさんはサイン帳の特徴を詳しく聞き、男性を送り出しました。男性が帰ったあと、さらにいくつかの小さいセクションに電話をしました。サイン帳のことを伝え、さらにほかのキャストにも声をかけてもらって、大勢でパーク内をいっせいに探して回りました。ところがどうしても見つかりませんでした。
キャラクターのサインがあるサイン帳だから、誰かがそれを拾ったとき、うれしくて持って帰ってしまったのかもしれません。

2日後、この間の男性がインフォメーションに現れました。
「どうでしたか?」
たぶん見つからなかっただろう、という口ぶりでした。
Aさんは、残念そうに答えました。
「大変申し訳ございません。全力で探したのですが、サイン帳を見つけることはできませんでした。しかし、お客様‥‥」
そして、1冊のノートが差し出されました。
「どうぞかわりにこちらのサイン帳をお持ち帰りください」
渡されたノートを開いてみると、そこにはなんとキャラクターのサインが書かれていました。しかもキャラクター全員分のサインがちゃんとそろっていたのです。Aさんは落としたサイン帳と同じものを店で見つけてきて、いろんなエリアを歩き回り、キャラクターたちにサインを書いてもらって回ったのです。男性は顔をくしゃくしゃにして喜び、何度も何度もお礼を言って帰りました。

さて、後日、一通の手紙がAさんに届きました。
先日はサイン帳の件、本当にありがとうございました。じつは連れてきていた息子は脳腫瘍をわずらっていて、いつ大事に至るかわからないような状態だったのです。息子は物心ついたときから、ディズニーのことが大好きでした。
「パパ、いつか絶対ディズニーランドに連れてってね」と毎日のように言っていました。
私は、「そうだね、行こうね」と答えながら、でも、もしかしたら約束を果たせないかもしれないと思っていました。命が、あと数日で終わってしまうかもしれなかったからです。
だから、せめて今のうちに喜ばせてやりたい。そう思い、無理を承知でディズニーランドへ連れて行きました。その息子が、ずっと夢にまで見ていた大切なサイン帳を落としてしまったのです。息子の落ち込みようは見ていて苦しくなるほどでした。しかし、あなたが用意してくださったサイン帳を渡したときの息子の顔が忘れられません。
「あったんだね!パパありがとね!」と本当に幸せそうな顔でした。
ほんの数日前、息子はこの世を去りました。
ずっとサイン帳をながめていました。
「ディズニーランド楽しかったね。また行こうね」と言い続けていました。
眠りにつくときも、サイン帳を抱えたままでした。
もしあなたがあのとき、サイン帳を用意してくださらなかったら、
息子はあんなにも安らかな眠りにはつけなかったと思います。
息子はディズニーランドの星になったと思います。
あなたのおかげです。本当にありがとうございました。

手紙を読んだAさんは、その場に泣き崩れたのでした。

日本を離れて分かった笑顔の意味(6.4 校長講話)

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「笑顔、笑顔」
中学生になり、家の手伝いとして店のレジに立つと、必ず母に遠くから叫ばれたものです。
「手伝ってあげてるのに何さ」
当時、生意気だった私は、楽しくも無いのに笑わなければならないことに腹を立てていました。また、自分の顔に文句をつけられていると感じて、嫌な気持ちがしたのでした。
大学に入り、アルバイトを始めました。
有名なファーストフード店です。
「元気なあいさつ」「さわやかな笑顔」が売りでした。
「いらっしゃいませ、こんにちは」
「ご一緒に、ポテトもいかがですか?」
普段は声の低い私も、さすがに声のトーンを1オクターブ高くし、無愛想なお客さんにも笑顔で対応しました。
ある日、東京の本部から社長が視察に来ることとなりました。出勤すると「今日一日は、いつもの2倍笑ってください」と指示が出ました。私たちはいつもより2オクターブほど声を高くし、思い切り口の両端を上げ、笑顔を作りました。自分が自分でなくなったように感じました。
作り笑顔に疲れた私は、3ヶ月でそのアルバイトを止めました。

