愛される学校づくり研究会

【第4回】光村教科書 「光と風からもらった贈り物」(高橋世織著) 実践報告

今年度新しく採用された先生方約80名に授業を参観していただく機会を得た。その際に行った授業報告である。


(私と宮沢賢治)

この教材は、宮沢賢治の作品そのものを扱うものではない。「春と修羅」に納められている「高原」という詩をもとにして、言葉の豊かさを論じた文章だと考える。だが、この文章において私は「高原」という詩に出会い、強烈な魅力を感じた。わからない、本文を読んで一通りわかってもなおしっくりこない…。それならば、生徒と共に考えてしまおう、若い柔軟な考えを持った生徒ならばもっともっと豊かな発想を私に与えてくれるであろう、思いもつかなかった考えが聴かれ、発見を楽しめるのではないか…そんな安易な考えからこの授業は生まれた。だが、いざ取り組もうとすると段々と怖くなった。いくら生徒と共に考えるといってもあの奥深い賢治作品を何もない状態で扱ってよいのか、無責任な授業をやってよいのか、等々思い悩んだ。(この辺が若いときとは違うところだ。)
 この詩をまずは私なりに理解しようと試みた。指導書を読む。ネットで文献をあたる。詩の意味は一応理解できた。賢治がどこで何を見てこの詩を読んだのかも理論上はわかった。「種山が原」「鹿踊り」という断片的なものの理解もできた。でも、なにかしっくりこない。本当にそうなのだろうかという疑問がいくつも湧いてきた。頭の上での理解はできても、体にずっしりと来るものがないのである。それならば、「えい!」と思った私は、東北花巻へと足を向けた。賢治記念館で資料を見せてもらい、イーハトーブ館で文献を手に入れ、童話村で「風」の館に入った。その時、ほんの一瞬、風が「ホウ」と聞こえた。翌日、水沢に行き、レンタカーで種山が原にのぼった。残念ながら風はなかった。だが、高原に降り立ち、そこに展開された景色を目にしたとき、本当に何の潜在意識もなく私は、「ホウ」と口から発していた。言った自分に驚いたぐらいだ。やっとこの詩に近づけた気がした。そして、この詩を生徒と共に読む楽しさが増した。私の体感を押しつける気はない。むしろ体感した上で、生徒の自由な発想を楽しみたいという気持ちになっていた。


(生徒感)

今年度は1年生を担任している。1年生の授業は10年ぶりぐらいである。(ちなみに担任するのは20年ぶり。)よって、毎日毎日が手探り状態である。生徒は何ができるのだろう、どこまでわかるのだろう…暗中模索の日々を送っている。どっしりとした構え、確固たる自信がないだけに授業が不安定になってしまっていることを実感し、日々辛い思いが増す。生徒理解がそんな状態であるので、せめて教材解釈だけはしっかりしようと思い、毎週土日はほとんど教材研究に明け暮れているのが現状である。土日に次の週の授業の教材研究をして授業を組み立て、それを実践し、毎時間反省する…そんな繰り返しである。
 頭で考えたことを実践しても、なかなかうまくいかないことが多い。それでも、この生徒たちが一年経って三月を迎えたときにはこうなっていてほしいという理想像だけは失わずに日々、奮闘している。


(授業デザイン)

応時中学校では、月に二回研究授業をしているが、通常、密案や中間案を使用しない。レシピという非常に簡単な指導案もどきを使用している。近々それすらもなくし、「授業デザイン」だけを示して研究授業をしていこうという動きがある。(まだ、研究推進段階での動きであるが…。)授業をする以上、そこに何らかの授業者の思いが発生するはずである。「私はこの授業でこういうねらいを持ち、こんな手だてでやってみる。」とか「こんな生徒たち(あるいは個の生徒)がいてこうなってほしいからこうしてみる。」とか、もっといえば、「こんなことができたらなあ…。」とか、その授業に対する様々な思いを実現するために授業をデザインするのである。デザインの過程は教科によっても授業者によっても異なるであろうから、表される「授業デザイン」も図式化されていたり、構造化されていたり、様々自由な発想でよいと考えている。私の場合は、あくまでも国語科であり、やはり文章によってデザインを示すことになろう。それが一番自分の思いを自分で確認しやすいからである。従って今回、この授業を行うにあたって、密案のような形式をとりながらも自分の思いを出した「授業デザイン」を示してみた。実はつい最近まで私は授業に対してこう考えていた。
 「私の思いがいくら強くても学習するのは生徒である。従って、私の思いを生徒にわからせようとはしないし、価値観を押しつけることも絶対にしてはいけない。そんな気持ちすら心の中からとっぱらう。「わからせたい」「知らせたい」という、そう、まるで上から引っ張る指導は指導ではないと個人的には思っている。それぞれにすばらしい教材の持ち味を、生徒自身で感じ取れる場をいかにつくるか、それが「授業を組み立てる」ということだ。」
と…。今では、それすらも自分が引っ張っているのではないかと感じるようになった。「もっと生徒の読みに寄り添いたい」「生徒が前面に出てほしい」と願う。現状はまだまだだが、いつかそんな授業がしてみたいと思いながら、今回の授業をデザインした。

