愛される学校づくり研究会

黙さず語らん

★このコラムは、「小牧市教育委員だより」での副島孝先生(前小牧市教育長)の発信を楽しみにしておられた皆さんからの要望で実現しました。「これまでのように学校教育や現場への思いを語り続けてください」という願いをこめて「黙さず語らん」というタイトルにしました。

【 第7回 】外部指導者の意義と限界

学校の授業研究に外部指導者を招く学校が、多くあります。私自身も教師時代に、多くの外部指導者にお世話になりました。あの外部指導者を抜きにして、この結果は考えられなかったと思うことも少なくありませんでした。

 一口に外部指導者と言っても、様々なタイプの方がおられます。実践を積み重ねてきた方、研究者としての実績を基にする方、あるいは、その両方を兼ねた方など。また、指導の方法も、それぞれです。非常に辛辣な批評で鼓舞する方、ソフトな語り口でいつの間にかその気にさせる方、時に応じて様々な手法をとり混ぜる方など。
 私が個人的に希望を出せるようになってからは、ある物差しをもって外部指導者の選択をしていました。それは高名だからとか、自分の考えと似ているからとか、お話が上手いからなどではありません。私自身が継続的に指導を受けたいと思うかどうかで、判断していました。
 1回の講演で何とかなるような種類の課題に、取り組んでいたわけではありません。まして、良いお話を聞くことで努力しているかのような気持ちを抱いたら、逆効果になり兼ねません。教育長時代にも、これはと思う方に、市内の学校の指導に入っていただくことをお願いしたり、担当の指導主事に、私が希望しているからとお願いして、研修に来ていただいたりしてきました。

 本来なら、校内のメンバーで授業研究を行い、成果を出すことが望ましいことです。しかし、それは容易なことではありません。まして、これまでとは異なる方法を取り入れようとするなら、校内だけでは非常に困難です。
 学校は実践の場でもありますが、同僚と共に働く職場でもあります。研究も重要な要素ではありますが、学校での教育活動のすべてではありません。研究のために必要な忌憚のない議論と、円滑な同僚との関係の両立は、容易ではありません。(もちろん不可能ではありません。この両立の上に、本当の強い同僚性が現れることも事実です。)
 その意味で、外部指導者は有効です。多くても年に数回ですので、時には厳しい苦言を呈することもできます。その学校の先生方、特に校長にとっては、力強い助っ人の役割を果たす場合は、少なくありません。

 最近は、私自身がその立場で学校に入ることもあります。その立場に立ってみると、見えて来ることがあります。それは、外部指導者はあくまでも学校に助力できる存在にすぎないということです。あくまでも、その学校の先生方が本気になり、子どもたちのため、自分たちのために努力することから始める以外に、学校を変えることはできないという、当たり前の事実です。
 外部指導者の力だと評価されている事例も、その学校の先生方の取り組みがあったからこそです。しかし、なかには学校経営の根幹をなす役割まで、外部指導者にゆだねているように思える学校があります。外部からの刺激は、もちろん大切ですが、学校は校長を中心としたチームワークがなければ、何も変わりません。特に、これまでと異なる考えの実践をしようとする場合には、校長が強いリーダーシップで外部指導者を活用するくらいの姿勢が必要です。
 言うまでもないことですが、学校での強いリーダーシップとは、権力的なものを指すものではありません。そんなもので学校が動くとは、とても考えられません。内部でまず説得して、その気にさせる。そのための手立ての一つとして、外部指導者があるのです。よそから、何か目新しい方法を導入しようくらいの気持ちで外部指導者を入れても、効果は期待できません。

 以前には、研究指定校にでもなったときに行われていた外部指導者の活用が、多くの学校で一般的なものとなって来ました。目覚ましい成果をあげている学校も、少なくありません。だからこそ、せっかくの指導者をどう選び、どう活用するかに、学校の主体性が問われるのです。

(2010年7月5日)

副島 孝

●副島 孝
(そえじま・たかし)

1969年から教員生活をスタート。小学校教諭11年、中学校教諭(社会科)10年、小牧市教育委員会指導主事、小学校の教頭校長や愛知県教育委員会勤務を経て、小牧市教育委員会の教育長を2001年から2009年まで8年9か月務めた。小牧市教育委員会のホ−ムページで「教育委員だより」、郷土文芸誌「駒来」に「乱読日録」を連載するなど、原稿に追われる毎日であった。2009年4月からは名古屋大学教育学部大学院で、教育方法学を学んでいる。授業実践と研究の両方の楽しさ厳しさを知る立場から、学校の現職教育などに貢献したいと考えている。