大学4年生になり、1年間イギリスで生活する機会に恵まれました。
大学の学生寮は食事がつきましたが、昼食は自分で用意しなければなりません。なかなか時間が取れなかったので、ほとんど買って間に合わせました。
海外にもコンビニエンスストアは普及しています。ロンドンにも朝早くから、夜遅くまで営業しているお店がたくさんありました。焼きたてのパンやサンドイッチ、飲み物が売られていて、お昼にはよく足を運びました。
初めて買い物をしたときのことでした。
お昼時でレジには長い行列ができていました。イギリスの単位にまだ慣れていなかった私は、支払うのにもたついてしまいました。
(1ポンドは、10ペンスだっけ・・・)
財布からコインを探していたその時です。レジに立っていたインド系の女性店員が「ちっ」と舌打ちしたのです。顔を上げるとイライラした表情の彼女と目が合いました。
思わず「Sorry」と謝ってしまいました。
ふと周りを見ると、彼女だけが特別無愛想なわけではありませんでした。ほとんどの店員が与えられた仕事を仕方なくこなしているように見えました。それでいて客も普通でした。だれも笑顔やサービスなど期待していませんでした。

こんなこともありました。
チェコに旅行したときの出来事です。
都心の繁華街。その一角にある洋服店に入ると、だれも出てきません。店内を見て回ると試着室がありました。するとその奥にはお菓子をバリバリと食べながら雑誌を眺める店員がいたのです。私の姿に気づくと、「あら、いたの」という顔をして、重い腰を上げました。
「Hello」
無機質な声であいさつらしき言葉を発し、ボーっと遠くを眺めていました。この時間をいかにつぶすか、といった様子でした。
「もらう給料の額が一緒なら、楽した方がいい」という考えのようでした。
私が店を出ると、彼女は「はぁっ」とため息をついて、また試着室の奥へと消えていきました。
彼女の邪魔をしたようで、なんだか悪いことをしたような気分になってしまいました。私は、再びその店へ足を運びたいとは思いませんでした。

日本で当たり前のサービスは、海外では当たり前ではなかったのです。
あんなに面倒だった「笑顔」。
他人に媚(こび)を売るようで嫌だった「笑顔」。
多少辛いときでも、つくらなければならなかった「笑顔」。
でも、自分で不愉快な思いをして初めて、人に与える印象の大切さに気づいたのでした。

only one の生き方(5.21 校長講話)

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肩まで伸ばした髪。バンダナを頭に巻き、髭をたくわえ、素足で歩き回る。およそ学者とかけ離れた風貌。

秋山仁さんは、NHKの小中学生向けの数学の番組に出て、難しい数学を楽しく噛み砕いてお話をしてくれます。一般の人向けの講演会は、多い年で200回にもなるといいます。しかし、専門は「組み合わせ論」という数学の分野です。コンピューターとも近い、最先端の数学を研究しているのです。

さて、数学者というと、頭がいい、と連想してしまうと思うのですが、秋山さんは、自分はそうではなかったと言います。高校は、進学校を希望したのですが、受験に失敗して、できたばかりの私立の男子校に入ることになりました。成績の上下が激しく、ビリになったこともありました。

高校でのエピソードです。log(エルオージー)と書いて「ログ」という記号を習います。秋山さんは授業中にこれを「10グラム」と読み、大笑いをされたと言います。
こんな秋山さんでしたが、「数学者になりたい」と考えました。

まず、第一関門は大学入試でした。
受ける大学、受ける大学にことごとく落ちました。受かっても行きたくないと思っていた私立の大学に補欠合格で何とか入ることになりました。

大関門は大学院入試です。学者になるためには大学院を出なければなりません。担当の先生に、成績があまりに悪いので、大学院への推薦状を書いてもらうことができませんでした。そして、大学院受験でまた不合格。