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第1学年1組 国語科授業デザイン

平成18年6月21日(水)第3時限
指導者  栗 木 智 美

1 本日授業をする単元と教材

豊かな言葉「光と風からもらった贈り物」(高橋世織)
 

2 単元構想(3時間完了)

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3 この授業への思い

(1)言葉の力を実感したい

私たちは、日々、「言葉」を使って生活している。いや、生きている。自己の思いの伝達や他者を受け止める手段としてはもちろんのこと、それら相互のやりとりによって、自分の中に新しい自分を見い出していく。人間は、言葉によって自分が思考し、自分を思考し、成長していくのではないだろうか。ところが、近年、こどもたちの言葉が衰退している。自分の思いを言葉にできない。他者の言葉に耳を傾けられない。刃のような言葉を平気で他者にむける。そして傷つけ合う。言葉をもっと大切にしてほしい、言葉の力を感じてほしい・・そんな思いが高まり、「言葉にこだわる」授業を展開させるようになった。言葉を意味深く見つめ、確かな言葉を探求し、時には言葉の厳しさに気付きながら、こどもたちとともに言葉の力を実感していきたい。

(2)賢治に学ぶ

宮沢賢治は並はずれた感性を持った人だと思う。彼の文学に表れている「言葉」は、独特である。だが、独特だと感じるのは、私たちが、言葉にある固定観念を持ってしまっているからであり、宮沢賢治にしてみれば、そういった観念にとらわれず、心のままを表出したに過ぎないのであろう。意識して言葉を創るのではなく、見たまま、感じたままを言葉にしたらそこに彼独自の世界ができあがっていたとでもいうべきか。とにかく、彼の用いている言葉からは様々な世界がイメージできて楽しい。本文中に取り上げられている「高原」という詩も、一言一言に豊かな世界が込められている。最初に詩を読んだとき、私には全く何のことだか理解できなかった。東北の方言が使われていることは理解できたが、それを標準語に直して考えてもなおわからないことばかりであった。本文の解説を読んで初めてどんな情景を詠んだ詩なのかがわかった。しかし、なお疑問は残る。例えば、「ホウ」とは何か。本文中には「驚き、感動、一瞬の思い」とか「詩歌の始まり」と述べられている。情景に感動して発した詠嘆の言葉というのだが、果たしてそれだけなのだろうか。それならばなぜカタカナなのだろうか。読めば読むほど作品のなぞに引きつけられ、よし、これを生徒と共に読んでみたい、考えてみたいと思った。本文を読む前に詩をぶつける。生徒は、言葉から感じられる情景や作者の想いを自由に発想して豊かなイメージを創造する。そうすることで、言葉ひとつひとつにこだわった賢治の思いをくみ取り、言葉の重みを感じることができるだろうと考えた。

(3)これまでの授業と生徒

四月、入学したての生徒が初めて向き合った作品は、「のはらうた」という詩であった。その時は朗読を中心としたため、言葉の解釈は一切加えていない。しかし、気になった言葉を見つけ、その言葉にどんな魅力を感じてどう表現したいかを各自で決めて朗読した。漠然とイメージをとらえるのではなく、用いられている言葉に着目するという授業の始まりであった。以後、物語文でも説明文でも「どの言葉からそう考えるか」を繰り返し追究している。小学校での経験から、わずかな言葉の違いに気付いてなぜ?という疑問を持ったり、この言葉があるからこうだよと説明できたりする生徒も何人かはいる。そういう生徒の「気付き」を取り上げて授業を展開することで、言葉にこだわるとはどういうことであるかを少しずつ体感している段階である。

(4)話し合いに挑戦

授業ではグループでの話し合い・関わり合いを繰り返し取り入れている。入学当初から男女の枠を取り払う術を講じてきたせいか、授業中は互いに遠慮し合ったりいがみ合ったりする状況がほとんど見られない。特に本学級の生徒は、「一つの課題を友達の力を借りながら自分たちで解決する授業」の大切さを徐々に感じ始めている。だが、根拠を持って価値判断しながら課題を解決していく力はまだ備わっていない。話し合いというよりは伝えあいの域を脱していないのが現状である。さて、いつまでも「伝えあい」だけではつまらない。少し無謀かもしれないが、「話し合い」に近いものが成立するような授業を考えてみた。特に今回の授業では、皆が全くわからない状況から始まる。その中から、少しでもわかるところを出し合い、徐々に解決に近づけていく経験をしてほしいと願っている。多分すんなりとはいかないだろうなと思いつつも、難しくてわからなくても、逃げないで何とか向かっていく姿勢がわずかでも芽生えてくれたらとあえて挑戦してみる。

