愛される学校づくり研究会

黙さず語らん

★このコラムは、「小牧市教育委員だより」での副島孝先生(前小牧市教育長)の発信を楽しみにしておられた皆さんからの要望で実現しました。「これまでのように学校教育や現場への思いを語り続けてください」という願いをこめて「黙さず語らん」というタイトルにしました。

【 第29回 】いま上田薫を読む

上田薫(1920-)という教育学者をご存知でしょうか。私自身は講演を聞いたこともありますし、何冊かの著書を読んだことはありますが、正直なところ本気になって取り組んだことはありませんでした。私が教師になった1969年当時、すでに系統主義は当然のように思われていました。その状況のなかで、戦後の社会科発足時の立場を堅持し、その後の文部省の方針転換と「革新」的な立場からの経験主義教育への攻撃に対し、論戦を挑む上田の姿勢は印象的でした。
 私自身は当時のさまざまな社会科教育の主張に対し、しっくりこない感じを常に抱いており、上田の「社会科の初志を貫く会」の社会科にも関心は持っていました。彼の指導する学校を訪れたこともあるのですが、実際の授業を見ると彼の主張との間に違和感を感じたことも事実です。私は哲学的とも思えるその教育論に関心は持ちながらも敬遠し、より具体的な実践への志向から、いつの間にか斎藤喜博や板倉聖宣などに興味が移っていきました。

それが、今年度OB参加しているゼミで『上田薫の人間形成論』(大野僚、学術出版社)を取り上げられたことによって、少しずつ『上田薫著作集』(黎明書房)を読み進める結果になりました。今になって、本格的に彼の「動的相対主義」に取り組みだしたのです。読めば読むほど魅力的な理論です。彼は西田幾多郎の孫ということもあり、哲学的だと言われますが、実践にも独特の方法で積極的に関わった人であることもわかります。
 しかし、彼の理論も実践も、現実的には少数派であったことは事実です。初期社会科に関しても、大きな分類では共通した立場にあるコアカリキュラムを批判し、経験主義的な問題解決学習を徹底して堅持する論を張ります。その後いわゆる「這い回る経験主義」批判から、社会科でも系統主義が主流になります。この系統主義には、指導要領の改訂による文部省の立場と左翼的な「科学主義的」立場からのものがありました。そのどちらの系統主義にも、注入主義であるとして論戦を挑んだだけでなく、克服すべきものを人々(当然教師も含まれるはずです)の間にしみわたった素朴なる知識主義だとも指摘します。結果的には、少数派であることをあえて選んだとも言えます。
 論争では「動的相対主義」は強力です。しかし客観的に見れば、現場の教師たちの多くは次第に離れていったと言えるでしょう。もちろん、現在でも「初志の会」は、大きな勢力とは言えないでしょうが、熱心に活動しています。少数派になったから間違っていたなどとは思いませんが、現実的には学校現場への影響力を減じていったことは事実です。多くの敵を作っていく立場が、少数派になっていったのは仕方がないことかもしれません。しかし、現在学ぶ価値がないかといえば、決してそうは思いません。今だからこそ学ぶ意味があるし、価値があると考えます。

教育論としては確立されていったが、少数派になっていったことは、運動論としては敗北といえるでしょう。しかし、思想は運動論だけで評価されるべきものではないのです。今日読んでみても、同意できる指摘の多いことに驚きます。徹底的に子ども一人ひとりの立場に立って授業を考えるなど、現在授業論として当然視されている立場を戦後すぐの時期から明確に主張しているのです。
 「動的相対主義」の立場から、さまざまな論敵と論争しながら、その理論を確立すると同時に、学校現場での実践を指導も本格化します。カルテと座席表に代表される、一人ひとりの子どもの思考や学びを踏まえたうえでの問題解決学習です。その授業では、教師は2つの断念を要求されます。すなわち「子どもを自分の思う通りにしようとすること」と「与えるべきだとされていることを無条件に与えようとすること」です。つまり、教師中心の教師が教えたいことを教える授業が否定されるのです。

私自身は、この種の議論に興味は持ちながらも、「すべての法則には適用範囲がある」という仮説実験授業から学んだ考え方を現実には適用して、哲学的な議論には深入りしない姿勢で過ごしてきました。この教育論を多くの教師に要求することは、現実には困難が多いということを優先してきたのです。上田薫著作集を読んで感銘を受ける一方で、私は純粋な意味では研究者にはなりきれないなあと痛感しています。

(2011年6月6日)

副島 孝

●副島 孝
(そえじま・たかし)

1969年から教員生活をスタート。小学校教諭11年、中学校教諭(社会科)10年、小牧市教育委員会指導主事、小学校の教頭校長や愛知県教育委員会勤務を経て、小牧市教育委員会の教育長を2001年から2009年まで8年9か月務めた。小牧市教育委員会のホ−ムページで「教育委員だより」、郷土文芸誌「駒来」に「乱読日録」を連載するなど、原稿に追われる毎日であった。2009年4月から2年間、名古屋大学教育学部大学院で、教育方法学を学んだ。授業実践と研究の両方の楽しさ厳しさを知る立場から、現在は愛知文教大学客員教授を務めるかたわら、小中高等学校での現職教育の支援をしている。