愛される学校づくり研究会

黙さず語らん

★このコラムは、「小牧市教育委員だより」での副島孝先生(前小牧市教育長)の発信を楽しみにしておられた皆さんからの要望で実現しました。「これまでのように学校教育や現場への思いを語り続けてください」という願いをこめて「黙さず語らん」というタイトルにしました。

【 第61回 】おにぎりに芯があったことから

学会に参加することが時折あります。学会は、基本的には他の人の研究発表を聞く場ではなく、発表する人が集まる場だと言えるようです(もちろん学会により違いはあるでしょうが)。だから発表者よりも、そのセッションの参加者の方が少ないなどということも起こりえます。新潟市で開催された日本協同教育学会でも、そういう事態が起こりました。

『協同の学びをつくる』(幸いなことに、発売後1か月で増刷となりました)を書いた研究仲間で、ラウンドテーブル(報告をもとに参加者同士が討論しながら理解を深めるセッション)のことです。学会初日の最初で、しかも急に会場が変更になるなどのせいもあったのでしょう。提案者が8人という人数だったこともあります。大喜利形式(笑点でお馴染みの司会が「協同の学びを始めようとするときに大切なことは?」などのお題を出し、良い答えなら座布団[の形に作った旗]をもらう形)で行うという、楽しくて中身の濃いものでしたが、少し残念な結果となりました。

しかし、我々はドキドキしながら楽しみましたし、セッションの参加者にも好評でした。「動画をネットで見られるようにしたら」とか「もう1回どこかでやりたいね」などと話し合ったほどです。でも今回の本題はそこではありません。新潟駅前で夕食の時に食べたおにぎりに少し芯があったのです。そこから、私ともう一人の社会科教員経験者の間で交わされた会話とその後の展開です。

ふと、「稲作が入ってきたころは、どういう状態の米を食べていたんだろう」「どういう料理法をしていたんだろう」という疑問が出てきたのです。古代史の学習では、石器づくりや土器づくりやコメ作りなどはよく行われていました。しかし、当時コメをどんな方法で料理して食べていたのかを追究した実践を、私自身は聞いたことがありません。

自分自身も含めて、どうしてこんな重要なことを問わないでいたのかに疑問が湧いたのです。イネが移入された際に、「こんなに美味しいものがあったのか」とか「これで飢える心配がなくなった」と古代人は感じた、というようなことを書いた子ども向けの本はありました。「収穫までの期間が長い」とか「(日本列島でも)栽培可能か」などの初期の抵抗なども指摘されていました。しかし、実際にはどのような状態で食べていたのか、それは現在我々が食べているご飯とはどう違っていたのかを明らかにした研究は知りませんでした(私だけでなく、その著名な社会科教員経験者も同様でした)。

話しているうちに、レヴィ=ストロースの料理の三角形(1.「生のもの」 2.「火にかけたもの」 3.「腐ったもの(発酵したもの)」、あるいは 1.「焼いたもの」 2.「燻製」 3.「煮たもの」や、土器の発達と料理法などの話題も出ました。「そういえば、リゾットやパエリアには芯があるなあ」「はじめからジャポニカ種だったのか」「芯があっても気にしなかったのかも」など話は盛り上がりました。しかし、何一つこの問題が解決したわけではありません。たとえば、授業にかけるとするなら、まだまだ問題にならない段階です。

学会が終わり帰宅してから、調べてみました。私が社会科の授業をしていた頃に比べれば、実にありがたい時代です。アウトラインはネットで調べられます。今のご飯の形以外に、お粥、強飯(おこわ)、ちまき、餅などの料理法があることを再確認しました。芯をつくらないためには「蒸らし」が必要なことも。

いちばん参考になったのは、ある陶芸家が地道な実験を繰り返していたこと(「甕型煮沸器の調理器具としての性能試験に関する実験報告−弥生人は米をどう調理して食べていたのか?−」)です。確かに土器の発達と米食とは密接な関係があるはずです。甑(こしき)という形態は炊飯を考えると納得できます。そのサイトの結論は、「米を煮て食べていたという説は、考古学者からの説で、調理学や文献史学の方面では蒸して食べていたと考えているようです。私のささやかな実験の結果では、どちらでもなく(どちらでもあるとも言えますが)、煮た(茹でた)後に蒸して食べていたという事になります」というものです。

イネ(米)には語り尽くせない歴史と現在があります。新嘗祭を始めとして米にまつわる習俗は、現在に引き継がれています。イネの品種に関しても、DNA鑑定でかなり明らかになっているようです。関税率(本当は率ではなく、kg当たりだそうですが)が800%近い状態は、通常の農産物なら考えられません。それだけ、特別な存在であるのです。夕食のおにぎりの芯から自分自身のこれまでの授業への反省まで、考えさせられる新潟行きでした。

(2012年10月1日)

副島 孝

●副島 孝
(そえじま・たかし)

1969年から教員生活をスタート。小学校教諭11年、中学校教諭(社会科)10年、小牧市教育委員会指導主事、小学校の教頭校長や愛知県教育委員会勤務を経て、小牧市教育委員会の教育長を2001年から2009年まで8年9か月務めた。小牧市教育委員会のホ−ムページで「教育委員だより」、郷土文芸誌「駒来」に「乱読日録」を連載するなど、原稿に追われる毎日であった。2009年4月から2年間、名古屋大学教育学部大学院で、教育方法学を学んだ。授業実践と研究の両方の楽しさ厳しさを知る立場から、現在は愛知文教大学教授を務めるかたわら、小中高等学校での現職教育の支援をしている。