(5)指導の力点(手だてと願い)

まずは本文を読まずに、詩「高原」をぶつける。しかも、いきなり高い課題である「ホウとは何か」を考えようと提示する。生徒たちは「ホウ」だけに着目するだろう。しかし、それだけではわかるはずがなく、どんな情景をどう詠んだ詩なのかがわからないと気付くだろう。そこで、今度は詩の理解につながるヒントだけを提示し、グループの力を借りて詩の意味を考えるのである。詩のイメージが様々出たところで、もう一度「ホウ」に着目して、これは何かを考える。詠嘆の言葉と気付く生徒、あるいは他の言葉ととらえる生徒、柔軟な発想でとらえてほしい場面である。一つの言葉からたくさんのイメージをもつ楽しさ、それができる言葉の力に気付く一歩となってほしい。いや、なるであろうと大きな期待を抱いてやってみる。次時からは本文を読んで、「森羅万象、人間は生かされている」という賢治の考えに触れ、さらには、この詩が原型となって書かれた「鹿踊りのはじまり」という童話を読む。豊かな言葉を用いた賢治作品への誘いへとつなげ、生徒自らが言葉にこだわって文学作品を読むという姿勢を養いたい。
 

4 目 標

  • 詩の言葉の豊かさにふれ、言葉への関心をもとうとする。
  • 宮沢賢治の詩「高原」の中の言葉一つ一つに注目して、そこに込められた作者の想いを各自で思い描くことができる。
  • 他の考えを自分の考えと比べながら聴き、言葉からイメージをふくらませることができる。

 

5 指導過程

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6 授業を終えて

≪仲間との関わりについて≫

(1)班活動について

この授業の前に2時間、文法の学習を行った。文節や単語についての問題を班員と協力しながら解かせた。答えを追究するだけではなく、なぜそうなるかという説明の部分を4人で考えさせた。その折りに、自分だけ違う答えや説明であっても、もしかしたらそれが合っているかもしれないのだから、きちんと伝えるように指導した。それによって、「でもさー、こうも考えられるよ。」「そっかー。それもそうだね。」という声がちらほらと聞こえるようになった。さらには、細かな手順を示さずとも、自分たちで工夫して話し合いを進められるようになった。それを受けてのこの授業、わからないことが多いため、皆、顔をつきあわせて一斉に話し始めた。80名もの人に囲まれて堅くなっていた生徒たちの顔が緩み始める。わかったことから様々に伝え、「ここはこういうことだよね。」「これはどう?」と話している。予定時間が過ぎたが、まだ話し合いの続いている班もあったため、生徒に問いかけた。「まだ、時間いる?」いくつかの班が時間を要求する。2分延長した。生徒たちの顔にすっきり感が漂う。ここで私は、一斉隊形(コの字)に戻した。
 「わかったことから聞かせてください。」の声に数名が挙手をする。何人かの発言が続く。それぞれが考えを述べていく。だが、ここで心配されたことが起こっていた。発言が、「個の考え」ではなく、「班で考えたこと」になってしまっていたのである。文法のように答えが一つに絞られる学習を経験したあとだったためか、4人が4人とも同じ考えになってしまっていた。私の考える班活動(グループ学習)は、グループの力を借りて個の考えをより鮮明に確立させたり、あるいはグループという小さい集団の中で個の意見を聞き合わせるというものであり、班で答えを一つに絞らせるものではない。表面的には活発に行われていたかに見えた班活動だが、本来の目的とは少し違ったものになってしまっていた。しかし、これも「皆で考え合う楽しさ」を体感させる一過程としては、必要なものであったであろう。少なくとも、生徒による班活動が、「伝え合い」から「教え合い」さらには「簡単な話し合い」へと移行できつつあることは確かであると確認された。

(2)関わり高め合う場面について

上記のように班で話し合ったあと、数名が考えを述べ合った。ここで、私は簡単な「つなぎ」を試みた。一人が発言する。それについてどう思うかを次の生徒に問いかけ、前の人の考えへの感想を述べてから、自分の考えを述べるよう促した。それを3名ほど繰り返すのである。それだけでも、単なる「発表会」ではなくなるし、何よりも生徒が他の発言を聞こうとするようになる。この授業でもそうであった。聞いて比べて考えたことを述べ、さらにそれに自分の考えを乗せて話すのである。当然のことながら発言は、訥々としたものになる。だが、それがいい。用意されたきれいな言葉を言うのではなく、一言一言かみしめながら発せられる言葉が、何とも重みを醸し出す。班活動で「班の考え」になってしまっていても、一斉発言が軽くならずにすんだのは、幸いであった。


