愛される学校づくり研究会

辛口コラム

★このコラムは、津市の太郎生小学校の校長だった中林則孝先生によるものです。中林先生は校長としてほぼ毎日「学校便り」を発行していらっしゃいました。教室で起こるドラマをドキュメンタリー風に書き綴った便りからは長年の実践に裏打ちされた深い教育哲学と固い信念を感じます。真っ直ぐで媚びを売らないその論調から「中林則孝のゴメンネ辛口コラム」というタイトルにしました。教育にまつわるさまざまな話題を独特の切り口で切ってもらいます。

【 第12回 】私が初任者指導で大事にしていること

1 はじめに

「初任者研修ほど大切な研修はありません」と私は2月中旬のフォーラムで話し始めました。このことを否定する人はいないと思います。現実にはどうでしょうか。
 初任者研修は制度としては整ってはいても、研修内容は指導員任せになっています。授業研究についての教育書はたくさんあり、情報を手に入れることは簡単です。でも、初任者研修に関しては「初任者向けに書かれた書籍」はあっても、指導員向けの資料は限られています。初任者の授業を指導員が見て、それぞれの指導員がどのように指導するのかということこそを交流するべきだと思います。
  しかし、現実を憂いても、無い物ねだりをしても、建設的ではありません。
 そこで、最終回の辛口コラムでは「私の初任者研修」と称して、私が指導の中で大事にしていることを報告します。学校には教育課題が山積しています。そのすべての課題に時間を費やして対応することは現実的には不可能です。初任者にも24時間しかないのです。教室で子供たちの学力を高めていくために必要なことを述べることにします。

2 「学習指導案」の扱いは?

私が担任をしていた頃は、授業指導というとまずは指導案でした。次に教材研究です。そのことに多くの時間を費やしていました。指導案の直しを命じられることが常でした。
 今も、「指導案重視」「教材研究重視」「発問や課題の検討」ということが授業研究においては重きをなしているような気がします。

初任者研修の指導員としての私は指導案よりも、まずリアルの授業中心です。目の前に(正確に言うと1時間後)授業があるのです。それに、日々の授業は指導案なしで行っています。授業の流れを書いたメモ程度で授業はできるし、やれないといけないのです。
 私が指導案を重視しない理由は指導案を書いたり、直したりすることに時間がかかることだけではありません。仮にそのことに時間を費やしても、ていねいな指導案を書くことが授業の充実につながるのであれば指導案は必要です。
 しかし、私のこれまでの経験では指導案を書かない授業の方がよいということが多いのです。初任者だけではなく、経験を積んだ教員の授業を見ていてもそのように思います。
 教材研究に時間をかけ、課題や発問を吟味し、それを指導案という形に文章化することが研究授業における必須のステップと考えられています。しかし、そのことは授業を形成する上で必要な「攻め」と「受け」の、「攻め」の部分だけなのです。攻めとは教師が授業の前に準備しておく、教材研究や発問のことで、野口芳宏先生の造語です。攻めに対して、授業中の子どもたちの反応への対応が「受け」です。
 この受けこそが授業たるゆえんなのです。講義は攻めだけで成り立っています。対して、授業は攻めと受けが存在しており、受けが授業を活性化させます。
 指導案を書いた授業は多くの場合、攻めという教師側の論理で展開しようという傾向が強くなります。普段の授業であれば子どもの反応に対して臨機応変な対応ができる教師でも、指導案を書いた研究授業では硬直的な展開をすることがよくあります。指導案がむしろ授業の質を低下させているのではないかとすら思うのです。本当に力のある教師は指導案があっても、子どもの意見に柔軟に対応し、見事な授業をします。でも、それは本当に力のある教師だけができることで、多くの教師はどうしても指導案に書いてある予定した流れに沿って授業を行うようになりがちです。
 この2つの理由から、私の初任者指導では指導案はあまり重視しませんでした。しかし、事前指導においては「めあて」と「流れ」を確認します。「めあて」がピンポイントでないと授業はうまくいきません。受けの質が低くなります。明確なめあてを持った授業では適切なヒントを出したり、効果的なゆさぶりをなげかけることができます。指導案ではまずめあてを見ます。めあてがピンポイントに書かれていると、授業が大きくくずれることはありません。

3 学習規律

学習規律が整っていないと授業が成立しません。いくらいい発問を準備しても、子どもたちがその発問を聞いていなければ授業になりません。発問や課題をすべての子どもたちに徹底することは簡単なことではないのです。目指すは「教師の指示を聞くクラス」です。教師が一生懸命板書し、説明していても、聞いていない児童がいることがむしろ普通です。そのため子どもたちの顔を上げさせ、鉛筆を置き、話を聞くということを授業の中で徹底します。「繰り返しの言葉がけ」とできたかどうかの「確認」が必要です。教師が電子黒板の方を向き、子どもたちに背を向けていると、遊ぶ児童がいます。それが子どもたちなのです。
 こんな時、子どもたちをしかるのではなく、注意を喚起する声かけとその指示が通っているかどうかの確認を繰り返します。そのことを根気強く繰り返すしかありません。小学校の教員にはこのような地道な努力が必要なのです。学習規律の徹底は「黄金の三日間」だけではできません。学級経営のロジックだけでも無理です。繰り返します。声かけと確認を繰り返すことが必要なのです。
 事後指導ではいかに子どもたちが話を聞いていないかが分かる写真を見せます。一生懸命説明している担任は、遊んでいる子には意外に気づいていないものです。