これでも秋山さんは諦めませんでした。
新しく大学院ができるという話を聞きつけ、「知名度もないだろうから、競争相手がいないかもしれない」と考えました。
実際、受けた学生は秋山さんただ一人。筆記試験は全滅でしたが、面接で好印象を与えることができて、なんとか合格することができました。

第三関門は、修士論文でした。書いた論文が認められずに、一年留年することになってし
まいました。ここで、秋山さんは本気になって、これまでの人生を振り返ってみました。よく考えると、受験の失敗を含め、競争に負け続けてきたことに気がつきました。
そこで、競争相手の少ないところ、競争相手のいないところを探そうと考えたのです。競争相手がいなければ負けることはありません。

これが、秋山さんのonly oneの生き方の始まりと言えます。
当時、秋山さんは「微分」関係の研究をしていました。この分野は歴史が長く、研究をしている人もたくさんいました。逆に「順列、組み合わせ」の分野は大学にはないことに気が付きました。

例えば、四色問題という当時未解決な問題がありました。地図に色を塗る問題なのですが、約束が一つだけあります。隣り合った国を別の色にする、というものです。この条件で、最低で何色あれば塗り分けられるかというのが四色問題です。実は、どんな地図でも四色あれば塗り分けられるのだそうです。

「よし、これをやろう」
日本では、「組み合わせ理論」や「グラフ理論」は学問として認められていない風潮がありました。しかし、アメリカやヨーロッパでは研究され始めていました。
秋山さんは、早速行動を開始したのでした。アメリカに実費で渡り、大学の講義を学生のふりをして受けたのです。

その後、秋山さんはグラフ理論で書いた論文で博士号を取得します。グラフ理論での博士号は日本で初めてでした。高校生を対象とした数学オリンピックに、日本の高校生を出場させようと行動したのも秋山さんです。
また、「グラフ理論」国際大会を日本で初めて誘致しました。
NHKや一般の方への講演会などで、数学の楽しさを伝える活動も積極的に行っています。組み合わせとグラフ理論の数学の専門書も創刊しました。
このように、まだ、誰もやっていないことを次々にやって行く秋山さんの生き方は、まさに、only oneの生き方です。

競争に勝つことだけが、世の中の役に立つ生き方ではないということです。
皆さんにもいつか必ず、世の中で役に立つことが見つかるはずです。
それまであきらめないことが大切です。

当たり前のレベル(5.14 校長講話)

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かつて好敵手としてしのぎを削ったライバルの間に、いつの間にか大きな実力差が生まれてしまうことは少なくない。
この結果を「持って生まれた才能」や「日々の努力」の差と片付けてしまうのは簡単です。しかし、現実にはそれだけでは説明できない“何か”があるのではないか。環境か、精神力か、それとも運なのか・・・・。

プロフェッショナルサラリーマンの著者でビジネスコンサルタントの俣野成敏さんは、差がつくひとつの理由として「当たり前のレベル」の違いをあげています。
「誰もが、“自分はやるべきことをやっている”“一生懸命やっている”と思っている。しかし、“当たり前”と思ってやっていることのレベルは、各人違うのだ。そして、その小さな積み重ねの差が、5年後、10年後には圧倒的な差になっていく」

わかりやすい例として俣野さんが紹介するのは、カリスマ美容師と並の美容師の違いだ。
「ある人気美容師に有望な人材の特徴をたずねると、彼は『シャンプーで指名を取れる人』と答えました。誰がやってもあまり差がつきそうにない地味な仕事に思えますが、将来、カリスマになる人は、気持ちいいシャンプーのやり方を徹底的に研究し、そのときの客との会話をメモしておいて、次に来店したときには『あの映画、面白かったですか?』と話しかける。それが当たり前だと思っているのです」
美容院に就職しても、実際にハサミを持たせてもらえるまでには時間がかかる。その時間をどう過ごすか。
「シャンプーをするために美容師になったわけじゃない」と思いながらシャンプーする者と、「今のうちに気持ちのいい接客を身につけよう」と考える者。
その違いが5年後、10年後の指名客数の差になるというわけだ。

