本日の全校朝礼は、1時間目の学活の時間も活用して行われました。
具体的には私の講話のほか、先週で教育実習を終了した実習生の挨拶、生徒会や生活委員会からのお知らせ、生活指導主任・田村先生のお話、前の記事で紹介された食器修繕のお話、そして、地域班編成が行われたためです。
地域班とは、生徒の住所によって編成した班です。 主に集団下校の際に活用しますが、その集団下校も以前のように 「 大震災発生時 」 は想定していません。 大地震が発生したときには、学校待機が原則だからです。
現在、地域班による集団下校は、不審者情報等の理由により行われます。 したがって、地域班を活用することが 「 無い 」 のが一番ですが、例年本校では万が一に備え編成しています。
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街中で、このポスターを見かけたことはないでしょうか? 隈取りをした歌舞伎役者がにらみをきかせた絵に、【 誰かみてるぞ 】 という言葉をかぶせています。 警視庁のつくった防犯ポスターです。
では、ここで言う 【 誰か 】 とは、いったい誰のことだと思いますか?
それが街中であれば、地域の人や通りすがりの人でしょう。 あるいは、近年は多くの場所に防犯カメラも設置されているので、そうしたカメラの目ということも考えられます。
また、キリスト教などを信仰している人にとって、それは 「 神様 」 かもしれません。 日本にも 「 お天道様が見ている 」 という言葉があります。 「 お天道様 」 とは、昔の人が太陽のことを敬って使った呼び方です。
さて、ここでちょっと想像してみてください。 もし、このポスターが校内の至る所に貼ってあったとしたら、その学校はどんな学校だと思いますか? これはあくまで個人的見解ですが、私だったらこんなふうに思います。
もし、このポスターが傘立てに貼ってあったら、私はこう思うでしょう。
「 この学校には、誰も見ていないと思って人の傘を勝手に使うような、心の卑しい生徒がいるのだな … 」
もし、このポスターが下駄箱に貼ってあったら、私はこう思うでしょう。
「 この学校には、誰も見ていないと思って人の靴にいたずらするような、心の貧しい生徒がいるのだな … 」
もし、このポスターがトイレに貼ってあったら、私はこう思うでしょう。
「 この学校には、誰も見ていないと思ってトイレを汚したり、トイレで悪いことをしたりするような、心のさもしい生徒がいるのだな … 」
そして、もしこのポスターが教室のあちこちに貼ってあったなら、私はこんなふうに思うでしょう。 「 こんな学校は、もはや学校ではない … 」
さて、少し嫌な想像をしてしまいましたが、もちろん 『 東京で一番 』 を目指す稲付中は、今までも、そして、これからもこんなポスターが校内に貼られることはないはずです。 いえ、そういう学校でなければなりません。
【 誰かみてるぞ 】
先ほども述べたように、その 【 誰か 】 は、地域の人、防犯カメラ、神様、お天道様など、さまざまであって良いと思います。 ただし、さらに現実的な話として、もっと身近な 【 誰か 】 を紹介しておきましょう。
人の傘をとろうとするその手を見ている 【 誰か 】 人の靴にいたずらするその手を見ている 【 誰か 】 学校に違反物を持ち込もうとするその手を見ている 【 誰か 】 人の悪口をネット上に書き込むその手を見ている 【 誰か 】 …
もうわかったかと思います。 悪事を働く手は、自分自身が見ているのです。 誰も見ていないと思っていても、自分だけはその行為を見ています。 つまり、必ず自分を見ている 【 誰か 】 とは、もう一人の自分なのです。
その 【 誰か = もう一人の自分 】 とは、「 良心 」 という言葉に置き換えてもよいでしょう。 人は、他人に嘘をつくことはできても、自分の良心に嘘をつくことはできません。
神様やお天道様に頼ることなく、私たちは私たちの中にある良心に従って行動しましょう。 そうすることで、誰もが安心して通える 『 東京で一番の学校 』、誰もが安心して暮らせる住みやすい街を築けるのだと思います。