≪対象との関わりについて≫

(1)N君

提示された詩を興味深げに読んでいたN君。しばらく考えて最初の発問である「ホウとはどんな言葉か。」をすぐに書いた。どうも、彼の中では簡単に「わかった」と感じたらしい。その後の班の話し合いでも、ぼそぼそっと自分の考えを伝えたものの、いつものようなつっこみは見られなかった。(N君は普段、皆と違った視点で物事を捉えて他の考えに異論を唱えることがある。だが、元来のんびりした物言いをするために、その異論が心地よく受け入れられて班活動が活発になることが多い。)班の中でどのような発言があったのかは具体的にはわからない。4人が4人とも同じ考えになってしまっていてつまらなかったのか、あるいは誰か一人が突拍子もない発言をしていてそれを受け入れられなかったのか・・。彼の性格からしたら後者はあまり考えにくい。もしかしたら、自分の考えが一番いいと思ってしまったのかもしれない。とにかく、自分の中で一度考えが出てからは、つまらなそうにしていた。クラス全体で様々意見が出てきたときも、あまり耳を貸していない様子であった。今までにも彼は時々そうなることがあった。常にではないのだが、気が乗らないときはとことん乗らず、自分の世界に入っていく。この日も、80名に囲まれながら段々と「落ちて」いっていた。N君は、本を読むのは好きである。だが、それは生物に関するジャンルがほとんどであるように思われる。科学的な思考力を持った生徒に、賢治の自然観を感じさせてあげられなかったことに後悔を感じる。が、ここでの目標は「言葉」を感じることである。一度出した自分の考えを、他の考えとすりあわせてさらに高めていく楽しさを、もっともっと体感させること。それが、興味の持てない対象から逃げ腰の生徒を救うことにつながると考える。

(2)T君

授業後、回収したワークシートが一枚足りない。おかしい。この日は全員出席のはずである。誰のがないかを調べたら、T君のものがなかった。T君は、いつも自分の思いを素直に語れる生徒である。素朴な疑問やつぶやきを口にしてくれる。だが、そういえばこの日は発言がなかった。授業の最後の方に目が潤んでいたことを思い出した。どうしたのだろう、気になり、電話をしてみた。

私: 「今日の国語のワークシートが出ていないのだけどどうした?」
T君: 「あーーー、わすれちゃったー。」

声が明るいので少しほっとする。

T君: 「あのー、班で話したときは自分の考えが浮かんだんだけど、みんなのいろいろな意見を聴いていたら、段々とわからなくなって来ちゃって・・。あっそうか、そうとも言える、こうも考えられるって色々出てきて、イメージがふくらみ過ぎちゃってどれが自分の一番言いたいことかわからなくなっちゃった。最後にまとめようと思ったんだけど、頭の中がごちゃごちゃになって・・。みんなの書いている鉛筆の音が怖くなって耳をふさいでいたら授業が終わっちゃった。あとで書いて出そうと思ってたら忘れちゃった。ごめんなさい。」

T君の困惑ぶりが目に浮かぶようであった。もともと、書くのに時間のかかる生徒である。伝えたいことがすぐには文字にならない。それだけに、言葉一つ一つを選んで書く。だからこそ、皆のようにペンを走らせることができずにいたのだろう。私が見つけた目の潤みはこの時のものだったのだ。私は電話口で素直に喜びを伝えた。

私: 「そっかー、そんなにも考えてくれたんだ。考えて考えたらわからなくなっちゃったんだね。うれしいなー。みんなの意見を大切にしてくれたからこそそうなったのだし、何よりもT君がこの詩の言葉を一生懸命考えて、自分の言葉も一生懸命考えてくれたんだね。ありがとう、うれしいよ。」

翌日、T君はたどたどしい言葉で書いたワークシートを提出してくれた。裏にまでも書かれていた。彼は、「鹿踊りの始まり」も読んだことがあるそうだ。それだけにそのことも頭をよぎって混乱したと言った。彼はまさに「対象」と一生懸命向き合ったのである。私の授業に、というよりは、この詩にここまで思いを巡らせてくれた生徒がいて本当に幸せだと感じた。

授業記録は、次回に報告します。

1,班活動の様子

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2,たくさんの方に見ていただいても普段通りの表情

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3,A君のワークシート

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(2006年7月3日)

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●栗木 智美
(くりき・ともみ)

愛知県小牧市立応時中学校教諭。国語科担当。「授業は真剣勝負」をモットーに、グループ活動のある学び、仲間との協同的な学びの授業を追究中。すべての生徒の表情が輝き、集中して学び合うエネルギッシュな授業づくりには定評がある。その授業力は岳陽中の前校長佐藤雅彰氏や「東海国語教育を学ぶ会」の石井順治氏も絶讃している国語教師である。