リクルートエージェントのキャリアアドバイザー細井智彦さんも言う。
「伸びない人は、自分の好みに合うかどうかだけで“面白くない仕事”と判断してしまう。そうではなく、その仕事の中で自分がどう面白いことを見つけられるかを考え、貪欲に自分の中に取り込もうとする人が成長できるのです」

販売店でも、買い物を終えた客を、店の外に出て客の背中が見えなくなるまで見送り続けることを「当たり前」と思っている販売員と、客が店を一歩出たとたんにもどる販売員とでは、いずれ大きな差ができると俣野さんは言う。
「お客様を見送る姿を、店の前で通る人はちゃんと見ていて、“あの店員さんは感じがいいね”ということになる。また、こうしたお客様への感謝や気遣いの積み重ねは、店内での接客態度にも必ず影響します。その差は小さくても、毎日の蓄積でそれは大きな差になっていくのです」

何を当たり前とするか、
それを決めるのは、自分自身。
その「当たり前」の差は、時が経てばたつほど、はっきりとした差になるのです。
今の自分にできることを決め、「地道」に「徹底」してやり続け、自分にとって当たり前とすること。それが、多くの成功者の共通点なのです。

活きた学問(4.23 校長講話)

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徳川時代のわが国は、藩で構成されていました。
そして、その藩には、現代の大学に相当する学校として、藩校が設置され、江戸には、それら藩校の総元締めの大学として湯島聖堂がありました。
湯島聖堂は最高学府として偉容を誇っただけでなく、教授は天下に名を知られた学者ぞろい。学生も各藩からよりすぐった秀才ばかりを集めていました。もちろん教育施設も日本一整っていました。

それに反し、当時の吉田松陰の松下村塾は、松陰が罪人として幽閉されていた粗末な3畳ほどの部屋からスタートし、教師は吉田松陰ただ一人。松陰がおとがめを受けているため、大っぴらに生徒を集めることはできず、近隣の青少年や松陰を慕う青少年が集まって来たに過ぎませでした。
しかし、幕末から明治維新の激動の時代に当たって、わが国の命運を賭ける課題に立ち向かい、課題の解決に自分の命を賭けて活躍し、歴史にその名を残した、多くの人物は、立派な湯島聖堂からの出身者ではなく、粗末な松下村塾から巣立った者達だったのです。

坂本竜馬や西郷隆盛に影響を与えた、長州藩の中心人物、久坂玄瑞。
江戸幕府の倒壊を決定づけた、奇兵隊で有名な高杉晋作。
第9代内閣総理大臣となった、山縣有朋。
初代内閣総理大臣から、5代・7代・10代と4回にわたり内閣総理大臣となった、伊藤博文など、幕末の偉人を次々と輩出したのです。
現在の調査によると、松下村塾の塾生は、述べ90名程度で、その30%に当たる塾生が、後に歴史に名を残したといわれています。
しかも、松陰がその塾生達の指導に当たったのは、わずか2年にすぎなかったのでした。

では、その奇跡のような教育とはなんだったのか。
それは一言で言えば、松下村塾の学問は時代の課題に立ち向かう「活きた学問」であったということです。
「活きていない」学問というのは、たくさんの知識は身につけるけれども、その志は、よい就職口にありつきたいとか、学者としての名声を得たいとか、富や名声の欲に走り、または、物知り辞典のような立場に満足して、その時代の本当の問題や課題を知らず、これを解決しようとする心構えがない。つまり、世の中の人々を救おうとする「志」に欠けた学問を言います。

