愛される学校づくり研究会

黙さず語らん

★このコラムは、「小牧市教育委員だより」での副島孝先生(前小牧市教育長)の発信を楽しみにしておられた皆さんからの要望で実現しました。「これまでのように学校教育や現場への思いを語り続けてください」という願いをこめて「黙さず語らん」というタイトルにしました。

【 第31回 】高等学校の授業研究に参加する

学び合いをやってきた中学校の卒業生が高等学校に進学すると、授業中黙って話を聞けないとか、私語が多いとか注意されることが多くて、子どもたちが戸惑うという話を聞いたことがあります。また、中高連絡会などの折に高校の授業を見た中学校の先生が、生徒が理解している様子がなくても先生の解説が続くばかりで、「ここはグループだろう」と思わず言いそうになったと語る話を直接聞いたこともあります。

先日、念願の高等学校の授業研究に参加することができました。何とか高等学校でも学び合いを軸にした授業研究を中学校と協力しながらできないか、と考えてきた身からすれば、心躍る経験でした。この学校(滋賀県立草津高等学校)は、1年余の試行期間を経て学びの共同体をめざした学校ぐるみの授業研究に取り組んでいる学校です。これまでの研究物を見せていただくと、学びの共同体の基本は知っている(体得しているという段階ではないようですが)ことがわかります。

グループやコの字などを取り入れているクラスも多いように感じました。では、グループで学びが起こっているか、コの字での聴き合い話し合いが行われているかといえば、そうでもありません。やっぱり(生徒の多くが理解しようがしまいが)先生の説明で締めたいという雰囲気が漂っています。

高等学校になると、必然的に学習内容が難しくなり、理解できないままになる生徒が多くなります。それを生徒のせいにしておけば悩むことはありませんが、そんな先生は多くはないでしょう。高等学校だからこそ、何とか生徒たちにこの教科(内容)の魅力を味わってほしいと思うものです。全員の学びをめざす「学び合い」は、その意味では当然検討する必要のある方法です。

高等学校での実践を考える際に、大学と中学校での実践を参考にしてみることは、現実的な方法でしょう。まずは、大学を検討してみましょう。今や大学でも一方的な講義は少数派で、何とか学生たちを巻き込もうとする授業が取り組まれています。学生にとって本当に力のつくのは講義ではなくてゼミだというのは、以前から大学でも常識でした。

ただ、大学には授業研究という習慣はありません。ですから、多くは個人的な取り組みです。だからこそ、あの先生の授業(大学では講義や演習という呼び方しかないようですが、中身を表しているわけでもないようです)は面白いが、この先生の授業はつまらない、という状況が普通です。その上に、その先生の学問上の業績なども影響するので、(つまらない講義だけれども、興味深そうに参加する学生がいるなど)話は複雑になります。

さて、中学校との比較はどうでしょうか。ここでも、授業研究を当然のように行なってきている学校と形だけで実質的には各先生任せの学校とがあり、どちらと比べるかによって結論は大きく変わります。前者と比較し学べば、参考となるものは枚挙に暇がないはずです。後者と比べれば、「教科ごとに教えるんだからまぁこんなものか」と捉えることも可能です。その上で、この授業について来られないレベルの生徒に問題の本質がある、と居直ることも可能かもしれません(それで、納得できればですが)。

私のおじゃました高等学校は、校長先生を始め高校でも、いや高校だからこそ、なんとか生徒に充実した学びを経験させたいと願っている学校です(ただ、思うだけでは実現しないことは、世の中の全てに共通します)。それだけでも、生徒にとっても、先生方にとっても、非常に有利な条件をもっている学校です(私の念頭には、生徒の学びにまるで関心のない学校の中で、個人で「学び合い」に取り組んでいる先生の姿があります)。

草津高校で、私が最も強調したことは、「効果の期待できる授業研究のサイクルを実践しましょう」ということです。つまり、授業を観る → 観た授業(の事実)について物語り合う → 得られた(と考えたことを)自分の授業で実践してみる → 授業を観る・・・というサイクルを学校の中に定着させましょう、ということです。

授業に対する教師の考え方(教師の授業観)は、(子どもの時を含めて)長年かけてつくり上げられます。本で読んだり、講演を聞いたりしたから変わるような性質のものではありません(本や講演に意味が無いと言っているのではなく、それだけでは自分の実践は変わらないということです)。形だけではない授業研究のサイクルを繰り返すことによって、徐々に変わるものなのです。そして、ふと気づくと、自分の授業に対する考え方が以前とは全く違ったものになっていることに驚くのです。

個人で実践に取り組んでいる人は、この授業研究のサイクルが身近にありません。だから、校外の研究会で学び合うしか方法がありません。学校ぐるみの研究がいかに有利かがわかります。しかし、この有利さを自覚していない先生や、お付き合い適度の参加の先生も、少なくないと想像しています。その証拠に、授業研究の習慣のない学校に異動した後でも実践を続けている先生は少数派です。しかし、その少数派の先生は筋金入りですから(外見的には全く別のタイプが多いのですが)、徐々に学校を創り変えていくのです。

授業で観た事実を「物語る」ことの重要性をもう少し説得的に語れないか、というのが今の私が自分自身に課している課題です。

(2011年7月4日)

副島 孝

●副島 孝
(そえじま・たかし)

1969年から教員生活をスタート。小学校教諭11年、中学校教諭(社会科)10年、小牧市教育委員会指導主事、小学校の教頭校長や愛知県教育委員会勤務を経て、小牧市教育委員会の教育長を2001年から2009年まで8年9か月務めた。小牧市教育委員会のホ−ムページで「教育委員だより」、郷土文芸誌「駒来」に「乱読日録」を連載するなど、原稿に追われる毎日であった。2009年4月から2年間、名古屋大学教育学部大学院で、教育方法学を学んだ。授業実践と研究の両方の楽しさ厳しさを知る立場から、現在は愛知文教大学客員教授を務めるかたわら、小中高等学校での現職教育の支援をしている。