4 日常授業の質を高める

週に一度、提案授業を見ます。授業前には事前指導を行い、授業後は事後指導をします。提案授業では「漢字練習の方法」や「漢字テスト」「計算の習熟」「作文指導」など、いわば研究授業では扱わないような日常の指導のことも意図的に話題にしています。子どもたちの学力を高めるには日常指導の充実は不可欠だからです。とかく教育研究においては「研究授業」に必要以上のウエイトが置かれる傾向があります。
 私の初任者研修では派手な授業は求めません。毎日の授業の質を高めることを念頭に置いています。実は毎日の授業の質を高めることは簡単ではないのです。「手抜き」ができませんから。
 日常授業の質を高めるための具体的な方法としては次のことにほぼ毎時間こだわっています。一度か、二度説明したらすむということではないからです。

  • 全員参加の授業
  • 発問よりも「受け」に全力を
  • 子どもを常に見ているという「オーラ」を
  • 無理のないICT活用(実物投影機の常設)

スペースの関係で、これらのことについての詳しい説明は省きます。

5 反復習熟学習を日常的に行う

かけ算の九九の学習では担任は繰り返し指導し、自由に言えるところまで習熟させるための努力をします。2年担任にとっては大切な指導となります。教科書や指導書にはこの九九の習熟の時間は配当されていません。しかし、2年生の担任は自分の経験から九九をスラスラと言えることが必要だと言うことを知っていますから、あの手この手で子どもたちを励ましながら結果を出そうとします。まさに学習指導要領で言うところの「確実に習得させ」ているのです。
 詰め込み学習に批判的な考えをする立場の人たちも、九九の習熟については声をあげません。それは必要だということではないでしょうか。
 かけ算の九九を例にしましたが、基本を身につけるに繰り返しの練習が必要なことは当たり前のはずです。ピアノでも、英語でも、サッカーでも、何らかの技能を身につけるには基本の繰り返しの練習がいるのです。
 作文や漢字でも、同じことが言えます。日常的な学習が必要です。日常的に作文や漢字学習を取り入れ、子どもたちに「練習したからできるようになった」という成就感を持たせることが大事です。スパルタではいけないのです。その細かいノウハウを指導します。初任者研修は年間を通して指導できる時間があるので、このような指導も可能です。

6 教材研究の方法を教える

冒頭、「教材研究」重視の傾向については否定的なことを書きました。しかし、教材研究の必要性を否定しているわけではありません。教材研究の方法をこそ初任者指導においては話題にするべきです。
 教材研究の基本は「教科書」です。教科書教材以外のネタを使った授業がうまくいき、子どもたちが興味を持つことはあります。それは大事なことではありますが、基礎学力の向上のためには教科書をしっかりと指導する必要があります。
 国語の場合。小学校の国語の教材は一度か二度読めばストーリーは分かります。その一度か二度読んだレベルで授業をしようとすると指導書に頼らざるを得ません。この赤刷りや指導書頼りからの脱却が教材研究そのものとなります。
 まずは教科書をコピーし、そこに鉛筆や赤鉛筆を使って書き込みをします。「子どもがひっかかりそうな部分、作品の構成に関わった部分、素敵な表現、伏線となっている部分、呼称、語り手の視点、学習用語」など観点を明確にして読み直します。すると、一度読んだだけのレベルとは違った読みができるようになります。こういった作業を繰り返すと、作品を読むときの「物差し」が増えてきます。それが授業の充実につながるはずです。その過程で指導書を読むこともあります。
 私が担当している初任者は2学期までは赤刷りの指導書を手にしていたのに、今ではびっしり書き込みがされたコピーを使うようになりました。まだ、物差しは少なく、教材研究としては甘いけど、このことの繰り返しが教師としての力をつける確実な方法だと思っています。
 算数の場合は国語よりもねらいが明確です。学力として見えやすくなります。そのため油断すると自己流の展開をすることがあります。問題が解ければ良いのだろうという勝手な思いが自己流の授業を招きます。
 算数も教科書をていねいに読みます。図やキャラクターの吹き出しには特に注意します。そこには必ず編集の意図があります。意図を反映した形で教科書が作られているのです。カット一つとっても、レイアウトにも、分かりやすく指導したいという編集の意図があります。そのことを読み取ります。編集の意図を十分に理解した上で、自分なりのアレンジはあり得ますが、その逆、つまり教科書を無視した自己流の展開はうまくいかないことが多いです。
 実物投影機で教科書の図や問題をマックス拡大して考えさせる方法は有効ではありますが、「教科書通りに分かりやすく指導」することは簡単ではありません。私が担当している4人の初任者は授業が平均以上のレベルで、学級経営もうまくいっています。そんな力のある初任者でも、授業後、私が「よかったです。合格です」といったことは皆無かも(汗)。
 教科書通りに指導する授業でも「ペア学習」「班活動」「プレゼンテーション」などの活動を取り入れることができます。一斉指導の中で、子ども同士が関わることができるのです。これが授業の基本であり、すべての初任者がまず身につけるべき指導方法だと私は思っています。