これに反し、松下村塾では、名声や利益を求める心を捨て、ただひたすら、世のため、人のために、今ある社会の課題に立ち向かい、その解決のために勉学に全力を尽くすとともに、「自分の持ち味」を活かして、社会に貢献しようとしたのです。
松下村塾では、10代の塾生が、世の中の問題について、堂々と議論していたといいます。そして、それはまるで、白熱教室と言えるものでした。

さて、ひるがえって今の私たちの勉強はどうでしょうか。
そもそも、私たちは、自分のことは心配しても、今の日本のことを心配したことがあるでしょうか。
諸外国との関係をどのようにつくっていくと日本の安全が保障されるのか。そして、そのために日本にとって必要なものは何か。そのために、私たちはどのような知識、どんな力を身につけなければならないか。
松下村塾の議論を現代に置き換えれば、塾生の間でこうした議論が展開されていたことでしょう。インターネットなどない情報不足の中で、大したものです。

しかし、皆さんだって負けてはいません。
なぜなら、皆さんは、テレビやネットで、ニュース解説や討論番組を見たり、様々な情報や意見を取り入れることで、日本の問題を自分の問題として受け入れることができるからです。
もっと身近な例では、皆さんの学校生活の中で、いかに次の行事を成功させるかを真剣に話し合うことや、学級内の人間関係や、いじめの問題に正面から取り組むことは、まさに「活きた学問」といえるのです。
こうした、現実の問題に目を向け、それを解決しようとする「正義感」や「使命感」こそ、吉田松陰が力説する「志」なのです。
つまり、勉強とは、世の中の問題を解決するため、自分らしく貢献できるよう、備えるためにあると思うのです。
皆さんには、自分だけのためという枠を突き破り、他者のため、そして、みんなのために貢献する誇りと喜びを、現実の学校生活の中で体験して欲しいと思います。

何のために学びますか(4.16 校長講話)

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ある日のこと、一通の手紙を読み終えた青年は、打ちのめされました。
「とてもかなう相手ではない」
自分がいちばん優れているとうぬぼれていたこの青年とは、後に高杉晋作と並んで松下村塾の双璧をなす、久坂玄瑞(げんずい)、17歳でした。

わが長州藩(現在の山口県)に吉田松陰という優れた人物がいると聞いた久坂玄瑞は、吉田松陰に手紙を送ったのです。
「今日の日本は、綱紀が乱れ、士気も低下しております。しかも西洋列強がすきあらば侵略の手をわが国に伸ばしつつあるのに、何もできていません。アメリカの使者などは斬って捨て、断固として外国を排除すべきだと思いますが、いかがでしょうか」

自分の意思をきっぱりと示し、松陰の共感を得ようとした手紙でした。松陰からの返信はただちに来ました。しかし、それは思いがけない内容でした。

「あなたの議論は軽薄です。本当は自分の名誉と利益を求めているのと変わりありません」それを読んだ玄瑞は、松陰など評判ほどの人物でもないと怒りましたが。再び反論の手紙を書きました。

1ヶ月半が過ぎて、ようやく見覚えのある手紙が届きました。

「今、日本に必要なことは、まず国内を固めることです。まして外国と和親条約を結んだからには、相手を切り殺すと国際信義を失います。あなたは医学生でありながら、天下の重大事に感心を持っているのは大変すばらしいので、私はあなたに望みをかけ、この手紙を書きました。しかしあなたは言葉が多く雄弁ではありますが、一つとして実践で結果を残していません。すべて口先だけの空理空論ではないですか。元気があるのはいいですが、歴史の方向性を冷静に見つめ、日本の未来を切り拓くことができる人間になってほしいのです」

玄瑞は衝撃を受けました。
言葉だけで何も実行したことが無いという松陰の指摘は事実だったからです。しかし玄瑞は懲(こ)りずにまた、長々と激しい意見を松陰に返信したのです。それに対して、松陰から送られてきた手紙は、玄瑞に覚悟を迫る、いわば最後の挑戦状でした。

