愛される学校づくり研究会

『古い自分をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい自分を着ることができれば…。』

【第3回】不登校生徒のこころの変化を追う(3)

現代社会は、科学技術が進歩しているだけで、人間性は進歩していない。むしろ退化していると言われる。何の希望もない状況下で、生きる意味を失ったとき、大人であれ子供であれ苦しみは同じである。そんなとき、

  1. 自分の優れているところに気づく
  2. 自分の持っている未来を思う能力に気づく
  3. 自分の今の状況を意味のあるものだと思える
  4. 自分のできない、やれないことを受け入れる
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などのアドバイスを信頼できる誰かが与えてやることで、生きる意味を発見でき結果として訪れる幸せを手に入れることができるのではないだろうか。

 私たちの人生で、人間が必要とする三つのものに、(1)愛(2)赦し(3)生きる意味がある。

(1)愛 自分は愛される存在であり、愛されていると感じることができる。
(2)赦し 自分の中にある悔いや過ちは、赦されるものであると知ることができる。外側の自分と内側の自分との間にギャップがあり、自己嫌悪に陥ってしまう。そういう状態の時、罪の意識を感じる自分と和解することができる。
(3)生きる意味 生きる意味を、生きる目標を持つことができる。自分にはこういう生き方ができる、誰かのまねではなくて自分の人生を生きることができる。生きていることの喜びを感じることができる。

自分には自分にしかない良さがあり、自分の人生には祝福があり、生きる意味を日々感じながら生きていけるようになれば、これに勝るものはないと思う。

 かつてIBM社創設者 T.Jワトソン氏は、『成功は失敗の彼方にある』と言った。

「深い傷を負う原因は、間違いを認めず、行動を修正せず、そこから何かを学ぼうとしない時に、さらなる次元の間違いを起こす。・・・・この結果自己を欺き、正当化をくり返し、嘘を重ねることになる。この二番目の間違い(自己背信)が、自己自身に大きな傷を負わせるのである。」

つまりはこういうことである。自分を噛んだ毒蛇を追うことによって毒は全身を駆けめぐり、心臓に達する。噛まれたとき「反応すべき」ことは、毒を取り除くことなのである。 本当の傷は、他人の行動のせいでも、自分の間違いによるのでもない。それに「どのように対応するか」によって、傷を受けるのである。そのことに気づかないために、人はさらに大きな取り返しのつかないダメージを心に負ってしまうのである。
 さて、不登校に陥った生徒の中で、もっとも対応が難しいのが、すべてのことに自信を失ったと思いこんでしまった生徒ではないかと思う。自分の存在そのものが嫌になる。何にもする気になれない。睡眠のリズムも、食事のリズムも、生活のすべてのリズムがくずれてしまう。そして、日に日に生活の状況がすさんだものとなる。当然まわりの者がどんな慰めや励ましの言葉を言っても聴く耳を持たない。そんな状態になった生徒に対して、果たしてどんな支援ができるのだろうか。手をこまねいて腫れ物に触るかのように、おどおどしながらただ見守ることしかできないのだろうか。

 不登校に陥った直接と思われる原因や背景、家庭環境などは個々の事例ごとに異なる。それらの問題の解決にエネルギーを注ぐのはもちろんだが、心の中の原因の解決に目を向けることも平行して行う必要がある。その一歩として、この"心の揺らぎ"に理解を示すことが必要となる。
 「何でもできる自信に満ちたスーパーマンのような自分」と「何ひとつできないちっぽけな豆粒みたいな自分」という2人の自分の間を、時計の振り子のように行ったり来たりしているのである。そして何かをきっかけとして、その"揺らぎ"が「何ひとつできないちっぽけな豆粒みたいな自分」側で止まってしまうことがある。そのような場合、何をするにも否定的・悲観的になりやすい。そのような状態に対し、一体どんな風に関わればいいのか、関わる側としての我々もとまどってしまいやすい。その結果、当の本人と同じように我々関わり手も否定的・悲観的な感情に陥ってしまいやすくなる。そうなってしまうと、悲観的・否定的な本人と、悲観的・否定的な我々関わり手との間で、「できないスパイラル」という悪循環に陥ってしまうかもしれない。そのような状況に陥ってしまわないために、一体どうすればいいのだろうか。

 「できないスパイラル」から抜け出す一つの可能性として、「できない」ととらえるのではなく、「何ができているか」という、いわゆる"発想の転換"がポイントになるかもしれない。「できていない」と自分で分かり切っていることを、あらためて触れられるのは本人にとってはかなりつらく、耐えられないことであろう。しかし、本当に何もできていないのだろうか?本当に何もできていないとするならば、それこそ朝を迎えることすらできなくなっているだろう。しかしながら朝はちゃんとやってきて、日々生活は続いている。その時点で厳然たる事実として、すでにいくつか「できている」ことがあるのではないか。(何かを食べる・雑誌を読むなど、数えてみると結構できていることに気づく。)「できていること」はそれ自体すでに自分の意思表示である。自分の「したいこと」に気づかずに、すでにいくつか、ちゃんとやっているのである。「できていない」と悲観するのではなく「できていること」を根本的に再確認することで、また、止まってしまった状態から"揺らぎ"始めることができるのではないだろうか。

小さな豆粒もやがて芽を出し、ツルを伸ばし、たくましく成長し、花をつけ、実をつける。
 我々も、本人の「できていない」だけに目を向けるのではなく、「できていること」を見つけ、それを励まし、支えていくことができないだろうか。

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(2006年10月23日)

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●赤星 次夫
(あかほし・つぎお)

愛知県小牧市立光ヶ丘中学校教諭。保健体育科担当。保健指導主事。“詩人赤星” と言われるように、子どもたちに語りかける言葉からは美しい映像が浮かび、その言葉の持つ力に魅了される。またキリッとした口調は、子どもたちのからだにも心にも、心地よい緊張感を生み出す。いつも子どもの心に視点をおいた職員への呼びかけは、学校全体にピリッとした空気を作り出している。