7 授業時間の「ゆとり」はない

小学校ではほぼすべての教科を担任が1人で担当するため、時間数についてもどんぶり勘定になりやすい傾向があります。しかし、例えば算数の時間数をていねいに考察するとびっくりするような事実に気がつきます。1年間で、1時間のゆとりもないのです。教科書の指導書に示されている時間数にはテストの時間数が含まれていません。テストの時間数をプラスすると、年間の時間数がほぼいっぱいです。テスト返しの時間の確保がむずかしくなるほどです。インフルエンザなどの学級閉鎖があれば、時間数が足りなくなります。
 この計算は指導書の配当時間で授業を進めた場合です。ていねいに授業をしていたり、復習に時間を取ったり、45分で1問だけしか扱わないという授業をしていたりすると、教科書が終わらないことになります。
 このことは算数だけではなく、他の教科でも同じです。日々の授業の進度を十分に意識した授業をすることが必要です。日常授業は時間数が限られています。算数の時間数は綱渡りであることを頭にいれておかなければなりません。

8 「アナログ」と「デジタル」で指導

事後指導においては写真や動画を頻繁に使います。いわば「デジタル」での指導です。写真は一目瞭然なので初任者も私の言うことに納得します。10秒から30秒程度の動画を使うことも多いです。デジカメで高画質の動画が簡単に撮れるので使いやすいです。
 加えて「教室はドラマ」という通信も発行します。印刷した文字情報です。私が話したことは時間が経つと初任者の記憶からは薄れます。しかし、印刷した通信ではそれで振り返ることができます。ある初任者は「通信を読み直してみるととても勉強になります。また、自分のことだけではなく他の初任者のことも書かれているので、とても良い刺激になります」(K先生)という感想を持っています。
 初任者に「半年後、この通信を見た時、『なんだ、この程度のことができていなかったのか』ということになれば成長したということ。逆に『まだ、このことができてない』ということなら課題が残っているということになりますよ」と辛口コメントの私。

9 「研修は楽しい」と思わせる

担当している4人の初任者が一堂に会する学習会も行っています。夏休みと春休みに。この春休みにはパソコンを授業で使うための実技研修を予定しています。半日の時間があるとまとまった学習ができます。また、同じ年度に採用され、私が指導員であったという因果を持つ初任者です。親しくならないはずがありません。
 初任者研修は個別に行っています。だからこそみんなが集まった学習会をすると連帯感が生まれます。このことが教師としての励みや意欲にもつながるはずです。
 ある初任者が次のような感想を書いています。「中林先生を指導員に持つ、同じ仲間と出会うことができました。通信を通じて初任者4人のクラスの様子や授業の様子、がんばっている様子を共有してきました。何度か研修会やご飯にもご一緒できたことで本当に気楽に話すことができるようになりました。仲間の姿に刺激を受けて自分のがんばることができました」(O先生)と。
 私は自分のブログやFacebookであえて初任者のことをさしつかえのない程度、話題にしました。初任者指導の方法をオープンにすることに加えて、初任者の皆さんにとってはがんばっているところが他の教育関係者の目に留まることは励みになるのではないかと思っています。

10 初任者も、経験者も、大事なことは同じ

長文の今回のコラム、最後の項目になりました。以上述べてきたことは、初任者研修において私が大切にしていることです。初任者に大切なことは実は経験のある教員にとっても大事ではないかと思っています。
 初任者のY先生は「中林先生に教えていただいたことは『初任者だから大切にする』のではなく、これからもずっと変わらず大切にしていきたいことです」という感想を書いてくれました。
 「教室はドラマ」という初任者に向けた通信を、ある学校の校長先生はそれをマス刷りして職員に配ってくれています。「留め直し」と称して。教育実践を進めるうえでは初任者も経験者もないことだろうということだと思います。ありがたいことです。


 この「辛口コラム」にアクセスしていただいた皆さんに心から感謝しています。ありがとうございました。最終回の今回は今の私の仕事について思うままに書かせていただきました、辛口の精神で読んでいただくことを期待して。

(2015年3月16日)

準備中

●中林 則孝
(なかばやし・のりたか)

1951年生まれ。初任者研修指導員。一輪車が小学校に普及し始めた頃、練習を継続すれば大半の児童が一輪車に乗れるようになることを知り、「練習量が、ある時、質に転化すること」を実感する。初任者研修では、スローガンや方向性だけではなく、子どもを念頭に置いた具体的な指導を心がけている。