「僕があなたを口先だけの人間だと疑ったのは間違いでした。では今後、あなたは外国人を斬ってみてください。私はあなたの才能を見させていただきます。私も以前、江戸でアメリカ人を斬ろうと思いながら、利益よりも害悪が多いと気がつき、止めました。あなたが言葉通り実行できたら、あなたの名は後世に残るでしょう。しかしそれは自分の名誉や利益を求めるだけの行為だと思います。そして、もしそれができなければ、あなたは私と同じ無能の人です」

この手紙は久坂玄瑞を打ちのめしました。
後に深い絆で結ばれる松下村塾の師弟関係がここに誕生した瞬間でした。

吉田松陰は、それが自分より年下の17歳の青年であっても一人前の大人として扱い、全身全霊で誠実にぶつかり、忍耐強く相手の気持ちが熟すのを待ち、厳しい言葉を送りました。誰に対してでも変わらぬその一貫した誠実な姿勢が、相手の魂を揺り動かしていったのです。

吉田松陰が指導した松下村塾は、八畳一間ほどの小さな塾でした。松陰が松下村塾で直接弟子たちを教えたのは、わずか二年半ほどに過ぎません。しかしその間に、この久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文をはじめとする明治維新の原動力となった人物が次々と育ったことは驚くべきことです。

松陰は門をたたいてきた若者に、必ず聞くことがありました。
それは、「何のために学問をするのですか」という質問です。
そして、「単なる物知りになってはいけない、実行が第一だ」と諭(さと)しました。そして、自分の名誉や利益を捨てて物事に接すれば、人も周囲の状況も必ず動くということです。

さて、皆さんは、松陰や玄瑞の時代とは比べ物にならない程、豊かな環境の中で育ち、体格などは当時とは比べものにならない程立派です。しかし、大人として自立する覚悟や社会で貢献しようとする志はあるでしょうか。

私は、松陰先生が皆さんに言っているような気がします。
「何のために勉強するのですか」と。

地道・徹底(4.5 校長講話)

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二年生、三年生の皆さん、進級おめでとうございます。

今、新入生を迎え、尾西第三中学校総生徒数五六四名が、新しいスタートを迎えました。新しいクラスも決まり、後は、担任の先生は誰なんだろうと、期待と不安で一杯のときだと思いますが、発表する前に一つだけお話をします。
これからの一年間、私が皆さんに期待することはたくさんありますが、先ほど述べた「自立」と「貢献」を実現するため、そして君たち自身の夢をかなえるためのキーワードを一つだけ述べます。

それは、「地道・徹底」です。

これは、地道に、しかも徹底して行うという意味です。自分のすべきこと、そして、自分にできることを見つけ、それを徹底して繰り返し、習慣化すること。これこそが勉強においても、スポーツにおいても成功への近道だと思います。また、逆にやってはならないことについては、決してやらないと決意をし、守り切ることが大切です。例えば、いじめ等、卑怯な振る舞いは決して許してはなりません。

このように、徹底して身に付けた良き習慣こそが、皆さんの本当の力となり、その後の人生を実り多いものにしてくれるものと思います。

さあ、自分にできないことを数えることは、もうやめましょう。
今の自分にできることがあります。それを見つけ、徹底してやり切り、習慣にし、自分のものにしていきましょう。

三中の先生は、頑張る皆さんの目標達成のために、全力で応援します。
共にがんばりまょう。

自立・貢献(4.5 校長講話)

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命あるものすべてが大きく躍動する春爛漫の季節を迎えました。
そんな中で、本日、入学式を挙行できることを大変うれしく思います。
一七八名の新入生の皆さん、入学おめでとうございます。皆さんは、今日から晴れて、この伝統ある尾西第三中学校の一員となり、義務教育の仕上げをする、中学校生活の第一歩を踏み出しました。このスタートにあたり、私から皆さんに二つのことを提案します。

まず一つ目は、「自立を目指すこと」です。

明治維新を成し遂げた最大の功労者、西郷隆盛が死ぬときまで肌身離さず持っていたのは、一通の手紙でした。それは、西郷より七歳年下の、しかし西郷が最も尊敬する人物、橋本左内からもらった手紙でした。橋本左内は、当時、諸外国から侵略される危機にあった日本に対して、開国をして強い国と同盟を結ぶことを提案したり、世界に国際連盟ができることを五〇年も前に予見したりするなど、後に、日本を救うことになる幕末でもっとも優れた志士でした。

その橋本左内が、たった十五歳のときに、自身の決意を『啓発録』という手記にまとめました。そして、これこそが彼を「福井の一少年」から「日本の橋本左内」へと大変身させるきっかけとなったのです。
その手記の中で佐内は、一番初めに(去稚心)「幼い心を捨てよ」と述べています。幼い心とは、怠ける気持ちや、甘える気持ち、また、失敗の原因を人のせいにし、人の悪口をいうことにより自分の行為を正当化しようとする幼い心をいいます。
新一年生のみなさん、みなさんが十五歳で卒業するまでの三年間で、「幼い心」を脱ぎ捨て、自分で考え、自分で決め、自分で責任を持って行動できる、自立した若者を目指してほしいと思います。人は放っておいて自然に大人になるものではありません。自分からなろうと覚悟を決めなければ立派な大人にはなれないのです。

二つ目の提案は、「貢献する喜びを知ること」です。

貢献とは、簡単に言えば人の役に立つことです。自分の利益ばかりを追求し、他人のことを考えず、自分の欲望を満たそうとしている人の生き方は、実は寂しく、本当の心の安らぎは感じられないものです。
一方、家族のため、友人のため、より多くの人々のために、自分を役立て、貢献できる人は、自分のことだけを考えている人より、深い喜びを得ることができ、幸せに生きることができると思うのです。

中学校には、皆さんが自分を役立て、貢献できる機会や活躍の場がたくさんあります。部活動や生徒会活動、各種の行事など、自分たちの手で作り上げていく活動が数多くあります。こうした機会や場をとらえ、学びあい、貢献するよろこびを一つでもたくさん味わってほしいと思います。

「幼い心を捨てて自立すること」、そして「貢献するよろこびを知ること」、この二つの目標を忘れずに生活していけば、皆さんの中学校生活は、きっと充実したものになるはずです。

二年生・三年生の皆さん、後輩が希望に燃え、大きな期待を持って入学してきました。新入生は、今、喜びと同時に不安で胸がいっぱいだと思います。どうか、新入生のよき相談相手として、やさしく接し、先輩としてのよき手本を示してください。そして、共に楽しい学校生活が送れるようにがんばってほしいと思います。

最後になりましたが、保護者の皆様、お子様のご入学、誠におめでとうございます。新しい制服に身を包んだお子様の凛々しい姿に、感慨もひとしおのことと拝察いたします。
今後三年間、皆様とともに、お子様の健やかな成長を願って、教職員一同、力を合わせて、全力を尽くしてまいります。皆様の本校教育活動へのご理解とご協力を心からお願い申し上げ、式辞といたします。
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学校行事
11/18 家庭の日
11/19 あいさつ運動
朝礼
期末テスト範囲発表
11/20 あいさつ運動
11/21 あいさつ運動
一日観察日
11/22 あいさつ運動
11/23 勤労感謝の日

お知らせ

学校配布文書

学校評価

2年学年通信

PTA

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保健室

部活動

生徒指導

一宮市立尾西第三中学校
学校長 岩原豊起
<生徒数> (H29.4.1)
 男子 266名
 女子 285名
 合計 551名
 18学級
 (含む特別支援2学級)
〒494-0001
愛知県一宮市開明字村上54番地
TEL:0586-28-8768
FAX:0586-62-9142